パナマでどうしても体験しておきたいことがもう一つあった。それはパナマ地峡を南北方向に縦断してカリブ海の海辺に立つ
ことであった。1513年にヨーロッパ人として歴史上初めてパナマ地峡の亜熱帯ジャングルをかき分けて縦断し、「南の海」、即ち現在の
太平洋を初めて視認したといわれる人物こそ、スペイン人バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアであった。
現代ではロバならぬ自動車にてわずか数時間掛ければ、両大洋間を陸路で容易にまたぐことができる。だが、当時に遭っては生命を賭して
の縦断であった。
[注]中米パナマに限ってみれば、その地峡は地理的にみて東西方向に伸びている。従って、陸路にあっては、おおよそ南北方向に
地峡を縦断することになる。
当初は、パナマ運河の大西洋(カリブ海)側の入り口に位置する港湾都市コロンを散策し、そこで4連続式の閘室を擁する「ガトゥン閘門」
を散策し、大型船舶が、大洋の海水面との標高差26メートルほどを3段式の「水の階段(あるいはエレベーター)」を経て昇降する
ところを見学したかった。
だが、コロンの治安はすこぶる悪いということもあって、事件などに巻き込まれないようリスク管理に努める必要があった。
事前に交渉してレンタカーのドライバーをガイド役兼ボディーガード的な仕事も請け負ってもらうことを考えた。安全地区だけを
選って二人で歩けば恐らく強盗・窃盗事件などに巻き込まれることはまずないであろうが、
万が一トラブルに巻き込まれ警察沙汰にでもなると、ニカラグアだけでなくパナマのJICA事務所関係者などに申し開きできない。そもそもコロンは治安上の理由でJICA関係者は業務以外の目的では立ち入り禁止のはずであった。
「ガトゥン閘門」をたむろしてJICAの内規に触れるのは立場上まずいことであり、技術協力に勤しむ大勢の関係者に
言い訳が立たない。また、内規の掟破りの結果、JICAの安全管理
規則が強化され、所員・専門家・JOCV協力隊員らの私的旅行制度に追加の制限が被せられるなどの、不本意な負の影響が出てしまうこと
を懸念した。そこで、地峡縦断の目的地を少し東方にずらして、コロンではなくポルトベロへと変更した。ポルトベロにはスペイン植民地時代
の歴史的な要塞史跡なども遺されているという。
ドライバー付きレンタカーの手配を投宿したホテルのフロントに依頼した。ドライバーには道案内と共にいわばボディガード的な役割をも
期待して、可能な限り身の安全を確保するつもりであった。翌日、亜熱帯樹林の生い茂る山あいを貫く南北縦貫幹線道路を快走し、カリブ海沿岸の
港町ポルトベロを目指した。
さて、翌日パナマ・シティとコロンを結ぶ幹線道路を走行したが、その道路が歴史上よく取沙汰される「カミーノ・レアル(Camino Real/
「王の道」、あるいは「スペイン王へ通じる道」の意味であろう)と交差しているという。そして、当該交差地点から
石畳の道が現在でも部分的にせよ遺されていると記憶する。そのことが頭の片隅にあった。
だがしかし、結局道中一度も立ち止まらず通過してしまった。「王の道」を短時間でも探索することを全く思い出すことなく、
ストレートにドライブを続けてしまったことを後で悔やんだ。ドライバーに事前に散策希望を申し出ていたとすれば、石畳の跡など
の何かが僅かでも遺された「王の道」を案内してくれたかもしれない。何と復路においてもすっかりそのことを忘れて、再び素通り
してしまった。
コロン市街地にまもなく入るという頃に幹線道路から大きく右折した。そして、カリブ海沿いにポルトベロへと通じる支線道路へと分け入り、
その後はずっと道なりにドライブした。海岸に沿って椰子の樹木が生い茂り、カリブ海地方の気候風土にマッチした一般民家や洒落た別荘風
ハウスが断続的に続いていた。
海岸の遥か遠くには、入道雲が空高く湧き立つブルースカイと穏やかなブルーオーシャンが広がっていた。海からの蒸発のために、空と
海の境界線がはっきりしなかった。とは言え、私的には、トロピカルな憧れのカリビアン・ビューが広がっていた。椰子の樹間から垣間
見えるそんなカリブ海風景に見惚れつつ爽快なドライブを続けた。急ぐ旅でもないので、途中シーサイド・レストランの眺めのよい二階
テラスで、海の香りに身を包み潮騒を聴きながらランチを楽しむことにした。
食後はレストランの敷地から紺碧の海へ長く突き出た板張りの桟橋上に設営された、風通し抜群のアバラ小屋で食後の一休みをすることにした。
純白のハンモックに深々と身体を横たえて暫しまどろんだ。降り注ぐ陽光でキラキラと輝くカリブの海に時々目をやりながら、
最高に贅沢なひと時を過ごした。カリブ海のオーシャンフロントで心穏やかに佇むことで旅の醍醐味を感得できたことに感謝であった。
さて、ポルトベロという港町は、ヨーロッパ人たちの「地理上の発見の時代(大航海時代)」において、どんな出来事を紡いできた
のか、あるいはどんな大きな歴史と関わってきたのか、殆ど知らなかった。コロンの町よりもポルトベロの方が圧倒的に治安が
良好であり、スペイン統治時代の古い要塞跡などを散策できるという、また、世界でも珍しい黒人の聖母マリア像あるいはイエス・キリスト像を
祀る古い教会を訪ね一見する価値があるとか仄聞していた。
海洋辞典の「一枚の特選フォト」コーナー向けに切り撮りたい被写体を探すには絶好の地であろうと期待した。また、感動の自然風景にも
出会えるだろうと楽しみであった。16~17世紀頃には金銀財宝が「カミーノ・レアル」を通ってポルトベロへ、さらに本国スペインまで運ばれたというが、そんな積出しの歴史をもつ港町で遥か昔の残影の欠片でも見い出したいという思いがあった。
もっとも、金銀財宝の陸上輸送ルートの「カミーノ・レアル」について、あるいはヘンリー・モーガンという有名なイギリス人海賊
による「カミーノ・レアル」を舞台にしての財宝輸送キャラバン隊への襲撃、さらにパナマ・シティやポルトベロ
市街地でのモーガンによる徹底した略奪や破壊行為について俄然興味を抱き始め、カリブの海賊の歴史に前のめりになったのは、
パナマの旅からニカラグアへ戻ってからのことであった。
帰国後になるが、ニカラグアの「エル・カスティージョ」というスペイン植民地時代に築かれた要塞を探訪したことがあった。その折のこと、
訪れた同要塞内の展示室の説明パネルを通じて、歴史上名を轟かせた海賊(特にヘンリー・モーガン)が、パナマやニカラグアなどを
はじめカリブ海域で凄まじい海賊行為を繰り返し大きな足跡を遺して行ったことを学んだ。そのことが直接の大きなきっかけとなり海賊のことにのめり込んだ。
さて、ポルトベロにヨーロッパ人として最初に現われた人物はコロンブスであったという。コロンブスは1492年の第一回航海で、
ヨーロッパから大洋を西回りで、当時地理的状況がはっきりしていなかった、インドより東方域(当時「インディアス」と呼ばれていた)
を目指し船出した。とりわけカタイ (中国)や黄金の国ジパング (日本)のアジア東方の未知の地を目指した。
スペインのグラナダ県にある町サンタ・フェで、1492年4月17日にカトリック両王との間で、「航海に関する協約」を取り交わした
コロンブスは、同年に「新大陸」(カリブ海の島々)に辿り着いた。そして、「エスパニョーラ島」を最初の拠点にして、スペイン人征服者
(コンキスタドーレス)たちは、新大陸の金銀を貪欲に漁り、先住民を隷属的支配下に置きながら、さらなる征服と植民の拡大を続けた。
コロンブスは第4回航海の途上においてポルトベロの入り江で船団の帆を休めた。その時にポルトベロと命名したという。入り江
は奥深く、その周囲三方において小高い山々によって「コ」の字形に取り囲まれている。入り江を地形的に見れば、その湾奥に町や港
を築くにはすこぶる安全性に優れており、また湾内の深水にも問題は無かった。荒天時にあっては暴風から遮蔽され、船を安全に停泊
させることができるはずであった。そして、ポスト・コロンブスの時代になって、当該入り江最奥部の南側の海岸平野部にポルトベロの町が築かれた。
パナマにやってきた次のヨーロッパ人はスペイン人探検家・コンキスタドールのバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアであった。
彼はインディオから「南に海がある」と聞き及び、命がけでジャングルをかき分け南下した。そして、1513年についに海にたどり着いた。これこそが
「地理上の大発見の時代」における、コロンブスに次ぐ第二の歴史的な出来事であり発見であったと思料される。なお、彼は1517年に、
新天地パナマにおける彼の権勢を妬む政敵によって謀反の罪を被せられ、42歳の若さで処刑されこの世を去った。
パナマ地峡はほぼ東西に伸びる(南北方向ではない)。カリブ海はその北側にあり、バルボアが辿り着き視認した海は、カリブ海側から
すれば、その南方に存在した。そのことから、彼はそれを「南の海」と呼んだと言われる。マゼランが名付けた、現在にいう「太平洋」の
ことである。バルボアの「南の海」の視認は西暦1513年のことであった。ところで、後にポルトガル領となったブラジルを除き、
中南米大陸全域およびフィリピンを支配下に置いたスペインは、後にその「南の海」を「スペインの湖」とみなしたという。
さて、スペイン人コンキスタドーレスや入植者が続々とパナマにやってきて、パナマ地峡を縦断し、1519年には太平洋岸の地
に最初の入植地を築いた。それが現パナマ・シティの市街地中心部から東へ6㎞ほどの地に遺されている「パナマ・ビエッホ」 である(
スペイン語の「ビエッホ (viejo)」とは「古い」という意味である)。現在はほぼ廃墟しか遺されていない。
スペイン人が建設した最初のパナマでの入植地は放棄された。その放棄後、現パナマ・シティの西方に新たな町が再建された。
その町が現在「カスコ・ビエッホ」と呼ばれる地区である。そして、現在ではパナマ・シティの旧市街地として遺されている。
同地にはコロニアル様式の歴史的建物が遺され、スペイン植民地時代の面影・風情が色濃く残存している(同旧市街地は
ユネスコ世界遺産に登録される)。
太平洋岸の最初の町パナマ・ビエッホは、新大陸におけるスペイン人による征服・植民のための重要な
一大交易中継拠点となり繁栄を極めた。彼らは、南米大陸において手当たり次第にインカ帝国の先住民らから金銀財宝を奪い取り、
陸路あるいは海路で現在のコロンビアのカルタヘナからキューバのハバナへ、あるいはリマのカジャオ(またはカヤオ/現ペルーの
首都リマ近郊の外港)からパナマ・シティ経由にてハバナに集積させた。
特筆に値するのは、ペルーなどのインカ帝国域内の金銀財宝に加えて、1545年頃に現ボリビアのアンデス山中のポトシにおいて
銀山の開発が開始され、大量の銀が採掘されるようになった。ポトシ銀山のインゴットをはじめ、
現ペルーやボリビアを主領域とする「ペルー副王領」の金銀財宝は、カジャオに集積され、その後ガレオン船でパナマ・シティへと運ばれた。
新大陸で開発された金 (ゴールド)の産出量は意外と少なく、1500年代中頃には激減したという。だがしかし、ポトシでの銀採掘量は別格で大量
であったが、ポトシだけでなく、「ヌエバ・エスパーニャ副王領」(現メキシコを中核とする中米地域)のサカテカスなどでも
豊富な銀鉱山が発見され、1500年代後期以降大量の銀の採掘が行なわれた。例えば、1530年代からメキシコ・シティの南にあるタスコにて
銀山が開発された。また、メキシコ・シティの北東にあるグアチナンゴは1543年に創建され、さらに1552年にはメキシコ・シティの北
にあるパチュカ鉱山が発見された。
ところで、1545年に発見されたポトシ銀山では、「ミタ (強制労働制度)」という制度によって、インディオが過酷な使役にかり出され、銀が
大量かつ安価に生産された。その労働は余りにも過酷を極めたことから、100万人の先住民の命が奪われたと言われる。
「ミタ (mita) 」とは、スペイン統治下にあった「ペルー副王領」において先住民のインディオに課された強制的労役のことである。
ポトシ銀山での強制労役が中南米の歴史上特に際立っていた。
なお、ポトシ銀山では水車による鉱石の破砕技法の導入により、また1552年に
「水銀アマルガム法」による精錬技術の開発により、1500年代後半には 効率よく大量の銀が生産されるようになった。
ポトシ銀山はアンデス山中の標高4000メートルほどに所在するが、当時のパリと比肩するほどに、人口20万人の都市へと成長し、
1600年代になると西半球最大の都市に拡大したという。諸説あるが、1660年までに約15,000トンという桁違いの量の銀が、スペイン南西
の大都市セビーリャの「スペイン通商院」へと送り込まれたという。そのうちの約40%がスペイン王室の収入となり、残部はジェノバ
商人などの手によってヨーロッパ中に流通させられた。そしてまた、アジア(例えば新植民地のフィリピン)からの陶磁器、絹織物、
スパイスなどの輸入のための決済にも充てられたとされる。
16世紀以降のスペイン植民地時代、新大陸における金銀財宝はパナマ・シティからそのポルトベロまで、ジャングルの中を通る
「カミーノ・レアル」という細い道をロバなどの背に乗せて運ばれていたことは有名な史実である。
パナマ・シティからジャングルをかき分けて陸路を辿った後は、パナマ地峡の内陸部奥地を源流にしてカリブ海へと注ぎ出ている
チャグレス川の中流に取りつき、同河川を内陸水上輸送路として利用しながらカリブ海へと下った。次いで、沿岸海上路をもってポルトベロへ
と運ばれ、海岸沿いの倉庫に厳重に保管された。
ポルトベロはスペイン本国へ金銀財宝を海上輸送するうえでの大西洋側における一大
中継拠点となり、南米本土のカルタヘナ(現コロンビア)とともに、重要な交易中継港として発展した。
歴史をひも解けば、1500年代中期にはスペイン本国と新大陸を行き来するガレオン船の大きさは5~600トンへとますます
大型化した。なかには千トンクラスの大船も就航したという。そして、私掠免状をもつか否かを問わず、イギリス人らは金銀財宝の
強奪を繰り返えした。海賊行為から防御するための方策として、当時新大陸との交易を独占管理していた在セビーリャの「スペイン
通商院」は、1543年以降、年2回キューバのハバナから船団を組ませて大西洋横断の途に就かせることが多かった。
ここで改めて整理してみると、当時フィリピンを含む「新世界」とハバナ間における海上輸送には主に3つのルートがあった。
第一に、アジアからの富、例えば金銀財宝の他に陶磁器、絹織物、スパイスなどの産品を本国に輸送するために、先ずマニラから太平洋を
横断しアカプルコに至った。その後、陸路でベラクルスへと輸送した後、再び海路で集積地のハバナへ、そして船団を編成して本国スペイン
へ向かうという、いわば「海と陸との回廊」である。このルートは「ヌエバ・エスパーニャ副王領(中心都市はメキシコ・シティ)」独自の
財宝をベラクルスからキューバのハバナへ輸送した後の大西洋横断ルートと重なり合う。
第二に、南米大陸の新世界の富を輸送するために、リマ(カジャオ)から海路でパナマ・シティへ、さらに陸路「カミーノ・レアル」
を経て、チャグレス川を下り、その後カリブ海の沿岸海上ルートを辿りポルトベロへ。その後海路にて集積地のハバナへ、そして同じく船団をもってスペインへと向かうルートである(第一のルートの大西洋横断ルートと部分的に重なる)。
第三に、南米大陸の金銀財宝は、現コロンビアの港町カルタヘナにも集積されたので、海路でハバナへと運ばれた。当然のことながら、ポルトベロ~カルタヘナ~ハバナとの三角航路がつながっていた。そして、ハバナから同じく船団を組んで本国へ向かうというルートである。
ハバナに集積されたそれらの大量の金銀財宝や産品は、基本的にはスペイン本国によって年1回あるいは2回仕立てられたガレオン船団に
積み込まれ、メキシコ湾流と貿易風を利用して大西洋を海上輸送され、「スペイン通商院」のあるセビーリャへと運ばれた。既述の通り、当時
横行していた海賊、特にイギリス人などの私掠免状をもつ海賊らの襲撃に備えて、武装船団が組織され移送された。
1519年にスペイン人によって建設されたハバナは、かくして新大陸の征服や植民のためのゲートウェイとして、
また新大陸とスペイン間の一大交易中継基地として繁栄を謳歌した。
ポルトベロには、16世紀末には海賊の襲撃などから街や輸送船などを防護するため、第一に、その入り江の入り口や最奥部など
に幾つかの堅牢な要塞が築かれた。現在街中には2つの要塞跡が遺される。一つは入り江の入口近くにある「サンティアゴ要塞(Fuerte Santiago)」である。もう一つは、入り江の最奥部にある「サン・ヘロニモ要塞(Fuerte Jero'nimo)」である。
後者の「サン・ヘロニモ要塞」には、入り江に向かって睨みを効かせる大砲18門が今に遺されている(要塞はユネスコ
世界文化遺産である)。そして、要塞のすぐ近くの海岸沿いに「税関倉庫(Royal Customs House of Portbelo)」が
建てられている。倉庫は今では「税関博物館」となっているが、元々植民地時代には金銀財宝などを一時保管するための
堅牢な倉庫がそこに築造されていたという。
ポルトベロの歴史などについて殆ど予備知識をもたないまま、「サン・ヘロニモ要塞」を散策した後、その古い倉庫に何気なく立ち寄った。
一部が博物館となっていることを知ったからである。植民地時代に倉庫が果たした機能や海賊との関わりなどについて
パネル展示がなされていた。倉庫内の床部がほんの少し掘り起こされ、当時のオリジナルのレンガ製床部がガラス張りにて保存され一般公開されている。当時の倉庫の床部レンガは貴重な歴史の証しに違いない。
同博物館のある展示パネルを眺めた。口元にはカールした立派な口髭をはやした人物の小さな肖像画の複写物と解説記事のクリップ
が無造作に貼られていた。人物像はヘンリー・モーガンと言うイギリス人海賊であった。海賊のことを殆ど知らなかった私は、
モーガンがこんなこわもての顔をして、パナマ・ビエッホを襲撃し壊滅させたこと、またポルトベロを部下に襲撃させるなどして、
カリブ海域で随分派手に「活躍」したらしいことを断片的に知った。
因みに、1668年、ポルトベロの町はモーガンの配下にあるの海賊の襲撃を受け、15日間にわたる略奪行為によって
破壊し尽くされた。それは、モーガンの悪名をさらに高めるとともに、スペイン王室を驚愕させ憤慨させたという。
展示の解説記事などは文字が小さくて虫眼鏡が要るくらいであった。その記事を読むエネルギーも残っていなくて、
モーガンとポルトベロとの関わり合いを理解しないまま、取り敢えずはそれらの展示資料を一通り切り撮っておいた。そして、
ニカラグアへ戻った後に読んで学習してみようという程度の関心であった。
カリブ海における海賊史全般とモーガンの「活躍」の史実などをいろいろ学び始めたのは、ニカラグアへの
帰国後に「エル・カスティージョ要塞」(ニカラグア湖から唯一流出するサン・ファン川を60㎞ほど下った川沿いに築造されたスペイン植民地時代の要塞)を見学してからのことであった。スペインの対外文化協力の一環として当該要塞内の一角に設営された、
ニカラグアの歴史などを開設する展示室に立ち入り、海賊に関する史実を知った時からである。
因みに、モーガンが初めてスペイン植民地の町を襲撃・略奪し悪名を高めたのが、何と「ニカラグア湖」の最奥に存する港町
グラナダであったことをその展示室で知り、驚嘆したことをよく覚えている。グラナダは、ニカラグア赴任時に借り上げた住まいからわずか
小一時間の距離にあった。かくして、同要塞のパネル展示はスペイン植民地時代のニカラグアの歴史や海賊のことに前のめりする
きっかけをもたらしてくれた。なお、現在に続く「ニカラグア運河建設の夢」を知ったのも、同じ展示室のパネル展示においてであった。
パナマ運河とポルトベロを探訪する旅はわずか3泊4日の短いものであった。だが、青少年の時から思い描いていた
運河の通航はわずか半日であったにしろ体験することができたこと、後にカリブの海賊につき好奇心を高め学習するきっかけを
もたらしてくれたこと、さらに「ニカラグア運河」の建設に関する何百年にも渡るニカラグアの人々の夢を知り得たことなど、
私的な知的好奇心が大きく揺さぶられることになった。故にパナマへの旅の「成果」は思いのほか大きかった。
一言で表現するならば、パナマ運河の旅がもたらした満足度は100%以上であった。子供じみているかも
しれないが、半世紀近く心のポケットにしまい込んでいたパナマ運河通航への思いを成就できたことで最高の充実感と喜びを得ることができた。
ところで、ニカラグア赴任中におけるプライベートな国内の旅、それも一泊予定の旅に出掛けたのは、何と着任してから
1年ほど経た頃のことであった。その後2回目の旅(それもわずか二泊三日の得る・カスティージョへの旅)において、偶然にも、
ニカラグア国民にとって積年の夢であるニカラグア運河建設のことについて初めて知ることになった。それ以来、俄然とニカラグア
運河についての学習に前のめりになって行った。
赴任中、私的に関心を擁する青年海外協力隊員に声を掛けて運河候補ルート上にある幾つかの河川を踏査することもした。また、その体験談
などについて「ウェブ海洋辞典」で紹介したりもした。「運河の夢」の実現に日本政府やJICAが将来的に公的にどのような形で関わること
になるのか、興味は尽きることなくどんどん膨らませることになった。
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