大阪から上京してすぐのこと、雨露をしのぐための住まいを固めた。1975年10月中旬のことであった。その後は、虎の門の「潮事務所」
に毎日通勤するようになった。当時日本の国会では、ある法案を巡って与野党間で激しい政治論戦が繰り広げられていた。
その法案とは、日本と韓国との間で締結された、東シナ海などにおける大陸棚の境界画定に関する協定のことである。
韓国の国会は既にそれを批准していたが、日本では協定の批准の是非を決するため国会審議に付託されていた。
「日韓大陸棚境界画定協定」は2部から成り立っていた。一つは、朝鮮半島と対馬との間にある「対馬海峡(西水道)」に沿って引かれた「日韓大陸棚
北部境界に関する協定」である。もう一つは、九州西方沖の特定海底区域を巡る「日韓大陸棚南部の共同開発区域に関する協定」であった。
潮事務所へ入所した当時、所長が調査研究テーマとしていたのはこの日韓大陸棚画定協定であり、それにほとんどのエネルギーを
注ぎ込んでいるようであった。私的には、そのような海洋法制あるいは政策課題に関する調査研究は、自身の本分と認識していた。
海洋法などの知見を生かしつつ、喜んで取り組むべき所業としたいところであった。また、大いに遣り甲斐のある所業でもあった。
だが、残念なことにそのことに関与し真剣に向き合うことはほとんどなかった。それについては後ほど触れることにしたい。
所長はしばしば幾人かの国会議員に会うため、国会議事堂の裏手にある衆参の議員会館へ時折訪ねていた。時には私を連れて会館へ出向くこともあった。
例えば、当時社会党の党代表であった土井たか子氏、自民党・宇都宮徳間氏や鯨岡兵輔氏、共産党・松本善明氏などの議員事務所を訪ねた
りしていた。議員事務所では日韓大陸棚協定について、時に国会議員と意見交換を交わすこともあったが、取り立てて事を深掘りするような
話し合いはなく、軽めの雑多な内容に始終することが多かった。
所長が私を連れて議員事務所を訪ねる真意や背景をかなりの期間呑み込めなかった。私には、諸先生方と事務所との関わり合い
がよく理解できていなかったからである。後に分かることだが、所長は長く日韓大陸棚協定を研究し、それらの国会議員と深い関わり
合いをもち、既に彼らとそれなりに密度濃く意見を交換して論議を尽くしていたと考えられるようであった。私という新米の
入所者を先生方へ顔見世することを兼ねて、旧交を温めつつ国会審議の動静などを知るための訪問であったと後で理解するようになった。
更に、当時の私には理解できていなかったことがある。即ち、私が入所するずっと以前から、所長は少なくとも過去数年にわたり、
日韓大陸棚の境界画定や海底石油資源の分界に関して法的および政治的にそれなりの疑念や憂慮を抱き、それを解明し「正論」を世に問おう
と真剣に取り組んでいたということである。入所からほぼ半年後の1976年5月に、所長が協定批准に対して疑義を呈する一冊の調査
研究レポートを簡易印刷した時、そのことをはっきりと理解した。そしてまた、入所以来理解できていなかった所長自身や事務所の
基本的立ち位置や信条の他、批准反対の法理やその他の論拠についても、後追いながら理解することができた。次節では、そのことについてはもう少し
深掘りしたい。
閑話休題。所長が日韓協定の研究レポートの執筆に没頭していた頃、私自身は、所長から頼まれた国際司法裁判の資料の翻訳などの面で
極わずかな手伝いはしたものの、ある別の翻訳の仕事に掛かり切りであった。そして、その翻訳では提出期限に追い込まれる日々で、
毎日緊張感をもって、朝から夕方まで英和辞書と首っ引きであった。それは分量のある本格的な翻訳仕事であった。所長の知り合いの
朝日新聞論説委員からの紹介によるものであった。海洋法関連の国際シンポジウムを請け負ったある会社からの翻訳仕事であった。
そして、そのシンポジウム議事録本体の和訳だけでなく、海外から同シンポジウムに寄せられた研究論文の翻訳なども多数含まれていた。
また、それに引き続いて、ある国内出版社からの依頼で、海洋における人間の営みや海洋の自然諸科学を総観する海洋大図鑑のような図書
を和訳することも請け負っていた。これもかなりの分量があった。
これらの翻訳に3、4ヶ月没頭した。アド・ホックな現金収入ではあったが、歳入面で事務所にそれ相応の貢献ができた。
翻訳内容としては、ワシントン大学での「海洋総合プログラム」で学んだ海洋にまつわる諸学の領域とかなり重なり合うものであった。故に、
学んだ知見を大いに生かせることができ、取り組み甲斐のある仕事であった。中には手に負えないような内容を含む難解な論文もあったが、
そこは勘弁してもらったりもした。私にとって、事務所での最も仕事らしいものといえば、これらの翻訳仕事が最初であり、かつ最後
のものとなってしまった。つまり、後にも先にもこれら以上の収入源となる仕事に巡り会うことはなかった。
その他では、朝日新聞の「論壇」や北海道新聞のコラム向けに、当時の第三次海洋法会議の動向を踏まえながら、200海里排他的経済
水域の制定化の行方や、日本漁業への長短期かつ直接間接のインパクトやその将来展望について、論評的な記事を執筆させてもらったりもした。
正直に言えば、事務所が擁する定期的で安定した収入源は、私の見る限り皆無に近いものであった。
当時においては、全てはアド・ホック、スポット的な翻訳や原稿執筆のみによる収入であり、持続可能性のあるものとは言い難かった。
ところで、海洋法制や政策課題に関する調査研究を標榜する限りは、当時なおも佳境にあった国連海洋法会議の最新動向
について、英語・邦語を問わず、学術定期刊行物などに発表された論文をはじめ、最新の審議状況を踏まえて発出される関連情報を収集し、
絶えずキャッチアップしておく必要があった。最も頼りにしたのが、事務所からの最寄駅である地下鉄「虎の門」駅から2駅先にあった
国会図書館であった。
時間を見つけては、情報収集のため国会図書館通いをすることが多かった。国会図書館の蔵書数は無論国内最多であった。
200海里EEZ、離岸200海里以遠における大陸棚の限界画定、深海底マンガン団塊開発レジームなど、海洋法会議における重要テーマに関する
外交交渉の動静分析を特集的に取り扱う幾つかの重要な学術定期刊行物、その他海事・水産・海運などの分野ごとに出版
される定期刊行物などからも情報収集したかった。米国出版社発行の「Ocean Development and Law of the Sea」はその一つの
高齢であった。
国会図書館は閉架式であり、また図書閲覧請求ができる書籍数に限度があった。一人一回につき10冊までであった。図書カード収納ボックスから
目当てとする図書検索カードを探し出し、その図書請求番号を調べた上で請求用紙に記入し、カウンターで閲覧請求する。雑誌の場合は「総合雑誌索引
目録書」からその請求番号を探さねばならなかった。複写したい場合、ページに付箋紙をはさみ、別途請求用紙に記入の上、複写請求を行なう。
待ち人が多い場合や、検索や請求行為に要領をえないと、図書の受領や複写完了まで2、3時間はかかる。昼食をはさんで、何とか
2回の図書請求と2回の複写請求を行ない万事終えると午後4、5時になる。ほとんど一日仕事であった。前近代的閲覧システムに
歯がゆさを感じていたとはいえ、そこはぐっと堪えて覚悟を決めて資料収集に勤しんだ。
時に東京水産大学の図書館などにも足を運び資料を得た。そのきっかけは単純であった。所長に連れられて全国漁船保険組合という
公益法人の事務所に出向いた時、その理事長であった浅野長光氏に初めてお目にかかった。浅野氏の常勤先は当該組合であったが、
東京水産大学で国際海洋法の講師をも務められていた。懇意にさせて頂いたのはずっと後のことであるが、その出会いをきっかけ
に同大学図書館の利用を思いついた次第である。開架式の図書館であったので外部の一般利用者にあっても自由に館内閲覧でき
有り難かった。だが、一度出掛けるとやはり一日仕事になり、足がだんだんと遠のくことになってしまった。
ところで、事務所での仕事上の悩みが幾つかあった。その悩みの根っ子にあるものは同じであった。海洋にまつわる文献翻訳、
新聞向けの原稿執筆、各種の情報収集、関係者との面談などの他、海洋法や海洋政策関連セミナー・講演会への出席、その他
何がしかの調査研究に集中している時は雑念や悩みから解放された。だがしかし、その集中から離れると心は再び悩みに掻き乱された。
その近因の一つであったのは、給与に見合うだけの貢献、即ち事務所歳入への貢献を十分になしうる状況ではなかったことで
あろう。それが重荷になり、負い目を感じるようになっていた。
事務所として定期的で安定した収益がない中、所長は私への給与を毎月工面してくれた。その軍資金は恐らく自身の年金から
の融通ではなかったかと推察していた。所長の年金は元々自身の貴重な生活費に違いなかった。
申し訳ないという後ろめたい思いをいつも抱いていた。事務所への収入を十分に上げられず、情けなくもあり、また気の滅入ることでも
あった。思い過ぎかもしれないが、何か所長のパラサイトのような感覚に囚われることもあった。所長の経済的工面の辛苦を思うと、
ますますもって後ろめたく感じ、心が沈みがちとなった。
意気消沈するもう一つの大きな近因があった。事務所の定期的な収入源になるような、海洋法制・政策などに関し他者に提供できる
「調査研究サービス」や、定期情報印刷物のような「売れる商品」を見い出せなかったことである。それを創り出そうにも、創れなかったことである。
ある民間会社のサラリーマンが、毎日同僚とルーティンワークをこなし、何か商品を作り、あるいはサービスを提供し、
一日を終える。一か月後には、会社が得た収益から給与として報酬を受け取る、そんな普通にあるビジネス界の
話しではなかった。それとは全く対極にあるような世界に所長と私は身を置き、右往左往していた。
想像を少し逞しく働かせていればの話でであるが、入所前の段階からそんな状況も十分読めたはずのことと思えた。とはいえ、現実に
そのような状況下に身を置くとなれば、やはり辛いものがあった。会社の一社員であるというよりも、所長も私も個人経営者あるいは
自営業者であり、まさに自己管理と自己責任の世界に身を置いていたといえる。何の販売できる商品や提供できるサービスもないと
いうのであれば、当然収益は得られず、何の対価や報酬も享受することもない。周りは皆そんな当たり前の世界に身を投じている
ことは頭では理解できても、月日を経るにつれ現実の厳しさや焦燥感がにじんわりとまとわりつき始めていた。
翻って見れば、海洋にまつわる調査研究に身を置くようになったことは私的には嬉しいはずのことであった。また、それは大いに意義深く、
遣り甲斐のあることであった。もっと言えば、それは好きでやっていることであった。では、一体何を悩んでいたのか。
何故に心が沈みがちであり、時に心が折れそうであったのか。悩みの原因を突き詰めた先にあったのは、一言で表現すれば、事務所の
事業の将来的な見通しや展望を描けなかったことである。それ故に、財政的基盤を確保できる見通しも開けてこず、自身ではそんな
状況から抜け出せないと思い込み心が苛立っていたのであろう。
今から思えば、所長にも私にもビジネス・センスがありそうになかったと言えた。ビジネスべたというか、その不器用さ
はどうしょうもなかった。営利目的のビジネスを創始し営むセンスには全く恵まれず、またその気概もなかったようだ。
現実に提供できる商品を創作できていなかった。所長も私も、海洋法制・政策にまつわる調査研究を通じてそれを創り出すための
アイデアも貧弱であった。
私の入所前までは、所長は、一人でいわば「自給自足」的に、また「自律自立性」をもって個人事務所を営んでいた。恐らく、事務所
の賃貸料の支払いを含めほとんど財政的困難を伴わずに事務所を維持していたことであろう。しかも、所長自身が擁する社会的使命や
正義感をもって所業を遂行できていたはずである。だが、私と言う他人を事務所に迎え入れたために、厳しい経営環境に自らを追い込んでしまった。
事務所はそんな状況下にあるに違いない、と一人考え込むこともあった。それを思うと、さらに心が沈み込み将来への希望の
光が消えて行くようであった。
ある時シアトル時代のある友人から「詰まるところ、事務所では何を売っているのか?」とストレートに問われた。返答に窮してしまった
ことがあった。胸にずっしりと堪えた。今から考えれば、事務所の事業として何ができたであろうか。翻訳や新聞原稿執筆などの他に、海洋法制や政策課題を調査
研究しつつ、どんな所業をビジネスとして立ち上げ、その経済的基盤を築く上でどんな方途があったであろうか。
当時おぼろげながら、また断片的ながら、その方途について思い描いていたこともある。そして、そのうちの一つを主軸にして
創始しようと取り組み始めたのは、事務所を1976年10月末に退社して数年も経た頃のことである。だがしかし、結論を先に言えば、
その新規事業の経済的採算性を維持することはやはり至難の業であった。後に残った物といえば幾つかの簡易印刷物と、チャレンジしたという
誇りだけであったかもしれない。チャレンジの詳細は後章で触れることにして、事務所としてどんなビジネスがありえたのか、
そのアウトラインを以下に記してみたい。
・ 社会的関心やニーズのある海洋法制や政策課題に沿って調査研究を行ない、「ニュースレター」などの定期刊行物を発行し、講読者を
得る。
・ クライアントのニーズに応じて海洋法制や政策課題に関する調査研究を受託し、特別研究レポートを作成し対価を得る。
・ 海洋法制や政策課題などのシンポジウムやセミナーを会員制あるいは会費制をもって開催する。
・ 事務所に対する「賛助会員」を募り、海洋法制や政策課題などに関する会員向け研究レポートを定期・不定期に配布する。
・ 公益法人などから助成金や研究資金を得て、海洋法制や政策課題に関する特定テーマの調査研究を行ない、レポートの作成や
セミナーの開催を行なう。
だが、所長と私の二人で企画立案し実行に移すとして、どれほどのことが持続的採算性をもって実現可能か、そのバランスシートは
いかなるものになるか。研究レポートの編集・印刷、セミナーなど
の開催においても、固定経費はそれ相応に掛かる。年に何回定期的研究レポートを発行し、何部の冊数を販売でき、収支バランスを
黒字にすることができるか。特定の公益法人が関係管轄省庁などから公的助成金をもって調査研究したり、その成果品としてのレポートを非売品として会員限定
方式で無料配布するという安定経営とは全く異なるものである。
いずれにせよ、社会科学系の学術的調査研究をもって収支バランスをとるには乗り越えるべきハードルは極めて髙いものが
ある。
現実には事務所による起業は何もできなかった。所長と膝詰で話し合い、ビジネスの具体的な事業計画を構想し、その実現のための
方途を真剣に探るべきであったであろう。だが、それもしなかった。
真の社会的ニーズを掴みながら、海洋法制・政策課題を調査研究し、その成果を定期刊行物や
特別レポートという形に仕上げ可視化を図り、関係者に喜んで買ってもらえる何かを、あるいは定期・不定期の収入源につながる
何かを見つけたかったが、それはできなかった。所長にも私にもビジネスを掘り起こす才覚は無きに等しかったことは残念至極のことであった。
今から思えば、二人が面と向き合って何の相談も、あるいはアイデアの交換もしなかった。二人が何の意思の疎通も図ろうと努力
しなかったのは、余りに消極的過ぎた。余りの不甲斐なさに今更ながら落胆するばかりである。余りにも奥ゆかし過ぎたといえよう。事務所の将来について模索し合い、
アイデアを出し合い共有し、互いに相談できる同年代の仲間もいなかった。それを言い訳としたり、愚痴るつもりは毛頭ないが、
残念ながら発展性のない方向を選択してしまった。自己嫌悪に陥りそうであった。
地下鉄で渋谷に出て東横線に乗り換え、「学芸大学」駅から商店街を通り抜け、誰もいない四畳半のアパートに戻れば、
ため息しかでなかった。確かに同年輩の仕事仲間がいなくて、孤独感がいつもまとわりついていた。気を取り戻して、洗面器に石鹸・タオルなどを入れて銭湯へ
行くのも、重い足取りであった。帰りに大衆食堂で腹ごしらえをして少しは元気を取り戻した。自身のビジネス・センスの無さに
忸怩たる思いを抱き、他方で事務所の将来に明るい展望もてずにいた。何か出口の見えない暗いトンネルに入り込んだかのような
日々を送っていた1976年の桜咲く春を迎えた頃のことであった。後に運命を劇的に変えることになる一つの新聞広告に偶然
出くわした。
余談であるが、そんな気の滅入る状況下でもやらねばならないことがあった。国連への奉職の志しはまだまだ燃えていた。
実は、留学から帰国して暫くして、関大大学院の仲間や、縁あって顔を出していた「海洋問題国際研究所」のある理事から、何か
論文を寄稿しないかと誘われていた。それをチャンスにして、週末などにアパートでしこしこと執筆に取り組んだ。
よくよく考えて見ると、日米での院生時代における研究論文の成果としては、わずか一編しか印刷物の形で公表されていないこと
に気付いた。いずれにせよ、国連に応募するに際しては著作物の履歴は大事であった。それは専門性の証でもある。そこで、
留学時代に作成した「マンガン団塊の開発と環境影響アセスメント」に関するターム・ペーパーを下地にして邦語論文を書き上げ、
母校の大学紀要や同国際研究所刊行物において発表することにした。それを励みに、その後さらに幾つかの論文を学術雑誌などに
掲載できるよう勤しんだ。
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