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    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第3節 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する


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       第20章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る



  パナマでどうしても体験しておきたいことがもう一つあった。それはパナマ地峡を南北方向に横切ってカリブ海の海辺に立つ ことであった。1513年にヨーロッパ人として歴史上初めてパナマ地峡のジャングルをかき分けて横断し、「南の海」、即ち現在の 太平洋を初めて視認したといわれる人物こそが、スペイン人バルボアであった。 現代ではわずか数時間かければ、両大洋間を陸路で簡単に横断することができ、二大大洋の海辺に立つことができる。パナマ地峡は まさにその最適地である。
[注]パナマ地峡は主として東西方向に伸びているので、陸路にて南北方向に両洋岸間を縦断することができる。

  当初は、パナマ運河の大西洋(カリブ海)側の入り口に位置する港湾都市コロンを散策し、そこで4連続式閘室をもつ「ガトゥン閘門」 を探訪し、大型船舶が海水面との高度差26メートルほどの3段式「水の階段」を昇降するところを見学したかった。だが、コロン の治安はすこぶる悪いこともあって、事件に巻き込まれないようリスク回避する必要があった。恐らく実際には、事件に巻き込まれる ことはほとんどないであろうが、万が一巻き込まれ警察沙汰にでもなると、ニカラグア事務所関係者などに申し開きできない。 そもそもコロンは治安上の理由でJICA関係者は業務以外では立ち入り禁止のはずであった。「ガトゥン閘門」をたむろしてJICAの内規に触れること になるのは立場上まずいことであり、技術協力に勤しむ関係者に示しがつかないことになる。また、掟破りの結果、JICAの安全管理 規則が強化され、所員・専門家・JOCV協力隊員らの私的旅行制度にマイナスの影響が出てしまうことを危惧した。そこで、地峡 横断の目的地を少し東にずらして、コロンからポルトベロに変更した。ポルトベロにはスペイン植民地時代の歴史的な要塞史跡などが 遺されているという。

  ドライバー付きレンタカーの手配をホテルフロントに依頼した。ドライバーには道案内とともにボディガード的な役割をも 期待して、可能な限り身の安全を確保したかった。翌日、亜熱帯樹林の生い茂る山あいを貫く幹線道路を快走し、カリブ海沿岸の 港町ポルトベロを目指した。歴史上よく取沙汰される「カミーノ・レアル(「王の道」、「スペイン王へ通じる道」の意味であろう)」 の一部が残るようであるが、道中一時立ち止まってその道を少し探索することをすっかり忘れてストレートにドライブを続けてしまった。 ドライバーに探索希望を申し出ていれば、石畳の跡か何かが遺る「王の道」を案内してくれたかもしれない。

  コロン市街地にまもなく入るという頃に幹線道路から右折した。そして、カリブ海の海岸沿いにポルトベロへ通じる支線道路へと 辿り行き、その後は一本道を道なりにドライブした。海岸線に沿って椰子の木々が生い茂り、カリブ海地方の気候風土にマッチ した一般民家が断続的に続いた。その背後には、入道雲が湧き立つブルースカイと穏やかなブルーオーシャンが広がり、空と海の 境界線が何ともはっきりとしないカリビアン風景があった。椰子の樹間から垣間見えるそんなカリブ海風景を見惚れながら、爽快なドラ イブを続けた。急ぐ旅でもないので、途中海際のレストランの二階テラスで、海の香りに包まれ、潮騒を聴きながらランチを取った。 食後はレストランの敷地から長く突き出た板張りの桟橋上に設営されたハンモックに深々と横たえて暫しまどろんだ。降り注ぐ陽光でキラキラ と輝くカリブ海の水面に時々目をやりながら、最高に贅沢なひと時を過ごした。これぞ旅の醍醐味であった。

  さて、ポルトベロという町は、ヨーロッパ人たちの「地理上の発見の時代(大航海時代)」において、どんな歴史を紡いできた のか、またどんな大きな出来事と関わってきたのか、ほとんど知らなかった。コロンの町よりもポルトベロの方が圧倒的に治安が 良港であり、またスペイン統治時代の古い要塞も巡覧できるらしかった。写真の被写体を探すには絶好の地であろうし、また感動の 自然風景にも出会えるだろうという軽い気持ちで訪れた。 16~17世紀頃には金銀財宝が「王の道」を通ってポルトベロへ、さらに本国スペインまで運ばれたというが、そんな積出港の町で何か遠い昔の残影でも 見い出したいという思いがあった。

  もっとも、金銀財宝の陸上輸送ルートの「カミーノ・レアル」について、またヘンリー・モーガンという有名なイギリス人海賊による「カミーノ・ レアル」を舞台にした襲撃や略奪、ポルトベロやパナマ・シティにおけるモーガンによる略奪と破壊などについて俄然興味を抱き、 海賊の歴史に前のめりになったのは、パナマの旅からニカラグアへ戻ってからのことである。ニカラグアの「エル・カスティージョ」という スペイン植民地時代に築かれた要塞を探訪した折に、歴史上名をはせた海賊(特にヘンリー・モーガン)がパナマやニカラグアなどの 中米地峡やその近辺で酷い海賊行為を繰り返し、大きな足跡を遺して行ったことを学んだことが直接のきっかけであった。。

  さて、ポルトベロにヨーロッパ人として最初に現われた人物はコロンブスであった。コロンブスは1492年の第一回航海で、ヨーロッパから地球を西回りで アジアの東方、とりわけカタイ (中国)や黄金の国ジパング (日本) をめざした。スペインのグラナダ県にある町サンタ・フェで、 1492年4月17日にカトリック両王との間で、「航海に関する協約」を交わしたコロンブスは、同年に「新大陸 (カリブ海の島々)」 にたどり着いた。そして、エスパニョーラ島を最初の拠点にして、スペイン人征服者 (コンキスタドーレス)たちは、新大陸の金銀を 貪欲に漁り、先住民らを隷属的支配下に置きながら征服と植民の拡大を続けた。

  コロンブスは第4回航海の途中に、ポルトベロの入り江で、探検船団の帆を休めた。その時にポルトベロと命名したという。入り江 は奥深く、その周囲三方において小高い山々によって「コ」の字形に取り囲まれている。入り江を地形的に見れば、町や港を築くには 安全性に優れ、しかも湾内は深水を有していた。荒天時にあっても暴風を避け船を安全に停泊させることができたはずである。 そして、ポルトベロの町はポスト・コロンブスの時代になって、当該入り江最奥部のパナマ本土側の海岸沿いに築かれた。余談だが、 奥行きのある入り江は実は湾でなく、入り江の最奥部に細い水路があり、従って対岸に見える陸地は島であると思われた。だが今もって その確信をもてないでいる。

  パナマにやってきた次のヨーロッパ人はスペイン人バルボアであった。彼がインディオから南に海があると聞いて、現在に言うパナマ地峡のジャングル をかき分けて南下した。そして、ついに海にたどり着いた。これこそが「地理上の大発見の時代」における、コロンブスに次ぐ第二の歴史的な出来事であった。 パナマ地峡はほぼ東西に伸びる(南北方向ではない)。カリブの海はその北側にあり、彼が辿り着いた海はその南方にあったことから、 彼はそれを「南の海」と呼んだ。現在の太平洋のことである。彼の視認は西暦1513年のことであった。

  スペイン人コンキスタドーレスや入植者が続々とやってきて、パナマ地峡を横断し、1519年には太平洋岸に初めて町を築いた。それが現在の パナマ・シティの中心部から東へ6㎞ほどの地に遺されている「パナマ・ビエッホ」 (スペイン語の「ビエッホ (viejo)」とは日本語で 「古い」という意味) である。現在は廃墟しか遺されていない。

  この最初の太平洋岸の町パナマ・ビエッホは、「新大陸」、特に南米大陸におけるスペイン人による征服・植民のための一つの重要な 交易中継基地となり、繁栄を極めた。彼らは、南米大陸において手当たり次第に、先住民インディオから金銀財宝を奪い取り、陸路と海路でパナマへと集積させた。 ペルーなどのインカ帝国の金銀財宝に加えて、現在のボリビアのアンデス山中にある町ポトシにおいて、1545年頃に銀山の開発が開始された。

  ポトシ銀山のインゴットをはじめ、ペルーやボリビアを主領域とする「ペルー副王領」の金銀財宝は、カヤオ(現在のペルーの首都リマ近郊の外港)に集積され、 その後ガレオン船でパナマ・シティへと運ばれた。新大陸で開発された金 (ゴールド)の 産出量は意外と少なく、1500年代中頃には激減したという。 しかし、ポトシだけでなく、「ヌエバ・エスパーニャ副王領」(現メキシコを中核とする中米地域)のサカテカスなどでも重要な 銀鉱山が発見され、1500年代後期以降には大量の銀が採掘されるようになった。

  因みに、1545年に発見されたポトシ銀山では、「ミタ (強制労働制度)」という制度によって、インディオが過酷な使役にかり出され、銀が 大量かつ安価に生産された。その労働は余りにも過酷を極めたことからも、100万人の先住民の命が奪われたとされる。 「ミタ (mita) 」とは、スペイン統治下の「ペルー副王領」において先住民のインディオに課された強制的労役のことである。 ポトシ銀山での強制労役が歴史上特に有名である。他方、ポトシ銀山では水車による鉱石の破砕技法の導入により、また1552年に 「水銀アマルガム法」による精錬技術の開発により、1500年代後半には 効率よく大量の銀が生産されるようになった。

  ポトシ銀山はアンデス山中の標高4000メートルほどに所在するが、当時のパリと比肩するほどの人口20万人の大都市に成長し、1600年代になると 西半球最大の都市に成長したという。諸説あるが、1660年までに約15,000トンという桁違いの量の銀が、スペイン南西の大都市セビーリャの 「スペイン通商院」へと送り込まれたという。そのうちの約40%がスペイン王室の収入となり、残部はジェノバ商人などの手によってヨーロッパ 中に流通させられた。

  なお、1530年代からメキシコ・シティの南にあるタスコにて銀山が開発された。また、メキシコ・シティの北東にあるグアチナンゴ は1543年に創建され、さらに1552年にはメキシコ・シティの北にある「パチュカ鉱山」が発見された。 「旧世界」に向けて開始されていた金銀の陸・海上輸送は、「ポトシ銀山」の鉱脈の発見と開発をきっかけにして飛躍的に拡大して行った。 

  16世紀以降の植民地時代、金銀財宝はパナマ・シティ(当時のパナマ・ビエッホなど)からこのポルトベロまで、ジャングルの中を通る 「カミーノ・レアル」という細い道をロバなどの背に乗せて運ばれたことは有名である。パナマ・ビエッホからジャングルをかき分けて 陸路を辿り、その後はパナマ地峡の内陸部奥地を源流にしてカリブ海へと注いでいるチャグレス川の中流に取りつき、それを内陸水上 輸送路として利用してカリブ海へ下り、さらに沿岸海上路をもってポルトベロへと運ばれ、海岸沿いの倉庫に厳重に保管された。ポルトベロは スペイン本国へ金銀財宝を海上輸送するうえでの大西洋側における一大拠点となり、南米本土のカルタヘナ(現コロンビア)とともに、 重要な中継交易港として発展した。さて、パナマ・シティとコロンを結ぶ幹線道路を走行したが、その道路がこの「カミーノ・レアル」を分断 している。そして、当該分断地点から石畳の道が現在でも残されているという。そのことはずっと後で知った。

  歴史をひも解けば、1500年代中期にはスペイン本国と新大陸を行き来するガレオン船の大きさは5~600トンへとますます 大型化した。なかには千トンクラスの大船も就航した。そして、私掠免状をもつか否かを問わず金銀財宝の強奪を繰り返すイギリス人らによる 海賊行為に対抗するため、当時新大陸との貿易を独占管理していた在セビーリャの「スペイン通商院」は、1543年以降、年2回キューバのハバナから船団を組ませて 大西洋横断の途につかせることが多かった。

  当時、新大陸本土とハバナ間における海上輸送には主に3つのルートがあった。
第一に、アジアからの富を本国に輸送するために、先ずマニラから太平洋を横断しアカプルコに至り、陸路でベラクルスへと輸送し、その後 再び海路で集積地のハバナへ、そして船団を編成して本国スペインへ向かうという大西洋海上回廊である。 このルートには「ヌエバ・エスパーニャ副王領(中心都市はメキシコ・シティー)」での富をベラクルスからキューバのハバナへ 輸送した後における船団航海ルートと重なり合う。

  第二に、南米大陸の富を輸送するために、リマから海路でパナマ・シティへ、さらに陸路「カミーノ・レアル」を経て、チャグレス 川を下り、その後カリブ海の沿岸海上ルートを辿りポルトベロへ。その後集積地のハバナへ、そして同じく船団をもってスペインへ 向かうというルートである。

  第三に、南米大陸の金銀財宝は、現在のコロンビアの港町カルタヘナなどにも集積されたので、先ず海路でハバナへと運ばれ、そこで本国へ向かう船団が配されるまで、集積・保管された。 そして、ハバナから同じく船団を組んで本国へ向かうというルートである。

  ハバナに集積されたそれらの大量の金銀財宝は、スペイン本国によって年1回あるいは2回仕立てられたガレオン船団に積み込まれ、メキシコ湾流と 貿易風を利用して大西洋を海上輸送され、通商院のあるセビーリャへと運ばれた。既述の通り、当時横行していた海賊、特にイギリス人などの 私掠免状をもつ海賊らの襲撃に備えてのことであった。いわば護衛付き大船団を組織して移送された。 1519年にスペイン人によって建設されたハバナは、かくして新大陸の征服や植民のためのゲートウェイとなり、また新大陸とスペイン 間の一大輸送中継基地として繁栄を謳歌した。

  ポルトベロには、16世紀末には海賊の襲撃などから町や輸送船などを防護するため、第一に、その入り江の入り口や最奥部など に幾つかの堅牢な要塞が築かれた。現在街中には2つの要塞跡が遺される。一つは入り江入り口近くにある「サンティアゴ要塞」である。 もう一つは、入り江の最奥部にある「サン・ヘロニモ要塞」である。

  後者の「サン・ヘロニモ要塞」には、入り江に向かって睨みをきかせる大砲18門が現在でも遺されている(要塞はユネスコ世界文化遺産である)。 そして、要塞のすぐ近くの海岸沿いには税関倉庫(Royal Customs House of Portbelo)が隣接して建っている。ポルトベロの市街地 中心部の一角にある。倉庫は現在では「税関博物館」となっているが、植民地時代当時には金銀財宝などを一時保管するための税関 倉庫がそこに築造されていたという。

  ポルトベロの歴史などについてほとんど予備知識をもたないまま、「サン・ヘロニモ要塞」を散策した後、その古い倉庫に何気なく立ち寄った。 一部が博物館となっていることを知り、見学することにした。植民地時代に倉庫が果たした機能や海賊との関わりなどについて パネル展示がなされていた。現倉庫の床部がほんの少し掘り起こされ、当時のオリジナルの床敷きレンガがガラス張りにして一般公開されている。 建築された当初の倉庫の床部レンガは貴重な歴史遺物に違いない。

  同博物館の展示パネルの中に、立派な口髭をはやしカールさせた人物の小さな肖像画コピーと解説記事のようなクリップが無造作 に貼られていた。それがヘンリー・モーガンと言うイギリス人海賊であった。海賊のことをほとんど知らない私は、モーガンがこんなこわもての顔をして、 パナマ・ビエッホを壊滅状態に陥れたり、ポルトベロを部下に襲撃させたりして、カリブ海域で随分派手に「活躍」したらしい ことを、おぼろげに知った。因みに、1668年、ポルトベロの町はモーガン配下の海賊の襲撃を受け、15日間にわたる略奪行為によって 破壊し尽くされた。それは、モーガンの悪名をさらに高める一方、スペイン王室を驚愕させ憤慨させたという。

  展示の解説記事などは文字が小さくて虫眼鏡がいるくらいであった。その記事を読むエネルギーも残っていなく、 モーガンとポルトベロとの関わり合いを十分理解しないまま、取敢えずは写真だけは切り撮っておいて、ニカラグアへ戻った後に 読んでみようという程度の関心であった。 彼のことを含めて、カリブ海における海賊全般と彼の「活躍」の歴史などをいろいろ学び始めたのは、既述のとおりニカラグアへの 帰国後に「エル・カスティージョ要塞」(ニカラグア湖からの流出するサンファン川を60㎞ほど下った川沿いに建つ要塞)を 見学してからのことであった。スペインの対外文化協力の一環として要塞内の一角に設営された、 ニカラグアの歴史(現在に続く「ニカラグア運河」の建設の夢をも含む)を解説するパネル展示に出会い、目からウロコが落ちる史実 を知った時からである。

  因みに、モーガンが初めてスペイン植民地の町を襲撃し略奪し悪名を高めたのが、何と「ニカラグア湖」最奥の港町 グラナダであったことを知り、驚嘆したことをよく覚えている。グラナダはニカラグア赴任時における住まいからわずか 小一時間の距離にあった。かくして、スペイン植民地時代のニカラグアの歴史や海賊との関わりなどを紐解くきっかけをもたらしてくれた。

  パナマ運河とポルトベロを探訪する旅はたった3泊4日の短いものであった。だが、青少年の時から思い描いていた 運河通航体験が、わずか半日であってもなしえただけでなく、その後において海賊への興味を抱くきっかけをもたらしてくれたこと、 また「ニカラグア運河」を巡る何百年にもわたるニカラグア国民の夢とも繋がりができたことなど、思いがけない知的好奇心をくすぐる ような大きな「成果」もあった。パナマ運河の旅の満足度は100%以上であった。子供じみているかも しれないが、半世紀近く心のポケットにしまい込んでいた運河への思いを成就できたことで最上の充実感と喜びを得ることができた。

  ところで、ニカラグア赴任中におけるプライベートな国内の旅、それも一夜の泊りがけの旅に出掛けたのは、何と着任してから 1年ほど経った頃からであった。その後2回目の旅、それもわずか二泊三日の旅において、偶然にも、ニカラグア国民には「ニカラグア 運河の夢」があることを初めて知ることになった。それ以来、俄然と「ニカラグア運河」に前のめりになって行った。「運河の夢」の 実現は日本やJICAがどのような形で関わることになるのか、興味を深めて行った。とはいえ、着任後の1年間については、実は私的な旅の行き先としては 圧倒的に海外へと向けられていた。その最初の旅がまさにこのパナマへの旅であった。

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    第3節 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する


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      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
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