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    第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
    第2節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との 合わせ技


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     第7-2章・目次
       第9章・目次
      第1節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第2節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第3節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第4節: アルゼンチンへ赴任する
          [参考資料]無償資金協力部での海外渡航歴(JICA・JICSなど)<作成中>


  「アルゼンチン国立漁業学のオルティス校長らと初めて技術協力プロジェクトについて公式に協議したのは1983年3月のことであった。 協議場所はブエノス・アイレスの海軍本部とマル・デル・プラタの漁業学校であった。協議の最大の懸案はプロジェクトの協力 期間にあった。交渉開始当初の「ア」側の立ち位置としては、技術協力プロジェクトの実施などは一切不要という、正にゼロベース の強硬なスタンスであった。日本からの漁業技術 支援の受け入れなど眼中になかった。

  無償資金協力によって日本から供与されるはずの学校施設や実習用資機材は自力で使いこな せるとの立場であり、事実上技協プロジェクトの実施については頭の片隅にもなかった。だが、粘り強くいろいろ説明した結果、無償資金 協力と技術協力とを完全に切り離せば、「ア」側が最も欲するところの「無償資金協力による学校建設および資機材の供与」はなされ なくなることだけは理解した。そして、オルティス校長は交渉末期の段階になってようやく技術協力の幾ばくかを受け入れる姿勢へと 方向転換した。

  海軍本部教育総局の内部で検討を重ねた結果なのであろうか、校長はプロジェクト実施期間を2~3ヶ月にすることを提案してきた。 その理由は何と、2~3ヶ月もあれば学校に無償供与される実習用機器・機材を十分使いこなせるというものであった。「ア」側の歩み 寄りは極わずかであり、日本側との見解の隔たりは全くもって大きかった。

  当時のJICA技協プロジェクトのプロトタイプにあっては、協力期間は通常5年間が想定されていた。「フォークランド諸島」を巡る 英国との戦争、そしてその敗北によってひどくプライドが傷つけられていたはずであるが、「ア」海軍のプライドはなおも気高く保持されていた。それが協議期間中に抱いていた偽らざる思いであった。

  再び一策を講じることになった。今度はジャベドニー副校長と漁具漁法担当のマキ教授を日本に招聘し、前回におけるオルティス校長 らの招聘時と同じように、東京水産大学、水産大学校、水産高校、JICA水産研修センターなどの漁業教育施設や実習機材などを 案内し、また民間の漁網製造会社のトロール漁網などの大型模型実験プールとシュミレーションの実演、日本水産(株)の船員養成学校への視察 などにも同行した。そして、日本の漁業教育事情やレベルなどについての理解促進を通じて、本プロジェクトへの理解の深化とスタンスの 柔軟化へと繋げたいと、二人への「もてなし」に最善の努力を傾けた。特にプロジェクトの協力期間として5年間へ、あるいは少なくとも 数か年へ翻意してくれることを強く期待しての招聘ともてなしであった。

  だがしかし、日本滞在期間中押しつけがましく、副校長に対して協力期間について話を持ち出すことは一切しなかった。視察途上 において、重たいテーマを持ち掛けて彼の頭を悩ませてもらいたくなかった。また、彼はそれを判断する権限を持ち合わせてはいなかった。 彼と協議したところで、結果的に後ろ向きの私見を表明されても、またそんな私見を胸に秘めて帰国の途に就かれても困ることであった。 そもそも招聘した意図が台無しになるようでは元も子もなかった。

  オルティス校長は退役大佐であり、副校長は年上ながらも退役中佐であった。海軍組織内では上官の命令や指示には絶対服従の立場 であったであろうし、またそれが染み付いていることであろう。故に副校長が帰国後に校長に対して協力期間の大幅拡大を提言し説得する ことになっては、校長の立場とプライドが傷ついてしまいかねない。それでは逆効果になってしまうかも知れないと懸念した。 交渉はあくまでオルティス校長と行なうことを基本とすることにした。

  副校長ら二人が離日した後、協力期間にまつわる難題を次のブエノスでの協議においてどう乗り越えようかと思案していた頃、無償資金協力 調査部から「ア」国への出張依頼が舞い込んできた。技術協力と同時並行的に進められるはずの無償資金協力による新漁業学校校舎 の建設と実習機材の供与に関する「基本設計調査」に、業務調整団員として参加してほしいとの依頼であった。かくして、再び地球の裏側 に出向くことになった。1983年7月下旬のことで、「ア」国では南極から寒風が吹きすさぶ厳冬期にあった。

  団員構成としては、外務省国際協力局無償基金協力課の本件担当者(海外経済協力基金/OECFからの出向者)を団長に、水産 大学校の深田耕一助教授(漁具漁法)、施設設計担当のコンサルタント会社である「OCS設計」の技術者、漁業実習用機材の設計を担当する 日本水産(株)の技術者ら、総勢8名ほどの大所帯であった。調達部で実施された一般競争入札の結果「OCS設計・日水共同事業体」が 選定されていた。

  調査団の使命そのものは単純明快であった。無償資金協力に関する複雑怪奇な制度と諸手続き全般、実施工程、その他「ア」側が履行すべき 重要な義務(例えば、施工監理に従事する日本人コンサルタントの所得税、輸入する建設用資機材の関税免除、現地で調達する資材の「IVA」 と称される付加価値税の免除)などを「ア」側に説明し理解を得ることがその一つであった。

  もう一つは、漁業学校の新規施設・実習機材の内容や規模・数量などを設計するに当たって遵守すべき「ア」国の建築関連法令をはじめ、 船舶海技資格の付与に当たって履修されるべきシラバスや諸単元などを定めた法令や海軍内部規則などを十二分に収集することである。 また、建設費を積算するために必要となる工事関係者の人件費・資材費関連基礎資料、サブコントラクター(現地の建設下請け企業)に 関する情報などを収集することであった。

  無償資金協力に関するスキームは大変複雑であった。プロセスを大まかに述べると、基本設計のための現地調査を終了後、 コンサルタントはJICAへ「基本設計調査報告書」のドラフトを提出し、その審査を受ける。コンサルはそのスペイン語版を もって「ア」側に説明し、設計内容につき了解を取り付ける。その後、正式の報告書が、建築・機材積算書と基本設計図と共にJICAに提出される。

  JICAは施設と機材の設計と積算につき技術審査を行なった後、外務省に基本設計報告書が提出される。外務省はそれに基づいて 正式に閣議に諮る。かくして、対「ア」無償援助内容と金額が決定される。その後、外交ルートで「口上書(Exchange of Note、 略称E/N)」が取り交わされ、公式に資金援助が約束された後、即座に無償援助の実行段階へと移行する。

  その後JICAは、詳細設計と施工監理を行なうコンサルタントとして先の共同企業体を「ア」国側に推薦する。「ア」国海軍は同企業体と 「コンサルティング契約」を締結する。正式に海軍の代理人となったコンサルタントは、詳細設計に着手する一方、入札関連図書一式 を作成し、さらに施主である「ア」海軍の入札を補助することになる。

  無償資金協力は日本企業タイドであるので、日本の建設会社(ゼネコン)が工事を請け負うことになる。「ア」海軍と建設会社 との「工事請負契約」締結後、ようやく建設工事が始まる。ゼネコンは工事に際して現地のローカル建設企業をサブコントラクター(下請け 企業)として雇い入れ実質的な建設工事を請け負わせる。約一年後に完工し、竣工検査を経て施主の海軍に全ての施設・機材が 引き渡される。コンサルタントはその引き渡しまで海軍の代理人として当該施工監理業務をこなす。その後の一年間はいわゆる瑕疵担保 保証期間となる。

  日本政府から供与される建設資金は、コンサルタントによる節目の公式検査毎に発行される認証関連文書に基づいて、「ア」政府 によって数回に分割して支払われる。供与資金の支払い手続きに必要とされる書類は多く、またその流れは複雑である。 建設が完工するまでのプロセスにおいて日本の無償資金が「ア」側の特別口座に一度は入金されても、システム上そこに滞留することはない。 要するに、資金供与を受けた「ア」側は一切日本円の紙幣を見ることも、また触れることもないシステムになっている。被援助国 が無償資金を別用に流用しようにも全くできないメカニズムが構築されている。事実上日本側の関係機関(大蔵省、邦銀など) によって援助資金が厳重に管理されているに等しい。「ア」側関係者に「複雑怪奇」とも言えるメカニズムを理解してもら うにはなかなか骨の折れるところである。

  ところで、無償資金協力にも当然予算的制約があるので、基本設計対象施設や機材の構成要素(内容、規模、数量など)を絞り込ま ねばならない。そのために、構成要素の妥当性を逐一説明できる客観的根拠(国際条約、「ア」国法令や海軍内部規則など)と予算上の 大枠とを天秤に掛けながら、両国関係者が個々のアイテムごとに真剣に協議を重ねて行くことになる。

  漁業訓練船には一般商船と共通の構造・装備もあるが、漁具漁法に関する独自の構造や装備(魚探など)が必要とされ、特有の機能 をもたせることになる。他方また、漁業学校では機関・機械・電気系統の実習用機材の他、航海・漁労・水産加工などの実習を行なう ための特別の施設・機材の配備が必要不可欠となる。

  先ず、管理棟の施設内容につき協議を始めた。学校幹部の執務用施設として供される校長室や副校長室とその専有面積などが検討された。 各教科用のいろいろなテキストや関係資料を印刷したり、また学生募集・登録や入寮手続きなどの学務を担う総務室とその規模、 会計事務を担う会計室、図書室を兼ねる教授や来校者のための控室などの必要な専有面積のみならず、それらを機能させるに不可欠の 簡易印刷機、事務机・椅子、書架などの数量なども慎重に算定された。

  沿岸・近海・遠洋漁船ごとの甲板部職員 (船長、各級の航海士など) と機関部職員(機関長、各級の機関士など)に対して、海技免許別 に座学を施すために必要となる教室の面積とその数量はもちろんのこと、各教室内に収められる机・椅子、黒板、教壇などの装備品の仕様や数量が 検討された。また、室内法定照度基準に合わせた天井照明器具の仕様や数量なども検討され、両関係者で了解された。

  「1978年の船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する条約」、通称「STCW条約」という国際条約があり、アルゼンチン は加盟国であった。従って、同条約が要求する電子装置の導入につき検討が加えられた。同条約によれば、電子海図と連動させて 操船シュミレーションが訓練できること、そのためのコンピューター制御システム一式の設置・運用が義務付けられていた。

  学生は、教室内においてレーダーを覗き他船の位置や動きを掌握しながら、また潮流や風向・風力などの自然条件を理解しながら 舵輪(操舵装置)を握り、さらにエンジンテレグラフを操作して機関の前進・停止・後進、その回転数などを調整しながら、実際の船橋で操縦 しているかの如く操船訓練を行なうことができるシステムの導入につき白熱の議論が交わされた。

  航海学指導教授は、電子海図モニター上に、幾つもの船舶の複雑な航行動態と海洋自然環境を設定した上で、学生に「自船」を操縦 訓練させる。デジタル海図のモニター上では、学生が操縦する「自船」や他船の進行方向や速度、潮流の強度と方向、風向・風力などの 海象・気象条件、航行障害物、各種航路標識、灯台などを思い通りに再現することができる。

  船長、航海士、操舵員などの資格取得を目指す学生は、レーダーに映る他船の動きなどを見ながら、舵輪を回し舵(ラダー)を動かし、 また機関のスピードを調節しながら(機関士に指示をしながら)自船を操縦する。例えば狭い海峡(マゼラン海峡など)や極めて錯綜する 港内を電子海図上に再現しながら操縦のシュミレーションを行なうことも可能にする優れものである。

  他方、教授はもう一つの電子海図モニターを見ながら、訓練生の操船の状況や適格性を判断する。この操船シュミレーション装置は、 航海・運用術実習室の最重要機材と位置づけられた。その他、舵輪・ラダーの構造模型、各種船体構造模型なども供与される。

  訓練船用の実物の漁具の製作・補修などを行なう「漁具漁法実習室」はもう一つの重要な教育施設であった。そこには、トロール網の オッターボード付き小型模型を、水が回流するタンク内にセットし、トロール網の曳航中の網口の開口状況や、曳網の水平・垂直位置(表層 ・中層・底層)などを理解するための実験装置も備え付けられることとなった。「漁獲物処理実習室」はもう一つの重要な教育施設であった。 魚のヘッドをカットし三枚におろすフィレ製造のための機械装置である「バーダーマシン」や、魚の温燻製造装置、小型冷凍機、その他魚貝類 の解剖調理台などが備え付けられることになった。

  漁業訓練船はたとえ小型といえども漁業学校として必要不可欠の装備品であった。操業訓練の内容・頻度や実習対象人数などから割り出される 、訓練船のトン数・主要目や装備品などが協議された。また、過去の学生出身データによれば、学生はマル・デル・プラタより南のパタゴニア地方 出身者が多かった。同データや他の学校の参考事例の他法令を基に、寄宿舎の各部屋の面積や標準装備(ベッド・机・椅子 などのサイズや数量など)が見積もられた。その他、入寮生徒数に合わせて、食堂と厨房施設の専有面積やテーブル・椅子、什器類、 料理器具、その他共用の洗濯機・乾燥機の数量などが見積もられた。

  教職員と全校生らを対象にした学校行事、セミナー・映写会などを行なう講堂についても、その面積や内部構造・装備などが 検討された。特に注目を引いたのは、視聴覚(A/V)教材の製作・保管や映写機設置のための特別室などの配備であった。テキスト による座学だけでなく、多種多様で有用な教育用視聴覚教材を自ら制作すること、また同教材を効果的に活用することで教育の質レベル の向上を目指すことも特別に配慮された。

  校長らが視察した下関の水産大学校での漁具漁法ビデオテープ映像、スライド画像などによる「前田弘博士教授法」 を取り入れようという計画であった。将来的にはA/V教材製作を担当する専任技師が配置されることも視野に置かれることになった。 また、同教材作りに必要なビデオカメラ、デジタルカメラなどの機器やスライド投影用プロジェクターなども、必要不可欠な重要機材 としてリストアップされた。

  「救難救急演習室」なるものも検討された。膨張式救命筏一式、ライフジャケットやサバイバルキット、退船訓練用 縄梯子、人工呼吸・心臓マッサージ訓練用人体模型、人体器官配置模型などの救助救命・応急処置用の各種器具、防災・消火訓練用の 器具なども検討され供されることになった。膨張式救命筏による実際的な投下訓練や遭難者の救助実地訓練を行なうための 縦横25×15メートルほどのプールの設置が要望された。だが、費用対効果の観点などから優先順位は低位に抑えられ、事実上見送られる ことで双方合意に至った。

  エンジン (主機や補機) を主体とする機械系統機材、および発電機や電気配電盤・制御コンソールなどの電気系統機材は、機関長や 機関部員の養成には必需の実習訓練機材であり、それらを収める「機械実習室」と「電気実習室」の建設が計画された。機械室ではエンジンや 発電装置などの分解・組み立て実習を可能にすべく、天井垂下式かつ水平移動可能なウインチ装置を設置することも設計された。

  ところで、1982年4月には「国連海洋法条約」が採択され、それ以来各国による署名と批准の手続きが求められて間もない時期にあった。 既に国際社会は200海里排他的経済水域(200海里EEZ)時代へと突入していた。アルゼンチンも、自国沖合に広がる世界でも稀有な 広大な大陸棚の上部水域に200海里EEZを設定し、外国漁船をどうフェーズアウトするのかしないのか、外交・漁業政策の検討に着手する 時期でもあった。

  日本政府のみならず我が国の大手水産会社は、合弁事業にしろ単独事業にしろ、「ア」国のEEZ内における操業が今後どう認められるのか、 髙い関心を寄せていた。対「ア」無償資金協力は日本の漁業権益確保に向けてプラスの方向へ働くに違いないという期待はあったにせよ、 今回の対外援助の直接的受益者は海軍であり、農牧省水産次官官房ではなかった。だが、漁船員への海技資格付与の権限は海軍所属下の 漁業学校にあったから、海軍が裨益者であったのは止む得ないことであった。

  さて、今回のミッションは第一義的には基本設計調査であったが、オルティス校長と河合君を交えてJICA事務所内で内々に、 懸案であった技協プロジェクトの期間につき膝詰談判を重ねた。前回は討議録のひな型を提示していたが、今回は一歩も二歩も踏み込んで、 「ア」側との協議向けに特別仕様をもって作成した「討議録(案)」を校長に提示していた。

  漁業学校プロジェクトの目的、航海・漁具漁法・漁獲物処理の三分野での長期専門家の派遣の他に、視聴覚教材製作、魚類同定用 資料作成、水産教育の指導などに従事する短期専門家の特別派遣、さらに専門家のカウンターパートである担当教授らの日本での 研修受け入れ、技術協力の遂行上必要とされる追加的な資機材の毎年の供与、両国政府がプロジェクトの実施上負うべき義務規定、 そして「協力期間」については「5年間とする」との案が盛られていた。

  河合君は今回の協議でも、オルティス校長との公式交渉において、また非公式の意見交換やランチ・ミーティングにおいてさえずっと 寄り添ってくれた。私と校長との交渉のための密度の濃いコミュニケーションの橋渡しをしてくれた。河合君は前回の協議からさらに 校長とコミュニケーションを重ねていたので、二人の気心はさらに深まっていた、校長の河合君に対する信頼関係はさらに増していた こともあり、私は河合君を介して校長に胸襟を開いてより率直に意見を述べることができた。他団員らが多く同席する公式の場では 表立って口外しがたいことも、可なり踏み込んでざっくばらんに説明をすることができた。

  「無償資金協力と技術協力は一体かつ不可分である」などと校長に抽象的に語りかけても、恐らく彼には理解しがたいこと であると思われた。今回は可なり本音で語りかけた。平たく言えば、新学校の施設と機材の供与を実現する無償協力を前に進めるには、 「技術協力の期間は絶対的に5年でなければならない」とは言えないが、長期専門家(派遣1年以上の専門家をいう)の派遣期間は 「少なくとも数年間でなければならない」。さもなければ、無償協力の正当性を見い出すことが困難であり、数年が無償協力の絶対的 条件であることは明確に伝えた。

  逆説的に言えば、日本人専門家が漁業学校の水産教育レベル向上のために、「ア」側カウンターパート と協働するにはどうしても学校施設と機材の革新的リニューアルが不可欠である。少なくとも数年の協働作業としての技術協力が伴わないので あれば、国民所得の高いアルゼンチンは自前の資金で施設と機材を手当てしリニューアルすることで事足りるはずである。技術協力が 実現しなければ「日本がそれらを供する必要性も妥当性もない」というのが日本側の真の立ち位置であり、ロジックとするところである。 そこをもう一度海軍上層部に説明の上熟慮ある色よい返事をもらいたいと語りかけた。

  協力期間を数ヶ月から少なくとも数年へと翻意を促すために、校長へさらなる説明を続けた。 協力期間が長期間になれば、カウンターパートの教授やその他学務関係者の日本研修のチャンスもそれだけ多くなる。毎年数名の 枠が供される。また、無償資金協力による機材供与とは別に、技協プロジェクトの期間中、長・短期専門家がカウンターパートと 協働しながら技術移転上必要とされる資機材が毎年新規に補充されることにもなる。2~3ヶ月のプロジェクト期間ではそれらは実現 不可能である。実際上のメリットの事例を数々説明してながら翻意を強く促した。

  オルティス校長は暫く協議の休憩を求めた。海軍上層部と相談するためであったのであろう。その後再開したところ、彼は期間を 2~3年とすることで大幅な歩み寄りを提示してくれた。ついに3年という期間が視野に入って来た。 大幅な譲歩であり、前進であった。俗っぽい表現だが、無償資金協力だけの「美味しい所取り」はできないことを、上層部はやっと呑み 込んでくれたと内心ほっとした。今回はこれをもち帰り、日本側としてはいかなる対応を続けるのか、省庁に諮ることにした。今回は大いに希望をもって帰国できそうであった。河合君の献身的橋渡しに感謝であった。

  ところで、プロジェクトの実施上のこととしては、「日本・アルゼンチン双方は英語でコミュニケーションを取ればよい」というのは表向きの ことで余り意味をなすことではなかった。先の「ア」国初出張で学んだことは、実際のところ、専門家とカウンターパートの 双方が英語に堪能でないとすれば、十分な意思疎通は図れない。また、専門家は技術指導の実効性を上げることは甚だ難しいはずと言い得た。 さらにまた、日本人専門家のスペイン語能力が相当のレベルでなければ、技術指導や協業は実効的かつ円滑に進められないというのが、 偽らざる思いであった。勿論、「ア」国で円滑な一般社会生活を送る上でも語学に長けていることに越したことはない。

  1983年1月頃にホンジュラス案件で初めてスペイン語圏に出張し、中南米では一般的に英語が通じないこと、円滑な業務遂行には スペイン語能力が欠かせないことを目のあたりにして、語学を学ぶ必要性に大いに目覚めていた。実はそんなこともあろうと、語学研修に 関心を寄せ、JICA職員向けの語学研修コースのうちの「スペイン語研修基礎コース」(6か月、週二日)に、1982年半ば頃から参加する ようにしていた。

  アルゼンチンの初出張から帰国した段階で、さらにスペイン語学習の必要性と重要性に目覚め、その学習に一層情熱を傾け始めていた。 と言っても、プロジェクトの合意形成のための交渉期にあっては、プロジェクトの成立の暁には自身が赴任することなど全く意識して はいなかったことである。1983年春からはさらに「スペイン語研修中級コース」(半年間)が始まることを知り、この機会を逃すまいと 軽い気持ちで参加した。

  だが、2回目の「ア」国出張では、スペイン語能力の必要性を改めて切実に自覚し、スペイン語と真剣に向き合うようになった。 JICA語学研修の中級を無事修了した私は、その後上級コースの開設を待ち望んていた。スペイン語も主語と時制に応じた動詞の語尾 変化がやたらと多く、学習者はここで四苦八苦し、学びを諦めるといわれた。だが、途中で放り投げることもなく、越すに越されぬ 峠を何とか乗り切れたようであった。

  その他、NHKラジオの「スペイン語基礎講座」を毎日聴講することを早い段階から始めていた。学習熱がさらに高まってきて、当時流行していた ウォークマンを買い込み、磁気テープに講座を毎日録音し、通勤の往き帰りに繰り返し聴くようにしていた。「ア」国出張時には 片言ながらも日常会話で使えるようになっていた。

  JICAの語学研修とNHK講座で学ぶうちに、スペイン語学習が面白くなり、どんどん前のめりになって行った。同じ学ぶのであれば高次元 の修得を目指して向き合おうと意欲を燃やしてJICA研修に参加した。そして、出席率も成績もトップクラスをめざし、語学講師から 一目置かれるように真剣な思いで参加することを心掛けた。待ち望んでいた「上級コース」がついに開設され、さらにチャレンジした。 出張などの特別の事情がない限り、初級、中級、上級の三コースとも、一日もずる休みすることなく出席率100%を貫徹した。そして、 漁業学校プロジェクトの合意形成が進捗するにつれ、語学向上に向けた熱量も最高にヒートアップした。

  出席率もさることながら、各コースとも最良の成績を修めることを心掛けていた。アルゼンチンへの赴任そのことを真剣に意識し目指したのは ずっと後のことであった。具体的には、1983年11月に技協プロジェクトの合意文書である討議録が署名され、帰国途上にあった頃であった。 その時初めて、語学研修にこれまで真摯に取り組んできたことが結果的に見て人事部への最強のアピールになるのではないかと期待した。 詳細は次節に譲るが、努力は決して無駄に終わることなく、また自身を裏切ることにはならなかった。

  余談だが、基本設計調査のため現地に居残った民間コンサルタント団員を除き、恩田調査団長、深田助教授と私はリオ・デ・ ジャネイロ経由で帰国した。生まれて初めてリオに足を踏み入れた。皆してコパカバーナ海岸近くの夜の街を少し散策したり、翌日には 全くお上りさんになって、リオのベスト・ランドマークである「コルコバードの丘」にケーブルカーで登った。そそり立つ岩山の先端に は巨大なキリスト像が天に突き刺すように建てられていた。

  眼下には360度の大パノラマが広がっていた。その美しい景色は生涯忘れることはなかった。東側には大西洋が広がりコパカバーナ海岸 やイパネマ海岸の白い砂浜が南へと伸びる。北東の眼下には「パン・デ・アスカル」という釣鐘型の岩山を臨む。海岸からロープウェーで 山頂まで登ることができ、絶景の大パノラマ風景が間近へとズームアップされる。正面北側には複雑に入り組む「グアナバーラ湾」に沿って、 世界三大美港の一つと謳われる港とリオの市街地が広がる。まるで天空を飛翔するコンドルさながら、リオの大都市を上空から俯瞰 するかのような気分であった。感激と感涙の連続であった。

  青少年時代いつしか船乗りになった暁には、パナマ運河から南下しアマゾン川の河口のベレン沖を経た後、リオの港に錨を降ろし 時に上陸しブラジル文化や自然に触れて見たいと夢見ていた。12歳の少年の頃からして何と20年近く経て、ようやく 「コルコバードの丘」に立つことができた。夢は全く別の形であるがついに実現した。込み上げてきた積年の思いに人知れず感涙であった。 アルゼンチンとの往復時にはブラジル最大の都市サンパウロを必ず経由していたが、その外港であるコーヒー積出港のサントスの地を一度も踏んで こなかった。何時かはこのもう一つの夢を叶えたいと「コルコバードの丘」を後にした。

  さて、帰国後、ア首連の「水産増養殖センター」プロジェクトをフォローしながら、アルゼンチン・プロジェクトの合意文書である 「討議録」最終案の作成に着手した。悩みどころは、3年の協力期間を5年にどうやって近づけるか、そのアイデアを模索していた。 想像するに、派遣される専門家は恐らくはスペイン語能力に乏しいに違いない。また、JICA専門家としての経験が初めてであり、また 専門的技術を他者に教授するという経験も初めてのことであろう。ついては、いかなるメカニズムをプロジェクト内に組み込んでおけば、 ワンチームとなって成果を積み上げられるかということに腐心していた。兎に角、次回の出張では討議録の署名を了する責務が待ち 受けていた。

  オルティス校長が訪日時「JICA水産研修センター」で供されたステーキに何故口をつけなかったか。最後にその答えに触れたい。答えは やはりアルゼンチン人のプライドが関わっていたように思えた。校長に直接理由を尋ねた訳ではない。私自身がアルゼンチンで何度もステーキ を食するにつれ、かつて抱いていた「謎」に対する答えを自然と見い出した気がした。十中八九その答えに間違いないと確信してきた。

  「ア」国でのステーキは半端ではなかった。大きな炭火の周りに、長さ1メートル以上はある鉄製の串にあばら骨付きの巨大な肉塊を 刺し広げ、時間をじっくり掛けて脂身を落としながら焼き上げる「アサード」という焼肉料理は豪快である。「ア」国を代表する最も シンボリックな料理である。レストランで食する一皿の肉塊は250gが普通サイズであった。今回、肉が大好きという基本設計調査団長は、 500gの厚切りジャンボステーキを注文した。だが、彼はその3分の1ほど残してギブアップした。そんなことは彼の人生で初めての経験であった と驚嘆していた。

  JICAの「神奈川国際水産研修センター」への視察の時のこと、オルティス校長らに向かって「センター所長の特別の厚意なので召し上がって 下さい」と二度三度執拗にビフテキを勧めはしなかった。確かに一回は軽く勧めはした。だが、「ア」国からの帰途の機中、今回の出張中に 食したステーキを思い出しながら、執拗に勧めなかったことに胸を撫で下ろした。「ア」国でのステーキのボリュームたるや 全く日本のそれと比べものにならないことを又もや目の辺りにした。出張中何度もジャンボステーキを食して、オルティス校長の思いが初めて 分かったような気がした。

  校長は「ア」国の水産教育レベルについては忸怩たる思いがあったであろうが、「肉料理では絶対負けない。JICAマンは「ア」国が牛肉の 大生産国であることを知らないのか。地下足袋のゴム底のような薄っぺらいステーキを賞味させられることはプライドが 許さない」という思いであったのかも知れない。だが、当時にあっても、またその後においても、彼は自国のステーキの凄さを自慢げ に話題に上げることは一度もなかった。紳士であった。私も彼に何故あのビフテキを食さなかったのかを一度も尋ねはしなかった。 校長も私も互いに二人のプライドを傷つけないよう最善の気遣いを心掛けるようにしたと言える(とはいえ、自身がそう思い込んでいる だけかも知れない)。そのような配慮が二人の信頼関係を持続可能にさせてきたのかも知れない。

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