幼少の頃、両親と、時に祖父母と、あるいは親戚家族をも連れだってよく旅をした。そのほとんどが瀬戸内海方面であった。船旅が多かった。
当時、父親が関西汽船の株式を少しばかり余禄として保有していて、株主への配当として一綴りの乗船優待券を得ていた。
それを大いに利用して大阪港・天保山から、小豆島、四国・徳島の甲ノ浦(バスで室戸岬や高知へと旅した)、高松、松山(高浜港)、
別府などへ旅した。振り返るに、幼少時代から知らず知らずのうちに海と船に親しみ、さらには海大好き青年になって行った
のであろう。小学5、6年生の頃の夢は南米航路の移民船「あるぜんちな丸」や「ぶらじる丸」
などの優美な大型外航船の船乗りになることであった。ところが、6年生を間もなく終えようという頃、地方公務員であった父親が
交通事故で突然この世を去ってしまった。大黒柱を失い月々の現金収入が突如途絶えてしまった。
家族でのんびりと旅に出掛けるどころではなくなり、生活事情は激変してしまった。中学・高校生の頃は学校の授業が終われば一目散に
家路に就き、帰宅後腹の足しになるものを口に放り込んで田んぼに駆けつけ農事の手伝いに明け暮れる毎日であった。兄も同じであった。
航海士への夢を追いかけて神戸商船大学への進学を志したが、身体的条件を満たすことができなく、受験を諦めた。かくして、
少年の頃からの夢は絶たれてしまった。他方、中高生の頃は高度経済成長の絶頂期と重なり、我が家の家計もその恩恵に大いに
あやかることができた。そして、隣り町の吹田市にある普通の大学の法学部に通うようになった頃には、一方で田畑で農作業に精を出し
ながらも、他方では人並みに部活にいそしめるだけの経済的余裕が生まれるようになっていた。そして、
ワンダーフォーゲル部での部活として、季節ごとに山歩きに明け暮れた。毎年平均して100日ほど、海ならぬ
山や里へと出かけた。海のことはすっかり忘れたかのように、全国の山々をほっつき歩いた。振り返れば、海からすっかり遠ざかっていた。
さて、時は移り卒後の就職をどうするかを悩む時期にさしかかっていた。大学4年生に進級する直前に、冬山で雪上テントを張り、寝袋に潜り
込んで就職のことをあれこれ思案していた時、一つの閃きを得た。ニューヨークの国連本部の法務官を目指すという閃きであった。
人生の大目標を得た私は、全く迷うこともなく大学院進学にチャレンジをした。
国際法専攻の修士号を取得し、さらには海外留学することも志した。国連奉職を追い求めるようになってからは、のんびりと旅や
山歩きどころではなくなり、大学院での勉学に傾注する一方、寝ても覚めても語学力向上と留学のことに専心専念した。一年間「留学浪人」
をしたものの、後先の人生でこれほど幸運に恵まれたことはないほどに、偶然の出会いや出来事に遭遇し留学を果たした。
しかも、海への運命的な回帰をなし得たことは何よりもラッキーであり嬉しかった。留学先の米国ワシントン大学ロースクール大学院
で専攻したのは「海洋法および海事総合プログラム」であった。
留学から帰国後、海洋調査研究に携わる個人経営コンサルタント事務所にてお世話になりながら、そこでキャリアアップを図ること
を目指した。それと同時に、国連本部人事局にはアプリケーション・フォームを提出した。ところで、1年近く経った頃、偶然にも
新聞紙上で国際協力事業団(JICA/現・国際協力機構)が社会人を中途採用するとの小さな広告記事に接した。その偶然がなければ今の自分はな
かったに違いない。幸運にもJICAに奉職することができた。JICAでの仕事にあっては海とどの程度関われるのか、また国連応募との関係で
どの程度キャリアアップにつながるのか全く未知数であった。
JICAに就職後時を経て実感として分かったのは、海外赴任と、海外への業務出張の機会が余りにも多いということであった。
就職したての若い頃はそれでも、伊豆諸島の神津島や西伊豆などへ家族と海水浴に出掛けたり、時には川崎
からフェリーで宮崎へ、さらに鹿児島から定期船で奄美大島・沖縄経由で与論島などへの旅を楽しんだ。それが、JICAから完全に
離職するまでの35年間において、海との触れ合いを求めて出掛けた数少ない国内での家族旅行の一つであった。海外赴任(アルゼンチン3年、パラグアイ3年、
サウジアラビア3年弱、ニカラグア2年)に加えて、海外出張の多い仕事のために、不本意ながら私的な国内家族旅行は極めて
少ないものとなってしまった。
JICA奉職後の最初の10年間での海との関わりは素晴らしいものであった。最初の配属部署の研修事業部では発展途上国の技術研修員
のための数多くの研修プログラムの運営を担当した。中でも「沿岸鉱物資源探査集団コース」の運営では、海底石油ガスなどの海洋資源調査
や開発に携わる政府の研究機関、公団、大学などとの関係が生まれた。例えば、地質調査所、海洋科学技術センター、東大海洋研究所
などである。また、国連専門機関UNIDOからの要請で深海底鉱物資源(マンガン団塊など)の探査開発技術の現況視察、あるいは
当時開催されていた第三次国連海洋法会議における条約草案の深海底探査開発制度に関する日本の政策や立場についての聴き取り
調査を行なうチェコスロバキアの研究者のための研修プログラムの作成に深く関わった。それらを通じて海との接点を曲がりなりにも持ち得たことは、仕事を続ける
上での大きなモチベーションとなった。
その後に続く3年半ほどは水産協力室に配属となった。世界中の幾つもの水産関連技術協力プロジェクト、例えば漁労、養殖、
水産教育、水産資源調査などに関する多岐にわたるプロジェクトの実施を担当した。その後1984年から、
アルゼンチン海軍管轄下の「国立漁業学校プロジェクト」のコーディネーター
として3年勤務することになった。プロジェクトではスペイン語での業務遂行であった。国連海洋法務官への専門職に応募続行中で
あったので、これらの7年間の職務経験と、英語に加えスペイン語の修得は、キャリアアップにそれなりに大きなプラスになるはずであった。
さらに、「ア」国に赴任中、後の人生に大きな意義と遣り甲斐をもたらすことになる取り組みに出会うことになった。それは一生涯、
海と関わり続けられることにつながる可能性を含んでいた。プロジェクトの職場で日常的に飛び交った日本語・英語・スペイン語の
航海・漁業・漁獲物処理などの専門的語彙を拾い集めることを、プロジェクトの2年目のある日に突然閃いた。そして、即座にその
日から実行し始めた。3ヶ国語の海の専門的語彙集の作成に取り組むには正にベストな立ち位置にいた。そのことが閃きにつながった
といえる。帰国後語彙拾いを放棄する訳に行かず、ずっと継続して取り組んだ。1990年代中頃ついにインターネット時代を迎え、
語彙集を世界に発信できるチャンスに恵まれることになった。何と幸運な時代に生きていたものである。10年後にはホームページ「海洋総合辞典」へと進化することにつながった。
さらに、2000年から赴任した南米パラグアイにおいて新たな閃きに出会った。同国は「内陸国」と称される海なし国であるが、そこに
思いがけず二つの船舶博物館があることを知った。実際に訪ねてみてびっくり仰天し深い感銘を受けた。余りに稀有なので、
同博物館の画像を切り撮り、ホームページを通じて世界に紹介することを閃いた。さらに、辞典の用語や語彙に関連画像を貼り
付けることにすれば、辞典を大いにビジュアル化することにつながる。画像は文字では表現し尽くせないことをやってのけてくれた。
100行の文章よりも多くのことを閲覧者に語りかけてくれる優れものとなった。
これらのことがきっかけとなって、パラグアイ周辺諸国のアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、チリなどの海あり国のウォーター
フロントの海や船風景の紹介のみならず、海洋博物館やその他海洋関連歴史・文化・科学施設とその展示品を紹介するため、
辞典サイトにアップすることを始めた。それが現在の「一枚の特選フォト・海と船」ギャラリーの原点であり、起点となったものである。
そしてまた、切り撮った画像は辞典の中の関連ページや見出し語などとリンクさせ、辞典をビジュアル化することに繋がって行った。
パラグアイの近隣諸国だけでなく、長期休暇を利用して米国の東海岸沿いに3000kmばかり、海・船・港の風景を求めてウォーター
フロントを渡り歩いた。そして、40~50の海洋博物館や水族館、灯台などの沿岸施設などを巡覧する旅を敢行し、切り撮った画像
を辞典にアップした。さらには、2004年から
サウジアラビア、2007年からニカラグアへとたて続けに赴任し、同じように休暇を利用しては周辺諸国へ旅し、海洋博物館やその他の海洋
関連施設の陳列品などの画像をもウェブサイトにアップした。他方、振り返ってみれば、JICA奉職以来日本国内における
ウォーターフロントや海洋関連施設巡りをほとんどしてこなかったし、あるいは、することができずにいたことを思い知った。
さて、日本政府の政府開発援助(ODA)の一部であるJICA技術協力という天職と、海洋辞典づくりという二足のわらじを履いていたが、
2009年にニカラグアで心筋梗塞を患い奇跡の生還を経験してからは、いつまたそんな悪夢に襲われるか正直不安であった。
同じような奇跡が二度と起こることはないであろうし、またそれを期待すべきではないと認識していた。余命いかほどか知る由もないが、
日々を大事にして、いずれは辞典づくりに専心専念したいと考えていた。辞典はいつも「未完の完」にあるとしても、いずれかの時点や
段階で「中締め」を行い、一区切りを付けておきたいという強い願望が脳裏から離れなくなっていた。かくして、帰国後なおも1年半
ほどJICAにお世話になったが、ついに清水の舞台から飛び降りることにした。完全離職を決意した。
時折りしも「東日本大震災(2011年3月11日)」が発生した同月の末日をもって離職した。
大震災は「明日何が起こるか誰にも分からない」ことの明々白々の証左となった。思い切って人生に踏ん切りをつけて、
最後にやりたいこと、やらねばならないことに取り組むことを決意した。
かくして、離職後、「自由の翼」を得て心機一転して辞典づくりに専心専念できるようになった。過去に取り組んで来た辞典編纂やホーム
ページ作りをトータルレビューし、コンテンツの「選択と集中」やスリム化・統合化を図り、「中締めの一区切り」を目指して
辞典づくりに向き合った。コンテンツ充実法の一つは「ビジュアル化」であった。作図・作表、イラスト
づくりもその充実法の一であったが、博物館などでの展示品の画像などを切り撮り、辞典の関連用語・語彙などに貼り付けることに
本格的に取り組むことにした。過去に撮り溜めたそんな画像が何テラバイト、何十万枚もあった。旅に出掛けては、通りがかり
のウォーターフロントの海や船のある風景を切り撮って来た。画像を厳選し、「一枚の特選フォト」ギャラリーにアップし、ビジュアル化を徹底的に進めようとした。
海外だけでなく、国内のウォーターフロントや海洋関連施設なども切り撮りアップすることに没頭した。旅すること、博物館巡り、画像
の切り撮り、それらのアップロードなど、全てが愉楽となり、人生と日常生活を豊かなものへと導いてくれた。
さて、日本国内においてウォーターフロントの海・船風景、海洋関連施設の展示品などの画像を本格的に切り撮るという
明確な目的意識をもって、日帰りであれ、宿泊を伴う私的な旅であれ、「自由の翼」をフルに生かして出かけるようになったのは、
2009年にニカラグアから帰国してからのことであった。それも特には、2011年3月末日にJICAから完全離職してからのことであった。
言い換えれば、離職後のもう一つの大きな取り組みは、海外のみならず日本国内のウォーターフロントや海洋関連施設を
巡りながらの「撮り博」の旅であった。2011年から現在まで続いてきた。
特に友人の東さんと二人して、国内外を一人一日1万円くらいで遣り繰りするという倹約旅行を大いに楽しんできた。それは、辞典
づくりを充実させ、人生を豊かにしてくれるものであった。
ところが、2020年代初めになって大きなハプニングがあった。新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的流行「パンデミック」
であった。2020年初めから2年半ほど続いた。特に日本では、感染者の急増や入院受け入れ逼迫
に応じて、国内でも不要不急の外出や県境をまたいでの移動の自粛など、様々な行動抑制策が執られてきた。
パンデミックとなって早3年である。海外への旅は大幅に制約され、やむなく国内の旅に切り替えて時折息抜き的に出歩いてきた。
さて、2022年8~9月頃変異株(オミクロン株など)の第7波が来襲し、ピーク時に達し、1日20万人以上感染し、国内累計感染
者は2000万人を越えたといわれる。されど、国内のウォーターフロントや海洋関連施設を訪ね歩くことで、海外旅行抑制による
ストレスから少しは解放されてきた。
ところが、2022年8月12日、第7波のピーク時に東さんとほぼ同時にコロナに感染した。急に喉に痛みを感じ、咳込み、発熱した。
高熱は38.9度まで上昇、3日間続いた。その後は平熱に落ち着いた。基礎疾患があり、ワクチン接種ゼロ回であったので、
自宅療養中に重症化に陥ったり、病床逼迫による入院治療不可能な事態に陥ることを内心では恐れていた。8月下旬になって抗原検査の結果陰性となり、
ほぼ全快した気分となった。強運のお陰で感染自体はその程度で落ち着いたが、その後倦怠感が3週間ほど続き、本調子に戻るのに
もどかしい生活が続いた。
2022年末には第8波が来襲する気配である。しかし、既に洗礼を受けたこともあり、再感染しても重症化するような懸念はかなり
払拭されたものと、自身で勝手に想像する。来年2023年には再び長め(7~10日間)の国内外への旅にチャレンジしてみたい。
勿論、年金生活の身の上なので、どんな旅でも上手に倹約する必要がある。因みに、国内の場合は、交通費、レンタカー代、
ガソリン代、宿泊費、食事代、博物館入館料、カフェ代など全てを含んで、平均して一人1日当たり1万円を目標にしてきた。
これまでほぼそれに近い実績を確保してきた。コンビニで弁当、パンやカップラーメンなどでランチを済ませる日も多くあった。
東さんも旅中その出費目標を我慢し協力を惜しまなかった。時に反動もあってか、それなりのプチ・リッチな食事を楽しむこともあった。いずれにせよ、
我が家の「大蔵大臣」とよく相談し、財力と体力を両睨みしながら「自由の翼」を羽ばたかせ国内の旅を続けたい。
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