ニカラグア「南大西洋自治地域」の地理的特徴の一つは、その最南端において「サン・ファン川」がニカラグア湖から大西洋
へと流れ出ていることであり、更には同河川河口域には「中米の肺」と称される亜熱帯ジャングルが広がっていることである。
そして、同河川周辺広域では運河候補ルートのもう一つのグループである「ルートNo.4~6」が想定されている。かくして、3運河ルート
をどのように「踏査・攻略」するかのアイデアを少しずつひねり出し、チャンスを窺っていた。週末と祭日・有給休暇をうまく組み
合わせて踏査するにしても、河川流量が増える雨期まで待つことにした。そして、2009年7月に敢行する運びとなった(実施日:
2009年7月18~20日)。
前回の旅ではサン・ファン川流頭部に位置するサン・カルロスにてアポなしでランチャをチャーターした。「エル・カスティージョ
要塞」内の展示室でのピンボケのパネル画像を撮り直すためであった。実は、当該チャーターの機会を捉えて、同河川をカリブ海まで
下り、その河口周辺域をガイドしてくれる船頭とランチャの手配を、そのランチャのオーナーに頼んでおいた次第である。
その後何カ月かしてランチャのオーナーと連絡が取れ、船頭がスタンバイしているとのことで、今回踏査を敢行することになった。
時は雨期の真っ最中となっていた。乾期は水量が減って浅瀬が露出し、下手をすればランチャの乗客が皆してそれを担いで徒渉する
ことになりかねないので、オーナーからは「雨期がよい」とアドバイスを受けていた。航行困難のためにランチャを担ぐことになるのは
さすが勘弁してほしいので、暫く時期をずらせていたところようやくその時期を迎えた。
サン・ファン川踏査に同行予定の青年海外協力隊員4名は、数日ほど早く空路でサン・カルロスへ、さらに路線水上バスでエル・
カスティージョに到着していて、そこで合流する予定であった。私は仕事の事情で数日遅れて首都マナグアを出発、四駆のスズキ・ヴィターラ
で砂利道を一人疾走し、サン・カルロスへ向かった。同地では予約しておいた安宿に転がり込み、翌朝川岸の板張りの発着場でランチャ
の船頭と落ち合った。そして、すぐさまライフジャケットを装着して、サン・ファン川を快走して、エル・カスティージョを目指した。
要塞の地まで旅するのは3度目となり、両岸の亜熱帯ジャングル風景も見慣れたもので、7~8メートルの細長いランチャの舷縁にもたれ掛り、
心地よい風を受けながら最高の気分でジャングル水上ツアー旅を楽しんだ。
英国人海賊ヘンリー・モーガンが足跡を遺して行った要塞の地に2時間足らずで到着し、隊員らと船着き場で合流した。そして、
100kmほど下流にあるカリブ海沿岸の町「サン・ファン・デル・ノルテ(San Juan del Norte; 英語名グレータウン)」に向けてすぐにも
出発した。エル・カスティージョからは初めて辿る水上行程であった。眺める両岸風景も初めてなので、子どもが遠足に出掛けるように
ワクワクしていた。川幅は時に広がったり狭くなったりであるが、100~150メートルほどあり亜熱帯樹林の繁みはさらに濃くなる
様相であった。エル・カスティージョから7㎞ほど下った辺りからは、コスタリカとの国境線はサン・フアン川南岸の水際となった。
それまでの上流域では国境線は南岸から内陸部へ入った奥地に敷かれているために、同河川は100%ニカラグア領土内を流れ下っていた。
さて、運河候補「ルートNo.4~6」については、サン・ファン川河口に位置しカリブ海に面する「サン・ファン・デル・ノルテ」という
町を起点に描いてみると理解しやすい。地図を見ると、町から大西洋岸沿いに7~80km北上したところに、「プンタ・ゴルダ川」という
河川がカリブ海に注ぎ込んでいる。既に400年以上も前に、二人のスペイン人征服者のうちの一人がこの河川を上流側から、他の一人が
下流側から探検し、中ほどで合流したことは既に述べたとおりである。
(1)「ルートNo.4」というのは、そのゴルダ川をなぞりながら遡り、標高100~150メートル、距離にして20㎞ほどの分水嶺を
越えて「トゥーレ川」の源流に取り付き、ニカラグア湖に至るというルートである。トゥーレ川はニカラグア湖に注ぎ込んでいる。
その河口から同湖を横切り「リーバス地峡」に開削される運河を通って太平洋に至る。
(2)「ルートNo.5」は、同じくプンタ・ゴルダ川をなぞるものの、その上流域で南下するコースを辿る。そして、標高100~150
メートル、距離20㎞ほどの別の分水嶺を越えて、サン・ファン川の支流である「サバロス川」の源流に取り付き、その後サン・ファン
川との合流点にある「ボカ・デ・サバロス」という集落に至り、その後はサン・ファン川をなぞってニカラグア湖に至る。
同湖からは同じく「リーバス地峡」運河を経て太平洋に至る。
(3)「ルートNo.6」は、サン・ファン川の河口域に大きく広がる亜熱帯湿地帯や樹林帯(ニカラグア政府はその一帯を
「インディオ・マイス自然保護区」に指定する。また「中米の肺」と称される)をストレートに突っ切って、サン・ファン川が
「サンフランシスコ川」という支流と合流する地点に取り付き、その後はサン・ファン川をなぞってニカラグア湖へ至る。同湖からは
同じく「リーバス地峡」を横断する。
ところで、3ルートに関わるいずれの河川についても、川岸に沿って辿れる道路はほぼ皆無である。「ルートNo.4、No.5」を踏査
するには、「サン・ファン・デル・ノルテ」から船で一旦カリブ海に出て、その海岸線沿いに7~80km北上した上で、プンタ・ゴルダ川
河口から遡航する他ない。それはかなりの遠距離にあり、4,5時間は要しよう。また海がいつ荒れるかも知れず、平底で吃水の浅い
川舟のランチャで外海を航行するのは余りに危険過ぎる。ライフジャケットの装着有無の問題ではなかった。かくして、No.4・5の両
ルート上のゴルダ川の遡航については断念せざるを得なかった。
さて、今回の踏査の主要ターゲットは「ルートNo.6」であった。ニカラグア湖とカリブ海河口のグレータウンとの間を流れ下るサン・ファン
川を往復踏査することが、「南大西洋自治地域」の最南端域に位置する「ルートNo.4~6」についてあれこれ推察する上では最も
基本的なことであった。たとえ、河口付近での踏査の地理的範囲がごく限られたものとなったとしても、実際に足を踏み
入れ、自身の両眼を開いて観ることは大いに意義のあることであった。そんな思いで、サン・ファン川とその河口周辺の踏査を敢行した。
休題閑話。エル・カスティージョを出て一時間もしないうちに雲行きが怪しくなってきて、雨が降り出した。そのうち過去に経験した
こともないような猛烈なスコールとなった。船頭が用意してくれていたブルーシートをボートの上部に目一杯に広げ、全員我が身と
荷物をすっぽりと覆い被せた。シートをほんの少しだけ上に持ち上げ眼だけを覗かせ、川岸のジャングルを垣間見ようとした。
だが、余りにも酷いスコールの飛沫が顔面に吹き付けるので、すぐさま諦めシートに身を隠し込んだ。土砂降りで視界もひどく悪い中
であったが、ランチャは猛スピードで疾走を続けた。さすが地元の船頭は猛烈なスコールにも慣れていて、その逞しさに脱帽であった。
2、30分もしないうちにスコールが通り過ぎ、重たそうな雨雲が低空をかすめ飛ぶようになった頃、川幅のさらに広い箇所に差しかかった。よく見ると、浅瀬が
川幅一杯に広がり、ランチャの舟底が川底にガリガリと擦っているのが分かった。そのうち船頭の指示で、全員降りることになった。
全員川に降り立ち、舷の上縁に手を添えて、少しでも深みのある川筋を選りながらランチャを押し進めた。雨期ではあったが、場所によっては
このように土砂の堆積が著しく、水深が殆どなくなり、通行が困難になる箇所もあった。下流域ではどうしても土砂が堆積し易くなり、
航行が阻害されることにもなる。
英国人海賊モーガンや若き日のホレーショ・ネルソン艦長も、さらに19世紀中期のゴールド・ラッシュの時代にも、川の浅瀬では
徒渉せざるをえなかったに違いない。事実、既述の通り、ネルソンの遡行譚においてもそんなことが
記されている。今回雨期を選んでの敢行であったので川は増水しているはずであったが、やはり下流近くでは堆砂で川底が浅くなり、
我われ異邦人の探索者もボートを降りて川を徒渉することになった。立ち往生して引き返すことにならずに済んでラッキーであった。
さらに一時間ほど川を下ってようやくサン・ファン川のデルタ地帯のど真ん中に入り、目的地のグレータウンまで50kmほどの距離
となった。グレータウンに到着するごく手前では、サン・ファン川河口に最も接近した。右舷の少し先で、大西洋の荒波が海岸沿いに
白く砕け泡立っている様子が見え隠れするのを垣間見れた。海岸には堆積した砂の盛り上がり(砂州)があるようで、荒波の大西洋はそれに
ほとんど遮られていたものの、その砕け波を垣間見ることができた。町に上陸しても、家々が密集している風ではなかった。目抜き
通りの両側に家屋が軒を連ねるというような街光景はどこを見渡しても存在せず、家屋が原野にポツンポツンと散在するだけのように
見えた。
「サン・ファン・デル・ノルテ」はかつて、英国が支配していた。英語名で「グレータウン」と呼ばれ、多くの英国人住民が住む町
であったという。その昔には飛行場もあった。かつては滑走路であったという広大な跡地は、現在では草木が繁茂するだけの原っぱ
になっている。その跡地の片隅には、英国人の名前を刻む墓碑が錆びついた鉄柵に囲まれている。そんな墓が幾つか散在していた。
さて、当日は普通の一般家庭が経営する民宿にお世話になった。
全員少し疲れた様子であった。居間のソファーに腰を降ろし、その日の川下りの感想や明日のことなど、あれこれと雑談しながら疲れを癒した。
町はサン・ファン川の大デルタ地帯の中のずっとカリブ海寄りに位置している。そして、デルタは濃密な亜熱帯樹林と大小の潟湖
(ラグーン)、それらを繫ぐ迷路のような広狭の水路に取り囲まれている。翌日、密林の中を縫うように蛇行する狭水路を辿ると、
急に視界が開け広々としたラグーンに出た。そして、船頭は、ある珍しいものに案内してくれた。何やら茶色く錆びて朽ち果てた
ような人工物が水面から頭を覗かせていた。だんだん近づくにつれ、それが何であるのかを理解した。
浚渫機船の上部構造物だけがごく一部突き出していた。ラグーンや湿地などの水底土砂を掘り進みすくい上げるための「連続
バケット式浚渫装置」をもつ機船のようであった。かつて、米国事業家ヴァンダービルトが1850年代に運河を開削しようとこの地
にもち込み、開削を手掛けたことについて第3節「運河の夢の系譜」で綴った。その浚渫機船が、水没したまま遺されているのである。
そんな歴史的な人工遺物を目にして鳥肌が立つ思いであった。「運河の夢」を実現しようと試みられたものの挫折に至った、
という150年以上も前の史実の証拠品である。そんな沈船遺物の周りを何度か回航した後、奥地へと向かった。
ラグーンからもう少し奥地へ進み行くと、何か「不自然な」水域に入り込んだ。これまでサン・ファン川やその河口デルタで目
にしてきた自然風景とは少し違和感があった。その水域は幅100メートルほどの細長い長方形のように見えた。何よりもその両岸は、
自然の中にあっては何となく不自然に感じられた。両岸が定規で線を引いたようにいかにも直線的に伸びていた。
何か人工的空間に居合わせるかのような印象であった。「ここはかつて開削された全長800mほどの運河の跡である」と船頭から
説明を受けた。納得である。既述の通り、米国人メノカルの運河会社が1890年代初め頃に掘り進んだものの、途中で放棄した運河である。開削から100年以上も経っており、
両岸は再生された亜熱帯樹林で覆い隠されている。運河開削の跡と言われなければ、恐らく「不自然さ」だけで終わっていたかもしれない。
その後、鬱蒼と茂ったジャングルの中の道なき「水の道」を辿りながらさらに奥地へと、ランチャはゆっくりと這うように
木々の枝をかき分けながら進んだ。時に、水の道は、樹木の枝や葉っぱが重なり合って覆い隠され、水路なのかそうでないのか判別
できなかった。覆い被さる枝や草木をランチャの舷縁から手で押さえ込みかき分けつつ進み続けた。
今にもワニが水面から眼だけを覗かせるかも知れないような「けもの道」同然の水路であった。時には、迷路のように入り組んでは
いたが、はっきりと水路と判別できる水の道を右へ左へと進み続けた。
水は透き通り、その水底にはアマモのような細長い草がぎっしりと敷き詰められていた。また時には、子どもの背丈ほどに伸びた
水草で覆われた湿地帯をかき分けながら、ゆっくりと奥地へと舟脚を進めた。数時間ほどかけてかれこれ4~5kmは奥地へ分け入った
であろうか、突然視界が開けた。広々とした大きな池か湖のようなラグーンが現われた。差し詰め、完全な静寂にある早朝の「摩周湖」
に迷い込み一人ボートを漂わせるかのような異空間に居合わせる気分であった。そのラグーンは「ラグーナ・シリコ」と言う名称であった。
鬱蒼とした樹林に囲まれ、しかも無風状態であったので、水面は鏡のように滑らかであった。ラグーンの底には黒っぽい腐植土が
あるのか透明度は良さそうなのだが、底は黒っぽくて何とも窺い知れない神秘さを漂わせていた。ランチャの船外機を止め、漂った。
だが無風なのでただ浮かんでいるだけであった。ラグーンはこの世とは思えないような完全な静寂に支配されていた。
自然が発する何の音も聴こえず、動くものは全くなく、我われの息遣いだけが存在するように思われた。さらに言えば、過去の人生に
おいて体験したことのないような「無音の世界」であった。あるいは、地球外の無音の異空間に閉じ込められてしまったようにも思えた。
究極的には、文明がこの世に存在することを忘れさせるほどの無音で異次元の世界であった。ラグーンの底から突然に妖精が飛び出
して来そうな錯覚すら覚えるほどであった。
さて、サン・ファン川は、その河口デルタにあっては大きく緩やかなカーブを描きながら流れ下っている。だが、「ルートNo.6」は、
そのカーブをなぞることを想定していない。翻って、その河川カーブをショートカットすることを想定している。直線的に辿るその
ショートカットのルートとは、浚渫機船が沈没するグレータウンの潟湖から、800m長の例の人工運河、さらに「ラグーナ・シリコ」
を経て、サン・ファン川とその支流である「カーニャ・サンフランシスコ川」との合流点とを結ぶというものである。
当該合流点はサン・ファン川の河口から50kmほど上流にある。従って、「ルートNo.6」として、グレータウンから同合流点まで
直線的に運河が開削されることになれば、「インディオ・マイス自然保護区」の中心域にあるこれらの大自然が破壊されること
になろう。それはありえないことであると率直に感じた。同保護区内の亜熱帯ジャングルの自然は「中米の肺」と称され、動植物の
宝庫となっている。地球環境保全上、運河を開削して保護区を破壊するなど到底容認され難いことであろう。
翌日、サン・ファン川に取り付き帰途に就いた。途中、「ルートNo.6」が同自然保護区の中心部を経た後、「カーニャ・サフラン
シスコ」という支流と合流する地点を見つけ出し、その支流へ少しでも足を踏み入れ垣間見ようとした。だが、どうも見過ごして通り過ぎて
しまったようであった。
また、「ルートNo.5」は「ルートNo.4」の場合と同じくプンタ・ゴルダ川を遡上するが、前者はその上流域で南下することになる。
そして、別の分水嶺を越えて、サン・ファン川の支流である「サバロス川」の源流に取り付き、その後はサン・ファン川をなぞって
ニカラグア湖に至る。サン・ファン川とサバロス川の合流点にある集落「ボカ・デ・サバロス」にて、サバロス川へ取り付いて上流
を目指そうとした。だが、暫く遡航すると川幅は急に狭くなり樹林で見通しも悪くなったので、深入りを断念した。
「ルートNo.4」と「ルートNo.5」に関しては、3段式閘室や人工湖の建設の可能性や地理的位置について大いに関心をもっていたものの、
両ルートの踏査に際してはカリブ海沿岸航行に伴うリスクがかなり高いこと、また相当の遠距離にあることを理由にして、早い段階で
踏査を諦めた。また、両ルートが越えなければならない標高100~200メートルほどの分水嶺、それも距離にして20~30kmに及ぶ
山地の開削にも関心があった。だが、同ルート上の河川をなぞったり、分水嶺に近づける一般道は全く存在していない。また、通常
装備のランチャで源流近くまで遡上できるような河川とは到底思えなかった。
同上の2ルートでの技術的課題は、閘門を建設するに適した地形があるのか、その閘門の内陸側にどの程度の規模のダムや堰堤をもって、
どの程度の規模の人工湖を造成できるのかということである。また、プンタ・ゴルダ川周辺からブルーフィールズ辺りまで、別の自然
保護区が存在しており、両ルートはその保護区を貫通するか、またはその近辺を通過することになり、環境上の課題を抱えていた。
ブルーフィールズ沿岸部と「ルートNo.4~6」によって取り囲まれる地帯は、大きく捉えれば、自然のままの亜熱帯樹林が多く残され、
「中米の肺」に準じる自然保護区となっている。
「ルートNo.6」についても、ニカラグア湖とカリブ海との間にある32メートルほどの高低差を昇降するための堰堤や閘門システム
の建設は不可欠であるが、その建設は事実上不可能であろう。サン・ファン川の何処に閘門を建設しても、上流側の運河水は河川から
溢れ出ることになり、それを貯水することは非常に困難と思われる。溢れ出る水はコスタリカとの国境線(主にサン・ファン川南岸の
水際)を決定的に変更し、かつ曖昧なものにする。コスタリカの合意を到底得られるものではないであろう。また、「中米の肺」に
大きな負の環境的インパクトをもたらすことになるのは必至である。
かくして、今回の踏査によって「ルートNo.6」がどういうものか、少しは理解できた。特に、「中米の肺」の内陸部にそこそこ入り
込み、貴重な自然環境保全区域内を暫しじっくり観察する機会となった。自身としても候補ルートとしての優先度は最も低いことを確信した。
今後運河建設についていろいろ推察する上で役立つと思料される多くの知見や「土地勘」を得たことが、これまでの踏査の貴重な
成果である。踏査は大成功であった。サン・カルロスにおいて、全員の無事の帰還を祝してワインで祝杯を上げ、ロブスターなどを食して
ささやかな解散式を行なった。翌日四駆で一人帰途に就いた。だが、踏査は粗方にしろこれで了した訳ではない。最有望候補とされる
「ルートNo.3」が通過する、エル・ラマ川とオヤテ川との間にある分水嶺の踏査がまだ残されていた。
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