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    第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
    第1節 アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)


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       第9章・目次
      第1節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第2節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第3節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第4節: アルゼンチンへ赴任する
          [参考資料]無償資金協力部での海外渡航歴(JICA・JICSなど)<作成中>



全章の目次

プロローグ/はじめに
第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その1)
第5章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その2)
第6章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
第7章 JICAへの奉職とODAの世界へ
第8章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その1)
第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
第10章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
第11章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その2)
第12章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
第13章 国際協力システム(JICS)とインターネット
第14章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
第15章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その1)
第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その2)
第17章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
第18章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その3)
    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その1)
    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第22章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その1)
    第23章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その2)
    第24章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第25章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第26章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」
    第27章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第28章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第30章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第31章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その1)
    第32章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その2)
    第33章(最終) 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き 人工知能AIの先にある辞典づくりを想像する


  「独り言」を漏らした結果、水産室で机を並べていた先輩職員が譲ってくれたもう一つのプロジェクトがあった。アルゼンチンの 「国立漁業学校プロジェクト」である。プロジェクトを打ち立て成立させるためには両国の関係機関で交渉し合意形成を図る必要があった。 譲ってくれた先輩はその交渉の難しさをしみじみと吐露した。そして、「アルゼンチンの技術レベルは漁業のそれも含めて高く、 また学校関係者のプライドも相当髙い。技術協力プロジェクトの合意形成を図るまでの道のりは長く、ハードルも高いので、いろいろ 苦労することも多かろう」と言いつつ、案件ファイルを手渡してくれた。

  プロジェクトを打ち立てる上で立ちはだかるハードルとは、先ずもってアルゼンチン関係者のプライドの高さにあることを肝に銘じた。 いずれにせよ、時には「独り言」を漏らしてみるものだ、と内心大いに喜んだ。その独り言がその後の人生行路の運命的分水嶺となり、 個人的には劇的なドラマを紡ぐことになろうとは全く思いもしなかった。

  ところが、そうこうしているうちに、1982年春になって一大事件が発生した。アルゼンチンが、パタゴニア沖合いの大西洋上に浮かぶ 「フォークランド諸島」(スペイン語名は「マルビーナス諸島」)に軍部隊を上陸させたことから、英国と戦争に突入してしまった。 その頃の経緯に少しだけ触れておきたい。

  1981年12月から軍事政権を率いていたレオポルド・ガルティエリ大統領は内政面での国民の不満を そらし、軍政存続のために大きな賭けに出た。即ち、1833年に英国に占領され実効支配されてきたマルビーナス諸島へ1982年4月2日に 「ア」国部隊を上陸させた。英国首相マーガレット・サッチャーは大軍をもってこれに応じたことから、本格的な近代戦争の勃発となった。 だが、同年6月14日「ア」国軍の降伏で幕を閉じ、同月17日にガルティエリは失脚した。その後を継いだのはレイナルド・ビニョーネ であり、彼は国民に民政移管を公約した。

  「ア」国と英国の戦争のため、漁業学校幹部の日本への招聘計画も、また現地への調査団の派遣計画も見合わせざるをえな くなり、時が突然止まってしまったかのように全ての計画の進捗が大幅に狂ってしまった。ところが、戦争は意外にも思っていたよりもずっと早く わずか数ヶ月で決着をみるに至った。「ア」国の敗北をもって終結した。だが、当時の軍事政権への国民の批判の高まりなどにより国内情勢 が不安定化していたため、調査団をすぐには派遣できる状況にはなかった。

  その後「ア」国の国内情勢がようやく安定したことから、学校関係者の日本招聘を実行することになった。先ず招聘した関係者は、漁業学校の オルティス校長 (海軍退役大佐) と航海学担当のコランジェロ教授(海軍退役中佐)の幹部2名であった。その意図するところは、 日本の漁業事情一般の他、漁業教育の実情やレベルについて理解を深めてもらい、少しでも交渉のハードルを低くすることであった。要するに、 良い意味で関係者をいわば「洗脳」し日本びいきにするという作戦であった。

  来日早々、水産庁国際協力室を窓口にして、同庁幹部への表敬訪問を手始めに、我が国漁業の世界水産における立ち位置、政府の水産 行政や漁業政策についてのオリエンテーションを施し理解を深めてもらうことにした。都内では「東京水産大学」(現・東京海洋大学)、 近郊では三崎の「神奈川県立水産高校」の教育施設・実習機材などを案内した。また、JICAの「神奈川国際水産研修センター」の沿岸 漁業などの研修施設(管理棟、各種実習施設、研修員のための食堂・宿泊施設を含む)や小型漁撈訓練船などを案内した後、 沿岸漁業・養殖・水産加工などの開発途上国向け集団研修プログラムの概要についても供した。

  また別日に、新幹線にて下関方面に向かった。水産庁所管の「水産大学校」では、航海・漁撈関連の各種実習施設や機器の視察と 共に、漁労学科教授(漁具漁法)から各種視聴覚(A/V)教材を用いた漁業教育法についての説明を重点的に受講した。また、漁網製造 会社を訪問し、オッタートロール網(大型模型)などの大がかりな曳網実験装置を施した水槽での実際のデモンストレーションを見学した。 その後門司に移動し、大手民間水産会社・日本水産(株)の自前の「漁船員養成学校」の教育施設や実習機材を視察し、民間部門における 漁業教育訓練の全般的事情を学んでもらった。

  私はそれらの視察の全行程に同行し、道すがら通訳を介しながらであるが、彼らの知的好奇心から発せられる多くの質問に答えながら、 日本のいろいろな社会文化事情について丁寧に説明した。そして、先ずは良好なコミュニケーションに心掛け、互いの距離感を縮め、 信頼醸成アップに結びつくよう努めた。かくして、日本の漁業教育のアウトラインや実際の教育環境について多少はインプット することができ、また大まかなにせよ日本事情全般についての理解を深めてもらうことができた。

  私自身にとっても、彼らへの同行は大いに有益なものとなった。私的な普通の一般的見学の場合であれば公立・民間の教育機関内部 奥深くまで踏み込んで視察することはできないと思われる。今般は内部へ深く立ち入り、各種実習機材・機器の他漁業関連視聴覚教材をも つぶさに見学することができ、我が国の水産教育に関する知見を私なりに深める絶好の機会となった。

  水産大学校では「チュニジア国立漁業訓練センター」プロジェクトの運営でお世話になった漁具漁法担当の前田弘 教授や深田耕一助教授に大学校の奥深くまで立ち入って案内してもらった。また、「JICA国際水産研修センター」では、同チュニジア・ プロジェクトで調査団長を三度も引き受けてもらい、共に現地へ調査に赴いた森敬四郎氏が、奇遇にも水産庁からJICAへ出向し同センター の所長職にあった。そのことから諸々の特別な配慮を受け、彼らの視察もより充実したものとなった。

  余談だが、同水産研修センターの食堂で昼食と取ることになり、森所長からの特別の厚意として、オルティス校長らに「特大のビフテキ」 を振る舞っていただき、熱烈歓迎の意を表していただいた。だがしかし、校長らはビフテキには全く手を付けなかった。私は、 「所長の厚意による特別なおもてなしです」と一言だけ軽く語りかけたものの、それ以上勧めることはしなかった。

  その当時、何故彼らがビフテキに全く手を付けようとしなかったのか、私には全く解せなかった。その半年後に交渉のためアルゼンチン に初めて訪れた時その謎が解けた。その「ア」国への訪問時に、校長にその理由を改めて直接尋ねることで答えを引き出そうとした訳ではない。その エピソードのことはは次節に譲ることにしたい。

  かくして、1983年3月になって、プロジェクト方式技術協力について協議するため初めてブエノス・アイレスへ出張することになった。 当時私の水産室勤務は丸3年近くを経ており、通例ならば人事異動があってもおかしくはない時期であった。だが、4年目に 入ってもそのまま水産室で業務を続けることができた。人事部の配慮のお陰で、同年中に何と3度に渡り日本・アルゼンチンを往復し、 ついに「ア」側との交渉は合意するに至り、プロジェクトの成立に漕ぎ着けることができた。詳細は後に述べることとして、 初めてのアルゼンチンへの出張は見るもの聴くもの感動の連続であった。

  既に面識のあるオルティス校長らが待ち受けると思うと少し気が楽であった。それに入団同期の河合恒二君がJICA事務所に勤務して おり、名実ともに大いに当てにしていた。生まれて初めて南米大陸へ足を踏み入れ、憧れのブエノス・アイレスの地に降り立った。ブエノスは青少年時代から憧れていた港町であった。

  若かりし頃、南米航路の船乗りになって、パナマ運河を経て一路南下し、リオ・デ・ジャネイロか、コーヒーの積み出し港サントスにも 立ち寄り、最終目的地のブエノス港に錨を降ろし、南米文化に浸ることを夢見ていた。ブエノス港は殊に1950~1960年代に南米航路に就航していた 日本人移民船「あるぜんちな丸」やその姉妹船「ぶらじる丸」の終着港であった。

  バリグ航空にてロサンゼルス、リマを経由してサンパウロへ、そこで同航空の別便 に乗り換えブエノスに到着した。35時間ほどの長旅であった。かくして、青少年時代から数えれば20数年の歳月が経っていたが、ついにブエノス の地に足を踏み入れることができ、人知れず感涙また感涙であった。

  我々調査団を乗せた車は、幅100メートルもあるという市街地中心部を貫く「ヌエベ・デ・フリオ(7月9日)大通り」をゆっくりと走り抜けた。 そして、「サン・マルティン広場」に面する、名こそ立派な「クリジョン(Crillon)」というホテルに投宿した。クリジョン・ホテル や広場界隈に建ち並ぶ、正に「南米のパリ」の風情を漂わせている建物群をしみじみと見渡せば鳥肌が全身に立った。興奮冷めやらず、 万感の思いがこみ上げてきた。「ついにブエノスの地に立つことができた!」。正直、これがブエノスの中心部界隈にたたずんだ時に 去来した偽らざる心境であった。感無量であった。

  別日の夕刻に、「サン・マルティン広場」から始まる、ブエノスきっての歩行者天国「フロリダ通り」に団員らで足を踏み入れてそぞろ 歩きをした。ブエノスを象徴する華やかな通りに、心は跳ね躍り高揚しぱなっしであった。 特にクリジョン・ホテル界隈は華やかなパリ風情を醸し出していた。たはいえ、ブエノスに暫く滞在した頃には目が少しずつ 慣れてきて、ブエノスの街風景の中に自身も同化して行くことに気付いた。しかし、感動の思いは冷めるどころか日を追うごとに増幅して行った。

  さて、調査団は先ず海軍本部を表敬訪問した。本部は大河ラ・プラタ川の河岸に築造されたブエノス・アイレス新港にほど近い ところにあった。白亜の大きな建物で、その上層階からはラ・プラタ川や港湾施設をパノラミックに見下ろせることができた。

  海軍本部前の階段を登り切った正面入り口付近でオルティス校長は我々ミッションの到着を待ち受けてくれていた。調査団が遅れて到着すると、自身の上官に当たる現役のボニーノ海軍少将を待たせることになるので、校長は少し気をもむ風であった。顔の表情からそれが読み取れた。 エレベーターで上階へ昇り会議室に通された。現役少将である教育総局長や同局顧問らと初対面の挨拶を交わした後、打ち合わせに入った。 調査団の目的、団員構成、滞在日程などを説明し、今後の協議の進め方などについて念入りに確認し合った。

  ところで、1976年11月のJICA入団時の同期である河合君がJICA事務所に着任してまだ一年も経っていなかった。彼は、「日本メキシコ百人 交流計画」によりJICAからメキシコへ語学留学する機会に恵まれたこともあって、スペイン語にすこぶる堪能であった。彼が調査団の 公式協議にいつも目一杯付き添ってくれたことで、非常に心強かった。

  彼とオルティス校長とは、JICAが彼を訪日招聘したことやプロジェクトの予備的打ち合わせなどで、日頃から何かと接点をもち、故に 親密な間柄になっていた。もう少し言えば、彼と校長との厚い信頼関係が構築されていた ことから、プロジェクトに関する協議で壁にぶつかる局面があっても、両者の信頼関係と彼の語学力に大いに助けられることとなった。

  海軍教育総局は、「国立漁業学校」の他に、「国立商船学校」、「潜水艦学校」など20以上の海軍教育機関を所管し、その教育行政を 統轄していた。当時アルゼンチンはなおも軍事政権下にあった。議会は閉鎖され、「フンタ・ミリタール(Junta Militar)」という 陸海空3軍の要職者で構成される「軍事評議会」が国家の最高意思決定機関となっていた。その下に各省庁の行政機構が ぶら下っていたが、省庁の要職ポストの殆どが陸海空軍出身の高級将校たちで占められていた。

  さて、「マルビーナス戦争(英語名:フォークランド戦争)」後に失脚したガルティエリ前大統領に代わり就任したビニョーネ大統領が その評議会議長の職にあって、同評議会が政権運営を全面的に掌握していた。なお、ビニョーネ大統領は1984年に民政移管することを 公約していたが、国民からの強い批判にさらされ、大統領選挙・国政選挙は公約よりも前倒しされ1983年10月30日に実施された。 そして同年12月にラウル・アルフォンシンが大統領に就任した。JICA調査団が同年3月に訪れた時には、国政選挙のキャンペーンが 佳境に入りつつあった頃で、市内の至る所にポスターが貼り付けられていた。

  さて、アルゼンチン海軍関係者は一般的に日本に対して親近感を持ち合わせていた。それには訳があった。日露戦争に先立っての出来事 であるが、アルゼンチンはイタリアにたまたま軍艦の建造を発注していた。他方、日本は日露戦争に備え艦船増強のため、アルゼンチンに 軍艦2隻の譲渡を要請していた。アルゼンチンはその2隻を日本に融通することに合意した。 かくして、開戦直前に、大日本帝国海軍は1903年に「ア」国から買い取り、「日進」、「春日」(いずれも同型で装甲巡洋艦) と名付けた。 なお「ア」海軍での「日進」の艦名は「モレーノ(Moreno)」と言った。

  東郷平八郎提督が率いる旧日本帝国海軍にあっては、日本海海戦当時、同2艦は「日進」「春日」の艦名の下で連合艦隊を構成する 主力艦として参戦した。他方、同海戦で同帝国艦隊の旗艦を務めた戦艦「三笠」には東郷平八郎が座乗した。また、アルゼンチン 海軍大佐のマヌエル・ドメック・ガルシアも観戦武官として乗艦し、その戦いぶりを観戦をしたという。

  後で知ったが、ラ・プラタ川のデルタの一角にあってブエノスの近郊に所在するティグレ(Tigre)という水郷の町に「アルゼンチン海事博物館」 があり、そこに日露戦争関連資料が展示される。その中にガルシアが帰国後に著わした「日露戦争観戦武官の記録」(全5巻)がある。 オルティス校長からは、「ア」海軍では現在でも日本海海戦における東郷元帥の戦法について講義していることを何度か聞かされた。 余談だが、校長は招聘訪日時、わざわざ横須賀にある「三笠」の船舶博物館を訪ねている。なお、日本海海戦では少尉候補生として 山本五十六も乗艦していたという。

  暫くして、ブエノス・アイレスを後にして、漁業学校が所在するマル・デル・プラタ(Mar del Plata)に飛行機で移動した。 ブエノスの南東約400kmの距離にあった。大西洋に面する大きな商業港であり漁港でもあった。先ず、市街地中心部から10ブロックほど離れた ところに立地する漁業学校を訪問した。

  学校の校舎はマッチ箱を縦に立てたような、古ぼけた小さなビルがあてがわれていた。初めて案内された時は、正直なところびっくりした。 3階建てで教室・実習室は2・3階の4、5の小部屋があてがわれ、一教室20人ほどで一杯になるような狭さであった。

  機関部員養成のための機械・電気実習室の機材には見るべきものは余り無く、いずれも錆が浮いているかのような旧式のエンジンとそのパーツ のように見えるものが工具類と共に床や長テーブルに並べられていた。建物・施設と実習機材は想像を超えた年代物であり、余りの質素さに 仰天して言葉を失ってしまった。それでもアルゼンチン側のプライドの高さには仰天するばかりであった。

  日本人の感覚からすれば、漁船の船長や航海士、機関長や機関士の船舶運航のための国家海技資格を付与するための教育を施すための 国立漁業学校と呼べるような施設には到底見えなかった。日本がここで漁業技術指導を行いレベル向上を目指すのであれば、少なくとも日本 の水産高校や商船高等学校のような施設、実習機材、訓練船が必要なことは一目瞭然のように思えた。

  ところで、アルゼンチンでは船舶運航者の国家海技資格の付与は海軍の専権事項であった。その海技免許は、商船・漁船・ 河船の3つのカテゴリーに分かれていて、いずれも海軍管轄下にある別々の船舶職員養成機関(即ち、国立商船学校、国立漁業学校、国立 河川学校)によって付与される。これら3つの船舶類型別に、さらに航海士と機関士の養成コースに分かれる。

  漁船は3つのカテゴリー、即ち沿岸漁船、近海漁船、遠洋漁船に分かれている。漁船を運航し漁撈に従事したい船舶職員は、本 漁業学校に入学し、それら3種の漁船の船長や各等級の航海士、あるいは漁船の機関長や各等級の機関士の資格を取得することになる。 もちろん、漁業学校に修学しなくとも、乗船履歴条件などを満たした上で該当する船舶職員資格試験に合格すれば目途の海技資格 を取得できる。

  さて、我々調査団は、学校内の小さな会議室で小テーブルを囲み、膝と肘を突き合わせながら打ち合わせを続けた。 時に環境を変え気分一新して協議すべく、市内のホテルの会議室を借り上げ、10数名の関係者が真剣な協議を重ねた。 当方の出席者は、団長の元水産庁次長恩田氏、水産庁国際協力室小圷室長代理、文部省職業教育局所属の職業教育専門官、下関の水産大学校 教授の前田弘氏など総勢5名に、スペイン語通訳、JICA事務所からは河合職員ら、先方はオルティス校長、ジャベドニ副校長 (海軍退役中佐)、 総務課長 (海軍退役少佐)、航海学・漁具漁法・漁獲物処理の担当教授らであった。

  漁船運航者の海技資格制度について再確認しながら、資格付与に当たって学生が法令上履修しなくてはならない座学 や実習の詳細(シラバスや単元内容など)、それらを定める法令規則などを改めてヒアリングした。他方、プロジェクト方式技術協力の プロトタイプの概要として、長期専門家の派遣制度や指導分野の事例、「ア」側の担当教授(カウンターパート)らの日本での技術研修 制度、協力分野の技術指導において必要とされる実習用資機材の供与制度などについて詳しく説明した。

  また、「討議録」(Record of Discussions; 通称R/D)と呼ばれる、プロジェクトの合意形成の証しとして署名される公式文書のひな形を 示して、その詳細を説明した。その他、通例プロジェクトの協力期間は5年間が想定されていること、専門家に付与されるべき 特権や免除(所得税などの免除、生活のために持ち込まれる物品に対する課税免除など)、日本から毎年無償供与される資機材に 対する関税免除、「ア」側が履行すべき日本人専門家のための住居や移動手段並びに医療保険関連サービスに関する提供などについても説明した。 技術協力プロジェクトとはいかなるものか、「ア」側にイメージが十分培われるよう説明を尽くした。

  また、日本政府による対外援助の二大スキームについても触れた。「無償資金協力」と「技術協力」という2つの協力の連環性と一体性に ついてである。アルゼンチンの一人当たりの国民所得は高いことから、「一般」無償資金協力の対象国ではなかった。 だが、「水産」分野においては特別の予算枠が認められていた。即ち、「ア」国のような国では「一般」無償援助は対象外であっても、 「水産」無償援助については供与の対象国として認められていた。外務省・水産庁が所管する「水産」無償資金協力の年間予算としては、 その当時200億円ほどが計上されていた。世界中の海に日本漁船を展開する遠洋漁業国として、その漁業権益の確保に資するための特別の 対外援助予算が準備されていた訳である。

  無償資金協力と技術協力との連環性や一体性について「ア」側に十分な説明が必要であった。「ア」国周辺の広大な大陸棚海域での 漁業権益を確保するためだけに、「水産」無償資金協力が使われるのではなかった。日本が他国の漁業教育の向上をめざしてその技術 移転を図るには、それに相応しい教育施設や実習機材などのハードウェアが不可欠であった。

  「ア」国のように多少所得が髙い国であっても、被援助国側に漁業関連施設・機材が整っていない場合には日本からの十分な技術移転 を望み得ない。故に、施設や機材の無償供与が必要であり、翻ってそれらを無償供与することが正当化されるというロジックであった。逆に言えば、ハード面での整備のために無償資金協力を提供するに当たっては、日本からの水産教育ソフトウェア、即ち技術協力の受け入れが 大前提にあるということであった。無償資金協力と技術協力とは不可分の一体をなすもので、切り離せないコインの表裏の関係にあった。 両方の協力をパラレルに押し進め、その相乗効果を高めようとするものでもある。

  技術協力プロジェクトが長期間実施されるとなれば、必然的に両国の漁業外交上の接点が長く保たれることにつながる。また、当該 プロジェクトを起点(あるいは基点)にして、交渉窓口がその実施期間中ずっとキープされ両国関係が保持されることにもなる。 技協プロジェクトを足場にしながら、「ア」国の外交・水産当局と適宜接触し、コミュニケーションを図りながら、日本の漁業権益を 模索することができ、本来の外交も展開しやすくなる。

  例えばの事例であるが、1982年当時「国際捕鯨委員会(IWC)」が商業捕鯨を「一時停止(モラトリアム)」とした。日本政府はそれ 以降ずっとその再開を訴えてきた。そして他方で「調査捕鯨」を実施に移しながら、反捕鯨諸国と委員会の場で鋭い意見対立を続けてきた。 その当時、IWC総会のブエノス開催も近々予定されていた。当然、その時の議長は「ア」国の水産次官などの幹部が務めるはずであった。 とはいえ、国立漁業学校プロジェクトの直接的な「ア」国側の受益者は、無償協力も技協にあっても「ア」海軍であった。日本側としては、 当座の所はそれでもよしとせざるを得なかった。だがしかし、JICA側で準備中の「討議録(案)」では、プロジェクト評価委員会のメンバーとして 漁業次官官房が名を連ねるようにし、もって同プロジェクトを通じて「ア」国漁業当局と接点を保たれるよう十分な配慮が当初からなされていた。

  また、当時、「第三次国連海洋法会議」が大詰めを迎えていた頃であり、海洋法条約が間もなく票決に付される時期でもあった。200海里 排他的経済水域(EEZ)の法制度は間違いなく世界の海の法秩序として確立されつつある時期であった。遠洋漁業国・日本は遅かれ早かれ いずれ諸外国の沿岸海域からフェーズ・アウトされることになるというのが大方の見方であり、世界的な趨勢でもあった。

  同プロジェクトはアルゼンチン沖合の広大な大陸棚の上部水域に広がる200海里EEZにおける日本の漁業権益を 「ア」側と交渉する上での一つの外交カードとなること、あるいはまた交渉の接点となりうることが、日本側関係者が強く期待するところ であったことは否定できない。余談ながら、数年後の1984年に日本の総漁獲量は1,200万トンを超え、そのピークに達していた。2020年では その3分の1ほどに落ち込んた。日本は35年間遠洋水域での漁獲量について大幅に減らし続けてきた。今となっては遥か昔となってしまっているのが現実である。

  さて、「討議録(R/D)」のひな形をベースにさらにアルゼンチン側と協議を続けた。そしてオルティス校長から発せられた言葉に我々は ひっくり返った。今回「ア」国が日本に無償資金協力を要請した学校施設はもちろんのこと、実習用機材は同漁業学校の 教授や元海軍技術者らによって十分使いこなし、教育に生かすことができるというスタンスであった。即ち、「技術指導のために 日本人専門家を派遣してもらう必要はない」というのが校長の答えであった。

  日本人専門家の手を借りなくとも無償供与機材を使いこなせるので、R/Dのひな形に言う技術協力プロジェクト のための協力期間は2~3週間で十分であるという。事実上プロジェクトは必要はないことを意味していた。 日本に招聘して漁業教育事情などをつぶさに視察してもらった後における校長の見解に唖然とするばかりであった。

  それに、オルティス校長が交渉過程でちらりとほのめかしたことは日本人専門家の語学力についての懸念であった。私自身も言えた ことではなかったが、スペイン語を殆ど理解できない日本人専門家が来「ア」したとしても、何をどうやって技術指導できるのか。 校長の旨のうちには指導できるはずがないという確信的先入観というか、本音の思いを秘めているのは明らかであった。専門家とカウンター パートは意思疎通をどう図るのか、オルティス高潮は暗黙的に疑問を呈していた。明らかに、日本側がプロジェクトの長期実施を推し進める ことに困惑の表情を読み取れた。

  私的にはそのことについて予め答えをポケットにしまい込んでいた。チュニジア・プロジェクトでの経験が生きた。「その点に関しては 心配には及ばない。双方のエキスパートは英語でもって意思疎通、技術の受け渡しや協業作業ができるのではないか」と、河合君を 介して即座に切り返した。「ア」側の「教授」と称されるカウンターパートらは英語が堪能であるとお見受けするので、「何か問題 でしょうか」と問い直した。

  オルティス校長は、そこではっと気づいたようた。「カウンターパートは英語を理解できないが故に、専門家とコミュニケーションを取ることが できない」とは到底反論することはできなかった。プライドが邪魔して「英語はできない」とは口が裂けても言えないことを計算に入れての ことであった。オルティス校長は日本人とのスペイン語でのコミュニケーションの困難性について二度と口に出すことはなかった。 だが、チュニジア・プロジェクトを教訓にしていた私は、内心では一つの懸念を抱いていた。日本人専門家は果たしてどれほどに英語に堪能 であると言えようか、そちらを深く憂慮していた。

  さて、協議のこう着状態から一旦離れ、ヒートアップした頭をクールダウンさせる意味からも、調査団員はマル・デル・プラタ漁港 周辺の魚卸売市場での取り引き事情を視察するため市場に出掛けた。漁港のすぐ脇の後背地に確保されている学校建設予定の敷地に立ち入り、 周辺環境を視察したり、漁港内の漁船専用泊地に色分けされて係留される沿海・近海漁船やそれらの装備などを岸壁から視察した。

  船体が全体的にオレンジカラーに塗られた数トンの日帰り操業用の小型零細漁船、レッドカラーに塗られた一週間操業の中型近海用漁船、 その他1カ月以上操業するという遠洋漁船の三種に類型化された漁船の他に、魚市場や漁船へ砕氷を供給する製氷施設などを見て回った。 その他、近い将来に、シーフード・レストランが集積する商業的コンプレックスが建設される予定地という漁港隣接地にも立ち寄った。

  また、「不毛の大地」と称されるパタゴニアの沖合に広がる、離岸200海里(約370km)以上に及ぶ大陸棚の上部水域で操業する中型・ 大型漁船の漁業基地となっている地方都市プエルト・マドリン(Puerto Madryn)へ視察にでかけることになった。先ず飛行機で大西洋岸沿い にトレレウ(Trelew)まで南下し、そこから車でマドリンへ。マドリンはブエノスから南へ1000kmほどの距離にある大漁業基地であり、 またボーキサイト精錬基地があることでも有名であった。近海・遠洋漁船の操業事情などを視察した。

  そして、折角の社会見学の機会でもあったので、海洋・陸上野生生物の楽園とされる「バルデス半島」へ自然観察を兼ねて訪ねた。 オルカ(チャチのこと)、アシカ、ミナミセミクジラなどの生息地として有名である。そこで生まれて初めてホエールウオッチングの 機会を得た。我々の乗るパワーボートの下をクジラが悠然とくぐり抜ける。急に浮上してボートを転覆させるのではないかと一瞬恐怖心を 抱いたが、全くの杞憂であった。よく見ると体表はクジラミ だらけで、その自然の姿に親しみを感じた。

    休題閑話。プエルト・マドリンからマル・デル・プラタへ帰投した我々は校長らと協議を再開した。最大の懸案はやはりプロジェクトの 協力期間であった。校長はあれ以来海軍本部のボニーノ教育総局長らの関係者と協議したのであろう、ほんの少し譲歩案を提示した。専門家の 技術指導を受けるとしても2~3ヶ月もあれば十分である、との見解を新たに示した。日本に招聘し、社会文化や水産教育事情などに 関する理解が多少は深まっていたのであろう。オルティス校長らの心情に好影響を及ぼした結果であると、ポジティブに受け取った。 招聘作戦はそれなりに意義があったと見て取った。だがしかし、海軍本部の現役幹部との内部協議を踏まえた結果とはいえ、学校側は 協力期間についてガードが固かった。

  私は担当者として、河合恒二君の全面的なバックアップに助けられ、時に彼にフルの通訳をしてもらいつつオルティス校長と 膝詰談判を繰り返し説得のための努力を続けた。そして、現地調査の終了と帰国の日程が視野に入る段階にあっても、やはり「日本人専門家 の協力を得るとしても、2~3ヶ月もあれば充分であり、機材の使い方などを十分習熟できる」とのスタンスであった。当初はゼロ回答 であったことからすれば、大きな譲歩であった。校長は真にこれで最終的な妥協に漕ぎ着けたかったであろう。だが、日本側にとっては余り ショート期間過ぎた。

  「ア」側にとっては、自らの技術力に対するプライドを押し殺しながら、例え数ヶ月であっても日本人専門家の技術指導を受け 入れることはそれなりに苦渋の選択であったことであろう。海軍教育総局幹部や校長らが長期のプロジェクトに後ろ向 きのスタンスであったのは、(1)漁業学校の教育現場において、教授らがスペイン語能力が十分でない日本人専門家から指導を受けること にかなり抵抗感があること、また(2)英語で十分なコミュニケーションが取れないことを日本側に曝け出すことになれば、彼ら自身の プライドを酷く傷つけることになること。それらの憂慮を抱いているのではないかと推察していた。

  いずれにせよ、海軍本部幹部から引き出すことができた譲歩案ではあったが、翻ってみると「5年間」の技術協力などは とても受け入れられないことを示唆していた。校長は討議録のひな形につき大きな異論は示さなかった。だが、「5年間」の協力期間 だけは最後の最後まで見解の相違は埋まらず、今後の大きな懸案事項となってしまった。

  根底にある「ア」側のプライドに関し、立ちはだかるそのハードルの高さを思い知らされた。結局のところ、協力期間に関する見解の 大きな隔たりを抱えたまま帰国することになった。協力期間につき、5年間でなくとも少なくとも数年への歩み寄りがなければ、日本側 は無償協力も技術協力も実施に踏み切れないことを意味していた。

  今後この溝を埋めるためにどう説得すればよいのか、それを気に留めながら、ブエノスを後にしてニューヨークに向かった。 生まれて初めてのニューヨークであった。「ケネディ国際空港」からタクシーに分乗して市内に向かった。ハドソン川が近づくにつれ、 マンハッタンの摩天楼が車窓から見えた。テレビや写真でよく見かける超高層ビル群の「実物映像」がだんだんと大きくなって来た。 人知れず深いため息を漏らしながら、スカイスクレーパーの風景を車窓越しに遠望した。 ハドソン川に架かるブルックリンの大橋を渡った。

  青少年の頃、船乗りとしてパナマ運河を横切り北に針路を取り、ニューヨーク の突堤に船を横付けにし、下船した暁にはセントラル・パークや五番街界隈をそぞろ歩きをする、そんな単純な夢を描いていた。 大架橋の先には、マンハッタンのハドソン川沿いに櫛の歯のごとく幾つもの突き出した埠頭を眺望することができた。 今では想像する他ないが、何十隻もの大西洋横断に就航する豪華定期客船が摩天楼の直下に停泊している波止場風景を思い描いていた。 「ついにそのマンハッタンの河岸に立つことができるのだ!」と心の中で叫んだ。

  ブルックリンの橋を渡りながら、マッチ箱を縦長に立てたような総ガラス張りの国連本部の高層ビルを眺めていた。 「私が国連に送ったあの履歴書はどうなっているのだろうか」とふと自問した。「日本人の海洋法担当法務官は今でも活躍されておられるのか、 そのポストは今頃どうなっているのだろうか」と気に掛けながら橋を渡り終えた。

  我々団員は、全く気後れもせずお上りさんになって、エンパイヤーステートビルにも昇り、鳥の如く空中散歩を楽しんだ。五番街の大通りに出 て空を見上げた。見上げればアベニューの両サイドから超高層ビルが倒れかかってきそうであった。大空は殆ど見ることができず、帯の ような細い空が見えるだけであった。背筋を伸ばし体をそらせるうちに後ろにひっくり返りそうであった。

  「自由の女神像」が遠目に見えるマンハッタン最南端の水辺に辿り着いた。折角だからと、発着場に足を向けフェリーに乗船しようと した。だが、酷い寒波が来襲していたため、団員の誰もが体を凍りつかせていた。余りの寒さに耐えられずすぐさま乗船を諦めた。そして、 皆してすぐ近くのカフェに逃げ込み身体を温めるのが精一杯であった。

  翌日、ニューヨークを飛び立ち帰路に就くと、再びブエノスで積み残した懸案を思い出してしまい、どんな策があるのかを思い巡らせた。 フライトの中で一策にありつこうとしたが、アルコールの酔いが思いの他早く襲ってきて、そんな悩みを頭の片隅に追いやってくれた。 大船に乗ったかのように気分が高揚し始め、ブエノスでの美しく華やかな風景や、アルゼンチン・タンゴの生演奏の店「ビエッホ・アルマセン (Viejo Almacén)」でのタンゴの音色を思い出していた。

  さて再び余談となるが、ブエノスの滞在中青少年の頃の幾つかの「憧れ」が現実のものとなった。石畳の裏路地からタンゴが漏れ聞こて くるようなブエノスの風景に出会った。憧れのブエノスに初めて足を踏み入れて垣間見た風景は強烈であった。幾つもの風景があったが、そのうちの 一つは本場のタンゴ音楽に触れた時のことである。

  大阪に暮らしていた大学生時代、船乗りへの夢はすでに消え去っていたが、海外への飛翔の思いはまだ消えていなかった。特に南米 の異文化やブエノスに強い憧れを抱いていた。神戸の三宮センター街のアーケード通りの地下に小さなタンゴ専門の喫茶 があった(まだ神戸淡路大震災のずっとまえのことである)。狭い階段を下りてドアを開けると、そこに5、60平方メートルほどの、 薄暗いカフェがあった。昭和時代の喫茶そのものであった。そこに一人座り目を閉じ静かにタンゴに耳を傾けた。本場ブエノスのタンゴ ハウス「ビエッホ・アルマセン」に団員とともに足を踏み入れた時、感激で全身に鳥肌が立ち感涙また感涙であった。

  「アルマセン」とはスペイン語で「倉庫」という意味である。まさに薄暗い小さな倉庫を改造した、天井桟敷が設営された倉庫の風情であった。 ビールやワインを傾けながら、バンドネオン、ギター、ピアノなどの音色が合わさった、あの何とも言えない哀愁に満ち満ちたタンゴに 2時間ほど聴き入り酔いしれた。ブエノスのタンゴハウスに腰を下ろしタンゴに耳を傾けているリアルな自分がそこに居ると思うと 万感の思いがこみ上げ、やはり感涙の他なかった。夢を抱いてから何年が経たことであろうか。15年は経ていた。

  タンゴ演奏の合間にグラシェラ・スサーナと言う若い妖精のような女性歌手が美声を聴かせてくれた。彼女はその後来日し歌手としてデビューを果たし、そこそこ有名人になったところまでは風のうわさで知っていたが、いつの間にか風の便りにありつかなかった。さて、タンゴの余韻 に酔いしれながらハウスを出ると、最初は気が付かなかったが、そこには石畳の裏道風情が漂っていた。ガス灯の淡い明かりが 石畳をほんのりと薄いオレンジ色に染めていた。マントを着た年配の紳士と着飾った淑女が馬車に乗り込み、ひずめの音を響かせながら 走り去っていく。「ビエッホ・アルマセン」界隈はブエノス・アイレスのそんな古きよき時代にタイムスリップしたかのような風情を 醸し出していた。

  さて、機内の我に話を戻したい。酔いが回り例の協力期間のことはどうでもよくなっっていたものの、決意を新たにしたことが 一つあった。先の「ホンジュラス水産資源調査」で現地に赴いた折スペイン語の学習に目覚めたが、今回のブエノス出張でその学習への 本気度を高めた。語学学習に必死に取り組むことの絶対的必要性を認識した。 「NHKスペイン語基礎講座」での独習や、JICAでの「スペイン語研修基礎コース」への真剣な参加など、スペイン語に前のめりになる チャンスは意外と早くやって来た。


・ アルゼンティン 国立漁業学校プロジェクト 実施協議調査 Implementation Survey Team for the Project
技協、業務調査、1983.3から0.6か月、現地1983.3.7-3.24の0.6か月

・ アルゼンティン 国立漁業学校建設計画 基本設計調査  無償資金協力、計画監理、1983.7-0.5か月、
現地 1983.7.26-8.12 B/D Survey Team

・ アルゼンティン 国立漁業学校建設計画 基本設計ドラフト・レポート説明チーム および アルゼンティン国立漁業学校 プロジェクト計画打ち合わせチーム
無償資金協力・技協、計画監理・業務調整、(全期間: 1983.10-11月.-1か月)、
1)現地 1983.10.15-10.24 & 2)1983.10.25-11.11の1か月

・ アルゼンチン国立漁業学校プロジェクト、長期専門家・業務調整員 赴任 派遣期間 1984.4.23-1987.3.31

昭和59年―1984年
   アルゼンティン赴任 1984.4.23-1987.3.31

年3回もアルゼンチン往復、プロジェクトを打ち立てた。若干時間軸を戻すが、水産室で漁業教育向上、水産養殖、水産資源調査、水産施設 そこでしびれを切らし、独り言をつぶやいた。担当者間での運命的なプログラム交換バーター取引につながった。

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全章の目次

プロローグ/はじめに
第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その1)
第5章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その2)
第6章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
第7章 JICAへの奉職とODAの世界へ
第8章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その1)
第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
第10章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
第11章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その2)
第12章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
第13章 国際協力システム(JICS)とインターネット
第14章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
第15章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その1)
第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その2)
第17章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
第18章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その3)
    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その1)
    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第22章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その1)
    第23章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その2)
    第24章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第25章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第26章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」
    第27章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第28章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第30章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第31章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その1)
    第32章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その2)
    第33章(最終) 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き 人工知能AIの先にある辞典づくりを想像する


    第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
    第1節 アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)


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       第9章・目次
      第1節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第2節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第3節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第4節: アルゼンチンへ赴任する
          [参考資料]無償資金協力部での海外渡航歴(JICA・JICSなど)<作成中>