新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的流行(パンデミック)は2020年初め頃から始まった。特に2020~2021年の2年間は猛威を
振るっていた。果たして何時頃になれば、ワクチン接種、一定期間の隔離措置、陰性証明書の提示などの
社会的規制なく、気軽に海外へ私的な旅に出掛けられるのか、と先を案じていた。家族や友人らと海外弾丸ツアーを楽しめる時代
が再びやって来るのか、じっと注視し続けていた。
パンデミックは2022年末頃にはかなり下火となり終息に向かっていたが、流行中の3年間のうちに一度だけCOVID-19に罹患
してしまった。それも一度もワクチン接種を打っていなかった時のことであった。罹患した頃には多くの国民が少なくとも3,
4回は接種していた。3日間高熱、2週間酷い倦怠感が続いたが、とにかく陰性になり回復した。その後は体力・気力の回復に務め、
フットワークを向上させ、免疫力を向上させ、いつでも旅に出立できるように準備してきた。
とはいえ、以前のようにエネルギッシュに、一日平均1~1.5万円くらいの出費で、1~2週間、超倹約しながらの海外への旅を
今後も敢行できるであろうか。これまではホステルや学生寮のような安宿でも我慢し、時に蚕棚式ベッドだけの超安宿に
泊したこともあった。また、管理人も誰もいなく本当に素泊まりするだけの宿を渡り歩き、朝から晩までウォーターフロント
界隈や海洋博物館などを訪ね歩いた。パンデミック終息後もバックパッカー的スタイルでの弾丸ツアーを続けられる
自信がまだ残っているだろうか、という不安もある。そんな旅の流儀を見直す時期に来ているようにも感じる昨今である。
だがしかし、多少は高齢を気にはしながらも、気合を入れ直して次の旅のプランを練り、その敢行できる日が来るのを楽しみ
にしているところである。
旅の大目標は、アフリカ大陸南端の「喜望峰」を一度だけでもこの目に焼き付けることである。ポルトガルのエンリケ航海
王子は、大陸西岸を南下してアジア東方の世界「インディアス」への航路開拓のための数多くの航海探検家を送り出した。特に
丁子や胡椒などの富を産む「モルッカ諸島(香料諸島)」への到達にも関心を寄せていたはずである。
そんな航海探検の時代は「大航海時代」あるいは「地理的発見の時代」といわれるが、そんな世紀は1400年代初め頃から始
まっていた。わずか600年ほど前のことである。
ポルトガルがインド航路の開拓を成就するまで70年ほどを要したといわれる。アフリカ大陸西岸沿いに南下する
苦難の航海探検史を累々と積み重ね、ついにアフリカ南端を回航しインド洋に入域できた。アフリカ南端の喜望峰回航は
人類史上画期的な出来事となった。そこから人類史上新しい一ページが開かれたといえる。具体的には、人類史上特筆される探検航海
と発見は、バーソロミュー・ディアスによる喜望峰の回航、そしてバスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓であった。そしてそれに続く、
マゼランによる南米大陸南端の太平洋へ通じる狭い水路の発見と太平洋の横断航海であった。
喜望峰とは果たしてどんな地の最果ての岬なのか。個人的には、生涯に一度はその喜望峰を見下ろす岩山に立ってみたい
と胸中に秘め続けてきた。大袈裟だが、これまで果たしえなかった旅の夢の一つである。これまでは、南アフリカの諸都市の治安の
悪さに過敏になり過ぎたためであろうか、ずっとこれまで旅立ちに二の足を踏んできた。その機会はまだ現実のものとはなっていないが、その実現を夢見てまたそれに備えて、ケープタウンとその周辺の沿岸諸都市を辿る旅の大雑把なプランを描いてみた。
今後関連情報を積み重ねながら、具体的な旅計画を練り上げて行くことにしたい。
南半球の冬期は7~9月頃である。冬期の旅行シーズンオフにあっては観光客で混み合っていることもなく、どこもひっそりしており、
オーバーツーリズムに苛立つことはなかろう。また、市中の物価が酷く値上がりしている懸念もない。しかし、冬期に近いと雨が
集中して多くなる可能性もある。私的には、冬期の前後が狙い目である。現地の秋季4~5月(夏季12~3月の後)、または冬期後
の春季9~10月頃が良いであろうか。特に4月後半のシーズンオフの旅を考えたい。
渡航ルートだが、一般的にはシンガポールかア首連ドバイで乗り継ぐことになろう。南アフリカ航空のキャリアはどうか。
いずれネット上の航空賃比較サイトでフライト関連情報をしっかりと検索してみたい。入国の起点はケープタウン(またはヨハネスブルグ)。出国はヨハネスブルグ(またはケープタウン)としたい。いわゆる「ガーデンルート」というケープタウンからダーバン
方向に海岸線に沿って、「バズバスBuzBus」という乗合マイクロバスにて、モッセル・ベイの町まで旅し、隣り町のジョージから
ケープタウンに引き返すか。またはダーバンへフライトで旅の短縮化を図るかである。ダーバンに訪ねたい一つの目標施設がある。
ダーバンからは飛行機でヨハネスブルグに向かうことになろう。
ケープタウンでの宿泊先としては、同市でも最も安全な地区とされるウォーターフロントのマリーナ周辺か、市中中心街の
「セントラル地区」にて、料金と相談しながらリーゾナブルなホテルを見つけたい。今後情報を収集しつつ、例えば幾つかの2~3つ星の
ホテル、あるいは民宿(B&B、ゲストハウス、バックパッカーズ、ホステルなど)につき、目星をある程度付けておきたい。
空港からは、個別順番に乗客の予約済みホテルに送り届けてくれる乗合式送迎マイクロバス(大型乗合タクシーのようなもの)
を利用したい。大型路線バスの場合は事前に乗車カードを購入して「セントラル地区」へ向かうことになる。兎に角、安全
確保を最優先にして、リーズナブルな宿泊先と空港からの交通手段を選びたい。宿泊に次いで気になるのは、レストランや
食事処、食料品調達などのための移動手段であるが、情報収集を続けたい(マリーナ地区では治安上問題ないが、他地域では
どうなのかである)。
天候との相談となるが、先ずは喜望峰やテーブルマウンテンを探訪したい。喜望峰とテーブルマウンテンを最も安全
に回れる方法を徹底して探る予定。マウンテンのケーブル乗り場まではウォーターフロントから30分ほど。トータルの所要時間としては
4時間を見る必要がある。ケーブルカーは天候が悪いと運休するらしい。ドライブでの登頂は不可。マウンテンへのグループツアーがある
のであれば旅行代理店などを通じて申込む。「レッドルート」バスを利用するのがベターかも知れない。
2階建てオープン・ダブルデッカー観光バスが、ケープタウンの他の幾つかの見どころを含めて、テーブル
マウンテン(乗り場まで行くのであろう)など11か所を回るという。「レッドルート」と呼ばれる。15~20分おきに出発する。
好きな場所で下車し、再び次のバスで次の目的地へと向かうことができる。このルートバス利用が便利でよい。詳細にレッドルートバス
を調べておきたい。
その他「ブルールート」を走るバスは15~20分おきに出発し、ケープ半島方面へも巡るという。だが、喜望峰までは行かないという。
最寄のバス降車口から喜望峰へ辿るには、その具体的な経路や所要時間などを十分知ったうえで出向く必要がある。
喜望峰のあるケープ半島は観光客が多く治安上は問題ないとされる。ケープポイント・喜望峰探訪をメインにするか、または同半島
周辺の見どころを含めて探訪できる日帰りの団体観光バスツアーを探したい。例えば、ケープポイント・喜望峰までの踏査を主体として、
その他半島にある町「サイモンズ・タウン(Simon's Town)」や「ホルダーズビーチ」(ケープペンギン営巣地がある)などの
観光名所などを訪ねる時間も割いてくれるツアーを求めたい。
私的な関心を十分満たしてくれる最適なグループツアーを見つけるか、若しくは若干の重複があったとしても2つの異なる
グループツアーに参加して、ケープポイント・喜望峰踏査を達成するかである。あるいは、旅行エージェントを通じて
それらの踏査をメインにしつつ、サイモンズタウンの「海洋博物館」などへの訪問も実現できる、
移動手段付き個別ツアーをアレンジしてもらうのも手であろう。出費は避けられないが、安全にして目的を成就するためには
ありうる最後の選択肢の一つとなろう。
なお、ケープタウンには、「ガーデンルート」への旅に出立する前に見学しておきたい施設が3つある。ケープタウンの
ウォーターフロント・マリーナには、海洋と人間に関する資料展示がなされる「海洋センター(Iziko Maritime Center)」があり、
是非訪ねてみたい。ケープタウンでの海運業の概観、1885年に完成したテーブル・ベイ港の最古の実在模型などの展示もある。
また、「ツー・オーシャンズ水族館(The Two Oceans Aquarium)」も同じマリーナ地区にあり、同地区でリーズナブルに宿泊
できれば、何時でも見学可能となる(天気がすぐれず野外周遊に適さない日には、これらの海洋施設を巡覧することにしたい)。
その他、ケープ半島のサイモンズ・タウンにある「John H. Marsh Maritime Research Centre」の「南アフリカ海洋博物館(Iziko
South African Maritime Museum)」(Adderley Street; A part of the South African Navy)も最優先で訪ねたいが、天気がすぐれ
ない時の選択肢の一つとすることもできよう。
なお、ケープタウンの「セントラル地区」にも様々な歴史文化施設があるが、見学の優先順位は若干低くなろう。
例えば、「南アフリカ博物館(South African Museum)」は、1852年創設の同国最大の自然博物館であり、体長20メートルの
クジラの骨格の展示もある。その他の施設についても、安全面と時間的余裕などを勘案しながらの見学としたい。
さて、旅のもう一つの大きな目途は「ガーデンルート」という、ケープタウンから距離1,500㎞ほど先のダーバンまでの、同国南域の南~南東海岸沿いのルート上にある幾つかの海洋歴史文化施設などを辿ることである。同ルートの旅程概略については以下の通りである:
日本 → シンガポールまたはドバイ → ヨハネブルグ経由またはケープタウンへ直行 → 「バズバス」にてハマナス Hermanus
→ アグハス岬 ―300km→ モッセル・ベイ Mossel Bay → ジョージ。ここからケープタウンへ引き返すこともありうる。
ケープタウンで予備日を有効に生かした後、日本への帰途に就く。
あるいは、ジョージから千数kmほど北東にあるダーバンまで「バズバス」で陸路を辿って、ナイズナ Knysna経由 → 大都市ポート・
エリザベス → イースト・ロンドン(同地の「イースト・ロンドン博物館」にはシーラカンスなど数多くの魚類標本などを
展示する)へと向かうかである。あるいは飛行機で一気にダーバンへ至るかである。ダーバンでのメインの目途は「ナタール港海洋
博物館」の見学である。なお、治安の観点からしてダーバン市街地をあちこち散策する余裕はなかろう。その後はダーバンから500km先の
ヨハネスブルグへ移動し、シンガポールかドバイ経由で帰途に就く。
さて、「ガーデンルート」上の沿岸諸都市での主要な海洋関連施設の見学としては以下のものが想定される。
(1)ハマナス: 西ケープ州ハマナス。ケープタウンから東へ122km。
・ 「旧港博物館(Old Harbour Museum)」: 漁業関連史料、数多くの古い漁撈用ボート、鯨の骨格標本・探鯨機などを展示する。
・ 「クジラ館(Whale House)」: 鯨に関する資料展示など。
(2)モッセル・ベイ: 西ケープ州。
・ 「バルトロメウ・ディアス・ミュージアム・コンプレックス(Bartolomeu Dias Museum Complex)」: モッセル・ベイは1488年に
ポルトガル人航海家バルトロメウ・ディアスが西欧人として初めて上陸した地である。
・ 「Shell Museum 貝殻博物館」。
・ 「Bartholomeu Dias Maritime Museum 海洋博物館」: ディアスの帆船レプリカなど。
・ 「Culture Museum 文化史博物館」: モッセル・ベイの歴史、航海用具、錨などを展示する。
(3)ナイズナ(Nnysna): 西ケープ州/ケープタウンとポートエリザベスとの中ほどに位置する。
・ 「釣り博物館(Angling Museum)」: 「ナイズナ博物館(Nnysna Museum)」内にある; シーラカンス剥製の展示あり。
(4)イースト・ロンドン: 東ケープ州。
・ 「イースト・ロンドン博物館(East London Museum)」: 「生きた化石」のシーラカンス(発見者: マージョリー・コート
ネイ・ラティマー)の剥製他、数多くの魚類剥製標本、大航海時代の貿易品なども展示する; 最初にシーラカンスが発見された
のがイースト・ロンドン沖であった。月~金 9:00~4:00pm 土 9:00~1:00pm。
(5)ダーバン
・ 「ナタール港海洋博物館(Port Natal Maritime Museum)」: パイロットボート「ウルンディ(Ulundi, J.R.)」、タグ蒸気船
「J.R.モア(J.R. Moore)」、第二次大戦時の掃海艇「SASダーバン(SAS Durban, mainesweeper)」の船内などを公開する船舶博物館。
いかだの復元模型、近現代までの航海術の発展史なども展示する。
(Hours: Mon~Sat 8:30am-4:00pm, Sun 11:00am - 4:00pm. Place: at the Bay end of Samora Machel St., Durban Central。
・ 水族館「uShaka Marine World ウシャカ・マリンワールド」。
・ 「クワズル・ナタール博物館(KwaZulu-Natal Museum): ピーターマリッツバーグ(Pietermaritzburg)。ダーバン西方、
バスで1時間の内陸都市に所在する; 南アで最大級の貝殻コレクションを展示する"海洋館/海洋展示室"がある。その他帆船
模型、大砲なども展示する。
さて、「ガーデンルート」沿いのこれらの都市の海洋歴史文化施設につき、どのように安全に周遊できるのか、交通手段と宿泊先
情報の他、いろいろな治安状況関連情報や安全対策の知恵を掻き集めたい。地方の主要大都市間をグレイハウンドのような大型
バスで移動するのも一つかもしれない。「バズ・バス(Buz Bus)」という交通手段について今後さらに一次・二次情報を
いろいろ調べることにしたい。バズバスは中型乗合バスでドア・ツー・ドアのサービス(宿まで迎えに来てくれ、目的地の宿まで
送ってくれる)をしてくれる。バックパッカーズなどの宿泊先に立ち寄りながら、上記の沿岸地方都市やダーバン、ヨハネス
ブルグへと周遊する。ただし、宿泊先と海洋歴史文化施設間での移動手段の確保、安全確保の具体的な方策などが気になるところである。
現地では、ケープタウン→ ハマナス→ アグラス岬→ モッセル・ベイ→ ジョジまでの巡遊したい町と宿泊先、見学希望施設、
乗車希望日時などを提示しながら、バズバスやその他の移動手段についての予約、その変更・支払方法などについて綿密に
相談することになろう。バズバスとの連絡には、スマホのアプリ「What'up」の他、電子メール、電話などが使われるらしい。
「ボルト(bolt)」という呼び出しタクシーもあるらしいが、どの程度当てにできるサービスなのか、安全性も含めて情報収集に務めたい。
現地のB&Bなどでは「Coast to Coast」というバズバスのガイドブックが提供されているようだが、インターネットでも入手
して事前に調べておきたい。「Baz Bus」公式サイト:http://www.bazbus.com/index.aspx。最近のガーデンルート踏査体験談などの情報は特に貴重であり、ネットをひも解きたい。また、南アフリカ専門の旅行エージェントなどでも必要な情報を入手しながら旅プラン
を練り上げて行きたい。
さて、15世紀初期、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394年~1460年)が、アフリカ大陸南方にあるかないか分からない
アジアへの通路を見つけるため、そして香料諸島へ到達するために、その航路開拓に乗り出した。即ち、アフリカ大陸西岸沿いに
南下する航海探検家を送り出した。王子の航海学校創設からして、インド航路の開拓を成就するまで70年を要した。
その関連略史をここに記しておきたい。
その前に一言。オスマントルコが当時勢力圏を中東、北アフリカなどへ拡大していた。その結果、ジェノバ、ベネチアなどの
イタリア海洋都市国家の貿易商人らは交易を制約され、香料などのアジア商品の中継貿易による経済的権益を脅かされ、
それを克服することに迫られていた。その克服へのチャレンジとして、ポルトガルはアフリカ大陸西岸沿いに南下し、インディアス
への航路を拓き、アジア人と直接交易をしようとしたことと結びついている。
ポルトガルによるインド航路開拓の略史
・ 1394年、エンリケ航海王子、ポルトガル王ジョアン一世と英国ランカスターの王女フィリッパの息子として生まれる(~1460年)。
・ 1415年のこと、エンリケ王子は、200隻余の軍船をもってイベリア半島から北アフリカのムーア人 (イスラム
教徒)の要衝セウタを攻略し、セウタを奪取した。彼はそのことでも名を知られる。
[注] セウタ: ジブラルタル海峡に面する、現在のモロッコ北端にある港町タンジールの東方約70kmほどのところに位置し、同じく
同海峡に面する。
・ 1415年、エンリケ王子、アフリカ北西岸の「ボジャドール岬(ボハドール岬)」到達を目指して自国の小艦隊を派遣する(
船種としてはカラベル船を使用する)。
・ 1418年、エンリケ王子は、イベリア半島のポルトガル領南西端のサグレス岬に航海学校・天文台などを設立し、
民族・宗教などを問わず学者、航海者らを集め、そこで航海学、帆船の艤装や運用術、造船学、地図製作、天文学・地誌学などに関する
研究を行ない、またそれらを学ばせて航海者を育成することに取り組み始めた。そして、アフリカ大陸南端を周回して、
インドへ到達することの可能性を固く信じ、アジアへの海上ルート開拓を期して、アフリカ
大陸西岸沿いに南下させる探検航海者を本格的に派遣し、その探検事業を徹底して推し進めようとした。
歴史上、後に「地理的発見の時代(大航海時代)」と位置づけられる初期の頃のことである。
ポルトガルは、アフリカ最南端周回とインド航路開拓、それに続きアジアでの国勢伸張への道を辿り始めた。
ポルトガルは海路・東回りで、スペインは海路・西回りでアジアを目指し、両国間のグルーバルの覇権争いの世紀へと突入した。
・ 1420年、最初のポルトガル遠征隊、マデイラ諸島の一つのポルト・サント島に嵐で打ち上げられる(その後、遠征隊が再派遣され、
マデイラ諸島であることを確認し、サトウキビとブドウの株を移植する)。
・ 1427年、アゾレス諸島を再確認する。当時、「ナン岬(ネバー岬)」以南では、海は沸騰し、怪物が現れ、二度と帰還できないと考えられていた。
・ 1432年、ポルトガル航海者ジル・エアネス(Gil Eanes)は、エンリケ王子からナン岬以南への航海の再挑戦を命じられる。
かつて、エアネスは王子の命を受け、「ナン岬」を越えて南下すべく航海を試みたが、一度は失敗していた。
・ 1434年、ジル・エアネス、ナン岬を越え、更にその200海里ほど南方の「ボジャドール岬(ボハドール岬)Cape BOJADOR」
(その沖合には暗礁が突き出る航海の難所であったが、その迂回を達成した)に到達することに成功した。この成功は中世の人々の
迷信打破に絶大な影響をもたらした。
・ 1441年、ヌーノ・トゥリスタン、リオ・デ・ジャネイロに到達した後、ボジャドール岬の遥か南方の「ブランコ岬」に到達する。
・ 1443年、ヌーノ・トゥリスタン、「ブランコ岬」を通過して、その少し南方の「アルギン湾」に達する。
(1443年、エンリケ航海王子の実兄ペドロ親王、「ボジャドール岬」以遠への通航には同航海王子の許可を必要とする旨を布告する。
以後、幾つかの新たな布告によって、同航海王子への航海・交易上の特権の拡大がなされる)
・ 1445年、ディニス・ディアスが「ヴェルデ岬」に到達する。ヴェルデ岬についても、海は沸騰し灼熱の世界といわれていた。
・ 1460年、エンリケ航海王子、没する。かくして、同航海王子が生きていた時代におけるアフリカ西岸南下の航海・探検事業は、
シェラレオーネ辺りまでの到達をもって終わりを告げた。だが、その後20年ほどの間に、南下を続けたポルトガルの航海者たちは、
赤道を越え、更には「コンゴ河」の河口に到達し、ついにアフリカ南端を周回するに至るまで、数々の成果をあげることになる。
・ 1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ(バーソロミュー)・ディアス(Bartolomeu Dias)は、2隻のカラベラ船と1隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、
リスボンを出航し、西アフリカ西岸を一路南下した。アフリカ大陸を迂回せんと航海を続けるなか、同年12月末に激しい嵐に遭遇したことで、15日間も
方向を見失ったまま航行し、嵐の中で知らないうちにアフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。
アフリカの最南端を回航したことの証左ともいえるものであった。かくして、ディアスは大陸南端を周回していたことを認識した。
ディアスはさらに周回航海の継続を主張したが、乗組員が反対し暴動を起こしたため断念せざるをえず、南端を少し周回した
南緯33度辺り(現在のダーバンは南緯30度辺りにある)に位置する現「グレート・フィッシュ川」付近で反転し引き返した。
そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰着をその港で見物していたという。
かくして、王子の航海学校創始から70年を経た1488年、ついにアフリカ大陸最南端を回航するという偉業を果たすに至った。
ディアスは、南端を周回していた頃は激しい嵐に見舞われていたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、ポルトガル国王ジョ
アン2世 (在位1481‐1495年10月)は、
インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時は荒天であったため
岬を初認できていなかったが、復航時にはその岬を認めたとされる。
ポルトガルはディアスの帰還後すぐに次の探検船隊を派遣するにはいたらなかった。ジョアン2世に代わって王位を継いでいた
マヌエル1世は、ようやく1497年になって、バスコ・ダ・ガマを喜望峰回りでインドに向けて出帆させた。
つまり、ポルトガルはスペインよりも早くインディアス(インド・中国・日本などアジア大陸の東方にある地域を指した)へ
到達することをめざした。
・ 1497年7月8日に、ジョアン2世の後継の国王マヌエルの命によりバスコ・ダ・ガマは13隻からなる船隊を率いてリスボンから
インドに向け出航した。コロンブスが第1回目の西回り航海に出帆したのは1492年であり、コロンブスがインディアスに到達した
との報を携えて帰国したのは翌年1493年3月のことであった。ガマは当然のことながら、コロンブスのこのインディアス到達
を知った上での出帆であった。実際に到達したのはインディアスではなくカリブ海の島嶼であった。
さらに言えば、コロンブスは1495年に第2回目の西回り航海を果たしていた。
ガマは、1497年ヴェルデ岬諸島を経た後、大西洋の西側に大きな半円を描き迂回するように喜望峰をめざした。同年11月9日
喜望峰に近いアフリカ南西部の「セント・ヘレナ湾」に到達した。11月22日には喜望峰を周回し、11月25日に「サン・ブラス湾」
に到着、12月17日には、ディアスが先の航海で到達した最遠地である「インファンテ川」(現在のグレート・フィッシュ川)
河口で投錨した。その後沿岸沿いに北上し、1498年4月に現在のケニアのマリンディに到達した。
ガマはそこでアラブ人でインド洋での航海に熟達した船乗りイブン・マジードを水先案内人として雇い入れた。ガマはその後首尾
よくアラビア海を横断した。そして1498年5月1日インド亜大陸南西部のマラバール海岸のカリカット近くの港に錨を降ろした。
1498年8月にカリカットから帰国の途に着いたものの、その航海は厳しいものとなった。アラビア海を越えるのにほぼ3か月を要し、
ガマの旗艦「サン・ガブリエル号」がリスボンに帰還したのは、1499年8月29日のことである。結局、ガマはインドとの往復航にほぼ
2年を要し、また約170名の乗組員のうち帰還したのはわずか60余名であった。
また、ガマがもち帰った香辛料の量は見本程度というごくわずかなものであったし、更にはカリカットの王との香辛料の交易取り
決め交渉は成功するにいたらず、通商面での成果はほとんどなかった。
だが、エンリケ航海王子が1400年代初頭以来思い描いていた、インドへの東回り航路、即ちアフリカ大陸周回によるインド航路の
開拓にかかる大事業がついにここに完成したことの意義は計り知れない。
ポルトガルは、70年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人
らによって独占されていた金銀、香辛料などの新たな東方海上貿易ルートを切り拓き、交易を自らの手にたぐり寄せる道を切り拓き、
その後の歴史的な国家繁栄へと突き進むことになる。翻って、アラビアのイスラム商人らとの熾烈な闘いが始まることになる。
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