時は少し遡るが、2017年4月に初めて一人で中国本土を旅した。その目途は幾つかの都市の市中とその近郊において「京杭大運河」
本流をしっかりとこの目に焼き付けることであった。第1回目となるその旅は上海から始まった。先ず上海では、創設されて
比較的新しい「上海航海博物館」を見学した。その後鉄路で杭州へ移動した。杭州市中にある「拱宸橋 (きょうしんきょう」
(いわば京杭大運河の南の起点ともいえる)に向かった。アーチ形の伝統的スタイルの歴史的重みを感じさせる石造りの橋である。橋上から水を満々と湛え流れる大運河本流を生まれて初めて眺めた。幾艘もの艀(はしけ)が行き来する雄大な光景があった。また、同橋近傍の
「京杭大運河博物館」も忘れずに見学した。
その後南京へ移動し、明代に7回もインド洋方面(アラビア半島メッカ、東アフリカ諸港を含む)への「南海遠征」を果たした中国艦隊の提督・鄭和(ていわ)にまつわる寺院や博物館などを見学した。幅7㎞以上もある大河・長江に架かる「南京大橋」
(上部は車道、下部は鉄道の2階建て、長さ6.7km、1968年完成)を少し下流に臨むことができる渡船発着場の桟橋に立った。
そして、人とバイク・自転車だけを渡すフェリーで長江(揚子江)本流を往復した。生まれて初めて長江をまじまじと眺めながら渡河
体験に興じた。だが、後で気付いたのだが、当該旅プランでは、渡船発着場からところにあった「大運河と長江との十字路」を思い付かず、
長江をはさんで向き合う揚州と鎮江(ちんこう)(京口は鎮江の旧称である)に所在する閘門を訪ね損ねた。

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南京では、その郊外にある船曳き人のための「宝帯橋」に何とか辿り着き、再び大運河本流の畔に立った。同橋は南京市街地を
四角状に取り囲む「外運河」の外側を大きく迂回しながら流れる大運河本流の十字路にあった。宝帯橋は橋は橋でも運河をまたいで
渡るためのものではない。その昔、運河を行き交う船には動力がなく、帆と櫓櫂を推力としていた。そのため、風が強くても
弱くても十字路を90度しっかりと回頭できるように、大勢の船曳き人夫らが船にロープを渡し、操船を助ける作業を行なっていた。
その作業を円滑に行なう目的で大運河の十字路の片隅に造られたのが、「曳船道」としてのこの宝帯橋である。そこで飽きるほどに
行き交う数多の艀(はしけ、バージ)を眺め続けた。
その後蘇州に移動し、日本でもよく知られる「寒山寺」のすぐ脇を流れる大運河本流の畔に立ち、数多のはしけが行き交う
情景を気のすむまで観察し続けた。実は1990年代末頃に上海に出張した折、週末を利用して「上海第六人民病院」プロジェクトの
関係者と同寺を訪ねたが、当時全く大運河に興味ももたず、寺の敷地のすぐ傍まで大運河本流が通じているとは知らなかった。
晴天の霹靂であった。
かくして、人生で初めて「京杭大運河」なるものの岸辺に立ってこの目にしっかりと焼き付けることができた。だが、わずか
3都市にて大運河を垣間見ただけであり、それはほんの「点」に過ぎず、全く線にもならない探訪であった。大運河は北京・杭州
間1,800kmほどあり、運河を踏査したとは自慢できるような話ではなかった。その後、大運河についていろいろ調べ、第2回目の
運河踏査の旅構想を練り、実現する次の機会を待ちわびてきた。
ところで、中国へは公私にわたり幾度か旅をしたが、中国人の友人との旅であったり、業務出張故に他団員や中国側関係者
と移動を共にしたりして、誰かが先導役になってくれていた。だが、初めての一人旅では当然のことだが、
何から何まで自らの判断の下で単独行動することになり、中国語のできない私にとってはまさに「冒険」というに等しく、失敗や難儀する
ことも多かった。ホテルのベッドで休む時以外はいつも何がしかの緊張を強いられていた。
特筆に値する笑い話のような苦労話や失敗談としては、インターネットを通じ上海や杭州で予約した、格安ホテル
に辿り着けず、止む無く別のホテルを現地で探し求め投宿したことである。その結果丸々3泊分が二重払いになってしまった。
経緯は既に前章(完全離職後の探訪)で記した通りである。
要するに、ネットのグーグルマップ上に示されたホテル周辺の地図を詳細に手書きにして持参し、目途のホテルに辿り着こうとした。
現地ではスマホやパソコンを操作する幾人かの通りがかりの中国人青年らに世話になったりしたものの、結局はホテルを探し出すことは
できなかった。余談だが、2017年当時でさえスマホの一般普及率は日本以上であるという強烈な印象を抱いた。
次回の旅ではまず「スマホ難民」にはなりたくない、十分使いこなしたいとの思いである。少なくとも自身のスマホを
携帯しローミングするか(かなり経費が嵩張るようだ)、SIMフリーのカードを調達し差し替えうまく操作・調整することで
その利便性を確保したい。あるいはレンタル・スマホを持ち込むかである。いずれにせよ、経費も勘案しつつスマホを使い
こなす術をマスターしておきたい。
だが、中国ではグーグルマップが使用不可能らしい。自前のスマホを経費と手間暇かけて敢えて中国に持ち込んでも、旅中真に
どれだけの用足し(何かの予約、目的地や経路の確認、切符などの購入・支払い・決済など)に役立てられるものなのか、
よくわからない。スマホを絶対的に活用せねばならないことはどれほどありうるのか、あるとすればそれは何か。
支払いは現金かクレジットで十分とはいかないのか。事前に学習してスマホの最低限度の利便性を確保して、「スマホ難民」に
ならぬようその活用術に関する知見を蓄えておきたい。
先ずは目的地をはっきりさせて、通訳機能をもつポケトークと、偶然居合わせる中国人青年らの世話になりながら、毎日
冒険するのもありかもしれない(前回は事実上そうなってしまった)。前回の経験を活かしつつ、よりベターな「旅術」を学習し
ながら、中国という異形の国における散策にチャレンジしたい。
一般論としてだが、旅中において何かと要領が悪いと賢く倹約することも難しくなる。学習を積み重ねながら旅術の要領をさらに
アップさせたい。現地では冒険心をもって独り旅を楽しむ余裕が欲しいものである。昨今ではスマホも翻訳・通訳機能付き
ではあるが、ポケトークなどの通訳機の方が手軽そうで必需品になろう。
さて、図書文献などによれば、総距離は1,794㎞とも、2,000km(北京~杭州・寧波)とも言われる大運河。あるいは隋・唐代の
古運河も含めれば総延長は2,700kmとも言われる。そんな運河全てを走破することは到底できそうもない。運河ばかりを
重点的に巡覧して回るに好都合な道路ばかりが整備されている訳ではない。また、杭州~北京間の要所要所において運河を切り撮りながら
全行程を車で走破することなど、今ではそんな冒険にチャレンジできる年齢ではなくなってしまった。2024年現在76歳。また、
今ではそこまでマニアック的にチャレンジする意欲を持ち合わせていない。
三十歳代の若かりし頃、アルゼンチンのパタゴニアの荒野を3,000kmほど家族と車で走破したり、五十歳代前半の頃米国
東海岸沿いに毎日2、3の海洋博物館や海にちなむ歴史文化科学施設を集中的に巡覧しながら何千kmも20日間ほどかけて旅した。
長距離を単独運転して肩こりに悩まされたが、若かったので走破できた。だが今となっては中国大陸を単独で縦断するハードなドライブの旅は到底できそうにもない。
過去に中国に数年でも赴任し、それなりの運転歴があり、土地勘や中国語に十分な心得があるとすれば話は別である。
そうであれば70歳を超える今であっても、1000kmくらの距離を毎日数百kmずつ運河ルート上の要所や運河博物館などの文化施設・史跡
を訪ねながら走破できる自信を持ち合わせているかもしれない。だが、運河沿いの幹線道路やその支線、地方道路やその支脈に全く不慣れなまま、いきなり長距離の巡覧走破にチャレンジするのは、かなり無謀に思えてしまう。それに単独運転では体力と精神面において
相当辛いことであろう尻込みしてしまう。
広大な中国大陸の幹線道路だけを真っ直ぐ走り続けるだけであればまだしも、運河の岸辺などに近づくために支線や田舎道を
行くには余りにも土地不案内である。運河沿いに走行するに当たり、中国でのカーナビがどの程度有用なものなのか知らない
(「百度」のマップが日本語ナビと同じ機能を果たせるのであれば別だが)。それに、中国では数多の監視カメラが設置される社会であるから、地方の田舎道ではともかく、都市部やその近傍での運河やその関連土木構造物(閘門など)を主体に写真撮影するのであれば、公安
関係者の目に留まる可能性も高い。むしろ一般市民からスパイやテロリストと疑われ最寄りの公安
警察などにスマホで簡単に通報されそうである。
スマホの時代では誰彼によってすぐに通報され、即座に公安警察が駆け付け、不審人物として疑われ、挙句に身柄を拘束され
、ついには行方不明にもなりかねないのではと憂慮する。前回の運河の旅では、無数の監視カメラの目による「無言の圧力」や、
全ての鉄道駅舎での手荷物検査の物々しさなどを経験した。昨今における治安維持体制の強化を鑑みれば、理由にもならない理由で
取り調べを受けたり拘束されたりという不安をいつも抱かざるをえない。
さて、次回の運河踏査ではどこをどう巡覧するかがテーマである。前回の運河の旅では杭州、南京、蘇州の3都市のみが対象であった。
また、大運河のごく一部を点として「つまみ食い的に」観察した程度であった。訪問したい大運河の重点ポイント
が数多く残されている。広大な中国のことであるから、大運河沿いの重点都市において運河本流に接近しつつ、運河関連博物館や閘門などの土木施設、さらに歴史文化史跡などを巡観するだけでも、相当本腰を入れないとできないことである。因みに、優先的に訪ねてみたい
具体的な場所・施設などを想定しながら次のような概略ルートを構想してみた。
なお、大運河建設の歴史については、本節末尾に運河建設の歩みを参考用に「史料」としてとりまとめた。中国の歴史をひも解けば、
特定の皇帝・王朝によって、少なくとも3回にわたり、大運河の建設・修復などに関わる特筆されるべき大きな取り組みがあったという。
即ち、春秋時代の他に、隋、元、明の各時代に特筆に値する開削・修復・整備がなされた。それを参考にしながら旅の構想
を描いてみたい。
前回では杭州から南京まで曲がりなりにも踏査できたので、今回は運河重点ポイントが所在する、長江に近接する鎮江・揚州
辺りから踏査に踏み出したいところであるが、大運河の最南の起点と目される「寧波(ねいは・ニンポー)」から出発したい。
だがしかし、今回はできうれば、福建省の「泉州」までは南下しそこを一日でも探訪した後に、寧波を起点に北上することを構想したい。
マルコ・ポーロがイタリアへ帰国する際、「大都(北京)」から船で、運河を寧波まで南下し、
そこから泉州まで恐らく陸路で辿ったはずである。そして、「海のシルクロード」の玄関口である泉州からは外洋船で
海の道を辿り、ジャワ島経由で中近東、イタリアを目指した。
泉州は「晋江(しんこう)」という河沿いに発展し、かつて「海のシルクロード」を辿る出発拠点として繁栄した港町である。
アラブ人、インド人、マレー人などの多民族商人らが行き交い、また居を構えた国際色豊かな交易都市として栄えた。
マルコ・ポーロもこの泉州が大変繁栄した港町であることを書き記している。また、14世紀に泉州を訪れたモロッコの旅人は、泉州には100隻の大型船、無数の小型船が停泊する世界最大の港であると書き残しているという。インド、アラビア半島まで船で交易し「海の
シルクロード」の中国大陸の拠点として栄えた。とは言え、明代には晋江の河港が土砂で埋まり、交易拠点としての地位を最後には
他港に奪われることになった。
泉州を旅の起点とすればかなり遠回りの旅になろうが、泉州の「泉州海外交通史博物館」を一度は
見学しておきたい故のことである。同博物館には宋代に泉州湾で発見され引き揚げられた木造構造船が展示される。幅11m、長さ34mの、隔壁を持つ構造船である。当時西欧にはなかった構造の船である。外板に穴が開いても浸水は当該隔壁内に留まり、船全体に浸水
することがなく沈まない仕組みである。船の積荷として発見されたものは、胡椒、香木、べっ甲などであり、船荷からみて東南
アジアから泉州に戻る途中で沈没したものと考えられている。胡椒は当時ヨーロッパでは金銀と同じ価値ががるとされた貴重な交易品
であった。なお、上海-泉州間はフライトで往復したい。泉州への寄り道が困難ならば別の機会に譲る他ない。
さて、寧波は「海のシルクロード」の中国のもう一つの玄関口といえる。日本からは仏教を学ぶための僧侶、また貿易に従事する
商人らがやって来て、ここから大運河を経て北京などを目指した。市中には「甬江(ゆうこう)」が流れ下る。寧波の市街地で
3つの川が交わる「三江口」はその中心とされ、大運河の最南端にある起点である。また、寧波には世界文化遺産の「慶安会館・浙東
海事民俗博物館」があり、ぜひとも探訪したい。
寧波から紹興を経て杭州へ向かうことになる。紹興は「越」の都であった(BC6年頃~BC334年)。紹興には運河の真ん中に「古繊道」
という板敷きの細い廊下のような通路が作られている。舟が流れに逆らって、あるいは逆風をついて進む時、
舟曳き人が舟から伸ばされたロープを引っ張った。古繊道はそのための用に施された板敷き道(船曳き道)なのである。
1000年以上も利用されていた。
杭州は「南宋」(1127年から1276年)の都であった。今回は杭州には長居しないが、市中を流れる大河「銭塘江(せんとうこう)」
と大運河との交点近傍に所在し、大運河への入り口に当たる「三堡閘門」という施設をぜひ探訪してみたい。南宋代以来、同閘門
から大運河が町の中心部へと伸びる。杭州市中に所在する大運河に架かる歴史ある「拱宸橋 (きょうしんきょう」はさておき、
未だ見ぬ「広済橋」を訪ねてみたい。真ん中に大きなアーチ、左右に2つずつ小さなアーチを擁する、年代の厚みを感じさせる
橋である。橋の袂には「塘栖」という古典的情趣の溢れる賑やかな通りがあるという。
南京へは前回と同様に路線バスで向かうことになろう。そして、長江と大運河との十字路にあって長江南側に位置する「鎮江」
(鎮江の旧称は京口)」辺りからフェリーで長江を横切り、対岸の「揚州」へと辿りたい。鎮江には
大運河所縁の重要な史跡がある。即ち、鎮江には、大運河から長江へ出入りするための閘門「瓜洲船閘」があり、ぜひ訪れてみたい。
現在は使われていないが、元時代の閘門の一つとして遺されるという。その昔管理役人が「水門を持ち上げろ!」という号令の下作業員
が閘門扉を上げていたという。1000年もの間数多の舟が大運河から一隻ずつ順に同閘門を通って長江へと出て行った。また数多の
舟が長江から大運河へと入って行った。大運河の水位は長江よりもずっと高いので、閘門システムで水位を調整していたという。
また、鎮江では、長江の畔にある「北固山(ほっこくさん)」という山に登ると運河を遠望できるらしい。呉の孫権と蜀の
劉備が会談し、共通の敵である曹操を破る策を練ったという場所で、二人の石像が立つ。また遣唐使の「阿倍仲麻呂」の歌碑が立つ。
彼は帰国せず中国で骨を埋めたことはよく知られる。
長江から大運河を伝って揚州の市中へと向かうところに閘門がある。恐らくは、鎮江の町から長江を横切り、当該閘門を経て
揚州の市中に向かう水上バス(タクシー)も運航されていると思われる。その先に「運河三湾」という大蛇行があるらしい。運河が真っ直ぐ
ではなく大きく蛇行・湾曲しており、3つの湾があるような地形となっている。大きく蛇行しているところが湾のように
見えるからであろう。大蛇行は船にとっては回り道になるものの、運河の高低差を乗り越えるためには必要とされる。湾曲に沿って船引き道が遺されているのかもしれない。
その後揚州中心部へと向かう。揚州には16世紀の明代に築造された、八角形で6~7重の「文峰塔」という髙塔が運河の畔に
建つ。高塔から運河や長江および「瓜洲船閘」の閘門などを見下ろせるものと期待したい。揚州の「三湾古運河」(運河三湾)沿いに
あるという、運河をテーマにした総合的な博物館施設の「揚州中国大運河博物館」には是非立ち寄りたい。
ところで、揚州は塩の売買で大いに繁栄したという。旧街の「東関街」には塩商人の栄華を見ることができる。塩で稼いだ大商人は
豪華な庭園造りを競ったという。また、「大明寺(だいめいじ)」という寺があって、鑑真(688年~763年)が住職を務めていた寺と
して有名である。鑑真は日本への渡海に際し何度も遭難しながら、また失明もしたものの諦めなかった。彼はついに753年に渡日し、
759年奈良に唐招提寺を創建した。「鑑真記念堂」には遣唐使舟模型があるという。
次いで、揚州を後にして大河「淮河(わいが)」と大運河との交点にある「山陽」(かつての「山陽瀆(さんようとく)」という
運河の最北部)へと向かう。そこに閘門があるはずである。ところで、揚州から大運河を北上して、「髙郵(こうゆう)」を経て、
「洪沢湖」の東側を通って「淮安(わいあん)」へと至る。淮安は淮河と大運河との交点にある都市である。
さて他方、淮安から淮河の上流へと進むと洪沢湖へ至り、「隋・唐大運河」とも呼ばれる隋・唐代の古運河が「淮北(ホワイペイ)」
方面へと伸びる。淮北市には「隋唐大運河博物館」があり、是非とも訪ねてみたい。古運河は北西へとさらに伸び、「開封(かいふう)」、
「鄭州(ていしゅう)」、洛陽、西安(長安)方面へと通じる。この古運河は、淮北を経て黄河の「板渚」へと繋がり、さらに
板渚から北東方向へと伸び、「永済渠(えいさいきょ)」を伝って「臨清(りんせい)」へと至る。板渚は、隋・唐代の古運河の
一部をなす「永済渠」と黄河との交点にあり、そこに閘門がある。そして、臨清は「京杭大運河」と隋・唐代の古運河の一部である
永済渠との交点に当たる。
淮安-洪沢湖-淮北-開封-鄭州-板渚を経て臨清へと伸びる隋・唐代の古運河は、板渚を屈折点として「"く"字形」をした
大運河であり、「"く"字形大運河」と称されるものである。別名「横"Y"字形大運河」とも呼ばれる。この横Y字形運河とは別に、
古運河の北京への距離的短縮化を図るために、直線的形状の運河の建設により、淮河~黄河間において、さらに北京に至るまで
大運河が開削された。
黄河と臨清ルート上には高地が横たわっていた。そのため、船が昇降するための数10の閘門が建設され山越えをする
土木工事が行われた。その高地の「聊城(リャオチョン・りょうじょう)」や「南旺」などに
ある閘門遺跡などを見学してみたい。その昔、水源地が確保できて初めて短縮運河の南北貫通が実現されたものである。
「"く"字形大運河」沿いの町「開封」(汴州・べんしゅう)や鄭州などにも立ち寄りたい。また、数十の閘門があるという
黄河・臨清ルート地域などへの踏査、即ち聊城、南旺を通る大運河の難所の探訪は興味深いところである。だが、今回
板渚を含めて黄河以北の踏査は難しいであろう。
京杭大運河は髙郵、淮安、宿州、済寧、黄河、聊城、南旺、臨清、徳州、通州、天津などを経て北京へと至る。通州は北京の少し手前に
あり、かつてはここは運河の終着点であり、北京への入り口であったという。だが、その後北京のゴールは、「元の時代から何百年
も太鼓を打って時を知らせてきた「鼓楼」という楼閣の近くにある「万寧橋(まんねいきょう)」と「什殺海」(シーチャーハイ)
である。そこで舟は荷を降ろした。同橋は最後の水門でもある。今回では到底北京までは踏査できず、せいぜい淮河と大運河の
交点のである淮安くらいまでであろう。
もちろん日程的に余裕があるならば、淮北-開封-鄭州-板渚辺りまで、さらに黄河上流の、西安(長安)や洛陽にも足を
踏み入れたい。洛陽にも「隋唐大運河博物館」(Luoyang Sui-Tang Dynasties Grand Canal Museum)がある。いずれにせよ、
訪問地や観たい施設・史跡を厳選する必要ある。特に大河(銭塘江、長江、淮河、黄河など)と京杭大運河との交点および
その周辺には、大運河本流の自然風景や閘門施設などの被写体が多い。要所要所で、それらの交点近傍の髙い建築物(例えば大
運河本流近傍の寺院の仏塔など)から眼下に大運河と船舶交通風景、閘門施設などを見下ろせるところを探したい。
具体的には、寧波、鎮江(京口)、揚州へ、さらに淮安から淮河をフェリーで対岸へ渡り、そこから古運河沿いの淮北、開封
などが探訪したい最優先の地である。だが、対岸へ渡る辺りまではよいが、そこから北上して済寧を経て、黄河との十字路までは
相当ハードな旅程となるであろう。黄河の北域の聊城、南旺辺りの高地を越えるために数多くの閘門が築造されたエリアを経て、
臨清まで辿るのは難しそうである。通州を経て北京の「万寧橋」と「什殺海」(シーチャーハイ)へとゴールするのは、第3回目の
「冒険」にならざるをえまい。
泉州を諦め、寧波ではなく鎮江を起点にして運河を北上するのであれば、少なくとも隋・唐大運河の古運河の経路上にある
淮北、開封、鄭州、板渚辺りまで足を延ばすことは可能なのかもしれない。長安(大興城)、洛陽まではごくわずかな距離となる。
運河ルート上または近傍にある都市や町を選び抜き、運河本流ポイントや閘門などの運河土木施設、史跡、運河博物館などの見学を
考慮した具体的旅程プランを練り上げて行きたい。運河を見下ろせる髙塔の所在も視野に入れて組み立てたい。このプラニングも
旅の醍醐味を構成する重要な一部としたい。
[参考]
「中国京杭大運河博物館」 The Grand Jinghang Canal Museum [杭州市・拱宸橋(きょうしんばし)(京杭大運河の南端
にあたる)の近傍]
展示は「京杭大運河の開削と変遷」、「大運河の利用」、「川沿いの都市と運河の文化」など4つのコーナー。運河に関係する多くの出土品や模型など。運河文化プラザ南側。電話: 0571-88292420。
「揚州中国大運河博物館」 [所在:江蘇省揚州三湾古運河の畔; 春秋から現近代までの運河をテーマにした総合的な博物館]
洛陽の「隋唐大運河博物館」 Luoyang Sui-Tang Dynasties Grand Canal Museum [河南省洛陽市]
淮北市の「隋唐大運河博物館」 [安徽省淮北(わいほく)市; 淮北市は上海から飛行機で徐州へ、徐州から観光バス
で淮北市へ行く].
同大運河博物館には数万点の文物が所蔵されており、内には漢代の銅玉衣、淮北柳孜隋唐大運河跡の出土文物及び
春秋戦国から秦漢期の淮北の出土文物がある。博物館は市役所の向かいにあり、無料で便利。「漢煉瓦」を見えるし、また
運河の発展の概況と江淮地の歴史的起源について知ることができる。
「淮北・ホワイペイ」(徐州の南西40㎞ほど)で運河の埠頭跡が発見された。そこから沈没したとみられる船8隻が出土した。
それらが同運河博物館に保存公開される。全長10mほど、平底の出土船(陶磁器を運ぶ民間の商用船)をもって発掘現場が再現されている。唐時代には大運河は物流を発展させ経済を支える動脈となっていた。唐時代の急速な発展は隋・煬帝の大運河を継承利用すること
でもたらされた。
中国運河建設の歩み・史料
さて、大運河建設の歴史について概略触れておきたい。中国の歴史をひも解けば、特定の皇帝・王朝によって少なくとも3回に渡り
運河の建設・修復などに関わる特筆されるべき大きな取り組みがあったとされる。即ち、主に4つの時代、春秋、隋、元、明の時代に
開削・修復・整備された。先ず、隋・元時代に整備された主要運河の「まとめ」を記しておきたい。
文帝(楊堅・隋の初代皇帝)の整備した大運河
「広通渠(廣通渠)・こうつうきょ」 黄河〜長安(大興城) 584年開通
「邗溝・かんこう」 (山陽瀆・さんようとく) 淮河・わいが(=淮水)〜長江 587年開通
煬帝(ようだい・隋の第二代皇帝)の整備した大運河
「通済渠・つうさいきょ」 黄河〜淮河 605年開通
「永済渠・えいさいきょ」 黄河〜涿郡 608年開通
「江南河・こうなんが」 鎮江・ちんこう〜杭州・こうしゅう 610年開通
元代に開かれた大運河
「済州河・さいしゅうが」 淮安・わいあん〜大清河・だいせいが
「会通河・かいつうが」 大清河〜永済渠・えいさいきょ
.....................................................................
(1)呉王・夫差(ふさ)と邗溝(かんこう)
・ 呉王夫差(紀元前495年?-前473年)は中国春秋時代末期の呉の第7代にして最後の王である。夫差は都を長江南部の蘇州に置いた。
当時長江の北には水路がなかった。夫差は北での覇権を握るために、いわば「戦いの道」として、
春秋時代の紀元前486年、淮河(わいが)と長江とを繫ぐ「邗溝(かんこう)」(または「邗沟(かんこう)」、
後の「山陽瀆(さんようとく)」)と呼ばれる、中国最初の運河を造った。またその他の沟(渠の意味)も造った。
・ なお、魏の惠王は淮河と黄河を結ぶ運河を造った。
........................................................................
(2)秦・始皇帝と運河
・ 秦の始皇帝は、紀元前221年に初めて中国全土を統一した。そして、秦は黄河支流の渭河(渭水)の下流域にある咸陽(かんよう・シェンヤン)
に都を置いた(なお、漢王朝はその南東対岸の西安(長安)に都を置いた)。秦は、紀元前206年にわずか15年で滅亡した。
・ 秦の運河開削の歴史について言えば、秦の政(始皇帝)の「鄭国渠(ていこくきょ)」に始まる。紀元前247年に13歳にして
政(正とも。後の始皇帝)が秦王となった時、鄭国という人物が、関中の黄土地帯を開拓するために渭水(渭河)の支流の水を
引いて灌漑用水を造ることを献策した。結果、完成した用水は「鄭国渠」と言われ、現在も使われているという。
・ また、始皇帝は、紀元前214年に嶺南(今の広東・広西)にある南越を征服すべく軍を派遣した時、華中と嶺南とを南北に結ぶ
「霊渠」という運河を建設した。結果、南海の象牙や真珠などの産物を華北にもたらすことになった。霊渠も現在も使われている
という。
.................................................................
(3)隋(紀元後581~618年)
・ 楊堅(帝号は文帝と言い、隋の初代皇帝; 在位581-604年)の大運河
南北2つに分かれていた隋・陳であるが、隋が581年に300年ぶりに中国を国家再統一した。
全土を統一した隋は、都圏の人口増加を支えるために、都・大興城(文帝は都の長安を大興城と改めた)と生産力の豊かな江南地方
とを結ぶ大運河の建設を開始した。
そして、大興城から黄河に通じる運河(広通渠)などの建設を行った。
文帝はまた、律令制度の整備、科挙の創始による中央集権体制の確立をも行ったことで知られる。
・ 隋・文帝は、584年、長安と黄河とを結ぶ「広通渠(こうつうきょ)」を建設した。隋代で最初に建設された運河である。
隋の都・長安を中心とした関中地方の人口増加に伴う食糧不足を克服するため、黄河につながるこの運河を築造し、
中原(華北平原)で生産される穀物を輸送した。
西安(長安)は13の王朝の都であり、漢・唐の時代に繁栄した。繰り返しだが、長安は人口が多く、また官僚も増えて周辺で作る食糧では不足したことから、この問題解決のために、隋の文帝は584年に「広通渠」を造ったもの。
「漕渠」: 西安市の新合村にその跡が遺る。「鴻溝」: 黄河と淮河の間を斜めに結ぶ。
・ 文帝の587年に、淮水と長江を結ぶ運河「山陽瀆(さんようとく)」を建設した。
・ 隋文帝が整備した大運河
「広通渠(こうつうきょ)」 長安~黄河 584年に開通。
「山陽瀆(さんようとく)」 (邗溝・かんこう) 淮河(淮水)〜長江 587年に開通。
.................................................................
(4)隋・煬帝の整備した大運河
「通済渠(つうさいきょ)」 黄河〜淮河(わいが) 605年に開通。
「永済渠(えいさいきょ)」 黄河〜涿郡 608年に開通。
「江南河(こうなんが)」 鎮江(ちんこう)〜杭州(こうしゅう) 610年に開通。
・ 隋第2代皇帝・煬帝は604年に即位し、すぐさま大運河の建設のための大土木工事を命じた。煬帝は605年に、黄河と淮河を結ぶ「通済渠(つうさいきょ)」を建設した。これによって
江南の物産が長江から長安へと物流することになった。華北と江南地方とを結ぶ重要な機能を果たすことになる。
・ 煬帝はさらに、長江の南岸から杭州に至る「江南運河」を完成させた。長江下流域の揚州と浙江省の杭州とを結ぶ運河なので、
これによって長江デルタ地帯と遠く離れた長安とが水路で結ばれることとなった。運河により長安の民は飢えることなしと言われた。
・ 煬帝はまた、608年には黄河中流と現在の北京付近とを結ぶ「永済渠」を開いた。
高句麗に遠征軍を派遣するために軍事的物資・食糧の兵站のための輸送路として、都・洛陽から北方へ運河を造ろうとした。他方、穀倉
地帯の江南地方まで食料(糧食は税収の一種であるとされた)や必要物資の調達のため、南方へ運河を造り、洛陽を起点に
「くの字形」または「横Y字形」の大運河を建設しようとした。煬帝は完成の翌年から3回に渡り高句麗に派遣軍をもって侵攻した。
しかし撃退され失敗に終わった。
・ 洛陽を中心点としたこの「横Y字形」の運河網が、長安と杭州・北京地方とを結ぶ大動脈となって中国の経済的統一に大きな
役割を果たした。後の元や明・清王朝も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。
洛陽は大運河のお陰で、中原(華北地方)の経済の中心地として栄え、後の宋(北宋)の都となった。
また、洛陽は大運河の起点、即ち北方に伸びる運河(永済渠)と南方へ伸びる
運河(通済渠・山陽瀆・江南河)の分岐点・結節点といえる。洛陽から東へ100kmほどの鄭州(ていしゅう・チョンチョウ)、さらに
東方の開封(カイフォン)へ、さらに南東250㎞ほどの淮北(わいほく・ワイペイ)へと通じる。
黄河・長江を結び、北へ伸ばしては北京へ、南に掘り進んでは杭州に至る全長1800kmの大土木工事をやってのけた。
・ 大運河の建設には多数の人民が徴発された。過酷過ぎる負担が隋王朝の支配への反発や反乱の火種となり、早い滅亡の一因
となったとされる。
「開河記」によれば、至る所から、男だけでなく女・老人・子供など543万余人が集められ動員された。労役を逃れようとすれば
親戚に至るまで厳しく処罰された。工事の過酷な労苦で命を落とした者は250万人とも言われる。別の史料によれば、
600kmの長さを半年で完成させ、延べ350万人が動員されたともいわれる。
・ 余りの大工事に民は疲れはて、運河の完成3年後には各地で反乱が勃発し、兵は反乱を起こした。揚州を好んだ煬帝は洛陽から揚州へ逃避し、
長安を追われて都を揚州に移した。そこで放蕩な遊興三昧にふけって評価を落とした。煬帝の慰めは月見の宴だけであったという。
揚州の運河で女性をはべらしながら遊覧し、派手で瀟洒な船遊びに興じた。「二十四橋」というアーチ型の橋上に
24人の女性を並ばせ楽器を演奏させたという(故にその名がある)。揚州の大運河沿いに大きなレリーフが施されているが、
そこには煬帝が女性に囲まれて船遊びや遊興にふける場面が描かれている。
・ 煬帝は618年に腹心の親衛隊長の裏切りに遭い殺害された。隋王朝はその統一後わずか数十年を経た618年に滅亡した。日本では
飛鳥時代である。なお、2013年に、揚州郊外の工事現場で彼の墓(煬帝陵)が発見された。唐時代になって
造営された煬帝陵からは2本の歯も発見され、「揚州博物館」に厳重に保管されている。
・ 煬帝が築いた運河によって、隋王朝に続く唐王朝の礎を築いたといわれる。揚州の繁栄はその運河の中継点たる地の利をえて
初めて成り立ったといえる。そして、揚州はいつの時代でも大運河の一大重要通過点であり、要衝的地位にあった。
・ なお、運河の町・開封は過去7回も都であった。開封を都にした北宋は、画家・張沢端が描いた「清明上河図」のように繁栄した。
その繁栄に最も寄与した一つの運河が隋・煬帝が建設した「通済渠」であった。唐・宋の時代には「汴渠(べんきょ)」と呼ばれ、
大動脈の役割を果たした。江南地方の食料が開封まで運ばれた。隋の時代、大運河を通じて流通した物資の集積地として開封は賑わった。
宋の時代も開封に都が置かれ、国中の物資が集まり繁栄を極めた。
余談であるが、揚州では、東西に流れる長江と古運河が交わり、その交点から500mほど北に水位を調節する閘門があって、
運河は揚州の町へと通じ、さらに黄河へと伸びる。
・ 揚州にはシンボルタワーの「文峰塔」(8角形にして7階建て、1582年建築)が古運河沿いに建つ。
・ また、揚州は国際貿易の地でもあった。アラブ商人も多く暮らし賑わっていた関係でアラブ人の墓やイスラム寺院もある。
マルコ・ポーロも揚州に来たと「東方見聞録」に記されている。元の皇帝フビライ・ハンの命で彼は3年間揚州で知事を
務めたという。フビライ・ハンは色目人といわれる外国人を登用した。
・ 鑑真は揚州に生まれ、揚州の「大明寺(だいめいじ)」で修業を積み住持を務めた。寺には10段ほどの高塔がある。
遣唐使であった空海は鑑真のことを知っていて同寺を訪れた。また、742年に2人の日本人僧が同寺訪れ、鑑真と日本とを
結びつけるきっかけを作った。鑑真は日本を目指し渡海に何度も失敗したが、ついに日本の土を踏んだ。
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(4)元(1271-1368年)の大運河
・ 元の時代に運河は現在のような姿となった。大運河は政治・経済・軍事・文化交流を促進し国家を統一を促進した。
金と南宋との対立のために中国全土の経済圏は分断されていたが、元朝の成立によって再び統合されることとなった。
そこで再び脚光注目されたのが大運河であった。なお、10世紀の五代十国時代には運河は荒廃した。時代は、北宋から金・
南宋へ移り、さらに13世紀になって元が成立した。
・ 元代における、最短距離で南北縦断する運河の建設のかいしについて。隋の大運河は、長安・洛陽を結節点として、江南と華北
地方を「横Y字形(くの字形)」に結ぶものであったので、元は都・大都(北京)と江南地方(杭州)をより直接的に結ぶことで、
より最短距離で南北縦断する運河の建設を新たに開始した。
かくして、1276~1292年の間にそれを完成させ、現在見るような大運河となった。他方で、元は南方の物資を海上輸送で
華北へ輸送した。その理由は、冬期には大都付近の運河が凍結して利用できなくなってしまうからである。
・ 通恵河(つうけいが)の開削:
元時代に都・大都から南東の通州まで開設された大運河の一部を構成する。1291年に、フビライ・ハンの命で、郭守敬(漢人の技術者)
が設計したもので1293年には完成した。
郭守敬は、大都(北京)の北40㎞ほどの「白浮泉」(昌平県; 龍を模した8の流出口から水を吐く)の水源から水路を「甕山泊」
に導き、そこから城内の「積水潭」に引き込み、南の水門から旧運河に合流させた。旧運河にも10数もの水門を設け、91kmほどの
運河を完成させた。
これによって、従来は通州で荷揚げされていた穀物輸送船などが大都まで直航できるようになった。大都の
「積水潭」は輸送船で大繁盛となった。なお、「甕山泊」とは、現在の「頤和園」の昆明湖の前身である。白浮泉は大運河の最北端
に当たると言える。その南端は寧波である。
・ 既述の通り、隋王朝は、北京~都・長安(西安)~淮河~長江~杭州間を「横Y字形・くの字形」に結んだが、
1271年に北京に都を置いた元朝は、それをストレートにショートカットして北京と杭州とを最短距離で結ぶ運河を建設しようとした。
即ち、北京~現在の山東省・聊城(りょうじょう・リャオチョン)~淮河~長江~杭州を直線的に南北に繫こうとした。
ところが、高地に阻まれた。そこで、山東省の標高のある高地に幾つもの閘門を建設し「水の階段」を建設し、
高地を越えようとした。だがしかし、越えることができなかった。それをやり遂げようとしたのが明の永楽帝であり、彼は大運河を
蘇させた。
元代が開いた大運河
「済州河(さいしゅうが)」 淮安(わいあん)〜大清河(だいせいが)
「会通河(かいつうが)」 大清河〜永済渠(えいさいきょ)
「通恵河(つうけいが)」 通州~大都
「広済渠(こうさいきょ)」
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(5)明・永楽帝(1360-1424年)の大運河
永楽帝。太宗、のちに成祖となる; 父は朱元璋; 永楽帝、北京に紫禁城建設する。
・ 元朝は北京~杭州間を最短距離の運河でもって結ぼうとしたが、高地で阻まれた。かくして、元の滅亡後の14世紀に建国された明は
300年続き、うち第3代皇帝・永楽帝(太宗のちに成祖となる; 父は朱元璋)は元の運河を改修し拡幅し、もって最短距離で北京・
杭州間を南北に結ぶ大動脈を貫通させようとした。
当時、明は南京の都を北京へ遷都したことから、江南から食料を調達する必要があった。
元が失敗した高地を経る最短ルートを永楽帝が完成させるに至った。煬帝以後最も大規模に大運河を改修し蘇らせたのは14世紀のことで、
明の永楽帝である。
・ 聊城(リャオチョン・りょうじょう)の高地で、かつての古閘門が発掘され復元された。現在は大運河の「土橋閘遺址」が設置され
ている。当時高地において水源が開発された結果でもある。
また、永楽帝は、黄河の南の「南旺」と称される最高地点の高地(標高140m)に閘門を建設し運河を切り開いた
(「南旺水利工程遺跡」が残されている)。水源も開発されたことによる。
・ 通州区の運河において紫禁城建設のための巨木(皇木と呼ばれる)が発見された。
通州から紫禁城近郊を経て、城の北側の「什殺海・じゅうさつかい」の「万寧橋」まで運河が開削された。
什殺海は「元の時代に使われていた大運河」の終着地点となった。「万寧橋」はいわば京杭大運河の北の最終地点である。
それ以前の大運河の最終地点は通州であった。
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