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    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第3節 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く


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     第22章・目次
      第1節: 日本国内の海洋博物館や海の関連施設を探訪して(総覧)
      [参考]国内の旅のリスト(博物館巡覧を含む)
      第2節: 東京・関東地方の海洋関連施設を巡覧する
      第3節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く
      第4節: 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く
      第5節: ウォーターフロントや海洋関連施設巡りの「旅と辞典づくり」は続く


  2011年3月にJICAから完全に離職したことから、早速にして本腰を入れてチャレンジできることが幾つかあった。その1つは、 国内47都道府県の目ぼしい海洋博物館やその他の海洋関連施設・史跡などをいろいろ調べては、それらを巡る旅に出掛けることである。 現役時代にはほとんどできなかったことである。時間に拘束されないフリーの身の上を有効に生かすことができた。また、海洋 関連のシンポジウム、講演会などに心置きなく参加して、海の学び直しができた。海洋資源開発や海底考古学的遺物発掘などの海に まつわる展覧会などにも度々参加できた。

  二つ目は、離職して数年後のことであるが、5月の田植えと10月の稲刈りの農繁期に1~2週間ほど大阪・茨木 に帰省して、実家の農事を手伝う傍ら、機会を捉えて大阪やその他関西圏の海洋関連施設に足を運ぶことができるようになったことである。 少しでも兄夫婦や親せきの役に立ちたいとの思いで手伝いを始めたことが、毎年の恒例行事となって行った。 実は、小学6年生の時に父親が交通事故で突然他界した頃から、祖父の兄弟繋がりで親戚関係にある地元集落の3軒で農作業の協働が 始まった。大黒柱がいなくなった我が家を助けるためであった。その協働作業をそれ以来半世紀にもわたって連綿と続けられてきた。

  昔の田植えはほとんど全てにおいて手作業であり重労働であった。田んぼを耕し、水を引き込み、農地を均(なら)し、田植え の下準備をするのも大変であったが、苗を手で植えるのも重労働であった。例えば、広さ1反(991平方メートル; 縦横約30メートル) の田んぼに苗を植えるのに10人掛りで半日ほどかかった。秋には10人ほどが総出で刈取りをし、さらに刈り取った稲束を天日 乾燥のための稲木に架ける作業にも半日ほどかかった。稲が十分に乾燥できた段階で、さらに半日かけて1反分の稲を脱穀した。 その後樅を持ち帰り、再び庭先で天日乾燥を続けた。そして、別日に脱穀・精米するのにまた半日ほどかかった。 こうして合計10反ほど分の収穫を完了するのに家族・親戚総出で1か月ほどかけて乗り切っていた。

  だが、最近では農地を大型トラクターで一人耕し均す。田植えも、補助者がいればより効率は上がるが、昨今では一台の田植え 機で一人で植える。因みに1反の田んぼにつき、1人で数時間ほどの作業で植え終わってしまう。機械化のお陰で、ほとんどの田植えは かつての10分の1ほどの農作業に省力化されている。体を酷使することはほとんどなくなっている。

  稲刈りについても同様に機械化されている。コンバインで一人で一反の稲を1~2時間で刈込み、同時に脱穀も済ませる。 その後乾燥機に樅を投入し、夜中に自動乾燥しておく。翌日精米機にかけ1、2時間ほどで精米し、 同時に袋詰めも済ませ、いつでも出荷できる状態となる。実質1日で1反分の刈取り・脱穀・精米までやり終える。省力化の見本の ようである。それでも、コンバイン・精米機などを3軒で共同所有していることもあり、繁忙期ににおけるそれらの一連の作業 について協働し続けてきた。これほどまで省力化されてはいるが、農事には人手があった方が助かると思い、毎年恒例のように帰郷しては 手伝ってきた次第である。実質的には人手の「数合わせ」のためと自笑している。 (だが、最近兄が突然他界し、そんな協業関係を維持することも難しくなり、さらに親戚のお世話になる一方である。それ故、 心苦しいので同じ村の知り合いに一部の田んぼを預けたりして、何とか遣り繰りしてきた)

  従って、農事の手伝いと言っても、機械植えのための専用容器に育成された苗や肥料などを田んぼまで運ぶのが主な仕事である。 稲刈りでは、コンバインで刈りやすいように田んぼの四隅などを手刈りしたり、コンテナ搭載の軽トラックで樅を運び乾燥機に 入れるくらいのことである。翌日には脱穀・精米することになるが、精米機が順調に稼働すれば、一反分を2時間くらいで精米・ 袋詰めにし、さらに冷蔵キャビネットに保管できてしまう。昔に比べれば、田植えも稲刈りも想像を絶するほど機械化され、 肉体的には圧倒的に楽になり、特に腰周りへの負荷は大幅に軽減されている。昔の農作業は想像以上に辛いものであった。田舎の高齢者 は、田畑での腰の酷使のためなのか、腰が随分前かがみになっていることが多い。その訳がよく分かる。

  ところで、農作業は古来から天候と相談しながらのことである。特に稲刈りのその日の進捗はもろに天候に左右される。雨の日 には作業の中断を余儀なくされる。そんな時には博物館や郷土館などを日帰りで訪ね歩いてきた。 稲刈り時期に運悪く少し長雨にでもなれば、丸1日あるいは複数日何の農作業もできないことがある。 そんな時のために博物館巡りに向けた幾つかのプランを温めておく。それがまた楽しみとなる。

  休題閑話。大阪府内だけでなく、近隣諸県のウォーターフロントや海洋関連施設を訪ねる多くの機会を得てきた。 大阪、神戸、京都やその少し先まで足を伸ばし、海洋博物館、歴史・文化・自然系施設をはじめ、 琵琶湖疏水(運河)やインクライン施設、旧い灯台などをアトランダムに訪ね歩いた。雨が降っていてもそれらの館内見学には 何の支障も生じない。屋外の史跡であっても、余程の強風下の雨でない限り、傘を差せば済むことであった。「晴耕雨読」ならぬ 「晴耕雨訪」をモットーにして探訪した施設・史跡は数え切れない。

  大阪市内をはじめとする府内や近隣諸県内で訪ねた博物館のうちで、総体的または部分的に海洋に関連する歴史・文化・自然系の 施設についてざっくりと類型化してみると次のようになろう。
・ 総合的な海洋博物館: 海洋・船舶・港湾などに関して総合的に展示する博物館がある。例えば「なにわの海の時空館」(大阪 海洋博物館)、「神戸海洋博物館」、「神戸大学海事科学部 海事博物館」、「神戸築港資料館(ピアしっくす)」など。
・ 社会科学系博物館(歴史・文化関連): 吹田市の「国立民俗学博物館」の他、「大阪歴史博物館」、「堺市立歴史博物館」など。 また、神戸市の「戦没した船と海員の資料館」や「旧海外移住センター」、兵庫県淡路島の「高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館」、 赤穂市の「市立歴史博物館」や「市立海洋科学館・塩の国」。その他、大阪の「住吉大社」境内の髙灯籠などの史跡、幕末に勝海舟 らも通った「海軍操練所」跡に立つ石碑など。
・ 自然科学系博物館: 「大阪市立自然史博物館」、西宮市の「貝博物館」、滋賀県立「琵琶湖博物館」など。
・ 旧灯台施設関連: 旧堺港の旧堺灯台、東灘区の大手酒造会社の敷地内にある灯台としての常夜灯など。
・ その他、淀川・琵琶湖の舟運関連施設: 京都市内の「琵琶湖疏水博物館」、大津~京都間や京都~伏見間の疏水やインクライン施設、 京都・伏見の「三栖閘門資料館」、枚方市の「市立枚方宿鍵屋資料館」、国土交通省淀川河川事務所の「淀川資料館」、京都市街地を 流れる髙瀬川沿いの船溜り史跡、その昔(豊臣秀吉や江戸時代)大坂・伏見・京都市中を結ぶ内陸河川舟運の中継港として栄えた 伏見港跡など。また、古くから琵琶湖と敦賀(日本海)とを結ぶ運河構想があったが、それとの関連で琵琶湖北西部の滋賀・福井県境 にある深坂峠北側に位置する疋田集落(福井県側)には、「愛発舟川の里展示室」がある。同室では、江戸時代に構想された 同峠下を貫通するトンネル式水路関連の資料などが陳列される。

  さて、府県別に海洋博物館やその他の海洋歴史・文化・自然関連施設などを手短に俯瞰したい。先ず、大阪府について。実家は 大阪府茨木市にあるので、大阪市内に出向くことが多かった。だが、初めて農事の手伝いを目的に帰郷した折に真っ先に見学に 赴いた先は、「国立民族学博物館」であった。実家からわずか4㎞ほどの距離にある「万博記念公園」(吹田市に所在するが、茨木市との 境にある)の中にあり、最も気軽に訪問できる博物館であった。過去3回ほど訪ねた。 世界中の民族・民俗関連の展示物で溢れている。ポリネシアの木組みの海洋地図や、実物の巨大アウトリガーなどの展示、星座の 天測や波・風などの長期間にわたる自然観察に依拠する航法をもって行なわれてきた大洋航海に関するパネル展示、日本の多種多様な 伝統的漁具の展示など、何度訪ねてもその度に新しい発見があり興味は尽きない。

  「大阪海洋博物館」として親しまれた「なにわの海の時空館」。大阪湾を見渡せる大阪市住之江区南港洲地区に立地する。 博物館は、総ガラス張りの巨大な半球形ドームが海に浮かんでいるように見える、奇抜・独創的なデザインの海洋構造物である。 陸地側からそのドーム型博物館へは、幻想的なイルミネーションが施された海底トンネルを通って本館内へと誘われる。 入館すると最初に、実物大の巨大な千石船(弁才船・べざいせん)の「浪華丸」が迎えてくれる。可能な限り当時の材料と工法で 復元されたという。江戸時代に大坂から江戸へ物資を運んだ千石積みの「菱垣廻船(ひがきかいせん)」であるが、江戸時代の 樽(たる)廻船とともに、大坂・江戸間を往来した定期船でもある。その復元船の他、構造図・部材、和船の船大工用具、「浪華丸」 に用いられた「松右衛門帆」、北前船用滑車 、各種の船磁石、いろいろな和船絵図なども展示される。

  大阪城の近くに「大阪歴史博物館」がある。そこに2種類の船形埴輪が展示される。数多く発掘される埴輪の中でも、 船形のものは非常に珍しい。大阪市平野区の「長原遺跡・高廻り(たかまわり) 1、2号墳」で発掘された古墳時代中期(4世紀末~ 5世紀初)の埴輪である。その説明書きによれば、 船形埴輪は5世紀前半の例が多く、いずれもが船底に丸木舟を用い、舷側に板材 を組み合わせた準構造船となっていた。そして、 船の両端が二股に分かれる二体成形船(高廻り2号墳例)の埴輪と、船底の突出 をなくした一体成形船(高廻り1号墳例)の埴輪とが存在した。因みに、「なにわの海の時空館」のエントランスビル正面の屋外 広場には、その埴輪をベースにして復元され蘇った古代船「なみはや」が展示される。

  大阪は古来から難波(なにわ)と称され、その難波は瀬戸内海の海路の発着点であった。だが、西日本地域だけでなく、 朝鮮半島や中国大陸からさまざまな人や物が難波の地に集まった。 また、上町 (うえまち) 台地(現在の大阪城のすぐ南側に 広がる台状の地形)の東側には「草香江(くさかえ)」と呼ばれた波穏やかな水域が広がり、難波は水上交通の要として繁栄していた。 高廻り古墳群の船形埴輪はそれを象徴するものである。1989年は大阪市が成立して100年、それを記念して、高廻り2号墳から見つかった 埴輪を基に古墳時代の木造古代船「なみはや」が建造されたことは既述の通りである。そして、大阪から韓国・釜山までの実験 航海が行なわれたことも紹介されている。

  ところで、「なにわの海の時空館」内にはその他に様々な展示がなされている。例えば、
・ 遣唐使の出港想像図の展示。7~8世紀の難波は大陸文化の窓口であった。難波を出航した7・8世紀の遣隋使・遣唐使は22回、 遣新羅使は32回に及んだ。また、海外からの使者も、隋・唐から10回、新羅からは66回も来着した。難波津には外交施設である客館 (むろつみ)も立ち並んでいた。難波の湊の発展などを解説する。
・ 海洋航海・探検の歴史。船の発展を時系列に示す模式図。
・ 海のシルクロードの歴史と、世界との海上交易の歩み。
・ 実物大の船首像、例えば、日本丸、海王丸、サグレス(ポルトガル)、エスメラルダ(チリ)、リベルター(アルゼンチン) などの国家を代表する帆船のフィギュアヘッドのレプリカ。実物の櫓櫂船。
・ 古代から近世・近現代に至るまでの港の発展史。古代の航路(7~9世紀頃)、奈良時代の難波津(なにわづ)、江戸時代のまちを あげての川浚え(浚渫)、江戸時代の主要な航路(東廻り航路など)と北前船が運んだニシンや海産物などの特産品、 北前船・菱垣廻船について(上方~江戸間航路 江戸時代の廻船の仕組みなど)の解説、築港による発展(第一次大阪港築堤工事など)。
・ 船や大阪港の発達史。大阪港は、港の整備と産業の近代化により、昭和14年(1939年)には日本一の取扱貿易量を誇った。 「世界に活躍する大阪商船(株)」のポスター。日本と北米、NY、南米、欧州などとの間で定期航路をもつ大阪商船の活躍などを示すもの。
・ 海御座船(うみござぶね)(御召関船(おめしせきぶね))とは、江戸時代の将軍・大名が所有した関船の一つで、 特に豪華に装飾された 航海用の船。御座船の系譜・図面や航海についての説明。参勤交代の大名を乗せた御座船、その他大小の和船などについて、 パネルで紹介する。
・ 川御座船(かわござぶね)。航海用の海御座船(うみござぶね)に対して、河川専用の将軍・大名の豪華な御座船。
・ その他、葦船、ジャンク、アラブ・ダウ船、カラック船など多数の船模型。ボトルシップ。

  また、大阪湾に流れ出る淀川やその水系の河口域に発展してきた「大坂港」の発展史をさまざまなパネルとジオラマをもって 紹介する。江戸末期の大坂みなと図、江戸末期に沢山の千石船で賑わう淀川河口付近の大坂湊のジオラマ、澪標の解説、住吉大社の 高灯籠(たかどうろう)(高灯籠は常夜灯であり、航路の目標となっていた)の模型、現在の大阪港周辺図などが展示される。

  その他、帆走の仕組みについて、クロースホールド(ヨットが風上へ切り上がる帆走)などの風向きと帆との位置関係や帆走方向に 関する図式を添えて解説される。ヨットは風が吹いて来る方角に向かって、即ち風に逆らってどこまで進めるか。いくらなんでも 風にまともに逆らっては進めない。しかし、風向きに対して30度くらいの方角に向けて、風に逆らいながら進むことはできる。 斜め方向にジグザグを繰り返して進むことで、逆風の中を前進できる。風向き、帆の角度、ヨットの進む方向について、子供たち にも分かりやすく説明している。

  航海術は大航海時代以降どのように発展してきたか、その発達についても解説する。大洋を航海する船乗りにとっての最大の 関心事の一つは、地球上における自船の正確な位置であり、 自船の進む方角と距離であった。それを知るためのさまざまな器具が発明されてきた。 それは、星などの高度を測る器具であり、船脚を測る道具(測程器、パテントログなど)、経過時間を知るための時計など(砂時計、 クロノメーターなど)である。方角を知る磁石、羅針盤は言うに及ばず、「海の時空館」では、多くの航海用具・計器が展示され、 それらの発展の歴史や仕組みに関する図解式説明や「天球と星の運動」の図式などを通じて多くを学ぶことができる。 例えば、クロノメーター(航海中の気温変化にも正確な時間を表わすための仕組みは、現在の機械式時計にも受け継がれている)の他、 トラバースボード、ノクターナル、クロススタッフ、バックスタッフ、セクスタント(六分儀)、オクタントなどの航海用具の原理を知り、 さらにその幾つかの使い方を体験できるように工夫されている。

  「海の時空館」ではまたいくつかの有名な世界の古地図が紹介されている。「プトレマイオスの世界図」ではまだアフリカ大陸の南端・ 喜望峰を回航できる図にはなっていない。「ヘンリックス・マルテルスの世界図」ではまだ太平洋の記載はない。 「カンティーノの世界図」にも太平洋はなさそうである。紅海はその名の通りまさに赤く塗られている。 「パティスタ・アグネスの世界図」では、南北アメリカ大陸が鮮明に描かれ、太平洋も描かれている。

  「海の時空館」を訪問する際には、たいてい安治川河口の「天保山(てんぽうざん)」にも訪れた。昨今にあっては関西汽船 による瀬戸内海航路の運航が絶頂期にあった頃の面影はほとんど残っていない。今では再開発された近代的ウォーターフロントに 近代的な水族館「海遊館」や、ショッピングモールなどが立ち並び、人々を楽しませてくれる。近傍にある「天保山公園」の入り口 には、江戸時代に天保山の海辺風景を描いた4、5枚の浮世絵のタイル製レリーフが壁面に飾られている。公園隅には「日本一低い山・天保山」の碑が建つ。江戸時代、安治川河口の 浚渫などを行なった際の土砂を積み上げたもので、そこには三角基準点が設置されている。

  ところで、「なにわの時空館」は2000年に開館した近代的で総合的な海洋博物館であったが、2013年3月に閉館となった。 閉館が取沙汰されていることを知ってからも、3度ほど訪ねた。大阪市の財政が持ちこたえられず、わずか13年の歴史に幕を閉じたことは残念でならない。 東京の「船の科学館」もほぼ同じ運命を辿りつつあった。

  時には趣向を変えて、淀川水系の舟運との関わり合いが深い大阪中之島のウォーターフロントにある八軒家浜 (はちけんやはま)を訪れた。「八軒家浜」には古くから船着き場があり大いに賑わっていた。 淀川の上流部を顧みると、京都市街地またはその近傍を流れ下る鴨川・桂川が、京都・大阪府境辺り (大山崎) で 宇治川や木津川と合流して大河川となる。それが淀川(新淀川)である。その淀川から分岐した大川 (旧淀川) が、八軒家浜や中之島を経て、安治川となって大阪湾に注ぎ出る。家浜のリバーサイドには、 雁木(船荷を揚げ降ろしするための 水辺の階段)が復元されている。安治川川口の突端にあるのが天保山 (てんぽうざん) である。1950~70年代の日本の高度経済成長期には 瀬戸内海で数多くの定期船航路を運航していた関西汽船の客船乗降桟橋があったところである。

  再開発された中之島近傍の八軒家浜のウォーターフロントには、その昔大阪~京都間の舟運のために利用された船着き場が 再現され、そこに常夜灯が建つ。その台座には浜の歴史について次のようなことが記されている。 7~8世紀頃この辺りに「難波津」があり、遣隋使・遣唐使がここから旅立った。明治以降に交通手段が陸上へと移るまでは、 この辺りは水上交通のターミナルとして賑わっていた。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」 や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、 浪花節「森の石松三十石船」にも八軒家が登場する。 「八軒家」は、中世以来、京都~大坂を結ぶ淀川の河川交通の起点であり、旅人や運送関係者で大いに賑わった。 11~15世紀頃のこと、現在の「天神橋」(八軒家浜の下流数百メートルにある)付近は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれ、港として 熊野参詣に利用されていた。そのため、熊野古道(現在はユネスコ世界遺産登録される)の起点として有名であった。 熊野古道には 幾つものルートがあって、特に紀伊路、中辺路においては、渡辺津から熊野三山までの間に百ヵ所近くの熊野権現を祭祀した九十九王子 があった。「一の王子(窪律王子)」があった場所は現在の坐摩(いかすり)神社行宮(大阪市中央区石町)とされている。

  また、江戸時代のこと、八軒家浜には三十石船(さんじゅっこくぶね)をはじめ、野崎参 (のざきまいり)や金毘羅参 (こんぴらまいり) のためのさまざまな船が発着し、淀川流域の船着場として随一の賑わいを見せていた。三十石船は、 八軒家と京・ 伏見との間の11里余り(約45㎞)を、枚方 (ひらかた) を経て上り一日下り半日で運航し、江戸時代を通じて貨客 輸送の中心を担っていた。そして、1870年(明治3年)に蒸気汽船が就航すると、三十石船は衰退して行き、明治期に入って浜の風景は一変した。 両舷に外輪推進器をつけた川蒸気(いわゆる外輪蒸気船)が黒煙をもくもくと吐きながら、大川(現在の旧淀川、または 土佐堀川)を行き来した。川蒸気は大阪・京都をも結んで運航されるようになった。しかし、1910年(明治43年)に京阪電気鉄道が 天満橋~京都五条間に開通したこともあって、八軒家浜は淀川舟運の貨客輸送ターミナルとしての役目を終えることになった。

  ところで、時改めて大阪城近くにある「大阪歴史博物館」を訪ねた。古代における「難波津」の港と舟運、江戸時代における 淀川河口周辺や淀川水系における舟運発展の歴史を学べる。同博物館には、江戸時代後期(天保期)の頃、航海安全を祈って神社に 奉納された北前船模型が展示されている。北前船とは、江戸時代後期から 明治30年代にかけて北海道をはじめとする日本海沿岸の港と大坂の間を往復し、さまざまな物資を売買しながら航海した商船である。 大坂に魚肥や昆布などをもたらし、その経済的発展を支えた。同博物館では、「安治川口(あじかわくち)」と呼ばれた 河川港において菱垣廻船が小舟との間で船荷を積み下ろしする情景がジオラマ風に展示される。また、安治川河口突端の天保山 地先水域の澪筋(みおすじ) を通って、安治川口から遡って行く多くの菱垣廻船の帆走風景を描いた図絵をも見ることができる。 説明パネルには、「安治川口 : 大坂に諸国から大きな船で運ばれてきたさまざまな物資は、河口からさかのぼった安治川口や 木津川口(きづかわぐち)の港で小さな船に積み替えられ市中に向かった。川沿いには船宿などが建ち並び、船頭や荷物の積み 下ろしをする人々などで賑わった」と記される。

  若干繰り返しになるが、琵琶湖などに源を発する淀川は、現在では、その本流がそのまま「新淀川」となって大阪湾に注ぎ込む。他方、大阪市内 の北区・天神橋辺りで「大川」が本流から枝分かれしている。その大川が旧淀川である。大川は中之島を経て安治川となって大阪湾 に注ぎ込むが、その突端にあるのが天保山のある「築港」地区である。かつて大阪湾に向かって突き出す長大の桟橋が築かれていた。 1903年(明治36年)7月に竣工された。桟橋の幅員は22メートル、長さ455メートルにも及んだ。港湾施設であったが、魚釣りなど庶民のリク レーション の場としても賑わったという。同博物館では、1925年(大正14年)頃の築港大桟橋風景の写真を見ることができる。

  時改めて、堺市の「市立博物館」を訪ねた。南蛮船が堺の港に出入りした頃の歴史をも紹介する。堺港近傍には古い 六角柱の木造の「旧堺灯台」が建つ。1877年(明治10年)に建設され、現存する洋式の木造燈台としては最古である。その帰途、大阪市 東住吉区長居公園内に立地する「大阪自然博物館」に立ち寄った。 クジラの全身骨格標本の他、数多くの魚類標本、淀川河口周辺の生態系などの自然環境について模型とパネルで詳しく紹介する。 また、別日には、住吉神社に出向いた。境内には寄進された巨大な灯籠、船絵馬、遣隋使船と難波津を描いた絵図、大阪市内で 出土した船形埴輪を模して建造された船「なみはや」を模した埴輪記念碑を見ることができる。大阪湾に通じる神社参道の中ほどには、 その昔堺港に出入りする船が頼りにした、見上げるような髙塔の灯籠が建つ。

  さて、兵庫県の海洋関連施設について綴りたい。南米航路の船乗りに憧れていた青少年の頃、大阪天保山を起点にして、関西汽船で 瀬戸内海を家族らとよく船旅をした。その帰途の終着港はたいてい神戸港であり、ポートタワーが高くそびえる中突堤であった。 結局船乗りになれなかったが、外国船を眺め異国の香りに浸りたいとメリケン波止場や中突堤をはじめ、多くの貨物船が横付けになる、 櫛のように何本も海に突き出た突堤辺りを散策するためによく出掛けたものであった。 神戸は私の原点とも言えた。また、人生の起点でもあった。

  船乗りへの夢が破れてからは、以前ほど神戸のウォーターフロントに足が向かなくなったが、その昔三宮センターアーケード街の 一角にあったタンゴ喫茶へはよく通った。アーケード通りから地下へ潜る狭い階段があり、それを降りるとタンゴを専門に聴かせて くれるカフェがあった。薄暗い店内にはタンゴがいつも流れていた。大学生の頃神戸に出向くと先ずはその地下のタンゴカフェに 潜り込んだ。そして、タンゴに酔いながら、卒後就職に至った会社から海外へと飛翔したいという想い描いていた。

  話しは現代に戻るが、農事の手伝いのため帰郷をし始めた頃は、農作業のできない雨天日をついて、神戸の海洋関連施設を ぶらっとよく訪ねた。そして、その度にそのタンゴカフェを探し回った。アーケード街のあちこちを尋ね歩いた。だが、何度トライ してもカフェには辿り着けなかった。40年も前のカフェが遺されているはずもないと頭では分かっていても、カフェに辿り着こう と捜し歩く愚かな「自分」がいた。恐らく1995年(平成7年)1月の「阪神淡路大震災」のために閉店してしまったのかもしれなかった。 それが事実か確かめようもなく、どこか近辺の街角で営業を再開しているのではないかと、一筋の淡い希望を繫いでセンター街 を行ったり来たりした。だが、辿り着けないままであった。

     神戸ではこれまで、海・船・港とゆかりのある博物館や史跡など多くの施設を散策した。「神戸海洋博物館」には、JICA離職 後に3,4回は訪ねた。ヨットが真っ白な帆をはらませて海を滑りゆくようなイメージのパビリオンがひと際目立つ。入館すると巨大な帆船模型が迎えて くれる。関西汽船の「くれない丸」、深海調査船「しんかい6500」、戦列艦・菱垣廻船・御朱印船などの 沢山の船舶模型の他、千石船の大型模型、「ビクトリー号」の大型輪切り船体構造模型、マンガン団塊の実物標本、和船の錨・ 磁石・船箪笥、船首像、曳航測程器・測深器・羅針儀などの航海計器や用具類、船の推進原理の図式解説パネル、船首部・プロペラ・舵の 模型、船で働く乗員の役割・パナマ運河・江戸時代の沿海航路や海運、その他航海の歴史などについてのパネル説明など盛り だくさんに展示される。実物の葦舟やベニスのゴンドラも陳列される。

  屋外には、実物の超電導電磁推進船「ヤマト1」、揚力式複合支持船型をもつ実海域用のテクノスーパーライナー「疾風」 (はやて)、コロンブスの「サンタ・マリア号」(船種: ナオ)の復元船などが展示される。 企業博物館として「カワサキワールド」が併設され、川崎重工業が開発した当時としては最新鋭の艦船をはじめ、陸海空の科学技術 の粋を結集した乗り物の発展史を学べる。

     神戸東灘区の深江には、神戸大学海事科学部付属の「海事博物館」がある。かつては神戸大学商船大学付属の博物館であった。 正門からキャンパスに入ると真正面に管理棟が建つ。50年余年前のこと、当時中学一年生の時に商船大学長と文通を始めて暫く 経った頃、初めてこの管理棟にある学長室を祖父に引率されて訪ねたことがある。その管理棟は当時のままにある。同博物館は正門を入って すぐの右手にある。船模型をはじめ、航海・機関・通信などに関する何千点にも及ぶ陳列品が整然と並べられている。

  その他、船と港に所縁の深い神戸には、東日本の代表的港町の横浜と並んで、幾つもの海洋関連施設がある。例えば、
・ 「戦没した船と海員の資料館」: 日中全面戦争から1945年8月の無条件降伏まで、幾万の船員のみならず民間船が戦時動員され、 日本周辺や南方海域で犠牲となった。戦時中徴用され戦没した7,000余隻ともいわれる戦没の一般民間船の写真資料、船員手帳、 復原模型などを所蔵・展示する。「全日本会員組合」によって運営管理される。
・ 「神戸築港資料館(ピアしっくす)」: 国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所敷地内にある。神戸港の発展の歴史、昔の神戸村 の絵図などが展示される。神戸操練所の創建当時の古写真の展示にはびっくり仰天した。
・ 「神戸市立博物館」: フランシスコ・ザビエルの肖像画オリジナルが所蔵される。茨木市音羽地区のある民家から発見されたものである。 ザビエルの肖像を今に伝える、世界でも唯一のものとされる絵(ポートレート)とされる。
・ 「神戸税関広報展示室」: 密輸船・乗組員などから押収された数々の禁制品が展示される。神戸税関業務の歴史や任務なども説明する。
・ 「中華華僑歴史博物館」: メリケン波止場入り口斜め対面にある博物館。マッチ製造業をはじめ、開港以来の中国人の経済社会文化 面での活躍を紹介する。
・ 「海軍操練所」がかつて所在したことを示す跡碑が建つ。
・ 「メリケン波止場跡」に石碑が建つ。
・ 「旧神戸移住センター」: 現在は、「海外移住と文化の交流センター」として内部公開され、移民船の模型をはじめ移住関連資料 などがパネル展示される。
・ 昔江戸・東京へ千石船などで酒を回漕した、灘の大手酒造会社「大関」の敷地内には古灯台が建つ。また、西宮市に所在する 「今津灯台」は摂津今津村(現・西宮市今津港)に1810年創建された。幕末に再建されて現存する灯台である。
・ 西宮市の「貝類博物館」: 膨大な数の貝標本がぎっしりと展示される。また、海洋冒険家・堀江謙一氏が1962年に世界初の 単独無寄港太平洋横断を達成した小型ヨット「マーメード号」が展示される。

  「旧神戸移住センター」について少し触れたい。かつて海外へ移住者を送り出すに先だって、語学研修や移住先の社会文化事情の オリエンテーションなどを提供していた研修施設である「旧移住センター」(現在は「海外移住と文化の交流センター」となっている) には、幾つかの移民船模型の展示の他、移住関連歴史資料などが展示される。1976年に当時の「海外移住事業団」と「海外技術協力 事業団」とが統合され、「国際協力事業団」となり、さらに現在の「国際協力機構」(JICA)へと改組されているが、 かつてJICAの所管にあった「海外移住センター」の前身が「旧移住センター」である。神戸市街地の北野地区(六甲山の裾野)に 向かって南北に伸びるトーアロードと平行する「鯉川筋」という緩やかな坂道を真っ直ぐ登り行くと、その交流センターに辿り着く。

  ブラジルへの最初の日本人集団移住者781人が、神戸港から出発する前にここ「旧移住センター」で寝泊まりしながら出発の 準備を整えた。出帆当日、「移住坂」と呼ばれた鯉川筋を下り、埠頭で待つ「笠戸丸」に乗船した。 笠戸船は1908年にブラジル・サントス港の第14番埠頭に着岸した。これがブラジル移住の最初であった。ブラジルの同胞移民の原点 といえる。その後も多くの移住者が南米へと海を渡って行った。「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」などの華麗な流線型の貨客船 が南米航路に就航していた。彼らの多くもその移民坂を下って、神戸港の埠頭から日本を後にして新しい人生を歩み出して行った。

  さて、ある時には、兵庫・淡路島にある歴史文化施設の「高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館」に出掛けた。江戸時代、彼は 最初の持ち船として「辰悦丸」を調達し、北海道を拠点に商いで成功を収め、順次持ち船と交易圏を拡大して行った。また、 北海道の国後・エトロフ間航路や漁場などを開発した。さて、1811年のこと、ロシア軍艦「ディアナ号」の艦長ゴローニンが 国後島に上陸し幕府官吏に捕らえられた。翌1812年高田屋嘉兵衛と彼の手船「観世丸」がゴローニンの副艦長リコルドにより拿捕され、 ハバロフスクへ連行され、長く拘留されるという経験をした。紆余曲折があるが、嘉兵衛はゴローニンの解放のための交渉を買って出て奔走した。 結果長年捕らわれの身であったゴローニンは無事釈放され、帰国した。同館内には、「辰悦丸」の1/2縮尺のレプリカ船が展示される他、 多くの千石船の模型、嘉兵衛の航海・交易・生活関連の史料、いわゆるゴローニン事件の歴史史料などが展示される。

  別日に少し遠出して、兵庫県立赤穂海浜公園内に立地する「赤穂市立海洋科学館・塩の国」という海と塩のテーマ館に足を 運んだ。また、帰途に「赤穂市立歴史博物館 塩と義士の館」にも立ち寄った。同歴史館には千石船の1/3縮尺模型、製塩用具、 塩業に関する資料も展示される。

  再び別日のことであるが、神戸市兵庫区南部に所在する「兵庫運河」の海岸沿い(大輪田地区、清盛塚など)を散策した。 訪ねた当該年のNHK歴史大河ドラマの主人公は平清盛であった。実は昔、清盛が新都を開こうとしたこの兵庫の 地に臨時のNHK歴史展示館が開設されたというので、同館を訪ねた。清盛は、「兵庫の津」を埋め立て人工島を作り、津(港)を整備し、 中国・宋などとの海外貿易を繁栄させようと尽力したが、その足跡を訪ね歩いた。「兵庫運河」沿いにある、その人工島や津の 築造の基礎にしたという巨岩「古代大輪田泊まりの石椋」も一見に値する。なお、当時には開設されていなかった「兵庫県立 兵庫津ミュージアム・初代県庁館」を次回には訪ねてみたい。

  さて、京都と琵琶湖を結ぶ運河「琵琶湖疏水」やインクライン (傾斜鉄道、急勾配鉄道) 方式による舟運、近世における大坂と京都・伏見を結ぶ 淀川舟運について、またその舟運関連史料や川舟の模型などを展示する枚方(大阪と伏見の中ほどにある河岸のある町) の「市立枚方宿鍵屋資料館」や「国土交通省淀川河川事務所・淀川資料館」なども探訪する機会をもった。

  運河に関心のあった私は、閘門式とは全く異種のインクライン方式の運河が京都市内にあることを知り、 稲刈の合間を縫って、南禅寺近くにある「琵琶湖疏水記念館」とインクラインを訪ねた。蹴上(けあげ)のインクラインにはレールが 斜路に沿って遺され、また船を載せる台車も展示されている。ケーブルがレール中央に敷設され、大きな歯車を電気モーターで 回転させる。歯車の一部が「蹴上船溜り」に遺されている。電気はその「蹴上船溜り」から自然落下させた水力で発電された。 蹴上の船溜りから斜路を伝って下方にある「南禅寺船溜り」まで歩くことができる。また、今では小船で琵琶湖から疏水を伝って 「蹴上船溜り」まで遊覧できるが、インクラインは体験できない。なお、同記念館では、疏水建設の歴史やインクラインの技術工法 などを学ぶことができる。疏水にはその昔蒸気船すらも通航したという。

  疏水の歴史をもう少し辿りたい。明治維新後の1869年 (明治2年) に都が京都から東京に移された。この東京遷都により、京都では人口が減少し活気を失っていた。 その活力を取り戻そうと、時の知事(第3代)・北垣国道によって建設が進められたのが、琵琶湖と京都を結ぶ運河「琵琶湖疏水 (びわこそすい)」である。 建設工事を任されたのは、東京大学工学部の前身である東京工部大学校を卒業したばかりの 青年技師・田邉朔郎である。 彼の大学卒業論文は琵琶湖疏水の工事に関わるものであった。

(1) 1885年(明治18年)に始められた琵琶湖疏水の建設は、1890年(明治23年)に、①琵琶湖の取水口(大津)から京都市内を流れる 鴨川の合流地点までと、 ②蹴上(けあげ)から分岐して北の方角に流れる「疏水分線」(当該水路上にはかの有名な「水路閣」 (南禅寺境内) が完成した(いわゆる「琵琶湖第一疏水」の完成である)。なお、当該分線の北には「哲学の道」が続く。 大津の琵琶湖疏水取水口から京都蹴上までの距離は約8.4kmであり、幾つかのトンネルが刳り抜かれた。

  疏水の水は、舟運のみならず、 水車の動力源、灌漑・防火用水としても使われた。さらには日本初の事業用水力発電の エネルギー源にも用いられた。 電力によって工業振興がなされ、また日本初の電気鉄道が開通するなど、京都に活気を 取り戻す源となった。

  繰り返しになるが、疏水は、大津の取水口から始まり、長等山(ながらやま)の下を貫通するトンネル内を流れ、山科盆地を経て 京都市内に入る。その後、蹴上で二つに分かれ、一つは「鴨東(おうとう)運河」となり鴨川と出会う。もう一つは「疏水分線」となり 小川頭に達する。 疏水の総延長は20㎞、取水量は毎秒8.35立法メートルであった。

(2) 鴨川と疏水との間には約36mの高低差がある。この水位差を電気仕掛けの「インクライン (傾斜鉄道、急勾配鉄道) 」という システムで克服した。因みに、船は鴨川から「鴨東運河」を通って、南禅寺傍の「南禅寺船溜り」にいたる。 そこでインクラインの船架台車に載せられ、582mの距離(当時世界最長)を 「蹴上船溜り」まで引き上げられた。 その後は運河を伝って琵琶湖まで遡って行った。このインクライン・システムによって乗客の乗り替え・貨物の載せ替えすることなく、 大阪湾~淀川~宇治川(三栖閘門)~鴨川運河~鴨東運河~南禅寺船溜り~インクライン~蹴上船溜り~琵琶湖第一疏水~琵琶湖 (大津)の間を行き来することができた。

(3) 蹴上には日本初の商業用水力発電所 (蹴上発電所) が1891年(明治24年)に建設され送電が開始された。その電力がインクラインの 動力源として使用された。日本初の電気鉄道への電力供給として貢献した。当時としては革新的な技術導入であった。インクラインの運転 当初にあっては、水車動力でドラム式巻き上げ機を回転させて駆動させる仕組みであった。蹴上発電所の完成により、電力を利用した 電動機によって巻き上げ機を回転させ、インクライン軌道上の船架台車を上り下りさせた。なお、1894年(明治27年)には、 鴨川と琵琶湖疏水の合流地点から京都伏見に至る「鴨川運河」が舟運目的で完成した。

(4) 鴨川運河はその開通時は客船や貨物船による利用が盛んであったが、鉄道輸送の発展などによって1930年代に衰退し、 伏見インクラインの運転は中止 されるに至った。なお、電力需要の増大などにより、1912年(明治45年)に「第二疏水」が完成すると共に、「夷川(えびすがわ)発電所」、 「伏見発電所」が完成した。現在でもこれらの蹴上・夷川・伏見の三つの発電所が稼働している。

  蹴上船溜りに建つ案内板には「インクライン運転の仕組み」と題して概略次のように記されている。

    「このインクラインは第3トンネルを掘削した土砂を埋め立てて造られた。蹴上船溜から南禅寺船溜までの延長は 約582m。 落差は約36mあるため、この間はどうしても陸送となった。インクラインはレールを4本敷設した複線の傾斜鉄道である。 両船溜に到着した船が旅客や貨物を載せ替えることなく運行できるように考えられたもの。建設当初は、水車の動力でドラム(巻上機)を回転させ、ワイヤーロープを 巻き上げて台車を上下させる設計であったが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更された。 ドラムは、最初は蹴上船溜にあったが、後に南禅寺船溜北側の建物に移転し改造された。台車を上下させる仕組みは[図のように] 直径3.6mのドラムを35馬力(25kw)の直流電動機で回転させ、直径約3㎝のワイヤーロープを巻き上げて 運転していた。蹴上船溜の 水中部には直径3.2mの水中滑車[展示品]を水平に設置していた。また、レールは 当初イギリスから輸入され、軌道中心には直径 約60㎝の縄受車を約9m間隔に設置し、ワイヤーロープが地面に擦れるのを防ぎ円滑に巻き取れるようにしてあった。 ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで2段変速できるようになっていて、片道の所要時間としては10~15分かかった」。

  琵琶湖-京都間運河の開削の 経緯、運河の概要、革新的な技術導入、琵琶湖と鴨川との水位差を克服したインクライン (傾斜 鉄道・急勾配鉄道) などに触れたが、インクラインについての説明をもう少し続けたい。 蹴上と南禅寺の両船溜のほぼ中間地には船架台車と木造船が展示されるが、この船(三十石船)は琵琶湖疏水で 使用されていた運搬船が復元されたものである。 当時は、鴨川と疏水との間の水位差36mを克服するために、船ごとインクライン の台車に載せ急坂を昇降させていた。 展示の傍に建つ案内板には、「インクライン (傾斜鉄道)」と題して次のように記されている。

    大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種であった。琵琶湖から 水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として 伝承されてきました。 明治2年(1869年)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府3代目知事北垣国道、 青年技師田邉朔郎、測量師 嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885年)、水車動力、 舟運、灌漑、精米水車などの 多目的な効用をはかるため、疏水掘削工事に着工しました。

    インクラインは、蹴上船溜や南禅寺船溜に到着した船から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で 建設された。 当初蹴上から分水した水車動力 (20馬力、15KW) によって水車場内のウインチ (巻上機) と水中の滑車を回転、 ワイヤーロープで 繫いだ軌道上の台車を上下する構造を考えていた。その後、明治21年(1888年)、田邉技師、高木文平調査委員が訪米し、 アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国初の 蹴上発電所を建設することになった。 この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用された。

    明治27年(1894年)には伏見区掘詰町までの延長約20㎞の運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疏水を通じて結ばれ、 北陸や近江、 あるいは大阪からの人々や物資往来で大層賑わい、明治44年(1911年)には渡航客約13万人を記録した。しかしながら、 時代の流れで大正4年(1915年)には、京津電車、京阪電車が開通、旅客数が3万人台 に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも 東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたために、京津間の 足としての疏水の機能は実質的に失われることになった。

    一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925年)には、史上最高の22万3千トン、一日約150隻を記録した。やがて、陸送化がどんどん進み 昭和26年 (1951年) 9月、砂を積んだ30石船が最後に下り、疏水運河60年の任務を終えた。こうして、琵琶湖疏水・インクラインは 文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たした。平成8年(1996年)6月、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた 遺産として 後世に永く伝えるために形態保存している。

    着工 明治20年1887年5月/竣工 明治23年1890年1月/運転開始 明治24年(1891年)11月 (蹴上発電所営業運転開始)
    幅 約22m/勾配 10~15分/電動機直流 440V, 70A/ドラム工場 南禅寺船溜北側

  大阪・京都の間に立地する茨木市に25歳まで暮らしながら、京都・伏見の街を一度もゆっくり散策したことがなかったが、 「琵琶湖第一疏水」という疏水(水路・人工運河)と舟運を知ってからは、更に興味は広がった。京都から伏見を経て、さらに淀川を通じて 海へと繋がる舟運に大いに興味がそそられた。また、海にも湖にも面しない内陸都市・京都の市内にも幾つか見るべきものがあることに 初めて気付いた。京都市内を流れる鴨川から取水され、かつ鴨川と平行的に流れる高瀬川も人工運河の一つである。その運河を遡ると 櫓櫂船のための幾つもの「舟入」と呼ばれる船着き場・船溜りがあったことを示す跡がある。 その運河の最北端には、最終の積み降ろし場・船溜まり(一之舟入)がある。

  京都市内から伏見まで通じる運河は角倉了以によって開削された。かつて、秀吉が伏見に城を築造した頃、その城下町の整備に合わせ て、宇治川の治水や伏見港の整備が行われた。運河は宇治川を経て淀川に繋がり、大阪湾にいたる。琵琶湖と京都市街地、さらに市街地 と伏見港(いわば京都のため内陸港)とが運河で結ばれ、さらに淀川を通じて大阪湾の海に繋がっている。 旧伏見港近傍にある「三栖閘門資料館」を訪ね、運河と舟運についていろいろ学んだ。その昔高瀬舟、三十石船、過書船などが 淀川水系の舟運を支えた。旧伏見港は大坂~京都を結ぶ中継基地として発展し、明治には蒸気船も大阪・中之島と伏見の間で 往来した。だが、鉄道、道路の発展につれ蒸気船による舟運も次第に衰退して行った。

  またある時は、草津市まで足を延ばし「滋賀県立琵琶湖博物館」を訪ねた。さらに、湖西線で琵琶湖最北西端の高島市を経て 敦賀へ出向いた。高島市の塩津と敦賀の間に、鉄道でいえば「北陸トンネル」を擁する山地が横たわる。古くからその山地のうちの適地 に運河やトンネル式水路を開削して日本海(敦賀)と琵琶湖を結ぶという構想があった。 福井・滋賀県境にあって両県の分水嶺をなす深坂峠の福井県側の山間にある集落・疋田(ひきだ)には「愛発舟川の里展示室」という 資料館がある。同室では、江戸時代に構想された深坂峠下を貫通するトンネル式水路建設概略図などの資料などが陳列される。 江戸時代中期から明治初期にかけての北前船輸送が盛んなりし時代に、極小規模であっても運河開削と閘門建設技術、財政力を もち合わせていれば、日本海・琵琶湖と京都と大阪湾が繫がり、三十石積み船が頻繁に往来していたかもしれない。 殆どの廻船は湖と河川を利用し、日本海・琵琶湖間の人工運河の要所では多くは人馬による曳船となっていたに違いない。


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    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第3節 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く


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     第22章・目次
      第1節: 日本国内の海洋博物館や海の関連施設を探訪して(総覧)
      [参考]国内の旅のリスト(博物館巡覧を含む)
      第2節: 東京・関東地方の海洋関連施設を巡覧する
      第3節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く
      第4節: 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く
      第5節: ウォーターフロントや海洋関連施設巡りの「旅と辞典づくり」は続く