「海洋総合プログラム」は当年10月から翌年の9月末までの1年間の修士課程であるが、実質的には3学期9か月間に必要な履修単位を
取得し、かつ一定の学業成績として、平均スコア「B」(平均80点) 以上をマークすれば、「LL.M.(Legum Magister; Master of Laws)」
という学位(法学修士号)が授与されるコースであった。
簡潔に総括すれば、第三学期 (4~6月) においては、学業面でもプライベート・ライフ面でもすこぶる充実したキャンパスライフ
を送ることができ、それまで経験したことのない「留学の喜び」を噛みしめることができた。
た。
さて、無事第三学期そのものを修了したとはいえ、一つの悩みが浮上していた。他の4名のクラスメートは、同学期末までに
学位取得に必要な全単位を取り終え、早々と卒業して行った。私といえば、第一学期での2教科のドロップアウトが響いて、
単位不足を同学期末までに完全にリカバリーできずにいた。学位取得には程遠い状況にあった。単位を欲張って多めに
取得しようとすると、語学力不足も相俟って往々にして勉学上の消化不良を引き起こし、学業成績不良という結果を招くリスクがあった。
即ち、平均値が絶えず「B」を下回ってしまうというリスクを抱えてしまうことになる。それを避け続けてきた結果単位取得不足に
追い込まれていた。
ところが、私的にはその点意外とのんびりしたものであった。逆転の発想をしてその単位不足を楽観的に捉えていた。ところが、
事はそう簡単にすまされれず、いわば大きな錯誤であることを後で知ることになった。シアトル・ライフも2年目を迎えていた。
それをまたとない良い機会と捉えて、サマーシーズンを迎えるつつあるシアトルでのんびりと気ままにシティライフを過ごしてみたかった。シアトルで過ごすベストシーズンは7から9月の夏期をおいてしかなかった。
夏以外の時季においては曇天や雨天の日が多く、アウトドア・ライフやバケーションには到底向いていなかった。学生は屋内で勉強する他なく、
勤労者も事務所や工場で働くほか過ごしようがないとも言われていた。マイクロソフト社がシアトルに本社を構えたのは、それが理由
であると真しやかに噂されていた。翻って、夏季以外では雨天日が多く従業員も工場内・事務所内での勤務に精を出すということらしい。
ところが、夏季は別格で快晴の日々が続き屋外活動やバケーションを楽しむには最高のシーズンであった。
学費や生活費などは余計にかかることは百も承知で、学位取得に不足していた数単位については、夏季バケーションをシアトルで
悔いなく楽しんだ後に迎える秋学期に取得しようと思い立った。実にシンプルな発想であった。夏期には思い切りよく、米国内の幾つかの大
都市を旅して見聞を広めたいという、ささやかな希望も抱いていた。酷い貧乏旅行になっても、アメリカ社会事情と異文化を知る上での絶好の
機会としたかった。
ところが、私のそんな目論みはかなり甘かった。事は全く違った方向に進み出した。第三学期末にバーク教授と面談し、秋学期での単位
取得と言う私のアイデアを口にした時のことである。教授曰く、「夏学期に単位を取得し、早く学業を終え、世に出てお金を稼ぐのが
良いのではないか」と助言されてしまった。初めはきつい冗談かと思った。だが、直ぐにそうではないことを悟った。アドバイスと言う
よりも、事実上の「お達し」か、本気の忠告であると受け取らざるを得なかった。ずっと後で気付いたことだが、
「次の秋学期には新しい留学生が入学する予定であるから、夏学期に単位を取って学業を終えてほしい。さもないと後がつかえる」
ということだっのであろうか。それに違いないと勘ぐってしまった。ほぼそういうことであった。
教授の一言にハッと我に返った。確かに教授の助言に一瞬戸惑いを隠せなかったが、早期就労は言い得ていることでもあった。
当初のシアトルライフのエンジョイの目論みはあっさりと崩れ去ってしまった。教授のアドバイスを率直に受け入れて、旅プラン
を諦めるべきか思案しながら教授室を後にした。かくして、バケーションにはベストシーズンであるはずの
シアトルに踏み留まり、学業に精を出し、夏学期には必要な単位を全て取得し課程を修了するという決意を固めることにした。
キャンパスに足止めとなり、サマーセッションに身を投じ学業に専念するのは仕方がないと一旦は潔く諦めたものの、だが、
思い描いていた旅行のことが脳裏から離れなかった。学業に身が入らないような精神状態を続けるのは良くないとの
思いがもたげて来た。ついには旅への誘惑に勝てなくなった。「思い切って旅に出るべし、善は急ぐべし」と、夏学期が始まる
前の少しの間隙を縫って旅を敢行することにした。
旅への渇望を抑え切れずに向かった先はロサンゼルスであった。大学時代の部活で一緒だった後輩と再会した翌日、ダウンタウン
に社屋を構える天然資源開発会社「ヒューズ社」を訪ねた。同社は、当時のこととして、無尽蔵的に賦存する深海底鉱物資源のマンガン
団塊を水深4~5,000メートルから商業的に採鉱するための技術開発とその事業化に向けて莫大な投資を行なっていた。
いわば団塊開発の世界的トップランナー、あるいはパイオニア的存在であった。採鉱技術開発の現況や将来的展望、同社への就職の可能性はいかほどか、何がしかの情報を得たいとの思いがあった。同社訪問したものの、事前予約なしということもあって期待通りの情報入手はできないまま、
次の目的地であるサンディエゴへと向かった。
サンディエゴのダウンタウンにて安ホテルを確保した後、海の匂いがする方向へとそぞろ歩きの散策に出掛けた。
暫く足を進めると海が開け、船溜まりの中に一隻の小型全装帆船が係留されていた。写真を何枚か切り撮った。
帆船の船尾には「スター・オブ・インディア号」という船名が刻まれていた(後でネガフィルムを現像してみて船名を知った)。
当時、同帆船が船舶博物館としての「サンディエゴ海洋博物館」の一部を構成する海上展示船なのかどうか、全く気にすることもなかった。
岸壁には、見るからに近代的で最新鋭のカツオ巻き網漁船も係留されていた。カツオ漁船といえば日本の一本釣り漁船しか
イメージできなかった。そのカツオ巻き網船の概観をじっくり観察してみて、いかにもその優れた近代的装備に大変驚いた。それもさることながら、高度回遊性のカツオの群れを巻き網という漁具漁法をもって一網打尽に捕獲するという、正に略奪的であり、また実に「革新的」である新漁法を
生み出すアメリカの底力に驚かされたことを今でも記憶する。当時日本ではカツオ操業では一本釣り漁法が殆どで、巻き網漁船は普及して
いなかったはずである。
波止場の周辺には、船舶模型や海事関連史料などを展示する
「海洋博物館」があった訳ではなかった(実際に存在しなかったのか、あるいはそれに気付かなかっただけなのかは不明である)。当時、
海事関連の博物館を訪ねようという趣味はもち合せていなかった。訪れたことのない処女地の港において岸壁沿いに散策しながら船風景をなど
を楽しむ程度であった。だが、計らずもその30数年後にその同じ岸壁にたたずむ機会があり、正に同じ場所で全く同じ帆船を目に
する機会を得た。その時には「サンディエゴ海洋博物館」という船舶博物館の名の下で波止場に係留展示されていた
数多くの退役艦船を訪ねることができた。だが、船舶以外の海事展示物はやはり見かけなかった。
さて、サンディエゴには別の目指すべき訪問地があった。翌日、ダウンタウンから電車とバスを乗り継いで、数10km北にある
ラ・ホヤという太平洋岸沿いの町に向かった。ラ・ホヤは海浜高級住宅&リゾート地としても有名であった。その郊外に海洋研究のメッカとも
いえる「スクリップス海洋研究所」があった。米国東海岸にある「ウッズホール海洋研究所」や「ロードアイランド大学海洋学部」
などと並んで、スクリップス研は世界でも最高峰の海洋研究・教育機関である。ワシントン大学ロー・スクール大学院や海洋研究所(IMS)
の「海洋総合プログラム」で海洋学の基礎講座を受け持ったフレミング教授は、この研究所を退官した後ワシントン大学に迎えられた
著名な海洋生物学者であった。
スクリップス研のキャンパスは、そこそこに急峻な崖の上部にある高台から海岸線までの斜面一帯に広がっていた。その高台から
見下ろすと遮るものがなく眼前には太平洋の大海原が180度広がる。単調な海岸線に沿って砂浜の海水浴場が南北に長く伸びている。
海岸からは一本の大桟橋が数百メートルほど沖へと突き出し、その先端には研究調査船が接岸されていた。
崖の斜面に沿って数多くの海洋教育・研究施設、図書館、付属水族館、カフェテラスなどが、ゆったりとしたスペースの中に
配されている。海洋学関連ラボラトリーでは海底ボーリングによって採取された柱状コアサンプルを解析しているところを見学
させてもらった。また、研究所附属の海洋生物展示館(水族館)を訪ねたりもした。ジュラシックパークのような深緑に覆われた
ワシントン大学とはまるで風趣が異なるスクリップス研のキャンパス内を散策しながら、暫しゆったりとした時間を過ごした。
サンディエゴはスペインやメキシコとの歴史文化的繋がりが深かったこともあり、またメキシコと地理的にも近いこともあり、
シアトルとは趣きが全く異なっていた。商業・港湾・観光の大都市であった。近郊には広大な敷地を誇る「バルボア・パーク」があり、
ラテンアメリカ文化の風趣が至る所に漂う。大勢の一般市民や観光客がパーク内を散策し憩っていた。私的には、生まれて初めてラテン文化的
風趣に接することになった。そして、ラテン的風趣に前のめりになって行く自分を褒め称えると共に、その喜びを人知れず噛みしめ一人
高揚していたことを覚えている。
青少年の頃に船乗りとなって南米のサントス、リオ・デ・ジャネイロ、ブエノス・アイレスなどの港町で中南米文化の
風趣に触れることに憧れていたが、サンディエゴでそれらしきものに遭遇でき、何か陽気で明るく愉しい気持ちになれた。
そして、それに大いに触発されてのことであるが、折角の機会を捉えて思い切って国境を越えメキシコの土を踏んでみる
ことにした。当初全く予定していなかったが敢行した。グレイハウンドのバスで、フリーウェイの先に設けられた大規模な
米墨国境ゲートを通過した。その後間もなく国境の町ティファナへと入り、旧市街地の一角にある安宿にありついた。かくして、
生まれて初めて中南米のスペイン語圏の国メキシコの土を踏みしめた。
アメリカナイズされた国境の田舎町ではあったが、私的には初めてラテン文化の風趣に浸るには手頃な町であった。そこで初めて
好奇心を全開にしてスペイン語の世界に浸った。初めての異文化体験は鳥肌が立つほどに新鮮な感激をもたらしてくれた。ティファナで
何をするのか何の計画性もなかったが、ピザ屋で見かけた有名な闘牛の観光・広告ポスターに邂逅したことから、市内の闘牛場にて
一度は本場の闘牛を観覧してみたいと勇んで出かけることにした。
最初は、仰々しいほどに鉄壁の防護装具に身を固めた馬と、その馬上の剣士が牛の背の首元あたりの急所に
剣を刺し込んで行った。牛は徐々に突進する勢いを失って行った。ほどなく赤いマントを振り回す主役の闘牛士が
次々と同じ急所をめがけて剣を刺し続けた。そのたびに牛の首元から血が吹き出し、場内には大歓声が湧き上がり地響きが
するようであった。最後の一剣をもって止めを刺す。その瞬間こそが闘牛のクライマックスであった。
最後の一剣で巨体を倒せれば闘牛士の最高の誉れとなる。彼は英雄となって拍手喝采を浴びる。だが、時には闘牛士が牛の角に
引っ掛けられて宙に髙く舞う場面も見せつけられた。彼は牛に踏みつけられ最早起き上がることさえできなかった。
すぐさま仲間の闘牛士らが場内に躍り出て、何とか助け出された。かくして、ティファナで闘牛と言う代表的な一つのスペイン文化
の「舞台劇」に釘付けとなった。
少年の頃私が育った田舎の我が家では、牛一頭を毎年大事に育ていた。身体の大きな牛には似合わない愛らしいつぶらな瞳をみ
つめながら毎日牛の世話をして随分と慣れ親しんできた。牛が剣で仕留められるシーンはやはり残酷なものに思えた。異文化への感動どころか、
価値観の相違に大きな衝撃すら覚えた。正直違和感だけが残ってしまった。
闘牛士と牛との闘いは、彼の事故死や大けがと隣り合わせであり、迫力ある闘いの場景がそこで繰り広げられることも事実である。
だが余りにも血なまぐさいものであったため、私的にはひどく心を傷つけられたような気になってしまった。表現しがたい何とも
後味の悪い余韻を引きずりながら闘牛場を後にした。
二度と闘牛を観覧するつもりはなかったが、実はスペイン旅行中に止む無き事情があって闘牛観戦に付き合わされることになった。
その時は最早何の感激も高揚感も湧かなかった。スペイン文化やラテンアメリカ文化に強い興味をもち続けていたが、
闘牛だけは親しみがもてなかった。ともあれ、ティファナにて束の間の異文化体験を楽しんだ。そして、その後の人生において、中南米の
地に8年以上も身を置くことになろうとは想像もしなかった。ティファナこそラテンアメリカ文化に触れる最初の起点となった町であった。
休題閑話。旅から帰って夏学期への本格的な準備を始めた。今学期において集中的に取り組みたいテーマは、深海底に賦存する
マンガン団塊に関するものであった。早速、関連資料を収集することから始めた。キャンパス内の二つの「総合図書館」とその他の専門図書館
を巡り歩いた。そして、収集した資料を片っ端から通読すべく没頭した。マンガン団塊の地理的分布状況、成因や金属元素の含有比率などの
鉱物学的な特性、採鉱や精錬の技術開発の現況、採鉱と海洋環境インパクト評価、主要含有鉱物の経済的価値や国際市況の動向
などを概観しようと務めた。
他方で、マンガン団塊の開発管理制度、例えば探査・開発の事業主体、鉱区割当、国際管理機関の構成・
権限・規制のあり方・意思決定方法など、また鉱物産出国に経済的配慮を行なうための生産管理、国際管理機関への事業主体による技術支援
のあり方、採鉱収益の途上国への配分システムなどに関する国連第三次海洋法会議における審議状況や課題などを理解しようとした。
団塊は、1873~76年の英国海洋調査船「チャレンジャー号」の世界海洋探検航海において初めて発見された。発見自体はすこぶる早い段階
になされた。団塊にはマンガン、鉄の他に、微量ながら銅、ニッケル、コバルト、亜鉛、モリブデンなど殆ど全ての有価金属元素が含まれている。
当時としては、最も豊富な賦存海域は、北部太平洋の赤道近くにあってハワイ諸島の南東海域の北緯20~6度30分辺りの水深3,000~6,000
メートルにある「クラリオン・クリッパートン断裂帯」と称される海底であった。
単位面積当たりの賦存量としては、例えば、太平洋全域での平均値11.2㎏/平方メートルというデータも見受けられた。ある学者は、
太平洋海域での団塊に含有される銅の全量は、1960年での世界消費量の6,000年間分、ニッケルは15万年分に匹敵すると概算していた。
また、極めて低い率であるが、団塊は数百万年に1~100ミリ程度凝集されつつあるともいわれた。とはいえ、凝集速度や海洋に賦存する
全量について一致した学説は当時としては未だないとされた。
一般論的には、鉱物資源開発に要する技術・資本力を有する先進諸国は、マンガン団塊をできるだけ自由に探査・開発することを望んでいた。
1973年に国連第三次海洋法会議の第一会期が当時始まって間もない頃には、その探査・開発は、新たに創設予定の国際機構による一元的
管理に服することを頑なに主張する途上国「グループ77」と、できるだけ緩やかな管理下に服することを求める先進諸国とが激しく
対峙していた。
米国、英国、フランスなどの先進諸国が主張していたのは、国家あるいは民間企業体は、団塊の探査・開発に当たって形式的に国際機構からライ
センスを取得し、その対価として一定の合理的な許認可手数料あるいは登録料を支払うという「ライセンス方式」であった。
国際機構の実質的な機能は、開発企業体間の鉱区割り当てに際しての利害対立回避のための調整を果たすことに限られるべきというものであった。
これに対して、東欧諸国を含む発展途上国の「グループ77」は、深海底を人類全体に帰属させること、その資源を「人類の共同財産」
とすること、その開発による収益に関し途上国も平等に享受すべきであること、さらに設立される国際機構の強力で一元的な管理の下で
探査・開発のコントロールが行われるべきであることを頑なに主張していた。
即ち、「G77」は、国際機構が探査・開発・精錬・販売までの実施主体・事業体となるべきとの主張を堅持していた。
しかし、機構そのものには技術・資金力がないことから、先進諸国の企業体は、機構自身がもつ事業体(「エンタープライズ」と称された)
とのジョイント・ベンチャー(共同事業体)契約の下で、オペレーター(操業者)として雇われたうえでそれらの活動に参加すべき
というものであった。かくして、国連海洋法会議の初期段階では、大きくは「ライセンス方式」と「直接開発方式」の2方式が先進国・
途上国間で鋭く対峙していた。そして、1975年当時にあっては、その行方は混沌としたものであり、開発方式に関する合意形成は如何様に落ち着くか、全く
見通せる状況にはなかった。
時間軸を1年ほど早送りして、その後の対峙の行方を追ってみたい。先ず先陣を切って米国がその対峙の打開を図るべく重要な提案を行なった。即ち、1976年第4春会期において、米国キッシンジャー国務長官が以下のような提案をするに及んだ。
国際機構はその下部に組織される事業体でもって直接開発することができること、
同時にまた国家企業体および民間企業体は、国際機構と契約して探査・開発できること。そして、同企業体は、探査契約時において、同等の商業的価値を有するの2の鉱区を申請し、かつ探査は一方の鉱区に対して許可されること。他方の鉱区については、機構自身の事業体や途上国による開発のために留保されることなどが提案された。
先進・途上国間の対峙は基本的に、探査・開発に従事する事業主体を誰にするかということであり、それこそが最も際立った
対立点であった。だがしかし、対立点はそれだけではなく、後々には様々な重要事項についての対立が浮上して来ることになった。
それらの対立点について双方の外交的妥協が成立し、かつ海洋法条約案の最終的な採択に漕ぎ着けるまでには、その後7年以上もの
歳月を要することになった。
条約案の最終合意形成がはかどらなかった根本要因は、ひとえにマンガン団塊の探査・開発レジームに関し諸国はなかなか一致点を
見い出し得なかったことによるものである。それは無理からぬものであった。団塊の探査・開発の管理レジームの創設は、国際社会にとって
過去に経験したことがない作業であった。また、過去に存在しなかった智慧を搾り出す作業でもあったといえる。即ち、人類にとって、
「人類の共同財産」と位置づける資源の探査・開発・収益配分などを一元的に担う国際組織とその管理・運用(ガバナンス)のための
法的レジームを史上初めて創設するというものであった。このことから止む得ないプロセスを経験しつつあったといえる。
さて、夏学期において、マンガン団塊の探査・開発レジームにつき、何処に焦点を合わせ、如何なる視座の下にタームペーパーを書き上げるか
思索を続けた。当時団塊の採鉱システムには大別して、この機械式の「連続バケット方式」と、巨大掃除機のようなサクション装置による
「ポンプ式リフトアップ方式」があった。団塊の探査・開発の規制・管理のための法的レジームについては、概観的な論究に止め、むしろ
メインとしては採鉱がもたらす海洋環境への影響評価の現況、あり方、その課題について論究することにした。
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