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    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第4節 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く


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     第22章・目次

      第1節: 日本国内の海洋博物館や海の関連施設を探訪して(総覧)
      [参考]国内の旅のリスト(博物館巡覧を含む)
      第2節: 東京・関東地方の海洋関連施設を巡覧する
      第3節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く
      第4節: 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く
      第5節: ウォーターフロントや海洋関連施設巡りの「旅と辞典づくり」は続く


  2020年初めから猛威を振るい出した新型コロナウイルス感染証の世界的大流行(パンデミック)は、海外への旅の楽しみを私から完全に 取り上げてしまった。海外への旅としては、2018年9月のポルトガル、スペイン、スイス、ギリシャなどへの、一か月にわたる周遊の 旅が最後であった。日本での感染症流行の波は、周期的に山と谷を繰り返しながら第7波(2022年後半)にまで及んだ。 その第7波の国内感染拡大ピークは8~9月頃であった。波のピーク時には県境をまたぐ不要不急の外出などの自粛要請を遵守 しつつも、そのピーク・オフになる時期を狙って、たまには、 3~7日間ほどの地方への「撮り博」の旅をした。地方の海洋博物館、水族館、歴史・文化・自然系施設や史跡など巡り、 相変わらず沢山の画像を切り撮った。「海のシルクロード」ならぬ、自称「海の昆布(ケルプ)ロード」と名付ける北前船の西廻り 航路の寄港地を重点的に探訪することも、この頃の大きな楽しみの一つになった。

  さて、本節では、JICAから完全に離職する直前における探訪を含めて、2011年3月末の離職以降における海洋関連施設探訪の 旅のうち、宮城県気仙沼・石巻、北陸、四国・高松および岡山・宇野方面、北海道南部・東部への旅について少し詳しく振り返ってみたい。 なお、探訪の主要な旅の全リストは次のとおりである。


[参考]JICA離職(2011年3月末)直前における遠出の地方探訪
● パラグアイから帰国後の旅
・ 紀伊半島周回: 和歌山県白浜の円覚寺・月島・京都大学付属白浜水族館、太地町の「くじらの博物館」・「捕鯨船資料館」・ キャッチャーボート、伊勢志摩の「海の博物館」、「鳥羽水族館」など 2003.10.10-12
● サウジアラビアからの帰国後の旅
・ 青森・函館: 青森の「みちのく北方漁船博物館」と復元された実物大の弁才船、青函連絡船「メモリアルシップ八甲田丸」、 函館の「北洋資料館」、青函連絡船「メモリアルシップ摩周丸」、「箱舘高田屋嘉兵衛資料館」、五稜郭、函館山など 2006.07
● ニカラグアから帰国後の旅
・ 宮城県気仙沼・石巻: 「気仙沼リアスシャークミュージアム」、「氷の水族館」、石巻の「宮城県慶長使節船ミュージアム」 (「サン・ファン・バウティスタ号」の展示)、牡鹿半島先端の鮎川の「おしかホエールランド」など 2010.9.2-4
● 奈良・福山・しまなみ海道: 奈良・平城京復元施設での遣唐使船(復元船)、福山・鞆の浦の「龍馬のいろは丸展示館」、 「福山市鞆の浦歴史民俗資料館」、瀬戸内しまなみ海道と「村上水軍博物館」、「大三島海洋博物館」、来島海峡など 2010.9.18-21

JICA離職(2011.3.31) 後における遠出の地方探訪
● 北陸への旅: 上越市の「上越水族館」、高岡市伏木の望楼のある北前船船主邸と「高岡市伏木北前船資料館」、射水市の 海王丸パーク内の航海訓練船「海王丸」(帆船)、「魚津水族館」、「埋没林博物館」、宇奈月温泉・黒部峡谷など 2012.7.6-11
● 四国・高松および岡山・宇野方面への旅: 神戸→ フェリで高松へ。高松・金比羅の「琴平海洋博物館」、「香川県立歴史 民俗博物館」、旧宇高連絡船発着場、「玉野海洋博物館」、明石海峡大橋と「橋の科学館」など 2013.4.16-21
● 北海道・夕張および小樽方面: ニシン御殿、「小樽総合博物館」など 2016.09.22-24
● 山陰・島根の日本海沿岸の旅: 「足立美術館」、「米子歴史博物館」、美保関灯台と北前船の寄港地・美保関ウォーターフロント、 境港の「海の文化とくらし館」、出雲大社と日御碕灯台など 2019.04.16-23
● 北海道南部・東部沿岸巡りの旅: 苫小牧、日高町・静内、新冠、広尾町の「海洋博物館・郷土文化保存伝習館「海の館」」、 釧路の「釧路港資料館」、厚岸の「海事記念館」、根室市の「歴史と自然の資料館」、中標津の「標津サーモンパーク・ サーモン科学館(鮭の水族館)」、知床ビジターセンター、「斜里町立知床博物館」、「オホーツク流氷館」、網走の「市立郷土資料館」、 能取灯台、摩周湖、阿寒湖畔エコミュージアムセンター、帯広、襟裳岬、日高町の郷土資料館など 2019.9.9-20
● 静岡県への旅: 清水の「フェルケール博物館」、焼津の漁業関連資料館、御前崎灯台、沼津の「深海水族館」、 「東海大学海洋科学博物館と自然博物館」、登呂遺跡、三保の松原、日本平など 2020.7.28-8.2
● 新潟沿岸・佐渡島への旅: 新潟市内の船絵馬奉納神社、「新潟市歴史博物館」、佐渡島の「佐渡国小木民俗博物館・千石船 「白山丸」展示館」、海運資料館・和船「幸丸」展示館、出雲崎の「天領出雲崎時代館・出雲崎石油記念館」、村上市の「イヨボヤ会館」 など 2020.10.19-26
● 北陸沿岸の旅(福井・三国~石川方面): 敦賀の「旧敦賀港駅舎」「きらめきみなと館」、洲崎灯籠など、福井県の「三国・龍翔館」と 東尋坊、瀬越の「竹の浦館」、加賀市橋立の「北前船の里資料館」、「銭屋五兵衛記念館」(金沢市金石本町)、 金沢の「大野湊神社」、「うみっこらんど七塚(海と渚の博物館)」、「小松市立博物館」、「大野市立博物館」など 2021.10.14-17
● 山形・秋田沿岸の旅: 酒田の日和山公園、「酒田海洋センター」、山居倉庫、鶴岡市の「」、秋田の「白瀬南極探検隊記念館」、 「象潟郷土資料館」、秋田ポートタワー・海の展示館、男鹿半島周回、能代の風力発電・ウインドファーム、青森県深浦の「風待ち館」、 「田沢湖クニマス未来館」など 2022.5.29-6.7
● 北海道(旭川・富良野・積丹半島周回)への旅: 旭川動物園、余市の「よいち水産博物館」、「旧余市福原(ニシン)漁場」、 小樽・鰊御殿、黄金岬・カムイ岬・積丹岬、鰊御殿とまり、「小樽総合博物館・運河館」など 2022.6.20-28


● 東北地方(気仙沼・石巻)への旅
  さて、心疾患のためニカラグアから帰国してからは、JICAの「健康管理センター」で常勤嘱託として勤務するようになった。 勤務再開から1年ほどが経ち、仕事もプライベートな生活もすっかり落ち着き、自身の体力や健康にかなり自信を取り戻しつつ あった。そして、そろそろ遠出の旅に出てウォーターフロントを散策したり、海洋関連施設などを巡りたいという意欲が むくむくと芽ばえてきた。かくして、体力と気力を試してみたいと、小旅行で出ることにした。

  かくして、2010年9月2日~4日にかけて、体調を気遣いながらありったけの持病薬を抱えて出掛けた先は東北地方・気仙沼と 石巻であった。新幹線で一関まで行き、JRローカル線で気仙沼までたどった。電車は北上山地の低い山々の山間を川沿いに縫うように走った。 車窓から見える景色はまさに日本の原風景そのもののように感じられた。久々に、車窓からのどかな田園風景を見ながらのんびりと 鉄路の旅を楽しんだ。2~3,000メートル級の山々が続く信州アルプス沿いの山岳風景とは全く異なっていた。気仙沼駅で乗り 換えて南気仙沼へ辿った。気仙沼港の大規模な魚市場のすぐ傍の、鮮魚や干物の海産物を専門に扱う沢山の小売店が 集積するショッピングモール内にある海産魚介類の「氷の水族館」へと直行した。

  大きな立方体の氷のブロックの中にタイ、ヒラメ、キンメダイ、タコなどいろいろな魚類や軟体・甲殻動物などが閉じ込めら れている。館外の気温は30度以上であるが、巨大な冷凍室のような館内はマイナス10度以下であったでろうか。入館者用として 厚手の防寒具が貸し出された。10分ほど見学するとカメラのシャッターの調子が悪くなり、また体も冷えてきた。心臓に負担が 掛かり体調もおかしくなってきたのが自分でも分かった。一旦館外に出て体を温め直した後、2着目の防寒具を借りて入り直した。 幾度か出入りを繰り返しながら、いわば「氷の水槽」内に閉じ込められた冷凍魚などを切り撮った。世界でも珍しい水族館 に違いないと訪れたものである。

  その後、同じモール2階にあるもう一つの目当てにしていた「気仙沼リアスシャークミュージアム」を訪れた。サメをメイン テーマにする博物館で、サメの水揚げが多い気仙沼漁港らしいサメ専門博物館である。JR気仙沼線「南気仙沼」駅前の目抜き 通りの「海の道」を「気仙沼市魚市場」方面へ歩いて5分くらいの場所に立地する。市の卸魚市場に併設するように建つ 「海の市」ビルディングの中にある。「海の市」は新鮮な生の魚貝類や干物などの海産物を売る幾つもの小売店やシーフード レストラン、その他同博物館などが入る商業兼アミューズメント複合施設となっている。その1階には「氷の水族館」が、2階 にはこのシャークミュージアムが入居する。

  サメの種類や生態、サメによる被害、ホホジロザメやジンベエザメの巨大な模型、各種サメの顎骨と歯、 ネコザメ・ナヌカザメ などの卵、サメの胃から取り出された内容物、サメのパーツから製造される各種製品など、幅広く展示する。 ネコザメの繁殖方法はいわゆる「卵生」である。卵生とは胎生と違って卵を産むことであり、そのまま海に産み落とす、 あるいは 卵をいずれかに産みつける。余談だが、館内入り口の「開館のご挨拶」をよく観ると、アルゼンチンに赴任中に短期専門家として 指導に当たって頂いた北海道大学水産学部助教授の仲谷一弘氏による監修である旨紹介されでいた。奇遇にもこんなところで 目にするとは、懐かしさがこみ上げた。

  その後、漁港の岸壁沿いに建つ魚市場を横目に、気仙沼湾奥に向かって歩く。カツオ一本釣り漁船など数多くの漁船が縦列に 横付けされている。細長く奥行きの深い湾のように見えるが実は湾ではなく、入り江である。埠頭の対面には大島が見える。 半島のように見えるが「大島」という島である。本土側からは橋が架かっていなく、通いのフェリーが島民らの足である。 もっとも最近、島民の悲願であった大橋が架けられ、いずれ開通することになっている。市場から暫く岸壁沿いに歩くと、 崖上に観光ホテルがあり、その真下にレストランがある。昼時だったのでそこで本場の海鮮丼を食した。さらに進むと、昔ながら の市街地が湾奥の山間に広がり、さらに内陸部へと進むと市街地の中心部のようで、街道の両側には商店が連なり、市役所 庁舎も所在していた。そのもう少し先にJR気仙沼駅があった。ようやく漁港町に少しばかりの土地勘ができた。 その後、JRローカル線で南下、石巻へと向かった。

  石巻駅前の安宿を探し当て投宿した。翌日路線バスで、旧北上川の河口域の平野部に密集する市街地や日和山の傍を経て、 万石浦の南端に架かる万石橋のたもとで下車した。そこから金華山道と称される旧街道の道なりに散策した。浦から海に通じる 狭い水道沿いには、帆立貝の殻が山積みにされた牡蠣養殖作業場やローカルな造船所、漁民家などが連なる。そんな街道筋を 通り抜けて目当ての「宮城県慶長使節船ミュージアム」(「サン・ファン・バウティスタ号」も展示する)へと辿り着いた。

  実は、散策した約7か月後の2011年3月11日に、「東日本大地震」が発生した。旧北上川河口周辺の沿岸平野部の密集住宅街にある 家々や施設など軒並み大津波に呑み込まれるという大惨事になろうとは、想像もできないことであった。また、先に探訪した 気仙沼漁港の例の魚市場、観光ホテル下の海鮮レストラン、漁船の埠頭、湾奥の市街地などは言うに及ばず、気仙沼の海沿いの ほとんどの平野部一帯が巨大津波に呑み込まれてしまった。筆舌しがたい津波災害をもたらした。何と言う悲劇であったか。

  地震当日たまたま人間ドックの受診のため東京・渋谷道玄坂にいた。交通機関は完全にマヒした。道玄坂に立ち足がすくんで 一歩も動けなかった私の眼前の高層ビルが軒並みバシャバシャと大きな音を立て左右に揺れた。多くの高層ビル同士がぶつかり 合い崩落するとの恐怖を抱きながら、呆然と立ち尽くしていた。これは人生で初めて経験する巨大地震と思い、坂を下り渋谷駅 へ急いだ。だが、全ての電車は運行ストップ。都営バスは交通渋滞と乗客の大混乱とで全く身動きとれず。20㎞徒歩で帰宅する 覚悟を決めて、渋谷から新宿、池袋、赤羽を経て川口まで歩いて帰宅した。道路は大渋滞で徒歩の方が速いくらいであった。 6時間ほどかかり、帰宅は深夜であった。人間ドック受診のため運動靴を履いていたのが幸いして、途中でへたることなく辿り着けた。

  その3月末には、JICAを完全に離職した。嘱託期間を1年ほど延長することも可能であった。だが、私を「健康管理センター」に 迎え入れてくれた次長には悪いが、それを機に一大決意をして離職した。彼自身も同時に異動となることが決断に大きな影響を もたらした。離職後は「自由の翼」を人生で初めて得ることになった。それからは海洋辞典づくりに専心専念し、また自主的な海洋 研究も続け、他方まだまだ広い世界・日本中の海洋博物館などを訪ね歩くことにした。ところが、福島第一原発が全ての電源を 失い、メルトダウンという震撼する出来事も発生した。人生何が起こるか分からない、故に勤めから早く「卒業」して、海洋辞典づくり といういわば人生の宿題を仕上げることを決断したことが間違っていなかったと実感することになった。

  休題閑話。さて、石巻で目指したのは、「サン・ファン・バウティスタ号」というガレオン船の復元船を展示する「支倉常長・ 慶長遣欧使節船ミュージアム」である。仙台藩主・伊達政宗の命により支倉常長らが江戸時代に、 太平洋を横断しローマを目指した。先ずメキシコのアカプルコに上陸した。陸路で地峡を横断しカリブ海側のベラクルスへと横断し、そこから再び船で キューバ島のハバナを経て大西洋を横断しスペインへ。さらに、教皇に謁見するため陸路でローマへと赴いた。その時支倉一行が 乗船して太平洋を横断したのが、「バウティスタ号」であった。当時スペインが植民地としていたフィリピンのマニラと新大陸 のアカプルコとの間を行き来していた船は「マニラ・ガレオン船」と称された。同館には支倉遣欧使節や航海にまつわるパネル展示、 遠征行程の主要画面を切り取ったジオラマ、各種史料などが展示される。以下に幾つかの展示品を紹介したい。

  「バウティスタ号」は屋外の入り江に停泊・展示され、船内を見学できる。その他、同号のメキシコ・アカプルコ 入港を描写するジオラマの展示、16世紀末から17世紀初期の大航海時代における、ヨーロッパの中堅造船所の様子を精密に再現した ジオラマ風模型などもある。その船台では、竜骨を据え、船尾材を立てたばかりの500トンの3檣ガレオン船と、進水直前の500トンの4檣 ガレオン船を建造しているところが再現される。その他、帆船の発展系譜を時系列的に示す図、海賊の解説パネル、17世紀の航海 運用術についての詳細パネルなども展示される。例えば、クロススタッフ、四分儀、アストロラーベ、羅針盤、トラバスボード、 ハンドログなどによる航海法が詳しく説明される。

  経度を知るための最初の航海用の精密時計である「マリン・クロノメーター(経度測定器)」の写真と説明が陳列される。 経度は出帆地と現在地の時差が分かれば簡単に導き出せるので、 正確な時計が探究されてきた。1714年、イギリスをはじめフランス、 オランダ各国が経度測定法の考案に賞金を出すと発表した。 しかし、経度を測定できる精密時計が完成したのは半世紀以上 経た1773年のことであった。

  館内には幾つかの精巧な帆船模型が展示される。例えば、1615年建造の英国の「メイフラワー号(Mayflower)」の模型。 英仏海峡往復の交易において活躍していた典型的なガレオン型船で、同型船は当時数百隻あった。 メイフラワー号は、1620年に信仰の自由を求めたピューリタン102人を英国(最後の寄港地)からアメリカに運んだ。 同型船の資料をもとに1956年に復元された「メイフラワー号」が、アメリカ東部マサチューセッツ州のプリモス港に係留されている。

  コロンブスの旗艦「サンタ・マリア号(Santa Maria)」の模型も展示される。コロンブスは、サンタ・マリア、ニーニャ、ピンタの帆船3隻 で船団を組み、スペインのパロス港から大西洋へと出港し、約70日間の航海を経てバハマ諸島に辿り着いた。 コロンブスはそこをインディアの一角と信じ、神への感謝の意をこめてこの島を「サン・サルバドール島」と命名した。 その後航行を続けたが、サンタ・マリアは座礁し解体され、残骸を利用して要塞が作られた。それはスペインによるアメリカでの 最初の植民地であった。

  英国のフランシス・ドレークが乗船した、1560年頃建造の「ゴールデン・ハインド号(Golden Hind)」の模型を観る。英国艦隊 の指揮官としてスペイン無敵艦隊を打ち破った戦歴をもつドレークは、この「ゴールデンハインド号」で英国人として初めて 世界一周の航海を果たした。この船型は「ガレオン」と称され、前時代の船よりも横幅に比して全長が長く造られ、船尾楼の反り 上がりが大きい。「慶長遣欧使節船ミュージアム」に係留される復元船「バウティスタ号」 もこの船型である。

  スペインが1765年に建造した「サン・ファン号(San Juan)」の模型も展示される。スペイン王立の造船所で建造されたこの 年代の多くの船と同様に聖者の名前が付けられれいる。当時約530名の水夫が乗り組んでいたと言われる。 その他、「サン・ボナベントゥラ号」の模型。徳川家康が英国人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)に建造を指示し、伊豆半島 の伊東で造らせた帆船である。房総半島南西の御宿で遭難し、地元民に救助されたフィリピン前総督ドン・ロドリゴ・ベビロに 貸し出され、彼はそれで帰航した。この船は日本での建造船として初めて太平洋を渡った。

  その他、英国の1577年建造の「リベンジ号(Revenge)」の模型。同艦はエリザベス一世の時代、スペイン無敵艦隊との海戦 (アルマダの海戦)で、サー・フランシス・ドレークの旗艦となった英国船である。

  「遣欧使節船ミュージアム」にはその他、各種の地図・海図が展示される。例えば、ポルトラーノ型地図。航海用の最古の海図はポルトラーノと呼ばれ、13世紀頃から作成される ようになった。海岸線の形状と地名が記され、 航海に不要な内陸部は空白であった。 1490年に作られた「マルテルスの世界図」はインド航路発見以前の図であるが、スカンジナヴィア半島が描かれ、かつアフリカは 喜望峰を最南端として周航しうる大陸となっている。ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama; 1460?-1524)は1497年に リスボンを出港し、翌1498年5月1日にインドの陸地を望見した。「オルテリウスの世界図」も展示される。ヴァスコ・ダ・ガマの インド航路の発見、マゼランの世界周航によって、地理的知識は飛躍的に増大した。1570年に刊行された「オルテリウスの世界図」 では、東に長く延びていたアジア大陸は後退し、世界の陸地の形状はより正確に表された。しかし、南半球には巨大な架空の 南方大陸があり、日本はひとつの島として描かれていた。

  「ドゥリールの世界図」も展示される。南半球にあると信じられた南方大陸の探索は、18世紀のジェームズ・クックの太平洋 探検航海によって終止符が 打たれた。1785年、想像を排して実在する事項のみを記載することに努めたドゥリールの世界図では、架空の 南方大陸は姿を消し、オーストラリア大陸が描かれている。特に当時の「地理的発見の時代」(いわゆる大航海時代)には画期的 な未知の土地や航路の発見によって、地図上にそのせの成果が示され、当時の人々の認識や世界観に大変革をもたらした。

  「遣欧使節船ミュージアム」を見学した翌日、石巻から路線バスに揺られ牡鹿半島の先端近くにある鮎川港を目指した。そこには 「おしかホエールランド」という鯨博物館があり、クジラのことや捕鯨の歴史などを学ぶことができた。また、キャッチャー ボートの「第16利丸」(Toshimaru No.16)が屋外展示される。ホエールランドの紹介については後日に譲りたい。 かくして、ニカラグアから帰国後初めての外泊を伴う少し長めの国内ウォーターフロントと海洋関連施設ツアーを無事終えることが でき、旅における体調維持管理面で少しは自信がもてるようになった。


● 北陸への海と海洋関連施設を巡る旅(長岡・上越、高岡・伏木、魚津など)
  2012年7月6日~11日北陸方面へ旅に出ることになった。きっかけとなったのは、地方議員である兄の後援会による会員親睦の ための一泊二日の北陸旅行開催であった。そのグループツアーに合流するため北陸方面へ出向くことにした。宿泊地は宇奈月 温泉であった。かつて大学生時代に友人と、母校の福利厚生施設である「白馬山荘」で勉強会をもった。翌々日別れて一人白馬岳に登り、 その後黒部峡谷側へ下山し、トロッコ鉄道で宇奈月温泉へと辿り着いた。それ以来の宇奈月であった。長く足を踏み入れる機会が なかった北陸方面への遠出なので、折角の機会を利用して数日早めに出立し、富山湾岸沿いのウォーターフロントと海洋関連施設を 探訪することにした。

  退職後は年金暮らしゆえに、財政は心もとないが時間だけはたっぷりあるので、路線バス(JR高速ハイウェイバス)で 新宿から先ず長野へ直行した。そこからJRローカル線で、白馬岳などの北アルプス連峰を眺めながら、のんびりと移動し長岡へ 辿り着いた。久々の北アルプスの山々を見上げた。懐かしい限りであった。新幹線であれば2時間もかからずに長野着である。だが、時に車窓 にゆっくりと流れるアルプス連峰の稜線と田園風景を眺めながら、車内でじっくりと読書するのは最高の楽しみでもあった。 美しい車窓風景を眺望し目の保養をしながら、読書三昧。贅沢な時間を楽しんだ。

  翌日長岡を発ち、上越市郊外に立地し日本海に面する「越後水族館」を訪ねた。15年ほど前のJICA職員課時代のこと、職場の仲間の 実家がある越後方面に旅した。その折に日本海沿いにみんなでドライブしたが、その時水族館のすぐ前を通りかかったことを 思い出した。当時の風景をよく憶えているのが不思議であった。水族館周辺は見学客や海水浴客などで溢れかえっていた。異常な まで日本経済が過熱していた頃で、今から見ればバブル経済がはじける直前の頃であった。JR上越駅前から水族館へは、社会見学の ためにと目抜き通り沿いに歩いて行ったが、余り活気を感じられず寂しい限りであった。午前中も早かったので入館者は未だ まばらであったのでじっくり館内を巡覧できた。その後、再び在来線で親不知、糸魚川、富山を経て高岡へと向かった。

  翌日、JR高岡駅から市電のようなライトレール万葉線で射水市の富山新港へ向かった。目指すは旧運輸省の 航海訓練船であった「海王丸」(「横浜みなとみらい地区」に係留される「日本丸」とは姉妹船である)が係留・展示される記念 海浜公園のウォーターフロントであった。船内をゆっくり巡覧した後、隣接する埠頭に建つ「日本海交流センター」内にある、 船舶模型などを陳列する展示室を訪ねた。意外にも、深海底鉱物資源のマンガン団塊やコバルトリッチクラストなどの実物 標本も陳列されていたことが印象的であった。

  その後、高岡市伏木地区にある「高岡市伏木北前船資料館」(旧秋元家住宅; 北前船のかつての廻船問屋)を訪ねた。 JR氷見線「伏木駅」から徒歩10ほどであった。ところで、月曜日を避けて平日に同資料館に出向いたが、たまたま休館していた。 止む得ず翌日出直すことにしたが、折角なのでこの機を捉えて近くに所在する「高岡市 万葉歴史館」(高岡市伏木一宮)に立ち寄ることにした。そこで思いがけないものに出会った。遣唐使船の大型模型が展示されて いて感銘した。さて、翌日気を取り直して再び廻船問屋へ。

  問屋建物の特徴は、伏木川の川港への北前船の出入りを確認する ための望楼が母屋の屋根から一段突き出ていることである。折角なので急階段を伝って上ってみた。広さは一、二畳ほどしかないが、 四方を見渡すことができた。障子を開けてみたものの、現在は町内の住宅などに遮られて港を見下ろすことはできなかった。 往時には望楼から伏木湊に出入りする北前船をよく眺望できたという。館内には、明治初期の頃の伏木河口に停泊する和洋式船を写す 古写真や船絵馬など、北前船関連の多数の史料が展示されている。

  翌日、「魚津水族館」に立ちより、館内をゆっくり見学した。富山湾は、駿河湾と同じく沖合いには深海が迫っており 多種多様な海洋生物が棲息することで知られる。同湾では、特に蛍光を放つホタルイカ操業や蜃気楼が、観光的鑑賞アイテムである。 水族館見学後、蜃気楼の写真やその自然現象の仕組みをパネル展示する、魚津の漁港近くの展示館にも立ち寄った。 また、「ほたるいかミュージアム」にも立ち寄り、美しく発光するホタルイカの夜間操業風景写真やその発光メカニズムの説明 パネルなどを見学した。そこからローカル電車で宇奈月温泉へ向かった。合流した翌日トロッコ電車に乗車し黒部峡谷沿いの絶景を 満喫した。最後に、後援会グループの観光バスに便乗して「魚津埋設林博物館」へ足を運んだ。富山湾沿岸に埋没していた 大木の根っこを掘り起し、館内の大水槽の水中に沈めて展示している。全国でも珍しい埋設林に特化した展示館である。

  同館でグループと別れ帰途に就いた。神通川に並行して富山市街地を貫通する「富岩運河」を散策すべくJR富山駅で下車すべきか 迷った。実は、同運河の最北端の湾岸ウォーターフロント近傍に「北前船廻船問屋・森家」(富山市東岩瀬町)が所在した。 だが、JR富山駅をそのまま素通りすることにした。森家住宅は1878年頃に建てられた国の重要文化財である。岩瀬地区は江戸 ~明治時代に北前船の寄港地として栄えた港町である。富山ライトレール岩瀬浜駅下車、徒歩10分ほどにある。だが、いずれも 割愛することにした。旅の疲れが少し溜まって来て散策意欲が減退していたのであろう。またの楽しみにすることにした。

  JR在来線の普通列車の乗り継ぎを繰り返し、長野、松本、諏訪、甲府などを経て、夜遅く新宿に辿り着いた。車内では再び 読書三昧で、退屈することはなかった。だが、特急には乗車しなかったので、時間のかかる帰路行程となった。 長野から新幹線であれば新聞を読んでるうちに帰京できたはずであったが、在来普通列車で夜遅く新宿に到着した。だが、何の後悔する こともなく鉄路の旅を楽しんだ。


四国・香川(高松)・岡山(宇野・玉野)への旅
    瀬戸内海に本州四国連絡橋が存在しなかった時代における、本州から四国へ渡る庶民の足としては、日本国有鉄道(国鉄)やJRの宇高 連絡船などの渡海船が主役であった。その連絡船に一度も乗船する機会もないまま、その運航は終焉してしまった。一度はその足跡 を訪ねて、その片鱗でもカメラに切り撮っておきたいと、先ずは高松方面へと旅に出た。旅のもう一つの目的は高松・琴平と宇野近傍の 玉野にある「海洋博物館」を訪ねることであった。瀬戸内海にて船上の旅人となったのは何年ぶりのことであろうか。何十年も前に 母親と一緒に別府港から大阪港へ向かう大型フェリーに乗船して以来かも知れない。

  さて、2014年4月のこと、神戸税関近くのフェリー埠頭から高松行きの夜行便に乗船した。フェリーは六甲連山の中腹辺りまで 灯る美しい夜景を右舷に見ながら、明石海峡に架かる「明石淡路大橋」へと進航して行った。デッキから大橋を見上げながら くぐり抜け、一路高松へ。神戸や明石などの帯のように連なる沿岸夜景を船上から眺めながら西に向かって旅したのはなんと40年振り かもしれなかった。船で明石大橋をくぐり抜けたのはこれが初めての体験であった。

  深夜に高松港に接岸し、その足でJR高松駅前の安ホテルに潜り込んだ。翌朝琴電琴平線で、琴平に向かった。金刀比羅宮本宮に 通じる表参道登山口にある「琴平海洋博物館」(海の科学館)へ急いだ。博物館の規模はさほど大きくはないが、海、船、航海などの 歴史文化的史料を展示する総合的なミニ海事博物館であった。船舶や船乗りの海上安全を祈る神様を祀る総本山ともいえる金刀比羅 宮の地元だけあって、同博物館には船絵馬が多く展示される。それらをじっくり見学した後、本宮に通じる参道の急階段(785段の石段) を登り始めた。心臓破りの階段であり、心臓への負担を心配したが休み休み何とか登り切った。足腰はしんどかったが、心臓は 耐えられることを知り安堵した。山頂にある本宮に参詣し、近傍の御堂に奉納されたいろいろな船絵馬を見学した。 青年時代に世界で初めて太平洋を無寄港単独航海に成功した堀江謙一氏は、ヨットの甲板上部全面にソーラーパネルを貼れるだけ 貼り付けて再び太平洋を単独航海した。そのヨットも御堂に奉納され展示されていた。

 翌日、高松市街地西方10kmほどにあって、瀬戸内海を一望に見下ろすことができる五色台山頂に所在する「県立瀬戸内海歴史 民俗資料館」へ出掛けた。路線バスに乗りその終点まで辿った。そして、地元の個人タクシー営業所にお願いしてタクシーで同館 へ辿り着いた。同館の方に教えてもらった方法である。車をもたない見学者が同館に辿り着くのは誠に不便との印象である。 公共交通の便が随分悪い山中に立地し、余りのアクセスの不便さに正直衝撃を受けた。とはいえ、同館は瀬戸内海を見下ろす 最高に風光明媚なところにあった。館内には香川県近辺の沿岸で使われた各種の小型木造漁労船、各種の漁労具、その他ローカル 漁業関連史料や宇高連絡船模型10点ほどの展示などを巡覧できた。交通手段の不便さを十分帳消しにしてくれる充実した展示であった。

  日が暮れるまでには、徒歩と路線バスとで高松市内に戻った。そして、その足で対岸の岡山県・宇野(玉野市)行きのフェリーに飛び乗り、 瀬戸内の海を北へ横切った。宇野はかつては国鉄および四国旅客鉄道(JR四国)の宇高鉄道連絡船の本州側の発着場があった。だが、 岡山・鷲羽山と四国・多度津を結ぶ本四連絡橋の開通と「本四備讃線(瀬戸大橋線)」の開業によって本四間を列車で往来できる ようになったので、宇高連絡船は廃止された。宇野港やJR宇野駅舎周辺には、昔の宇高連絡の面影がかすかに遺るものがある のではないかと期待しての探訪であった。宇野では夜もすっかり更ける中、タクシーを捕まえ、かつてその昔宇高連絡船待ちの旅人で 賑わったと推測される純和式の宿へと転がり込んだ。

  翌朝、路線バスで「玉野海洋博物館(渋川マリン水族館)」のある渋川町に足を向けた。途中、三井エンジニアリング&造船の玉野 造船所を車中から垣間見ることができた。同博物館はこじんまりとしたミニ総合的な海事博物館である。船や航海に関するいろいろな 史料、船模型、舶用具、貝類標本が展示され、ミニ水族館も併設されている。また、屋外には海洋哺乳動物などが飼育される。近傍の 白砂青松の渋川海岸には、瀬戸内らしく波穏やかな海水浴場が広がる。眼前には島伝いに架けられる本四連絡橋を遠望できる。 快晴の昼下がり、瀬戸内の原風景に魅かれて浜辺のベンチに暫し腰を下ろし寛いだ。2013年4月中旬のことである。

  JR宇野駅から鉄路で須磨海岸へ向かった。明石海峡に架かり明石・淡路島間を結ぶ「明石海峡大橋」のたもとのウォーター フロント界隈を散策した。大橋の明石側たもとにあるエレベーターで展望台へ上がり、特設された歩道(舞子海上プロムナードと 称される)を伝い歩きした。プロムナードの足元には部分的に透視ガラスが敷かれていて、覗き込むと100メートルほど眼下の海峡 を進み行く船を眺めることができる。透視ガラスの上に乗って完全に身を預けることなど、高所恐怖症ゆえに「ガラス一枚下は地獄」 のように思え、足がすくんでしまいとてもできなかった。海峡深淵に吸い込まれないように、一歩も二歩もガラスから後ずさりして 眼下を覗き込むのがやっとであった。

  大橋の桁下には「橋の科学館」があり、世界有数の長大橋梁の建設史や架橋技術についてさまざまな模型とパネル 展示を通じて学ぶことができる。「淡路阪神大震災」の時は、ちょうど海中基台の上に橋脚が築き上げられ、さらにその橋脚に橋桁が 据え付けられようかという時期であった。だが、何の崩落事故も報じられなかったし、工事に支障があったとは何も聞こえてこず 安定していたようである。神戸市街地などでは、阪神高速道路の橋脚に亀裂が入ったり、また何本もの橋脚が一斉に倒壊し、その 上部構造の道路部が何百メートルにも渡って地上に落下・横倒しになってしまった。建設技術立国の日本国民にとって、ある種の 技術神話が崩壊したかのように強烈な衝撃をもたらした。とはいえ、海峡大橋は無傷であったことで、技術神話に対するそれ以上の 深刻な精神的ダメージを被ることはなかったのは幸いであった。


● 北海道・道南&道東(襟裳岬・釧路・根室・標津・斜里・網走・摩周&阿寒湖・帯広方面)のウォーターフロントと海洋 関連施設を訪ね歩く旅
  2019年9月中旬の頃、友人と二人して北海道へ旅した。台風15号が出発当日未明に首都圏を直撃した。だが、あっさりと短時間の うちに過ぎ去ったの。いつもより可なり早目に成田へ向かった。ところが、倒木などが鉄路を塞ぎ、JR成田線や京成本線も不通となり、 空港へのアクセスができなくなった。それでも津田沼までは辿り着き、その一時間後北総線が開通したので、迂回しながら2時間ほど 遅れたものの空港に到着できた。自宅を出てから6時間近くもかかってしまった。空港では1.3万人の乗客らが足止めされ、身動き とれず大混乱であった。フライトは予定通り飛び立ったものと諦めつつも、兎に角チェックイン・カウンターに駆け込んだ。 何と天が助けてくれた。予定の格安フライトの成田への到着そのものが2時間も遅れているとのこと。それが幸いし、何と 「ジャスト・オン・タイム」でチェックイン&搭乗ができることを知った。

  新千歳空港に到着したのはよいが、深夜ゆえに路線バスの運行は最早なく、タクシー乗り場は長蛇の列で、何時間待てばよい のか見当もつかない状態であった。止む無く、友人を説得して、2時間かけて千歳市街地の予約ホテルまで歩いた。自然災害 による非常事態を何とか乗り越えて、翌日の午前3時にチェックインを完了した。旅程12日間分の各地における宿泊を予約済みで あり、かつネット経由で支払い済みであった。宿泊先の面倒なキャンセル・再予約などに忙殺されずに助かった。果たしてどんな旅に なるのか気掛かりであったが、かくして道内旅行が始まった。

  JR苫小牧駅へと南下し格安レンタカー(1週間のレンタル15,000円程度)をピックアップして、いざ襟裳岬めがけてへ出発した。 道中ずっと太平洋を右側に眺めながら、緩やかなアップダウンとカーブを繰り返しながら、快適にドライブ。大牧草地 や畑、時々通過する街道筋の街並みのどこを見ても、空間的にゆったりとした北海道らしい田舎風景が果てしなく続く。どことなく アルゼンチンのマル・デル・プラタとバイア・ブランカの間の大牧草地や向日葵畑が続く丘陵地帯に広がる田園風景に似ている。 それを思い出しながら、相棒の東さんとルンルン気分で快適なドライブを楽しんだ。

  途中日高本線の「静内」駅(現在は新ひだか町)に立ち寄った。50年ほど昔の大学1年生の時初めて国鉄青森駅ホームに降り立ち、登山 ザックを担いで小走りにホーム先端から階段を上り、そのまま青函連絡船の舷門に吸い込まれて行った。そして、下甲板の一般船客室 にて大勢の旅人に混じって雑魚寝した。函館から札幌へ、そこで日高本線に乗り換え静内駅に降り立った。 静内の駅舎は一度くらいは建て替えられているのであろうが、駅員に願い出て改札口を通りホームに立った。改札口や駅ホームの風景は 当時のそれと変わっていない印象であった。ホームの駅名看板「静内」を見ると、50数年前に30㎏ほどの重い登山サックを担いで 降り立った時にしっかりと脳裏に焼き付けた看板のように思えた。日高山脈の稜線へ取り付くための起点となった駅ホームに 再び立つことができた。感慨深く、人知れず感涙であった。

  当時静内駅のすぐ近くの浜辺にテントを張り一夜を過ごした。翌日、チャーターしたトラックで日高連峰の山麓を目指した。 冷たくてしびれるというよりも、むしろ痛く感じる雪渓水が流れ下る渓流を幾度も徒渉しながら稜線をめざして登った。 登山靴を地下足袋に換え、さらに藁草履を履いた。カール地形には万年雪が残る。尾根筋からカールに200メートルほど下り、その 雪を融かし飲料水を確保したりした。連山の名前のほとんどはエサウマントッタベツなどアイヌ語である。4、5日縦走した後、 日高地方の反対側に位置する中札内へと下山した。路線バスで帯広に向かうものと思いきや、そのまま国道筋をぼそぼそと足を 引きずるように歩いて帯広へ辿り着いた。

  ところで、今回の旅で残念な風景に出会った。4年半前に北海道を襲った台風によって、高波が日高本線の鉄路を越波したり、河川の 氾濫など引き起こし、その線路があちこちで深刻な損壊を被った。未だ復旧の目途がたたず、不通のままであった。巷では このまま廃線になる恐れが濃厚であると囁かれていた。苫小牧から様似(同本線のかつての終着駅)間をドライブする沿線で、 鉄路があちこちで崩落したり、錆びつくところを見かけた。草がぼうぼうと生えまくり、埋もれたままの鉄路を見るのは本当に 寂しい限りであった。日高本線は苫小牧から進み行くほどに鉄路は海岸近くを走る。潮騒を聴き、美しい海岸風景を眺めながら の一度だけの鉄路の旅であったが、まさに青春時代の思い出として今までもしっかり脳裏に焼き付いている。

  休題閑話。ドライブを続け断崖と奇岩の多い海岸道路を急いだが、えりも町では完全に日没となってしまった。襟裳岬で美しい 夕陽が西の海に沈むところを眺めたかったが、それを諦めて広尾町へと急いだ。岬へは帰途に立ち寄ることにした。広尾市街中心地 の国道沿いの和式旅館で泊した翌日、広尾郊外のシーサイドパーク内にある「広尾海洋博物館」を見学した。閉館日でないはずだが、 開館していなかった。掲示に従い町教育委員会に電話をして、施錠を解いて見学できるようにしてもらった。北方海域に棲息する トドなどの海獣の剥製、救命ボート、遭難救命セット、潜水装置への送気ポンプ、川崎舟の模型、各種の漁撈具や漁法模型、 北洋サケマス漁業パネル、魚貝類標本など、北の海洋博物館らしい展示物が沢山陳列なされる。数時間じっくりと巡覧した。 その後、十勝川を横切って間もなくJR根室本線の鉄路に出会う。何度か交差しながら、白糠を経て、釧路湿原を垣間見ながら 釧路へ辿り着いた。

  釧路駅前で泊した翌日、釧路漁港のウォーターフロントをしばらく散策した。季節がら数え切れないほどのサンマ棒受け網 漁船が埠頭に接岸し、その多くは出漁の準備をしていた。今年は相当の不漁らしい。漁港敷地内にある「マリン・トポスくしろ」という 「釧路市水産資料室」(正式名称)を見学した。捕鯨、サケ・マス漁、ニシン漁などに関する漁労関連パネル展示、ロープ類や棒受け網用 巨大なたも網をはじめ、釧路の水産に関する歴史文化資料などを展示する総合的な海洋・水産博物館である。 その後、ホタテガイなどの養殖で名高い厚岸町に向かい、「厚岸町海事記念館」を訪ねた。 捕鯨砲、鯨関連資料、サケ・マス漁、ニシン漁業などの漁業関連史料を中心に陳列する総合的な海事展示館である。 その後根室へと急いだ。

  翌日、先ずオホーツク海に面する根室港を向けた。岸壁では初老の太公望が2人してチカという魚の釣りを楽しんでいた。港では北方4島へのビザなし渡航 の巡航船「エトピリカ」(Etpilika)がたまたま接岸し、出航の準備に追われていた。また、近くには多くの小型漁船が原っぱの中の 修理場や保管地に引き揚げられていた。

  その後、半島東端の納沙布岬へドライブした。岬にある「北方館 望郷の家」を巡覧し、北方四島問題の歴史的経緯や 地理などを学んだ。天気も良かったこともあり、双眼鏡を通して貝殻島やその岩礁上に立つ傾いた灯台、その他監視小屋のような建物 も遠望した。国後島の最高峰・羅臼岳(標高1700m)などもよく見ることができた。 その後、半島南側の太平洋岸に面する花咲港のウォーターフロントを散策した。数え切れないほどの漁船が接岸されていた。さんま 棒受け網漁船が多い。また、花咲港を見下ろす高台に建ち、旧校舎を利用したような「根室市歴史と自然の資料館」へ出向いた。 ロシア・ラックスマンの来航関連資料、サハリンの日ソ国境境界線標、海洋哺乳動物の剥製などが展示される。その後、 厚床、標津を経て中標津を目指した。。

     中標津で投宿したペンションから再び標津を経て野付半島へと足を踏み入れた。国後島を背景にして海辺に陸揚げされた漁労舟や 漁具などの「絵になる」ウォーターフロント風景を切り撮った。また、漁師集団が定置網かトロール網を仕立てている風景に出合い 切り撮った。その後、中標津にある「サーモン科学館」を訪ねた。いろいろなサケ・マスの飼育水槽と解説パネルに加え、自然の川からの 人工分流を遡上するサケを観察できる水槽など、サケ・マスにこだわった水族館である。その後、羅臼のビジターセンターに立ち 寄り、知床半島の自然環境・生態などの展示パネルや生物標本などを見学した後、半島を横断してウトロへ辿った。

  翌日ウトロから斜里町中心部へ向かい「斜里町立知床博物館」に立ち寄った。小さな博物館であるが、斜里町の農林水産業、 海洋哺乳動物その他地域で生育する色々な動植物の剥製標本などの展示や、知床半島形成過程の解説パネル、鉱物標本、アイヌ 文化や地域生活文化の品々、古代遺跡発掘品などが展示される。

  摩周湖近傍のユースホステルに泊した日の翌朝早く、摩周湖へ向かった。霧が湖周縁に立ち込めたり消えたりする幻想的な風景 に出会った。布施明の演歌「摩周湖」をスマホで聴きながら、正に歌の情景を彷彿とさせてくれた。さらに屈斜路湖畔を周遊した。 家族連れが湖畔のあちこちで砂浜を掘っていた。地熱で温かい湯が染み出ている。子どもらが天然温泉気分で水遊びならぬ「湯遊び」 をするのが微笑ましかった。その後、美幌峠に向かったが、濃い霧で屈斜路湖の欠片すら見下ろすことができなかった。 阿寒湖にも立ち寄り、湖畔の「阿寒湖畔エコミュージアムセンター」で実物のマリモを生まれて初めて見ることができた。マリモは 阿寒湖だけに生息するわけでなく日本全国あちこちで分布するが、丸い形のマリモは阿寒湖だけと言われる。センターのパネル によれば、摩周湖のマリモが丸くなるのは同湖独特の波と海底地形とが作用しているとされる。その後網走へと向かった。

  翌日、網走市街地西方の郊外にある八角形の「能取灯台」へと向かった。オホーツク海に面する白と黒の縞模様の灯台である。 時期になれば接近や接岸する流氷が観察できる観光スポットの一つであるという。その後、「網走市立郷土博物館」へ。 オホーツク海の海獣、特にトドのオス・メス、幼獣の剥製は圧巻である。その他、魚類剥製、貝類標本や甲殻類剥製、北前船の大型 船絵馬多数ほか、モヨロ貝塚、北方民族文化、海獣捕獲の銛具、鯨の全身骨格標本、竪穴式住居のジオラマなどが展示される。 その他「元監獄網走博物館」にも立ち寄り、素監獄の歴史を学んだ。網走送りの囚人だけでなく、道内各所の刑務所に送られた 囚人たちが、道路建設のために重労働を課せられ、その後の道内開拓につながる道路建設などに大きな貢献をなした歴史を知る ことができる。

  さらに「オホーツク流氷館」を見学した。館内水槽で生きたクリオネの優美で可愛い姿を見ることができた。流氷の接岸のない 時期にオホーツク海沿岸を訪れる観光客のために、流氷の雄大な風景を含む、四季折々のオホーツク沿岸風景を映し出す大画面 映画を鑑賞できる。その後、「道立北方民族博物館」へ立ち寄り、アイヌ民族の生活文化を多面的に学ぶことができる。 アイヌの伝統的漁労具はか、カヤック、丸木舟なども展示される。その後、足寄町、士幌町を経て帯広へと向かった。

  翌日、日高連山を右手に見ながら、一路襟裳岬を目指した。帯広南方郊外にある酪農の村・中札内を通過した。 かつて日高山脈を4,5日縦走後下山したのが中札内であった。そこから路線バスに「乗せてもらえず」数十km歩いて合宿終結地の 帯広を目指した。その時定規で直線を引いたように真っ直ぐな道路を、重い登山靴を引きづり歯を食いしばり歩いた。今回の旅で、 その直線道路をドライブした。懐かしさ半分、当時の苦しさへの「リベンジ」気分半分であった。ほぼ50年前に歩いた思い出 深い道東の「酪農とジャガイモ・ロード」である。

  大樹町、そして再び広尾町を経て襟裳岬へ急いだ。そして、再び驚嘆する断崖絶壁と長いトンネルが幾つも続く「黄金海岸」を経て、 襟裳岬へと辿り着いた。幸いにも快晴であったが、強風が吹き荒れていた。さほど大きくはない襟裳岬灯台を強風をついて見上げた。 そして、「襟裳岬風の館」という岬周辺の動植物について解説するミニ展示館があり、その先には「襟裳岬展望台」がある。展望台の 超大型でワイドなガラス越しに観る岬全体の海景は圧巻である。まるで大パノラマ映画で岬全景のワンシーンを眺めるかのよう であった。「これが襟裳岬か」と、初めて観入る襟裳岬に息も忘れる感動を覚えた。切り立った岬のさらに先端には大小の岩礁が 連なり、ついに海中に没するという絶景が広がっている。展望台の「観客席」に座り、動画にはならないスクリーンを暫し茫然と 鑑賞した。岩礁に波が砕け散り白波が立ち動くのが見えるだけで、まるで無声映画を鑑賞している ようでもあった。往路では日が暮れてしまい素通りしてしまったが、復路において遠回りをしてでも一目見ることができ、それだけで 心が満たされる想いであった。北海道の背骨である日高山脈が太平洋へと没するところである襟裳岬。ポルトガルの有名なロカ岬 に立つ石碑に刻まれた、同国の国民的詩人カモンイスの詠んだ歌「ここに陸地果て海はじまる」ではないが、「北海道の大地ここに 果て海はじまる」という心境である。感動の岬である。

  岬を後にして苫小牧へ急ぐ途上、えりも町にある「郷土資料館ほろいづみ・水産の館」にも立ち寄った。旅の最後の博物館である。 特に地元特産のコンブに関する標本展示の充実性にはびっくり仰天した。コンブやコンブ漁の展示に関しては、全国トップクラスの展示館に 間違いはない。広尾以来太平洋を車窓の左手に眺めながら、往路と同じルートを辿って夜遅く苫小牧へ帰還した。翌日、成田へ無事 戻った。旅の初日は台風のため交通機関が大混乱に見舞われたが、その後は順調かつ事故なく旅を続けられたことに深く感謝した。  [To be continued]


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    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第4節 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く


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     第22章・目次

      第1節: 日本国内の海洋博物館や海の関連施設を探訪して(総覧)
      [参考]国内の旅のリスト(博物館巡覧を含む)
      第2節: 東京・関東地方の海洋関連施設を巡覧する
      第3節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く
      第4節: 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く
      第5節: ウォーターフロントや海洋関連施設巡りの「旅と辞典づくり」は続く