帰国後大阪・茨木の片田舎にある実家にひとまず戻って、元気な姿を家族に見せた。そして、暫くしてから改めて身支度を整え、
故郷を後にして上京した。1975年10月吉日のことである。
渡米する時とは大違いで、東京へほんのわずかな期間私的な旅に出掛けるかのように、スーツケースを引きずりながら軽い
気持ちで出立した。だがしかし、その出立こそが、生ま育った故郷を離れ、その後生涯の長きにわたって他国や他県他所で暮らす
ことになろうとは思いもしなかった。
先ず、雨露をしのげるアパートを探さねばならなかった。東京都内のどの辺りに居を定めるか、上京する新幹線の車中で思案した。
居所に何の拘りもなかったが、決めるに際しての手がかりとしたのはある単純な事実であった。高校三年生の時に慶応大学受験
のため上京した。その入学試験は日吉キャンパスで行なわれた。日吉駅は東急東横線の沿線上にあり、都内での始発駅は渋谷であった。
受験前日に一泊したのは、同じ東横沿線上にある「自由が丘」駅のすぐ近くにあった純和式の格安旅館に予約もなしにいきなり飛び込んだ。
早稲田大学も別日に受験するため改めて上京したが、山の手線の高田馬場から都電で早大キャンパス近くまで行ったことは
かすかに記憶しているが、どういう訳か何処で宿泊したのか思い出せないでいた。結局、渋谷に近い東横沿線上であれば、
虎ノ門へ通勤するのもほどよいはずと狙いをつけた。
結局、土地勘と言えば、山の手線と東横線のごく一部に限られていた。土地勘とはとても言い難いものであったが、思い浮かべたのは
それくらいであった。インターネットやスマホという文明の利器の恩恵を受けられるのは何十年も後のことで、当時の頼りはやはり駅前
にある不動産屋だけであった。渋谷駅から4つ目くらいが遠くなくて良かろうと、「学芸大学」駅前の不動産屋
に飛び込んだ。そして、駅から徒歩15分くらいにあって、家賃の最も安そうなアパートを紹介してもらった。幾つかの物件を実際に
下見して比較検討することもなく、家賃の安さで即決した。月額15,000円であった。所在地は目黒区緑町で、駅前から賑やかな商店街
を通り抜けた後もう少し路地を進んだ先にあった。周りには騒音発生源もなさそうな静かな住宅街であった。
「青雲荘」という名前はよかったが、建物はいかにも古く老朽化した木造アパートであった。大きな地震が都心を直撃すれば
すぐにでも崩れ落ちそうであった。それに住宅の密集地であったので火災ともなれば怖ろしい状態になるかもと想像してしまった。
土砂降りの雨天時には、あちこちで雨漏りに見舞われるのではないかとも心配した。アパートを入ると
薄暗い通路があり、その両側に4、5部屋ずつ配置されていた。通路の一方の端には共同トイレがあり、私の部屋はそれと直に隣り
合わせであった。だからその部屋は借り手がつなかったに違いないと勘ぐったほどである。部屋に居ても水洗トイレから流される水の音が
聞こえてきそうなほどであった。
小さな刷りガラス一枚がはめ込まれたベニヤ板製の扉を開けると、四畳半一間の部屋があった。そこに40ワットほどの裸電球一つ
が取り付けられていた。そして、扉を開けてすぐのところにちっぽけな調理台・シンクが付属していた。その他には襖2枚のスライド
式押入れがあった。有り体に言えば、漫画文化の礎を築いた赤塚不二夫、手塚治虫、藤子
不二雄、石ノ森章太郎らの巨匠が青春時代に生活と活動の拠点にしたという、都内豊島区の木造アパート「トキワ荘」のようなもの
であったかもしれない。
部屋のガラス窓をガラガラと開けると、雑草が生えたままのわずかな空き地があり、それをはさんで同じような木造アパート
が立ちはだかっていた。その存在が日中でも室内を一層薄暗くしていた。昼間でも電灯を灯さないと薄暗くて気分が滅入るばかりで
あった。空気を入れ替えたりするために窓を暫く開けておくことはあっても、普段は窓をほとんど締め切ったままで、「万年開かずの窓」
であった。湿り気のある狭い部屋に昼間から長く留まっているのは気が滅入るので、週末はほとんど外出して気分転換を図るようにした。
さて、賃貸契約を交わすため契約書一通を大家に届けようと出向いた折のこと、いきなり保証人が求められた。今日明日にでも署名
をというのであれば、取敢えずは就業先の事務所長くらいしかいなかった。突然のことで一瞬困った顔をしてみせたのであろうか、
大家は「お勤めはどちらですか」と尋ねた。「虎の門ですが、、、」と言いかけたところ、大家からすかさず「ああ、要りません」との
返事が返ってきた。「虎ノ門」という地名のもつネームバリューと言うか、その信用力と「東京での常識」に驚くばかりであった。
恐らく霞が関の政府官庁か大企業の勤め人に違いないと、大家は勝手な思い込みをしたのであろう。
私の部屋の対面には、夫婦なかそれとも恋人同士で同棲しているのか分からなかったが、二十歳代半ばの男女が住んでいた。
彼らは大抵夜8、9時頃にはタオル、石鹸、着替えなどを入れたプラスティック製洗面容器を抱えて、二人仲良く銭湯に出かけていた。
私に言える資格はないが、私と同じように二人はこんな質素で老朽化したアパートに住んでいるものの、仲睦まじく幸せそうに
暮らしているようであった。今はたとえ貧しくとも励まし合い、明るい未来を信じて共働きでもしているのだろうと、勝手な想像
を働かせていた。
正直いって、若い二人が明るい未来を信じて東京の「コンクリート・ジャングル」を歩み行く姿は眩しくもあり、実に微笑ましく
もあった。人知れず二人にエールを送りたかった。1970年代前半に活躍していたフォークソング・グループ「かぐや姫」のヒット曲「神田川」
(南こうせつ作曲)の情景を彷彿とさせるものであった。歌詞曰く「二人で行った横町の風呂屋、、、、、小さな石鹸カタカタ
鳴った、、、」。私は扉前で二人に鉢合わせしないよう気を使い、時間をずらせて一人銭湯に出かけた。その帰り道にある大衆食堂で
日替わり定食などにありついて、夕食を済ませるのが日課であったた。そんな木造アパートに、1977年7月に結婚するまでの1年と
9か月間ほど暮らし続けた。
余談であるが、結婚以来不本意ながらずっと埼玉県人として暮らしてきた。新婚時代の1年ほどは埼玉県の所沢市内にある
社宅で暮らした。その後2023年の現在に至るまで40数年以上、同じ埼玉県内の鋳物工場のキューポラが林立する川口市内で暮らしてきた。
娘二人の古里は「海なし県」である埼玉県のこの川口である。私は故郷の茨木には25歳まで暮らしたが、今では川口市民としての
人生の方が圧倒的に長くなってしまった。想像もしなかったことである。押しも押されぬ埼玉県人・川口市民として暮らしてきた。
2019年3月には「翔んで埼玉」という、まるでダサい埼玉を励ますかのようなコミカルでシニカルな映画が封切された。主演はGAKTOや二階堂ふみ
等の大物俳優であった。川口はJR京浜東北線や埼京線で20分ほどで東京駅や新宿方面に出られる便利な位置にあり、物価も安く、
今では大勢の外国人が暮らす国際色豊かな町となっている。
休題閑話。毎日、「学芸大学」駅から渋谷へ、そこで地下鉄銀座線と丸の内線に乗り換えて「虎の門」へと通勤する生活が始まった。
東京での知り合いといえば関西大学大学院出身の二人の先輩がいた。時々会って食事したりカフェしたりして、他愛もない話で気晴らしを
していた。東京暮らしとなって間もない私には、未知の世界に居るのと同じで、何を見ても何をするにしても初めてのことだらけで刺激満載であった。
そして、ほぼ100%他人同士が右往左往するメガシティにおける「砂漠生活」に毎日少しずつではあるが慣れて行った。
所長の麓多禎氏は、自らが主宰する個人経営の事務所を「潮事務所」と名付けていた。その事務所は、
外務省・大蔵省・農水省が面する「桜田通り」と、新橋から虎の門方向に伸びる「外堀通り」とが交わる「虎の門交差点」から
徒歩で5分ほどの距離にあった。その交差点には、知る人ぞ知る文部省のレンガ造りの旧い建物が立つ。その文部省の裏手には、日本初
の超高層ビル「霞が関ビル」が立つ。今でもその交差点風景はほとんど変わっていない。
事務所の所在をもう少し分かりやすく言うと、こうである。「外堀通り」に平行して走る狭い「烏森通り」と「仲通り」の間に
名称不詳の一本の狭い通りがある。新橋駅のシンボルである蒸気機関車広場からその狭い通りを霞が関ビル方向へ歩くと、すぐに
「日比谷通り」を越える。日比谷通りは増上寺・御成門へと通じている。さらに進むと、通産省が面する「内堀通り」と交差する。
その交差点から100メートルほど手前の路地を入ったところにあった。その路地からその通りに出ると霞が関ビルが高くそびえていた。
今ではその路地周辺はすっかり再開発され、当時の面影はほとんど残されていない。
所長は旧帝国海軍の元海軍中佐であった。在ソ連日本大使館の駐在武官の任にあったこともある。事務所は木造2階建ての
賃貸用の小さな建物であった。「学芸大学」で借りたアパートと同じように、事務所も全く老朽化した古い建物であった。
虎の門という場所柄からすれば、最安の賃貸物件であればそれ相応の老朽化した木造建物であるに違いなかった。
板張りで軋むような音がする急な階段を昇り切ると、すぐ右手に事務所のドアがあった。ドアはベニヤ板製で、目の高さ辺りに
小さな刷りガラスがはめ込まれていた。開くと15平方メートルほどの部屋があった。部屋の窓は東側に面し、朝出勤する頃には
太陽の光が差し込んできて気分を明るくさせてくれた。それが事務所の唯一の長所であった。
強めの地震に襲われれば、積み木崩しのように瓦解しそうな建物であった。壁際などにスチール製書棚を幾つか置き、シアトル
からもち帰った書籍や資料を収納した。実は、書棚の重みの影響を受けて、壁際の床板が見るからにたわみ、梁との間に隙間さえ
開いていた。何時の日にか床が抜け落ちて、書棚もろとも階下に抜け落ちるのではないかと、恐怖さえ覚えるほどであった。だが、
そんな不吉な想像はしないように心掛けた。部屋は二人の机・椅子・海図を広げる大き目のテーブル・スチール書棚で手詰まり
状態であった。小さなキッチンが付属していたが、客用ソファーを置けるようなスペースはとてもなかった。
かくして、東京で社会人の第一歩を踏み出した。毎朝事務所に詰めるのは所長と私の二人だけであった。実は、兄弟会社のよう
に支え合っていた「英企画」という翻訳事務所があった。英規格は潮事務所から歩いて数分の
ところにある「第二森ビル」2階に構えていた。虎ノ門界隈などでは大変有名な不動産開発会社の森トラストの創業第一号ビルであった
らしい。翻訳事務所には4,5人の所員が詰めていた。経営は全く別であったが、所員は同じ会社に属するかのように出入りし、
何かにつけて協力し合っていた。特にイラストレーターの所員は、報告書用の海洋関連図式の制作において多大なサポート
をしてくれていた。
帰国後一か月ほど経ってからのことであった。東京暮らしにかなり慣れてきた頃、ロー・スクール大学院から一通の航空郵便物が
事務所に届けられた。バーク教授には事務所の住所をはじめ、事務所での海洋法制・政策に関する調査研究活動のことや近況について
通信を取っていた。開封してみるとB5サイズくらいの大きさの学位証書が丁寧に包み込まれていた。帰国直前にバーク教授から、学位授与に関する審査
委員会に諮られることになると聞かされていた。事情は前章で語ったとおりであるが、付け足しておきたいことがある。
平均スコアが「B」に届かなかったこと、学位授与審査委員会に諮られることは本来深刻な話であったはずであるが、当時私は何を
思い違いしたのか、バーク教授の説明を他人事のように頓着せず聞き流していた。何故聞き流してしまったのか。聞き流しは赤面の
至りである。「運を天に任せる他ない」と半ば諦め沈み込んでいたからであろう。今更教授と各教科のスコアを議論する話でもなく、
また泣きを入れて何とかしてほしいと懇願する話でもなく、自分にはどうすることもできないと思い込んでいたからであろう。
当時聞き流していなければ、教授と真剣なやり取りを交わし、かつ納得した上で帰国の途に就いた
はずである。だがしかし、聞き流したお陰で深刻な悩みとして引きずることなく、また教授の取り計らいを信じ全てをお任せし、
証書は日本で受領できることを念じて帰国の途に就いた。
いずれにしても、バーク教授が指導教授として、委員会においていろいろ骨折りをしてくれた結果であることは間違いないと容易に
想像できた。ある教科のマークが「B」であっても、スコアで見れば幅があった。例えば、同じマーク「B」であっても実際のスコアは81点か
もしれないし、88点かもしれない。マーク「C」でも74点か79点かもしれない。それらのスコアを平均して「B」、即ち平均80点以上である
必要があるが、どうも平均80点を若干下回っていたということらしい。バーク教授にその内実を確かめたところで、私自身は何も
できない「まな板のコイ」であった。運を天に任せる他なかった。「海洋総合プログラム」の総括責任者はバーク教授自身であり、
最後のキャスティングボードは彼の手中にあるに違いなかった。そして、委員会における学位授与の判断に至るまでのプロセスにつき
想像をたくましくすれば、バーク教授への感謝は決して感謝し過ぎることはなかった。
感謝はバーク教授だけでなく、ワシントン大学への応募にあたり推薦状を発出していただいた3名の母校の教授、そして曽野和明
国連法務官にも感謝し過ぎることはなかった。学位取得どころではなく、第一学期でのショッキングな成績に心が折れ、もう少しで
学業そのものからドロップアウトするところであった。何とかそれを乗り越え、学業修了と学位取得を果たすことができ、全てに感謝であった。
また、1ドル360円の固定相場制の時代において、家族はほぼ1年半にわたり、経済的・精神的に支えてくれた。
それ故に、家族に報いて行かねばという思いはいつも抱いてきた。
早速、国連奉職を志願するためのアプリケーション・フォームに、潮事務所での調査研究の職務開始に至るまでの履歴をしたため送付
する準備を整えた。老朽アパートの四畳半の部屋に据えた脚立式ごたつ台の上に手動タイプライターを置いてフォームを書き上げた。
留学から持ち帰ったタイプライターが初めてここで役に立った。
大学三年次の冬期雪上テントの中で閃いた時から数えて6年目にして、ついに自己納得のいく履歴書を国連へ送付することができ、
一区切りをつけることができた。人生の大きな目標に向けて、その足を一歩前に踏み出すことができた。
国連では何時に海洋法担当の日本人法務官ポストが空くことになるのか、恐らく何年も先のことと思われた。
第三次海洋法会議はまだまだ佳境の真っ只中にあった。人類は過去に経験したことのない、深海底鉱物資源
開発レジームを創設する渦中にあり、しかも「G77」と先進諸国とが激しく対峙する情勢にあったので、同会議は今後5、6年は続き、恐らく
日本人海洋法務官ポストが空席になるのは何年も先のことと推察された。ポスト空席を期待し過ぎると焦燥感がつのることになりかねない
ので、実務的に国連事務局へ送付することだけに集中した。1976年の年が明けた頃のことであった。
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