1
2
3
4
拡大画像1/拡大画像2/
拡大画像3/拡大画像4
2007年9月のニカラグア着任当初には、通勤の足となるマイカーもなく、また何をするにも勝手が分からず要領も得なかった。その日のうちに
やるべき用足に向けて一直線にアクセスし、最短時間でやり遂げようと心だけは焦りがちであった。だが、要領よくは行かない
もどかしさがいつもつきまとった。一つの用足しをするのに、気が付けば半日、時に一日掛りとなることも多かった。
とは言え、着任後数か月を経てようやく仕事にも慣れ、少しは先々を見通しながら先手を打って仕事に取り組めるようになった。
別の言い方をすれば、ニカラグアで仕事をこなすための知恵や慣れだけでなく、「生きる」ための私生活上の知恵や慣れも徐々
に蓄積され、仕事と生活の両面で格段に余裕や落ち着つきが生まれるようになって来た。丁度その頃のこと、海風景などを求めて近隣国へ私的な旅
に出掛けたいという意欲が自然と湧き始めていた。さて、国外へプライベートな旅に出るのであれば、何を差し置いても真っ先
にパナマに出掛けようと固く心に決めていた。
青少年の頃、南米航路やニューヨーク航路の船乗りになることに憧れていたことは何度か触れてきた。パナマ運河を通過した後、
南へ針路を取って、世界三大美港の一つと謳われたリオ・デ・ジャネイロ、ブラジルコーヒー積出港として名高いサントス(サンパウロの外港)、そして南米のパリと称されるブエノス・アイレスへ向けて航海することに強い憧れがあった。
あるいは、針路を北へ取って摩天楼がそびえるニューヨークに入港し、非番の日にはエンパイアステートビル界隈のビジネス街を闊歩し、
アメリカ文化を肌で感じてみたいと、単純ながらの強い憧れを抱いていた。だが、高校三年次にその夢はあっけなく破れ去り
船乗りになリ損ねた。
だがしかし、いつの日にかこの目でパナマ運河を見てみたいという強い思いを心の引き出しにしまい込み、そのチャンスが巡って
来る日をずっと待ち続けていた。我ながら、何という執念かと驚くほどである。子どもじみているかもしれないが、パナマ運河探訪は
そんな長年の想いの末のことであった。少年時代から既に45年ほどの時が経っていたが、ついに運河を探訪できるその日がやって来た。
ニカラグア着任から5か月を経た2008年1月にその旅を敢行した。週末をはさんでわずか3泊4日の旅であった。たとえ数時間であっても、
運河をこの目で見ることができれば本望であった。ニカラグアからパナマの首都パナマ・シティーへのフライトは短かった。
日本を起点にした空旅だと最低20数時間はかかろうが、ニカラグアを起点にすればほんの数時間足らずであった。
パナマ・シティーのホテルにチェックインした後、すぐさま外出の身支度を整え一目散にロビーへ下りタクシーに飛び乗った。
向かったのは「ミラフローレス閘門」である。車窓を流れる市街地の景観を子どものように興味津々の思いで眺めた。
パナマ運河建設以来築かれてきたアメリカ的繁栄の香りがぷんぷんと漂っているように見受けられた。タクシーは市街地を通り
抜け、緑豊かな亜熱帯ジャングルへと踏み入れた。徐々に、「ミラフローレス閘門」の気配を肌で感じつつあった。
そして、思いがどんどん高揚し、心臓の鼓動が飛び跳ねるのを抑えきれなかった。
ふと前方正面を眺めると灯台のようなタワーが見えた。ミラフローレス閘門へと向かってアプローチして来る船舶が航行上の
物標にする何らかのビーコンに違いなかった。車窓を流れる樹林の隙間から、運河の水面や閘門の姿を捉えようと目を凝らした。
かくして、巨大な2レーン式の閘門システムを擁するミラフローレス閘門の広大な敷地内へとタクシーは滑り込んだ。そして、
4階建てくらいの「ビジターセンター」の前で降ろされた。
さて、やおら周りの景色を見渡し、オゾンに溢れる新鮮な空気を何度も大きく吸い込んだ。写真では何度もお目にかかってきた
「ミラフローレス閘門」を擁する大地に立っていると思うと、感激で武者震いしそうな心境にあった。鳥肌を立てたまま暫し佇んだ。再度
深呼吸をした後、やおらセンター屋上へと向かった。
屋上からは閘門エリア全体を視野に収めることができた。屋上は見学者のためのいわば「特等席」である。見晴らし抜群の屋上
に出て先ずは閘門エリア全体を見渡し、目がその景色に完全に慣れるまで気持ちをじっくり落ち着かせた。視界180度のダイナミック
なパノラマビューが眼前に広がっていた。閘門全体の迫力満点な風景があたかも超大型映画スクリーンに投影されているかのように
錯覚してしまうほどであった。
「これだ! まさにこれを見たかったのだ!」と、心の中で叫ぶ少年のような自分がそこに立ち尽くしていた。感激がこみ上げてきて、
踊り跳ねたくなるような衝動を覚えた。思い憧れてきた風景を目の前にして涙が溢れそうであった。生きているうちに一度は見たいと
いう、大よそ半世紀にならんとする積年の思いがついに実現した瞬間を噛みしめていた。
「諦めなくてよかった」。夢を持ち続ければ何時かは実現する日もきっとやって来ると確信した瞬間でもあった。その後は、
時間の経つのも忘れ、眼前で繰り広げられる大型船舶の「ミラフローレス閘門」通過のオペレーション風景としっかり向き合い続けた。
屋上から眺めると、「ミラフローレス閘門」には船が往復通航できるように2本の通航レーンが設けられていることが
よく見て取れる。向こう側のレーンには、カリブ海側からやって来て太平洋へ抜ける大型クルーズ客船や日本船らしき自動車運搬船などが
通過していた。手前のレーンでは、太平洋からカリブ海へと向かう大型貨物船、コンテナ船などが第1閘室(チャンバー)で暫く留まり、
その後段取りがつくと微速前進で次の第2閘室へと移動して行く。さながら、船舶通過シーンをスローモーション映像で眺めているようであった。
閘門の1レーンは連続した3基の閘室からできている。さて、閘門では「水の階段」を2段上って通過して行くところをじっくり観察した。
通航観察のことをもう少し具体的に詳述してみたい。太平洋側から一隻の大型タンカーが、アプローチ水路をゆっくりと第1閘門に向け
て進んできた。遥か遠くのことでよく見えないが、何隻かのタグボートがタンカーの舷側に張り付いたままである。
何やら作業をしている。多分、巨大船を最初の閘室へ上手く押し込むための事前の調整作業をしているのであろう。
第1閘室の最後端(通過する船の左舷側)からは一本の細長いコンクリート製突堤が突き出ていた。第1閘室へ寸分の狂いもなく
巨船をその閘室側壁に沿ってぴったりと平行を保ちながら押し込めるための誘導施設(突堤)なのであろう。
タンカーは、その突堤に沿いながらゆっくりと第1閘室へ進入してきた。タンカーの舷側が閘室側壁に接触しないように、まるで定規に
絶えず平行的に、しかも一定の隙間を保持しながら、全く無音のままゆっくりと慎重に滑り込もうとしていた。だが、それは多分に
想像してみただけのことである。
どんな細かいオペレーションが行なわれているのか、遠くのことであり、またタンカーは第1閘室手前の最低水位の位置(即ち海水面と
同じレベル)に留まっているので、隠れて見通せない部分も多く、また細かい部分や作業までははっきりと見て取れなかった。
第1閘室側壁とタンカー舷側との間にどの程度の隙間が保持されているのかどうかも、屋上からは全く分からなかった。恐らくは
1メートルもないほどであろう。
タンカーは第1閘室に滑り込むと、間もなく船尾側の観音開き式の扉(ゲート)が閉じられたようだ。次の第2閘室から第1閘室へ
と水が自然落下方式(重力式)で注入され始めたと思われる。タンカーの船体が徐々に浮き上がって来たことで、その注入が
進んでいることが見て取れた。
第1閘室に留まるタンカーの舷側は殆ど見えなかったが、浮上に伴い少しは見ることができるようになっていた。
両閘室の水位がしっかりと平衡になったのであろう、第1閘室の船首側の観音開き式ゲートが開かれ、タンカーはゆっくりと
第2閘室へと前進し、音もなく滑るように移動してきた。タンカーはビジターたちの眼前で止まった。
次いで、タンカーの船尾側の扉がゆっくりと閉じられて行く。そして、次の第3閘室の水が第2閘室へと注ぎ込まれ、タンカーは再び
ゆっくりと浮き上がり、見学者たちに向けてフルにその巨体全体を見せ始めた。第2閘室と第3閘室の水位が平衡となったところで、
船首前方の扉が開かれ、船は再び前進し、第3閘室へと滑り込んだ。船尾側の扉が閉じられ、次に第3閘門の前方扉が開かれ、
すべてのロープが解き放たれ、タンカーはゆっくりと「ガトゥン湖」方向へと微速前進して行った。
こうして「水の階段」を2段分、約18メートルほどの高低差を上り切った。次に目指すのは、数キロメートル先の正面に
見える、2閘室からなる一段昇降式水階段の「ペドロ・ミゲル閘門」である。大型タンカーの昇降と通過の様子を
まるで子供のように飽きもせず眺めていた。
ところで、「ビジターセンター」内には運河建設の歴史や技術に関する展示館が開設されている。パナマ運河建設当時の工事の
様子を紹介する写真やパネル説明の他、「ガトゥン湖」や3つの閘門システムと通航レーン・航路標識を含む、運河全体の
大きなジオラマ展示などを観ることができる。それらの展示を通じて、建設の歴史、運河周辺の自然環境、閘門の基本構造、建設に
用いられた開削技術などを学ぶことができる。建設労働者がマラリアや黄熱病などの熱帯性感染症の罹患に悩まされ、多くの犠牲者を
出したことは、同館の展示を通して詳しく知ることができる。
フランス人のレセップスはかつてスエズ運河建設で培った経験を生かしてパナマ運河を建設しようとした。だが、その努力の甲斐なく、
彼の運河会社はついに財政破産に追い込まれた。完工させることなく工事を途中で放棄するに至ったのは、当時にあっては治療法が全く
解明されていなかったマラリアなどの亜熱帯特有の熱帯病による犠牲者が続出したことも大きな要因であった。
エジプト・スエズ運河の砂漠地とは異なる亜熱帯ジャングルの自然条件など、その想定外の悪条件に酷く悩まされたところが大であった。
展示ではその史実に大きな焦点が当てられていた。
紆余曲折の末1904年に建設を引き受けた米国は、先ずは建設現場の衛生環境の改善を図ることで、当時原因不明であった熱帯病を克服
しようと闘った。その闘いは困難を極めたが、蚊の発生源の抑制対策が病気蔓延に有効ではないかと考えられ、徹底的に水溜り除去
などの措置が執られた。その結果、蚊の発生とマラリア罹患は徐々に減少したという。
米国は、運河水面と海水面とを同じ高さにする「海面式(水平式)」運河設計を取り止めて、「水の階段」をもって昇降する「閘門式」
の構造設計を採用した。当然、海面式とは比較にならない近代技術が必要とされた。他方、開削工事のなかでも、「クレブラカット(Culebra Cut)」と呼ばれる岩山の開削については極めて難航した。「culebra」とはスペイン語で「蛇」を意味する。さて、建設時におけるさまざまな開削上
の障害を克服するためになされた幾つもの技術開発の発展史についても同展示館で学ぶことができる。特に革新的な技術が組み込まれた大型浚渫船の建造とその投入は注目に値するものであった。
海面式でなく閘門式の運河の場合、船舶が「水の階段」を昇降するたびに大量の水を消費することになる。その水源として「ガトゥン湖」
という人工湖が建設された。大西洋に注ぎ出るチャグレス川が堰き止められ、閘室扉(ゲート)の開閉オペレーションのたびに消費される
水を確保し続けるための巨大な人工貯水湖である。陸地の開削によって水路を建設するだけでなく、人工湖内の航路を浚渫するためにも、
近代技術を装備する大型浚渫船の新規開発が行なわれた。そのことを、同館展示の浚渫船の模型と関連パネルで学ぶことができる。
また、閘室に使用されている観音開き式の扉を復元した、実物に近い巨大構造物が展示されており、閘室扉の基本構造や油圧式駆動技術
などを学ぶことができる。
さて、陽が落ちる前に「ペドロ・ミゲル閘門」を一目だけでも見ておきたいと、センターを後にして数キロメートル先にある閘門
へと急いだ。だがしかし、どうも一般見学できる施設はないらしく、ガトゥン湖畔から遠目に眺望しただけであった。とはいえ、
運河散策の感動はまだまだ続いていた。
「ミラフローレス閘門」をじっくり探訪できたことは大満足ではあったが、実はまだ心残りのことが一つあった。遊覧船で運河
を「半日クルージング」するツアーが週末一回の割合で供されていることは事前に調べて知っていた。それ故、半日コースへの参加を予め想定し、
週末をはさんでの旅程を組んでいた。折角の機会であるから、半日遊覧ツアーに参加できるよう早い段階で旅行代理店と掛け
合ってきた。そして、幸いにも半日ツアー船の乗船券を手に入れることができた。
因みに、一日かけて太平洋側から大西洋側まで3つの閘門全てを通り抜けるというツアー、即ちパナマ・シティからコロンまでの
運河クルーズツアーもあるという。だが、月1回の頻度らしく最初から諦めていた。ところで、遊覧当日は幸いにも最高の晴天に恵まれた。
小型遊覧船に乗船し、「ミラフローレス閘門」を通過し、さらに「ペドロ・ミゲル閘門」や「クレブラカット」、チャグレス川が
「ガトゥン湖」に注ぎ込む河口域などを遊覧した。その後、同湖岸の町ガンボアで下船し、貸切バスでパナマ・シティに帰還する
というものである。
現在のパナマ・シティ中心街の西方に「カスコ・ビエッホ」という旧市街地区がある。スペイン植民地時代には街の中心部であった。今でも
コロニアル風の建築物が遺され、当時の面影を偲ぶことができる。その沖合いにパナマ屈指の週末向けリゾート地となっている島嶼が浮かぶ。
「カスコ・ビエッホ」の少し先にある「アマドール地区」から海に突き出したコーズウェイを伝って、それらの島嶼に渡ることができる。
遊覧船の発着場はその島嶼の一つである「フラミンゴ島」にあった。島嶼の地理的位置としては運河入り口のすぐの沖合にあることから、
それらの島嶼は運河へのゲートウェイ、あるいは物標のような存在といえよう。
そして、コーズウェイは運河の入り口まで誘導してくれる導堤のような存在といえる。翌朝、船会社(または旅行エージェント)が手配してくれた
大型バスに乗り込み別ホテルで待機する乗船ツアー客を次々と拾い上げながら発着場へと向かった。
ツアー船客で鈴なりになった遊覧船は時刻通りに出港して、同コーズウェイ沿いに航行し運河入り口へと向かった。やがて大きな
橋が視界に入って来た。そこで初めて知った。運河入り口を象徴する真のランドマークは、南北両大陸に架けられた「アメリカズ・
ブリッジ(America's Bridge)」であった。(南北アメリカ大陸は、まさにパナマ運河という水路の存在によって物理的に引き裂かれて
いた)。大橋をくぐると、右舷側に「バルボア港」が見えてきた。
バルボア港を通過するとその前方に「ミラフローレス閘門」を遠望することができた。遊覧船の前方には一隻の大型貨物船が先行し、
第1閘室手前のアプローチ水路上に停まっているようであった。豆粒のように見える手漕ぎボートが、貨物船の船尾辺りを漂っていた。
そして、ボートは貨物船から投下されたホーサー(太綱)を拾い上げ、何か作業をしているように見えた。
貨物船の左舷側には、第1閘室後端からこちら側に向けて細長い突堤のような構造物が突き出していた。突堤は数百メートルもあろうかと
思われた。貨物船はその突堤に対して船尾舷側を少し離し気味にして斜めに停泊していた。目をよく凝らして観察した。貨物船を最初の閘室へ
押し込むに当たって、船体全長にわたって船体舷側と閘室側壁との隙間を均等にして平行的に保ちながら誘導するための
構造物であることがようやく見て取れた。即ち、長い突堤は船体と閘室側壁とが平行に保てるようにするためのいわば定規のような役目
を果たしていることに気付かされた。
やがて、何隻かのタグボートによって船尾や舷側(右舷側)中央部を押されて、その突堤に対して平行になるよう押しつけられて行った。ただ
遠くにあり過ぎて、船体舷側(左舷側)と突堤側壁との隙間はどれくらいなのか、50㎝ほどなのか1mほどなのか判然としなかった。想像するに
1メートルも開いていないであろう。
突堤最奥部と接する閘門の岸壁上では、日本製といわれる誘導電動車(ミュール)が、そのホーサーを受け取って船を定位置に
停めようとしていた。即ち、船体を岸壁の側壁に引き寄せ、隙間を均等に保ちながら船体を一旦固定し、そこに停め置くための諸
準備が進められているようであった。だが、遠くのことなので、どんな細かい作業が行われているのかとても判別し難い。
兎に角、遠くから観れば、その隙間は無いのも同然で、船体と岸壁はくっついているようにしか見えなかった。
最終的には、船首・船尾の両舷に配されたミュール4基に各ホーサーが結び付けられ、ロープの張り具合などが調整され、貨物船は船体の
両舷と閘門両壁との隙間を均等に開けながら停め置かれた。
そして、貨物船は突堤や閘門側壁に擦れないようにそろりそろりと微速前進し、第1閘室内へと引き込まれて行った。
我われの遊覧船はその間、アプローチ水路上でホバリングしながら待機していた。
貨物船が第1閘室に完全に入り切ると、遊覧船は間髪入れず貨物船の船尾めがけて同じ第1閘室へと滑り込んだ。私は遊覧船のブリッジ
前方直下にあるオープンデッキの最前列にして、見通しの良いベンチに陣取っていた。貨物船の船尾にほぼぴったりくっつくと、
眼前にはその船尾楼がそそり立っていた。第1閘室に押し込まれた貨物船のすぐ後方にあってホバリング状態にある遊覧船からは、
貨物船の左舷側と閘室側壁との隙間が垣間見えた。
貨物船は全長200mほどもあったので、その隙間の最奥部まで覗き込もうとしても、奥前方は真っ暗なだけで何も見通せなかった。肉眼では、
貨物船の両舷側はまるで側壁にぴたっとくっついているかのように見えた。船尾付近での隙間は50㎝あるかないかのような狭さであり、間違いなく
その狭さ(間隔)で200m先まで均等に保たれているはずであった。
さて遠目からも、第1閘室への実に手際の良い入室作業を観察できた。さすがプロフェッショナルたちのやる「神業的オペレーション」
に脱帽するばかりであった。巨体を側壁に擦ることなく、極わずかな隙間を保持しながら首尾よく押し込められるものだと、その熟練の
作業技に驚嘆するばかりであった。間もなく、遊覧船のすぐの後方で、巨大な観音開き式の鋼鉄製扉がゆっくりと閉じられた。
やはり、遊覧船から見上げる第1閘室の側壁は高かった。アプローチ水路の海水面から第1閘室の天頂までは10メートル近い
高さがあり、鉄壁で囲まれた巨大なプールの中の底部に閉じ込められたような圧迫感があった。鉄壁が覆いかぶさってくるように感じると
同時に、閘室内の最低水位(海水面レベルと同じ)から10メートルほど見上げる空は随分と狭められた感じである。
太平洋の海水面レベルを0メートルにして、それから先ず9メートルほど上昇する必要があった。と言うのも、「ガトゥン湖」の
水位は海抜26メートルほどのレベルにあるゆえである。やがて、前方の第2閘室から第1閘室へと、重力落下方式で水が注ぎ込まれ始
めたようだ。遊覧船の周りの水の動きが激しくなり、水面が泡立ち始めた。閘室内の水位が徐々に上昇し、貨物船と共に遊覧船が
ゆっくり浮上しつつあった。第1閘室の側壁がせり上がってきたこと、そして狭かった空が徐々に
大きく広がってきたことから分かった。水嵩がどんどん増えて、船が持ち上げられてきた証左であった。今まで高く見上げていた閘室側壁がどんどん
低くなって行った。
先行する貨物船の船首部前方は全く見えないが、第1閘室の前方にある観音開きの扉が開かれ、貨物船は誘導電動車「ミュール」に付き添われ
つつ自力で微速前進した。船尾水面にわずかな渦巻と泡の航跡を生じさせながら、次の第2閘室へ無音で滑るように入り
込んで行った。遊覧船は再びその船尾を追いかけて前進し貨物船に再びくっついた。その後、第2閘室の後方扉が閉じられた。そして、
今度は第3閘室の水が第2閘室へと注ぎ込まれ、水嵩がどんどん増し、貨物船と遊覧船は再びゆっくりと持ち上げられた。
第2閘室の低位水面に浮かぶ遊覧船は同じく髙い側壁に囲まれ、空がかなり狭まく感じられていたところ、二隻の船は再び9メートルほど
上昇した。すると、デパートの屋上階に上り詰めたかのように、360度開けたパノラミックな風景が視界に飛び込んできた。
昨日まで陣取っていた「ビジターセンター」の屋上がすぐ眼前にあった。昇降機で地底から地上に昇り詰めたかのように
一挙に視界が開けた。ようやく見慣れた地上界に舞い戻ることができたという感覚である。
今度は、第2閘室後方の扉が閉じられ、第3閘室の水が引き込まれた。そして、両室の水位が平衡となって間もなく、第3閘室
前方の扉が開かれた。これで、第3閘室の水位は「ペドロ・ミゲル湖」と同じレベルとなった。かくて、ミュールからすべての
ホーサーが解き放たれ、貨物船はゆっくりと同湖へ船脚を進めた。こうして18メートルほどの「水の階段」を上り切った。閘門通過の
オペレーション時における作業者らの巧みな熟練の技に魅せられ、声も出ないほどの感動をもたらしてくれた。生涯忘れることのない
素晴らしい初体験であった。
貨物船が次に目指すは4~5km先の正面に見える「ペドロ・ミゲル閘門」である。ここでは「水の階段」を一段だけ昇る。
閘室に入ると後方の扉が閉め切られ閘室に水が注入された。船は徐々に上昇し、閘室内の水位が人工湖の「ガトゥン湖」のそれと平衡に
なったところで、前方扉が開かれ前進した。「ミラフローレス閘門」での上昇分と合わせて、遊覧船は海抜26メートルの高さまで昇り
切った。
その後、遊覧船が狭い水路を辿って行くと、間もなく「クレブラ・カット」と呼ばれる狭水路へと進入して行った。
建設当時、ここが開削上の最大の難所であったという。両岸の岩山の削り跡の山肌を見れば、岩盤のように硬そうな大地が開削された
ことがよく分かる。特に右舷側(東側)では岩山が削り取られ高さ100mほどの切り通しのようになった岩肌むき出しの壁が高くそそり
立っている。遊覧船のデッキからそんな岩山を見上げつつ難工事に思いを馳せ感無量であった。
水路の開削工事では、巨大な露天掘り鉱山のように、地面が段丘状に徐々に下方へと掘り進められ、各段丘テラスには軌道が敷かれ、
トロッコを走らせ、削り取られた土石が運び出された。「ビジターセンター」には、そんな建設当時の工事
現場写真が展示されている。
「クレブラ・カット」を通り過ぎてもなおも狭水路が続いた。さて、反対方向から大型クルーズ客船が遠くからやって来るのを視認した。
3~4万トンくらいありそうな大型客船と狭水路で、しかもかなりの速力ですれ違うのを、遊覧船のブリッジ前のデッキから見上げるのは
刺激的であった。徐々に船影が大きくなって近づいて来るのを待ち受けた。狭水路でのすれ違いはどんな景色なのかと、ずっと目を凝らし
続けた。おもちゃのような遊覧船からすれば、全長150メートルくらいはあって10階建ての巨大ビルのような見上げるばかりのクルーズ船が、
高速で目の前をあっという間に通過して行った。鳥肌が立った。わずか5、6秒ほどあるかないかの瞬間的すれ違いであった。
その後、ガンボアに到着する少し手前で、チャグレス川が「ガトゥン湖」に注ぎ出る河口域にさしかかった。河口にはパナマ地峡横断鉄道の鉄橋が架かっている。さて、船客はガンボアで全員下船し、待機していた迎えのバスでパナマ・シティへと帰途に就いた。
ところで、運河遊覧の時間軸を少しだけ巻き戻したい。遊覧船が「ミラフローレス閘門」に入室する手前のアプローチ水路上でホバリングを
していた折のこと、左舷斜め前方の岸近くの水上に建てられた櫓(やぐら)のような構造物の存在に気付いた。実は、パナマ運河の開通
以来最も大規模にして歴史的な運河拡張工事として、既に「第3レーン」の建設が同閘門のすぐの近傍で着工されていた。
旅中に見かけたその構造物はそのためのものであった。「ミラフローレス閘門」の「第3レーン」のためのアプローチ水路などを
建設するためになされる海底地質調査用と思しき櫓(小型の四脚式掘削リグ)であろうと推察された。
さて、運河通航量の増大と船舶の大型化に適切に対応するため、パナマ運河の代替ルートあるいは既存水路の拡張方法などについて70年代から
模索されてきた。現状では約65,000トンまでの船舶しか通航できなかった。また、当時では年間14,000隻ほどの船舶が約2億7900万トンの
貨物を輸送していたが、いずれは通航需要の限界を迎えることが予測されていた。
運河地帯はかつては米国との条約に基づいて、運河を完工させた米国自身の支配下に長く置かれていた。しかし、1977年にオマル・トリホス将軍
がカーター米国大統領と運河返還などを定めた新条約に調印し、1999年末に運河地帯は米国からパナマへ返還される予定となった。そして、
運河施政権返還の見通しを得たパナマは、米国と日本からの協力を得て、将来の運河需要に応えるために運河計画案
(代替ルート運河建設案、既存運河拡張などの諸案を含む)をあらゆる角度から検討することになった。そして、日米パナマの三ヶ国
で運河代替案を検討する国際委員会が1985年に設置され、その後「パナマ運河代替案調査委員会」が2000万ドルの経費をかけて8年間
にわたり調査することになった。
実は、JICA契約課に勤務(1990年11月~1992年3月)していた当時、「日米パナマ運河代替案調査委員会」は、運河の
あらゆる代替案の比較検討と最適案の提示を請け負うコンサルタントを国際入札をもって選定することになった。日本政府はJICAを通じて、
同委員会の要請により入札に必要とされる図書一式を作成するという業務を担うことになった。即ち、運河代替案を検討する最も初期
段階にある公式の国際調査と関わり合いをもつことになった。
国際入札でのコンサルタント選定基準、調査実施条件、調査内容、技術仕様書、契約書案などの、日英西語の3ヶ国言語からなる
入札図書一式を作成するものであった。同委員会はそれを基に国際入札を実施し、マッキンゼーなどの国際的
コンサルタントなどが選定された。1996、7年の頃である。日本のコンサルタントも参画した。かくして、通航量の限界が懸念される
現運河に対するあらゆる代替案が比較検討されることになった。
調査は紆余曲折を経た後、現行の2レーン式閘門に隣接・平行して、新たに往復通航が可能な「第3のレーン」を
新たに建設するという運河拡張計画案が作成された。そして、パナマでは、同拡張計画案の是非を広く国民に問うための国民投票が
実施された。パナマ選挙裁判所(選管)の中間集計結果(開票率97.5%)によると、国民の8割近くが賛成し、反対は22%弱で、拡張計画
プロジェクトが承認された。1914年の最初の運河供用開始以来最大規模となる歴史的な工事が2007年に着工され、工事は開通100周
年に当たる2014年に完了するものと予定された。
代替案調査のための国際入札図書作成に関わってからほぼ16年後に当たる2007年に、同拡張工事は実施に移された。2007年にニカラグアに
赴任し、翌年1月にパナマ運河探訪の旅において、偶然にもその拡張工事があちらこちらの運河地点で着手されているところ
を目の当たりにして、胸に熱いものを感ぜずにはおれなかった。拡張工事は計画よりも2年遅れて
9年を費やして完工に至った(2016年6月に竣工・開通した)。当時の計画として、拡張によって貨物通航量は年間約6億トンに倍増する見込みであった。また、当初の工事費は総額52億5000万ドル(約6200億円)と見込まれていた。
従前の運河では通航可能な船舶のタイプとサイズに制約があった。閘室の制約上から、全長294.13メートル超、幅32.3メートル超の
船舶は通航できなかった。また、熱帯淡水満載吃水線は12.04メートルを超えることができなかった。この最大にして限界ぎりぎりの船は
「パナマックス船」と呼ばれた。そして、この限界を超える船は「ポストパナマックス船」と呼ばれていた。
拡張閘門、すなわち「第3レーン」とその新閘室が完成した現在では、新閘門を通航できる船舶の大きさの上限は、
全長366メートル、幅49メートル、喫水15.2メートルである。当該限界ぎりぎりの最大コンテナ船は「ネオ・パナマックス船」と呼ばれる。
因みに、その新閘室の大きさは、長さ427(304.8)メートル、幅55(33.5)メートル、深さ18.3(12.8)メートル(カッコ内は既存の閘室
の大きさ)である。コンテナ船について言えば、20フィートコンテナ積載換算で14,000個のコンテナを積載する船舶をも通航
させることができる。
拡大画像
新旧閘門の大きさと通航可能最大船舶の大きさ。
* 「パナマックスサイズ」の船舶(既存の閘門を通航可能な最大の船):
長さ294.13m、幅32.3m、喫水12.04m
なお、既存の閘室の大きさ: 長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8m
* 「ネオ・パナマックスサイズ」の船舶(新閘門を通航可能な最大の船):
長さ366m、幅49m、喫水15.2m
なお、新閘室の大きさ: 長さ427m、幅55m、深さ18.3m
拡大画像
新旧閘門の大きさと通航可能最大船舶の大きさ。 [拡大画像: x27488.jpg]
* パナマックスサイズの船舶(既存の閘門を通航可能な最大の船):
長さ294.1m、幅32.3m、喫水12.04m
なお、既存の閘室の大きさ: 長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8m
* ネオパナマックスサイズの船舶(新閘門を通航可能な最大の船):
長さ366m、幅49m、喫水15.2m
なお、新閘室の大きさ: 長さ427m、幅55m、深さ18.3m
余談だが、米国による1900年代初期におけるパナマ運河建設において、青山士(あきら)という青年技師が日本人では唯一その
工事現場に立ち設計作業などに携わった。彼はパナマから帰国後、「荒川放水路」建設の責任者となった。そして、放水路を開削・完工し、また
「赤水門」(現在は「青水門」に取って代わっている)を建設した。今では荒川の本流は「荒川放水路」を経て東京湾へと注がれる。
かつての荒川は現在「青水門」を経て荒川分流・隅田川となって東京湾へと流れ下る。私の生活圏である埼玉県川口市をかすめながら流れる荒川
の堤防からそれらの水門がよく見える。運河工事での青山技師の活躍のことを知ったのは、ニカラグア赴任から帰国して暫くした後の
ことであった。運河絡みで何かと不思議な縁を感じる。
さて、運河遊覧を終えた翌日、もう一つの体験をしたくて出掛けた。それはパナマ地峡を横断してカリブ海に至る陸上ルートを辿る
ことであった。人工湖「ガトゥン湖」が存在しなかったスペイン植民地統治時代には、地峡横断のため数多くのスペイン人がチャベス川を遡り、
ジャングルをかき分けて「南の海」(マゼランによって「太平洋」と名付けられる以前にスペイン人征服者らによって認知されてい
た海)へと向かった。そして、「カミーノ・レアル(Camino Real)」(スペイン語で「スペイン王の道」を意味する)という地峡横断の道の
建設や、パナマ・シティという南米新大陸征服への足掛かりとなる都市を築き上げた。
パナマ・シティーはスペイン本国と南米大陸との交易中継基地の一つとなった。ピサロらのスペイン征服者はアンデス山脈を南下し
ペルーへと侵攻しインカ帝国を滅亡させた。南米における金銀財宝は、ペルーのリマ、パナマ・シティーを経て、さらに地峡横断ルート
「王の道」を通って大西洋岸の港町ポルトベロへと運ばれた。ポルトベロから船でキューバのハバナへ運ばれた財宝は、最後は
スペイン本国が仕立てたガレオン護送船団に積み込まれ、同国南部のセビーリャへと海送された。
そんな財宝輸送と植民地経営の何がしかの足跡が今でも遺されるというポルトベロへ辿り、その史跡風景を記憶に留めたかった。
「ガトゥン閘門」を探訪するために運河のカリブ海側の入り口にある港町コロンに立ち入ることは、これまたJICAパナマ事務所の内規で
治安上の事由で公務以外では立ち入ることを厳しく制限されていたこともあり、コロンと「ガトゥン湖」探索を諦めポルトベロ探訪
とした次第である。コロンブスが初めて中米地峡カリブ海岸沿いに南下および東航した折のこと、ポルトベロ地先の奥深い入り江
で錨を降ろし暫し停泊したことで知られている。
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.