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    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第2節 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する


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       第20章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る



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  ニカラグア着任(2007年9月)当初は、通勤の足となるマイカーもないし、何をするにも勝手が分からないので、目的の事柄や 事物に向けて一直線にアクセスし、最短時間で事をやり過ごすことができず、気が付けば半日、時に一日掛りとなることが多かった。 着任後数か月を経てようやく仕事にも慣れ、少しは先々を見通しながら仕事に取り組めるようになった。 ニカラグアで仕事をこなすための知恵や慣れだけでなく、「生きる」ための私生活上の知恵や慣れも徐々に蓄積され、仕事と生活の両面 で格段に落ち着つきと余裕が生まれてきた。丁度その頃、海風景などを求めて近隣国へ私的な旅に出たいという意欲が自然と湧き始めた。 さて、国外へプライベートな旅に出るのであれば、何を差し置いても真っ先にパナマに出掛けようと固く心に決めていた。

  青少年の頃、南米航路やニューヨーク航路の船乗りになることに憧れていたことは何度か触れてきた。パナマ運河を通過した後、 南へ針路を取って、世界三大美港の一つと謳われたリオ・デ・ジャネイロ、ブラジルコーヒー積出港として名高いサントス(サンパウロの外港)、そして南米のパリと称されるブエノス・アイレスへ、 あるいは北へ針路を取って摩天楼がそびえるニューヨークに入港し、エンパイアステートビル界隈のビジネス街を闊歩し、 アメリカ文化を肌で感じることに、全く単純ながら強烈な憧れを抱いていた。だが、高校三年次にその夢はあっけなく破れ去り 船乗りになリ損ねた。

  だがしかし、いつの日にかこの目でパナマ運河を見てみたいという強い思いをずっと 心の引き出しにしまい込み、いつしかそのチャンスがやって来る日を待ち続けていた。子どもじみていることかもしれないが、運河探訪には そんな思いがあった。少年時代から既に45年ほどの時を経ていたが、ついに運河探訪が現実のものとなるその日がやってきた。 ニカラグア着任から5か月を経た2008年1月に旅を敢行した。週末をはさんでわずか3泊4日の旅であった。たとえ数時間であっても、運河をこの目で見ることができれば 本望であった。ニカラグアからパナマの首都パナマ・シティーへのフライトは短かった。日本を起点にした空旅だと最低20数時間は かかるだろうが、首都マナグアからだとほんの2時間足らずであった。

  パナマ・シティーのホテルにチェックインした後、すぐさま外出の身支度を整えて、一目散にロビーへ下り、タクシーに飛び乗った。向かったのは 「ミラフローレス閘門」である。車窓を流れる市街地の景観を子どものように興味津々の思いで眺めた。パナマ運河建設以来醸成されてきた アメリカ的繁栄の香りがぷんぷんと漂っていることが見て取れた。市街地を過ぎて緑豊かな亜熱帯ジャングルに踏み入れた頃、「ミラフローレス閘門」の気配を肌で感じた。 気持がどんどん高揚し、心臓の鼓動が飛び跳ねるのを抑えきれなかった。

  前方正面を眺めると灯台のようなタワーが見えた。同閘門に向かってアプローチして来る船舶が航行の物標などにするライト・ ビーコンに違いなかった。車窓を流れる樹林の隙間から、運河や閘門の姿を捉えようと目を凝らした。 かくして、巨大な2レーン式の閘門システムを擁する広大な空間の中へタクシーは滑り込んだ。そして、4階建てくらいの「ビジター センター」の前で降ろされた。そして、周りの景色をやおら見渡し、オゾンに溢れた新鮮な空気を何度も大きく吸い込んだ。写真では何度もお目にかかってきた「ミラフローレス閘門」の地に 立っていると思うと、感激で武者震いしそうな心境となり、鳥肌を立てたまま暫し佇んだ。深呼吸をした後、やおらセンター屋上へ と向かった。

  屋上からは閘門エリア全体を視野に収めることができた。見学者のためのいわば「特等席」である。センターの見晴らしの良い屋外 に出てまずは閘門全体をじっくりと見渡した。視界180度のダイナミックなパノラマビューが眼前に広がっていた。 閘門全体の迫力満点の風景が超大型映画スクリーンに投影されているかのようであった。「これだ! まさにこれを見たかったのだ!」と、 心の内で叫ぶ少年のような自分がそこにいた。感激がこみ上げてきて、踊り跳ねたくなるような衝動を覚えた。 思い憧れてきた風景を目の前にして涙が溢れそうであった。生きているうちに一度は見たいという、大よそ半世紀に近い積年の 思いがついに実現した瞬間であった。 「諦めなくてよかった」。夢をもち続ければ何時かは実現する日もやって来ると確信した瞬間でもあった。その後、時間の経つのを忘れ、 眼前で繰り広げられる大型船舶の閘門通過のオペレーション風景と向き合い続けた。

  屋上から眺めると、「ミラフローレス閘門」には船が往復通航できるように2本の航行レーンが設けられている。向こう側のレーンには、カリブ海からやってきて 太平洋へ抜ける大型クルーズ客船や日本船らしき自動車運搬船などが通過していた。手前のレーンでは、太平洋からカリブ海へと向かう大型貨物船、コンテナ船などが 第1閘室(チャンバー)で暫く留まり、その後微速前進で次の第2閘室へ移動して行く。さながら、船舶通過シーンをスローモーション映像で眺めているようであった。 閘門は連続した3基の閘室からできているが、いわば「水の階段」を2段上って通過して行く巨大船をじっくり観察した。

  太平洋側から一隻の大型タンカーが、アプローチ水路をゆっくりと第1閘門に向けて進んできた。遥か遠くでは何隻かのタグボートが舷側に張り付いたままである。 何やら作業をしている。多分、巨大船を最初の閘室へ上手く収容するための事前調整をしているのであろう。 閘門の端からは一本の細長いコンクリート製突堤が突き出ていた。第1閘室へ寸分の狂いもなく巨船をその閘室にぴったりと 平行に導き入れるための誘導施設(突堤、ジェッティ)であろう。 タンカーは、その突堤に沿ってゆっくりと第1閘室へ進入してきた。タンカーの舷側が閘室の側壁に接触しないように、まるで定規で 測るように絶えず平行的に、一定の隙間を保ちながら全く無音のままゆっくりと慎重に滑り込もうとしていた。だが、それは多分に想像してみただけのことである。どんな細かい オペレーションが行なわれているのか、遠くのことだし、またタンカーは低い位置にあるので隠れて見通せない部分も多く、細かい部分や作業まではっきりと見て取れなかった。 第1閘室側壁とタンカー舷側との間にどの程度の隙間が維持されているのかも、屋上からは全く分からなかった。恐らくは1メートルもないくらいであろう。

  タンカーは第1閘室に滑り込むと、間もなく船尾側の観音開き式の扉(ゲート)が閉じられたようだ。次の第2閘室から第1閘室へ水が自然落下(重力式) 方式で注入され始めたと思われる。タンカーの船体が徐々に浮き上がって来たことで、その注入が進んでいることが見て取れた。 それまでタンカーの舷側はほとんど見えなかったが、少しは見ることができるようになっていた。両閘室の水位がしっかりと平衡に なったのであろう、第1閘室の船首側の観音開き式ゲートが開かれ、タンカーはゆっくりと前進し第2閘室へと音もなく滑るように 移動してきた。タンカーはビジターたちの眼前で止まった。

  次いで、タンカーの船尾側の扉がゆっくりと閉じられて行く。そして、次の第3閘室の水が第2閘室に注ぎ込まれ、タンカーは再び ゆっくりと浮き上がり、フルに巨体全体を見せ始めた。第2閘室と第3閘室の水位が平衡となったところで、前方の扉が開かれ、船は再び前進し、 第3閘室へ滑り込んだ。船尾側の扉が閉じられ、次に第3閘門の前方扉が開かれ、すべてのロープが解き放たれ、タンカーはゆっくりと 「ガトゥン湖」に向けて進んで行った。こうして「水の階段」を2段分、約18メートルほどの高低差を上り切った。 次に目指すのは、数キロメートル先の船首正面に見える連続2閘室からなる一段昇降式の「ペドロ・ミゲル閘門」である。大型タンカーの昇降と通過の様子を まるで子供のように飽きもせず眺めていた。

  ところで、「ビジターセンター」内には運河建設の歴史や技術に関する展示館が備わっていた。パナマ運河建設当時の工事の 様子を紹介する写真やパネル説明、「ガトゥン湖」や3つの閘門システムと航行レーン・航路標識などを含む運河全体の大きなジオラマ展示などを通して、 建設の歴史、運河周辺の自然環境、閘門の基本構造、建設に用いられた開削技術などを学ぶことができる。建設労働者がマラリア や黄熱病などの熱帯性感染症に悩まされ、多くの犠牲者を出したことは有名な話としてずっと語り継がれてきた。

  フランス人のレセップスは、かつてスエズ運河建設で培った経験を活かしてパナマ運河を建設しようとした。だが、その努力の甲斐なく、 彼の運河会社はついに財政破産に追い込まれた。完工させることなく工事を途中で放棄するに至ったのは、マラリアなどの亜熱帯 特有の、当時にあっては治療法が全く解明されていなかった病気による犠牲者の続出、エジプト・スエズ運河の砂漠地とは異なる 亜熱帯ジャンブルの自然条件などによるところが大であった。展示ではその史実に大きな焦点が当てられていた。

  紆余曲折の末、1904年に建設を引き受けた米国は、先ずは建設現場の衛生環境改善を図り、当時原因不明であった熱帯病を克服 しようと取り組み闘った。その闘いは困難を極めたが、蚊の発生源の抑制対策が有効ではないかと考えられ、徹底的に水溜り除去などの措置が執られた。 その結果、蚊の発生とマラリア罹患は徐々に減少したという。

  米国は、運河水面と海水面とを同じ高さにするという「海面式(水平式)」の構造設計を取り止めて、「水の階段」をもって昇降する「閘門式」 のそれを採用した。当然、海面式とは比較にならない近代技術が必要とされた。他方、開削工事のなかでも、「クレブラカット」 と呼ばれる岩山の開削は極めて難航した。建設当時におけるさまざまな開削上の障害を克服するためになされた幾つもの技術開発 の歴史について、同展示を通じて学ぶことができる。特に新しい技術を備えた大型浚渫船の建造とその投入は注目に値するものであった。

  海面式でなく閘門式の運河の場合、船舶が「水の階段」を昇降するたびに大量の水が必要とされる。その水源として「ガトゥン湖」 という人工湖が建設された。大西洋に注ぎ出るチャグレス川が堰き止められ、閘室扉(ゲート)の開閉オペレーションのたびに消費される 水を確保し続けるための巨大な人工の貯水湖である。陸地の開削による水路を建設するだけでなく、人工湖内の航路を浚渫するためにも、 近代技術を駆使した大型浚渫船の新規開発と投入が行なわれた。そのことを、浚渫船の模型とパネルで学ぶことができる。 また、閘室に使用されている観音開き式の扉を復元した、実物に近い巨大模型が展示されており、閘室扉の基本構造や油圧式駆動技術 などを学ぶことができる。

  さて、陽が落ちる前に「ペドロ・ミゲル閘門」を一目だけでも見ておきたいとセンターを後にして、数キロメートル先にある閘門へと急いだ。だがしかし、どうも 一般見学できる施設はないらしく、ガトゥン湖畔から遠目に眺めただけであった。とはいえ、運河散策の感動はまだまだ続いていた。

  「ミラフローレス閘門」をじっくり探訪できたことは大満足ではあったが、実はまだ心残りのことが一つあった。遊覧船で運河を半日クルージング するツアーが週末一回の割合であることは事前に調べて知っていた。それ故、半日コースへの参加を予め想定し、週末をはさんでの今回の旅であった。 せっかくの機会であるから、半日遊覧ツアーに参加すべく、早い段階で旅行代理店と掛け合ってきた。幸いにも 半日遊覧ツアー船の乗船券を手に入れることができた。因みに、一日かけて太平洋側から大西洋側まで3つの閘門全てを通り抜ける というツアー、即ちパナマ・シティからコロンまでの運河クルーズツアーもあるが、月1回らしく最初から諦めていた。 さて、遊覧当日は運よく最高の晴天に恵まれた。小型遊覧船に乗船し、「ミラフローレス閘門」を通過し、さらに「ペドロ・ミゲル閘門」 や「クレブラカット」、チャグレス川が「ガトゥン湖」に注ぎ込む河口域などを経て、同湖岸の町ガンボアで下船し、その後貸切バスで帰投するというものである。

  現在のパナマ・シティ中心街の西方に「カスコ・ビエッホ」という旧市街地区がある。スペイン植民地時代には街の中心部であった。今でも コロニアル風の建築物が遺され、当時の面影を偲ぶことができる。その沖合いにパナマ屈指の週末向けのリゾート地となっている島嶼が浮かぶ。 「カスコ・ビエッホ」の少し先にある「アマドール地区」から海に突き出したコーズウェイを伝って、それらの島嶼に渡ることができる。 遊覧船の発着場はその島嶼の一つである「フラミンゴ島」にあった。島嶼の地理的位置としては運河入り口の沖合にあることから、 それらの島嶼は運河へのゲートウェイ、あるいは物標のような存在であった。 そして、コーズウェイは運河の入り口まで誘導してくれる導堤のような存在といえる。翌朝、旅行エージェントが手配した迎えの 大型バスに乗って、別ホテルに待機する乗船ツアー客を次々と拾い上げつつ発着場へと向かった。

  ツアー船客で鈴なりになった遊覧船は時刻通りに港を出て、そのコーズウェイに沿って運河入り口へと向かった。やがて大きな橋が視界に入って来た。 そこで初めて知った。運河入り口を象徴する真のランドマークは、南北両大陸に架けられた「アメリカズ・ブリッジ」であった。 大橋をくぐると、右舷側に「バルボア港」が見えた。港を通過するとその前方に、「ミラフローレス閘門」を遠望することができた。 遊覧船の前方には一隻の大型貨物船が先行し、閘室直前のアプローチ水路上に停まっているようであった。豆粒の ように見える手漕ぎボートが、貨物船の船尾辺りを漂っていた。そして、ボートは貨物船から投下された ホーサー(太綱)を拾い上げ、何か作業をしているように見えた。

  貨物船の左舷側には、閘門の端からこちら側に向けて細長い突堤のような構造物が突き出していた。突堤は数百メートルもあろうかと 思われた。貨物船はその突堤に対して船尾を少し離して斜めに停泊していた。目をよく凝らして観察した。最初の閘室へ貨物船を 導き入れるに当たって、船体舷側と閘室側壁との隙間を均等かつ平行的に保てるように誘導するための構造物であり、長い定規のような役目 を果たすものであると、ようやくはっきりと気付かされた。 やがて、何隻かのタグボートによって船尾や舷側中央部を押されて、その突堤に対して平行になるよう押しつけられて行った。ただ 遠くにあり過ぎて、船体舷側と突堤側壁との隙間はどれくらいなのか、50㎝なのか1mなのか判然としなかった。

  突堤の先の閘門岸壁では、日本製といわれる誘導電動車(ミュール)が、そのホーサーを受け取って船を定位置に停めようとしていた。 即ち、両岸壁の側壁に船体を引き寄せ、均等の隙間を保ちながら船体を停め置くための準備が進められているようであった。だが、遠くのことなので、 どんな細かい作業が行われているのかはやはり判別できない。兎に角、遠くから見れば、隙間は全く無いのも同然で、 船体と両岸壁はくっついているようにしか見えなかった。最終的には、船首・船尾の両舷に配されたミュール4基に各ホーサーが 結び付けられ、ロープの張り具合などが調整され、貨物船は両岸壁側壁と平行的にして均等の隙間を開けながら停め置かれた。 そして、貨物船は突堤や岸壁側面に擦れないようにそろりそろりと微速前進し、第1閘室内へと引き込まれて行った。 我われの遊覧船はその間、アプローチ水路上でホバリング状態で待機していた。

  貨物船が第1閘室に完全に入り切ると、遊覧船は間髪入れずその船尾めがけて同じ第1閘室へ滑り込んだ。私は遊覧船のブリッジ直下にあるオープンデッキの 最前列の見通しの良いところに陣取っていた。貨物船の船尾にほぼぴったりにくっつくと、その船尾楼がそそり立っていた。 貨物船のすぐ後方にあってホバリング中の遊覧船からは、貨物船の左舷側と閘室側壁との隙間が垣間見えた。貨物船は全長200mはあったので、その隙間の最奥部まで覗き込もうとしても、 奥は真っ暗なだけで全く何も見通せない。肉眼では、貨物船の両舷側は側壁にぴたっとくっついているかのように見えた。船尾付近での隙間は、 何と50㎝あるかないかであり、その狭さで200m先まで均等に保たれているはずであった。

  それにしても、第1閘室への手際の良い入室作業を遠目にしろ観察できた。さすがプロフェッショナルたちのやる神業的なオペレーション には脱帽するばかりであった。巨体を側壁に擦りつけることなく、わずかな隙間を残してよく押し込められるものだと、その熟練の 作業技に驚嘆するばかりであった。間もなく、遊覧船のすぐの後方で、巨大な観音開き式の鋼鉄製扉がゆっくりと閉じられた。

  遊覧船から見上げる第1閘室の側壁は随分と高かった。アプローチ水路の海水面から第1閘室の天頂までは10メートル近い高さがあり、鉄壁で囲まれた巨大な プールの底に閉じ込められたような圧迫感があった。鉄壁が覆いかぶさってくるようで、閘室内の最低水位(海水面レベルと同じ) から見上げる空は随分狭められていた。ここから先ず最初に9メートルほど上昇する必要があった。と言うのも、「ガトゥン湖」の水位は海抜26メートルほどのレベルにある ゆえである。やがて、前方の第2閘室から第1閘室へと、重力落下方式で水が注ぎ込まれ始めたようだ。遊覧船の周りの水の動きが激しくなり、水面がかなり 泡立ち始めた。閘室内の水位が徐々に上昇し遊覧船もゆっくり浮上しつつあることは、閘室の側壁がせり上がってきたこと、そして狭かった空が徐々に 大きく広がってきたことで分かった。水嵩がどんどん増えて、船が持ち上げられてきた証左であった。今まで高く見上げていた閘室側壁がどんどん 低くなって行った。

  先行する貨物船の前方は全く見えないが、第1閘室前方の観音扉が開かれ、貨物船は誘導電動車「ミュール」に付き添われて ゆっくりと自力で微速前進した。渦巻と泡を発生させながら、次の第2閘室へと音もなく滑るように入り込んで行った。遊覧船は 再びその船尾を追いかけてほぼくっついた。その後、第2閘室の後方扉が閉じられた。そして、今度は第3閘室の水が第2閘室に注ぎ 込まれ、水嵩がどんどん増し、貨物船と遊覧船は再びゆっくりと持ち上げられた。第2閘室の底部水面にある遊覧船は同じく 髙い側壁に囲まれ、空がかなり狭まく感じられていたところ、二隻の船は再び9メートルほど持ち上げられた。すると、デパートの 屋上階に上り詰めたかのように、360度開けたパノラミックな閘門全体の風景が視界に飛び込んできた。 昨日まで陣取っていた「ビジターセンター」の屋上がすぐ眼前にあった。リフトで地底から地上に上り詰めたかのように、見慣れた 地上界に戻ることができた。

  今度は、第2閘室後方の扉が閉じられ、第3閘室の水が引き込まれた。そして、両室の水位が平衡となって間もなく、第3閘室 前方の扉が開かれた。これで、第3閘室の水位は「ペドロ・ミゲル湖」と同レベルとなった。かくて、ミュールからすべてのホーサーが解き放たれ、貨物船は ゆっくりと同湖へと船足を速めた。こうして「水の階段」を18メートルほど上り切った。閘門通過のオペレーション時に魅せられた作業者らの 巧みの技に声も出ないほど感激した。生涯忘れることのない素晴らしい初体験であった。

  貨物船が次に目指すは、4~5km先の正面に見える「ペドロ・ミゲル閘門」である。ここでは「水の階段」を一段だけ昇る。閘室に入ると後方の扉が 閉め切られ水が注入された。船は徐々に上昇し、閘室内の水位が人工湖の「ガトゥン湖」のそれと平衡になったところで、前方扉が開かれ前進した。 「ミラフローレス閘門」での上昇分と合わせて、遊覧船は海抜26メートルの高さまで持ち上げられた。

  その後、遊覧船が狭い水路を辿って行くと、間もなく「クレブラカット」といわれる有名な狭水路へと進入して行った。建設当時、ここが開削上の最大の 難所であった。両岸の岩山の削り跡を見れば、いかにも硬い岩盤のような地面が開削されたことがよく分かる。特に右舷側には 削り取られた、高さ100mほどの小高い山が岩肌をむき出しにしている。人工的に削り落とされたことは一目瞭然であった。自然のままの山とはいか にも異なり、岩肌むき出しの岩壁が高くそそりたつ。遊覧船のデッキからそんな岩山を見上げ感無量の思いであった。開削工事では、 巨大な石炭露天掘りのように、水路の底辺から段丘状に地面が上段へと削り取られた。そして、各段丘テラスには軌道が敷かれ、トロッコを 走らせ、削り取った岩石などが運び出された。「ビジターセンター」には、そんな建設当時の工事現場写真が展示されている。

  「クレブラカット」を通り過ぎてもなおも狭水路が続いた。さて、反対方向の遠くから大型クルーズ客船がやって来るのを視認した。 4~5万トンくらいありそうな大型客船と教水路で、しかもかなりの速力ですれ違うのは刺激的であった。徐々に船影が大きくなるなか、 狭水路でのすれ違いはどんな景色なのかとずっと目を凝らし続けた。おもちゃのような遊覧船からすれば、全長200メートル以上で10階建てビル のような、見上げるばかりのクルーズ船が、高速で目の前をあっという間にあっけなく通過して行った。鳥肌が立った。しかし、 それもわずか7,8秒の瞬間的すれ違いであった。その後、ガンボアに到着する少し手前で、チャグレス川が「ガトゥン湖」に 注ぎ出る川口にさしかかった。そこにはパナマ地峡横断鉄道の鉄橋が架かる。さて、船客はガンボアで全員下船し、待機していた迎えのバスで パナマ・シティへの帰途に就いた。

  ところで、遊覧船の話の時間軸を少しだけ巻き戻したい。遊覧船が「ミラフローレス閘門」手前のアプローチ水路上でホバリングを していた折のこと、左舷斜め前方の岸近くの水中に建てられた櫓(やぐら)のような人工構造物に気付いた。実は既に、パナマ運河の開通 以来最も大規模で歴史的な運河拡張工事として「第3レーン」の建設工事が着工されていた。旅中に見かけたその構造物は、その拡張 工事のためのものであった。「ミラフローレス閘門」の「第3レーン」や、そのためのアプローチ水路の建設のための観測・調査 用の櫓と見受けられた。恐らくは水底下の地質調査をするための小型の四脚式掘削リグではないかと推察した。

  さて、運河通航量の増大と船舶の大型化に対応するため、パナマ運河の代替や拡張方法について70年代から検討されてきた。現状では 約65,000トンまでの船舶しか通航できなかった。また、年間14,000隻ほどの船舶が約2億7900万トンの貨物を輸送していたが、 いずれは通航需要の限界を 迎えることが予測されていた。

  当初運河地帯は、条約に基づいて、運河を竣工させた米国の支配下に長く置かれていた。しかし、1977年にオマル・トリホス将軍 がカーター米国大統領と運河返還などを定めた新条約に調印し、1999年末に運河地帯は米国からパナマへ返還される予定となった。そして、 運河施政権がパナマへ返還される見通しを得たパナマは、米国と日本の協力を得て、将来の運河需要に応えるための運河計画案 (運河拡張、代替運河を含む)をあらゆる角度から検討することになった。そして、日米パナマの三ヶ国で運河代替案を検討する 国際委員会が1985年に設置され、その後「パナマ運河代替案調査委員会」が2000万ドルの経費をかけて、8年間にわたり調査すること になった。

  実は、JICA契約課に勤務(1990年11月~1992年3月)していた当時、「日米パナマ運河代替案国際委員会」から要請で、運河のあらゆる代替案の比較検討と最適案の提示を担う コンサルタント、即ち「パナマ運河代替案調査」を請け負うコンサルタントを国際レベルで選定するために必要とされる国際入札 図書を作成するという業務に携わった。いわば、代替案調査の最も初期段階における調査との関わり合いであった。国際入札での コンサルタント選定基準、調査実施条件、調査内容、技術仕様書、契約書案などの日英西の3ヶ国語の入札図書一式を 作成するものであった。1996、7年の頃である。委員会はそれを基に国際入札を実施し、マッキンゼーなどの国際的コンサルタントを 選定した。日本のコンサルタントも参画した。そして、通航量の限界が見え始めた現行運河に対するあらゆる代替案に関する比較 検討に着手した。

  調査は紆余曲折を経た後、現行の2レーンをもつ閘門に平行して、新たに往復通航が可能な「第3のレーン」を 新規に建設するという運河拡張計画案が作成された。そして、パナマでは、同拡張計画案の是非を問う国民投票が実施された。パナマ選挙裁判所(選管)の中間集計 (開票率97.5%)によると、国民の8割近くが賛成し、反対は22%弱で、拡張計画プロジェクトが承認された。 1914年の最初の運河供用開始以来最大規模となる歴史的な拡張工事が2007年に着工され、開通100周年の2014年に工事は完了する 予定とされていた。

  代替案調査のための国際入札図書作成に関わってからほぼ10年目の2007年に拡張計画が実施に移された。2007年にニカラグアに赴任し、翌年1月に パナマ運河探訪の旅において、偶然にも、その拡張工事があちこちの運河地点で実施に移されているところを目にした。 当該拡張工事の着工を目の当たりにして胸に熱いものを感ぜずにはおられなかった。拡張工事は計画よりも2年遅れて 9年を費やして竣工した(2016年6月に竣工・開通した)。当時の計画として、拡張によって貨物通航量は年間約6億トンに倍増する見込みであった。当初の工事費は総額52億5000万ドル (約6200億円)と見込まれていた。

  従前の運河では通航できる船舶のタイプとサイズに制約があった。閘室の制約上から、全長294.13メートル超、幅32.3メートル超の 船舶は通航できなかった。また、熱帯淡水満載吃水線は12.04メートルを超えることができなかった。この最大にして限界ぎりぎりの船は 「パナマックス船」と呼ばれた。そして、この限界を超える船は「ポストパナマックス船」と呼ばれていた。

  拡張閘門、すなわち「第3レーン」とその新閘室が完成した現在では、新閘門を通航できる船舶の大きさの上限は、 全長366メートル、幅49メートル、喫水15.2メートルである。当該限界ぎりぎりの最大コンテナ船は「ネオ・パナマックス船」と呼ばれる。 そして、その新閘室は、コンテナ船について言えば、20フィートコンテナ積載換算で14,000個のコンテナを積載する船舶をも通航 させることができる。

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新旧閘門の大きさと通航可能最大船舶の大きさ。

    * 「パナマックスサイズ」の船舶(既存の閘門を通航可能な最大の船):
    長さ294.1m、幅32.3m、喫水12.04m
    なお、既存の閘室の大きさ: 長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8m
    * 「ネオ・パナマックスサイズ」の船舶(新閘門を通航可能な最大の船):
    長さ366m、幅49m、喫水15.2m
    なお、新閘室の大きさ: 長さ427m、幅55m、深さ18.3m

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新旧閘門の大きさと通航可能最大船舶の大きさ。 [拡大画像: x27488.jpg]
* パナマックスサイズの船舶(既存の閘門を通航可能な最大の船): 長さ294.1m、幅32.3m、喫水12.04m
なお、既存の閘室の大きさ: 長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8m
* ネオパナマックスサイズの船舶(新閘門を通航可能な最大の船): 長さ366m、幅49m、喫水15.2m
なお、新閘室の大きさ: 長さ427m、幅55m、深さ18.3m

  余談だが、1900年代初期における最初のパナマ運河建設において青山士(あきら)という青年技師が日本人で唯一その工事現場に立ち設計 作業などに携わった。彼は帰国後、「荒川放水路」建設の責任者となり、それを開削し水路を完工し、「赤水門」(現在は 「青水門」に取って代わっている)を建設した。荒川の本流は「荒川放水路」を流れ下り、東京湾へと注がれる。荒川分流は現在青水門 を経て隅田川となって東京湾へと流れ下る。私の地元である埼玉県川口市をかすめて流れる荒川の堤防からそれらの水門がよく見える。 運河工事での青山技師の活躍のことを知ったのは、ニカラグアから帰国して暫く後のことであった。運河絡みで何かと不思議な縁を感じる。

  さて、運河遊覧を終えた翌日、もう一つの体験をするためにカリブ海へと出掛けた。それはパナマ地峡を横断してカリブ海に 達する陸上ルートを辿ることであった。人工湖「ガトゥン湖」が存在しなかったスペイン植民地時代には、数多のスペイン人がチャベス川を遡り、ジャングルをかき分けて「南の海」 (マゼランによって太平洋と名付けられた)へと向かった。そして、「カミーノ・レアル」という「スペイン王の道」や パナマ・シティという町を築き上げた。パナマ・シティーは南米大陸征服の一大拠点となり、また交易中継基地でもあった。スペイン 征服者はペルーをはじめ、アンデス山脈を南下しインカ帝国を滅亡させた。 南米の金銀財宝はペルーのリマ、パナマ・シティー、さらに「王の道」を経て大西洋岸のポルトベロを経由し、最後はキューバのハバナで スペイン本国が仕立てたガレオン護送船団に積み込まれ、同国のセビーリャへと運ばれた。その財宝輸送と植民地経営の足跡が今でも遺るという ポルトベロへ辿り、その風景を記憶に留めたかった。コロンの「ガトゥン閘門」への探訪の代替ということでもあった。

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    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する


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       第20章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る