二時間余り馬の背にまたがり、リュックサックを腹部に抱え手綱を固く握りしめ、カウボーイに背後から抱きかかえられながら、
必死の思いでエル・サポーテ村へと辿り着けた。心底安堵の思いが込み上げ、感激の涙であった。途中で症状が悪化しなかったことが
大きな救いであり、最も嬉しかったことである。さて、車を運転してくれるドライバーのことには全く思い至らなかった。ドライバー
を見つけ、首都マナグアの病院まで送り届けてもらい、診察と治療を受けるまでには未だ5時間以上も我慢し続けなければならなかった。
村に辿り着いた時には陽はすっかり落ちて真っ暗闇であった。例の雑貨屋の裸電球が唯一の灯りだったように記憶する。
カウボーイらへの馬の借り上げ代とガイド料の支払いなどを手短に済ませ、すぐにでも首都に向け出発したかったが、そうはいかなかった。
私の車を運転してくれるドライバーを見つける必要があった。だが、雑貨屋にたむろしていたエル・サポーテの村人の中には
運転免許をもっている人は見当たらないという話が漏れ伝わって来た。村にカウボーイはいてもドライバーはどうも皆無らしかった。
K隊員とカウボーイはドライバー探しに奔走してくれた。一体誰にお世話になったのか分からないが、街灯など全くない村道を伝って
真っ暗闇の中月と星の光を頼りにわざわざ隣村まで探しに出向いてくれたらしい。その間、痛みを堪えながらリュックから財布を探し
出して、カウボーイらに支払うお金を用意した。当時現地紙幣の他にたまたま何用かで米国ドル紙幣を何枚かを所持していた。さて、
ようやく一人の若者が見つかり、出発の段どりが整った。何だかんだで、村を出立できたのは、馬を降りてから1時間ほど後のことで、
夜7時頃であった。
K隊員からの情報によれば、JICA事務所の所員Sさんと健康監理員Oさんが、村から70kmほど先の地方都市フイガルパまで駆けつけ、そこの保健所と掛け合い救急車
を手配してくれたという。村道から県道25号線に出て見ると、1時間余り要して駆け付けてくれたボックスタイプの救急車が待機していた。
救急車に乗り移ろうとしたが、車内には横になれるベッドはなく、また急患者らへの応急医療措置に供する機器らしきものは何も
見えなかった。エアコンも備わっていないようで、快適とは言い難かった。
乗り心地に不安を覚えたので、救急車のお世話にならずに、そのまま自身の車でドライブすることにした。救急車に何の医療用装備もなく、エアコンも酸素吸入
器もなしに、砂利道の悪路を少なくとも小1時間走ることになり、胸痛の身にかなり応えそうで辛かった。止む得ず、自身の車でもって
フィガルパを目指すことにした。後部座席で背中を丸めながら座していた私は、どんな姿勢を取れば胸痛が少しでも和らぐのか、道中
ずっと探し求めていた。隣にはニカラグア人の救急隊員らしき青年が時折胸をさすってくれた。酸素吸入器があれば少しは楽になれると
思ったが、それは無い物ねだりであった。
小一時間ほどで砂利道を抜け舗装道路へ出た。走行は格段に快適となりスピードもアップし、その後一時間ほどでフイガルパに
到着した。そこで健康監理員らと合流した。保健所内で何が話し合いされているか定かでないが、恐らく救急車出動の事後手続きなど
に時間が費やされたのであろうが、小一時間ほど後にようやくマナグアに向け出立できた。監理員が助手席に座して付き添ってくれた。胸痛は
その後もずっと変わらなかった。痛みは一定レベルで最初からずっと「安定」的に推移していたので、むしろ内心では安堵していた。
急変して最悪の心筋梗塞の事態に陥る兆候がないことを意味したからである。完全に冠動脈のどこかで閉塞し、その結果
激痛となり我慢できなくなることに最も恐怖心を抱いていたが、幸いにもその後もずっと同じくらいの胸痛レベルであった。
フイガルパから3時間ほどかかって首都に辿りつき、予約されていた総合病院「メトロポリタン病院」に滑り込んだ。私の
住処から5~6分のところに病院はあった。マナグアでは医療技術レベルが最も髙く、医療設備も整った民間病院であった。
到着後すぐさま、ベッドに横たえながら色んな検査に入った。発症時の状況などにつき簡単な問診を受けた後、心電図、簡易のレントゲン
撮影、エコー、血中酸素濃度測定の他、点滴による応急措置などを受けた。医者は心臓冠動脈診断に忙しくほとんど会話することは
なかったが、監理員や所員が直近の病状を把握しつつ、随時JICA東京本部の「健康管理センター」の専門医らと連絡をとって
くれていた。
草むらに横たえ、めまいと吐き気、胸痛に襲われていた当初の状況から一転して、ニカラグアのベストな近代的病院のベッドに
横たえ医療措置を受けられる状態となっていた。思えば、これはすごいことであった。「これで何とか救われる」、「これからは
病状が良くなる」という安堵感があった。病状が先々において急変するかもしれないという恐怖と危機的事態を脱し、ほとんど
不安が払拭され、不思議なほどに安定した精神状態になれた。首都に戻り入院することができ、丸で万事が終わったかのような
平穏な気分であった。だが、胸痛はほんのわずかに和らいだような気がしない訳ではなかったが、大きく改善はしていなかった。
ただ、生死を彷徨うことはもうないに違いないという安心感は何よりも有り難く嬉しかった。
さて、「明日朝一番に手術をすることになった」と監理員から聞かされた。早朝8時には、心臓冠動脈手術を施せる別の専門クリ
ニックに移動し、手術を受ける手はずであった。実は監理員からニカラグア人医師のことについて、ある一言を耳打ちされた。心臓
専門の外科医はニカラグアには2人しかいなく、そのうちの一人を捉まえることができたという。そのニカラグア人医師は、普通は
1年のうち半年間は米国で外科手術に従事し、残り半年をニカラグアに帰国し施術しているという。
今回幸いにもたまたま母国に帰国していて、そのクリニックで施術に当たっており、今回運よく手術予定に組み入れてもらえたという。
外科医が母国に帰国中というタイミングで手術を受けられたことが最初の奇跡であった。偶然と言う他なかった。この幸運なくしては、辺境の奥地
から近代的病院へ担ぎ込まれても、そこで自然淘汰の悲劇に遭っていたかもしれなかった。ドクターがニカラグアで実働中であったことは、
誠にありがたい話であった。JICAニカラグア事務所は日頃から医療保健関連の助言・情報を得られるよう、ニカラグア人顧問医と契約
を取り交わしている。幸いにも、その顧問医から最大限の助言・助力を得たこともできた。翌朝午前8時前に救急車で外科医の待つクリニックへ
搬送され、すぐに手術室へ向かいオペレーションに臨んだ。
オペには所員や監理員が立ち会ってくれて、オペの様子をモニターを通してずっと観ていたようだ。手術台に乗せられた私からは、
位置的にみてそのモニターを観れなかった。右足の股の付け根辺りからカテーテルが心臓の冠動脈に向けて差し込まれ、狭窄する箇所
にステントが挿入されたという。足の付け根にはそれらしき小さな傷跡が残されていた。付き添ってくれた監理員らから後で聞かされた
話であるが、ステントを狭窄箇所に留置しようとしていた、その正に直前か最中に、その狭窄部が完全に閉塞したという。運よく
そこへ間髪入れずステントを留置できたという。
話にはさらに続きがあった。その留置中に今度は別の箇所で同時的に閉塞が発生し、そこにもタイミングよくステントが留置され
るに至ったと聞かされた。このように、幸運にも奇跡的な出来事が積み重なって九死に一生を得た。
ベッドに釘付けになっていた私には施術を観ることはできなかったが、これで本当に命が救われたと心から安堵し喜んだ。進歩した近代医学の
テクノロジーのお陰もあって、この世から自然淘汰されることを免れた。多くの人からそういわれた。さて、手術を終えた直後から
ウソのように胸痛は消え去っていた。普段通り軽やかに息を吸えることに感謝であった。
発展途上国の中でも最貧国の一つに数えられるニカラグアの地で、冠動脈の狭窄・閉塞後に、手遅れにならないうちにステント留置
という手術を受けることができ生還できたのは奇跡そのものであった。さもなくば、ドクターと看護師の付き添いの下で、米国かコスタリカへ緊急
移送してもらう他に助かる手立はなかったはずである。JICAに奉職した時から、親などの死に目に会えないことや、医療の十分整わない
途上国で救命されないこともありうると、ある程度は覚悟していたとはいえ、自身がそのような生死をさまよう緊急事態に陥り、九死に
一生を得るという実体験することになってしまった。
心臓事故当時、任期の延長手続きのために在ニカラグア日本大使館でパスポートを更新した直後であった。そして、ニカラグア在留の
ための査証の延長手続きのために、ニカラグア外務省に新旧パスポートを添えて申請をしていた。偶然にも当時パスポートは手元には
なかった。緊急移送で出国しようにも、パスポート不所持ではいくらなんでもできなかったであろう。ニカラグア外務省担当局に駆け
込んでも、書類の山からすぐさまそれを探し出し、延長ビザを取得したうえで出国できていたかどうか。省内で相当もたついて、
何日も足止めを余儀なくされるというリスクもありえた。
山間部辺境地の山奥での事故から手術に至るまでのことを思い起こすと、冠動脈の閉塞ではなく狭窄であったこと、ニカラグア人
心臓外科医が奇跡的にも本国で勤務中であったこと、また手術中における閉塞事態の発生と言い、パスポートのことと言い、全ての
チョイスにおいてワーストを免れた。偶然の境遇での運の良さを改めて感じ入るところであった。
運命のベクトルがワーストチョイスへと向かっていたとすれば、事態はどんな展開を迎えていたことか。血の気が引き、時に凍りつく
ような話であった。
手術後は一般病棟の個室に移され、2~3日ほとんど横になっていた。トイレに行く時だけは、止む得ず起きて室内に備え付けのトイレ
に向かった。生きるエネルギーの局限なまでの減退、気力・体力の脱力感は半端ではなかった。トイレに行くにも擦り足となり、急に90歳の老人になったかのようで、
足元は全くおぼつかなかった。だがその後は、医師からは、院内の廊下に出てなるべく歩くようにしてもよいと勧められ、恐々として、
よたよたと歩くなどしてリハビリを始めた。そして、自身でも感じ取れるほど日ごとに僅かずつながらエネルギーが湧いてきた。
その頃になって、妻と娘2人が療養見舞いのため突然病室に姿を現した。全く聞かされていなかったので、びっくり仰天であった。
全てのJICA関係者(役職員、専門家、協力隊員など)が海外赴任や海外出張時にその都度強制的に加入する「海外共済会」の医療保険
制度があった。その制度のうちの「見舞いのための往復渡航費給付制度」などを活用して、ニカラグアにやってこれたという。
30数年のJICA奉職において初めて海外共済会による見舞い用家族渡航費の給付のお世話になった。海外渡航保険はやはり万が一の場合
における大きな頼りであった。既に手術を受け回復途上にあったことを知っていた家族は安心しきって日本からやって来れた次第である。
一週間ほど病院内で療養した後、めでたく退院できた。自宅に戻った後は、数週間自宅でずっと静養しながら、毎日のように定期的に経過観察のために
通院した。時に近くのショッピングモールに出掛け買い物などで一息ついたりした。とは言え、歩行は丸で亀のような足取りであった。
娘は来訪後4~5日で帰国したが、妻は思い迷った末居残ることになった。
さて、元のエネルギッシュさはまだまだ取り戻していなかったが、少しは足取りもしっかりとし、元気を取り戻しつつあったので、
いずれは職場復帰しようと軽く考えていた。一か月もすれば相当程度回復し、事務所に復帰できるものと想い描いていた。当然に、
職務を続行し全うするつもりでいた。実は、事故を引き起こしたのは2009年8月末であり、他方任期は元々2009年9月末であったが、
後任者の着任が遅れていたために、3~4月延長することがJICAとの間で内々に決まっていた。
ところが、自身が思うほどには職務を続行することは難しいものとひしひしと分かって来た。自宅で養生していたが、元通りの
気力・体力はなかなか蘇って来そうになく、自信がもてなくなっていた。動作はいたってのろいままであり、また決断のための頭の
回転も遅いままであり、今まで通りエネルギッシュに業務に立ち向かえる状態からはほど遠かった。端的に言えば、自分が生きてきた
現実の世界からすっかり取り残されてしまっているように思えた。今までの職務遂行のスタンダード的なリズムに自身をフィットさせる
にはほど遠い、というのが正直なところであった。従前のようにその場その場で即断即決し、物事をどんどん前に進め、エネルギッ
シュかつ適切な動作と決断を為すというパワーは、まだまだ取り戻せてはいない状態にあった。
自宅療養して3週間ほど経た頃、あるショッキングな体験をしてしまった。そのことは職務続行の希望をほぼ喪失させてしまった。
週末に妻と買い物をした帰りに気晴らしで、ある面白そうなハリウッド・アクション映画を鑑賞することにした。ところが、
映画が始まって2~30分後、大音量で、しかも心臓の鼓動リズムとシンクロナイズするかのような音楽が流れた時、予期せぬことが
起こった。心臓に異常に大きな負荷がかかるのを感じた。音楽とともにドキンドキンと鼓動が高まり、心臓の鼓動リズムを狂わせる
かのような負荷を受け、気分が急に悪くなり、とても映画を鑑賞し続けてはいられなくなった。即座に退出する羽目となった。
心臓の筋肉がそれなりに壊疽しダメージを受けていることを想像させるに十分であった。そのショックは大きかった。
エネルギッシュに職務遂行ができるパワーはいずれ戻ってくることは間違いないものと推察していたもの、問題は果たして何時頃に
なるのかであった。私としては、1か月程度を見越していた。だが、振り返ってみると、1年以上要することであったことをずっと後で
知ることになった。冠動脈2箇所にステントを入れたということは、それ以外にも閉塞リスクのある箇所が潜んでいるかもしれなかった。
また、体のあちこちに別の健康リスクを抱えている可能性もあった。血管の老化、髙血圧、髙いコレステロール・中性脂肪・血糖値など
のいわゆる生活習慣病に冒されているリスクがありえた。事実、ニカラグア赴任中でも、降圧剤とコレステロール抑制剤はそれまでも
毎日服用していた。
帰国して精密検査を受け、心臓筋肉へのダメージの程度、糖尿病のリスク、その他生活習慣病の有無や進行度合い、また余病の有無、
服薬の処方箋の見直しと確定などを行なうことは不可欠であった。「帰国せず従前通り職務続行をしても問題なし」とは行かなかった。
誰に指図された訳ではないが、自身で忖度して帰国を覚悟した。また、たとえ職務を続行できたとしても、残余の任期は私の後任の
事務所長が着任するまでのわずか数カ月のことであった。残念だが、事務所に復帰し従前通りに仕事に邁進するのはやはり無理があり、
早期帰国も止む無しと覚悟をした。
辺境奥地で心臓発作に襲われてから、現地JICAプロジェクトの専門家や海外青年協力隊員、現地JICA事務所、在ニカラグア日本
大使館、JICA本部などの多くの関係者に多大な迷惑と心配をまき散らし、心痛むことであった。そもそも事務所の責任者は自身であり、
いわば「敵前逃亡」するかのような心境にもなり心苦しかった。殆ど任期終末にあったとはいえ、任期途中でニカラグア
を去るのは残念至極であり、忸怩たる思いで一杯であった。責務を最後まで全うしたかったが、自ら招いた結果をどうにも回復させることも
できなかった。
事故に遭遇するまでは我が世の春を謳歌するがごとく、ニカラグアの国づくり人づくりと日常生活に生き甲斐を感じながら、公私共々
エネルギッシュに動き回っていた。個人的にはいわば「第6の青春」時代を歩んでいた自負する。だがしかし、事態は一変してしまった。
心筋梗塞で生死を彷徨うかそうでないかの間にある、余りにも大きな身体および精神的落差を痛感していた。そして、以後ずっとその
大きな落差を抱えて人生を歩むことになろうとは、その当時全く自覚できていなかった。さて、帰国するには、医師から帰国フライト
に耐えられるというお墨付きをもらう必要があった。それを待って帰国の時期を決めることになった。
帰国の日が決まり、もろもろの片づけをした。住居内の物理的な後片付け、車の売却、各種契約の打ち切りと精算など、たくさんの
残務整理があった。事務所や日本大使館の関係者などへのいわば身内への帰国の挨拶で精一杯となり、殆どは欠礼することに
なってしまった。車椅子に乗っかり、健康監理員に押してもらいながら、マナグア空港のパスポートコントロールを通過した後は、妻と二人だけで
搭乗待合室へと入った。何とも表現に窮する思いがマナグアを飛び立つまで続いていた。
妻と二人っきりとなった待合室から、滑走路の背後のずっと遠くに緑に包まれた山々が見えた。その中腹辺りに2年近く暮らした
我が住処があった。空には見慣れた入道雲が高く湧き上がっていた。ニカラグアの青空風景もこれで見納めかと思うと、何ともいえない
寂しさが込み上げた。ヒューストンに向けてアメリカン航空機が滑走路を疾走し、車輪が宙に浮き飛び立った。機内から眼下のマナグア
の町を眺めながら別れを惜しむ心の余裕はなかった。2009年10月8日のことである。
「生きて日本に帰る」というのはごく当たり前のことかもしれないが、それを真に実体験したのは1976年にJICA奉職して以来今回が
初めてであった。空港を飛び立った瞬間「これで生きて日本に帰れる」と思うと、生還できることの自身の運命に何とも言いがたい
複雑な思いがこみ上げてきた。何よりも、あの辺境奥地でのあの日から今日まで生きていることが信じられなかった。ニカラグアで
「自然淘汰」を免れたことに百万遍の感謝であった。職務途中放棄の無念さを胸にしまい込み、先ずは生還の喜びを噛みしめながら
マナグアを後にした。だがしかし、完全燃焼しきれずに多くのものをニカラグアに置き忘れているかのような思いを引きずっていた。
フライトの中ではいろいろな想いが去来した。帰国してからのことをあれこれ思い巡らせる時間がたっぷりとあった。
当座はJICA本部の「国際協力人材部・健康管理センター」でお世話になる予定であった。ニカラグアから帰任後の勤務先として、
同センターに配属されるという内々の約束を取り交わしていたからである。当座は、その約束を果たす責務があり、それを全うしたいと
考えていた。
だが、大病後の今となっては、一つの大きなテーマが脳裏に去来していた。同センター勤務後における身の振り方であった。
端的に言えば、JICAからの完全離職後の身の振り方であった。今回の奇跡の生還がそれを考えるきっかけに
なったことは間違いなかった。人生何が起こるか分からない。命はいつ途絶えてしまうか誰にも分からない。
今日元気でも、明日の朝が迎えられるかどうか分からないものだと、つくずく考えさせられた。今後心臓発作の再発を引き起こせば、
明日はないと覚悟せざるをえなかった。だから、今回自然淘汰を免れ、いわば神から授かった「おまけの人生」を無駄にすることなく、
また遣り残すことがないように、余命未知数の人生をどう送るべきか、真剣に向き合うことになるのは、自然の成り行きであった。
過去20数年、「海洋辞典づくり」に適宜適時にアトランダム的に取り組んできた。それは一つの楽しみであったし、また毎日を
リセットしリフレッシュできる一つの余暇活動でもあった。ずっと続けてはきたが、これまで一度も「一区切り」をつけたことも、
「締め括り」をしたこともなかった。「総合的レビュー」をしたこともなかった。
端的に言えば、このままでは遣りっ放しとなろうとしていた。だから、いずれかの機会をみて、仕事から完全に離れ「自由の翼」
を得た時には、人生でやり残したこと、やらねばならないこと、あるいは最もやりたいことにチャレンジしたいと、漠然ではあったが
心に思い描いていた。ましてや大病後にあっては、余命はどれほど残されているか知る由もない。「悠長に構えている訳には行かない」
という思いに駆り立てられた。何れ完全離職の暁には、辞典づくりに専念専従して一区切りをつけ、「中締めの締め括り」を
したい、そんな漠然とした思いを抱きながら、ついに母国・日本の土を踏むことができた。
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