2011年3月末に天職と自認していたJICAの仕事から完全に身を引いた。そして、「自由の翼」を得た。余りにも自由の
身となったが故に、凧の糸が切れたかのように空中高く舞い上がって行くようで、恐ろしく感じるほどであった。それは少し大げさかもしれないが、
仕事に少しも拘束されないフリーライフ・スタイルに戸惑いを感じたのは確かであった。だが、海洋辞典のコンテンツの「選択と
集中」の進め方、何を切り捨て何を充実させていくか、その作戦を練り固めようと日々興奮した。語彙拾いやテータ・資料集めなどと
向き合い続けながら、辞典のアップデートに専念する生活に少しずつリズムをもてるようになった。そしてやがて、海外の何処かに
放浪の旅に出て見たいと思い始めた。海と船の博物館を訪ねる旅に出掛けたい国を模索し、どう巡覧するかのプランをあれこれ
思い描くのも実に楽しいことであった。行き先はすぐ見つかった。
完全離職後真っ先に出掛けようとした最初の海外の旅先はオーストラリアであった。ニカラグアでの奇跡の生還をなし、それ以来
初めての海外への旅であったことから、当時の体力状況や、旅中に万一体調不良に陥った場合における短時間での帰国のしやすさ
などを考慮せねばならなかった。先ずは近場であること、他方で海に関する歴史文化的施設もいろいろあって、十分に楽しめ、かつ画像撮影の
面で成果を得られるところを模索した結果であった。かつてオーストラリアのケアンズを経由してパプア・ニューギニアへ出張
したことがあるが、それ以来プライベートにじっくり旅してみたいと強い希望を抱いて
いたのがオーストラリアであった。弾丸ツアーに近い短期間での旅プランを練った。もちろん、主治医にも許可をもらった上で、
旅を敢行した。時期は2011年4月のことで、南半球では初秋といった頃である。
ネットで格安フライトを模索した結果、回り道となり余計な時間はかかるが、香港で乗り換えてシドニーに向かうことにした。
乗り換えるにしてもキャリアは勿論同じカンタス航空である。シドニーに到着後、空港と市街中心部を結ぶリムジンバスで
ダウンタウンに向かった。予約のホステルはシドニーのシンボルである「セント・メアリー大聖堂」の東側に位置する「エリザベス・ベイ」に
にあった。「フィンガーウォーフ」という再開発された瀟洒な大桟橋にもほど近かった。すぐに身の回り品やカメラなどをリュックに
詰め込んで、ダーリング・ハーバーに面する「オーストラリア海洋博物館」へと向かった。
博物館はダウンタウンのビジネス街からダーリング・ハーバーに架かるピルモント橋を渡り切った所にあった。その橋上から博物館の
本館建物の他に、桟橋に繋がれ一般公開されているいろいろな艦船が見える。オーストラリアの本格的な海洋総合博物館を訪ねる
のは初めてのことなので、近づくにつれ嬉しさの余り鳥肌がたちわくわくと興奮した。
子どものようにわくわくしながら博物館へと足を踏み入れ、館内をじっくりと巡覧した。展示内容をざっくりと言えば、船で
英国からオーストラリアへやって来た移民らの歴史をたどるパネル展示や移民船からの下船を描写するジオラマの他、灯台の光源装置
の実物、船舶エンジンの内部構造を示す大型立体模型、ジェームズ・クックなどの南太平洋における探検航海の歴史を紹介するパネル
や関連史料の展示、さらに学芸員による帆船模型の制作実演がなされていた。国立の博物館だけあってさすが見応えがあった。
博物館傍の桟橋には、クックが南太平洋を探検した時の帆船である「エンデヴァ―号」(レプリカ)の他、フリゲート艦や
潜水艦などの豪海軍退役艦船5、6隻が係留され公開されている。入り江(クリーク)をはさんでその対面には「シドニー水族館」がある。
後日ここにも足を伸ばした。博物館へはその後も日を改めて何度か訪ねた。
ボタニー湾内を定期的に行き来する水上バスともいえるフェリーボートが運航されている。水族館前の船着き場から乗船しハーバークルージング
を楽しんだ。出航して暫くすると「シドニー大橋」が視界に入る。シドニーのシンボル的ランドマークといえば、何と言っても
その大橋と、その近くのウォーターフロントに建つオペラハウスである。ほとんどの場合、
大橋とオペラハウスがワンセットにして写る風景が我々のイメージとして焼き付けられ定着している。フェリーが大橋にぐっと近づき、
くぐり抜ける時には、眼前にオペラハウスの優美な姿を目にすることになる。シドニーはリオ・デ・ジャネイロと並び世界三大美港と
謳われる。一度はその美しい港景を海上から眺めてみたかった。船乗りに憧れていた青少年の頃から想い描いてきたハーバー風景である。
その願望を抱き始めた頃からして、もう半世紀は過ぎ去ってしまっていた。今回ようやくその願いが叶ったことの喜びをフェリー船上
から噛みしめた。
さて、フェリーはシドニー橋をくぐり抜けた後、ダウンタウンに近接するフェリー中央発着ターミナルへと滑り込んだ。
ターミナルには幾つもの桟橋が並び、特に平日の朝夕には、ボタニー湾岸沿いの町とダウンタウンとの間を行き来する通勤客らで
ごったがえす。橋のたもとの「ロック」と呼ばれる旧市街区を歩き回った。また、オペラハウス近傍の「ボタニカル・ガーデン」やそのウォ
ーターフロントを散策した。フェリーターミナルに隣接する鉄道高架駅から、角度をいろいろ変えながらシドニー大橋やオペラハウス
の美しい姿を眺め写真に切り撮った。幸いなことにそれらを眺める時はいつも空にはブルースカイが広がっていた。
ボタニー湾の湾奥に発展してきたシドニーとは真逆にあるのがマンリーという小さな海辺の町である。さて、フェリーに乗り込んで
シドニー湾の湾口近くにある、そのマンリーの町を目指した。目途は「マンリー水族館」であった。有名ではあるが意外とこじんまりした
水族館であった。水族館は白砂青松の海浜が弓なりに続く、そのはずれに立地していて、余りの風光明媚さに見惚れてしまった。
週末には大勢のシドニー市民が家族連れで水族館を目当てに来訪するだけでなく、その自然美溢れる海浜での海水浴や甲羅干しを
楽しむためにやってくることを知った。さて、シドニー湾の狭い湾口には両サイドから細長い半島が伸び、奥行きの深いボタニー湾
内の海を平穏にしている。英国からの探検船が初めてこの大陸に接近し、植民の拠点にするには奥行きが深く格好のボタニー湾を
発見し、最初の入植地となったのがこのシドニーということらしい。
シドニーのダウンタウンの話に戻るが、市街地中心部に「自然博物館」もあることを知り、立ち寄ってみた。南極探検の展示もなされて
いたが、南極点到達の世界一番乗りを目指した日本の白瀬矗(のぶ)中尉が率いた探検隊の紹介もなされていた。博物館では白瀬隊長の
探検当時の雄姿をとらえた写真を観覧すると同時に、日本人による探検の史実を同館で初めて知ることになった。当時にあっては
ノルウェー人のアムンゼンや英国人スコットの探検隊も世界初の到達を目途に凌ぎを削って南極点を目指していた。そして、アムン
ゼン隊が史上初めて到達し、スコット隊は極点に到達したものの遭難し全滅したということは、第13-2章第3節で触れたとおりである。
「海洋博物館」から20分ほど歩を進めたところにある漁港とフィッシャーマンズウォーフを目指した。魚市場では魚屋がひしめき合う
ように軒を並べていた。魚の陳列台にはたっぷりと砕氷を敷き、その上に多種多様な魚貝類が配されていた。同じ市場内には、
シーフード・レストランも数多く軒を連ね、活気が満ち溢れていた。調理したばかりの新鮮な刺身の大皿とハウスワインを調達し、
潮風の当たるテラスで、漁港内に停泊する漁船風景を眺めながら、午後の散策に備えて腹ごしらえをした。漁港界隈をのんびりそぞろ歩き
した後、ダウンタウンへ戻った。偶然にも、世界主要都市の持ち回り方式で定期的に開催されるトライアスロン・レース(シドニー
大会)に遭遇した。
何時の日にか本格的なトライアスロン・レースを観戦してみたいとかねがね念じていたが、偶然にもこのシドニーの地でお目にかかれた。
オペラハウスのすぐ傍にスイムのスタート地点が設定され、臨時に組み立てられた観覧席からは大勢のファンがレースを見守っていた。
最終ゴールもオペラハウスの脇に設定されていた。一度は観覧席に陣取ったが、遠く離れていては選手の表情が全く見えない。そこで、
スイムからバイクのロードレースへ移るトランジット・ゾーンのすぐ傍に陣取り、身をのり出して観戦した。
選手は猛ダッシュして、素早くシューズを履き身支度を整えてバイクを押してロードコースへとなだれ込んで行った。秒単位で
競い合うことになるトランジットエリアでの場景には迫力があった。その後の観戦はロード沿いに移った。観覧席エリアからの観戦は
せいぜいスイムからバイクへのトランジットまでである。
バイクとランのレースでは、街中に出てそれらのコース沿いに立たなければ、選手の表情を間近に見ながら観戦することはできなかった。ダウンタウン
の目抜き通りに移動して、その沿道から小さな日の丸を付けて頑張る日本選手らに向けて声を張り上げて応援した。帰国後のことだが、同じ世界トライアスロン・シリーズの大会が横浜で開催され、これまた偶然にも
テレビ観戦する機会があった。シドニー大会でのトランジットゾーンや沿道で声援を送った何人かの日本人選手がその横浜大会にも
出場し、奮闘していた。それもあって、画面に釘付けになって見入ってしまった。トップ3位を争う常連の実力ある外国人選手がいる
ことも分かって来た。日本人選手がトップ3に入ることの過酷さを思い知るようになった。
さて、別日のこと、シドニーの北180kmほどの距離にあるニューキャッスルへ電車で出掛けた。目指すはそこに所在する
「海洋博物館」である。キューキャッスルは湾岸沿いにいろいろな産業を抱える港湾都市であった。従って、特に貨物船が多く出入りするので
衝突や火災事故などが過去に多く発生してきたらしい。それ故に、博物館では、産業・貿易関連の展示に加えて、過去における船舶
海難救助や火災消火活動、コーストガードの活動などにまつわる各種資料、救難関連資機材などの展示が充実していた。今回の
オーストラリア大陸での初めての列車移動によって、豪東岸沿いの自然風景なども垣間見ることができた。
ところで、移動を頻繁に繰り返すハードな旅程を避けることで、体調を崩さないことを第一に心掛けた。豪南岸域のメルボルンやタスマニア島、さらに西岸域のアデレードやパースなどの訪れたいところもあったが、
またの楽しみに取っておくことにした。
さて、次に全く別の海と船の旅に触れたい。ニカラグアでの大病後における初めての海外への旅であったオーストラリアへの単独行に
自信を得た。そして、再び海外へ旅したのは、その2か月後の2011年6月(離職の3か月後)のことであった。目指したのは、タイ経由でシンガポール、
マレイシアのマラッカであった。シンガポール、マレーシアは全く初めて訪ねる国であった。初めての外国ではまだ見たことのない
どんな海風景や海洋歴史文化施設を観ることができるか、想像するだけで胸がわくわくする。特にマラッカ・シンガポール海峡の
渡海と、マラッカでの海洋歴史文化施設の探訪は真に楽しみであった。
主観的ではあるが、私なりに「海のシルクロード」を幾つかのローカルエリアにざっくりと区分していた。一つは東シナ海に臨む韓国・中国
沿海地域、その次は南シナ海やシャム湾に臨むベトナムからシンガポールにかけての地域、第三はインドネシア・スマトラ島周辺を含む
マラッカ・シンガポール海峡・ベンガル湾に臨む地域である。今回は、シャム湾からマラッカ・シンガポール海峡辺りの海を目指す
ことにした。特に興味を魅かれていたのは、大航海時代や西欧列強諸国の植民地化の歴史的足跡が残され、「海のシルクロード」の
かつての重要拠点であったマラッカであった。(マラッカへ2011.6.18-21)。
旅に先だって、NHKのドキュメンタリー特別番組であった「海のシルクロード」のことを思い出した。時間をかなり遡るもので、
年次を思い出せないくらい昔の特番である。早速10シリーズほどの特番全巻を「NHKアーカイブズ」に通い
詰めてもう一度鑑賞し直し、今回の旅のエネルギー源にしようと試みた。私的には、「海のシルクロード」への関心やその魅力が
高まれば、それだけ旅への意欲や情熱を鼓舞できるに違いないと思ったからである。
実は、都合の良いことには、「NHKアーカイブズ」が自宅から1kmほどの距離にあった。兎に角下見を兼ねて訪ねてみたところ、
幸いにもそれら特番を全てすぐにでも閲覧できることを知った。それが特番「海のシルクロード」に前のめりになった背景である。
特番は、NHK海外取材班が、東地中海で古代ローマ時代の沈船から数多のアンフォラを引き揚げるというところに立ち会う
ところから始まる。その後、ナイル川と紅海とを結ぶ古代の水路遺構の探索、さらに乳香やコーヒーの産出で古代に繁栄したイエメンのアデンや、
紅海周辺の古代都市への旅へ続く。ダウ船に実乗船してアラビア海を横断し、西インド・マラバール海岸のゴアにおけるザビエルの足跡の探索や
その内陸部にある胡椒産地を巡る旅。さらに、マレー半島クラ地峡を実際にゾウを仕立てて船を引かせて陸路を横断するという冒険の
旅、さらにベトナムの内陸部で古代ローマとの繋がりを示すローマ貨の取材、その後中国南部の南シナ海沿岸を経て、マルコ・ポーロが
20年以上の中国滞在を終えて船で帰国の途に就いた福建省・泉州まで「海のシルクロード」を辿るという、壮大な冒険的旅路の
ドキュメンタリーである。一日一巻60分間ずつ閲覧し、2週間ほどかけて改めて全巻を鑑賞し終えた。見応えがあった。大いに刺激を受け、もう
「海のシルクロード」の旅に出立せずにはいられなくなってしまった。
さて、まずバンコクへ向かった。シンガポールへの直行もありえたが、バンコクで是非立ち寄りたいところがあった。一つ
は市街地内にある「王室御座船博物館」の巡覧であった。もう一つはチャオプラヤ川とその川岸周辺の水路網を川船で巡ることであった。
若い頃に私の母親と義母に同行してパックツアーに参加し、スピードボートでチャオプラヤ川を遡りアユタヤまで船旅を
したことがあった。そのツアー時にはそんな船舶博物館や川辺風景などに関心はほとんどなかった。バンコクや地方都市に何度か公務出張もしたが、関心は別の方向に注がれていた。
同じ旅であっても、また同じものを眺めても、見る角度や視点が異なれば、目に映る風景は単に早送りされる映像みたいなものに
過ぎないということであろう。今回の旅では、二泊して博物館と川遊びをじっくり体験することにした。
チャオプラヤ川の川沿いに小さな船溜まりをみつけ、そこで細長い10人乗りくらいのスピードボートをタイムチャーターしたいと、
船頭と身振り手振りで交渉をした。先ずチャオプラヤ川を遡上し、上流に向かって左岸側にある迷路のような水路に入り、結構なスピードでぐるぐると水路巡りをした。
今度はチャオプラヤ川を横切り右岸の水路に入り疾走した。ボートからの水上風景を楽しみから縦横に巡った。時にスピードをゆるめ、
水路沿いに建つタイの伝統的家屋や小さな寺院などをじっくりと眺めた。はじめてゆったりと水郷風景を満喫した。その後、
「王立御座船博物館」専用の船着き場に接岸した。国王の公式行事などに使われる5~6艘の細長い船がスリップウェイから陸揚げされ、
屋根付きの大型保管場に展示される。いずれの伝統的タイ式のボートにも、タイ独特の船首飾りが施されている。船首にはヒンドゥー
の神々の化身である動物などの造形が据えられる。神の権化を象る動物の船首像が取り付けられるユニークな船である。うち一艘は
国王が座乗するという、黄金色の煌びやかな小館を備えた御座船である。
その後再び、チャオプラヤ川を遡上し、右岸側の迷路のように入り組んだ水路に入り込んだ。そして、その先にある水上マーケット
を探訪した。その界隈は、バンコクらしい情趣が溢れ、その風物詩を味わえるところであった。新鮮な野菜や果物、花、日用雑貨品などを満載した
オープンボートで溢れていた。船上でいろいろなタイ料理をコンロで調理して販売するボートなどが、その
水上マーケットの岸辺に横付けしている。マーケット内で買い物したり食事を取るお客を相手に、売り子が船上から商売に精を出している。
そんなボートがマーケット周辺の水上にひしめき合い、数多の庶民らで賑わう。水上マーケットはタイの原風景の一つであろう。
時に陸に上がってマーケットの岸辺から、あるいは水上ボート上から、彩り豊かな原風景を切り撮った。トロピカルフルーツを満載したボート
はさすがに原色に彩られ美しいものであった。
チャオプラヤ川を遡上しては左岸沿いの史跡に立ち寄り、また下っては右岸の船着き場にボートを寄せて史跡に上陸した。
5~6艘ものバージを連結した曳船が上流へ下流へとひっきりなしに通過して行く。貨物を満載しているがゆえにバージの舷縁
ぎりぎりまで沈み込んで、水がハッチのすぐ傍まで被さってきそうである。曳船には洗濯物が満艦飾のように干される。
中には、曳船の船内後部で女性が食事の支度に忙しく立ち回っている。船頭らの家族生活の匂いを振りまきながら遡航して行く。
時に橋のたもとでチャーターボートから下りて、橋の中央上部に陣取ってカメラを構えた。曳船が何十艘っもの連結バージを
ヘビがはうかのように曳航して、橋下をくぐり抜けて行く姿を切り撮った。バージで活気に溢れるチャオプラヤ川風景をじっくり眺める
ことができ、これで明日シンガポールに向かう心の準備ができた。
成田で搭乗したタイ航空と同じキャリアでバンコクからシンガポールへと向かった。目途はシンガポール屈指のリゾートアイランドである
「セントーサ島」の「海事博物館」の見学と、シンガポール海峡の横断であった。
セントーサ島に渡る手前の本土側に大型クルーズ客船ターミナルがあるが、その界隈をたむろして土地勘を養った後、コーズウェイを
歩いて(ロープウェイで渡る手もある)アイランドへ渡った。アイランドはその島丸ごとリゾート地となっていて、多種多様の娯楽施設が島中に散りばめられていた。真っ先に
「海洋博物館」に向かった。だが、完成間近ではあったが未だ建設途上にある様子であり、オープンしていなかった。てっきり
オープンしているものとばかり思い込んでいた自分に腹立たしかった。ではあるが、シンガポールにいつしか戻る理由ができた。
次回の楽しみということにした。せめて水族館だけでも見ておこうと、次のターゲットに向かった。
水族館巡覧後、アイランドをほぼ一周してみた。人工の砂浜海岸なのであろうが、白砂青松の美しいビーチを通りかかった。
ビーチの地先沖には、白砂が波で削り取られないようにするため、離岸堤のような構造物が築かれ、
景色を遮っていた。しかし、その間隙から沖合の海を見通すことができた。少しは、大型貨物船などが停泊するのが垣間見えた。
シンガポール港の外港の一部である。市民らが浜辺で海と戯れる情景を暫く眺め、一息入れた。
その後、アイランドの中央部にある丘に登り、ほぼ360度見渡した。アイランド東端沖の埋立地には石油貯蔵・精製コンビナートが
配され、その沖合いには数多くの大型船が停泊していた。まさにシンガポールの外港である。眼前の180度の視界
にはシンガポール海峡が横たわっていた。その視界のどの辺りに海峡のシーレーン(分離通航帯)が走っているのか分からなかった。
アイランドの西端から例のコーズウェイを臨むところへ場所を変えてみた。広大なコンテナヤードの埠頭には数え切れないほどの
ガントリークレーンが並び、そのエプロンには数多のコンテナがうず高く積まれていた。香港のコンテナヤードの規模には及ばない
印象であったが、東京港や神戸港のそれとは比較にならないほどの大規模さであった。
JICA奉職の駆け出しの頃、1970年代後半に「シンガポール港湾公社」の10名ほどの研修員が視察に
来日し、東京・横浜などのコンテナターミナルに案内し、その運営管理実務に関する技術研修をお世話したことがある。それから
30年ほど経た2011年のこと、シンガポール港は日本のどの港よりもコンテナ貨物取扱量が大量であり、むしろ世界有数となっていた。
中国・韓国・シンガポールに押され、日本の港は相対的にローカルなもの、フィーダー港になってしまったようだ。時代の流れ、
産業構造の変化、戦略と政策の如何によって、国家の殖産の景色が異なるものになるか、「セントーサアイランド」から
見下ろしてしみじみと感じた。
その後、市街地に戻り、シンガポール川河口付近の川沿いのプロムナードを散策した。英国東インド会社の社員であった
英国人トーマス・スタンフォード・ラッフルズが1819年に丁度この河口付近への入植に目を付けたという場所である。
お上りさんになって、水を吐く「マーライオン像」まで足を伸ばし、その対面に例の船形ホテル「マリーナ・ベイ」を眺望することにしたのが災いして、
近傍にあった「シンガポール歴史博物館」への訪問を見逃してしまった。「像」より「館」であるべきであった。今回「海洋博物館」はまだ建設中で訪問できなかったが、
いつか機会を見つけて立ち戻りたい。
シンガポール海峡横断は後回しにして、翌日電車でマレイシアとの国境に最も近いウッドランズ地区にある国境の駅まで出向いた。
そこからマレイシアのジョホバル行きの国際路線バスに乗り込んだ。両国を隔てる国際狭水道(ジョホール海峡)を渡すコーズウェイをバスで横断し
国境を越えることにした。パスポートコントロールは馬鹿でかい建物内にあり、バスは、たくさんあるバスレーンの一つに滑り込んだ。
どのバスも満員の乗客であった。乗客は2階にあるパスポートコントロールに駆け上り入国手続きを終えた後は、その先にある階段
から1階バスホームに下り、そこで再びバスに乗り込みジョホバルに向かうはずであった。だが、パスポートコントロール通過後、
反対側から来る大勢の人流の中で方向感覚を失ってしまい、再乗車のためのバスホームを見失い、結局体内コンパスが全く狂ってしまい迷子になってしまった。
兎に角、出入管理エリアでの人流は半端ではなかった。ラッシュ時のJR新宿西口改札口周辺のような雑踏であった。
迷子になった私は、ついに国境警備官のお世話になって、ようやくジョホバル行きのバスホームに辿り着き国境を脱出することができた。
毎日数多のマレーシア人がシンガポールとの国境を越え出入りしている。経済力の落差を垣間見た。
さて、ジョホバルから定期長距離高速バスでマラッカへ向かった。パームオイルを搾油するのであろうか、バスは椰子の樹林がどこま
でも続く田園地帯を貫通するハイウェイをひたすら北上した。
昔から西インドのマラバール海岸のゴアなどは胡椒などの香辛料の集積地として大いに繁栄していたが、マラッカも東西世界を繫ぐ中継貿易基地と
して同様に栄えていた。マラッカへ最初に来航した西洋人はポルトガル陣であった。バスコ・ダ・ガマがはじめてマラバール海岸へ
到達し、ポルトガルからアジアへの航路が拓かれた。その後、ポルトガルがゴア、マラッカなどを占領支配し、後年ついに種子島まで
流れ着いた。ゴアなどに軍事拠点を設け支配に及んだポルトガルのアルケブルケはさらに東航し植民地支配を押し進めた。
その地がマラッカであった。マラッカは1511年以来ポルトガルによって支配され、1641年までの130年間ポルトガル植民地統治下にあった、
だが、その後1641年~1795年の約150年間ランダ人による支配へと取って代わった。さらに、1795年~1957年の次の約160年間英国が
マラッカを占拠し地植民支配を続けることになった(1941年~1945年日本占領統治)。16世紀以来4世紀によぼぶポルトガル、オランダ、
英国による植民地支配の足跡が、旧市街地に建つ教会跡や要塞跡などの歴史的建築物として遺されている。
何をさておいても先ずは、ナオ船の「ラス・フローレス号」という復元船が鎮座する「マラッカ海洋博物館」を探訪した。
じっくりと船内を上から下まで隅々まで巡覧した。同じ敷地内には、海洋歴史文化的な文物を展示する博物館がある。規模は小さいが、
マレーシアの伝統的な船の模型や胡椒、シナモン、丁子などの香辛料のマラッカの大航海時代の交易史をジオラマ風に再現・展示する。マレイシアは
かつてバスコ・ダ・ガマが喜望峰を迂回しインド洋を横断し、インドのマラバール海岸のゴアに到達後、ポルトガルのアルケブルケが
ゴアを占領し、さらにマラッカを占領し、支配下に置いた。16世紀以来4世紀に及ぶポルトガル、オランダ、英国による植民地支配の辛酸をなめた。1941年~1945年日本にも占領統治された。
博物館入り口の銘板には「政治的独立なくして国家の存立はなし」という、自国民に対する歴史的教訓が刻まれ、訪れる国民に
訴えている。
博物館を皮切りに、マラッカ市街地を足が棒になるまで一日中駆けずり回った。「マラッカ歴史博物館」、「国立民俗博物館」、
「セント・フランシス・ザビエル教会」とその敷地内に建つザビエルとその従者(日本人)の像、「サンチアゴ要塞」とその丘上に
建つ廃墟同然の「セントポール教会」跡・墓石とザビエルの立像、オランダのコロニアル風建物が遺る「オランダ広場」や「スタダイス」など、
目ぼしい史跡は何でも巡覧した。旧市街地にはその他、大勢の華僑とその子孫らがかつて住んでいた街並みが遺される。今では
旧市街地がユネスコ世界遺産に登録される。そんな市街地の中心部に「鄭和の文化資料館」があり、そこで初めて鄭和関連の海洋
文化施設を満を期して訪れた。明の永楽帝の時代に、彼の命により大船団をもって何度も南海遠征を行った。遠く紅海のジェッダやアフリカ東岸諸港まで船団を
派遣したとされる。鄭和提督の生い立ち、遠征航海の歴史、諸国の使節団が永楽帝に謁見するジオラマ、7回にわたる鄭和の航海の
足跡を展示する。遠征途上において各地に遺した、あるいは遠征ゆかりの諸都市について紹介する。
さて、マラッカから逆ルートでシンガポールへ戻った後の最後の冒険が待っていた。国際高速フェリーでマラッカ・シンガポール
海峡を横断し、対岸のインドネシア領バタム島との間を往復することである。東海大学海洋学部山田教授によれば、バタム島やその
周辺の島は海賊島と呼ばれ、海賊を生業にする島民が現在も暮らしているという。その真偽の程は別にして、まず海峡における船舶通航の
錯綜ぶりをこの目でじっくりと観たかった。シンガポール海峡を船で横断し、船上からこの目で一度は見たいと、国際高速フェリーで対岸
のインドネシアのバタム島へ渡った。大型の船舶が数珠つなぎになって双方向に航行する様は圧巻であった。フェリーの船尾デッキ
からずっとその行き交う船舶を眺めていた。短くもあるが、まさに「海のシルクロード」の重要なエリアを踏査する旅であった。
シンガポール海峡は、ジブラルタル海峡に劣らず最重要な「国際海峡」(国際の航行に利用される海峡)である。1970年代の第三次国連海洋法会議では、世界に
100ヶ所以上ある「国際海峡」にいかなる通航制度を制定すべきか、米ソをはじめ、欧米や日本などの先進海洋諸国と、中国など
の当時の発展途上国で構成される「グループ77」とが、200海里排他的経済水域、国際海底資源の管理などの他の重要法制と絡めて大いに
議論が沸騰し、国益と安全保障をかけた交渉が繰り広げられた。
シンガポール、マレーシア、インドネシア、その他の重要な国際海峡を抱える海峡国は、国際海峡が24海里以下の場合は、
国際海峡が沿岸国の領海下に置かれる限り、自由な通航 (軍用機の上空飛行の自由、潜水艦の潜航通航の自由など)ではなく、
従前から領海において認められる無害通航とすべきと強く要求した経緯がある。他の多くの重要問題とのパッケージディールであったので、
包括的な妥協が図られ、現在の「通過通航」という特別な制度を規定する海洋法条約となった。すなわち、公海の自由通航と領海の
無害通航の間の、自由通航に近い「通過通航」制度が盛り込まれた。国際海峡内の領海でありながら、海運国・軍事大国の利益に配慮した「通過通航権」
という特別なレジームで妥協が図られた。海峡国は分離帯を設定するすることができる。日本も海運立国の立場から、また米国の核抑止力に頼る立場からも、
「非核三原則」と抵触しないようにする配慮の下、特別な制度を津軽、宗谷、大隅の3国際海峡に設定し、今に至る。
海峡を渡海するフェリーから海峡横断中ずっと海を眺め続けた。初めて横断してしみじみと海峡の景色に感慨深いものを感じ入った。
フェリーは分離航路帯を横切るに当たって、非常に慎重な航海に専心するように見えた。航路帯に平行して航行し続けながら、両方向から大型船が行き
合わないわずかな間隙を見計らって、一気に横切った。その横切りの時に見た風景は忘れられない。数えてみると、視界の中には
大型船舶7,8隻が縦列一直線をなし、数珠つなぎになって東航あるいは西航して行く様はまさに圧巻かつ壮観であった。
そんな最もビジーな海峡であった。まさに「海峡銀座」と称される海上での錯綜振りに感嘆の溜め息をついた。海峡横断によって、
大型船によるそんな一列縦隊の船団的航行を一度は視認してみたかった。
さて、時はその後5年ほど経た2013年2月のこと、人生の大先輩の森さんとベトナムに旅をした。森さんとはアルゼンチンの国立
漁業学校プロジェクトに3年近くご一緒した。二人ともベトナムも初めての探訪であった。旧サイゴンであるホーチンミンの旧市街地
にある「インデペンデンス・パレス」や「ベンタイン市場」近辺をほっつき歩いた。また、その近くにはトンナイ川の
支流が流れていて古ぼけた河川港の岸壁を何のあてもなくたむろしたり、また近くの歴史博物館などを訪ねたりした。歩き疲れて市場近くの
カフェでベトナムコーヒーをトライした。火の付き具合が悪く飲むに飲めない酷いコーヒーにあっけにとられさすがに店員にクレームをつけて
新しいものに換えてもらった。その後、ダナンへ向かった。ダナンでも海辺を散歩したが、そこでベトナム独特の円形の舟を見かけた。
底が広く浅い丸型の大きな魚籠のような、漁労のため一種のたらい舟といえた。櫂で漕いで少し沖に出る。水漏れしないよう真っ黒
なコールタールのようなもので籠の周りが塗り固められていた。
その後、海岸線沿いに南下しホイアンを目指した。ホイアンにはその昔、日本人町があった。ユネスコ世界遺産に登録される旧市街地
の一角にある「海のシルクロード博物館」を訪ねるのが一つの目途であった。沖合で沈没した船から引き揚げられた多数の陶磁器が
展示されている。館内の入り口ホールには、ジャンク船の模型の他、海底発掘時の写真なども展示される。
ホイアンから少し内陸部にある「ミーソン遺跡」をも訪ねた。その後フエという古都に移動し、市内の宮殿跡やホーチンミンの生家
などを観て回った。フエから首都ハノイに移動した後は、ベトナムのカオス的な雑踏風景に溢れる街並みの一角に宿を取り、ハノイの
原風景が色濃く遺る旧市街地に身を埋めた。翌日ハロン湾へのバスツアーに参加した。同湾での見どころは、誰もが知るように、中国の桂林を描いた
山水画を思い起こさせるような、いわば「海の桂林」を遊覧船で周遊した。静穏な湾内に、絶壁の岩がそそりたち、その上部には
緑豊かな樹林の冠を頂く大小無数の島々が林立する。この世の風景とは思えないような、まさに龍が口から吐き出した火の玉が
冷えて絶壁の島に変成したかのような海風景であった。
時は随分遡るが、35年ほど前の水産室勤務時代を含め、何度かインドネシアへ出張した。週末を利用してジャカルタ
北部の旧市街地コタ地区やその近辺の港湾地区の一角にある魚市場「パサール・イカン」の近くにある「海洋博物館」を探訪したことがある。
インドネシアはかつてオランダの植民地であったが、その東インド会社の倉庫を活用したものであった。
館内にはインドネシア各地の実物大のカヌーや帆掛け漁撈船などが展示されていた。その他めったに足を踏み込めないニューギニア島
(恐竜のような形の島で、東半分はパプア・ニューギニア国で西半分がインドネシア領)の西イリヤン・ジャヤに出張したことがあった。
現地調査に入った折に、地元の郷土博物館に立ち寄ることができた。様々な美術工芸品などの他、地域で使われる伝統的漁具や、
実物大・模型サイズの漁撈船など貴重な陳列品を拝観することができた。
かくして、南シナ海やマラッカ・シンガポール海峡周縁の幾つかの諸都市に出掛けた折に、たまたまの通りすがりに、海や船に
まつわる風景に身を置くことができた。「海のシルクロード」に関心をもち、海・船にまつわる歴史文化などに関心を深め、それら
を学び続けるきっかけをもたらしてくれた。海洋辞典をビジュアルにするてmの数多くの画像を切り撮ることもできた。
「海のシルクロード」を構成する諸地域への旅を続けながら、それらの海・船の歴史文化事情を学び統合・連環させて行きたい。
さて、豪・タイ・シンガポール・マレイシア・インドネシアへの海と船を訪ねる旅は、日本近辺へと視線を移すことになった。
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