
ポルトガルとスペインの西欧列強諸国は、その昔香辛料(スパイス)の交易における権益の独占的支配や最大化を巡り熾烈な
争いを展開した。その中心的存在であったのが「モルッカ (モルク・香辛料)諸島」の「テルナテ島」と「ティドレ島」であった。
東廻りでのアジア東方、特にインディアス(インド、中国、日本などのアジア大陸東方地域)、なかでもモルッカ諸島到達
を目指したポルトガルは、1512年にはすでに同国人がテルナテ島に来航していた。ポルトガルは、バーソロミュー・
ディアスによる1487~1488年におけるアフリカ大陸南端の回航、1498年にはバスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓に成功した。
ポルトガルは、その後マラッカへ到達し、1512年にはモルッカ諸島(テルナテ島)に出現していたのである。
他方、スペインはコロンブスの西廻りによるインディアスへの到達を支援していた。さらにはフェルディナンド・マゼランによる
西廻りの世界周航航海を支援した。フィリピン・マクタン島でマゼランが死去した後船団を引き継いだファン・セバスティアン・
デ・エルカーノは、ついに「トリニダード号」と「ビクトリア号」の2隻で、1521年11月8日モルッカ諸島の一つであるティドレ
島に辿り着いた。その後「ビクトリア号」だけが25トンの香辛料を積んでインド洋を横切り、喜望峰を周回し、西アフリカ沿岸を北上して、
ついに1522年9月6日出港地のスペイン・セビーリャへ帰着し、世界一周を果たした。
ローマ教皇が取り持ったという「トルデシリアス条約」では、大西洋上におけるポルトガル・スペインの世界二分割のための分界
線はまだしも明確であった。だがしかし、当時緯度はかなりの精度で測定できても、経度での地理的位置はあやふやであった。
地球の裏側での分界線は曖昧ではっきりせず、モルッカ諸島がどちら支配領域に分界されるのかを巡り両国は争いを繰り広げた。
そして、その後さらにオランダ、英国も権益争いの舞台に登場することになった。大航海時代当時、胡椒・丁子・ナツメグなどの
スパイスは超高価な商品であった。
ポルトガル人による喜望峰の回航による大西洋からインド洋への海路の発見、インド西岸への航路の開拓、さらには大西洋
から南米大陸南端の海の通路(マゼラン海峡)の発見と太平洋の横断航海は、世界の歴史を変える大転換点となった。
中南米やアジア地域・諸国の多くが西欧列強による略奪的植民地支配の草刈り場となって行った。この二つの出来事ほど、世界に
歴史的大変動をもたらしたものはなかったであろう。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記されたカタイ(中国)・黄金の国ジパング(日本)をはじめ、モルッカ諸島、
特にテルナテ島とティドレ島などが産する莫大な「富」に突き動かされて、西欧列強諸国はアジア東方の世界インディアスを
目指した。実際に船出したのはコロンブスであり、バスコ・ダ・ガマをはじめとする数多の航海探検家たちであった。
かくして、後に地理的発見の時代あるいは大航海時代と呼ばれたが、その時代に彼らを突き動かしたモルッカ諸島、特にテルナテ
とティドレの2島を是非とも訪ね、ポルトガル人らの遺して行った足跡である廃墟のような
古い要塞跡や、赤道直下のいろいろなスパイス栽培地を巡ってみたい。スパイス・アイランドとはいかような島嶼なのか、
この目にしっかりと焼き付けたい。
今は大まかな旅程素案を描き、今後いろいろ情報を入手しながら詳細で実践的な具体案を構想することにしたい。
一般的な渡航のフライトルートは成田(または友人と連れ立っての場合は大阪を起点として)~ジャカルタの往復。ジャカルタでは、
旧市街地のコタ地区にある「海洋博物館」や「パサール・イカン(魚市場)」、中近東のダウ船のようなインドネシアの伝統的
木造帆船である「ピニシ船(Pinisi)」の溜り場であるジャカルタ旧港の波止場を再訪したり、その他まだ見ぬ「国立博物館」、
「ジャカルタ歴史博物館」などを新たに訪ねたい。また、友人が希望する訪問先、例えばジャカルタ市内の独立記念塔などに立ち寄りたい。
因みに、「海洋博物館」は1977年に開館した。建物は1652年に「オランダ東インド会社」が倉庫用に建てた4つの建物のうち、
3つが利用されている。1700年代に数回改装されたという。オランダ植民地統治時代には、東インド会社の主な貿易品であった
胡椒やナツメグなどの香辛料やコーヒー・紅茶、衣類などが保管され、西欧やアジア地域への出荷を待っていた。
博物館のすぐの南側に建つ高さ12メートルの塔(「Menara Syahbandar」という)は、1839年に東インド会社によって港内監視のために
建てられたもので、1886年まで船舶交通の監視に利用されていた。
海洋博物館では、インドネシア各地域の実物船やカヌーのほか、航海用器具、伝統的な釣り具、海の絵画など、
インドネシアの海の歴史文化にまつわる数多くの陳列品を巡覧することができる。その他、一本の巨木から作られた全長11メートルの
パプアの伝統船(ジュクン・カレレ Jukung Karere)、モルッカ(マルク)諸島の伝統船(コラコラ Kora kora)のレプリカ、
南スラウェシのブギス族によって貨物船として利用された帆船(ピニシ Pinisi)のレプリカ、その他錨・舵・双眼鏡・大砲などの他、
16世紀のスマトラ・アチェ王国の世界初の女性海軍大将マラハヤティの肖像画なども展示される。
マルコ・ポーロやその他世界の海洋探検家に関する展示室もあるという。
[注] 2018年1月に博物館が火災し、展示品の一部が焼失した。2019年末には建物の焼けた部分についての改修は完了したが、
現在では一般に公開されているかどうかが気になる。
1974年にオープンした「ジャカルタ歴史博物館」は「ファタヒラ博物館」とも呼ばれる。建物は1627年に「オランダ東インド
会社」によって市庁舎として建てられたもので、1913年まで市庁舎として使われていた。その後、日本統治時代には日本軍の倉庫として、インドネシア独立後は西ジャワ州知事やジャカルタ特別州知事のオフィスとして使用された。館内にはポルトガル船のレプリカ
も展示されるという。余談であるが、インドネシア各州の伝統的家屋などを集めたテーマパーク「タマンミニ・インドネシア・インダ」
がジャカルタ郊外にあるが、そのうちの一つであるバリ風建築の「インドネシア博物館」には伝統的な漁業に使う道具、
伝統的水上交通手段の「ピニシ船」のミニチュアなども展示される。
ところで、2020年初期に始まった新型コロナウイルスCOVID-19のパンデミックについてであるが、2024年現在既に過去のことに
なってしまった。しかし、当時の状況に少しだけ触れて記録に残しておきたい。2022年中・下期日本国内では第7波が襲い、その
ピーク時には毎日数十万人が罹患した。当時のインドネシア入国規制としては、出発の14日以上前にワクチン接種2回が完了し
ていることを示す接種証明が必要(2022年9月現在)とされた。日本への帰国での規制としては、出国前72時間以内に受けたPCR
検査結果としての陰性証明書(※2022年9月7日から)が必要だが、ワクチン3回接種済みの場合は不要である(2022年9月現在)
という。規制内容は今後の感染状況などをみて緩和される見込みだが、当時のそれはこんな具合であった。
いずれはパンデミック以前のように何の渡航規制も課されないことが期待される。なお、これらの規制とは全く別にして、
モルッカ諸島(テルナテ、ティドレ島など)への渡航には、インドネシア政府からの特別の上陸許可証が要るのか否か確認しておく
必要がある。
さて、テルナテ島へのルートとして、ジャカルタと、モルッカ諸島(マルク諸島Maluku、かつての香料諸島)の中心都市が
あるテルナテ島との間を最短距離で往復したい。例えば、金曜日深夜ジャカルタ発、翌土曜日午前6時過ぎ現地到着となる。
ジャカルタ~テルナテ直行便は「バタビア航空」他が運航している。その他ローカル航空会社による便もある。
・ ルートとしては、スラウェシ島のウジュンパンダン(マカッサル)を経由してテルナテへ直行、またはウジュンパンダンから
スラウェシ島北端のメナドを経由し、メナドからテルナテへは「スンパティ航空」の定期便が運航されているようだ。
・ また、ジャカルタからセラム島南方沖のアンボン島の都市アンボンを経由して、そこからテルナテへ。「ムルパティ航空」からの
チャーター機(プロペラ双発)が毎日1便就航するという。アンボン~テルナテでは、不測の事態・機体修理のため突然
キャンセルなどもありうる。
・ 初めての経験として、ジャワ島東端の港町スラバヤ港からフェリーでジャワ海を横切り、スラウェシ島ウジュンパンダンへ、
そこからフライトでテルナテへ辿るルートも楽しそうである。
テルナテ島は「ハルマヘラ島(Halmahera)」の西岸沖合10kmにあり(地図参照)、周囲40数kmの火山島である。
島の周囲には舗装道路が敷かれ、2時間もあれば一周できる。テルナテ島(空港あり)とティドレ島(空港なし)は南北に隣り合い、
テルナテ島の南に幅約1kmの海峡を挟んでティドレ島がある。この2つの島は大きさも地形もよく似ていて、双子に喩えられる。
ティドレ島の東岸沖には同じくハルマヘラ島が横たわる。
両島はそれぞれの王国によって治められ、かつてライバルであった。テルナテ島には、町から比較的に近い場所に、ポルト
ガル人、スペイン人、オランダ人が築いた砦・要塞(Benteng ベンテン)跡が遺る。また、テルナテ島内にはバスが走り、
テルナテに港がある。テルナテの町はずれの高台にはかつてのスルタンの宮殿があり、今は博物館と
なっている。テルナテは北マルク州の最大都市で、人口21万である。テルナテ町圏は港が所在するナバスティオン港までの
10kmに広がっている。
ティドレ島への渡海と散策も考えたい。テルナテから朝9:00発のフェリーでティドレに向かう。1日6便のフェリーが
就航している。テルナテのフェリー乗り場は、16世紀の古い港があったところで、近くに「ベンテン・カリマタ」
(カリマタ要塞)と呼ばれるポルトガルの海の砦跡が保存されている。かつてテルナテの中心部はこの辺りであったのであろうか。
ティドレ島上陸後、ソアシオの町の県庁(カブパテン)辺りを目指して探訪するのも策である。ティドレは人口5万程度という。
ハルマヘラ島へはテルナテ島からスピードボートで渡海できる。例えば、テルナテから08:40発、ハルマヘラ島シダンゴリ行き
フェリーに乗船してみる。シダンゴリはテルナテの対岸にあって同島における交通ジャンクションとしての機能を果たしている。
シダンゴリから何をどうするかのプランは今は何もない。
テルナテ島における年間の気候および平均気象について一言。ベスト時期を選びたいが、選択肢は少ない。テルナテ島では、
夏は短く暑い、冬は短く暖かい。年間を通じて蒸し暑く湿度が高く本曇り状態である。 1 年を通して、気温は 24度Cから 31度Cに
変化するが、23度C以下または 32度C以上になることは滅多にないという。
さて、最初にポルトガル、そしてスペインが、さらにオランダがモルッカ諸島に来航し、スパイスの交易を巡る独占的権益や
島嶼支配を巡る熾烈な攻防が展開された。その攻防史について俯瞰してみたいが、今は十分な知識がないので、今後
書物をひも解き学んだ上でのことにしたい。ここでは若干の史実を列挙するに留めたい。
なお、例えばの参考書籍として、生田滋氏著の「中公新書 大航海時代とモルッカ諸島」に詳しい。数世紀に渡る節目節目の重要
史実に触れながら旅への興味を倍加させたい。
テルナテ島は丁子の数少ない産地として知られ、ヨーロッパ人が到達する以前から中国人やマレー人の
商人が訪れていた。テルナテ島はモルッカ諸島の政治経済の中心的存在であった。
西欧人で初めて同島を訪れたのは、マラッカから渡海して来たポルトガル人探検家フランシスコ・セラン(Francisco Serrão)ら
であった。
セランらはモルッカ諸島への探検航海中にセラム島(同島南西沖の小島にアンボンがある)の近くで難破し、地元住民に救助
されていた。テルナテのスルタン(Abu Lais)は彼らの困窮ぶりを耳にして、1512年にテルナテ島まで連れて来させた。
それを機にスルタンは、ポルトガル人と同盟を結び、同島に砦を築造することを許可した。砦は1522年に築かれた。
だがしかし、ポルトガル人のスルタン廃立への関与や、宣教師たちの強引な布教活動などのために
住民の怒りを買った。そして、ポルトガル人は1575年に島から追放された。その後1605年には、オランダ人がテルナテ島に砦を築き、
同島を占領するに至った。同島住民の反乱が起きたが、1683年のスルタンの降伏によって、「オランダ東インド会社」による
支配が確立するに至った。
(注)テルナテ島には、木材 (黒檀,チークなど) 、コプラ、香辛料 (ナツメグ,コショウ,チョウジ) などを産する。
マゼランは、当時友人であったフランシスコ・セランを頼りにして西廻りの世界周航航海に乗り出し、かつセランがいるはずの
モルッカ諸島を目指して太平洋を必死の思いで航海していた。だが、マゼランはセブ島沖のマクタン島で落命してしまった。
その後に船団の指揮を取ったのはエルカーノであった。モルッカ諸島を目指して航海したが、しかし半年ほど同諸島を見つけられずに
いたものの、ついに1521年11月同諸島に到達した。そして、ティドレ島の港に錨を降ろし上陸した(なお、ティドレ島はイギリス人
キャプテン・ドレークが、マゼランを別にして、真に世界周航を果たした時に寄港した島でもあるという)。
当時島を治めていたスルタンが、エルカーノ率いるマゼラン船団を両手を挙げ丁重に迎えた。当時西欧諸国では香料は仕入れ値の
1000倍もの価格で販売されていた。ポルトガル人は1512年に既に隣りのテルナテ島に渡来していたが、同島のポルトガル人
の貿易拠点は放棄されていた(ポルトガル人は1575年に同島から追放された)。スペインの後援で世界周航に就いていたマゼラン船団
の指揮官エルカーノにとっては好都合であったといえる。
テルナテ島とティドレ島は元々常にライバル関係にあり、強い対抗意識をみなぎらせていた。スペインに支援されたマゼラン船隊が
エルカーノの指揮の下ティドレ島に到達したことで、ポルトガルが秘密にしていたテルナテやモルッカ諸島のことが破られた。
フランシスコ・セランはマゼランの死去と同じ頃に亡くなったといわれる。世界周航のきっかけをつくった2人の主役は、
2度と会うことなく最期を迎えていた。「トリニダード号」と「ビクトリア号」はわずか40日間で積める限りのスパイスを積み込み、
トリニダード号は東回りで太平洋への横断を目指し、ビクトリア号は西回りでインド洋、アフリカ大陸回航を目指して船出していった。
だが、トリニダード号はポルトガル人に捕捉・略奪され沈められた。エルカーノらは1522年9月6日スペイン・セビーリャへ帰還した。
やがて、ティドレ島はスペインの香料諸島の中心となった。
ポルトガル人に対抗してティドレ島に拠点を置いていたスペイン人が、1606年になって、ポルトガル人がテルナテ島に築いていた
砦を占拠し、そのスルタンを捕まえてマニラに移送した。他方、オランダ人は、1599年にモルッカ諸島に進出していたが、1607年
にテルナテ島の一部を占領した。その後、1663年にスペインがテルナテ島から撤退するまで、同島はオランダ領とスペイン領に
二分された(スペインはまた1663年にティドレ島からも撤退した)。
そしてやがてオランダが介入した。即ち、オランダは、貿易を独占するために丁子の栽培地をアンボン付近に限定しようとして、
テルナテ島をはじめ多くの島嶼の丁子の木を伐採し、アンボン島などに移植したりした。かくして、丁子の生産拠点をアンボン島
などの管理しやすい島に移したため、丁子の貿易で栄えモルッカ諸島の政治経済の中心的地位を担っていたテルナテ島は、その座を
アンボンに譲り渡すことになった。オランダの介入によるテルナテの地位陥落の話は今日まで語り継がれているという。
休題閑話。旅の話に戻るが、テルナテでは要塞跡を是非とも訪ねたい。テルナテには4カ所の要塞跡があるという。
オラニエ要塞、カラマタ要塞、トルッコ要塞、それにガマラマ要塞である。テルナテに総計4,5日滞在すれば十分回れよう。
周囲44キロという小さな島にこれだけの要塞があるということは、それだけこの島が、ポルトガル、スペイン、オランダ
の権益上重要であり、丁子などのスパイスを手に入れたいとする列強諸国の欲望がいかに強かったかを示している。
しかも、これらの要塞の主が、その時の軍事的力関係によって目まぐるしく変わっていったのである。
今はいずれも廃墟となり静かに佇んでおり、訪れる人も極めて少ないことであろう。故郷から遥か遠く離れたモルッカ諸島に
おいて、数多くの西欧人が夢と欲望に支えられ、命をかけた航海や敵対勢力との戦いをはじめ、慣れない土地での日々の辛苦の生活
を乗り越えてきた。それを思うと、果てしない欲望を追い求める人間の行動力、それに付きまとう辛苦や悲哀を感じずにはおれない。
最後にティドレ島への渡海について一言。同島の中央にそびえるガマラマ山は裾野がなだらかに広がる典型的なコニーデ型の
火山である。正午にテルナテ中心部のバスティオン港発のフェリーに乗ると、船上からのテルナテの市街やティドレ島、その間
にある小さなマイタラ島の景色を楽しむことができよう。30分ほどであっという間にティドレ島に到着する。それもそのはず、
テルナテ・ティドレ両島の距離は直線距離ではわずか1㎞ほどである。この二つの島がそれぞれ王国を擁し、お互い争い合って
いたというのが不思議に思えるほど、余りの近さである。そんな両島の情景を思い描くとモルッカ諸島への旅浪漫が掻き立てられる。
[参考] 「インドネシア香料諸島」、宮崎衛夫著によれば、
オランダ人が19世紀にモルッカ諸島を植民地化するまでは、テルナテ王国は現在のインドネシア東部の広い範囲を統治していた。
16世紀末のスルタン・バブラ(Baabullah)はスラウェシ島の東部から、モルッカ諸島全体、小スンダ列島、パプアの一部に
まで影響力を持ち、この時期がテルナテ王国の最盛期であったといわれる。
他方、ティドレには1450年から1904年まで続いたスルタン王国があり、最盛期にはハルマヘラ南部域や、一時はブル島、
アンボン島の他にニューギニア沖の島々まで支配下に置いていたといわれる。隣接するテルナテとは常にライバル関係にあり、
争いも絶えなかった。
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