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    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する
    第4節 英国南部の港町(ポーツマス、プリモス、ブリストルなど)を歩く


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     第20章・目次
      第1節: 「自由の翼」をまとい海外を旅する、世界は広い(総覧)
      [参考] 海外出張などの記録
      第2節: オーストラリアに次いで、東南アジア(タイ・マレーシア・ シンガポール)の海洋歴史文化施設を訪ね歩く
      第3-1節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その1)/釜山、蔚山
      第3-2節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その2) /統営、閑山島、潮汐発電所など
      第4節: 英国南部の港町(ポーツマス、プリモス、ブリストルなど)を歩く/2013.5、挙式
      第5節: アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、 パタゴニアを縦断する/2014.3
      [参考] ビーグル海峡、マゼラン海峡、パタゴニア縦断の旅程



      自ら発意した訳ではないが、地中海に浮かぶスペインのマヨルカ島(マジョルカ島)へ出向くことになった。2012年5月16日に出立し、 主に英国を回って帰国したのは6月9日のことである。長女が結婚し、ついに二人して人生を歩むことになり、彼女らの自作自演で マヨルカ島でささやかな式を挙げるためであった。 長女は画家・イラストレーターであり、一般的感覚というか感受性が普通の方とは一味違うところがあった。「芸術家」というのは 何をするにも独特のこだわりがあるらしかった。結婚式も自身で描いていた通り自分なりに納得の行くやり方を追求し、 式の演出をプロデュースしてみたかったようだ。長女の長年の憧れを実現化したかったのであったのであろう。親が考えるように世間 並みにホテルなどで挙式や披露宴を執り行なうことなど念頭にないようであった。かくして、地中海の海と空を背景にして、 ほぼ身内だけでのささやかな結婚式を挙げることになり、家族4人で出かけた。新郎のご両親とはバルセロナのホテルで合流する 手はずであった。

      マジョルカでの挙式場所となったホテルは緑に溢れた山々に囲まれていた。ホテルの西方には遥か遠くに地中海を臨み、その反対側 の眼下の山あいの小さな町ソレル(Sóller)が見えた。そして、町から北方の山あいの谷筋を辿って行くと、遠くにポルト・デ・ ソレルという港を見下ろせる、すこぶる風光明媚なところにあった。5月の春季であったので、花がたく さん咲き乱れ、その美しい庭園内で家族や友人が見守る中、ささやかな式を挙げることができた。 地中海の透き通るようなブルースカイの下、花に包まれたホテルの小さなガーデンで、純白のウェディングドレスに身を包んだ新婦とタキシード の新郎とが結婚指輪を取り交わした。それが新郎新婦の夢であったに違いない。次女が挙式での新郎新婦の姿を追いかけカメラ ワークするに奔走した。花婿の叔母と兄夫婦、我々夫婦、長女の友人などごくわずかであったが、マヨルカの地での人生の記憶に 残る思い出の挙式となった。

      翌日、全員で眼下に見えるソレルの町へ出掛けた。そして、市内のレストランのこじんまりしたガーデンでマヨルカ・ワインを 傾けながらランチをとった。その後、箱庭的なスペインの古い街並みが続く市街中心部あたりで、ウインドショッピングをしたり、 思い思いに街角を散策した。市電のようなローカル電車に揺られて、山間の谷筋を下り、港町のポルト・デ・ソレルへと足を 伸ばした。港町は深く湾曲状になっている所謂ポケット・ビーチに面していた。湾はほぼ円形をしており、街や港はその最奥の東側 にあった。湾口は狭く、両岸の崖上には白亜の灯台が建っていた。湾奥には大きく弧を描いたサンド・ビーチが東西に目一杯に 続いていた。

      街の背後にある岩の多い高台から湾全体を見下ろすと、「これがマヨルカ島だ」と言わんがばかりの、絵にかいたような風光明媚 な風景が広がっていた。湾内の海、街や、港とマリーナの見事なコンビネーションの絶景を見下ろせた。まさにマヨルカ島の リゾート地といえた。マリーナをぶらぶらと散策し、海岸通りに並ぶ土産物店などでショッピングしたり、砂浜海岸を散歩したりした。 ついには港やマリーナとは反対側にある、湾口西側の高台崖上にそそり立つ灯台へ足を伸ばした。そこから湾外に広がる地中海の ブルーオーシャンを眺めた。湾内に目を移せば、湾奥にあって美しい弧を描く白砂のビーチとその背後に連なる緑濃い山々の パノラミックビューがそこにあった。灯台下の高台から暫し時間を忘れて眺めつづけた。

      翌日、皆思い思いに時間を過ごすことになり、一人ぶらっと再びマリーナに出掛けた。乗ったタクシーの運転手から 港近くに海洋博物館あることを訊き出した。誠に幸いと、そこに案内してもらった。何と昨日たむろした街の背後にある高台の 崖の傍に建っていた。そこからは湾内の港やマリーナとその反対側に広がる地中海の絶景を見下ろすことができた。 だが、生憎ながら、日曜日のためか、開館していなかった。今度いつこの地に戻ってこれるか。恐らく舞い戻る機会はないものと 思われ、残念であった。明日にはマジョルカを離れ、バルセロナに向かい、その足でイギリスへ向かう予定であった。 新婚の二人はギリシアへ、家内は帰国し、次女はドイツかフランスへ、新郎のご両親などはパリへ、そして私はロンドンへと、 全くばらばらの方向へ旅立った。

      ロンドンでは、市内でもアジア系住民が多く暮らす地区の一角にあるホステルに投宿した。私の部屋は予感が当たり、狭く急な階段を3階まで上り、さらに その上にあるロフト(屋根裏部屋)であった。天井はまさに斜めに張った梁で支えられていた。小さなガラス窓を開けると、眼前には幾つもの 同じようなロフト窓が折り重なっていた。ロンドンでどうしても見物しておきたかったのは、英国人海賊フランシス・ドレークが 世界周航を成し遂げた「ゴールデン・ハインド号」(復元船)であった。勿論、英国を離れる前に必ず訪ねたい施設は、テムズ川沿い のグリニッジにある「カティー・サーク号」と「英国海洋博物館」であった。 ロンドンに到着したその日は、まだ日が暮れるまで少しだけ時間があったので、早速にハインド号を目指して散策に出た。マゼランに次いで世界周航の大航海 を果たしたドレークの旗艦ハインド号 (元々は「ペリカン号」という名称) がテムズ川沿いのドックに係留されているという。

      地下鉄でテムズ川に架かる「ロンドン橋」(そのすぐ下流には有名な「タワー・ブリッジ」がある)方面を目指した。 「ロンドン・ブリッジ」駅で下車し、後は徒歩でロンドン橋のたもとをくぐり川沿いに200メートルほど歩を進めた。「ハイ ンド号」の姿が突然ビルの陰から洗われた時には全身鳥肌が立った。そして二つのことに驚いた。一つは、 ビルとビルとの谷間のごく狭い、テムズ川に直に通じるウェット・ドックに浮かんでいたことである。そして、もう一つは、同号の 余りの小ささであった。140トンにも満たない。コロンブスの旗艦「サンタ・マリア号」もそうであるが、 こんな小さな船でよくぞ世界周航を成し遂げたものと感嘆するばかりであった。ビルとビルの谷間のわずかなスペースを掘り込んで 築造した泊地なので、係留場所をしっかり事前に地図上で確認してからでないと、同号に辿り着くのは案外難しいという印象をもった。 スマホでグーグルマップを検索できなかった時代のことである。ともあれ、日没までは小一時間ほどあったので、船舶博物館と なっている同号の船内を隅々まで心行くまで丹念に見て回った。一度は見てみたかった特別な船であった。

      ドレークは有名な海賊の顔をもつ。カリブ海のあちこちで大暴れし、金銀財宝を略奪し、英国王室の財政を潤すのに多大な 貢献を果たしたのは有名な話である。詳細は第14章第6節の「「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて」を ご参照いただきたい。彼は数々の財宝・軍事的「業績」のお陰でエリザベス女王からナイトの称号まで得た。太平洋ペルー沖でも、 スペインの「カカフエゴ号」を襲撃し、金銀財宝をごっそり略奪したことは既に触れた。その略奪航海後、太平洋を横断し世界周航 を果たすにいたった。スペイン海軍の艦船に数々の痛撃を与えもした。それらの事績は大きい。彼の最盛期に達成したことは、人類史上 2番目の世界周航と、1588年にスペイン無敵艦隊を打ち負かし大打撃を与えたことである。余談だが、テムズ川に浮かぶ第二次 大戦の巡洋艦「ベルファスト号」(ロンドン橋の少し下流に係留公開される)の艦内を見学する時間を失くしてしまい、 またの機会とせざるを得なくなった。

      さて翌日、列車でドーバー海峡に面する英国有数の港町・軍港都市ポーツマスに向かった。ヨーロッパで最も古く大きな海軍 基地がある町として知られる。また、英国海軍ホレーショ・ネルソン提督の旗艦であった「ビクトリー号(H.M.S. Victory)」 が係留公開されている。また、「海洋博物館」なども所在する、「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード」と称される一大海洋 歴史特別地区でもある。ぜひとも一度は訪ねて見たかった。

      ポーツマスの駅を降り立つと、目と鼻の先にある桟橋に係留公開される3本マストの機帆船で、1860年建造の当時としては最速 最強の軍艦「ウォーリア号 (H.M.S Warrior 1860)」が出迎えてくれた。 英国はかつてフランスとの建艦競争に対抗するため同艦を建造した。22年間の任務に就いた後にあっては、倉庫や作業場などとして の活用といった不名誉な役目を担っていた。だが、1979年にそんな状況から脱却して、ハートルプール(Hartlepool)に曳航され、 そこで多額ののコストをかけて原初の状態に 復旧されたという。 海軍工廠歴史地区「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード」敷地内には、「英国王立海軍博物館 (National Museum of the Royal Navy)」をはじめ、ネルソン提督の旗艦で一級戦列艦の「ビクトリー号」(訪問時には補修中であった)、「ローズ マリー号博物館 (Mary Rose Museum)」などの海洋歴史文化ファンには垂涎の的である施設群が広い工廠敷地内に集積するかコンプレックスである。 「ヴィクトリー号」の艦内もくまなく巡覧して回った。海洋博物館では、船模型、フィギュアヘッドなどをはじめ、航海の歴史、 英国海軍の歴史、奴隷貿易などを学べる資料が数多展示される。なお、「マリー・ローズ号博物館」は建ち上がったばかりで、近々 の一般公開に向けて準備中であった。その日はポーツマスに着いたばかりで、地区内をざっと巡覧しただけであったが、翌日には 丸一日じっくりとヤード内を見学することにした。

      ところで、ポーツマスはポーツマス・ハーバーという奥行きの深い湾に面し、その中心街は湾の入り口付近に立地する。 現在のポーツマスのシンボルであり最大のランドマークは、帆船マストとセールをオチーフにした「スピネーカー・タワー (Spinnaker Tower)」であろう。そこから半径1kmほどの範囲にある市街地に、その「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード」をはじめ、 鉄道終着駅の「ポーツマス・ハーバー・ステーション (Portsmouth Harbour Station)」、ウォーターフロントにあって近代的ショッ ピング・モールがある「ガンウォーフ・キーズ (Gunwharf Quays)」、ソレント海峡をはさんでその地先に浮かぶ「ワイト島 (the Isle of Wright)」との間をシャトルするシャトル・カーフェリーの発着ターミナル (Car Ferry Terminal)、ポーツマスの古い街 並みが残る「オールド・ポーツマス地区 (Old Portsmouth)」、そしてソレント海峡を見下ろす英国海軍ホレーショ・ネルソン提督の銅像 などがある。一日中飽きずにそれら界隈を見て回った。また、ガンウォーフ・キーズのすぐ対面にはゴスポート (Gosport) という 町があり、入り江を渡す小さなフェリーで「王立海軍潜水艦博物館・HMSアライアンス号」(Royal Navy Submarine Museum and H.M.S. Alliance)などへも出かけた。

      ポーツマスの沖合にワイト島が浮かぶ。翌々日のことになるが、「ザ・ソレント」と称される海峡をカーフェリーで横断し、 ワイト島の海峡町フィッシュボーンに渡ったが、そこはフェリーの発着場くらいしかなく辺ぴなところであった。少しヒッチハイクをした後、路線バスに有りつき、ライドという島内 一の港町へ辿り着いた。市街中心部の目抜き通りには週末を楽しむ大勢の日帰り旅行者で溢れ、 街はなおもサマー・バケーションのように華やかさで溢れていた。今回の旅ではじめて全ての肩の荷を降ろし、街中あちこちそぞろ歩きを 楽しんだ。対岸にはポーツマスの町がより近くに横たわっていた。ポーツマスと島の間をフェリーがシャトルするだけでなく、 ホバークラフトも通っている。その発着場で生まれて初めてその実物を間近にみた。暫くの間子供のようにクラフトの発着する様子 に釘づけになった。

      見入るだけではなく、ポーツマスへの帰途には一度は乗船体験してみることにした。至近距離からまじまじとクラフトを眺めることが できた。クラフトの下方周囲には超巨大なゴム製浮袋を目いっぱいに膨らませ取り付けているような格好である。特に発着 時に聞こえてくる空気の吐き出し音と船尾の巨大推進用ファンの回転音には凄まじいものがある。出発時には そのファン二基がフル回転し轟音を立てる。他方、ゴムの浮袋は極限まで膨張し、機体の下からは空気流が地面に向けて猛烈に 吐き出される。飛行機に乗り込む移動式タラップを昇り、クラフトに乗り込みポーツマスまで戻った。勿論生まれて初めての体験であった。 ザ・ソレント海峡をわずか数十分で渡った。クラフト内は推進ファンや浮体させる吐き出し空気流の音のため騒々しく、会話は快適では ない。吐き出される空気流は飛沫を巻き上げるので、窓からの海峡景色は今一つ鮮明でなくなる。

      翌日、ポーツマスからサウサンプトンへ電車で向かった。サウサンプトンはロンドンから100kmほど離れているが、 ロンドンのいわば外港といえよう。昔英国と米国ニューヨーク間を飛行機ではなく大型定期豪華客船が就航していた時期があった。 1950年代くらいまではその最盛期であった。そして、その定期客船時代には、英国から米国に向かう定期客船はこのサウサンプトンを 発着場にしていた。ロンドンから大西洋を横断し新天地に渡米するうえで、サウサンプトンはロンドンに最も近い出港地であった。 1912年4月氷山に衝突し沈没した例のオーシャンライナー「タイタニック号」もここから出港した。 市街中心部には「海洋博物館」もありじっくり内部見学した。また、数多のライナーがかつて頻繁に発着した歴史を有する 埠頭界隈をはじめ、ウォータフロントを心行くまで散策した。そして、フェリーにて入り江を南行しザ・ソレント海峡を再び 横切り再びワイト島へ渡った。

      船上からサウサンプトン港や入り江などの大よその地形や様相を理解することができた。フェリーは思いのほか大型であった。 何か大型定期客船で大西洋を横断してニューヨークへ向かうかのような気分であった。他の大勢の船客とともにフェリー最上甲板で 心地よい潮風に吹かれながら海峡を横切る船旅を楽しんだ。このフェリーでもワイト島に向かう乗船客の多さに驚かされた。 その後、ワイト島のイースト・カウズという港に着岸し下船した。そこから路線バスに乗ってかなり内陸部の田舎町にある「海洋博物館」 を訪ねた。航海や潜水、海賊などの海にまつわる雑多な用具や遺物などが所狭しと展示されていた。近代的な海洋博物館とは程遠かった。 童心に帰って展示品の中から何か宝物探しをするかのようであった。子どもプレイ・グラウンドを含む娯楽施設のようで、グルメ好きの家族 向けレストランなども配し、週末の行楽客を内陸部へ呼び込むためのレジャーコンプレックスを構成する施設のようであった。 それでも、その「海洋博物館」には、本格的な近代的海洋博物館ではめったにお目に掛かれそうにない掘り出し物に出会えるかの ような特別の情趣があって、私的にはそれなりに楽しめた。こうして、サウサンプトンからの日帰りの船旅とワイト島の田園風景と 珍奇な博物館巡りは、大いに心を満たしてくれた。

      さて、その後コーンウォル半島の西端近くにある港町プリモスへ列車で向かった。プリモスも歴史ある町で、旧市街地は中世の 雰囲気がたっぷりと漂う。プリモスの最大のランドマークは「ポー丘」にある「シタデル」という大きな要塞である。ポー丘は市街地 南側の海に面する丘であり、潮風に吹きさらされる広々とした芝生公園のようになっている。その丘に隣接するのがシタデルで、 長らく英国陸軍の駐屯地となって来た、城壁に囲まれたかつての要塞である。丘をはさんでシタデルの反対側には大きな海軍基地がある。 ポーの丘には「スミートン・タワー」という灯台をはじめ、フランシス・ドレークの銅像や戦争記念碑などのモニュメントだけが立ち 並んでいる。ポー丘の前面沖合に広がる茫洋たる海こそ、ドーバー海峡への南西側入り口である。

      今は銅像となって祭り上げられる元海賊のドレークはポーの丘からドーバー海峡に睨みを利かせる。かつて英国連合艦隊はこの 沖合で「無敵艦隊」と謳われたスペイン艦隊がドーバー海峡めがけて南西方向から入ってくるのを今か今かと待っていた。 当時ドレークは英国艦隊副司令官に任命され、その艦隊の実質的な指揮権を掌握していた。ドレークは艦隊司令官らとそのポーの丘で、 スペイン艦隊が海峡に入り込んで来るのを、ゴルフに興じながら待っていた。ドレークがゴルフに耽溺していた訳でない。 彼の戦術であった。艦隊指揮官らがおろおろしている姿を部下の海軍兵士らに見せれば、彼らは動揺したり戦闘士気を低下させかねない とのドレークの深慮から、指揮官らの余裕のあるところを見せるために、ドレークらはゴルフに興じるながら無敵艦隊の動向を 探らせつつ、その動きの報を待ち受けるという作戦であったという。かくして、艦隊を視認したという偵察船からの 報を受け、ドレークは艦隊に出撃命令を下した。ついには、両艦隊はフランスのカレー沖で大海戦となり、ドレークは火船を敵艦隊に放つ という海賊らしい戦法で、スペイン艦隊をドーバー海峡北東海域において撃破し、壊滅状態に追い込んだ。その海戦こそが歴史に深く刻まれた 1588年の「アルマーダの海戦」である。スペインはこの敗北で国家存亡の危機に陥った訳ではないが、衰退へ向かって歩み出す 一歩となった。

      ところで、話しは少し遡って、ホーレーショ・ネルソン提督(Vice Admiral Horatio, Lord Nelson)のことに触れたい。ネルソン提督は「ビクトリー号」を英国艦隊の旗艦 として1805年「トラファルガーの海戦 (The Battle of Trafalgar)」で戦い、負傷し、それがもとで落命した。同艦はポーツマスの海軍工廠内のドックに保存され ていることは既に述べた。さて、トラファルガーの海戦とは、スペインのトラファルガー岬の沖において、英国艦隊とフランス・ スペイン連合艦隊との間で、1805年10月21日になされた海戦である。18世紀末から19世紀初めにかけて約20年間にわたり展開された、 いわゆるナポレオン戦争における最大規模の海戦であった。

      歴史は少し遡るが、1789年フランス・パリで革命が起こった。即ちパリの民衆による「バスチーユ牢獄」の襲撃である。 その後フランス・ルイ16世の絶対王朝が崩壊した。他の欧州諸国は、その革命の波及を恐れ、フランスに干渉し戦った。そして、 時は1800年代初め、フランスにおいてボナパルト・ナポレオンが実権を握る時代となった。

      トラファルガーの海戦がなされた1805年当時、欧州大陸はフランスの皇帝ボナパルト・ナポレオンの勢力・支配下に置かれていたが、 海上の支配権については英国下にあった。英国は海上封鎖を行い、フランス軍による英国本土への侵攻を防御していた。ナポレオンは、 当時その支配下においていたスペインとの間で連合艦隊を組織し、英国の海上封鎖を突破して、ブローニュの港に集結させた 35万人のフランス軍を英国本土に上陸させるという計画であった。英国はそれを阻止すべく、ホレーショ・ネルソン提督が率いる 艦隊を差し向け対峙させた。

      英国艦隊は、「ヴィクトリー号」を旗艦とする戦列艦27隻、フリゲート4隻。他方、フランス・スペイン連合艦隊はピエール ・ヴィルヌーヴ提督率いる「ビューサントル号」を旗艦とする戦列艦33隻であった。ネルソン提督は、仏西連合艦隊の隊列を分断 するために、その隊列へ2列縦隊で突っ込むという、いわゆる「ネルソン・タッチ」戦法を展開した。

      激戦の結果、英国側の損害は、艦船の大破・拿捕0隻、死者449名、戦傷者1,214名であった。他方、連合艦隊側のそれは、死者4,480名、 戦傷者2,250名、捕虜7,000名、艦船の大破・拿捕22隻であった。ヴィルヌーヴ提督自身も捕虜となった。他方、ネルソン提督自身は フランス狙撃兵の銃弾を受け、その生涯を閉じた。「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して息を引き取ったという。

      トラファルガーの海戦によってナポレオン戦争が終焉を見た訳ではない。その海戦の2か月後 (1805年12月)、フランスは 「アウステルリッツの戦い」に勝利し、戦争の主導権を奪還した。その約10年後の1815年の「ワーテルローの戦い」でナポレオン は敗北した。ナポレオン戦争の終結は、そのワーテルローの戦いまで待たねばならなかった。トラファルガーの海戦によって フランス海軍は弱体化し、英国に対する経済封鎖を貫徹できなかったことが、フランス敗北の重要な要因の一つへと繋がっていくのである。 ナポレオン戦争後のヨーロッパに新たな秩序が形成されたが、それを「ウィーン体制」と称される。

      休題閑話。さて、後の歴史に名を刻むことになる数多くの船がプリモスの港を出航して行った。 ピューリタンなどを乗せた「メイフラワー号」がプリモスで船舶修理・食料積み込みなどを完了して、このプリモスを最後の寄港地 として新大陸に向けて、1620年に出港して行った。その出港を記念する門がプリモス港口の岸壁に建つ。米国のマサチューセッツ州 プリモスのウォーターフロントには、その逆に上陸記念の門が建てられている。航海の後に「種の起源」を著わしたダーウィンも、 「ビーグル号」にてこの地を船出した。南極点到達を目指した探検家スコットらもこの地を船出し、ノルウェー人の探検家アムンゼン に次いで、世界2番目の到達を果たしたが、その帰途に遭難しこの世を去った。人類史上2番目となる世界一周航海を 1580年に成し遂げたドレークは、この地を最後に英国を離れ航海に出た。もっとも最初から世界周航を意図していたかは定かでないとされる。 「トラファルガーの海戦」で勝利したネルソン提督らの艦隊はもちろんプリモスから海戦に向かった。このように、プリモスは数多く の歴史的航海の起点となり、多くの人物が歴史的事績を刻んで行った。数多くの歴史的航海の起点となった。、   その後、半島北側の付け根にある港湾商業都市ブリストル経由でリバプールに向かった。ブリストルで途中下車しウオータフロント を散策したのには訳があった。4本マストの機帆船「グレート・ブリテン号(Brunel's SS Great Britain)」を訪ねる事であった。 今は船舶博物館となっている。かつて廃船となり朽ち果てていたところを回収され修復された。現在は、市街地を流れるエイボン川の 畔にあるドライ・ドックに据えられ、一般公開されている。ドックの水門は締め切られ、中は排水されて いる。ロンドン・グリニッジの「カティ・サーク号」の保存・展示と全く同じスタイルで、船の喫水線辺りからドックの上縁にかけて 総ガラス張りされている。ガラス下にある船底へ降り立ち、舵やスクリューなどを間近に見れる。ドック脇を流れるエイボン川を 行く水上遊覧バスに乗って水辺を周遊し、船上から市街地風景を楽しんだ。

      その後、電車で150kmほど田園の中を北上し、世界的ロックバンドのビートルズの故郷であるリバプールへと向かった。 マージー川が市街中心部を流れるが、宿はその対岸の静かな住宅街にあった。思いもよらず不便なところにあった。川を渡すフェリーは 夕方6時頃には運航終了であった。止む無くタクシーで大回りして地下トンネルをくぐりようやく辿り着いた。翌日真っ先にアルバート・ ドックに面する「マージー海洋博物館」を訪ねた。特に「タイタニック号」関連の展示が充実していた。干満時におけるマージー川の水位の落差は大きく、 そこに港湾を建設することは大変な難事業であったと見て取れた。港湾事業の発展なくしてリバプールの産業発展を見ることはなかった といえよう。

      特に長年の正確な河川水位の観察とその科学的知見は不可欠であった。それに貢献した人物の名前をメモしなかったが、彼は長年 潮位を観察し続け、それがリバプールに感潮式ドックを川沿いに築造するうえで大いに役立ったという。 そんな歴史も学ぶことができた。ドック周辺を散策すれば、リバプールの港湾施設がどのように整備され発展してきたか理解できた。 ウォータフロント地区にはかつて産業革命の頃から開発された潮感ドックがたくさん存在し、多くの貨物船が停泊し、倉庫群が ドック沿いにぎっしりと配されていた。今では再開発に押され倉庫群も少なくる一方であるが、ウォーターフロント地区は再整備され、 今では大勢の観光客や市民の憩いの場となって賑わっている。

      ドック傍には、例えば「リバプール博物館」など数多くの文化施設が整備されているが訪問の機会をもてなかった。アルバート・ドック の東側に隣接し水路で繋がっている「サルゾウズ・ドック(Salthouse Dock)」には、ロングボートという英国ではよく見かける 屋形船の数多く係留される。英国では蜘蛛の巣のように、幅の狭い運河のネットワークが張り巡らされている。ナローボートは そんな運河を通行できるように、その船腹は数メートルほど、だが全長は20メートルほどもあるすごく細長いハウスボート である。リバプールからロンドンに戻る列車の車窓から見た風景を忘れられない。緩やかな起伏が連なる緑豊かな 田園地帯が続く風景を楽しんでいた時のこと、鉄路のすぐ傍まで近接したり、逆に遠ざかったりする運河があった。そこに何隻もの ハウスボートがゆっくりと進むというのどかな風景に接することができた。ブリストルでタクシー・ドライバーから、ここから ロンドンまで運河伝いに行くことができることも聞かされ驚いた。さて、ついにロンドンへ戻る日がやってきた。

      ロンドンに戻った翌日早速電車でグリニッジに向かった。目指すは「国立海洋博物館」である。 30年ほど前の1980年代初めにチュニジアへ出張した時訪ねたが、ティー・クリッパー船「カティ・サーク号」はドライドック に屋外展示されていた。しかし間もなくして火災のために大損壊を受けたことをマスコミ報道で知った。その後、1995年頃のJICS出向 時代にJICAのアフリカ中近東所長会議でロンドンに出張した折、休日を利用して修復状況を知るため再度出向いた。 だが、なおも修復中で船の影も形もなかった。それ以来の訪問となった。

      チャリング・クロス鉄道駅からグリニッジに向かった。行ってびっくり。カティ・サーク号が完全な形で再興され展示されていた。 「カティ・サーク」が立派に蘇り、ドライドックに収められていた。船の喫水線辺りからドックの上縁までの船体回りがぐるりと 総ガラス張りとなっていた。水面に浮かんでいるかのようで、その見違える姿に鳥肌が立つほどであった。まさに壮観なクリッパー 船の姿を披露してくれていた。館内に入れば、船底やキールを下から覗き見ることができるし、またプロペラや舵をはじめボルト締めの 船体鋼板まで間近に見ながらぐるりと一周することができる。「グレート・ブリテン号」と同じく、その奇抜なアイデアで 素晴らしい復活を遂げていた。クリッパー実物船の再興は世界中の船舶ファンに感動をもたらすものであった。 かつての大火災事故でかなり消失した。昔もドライドックに収容されてはいたが、船体全てが屋外展示されていた。

      グリニッジには過去3回は足を運んだが、実は何故か「海洋博物館」本館内を巡覧することはなかった。だから、一枚も館内の展示 画像が残されていない。確かに本館を巡覧した記憶もない。思い起こせば、水上バスのグリニッジ発着場のすぐ傍のドライドック に入渠していたカティ・サークに釘付けになり、その写真撮影にほとんどの時間を取られ本館見学は時間切れになってしまったような 気がする。あるいは、海洋博物館の存在を知っていただけで、是が非でも本館を見学し展示品の画像を切り撮りたいという切なる 思いに欠けていたためであったかもしれない。いずれにしても、1995年のネット元年以前の頃のことであり、画像をもって海洋 辞典をビジュアル化するという目的認識は丸でなかった。

      だが、今回は2日間にわたり、館内のほとんどの展示品をじっくり丹念に隅々まで観覧して回った。そして多くを画像に収めた。 余りにも展示品とパネル説明書きが多くて、画像を撮りながらじっくり見て回りだけで精一杯であった。ネルソン提督関連の品々や 航海用具、多くのフィギュアヘッド、「バウンティ号」の展示など貴重な展示物の一点一点を丁寧に時間をかけて切り撮った。 だが、それでも7~80%の巡覧であった。全部を納得の行くところまでは見て回れなかった。それに、余談だが、今回もまたロンドン 市内の「大英博物館」と「自然史博物館」などを訪問する時間を確保することはできなかった。 こうして、英国南部岸沿いの海と船を巡る旅は終わりを迎えた。はじめて英国の海洋歴史文化地区や施設をじっくり回ることができた。 英国南部コーンウォル地方とブリストル、リバプール、そしてロンドンでけであったが、心に大きな充足感をもたらしてくれた。 いつしかスコットランドなどの別地方に海と船を求めて旅できることを心待ちにしたい。先ずは楽しみとして、机上にてプランを練り上げたい。

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      第1節: 「自由の翼」をまとい海外を旅する、世界は広い(総覧)
      [参考] 海外出張などの記録
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      第3-1節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その1)/釜山、蔚山
      第3-2節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その2) /統営、閑山島、潮汐発電所など
      第4節: 英国南部の港町(ポーツマス、プリモス、ブリストルなど)を歩く/2013.5、挙式
      第5節: アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、 パタゴニアを縦断する/2014.3
      [参考] ビーグル海峡、マゼラン海峡、パタゴニア縦断の旅程]