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    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第2節 農業試験栽培事業への投融資に前のめりになる農業投融資と向き合う(その二) /5ヶ国での栽培試験


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     第9章・目次
      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節: 職員課のどの仕事も喜ばれる
      第5節: 英語版「海洋白書/年報」と「海洋語彙集」づくりに前のめる



  中国での搾油用大豆栽培を皮切りに、幾つかの試験栽培調査団を組織し、現地を踏査しながら事業構想を模索した。調査対象とする 地域・国や農作物はさまざまであった。体験したことのうちで印象深かったエピソードをまじえながら、5ヶ国における私見栽培事業の概略を記したい。

  フィリピンにおける「アバカ試験栽培事業」。アバカとはバショウ科バショウ属の繊維植物で、外見上バナナの樹に非常によく似ている。 アバカはマニラアサ(マニラ麻)とも呼ばれ、その丈夫な繊維はロープなどの原材料となることはよく知られる。アバカ繊維は水に強い特性をもつので、 紙幣・コーヒーの濾過紙・ティーバッグ・コンピューター紙などに利用されたりする。融資を申請した日本法人の本拠地はルソン島南部 の地方都市レガスピーの郊外にあった。レガスピー近傍には富士山のような均整のとれた円錐形の「マヨン火山」がそびえることで知られる。 同日本法人の現地合弁企業同法人はそこにアバカの栽培地を有し、部分的ではあるが既に試験栽培を始めていた。また、アバカ繊維 加工工場を長年に渡り稼動させ工業用原料の生産にいそしんでいた。

  同工場にとっては周辺農家から安定的に良質のアバカ繊維の供給を受けることがその持続的経営上死活的課題であった。そこで 計画された事業とは、工場の周辺農家にアバカ栽培を大々的に委託するに当たって最適な品種を選抜すること、さらにその栽培方法 を確立し、もって農家へ栽培技術を率先指導することで供給量を増大させるというものであった。髙品質の原材料の安定的な調達を拡大させるとともに、 農民の働き口の確保や雇用拡大につなげ、また彼らの収入増と生計向上に資するという事業構想であった。

  目ぼしい産業の乏しい地方経済にとって、アバカ繊維のさらなる工業化や供給量の拡大は経済振興にとっても大いに期待される ものがあった。他方日本では、各種用途が約束され安定した需要が見込まれた。アバカ繊維市場や流通経路が既に確保されて おり、同原料を安定的に受け入れる安定的産業基盤が存在していた。アバカの大きな茎から長い繊維だけを引き抜く作業は農民にとって 重労働であり、往々にして職業病を引き起こすリスクがあった。同日本法人はその改善のために簡便で安価な繊維抽出機具をJICA 融資でもって開発し、農民の労働環境の改善にも役に立ちたいとの意向でもあった。

  さて、フィリピン・ミンダナオ島ダバオや南米エクアドルのグアヤキルなどの熱帯ジャングルで長年アバカ栽培などに従事した 経験をもつ栽培計画担当団員を中心に、いかなる試験栽培を行なうことが合理的であるか、団内で検討を重ねた。また経営計画担当の東さんを中心に、営農計画や 長期収支計画などを作成するために必要な各種関連データを収集した。

  余談だが、私の全くの不注意にしてまさかの出来事に遭遇した。マニラのある日本レストランで東さんと二人で昼食を取った。その後夕刻時に 団員全員で夕食を囲んだ。さて、対面に座っていた東さんと私とが事前に申し合わせたかのように、急に顔を見合わせた。 何となく腹の具合にかすかな異変を感じてのことであった。二人は食事を中断し店外へ出て暫く休息を取ることにした。昼食内容を比較し合って辿り着いた 結論は、日本レストランでの昼食として共通して食した野菜サラダに食あたりをしたものと二人は確信した。

  彼は「青年海外協力隊」からの派遣時代にインドのど田舎での苦い経験があるためか、何故か海外出張時にはいつも抗生物質を 携帯していた。彼はその晩それを服薬し翌朝には回復したことを後で聞かされた。こちらはいつもの正露丸しか手持ちがなく全く効かなかった。水鉄砲のような猛烈な下痢が続き、 脱水症状がひどくふらふらであった。翌日は土曜日でレガスピーへの移動日であった。とにかく他の団員に抱えられながら 飛行機に乗り込んだ。レガスピーですぐに市内の病院へ駆けつけ点滴を受け始めた。診てくれた女医からどんな検査をどの程度受けたのか記憶にないが、 症状は変わらずひどい下痢が続いていた。昼食後の女医の往診時に大粒の抗生物質一錠を渡された。自分では半分に割って服薬した 方がよいのではという思いがよぎった(常々海外で処方される抗生物質は小柄な私には多量過ぎるとの思いがあった)。だが、 一錠丸ごと服薬してしまった。腸チフス、ノロウイルス、何がどうなのか、女医も何となく病名を確定しかねている風に見えた。病名の あやふやなままに抗生物質を処方したのではないかと、多少の不安感を抱いていた。

  さて、指示されるままに服薬したが、その1,2時間後猛烈な悪寒と震えが始まり、体温と血圧の低下でベッドの上で暴れ回った。 また、激しいおう吐にも襲われた。女医はそのショック状態を見て、実習中らしい若い女性看護師4,5人に湯たんぽを大至急用意するよう指示した。 暫くして、彼らは湯たんぽを私の体の上に置いて、暴れる私に上から乗りかかるように押さえ込んだ。そこに、たまたま見舞いのため病室に入って来た 団員がそんな状況を目の当たりにしてびっくり仰天した。今日にでも退院できるものと思い込んでいた彼らは、とんでもない事態に遭遇したようだった。 相当心配して、すぐにマニラのJICA事務所に連絡すべきと話し合ったらしい。

  その後、運よくというか、それとも女医の診断通りなのか分からないが、湯たんぽの効果が出てきた。10分ほどで身体が暖かくなり出し、震えは治まり、 湯たんぽがやたらと熱く感じ、火傷でもしそうなくらいであった。「死なずに済んだ」というのが正直な 思いであった。ショック状態で、体全体をガタガタと震わせ暴れている時は、自身でもこれは相当やばい状態であり、生死を彷徨っているの ではないかという恐怖心を抱いた。「自分はフィリピンのレガスピーのこんな病院で、生野菜の食中毒に対処するために投薬された抗生物質 薬のたった一錠で死ぬ運命なのか」との思いが去来した。

  フィリピンでは飲料水の質が良くなくて下痢に罹患する患者も多く、症例は山ほどあるに違いない。医者も医学上の処置を十分心得ているものと、安心しきって 病院にお世話になったつもりであった。ところが、どうもそうではなかった。病院でその後一人で一夜を明かす気持ちには到底なれなかった。 自宅療養するとかの理由を口実にしたのか否かは定かでないが、入院続行が恐ろしくなって、夕刻までに「夜逃げ」 ならぬ「昼逃げ」を敢行した。

  退院後は、本案件の申請企業の事務所などでしばらくお世話になって、ソファーをベッド代わりに休息を取らせてもらった。 そして、梅干しとおかゆを頂いた。それが良かったのか意外にも翌日にはかなり回復し、ふらつきも治まる気配となった。 翌々日の月曜日には普通に業務に復帰することができた。

  マニラに戻った後レストランのマネージャー(日本人)にそのことを東さんとクレームしたところ、彼曰く「実はあの時私自身も レストランの料理を食して下痢をしていた」という。全く笑えない話であった。 やはり海外では生ものには十分注意すべきことを改めて胆に命じた。それ以来海外調査に出掛けた場合には現地に到着して1週間 以上経るまでは、火を通していないものを一切口にしないことを徹底した。

  休題閑話。ヨルダンの砂漠での小麦栽培事業について触れたい。ヨルダン南部の港町アカバの市街地は別として、1~2㎞離れた 郊外に出れば見渡す限り岩山と砂漠の広がる荒涼とした大地であった。栽培候補地はアカバから北東数10kmの距離にある砂漠地にあった。 そのまま国道を一時間も走ればサウジアラビアとの国境である。 そんな砂漠地のど真ん中で井戸掘削を行ない、センターピボット方式による灌水方法をもって小麦を試験栽培するという事業であった。 砂漠であっても、小麦は水と肥料さえあれば立派に生育する。

  日本の某商社が、ヨルダン政府の元農業大臣が経営する現地法人とタッグを組んで 小麦生産事業にチャレンジしようとしていた。砂漠で化石水を掘削し地下水を汲み上げたうえで、小麦栽培に供する最適品種の選抜、施肥や灌水 の方法(センターピボット方式、点滴方式など)の諸条件を変えながら栽培試験を行ない、最大収量が得られる栽培方法を確立し、 持続的に採算性の取れるビジネスを目指すというものであった。近場にはそんな開発事例が幾つか見られた。砂漠の地中下に存する化石水は 天然の雨水で補充されることは殆どなく、一度全て汲み上げてしまうと枯渇する他ないという。

  周辺の掘削実績からしても化石水が得られる土地は粗方目星がついているが、深さ数百メートル以上の井戸を何本も掘削するのは コストが嵩む。また、井戸を中心に半径50mほどのセンターピボット方式灌漑システムの導入も高くつく。収穫用の大型農業機械も導入する 必要がある。動力源としての重油燃焼の大型自家発電装置も必要となろう。 何もない砂漠の中でのこと、農業技術者や作業員らの生活インフラと食料補給システムなどの構築も必要となる。全てのインフラ基盤を零 から築くのはやはり莫大な初期投資が求められることになる。

  ヨルダン政府は小麦を輸入販売するに当たり政府補助金を出すことで国民に低価格の小麦を供給している。だから、小麦を国内 生産できれば輸入代替することができ大いに外貨節約となる。しかし、輸入小麦価格は補助金によって低く抑制されており、 他方では砂漠で国内生産される小麦の政府買い取り価格は非常に高くつく。 ビジネス事業者からすれば、相当の政府補助金を当てにしない限り、その採算性を持続させられないのは自明である。

  果たして、ヨルダン政府・農業省などの農業・食糧政策として、実際の小麦生産原価に対していかほどの政府補助金を投入し 小麦の国内生産を下支えするつもりであるか、それが大きな焦点でもあった。また、農業省や農業経営団体などを 訪ねながら、補助金の変動、その支給期間の見通しなどのいろいろな政策情報の収集に務めた。帰国後栽培事業報告書を作成し申請 企業にも提供した。だが結局、待てど暮らせど申請商社からの正式の融資申請はなかったようだ。 余談であるが、首都アンマンからの帰途サウジアラビア上空と思われる機内から、幾つもの巨大な円形の小麦栽培圃場を眺望する ことができた。もちろん、圃場は延々と広がる砂漠の中に点在していた。

  さて、ヨルダンでの2,3のエピソードについて。アカバから栽培予定地に行くのに土地勘のある地元のヨルダン人運転手兼 ガイドをわざわざ雇うことにした。運転手はショートカットのため、 国道からそれて砂漠の中へと四駆を走らせた。道などどこにもない全くのオフロードであった。一時間ほど走った時点で、団長が一言 漏らした。「大分前に同じ景色を見た。元に戻って来たのでは?」。砂漠風景の中に見覚えのある岩山に気付いたのである。 まさかと思ったが、砂漠の中を大きく周回していたのである。運転手はどうも方角を見誤ったようであった。 信じ切っていた我々は、砂漠と岩山しかない炎天下の大地を行くことの怖ろしさを思い知らされた。いつもよりずっと多めにペット ボトルを積み込んでいて正解であった。一旦四駆のエンジンを止めガイドを落ち着かせ、彼に向かうべき方角をしっかり自己 確認させ、さらに全員飲料水で喉を潤し十分息をついたところでリスタートした。

  ところで、アカバ湾をはさんで対面にはイスラエルのエラートの港町が目と鼻の先に見える。アカバは洋画「アラビアのロー レンス」でも知られる。ヨルダンにとっては、このごく細長い「アカバ湾」の最奥に位置する「アカバ港」が外洋へ、そして世界へ通じる 唯一の出入り口である。そこでの自由で安全な船舶通航は国家の生命線である。アカバの海辺のデッキチェアに身を横たえながら、 そしてボートで少し沖に出て港外に錨を降ろす貨物船を見上げながら、そのことを思い続けていた。

  アカバから首都アンマンまで「キングズ・ハイウェイ」が通じる。距離にして250kmほどである。そのハイウェイこそが、 アカバとアンマンを結ぶ唯一の幹線道路である。アカバは、世界へ通じる海上ルートとアンマンへ通じる陸上ルートとの唯一 の結節点である。昼夜を問わず爆音をうならせてひっきりなしに40フィートコンテナー輸送トラックが行き交う。ユネスコ世界文化遺産で名高い「ペトラ 遺跡」はかなりアカバ寄りにあり、同ハイウェイから少し西側にそれた内陸部にある。

  アンマンから塩湖の「死海」に下った。初めて死海を見ることができると思うと鳥肌が立った。旧市街地を抜け、ヨルダン渓谷 のはるか下方底地に死海を見下ろすことができる見晴らしの良い原野を通りかかった。そこにはトーチカがいたるところに設営され、多くの 地雷が埋まっているという。どんどん谷底に向けて下って行き、高度マイナス400メートルという世界で最も低い谷へと向かう。 そこに死海がある。朝方出がける際に水着を忘れてしまった。仕方なく岩陰に隠れるようにしてパンツ一枚になって死海へそろり と入った。2~3分でも塩湖で浮かぶ体験をしたかった。死海の水底には美容にいいとか言われるヘドロのようなネズミ色の 泥が沈積している。死海では子供たちが沈泥を体に塗り合ってじゃれていた。耳に濃塩水が入るので、逆立ちして水底へ潜って泥を すくいあげる気にはなれなかった。

  平泳ぎでもクロールでも、泳ごうとしたもののとても泳げないことが分かった。泳ごうとすると、出っ張った 腹部だけで体が浮き上がりそうであった。上半身と下半身は背り上がり(実際は背り上げっていないが、そう感じる)、エビ固めにあって いるように感じ、背骨が痛くて我慢できなくなる。髙塩分濃度ゆえに浮力は極めて大きい。臀部の浮力だけで浮いている ような感覚である。両手両足は斜め上方に大きく空中に曝け出している。新聞どころか分厚い「広辞苑」でも十分読めそうであった。

  少しは泳いでみようとした。ところが、朝出がけに髭を剃った折に顎に擦り傷を作ってしまったことをすっかり忘れていた。 手をバタつかせてみたら海水が顎にびっしゃっとかかった。その途端、余りの痛さに飛び上がった。ひりひりする猛烈な痛さで 拷問の憂き目にあった。最早泳ぐどころではなく、すぐに死海から脱出し岸近くに設営された公衆用シャワーを浴びたが、 それでも拷問は暫く続いた。

  死海の北端当たりからヨルダン川に沿って北上すると、「ヨルダン西岸地区」が視界に入る。パレスチナ人が暮らす多くの集落が 点在する。さらに北上を続ける先には、ヨルダン・シリア・イスラエルの三国国境となっている渓谷を目にすることになる。 ヨルダン川をはさんだ渓谷西側のすぐの対岸では、イスラエル兵士がパトロールしているのが見える。

  3国国境から北の遠方には、1976年の第三次中東戦争でイスラエルが占領した「ゴラン高原」が小高くそびえている。「ゴラン高原」 の南にヨルダン、北にシリアが位置し、ゴラン高原は両国の動きを監視できる絶好の高台となっている。イスラエルがずっと長く 占領し戦略的要衝地として手放してこなかったことがよく見て取れる。

  三国国境周辺では、あちこちに地雷原マークが立てられている。ヨルダンとシリアの国境をなす渓谷には、かつてオスマン・トルコが 敷設したメッカへ通じる「ビジャーズ鉄道」に架かる橋が破壊されたまま残されている。 また、ヨルダン側の道路際の繁みには何台もの戦車がグリーンネットで覆われ配置されており、緊張感が漂う。途中、ヨルダン川沿いの 農業地帯における作物生産上も必要不可欠の命綱ともいえる灌漑用水路を視察した。

  さて、中米コスタリカでの試験栽培事業に触れたい。ヨルダンも初めてであったが、コスタリカも初めての訪問であった。 中米地峡の亜熱帯域にあって、しかも高度零メートルから数千メートルの高山地帯まである。比較的狭い地理的エリアにおいて 多種多様な植生を一日にして楽しめる。つまりジャングルの植生から高山植物まで、半径100km圏内に存在する。そんなコスタリカ での試験栽培の対象はカカオであった。

  標高千数百メートルの高原にある首都サン・ホセからコーヒー畑が延々と続く高原地帯を西方に走り抜け、太平洋岸に近い亜熱 帯域平野部にあるカカオ栽培地を踏査した。また、あちらこちらの商業的カカオ生産地やその醗酵施設などを精力的に視察し、カカオの試験 栽培の在り方を模索した。また、太平洋岸に最近建設されたカルデラ港という大型船発着埠頭などの港湾インフラ事情を視察した。 首都では、カカオ、バナナなどの亜熱帯農作物の貿易促進を担う政府系機関などで貿易見通しなどについて聴取したり、また 農業省関係部局でそれら作物の農政や助成金制度などを訊ねた。申請は某商社であったが、栽培事業主体は自動車販売を手掛 ける現地合弁企業であり、カカオ栽培は初めてのチャレンジであった。結局のところ、彼らの事業計画は後ずさりしてしまい、 融資申請はなされなかった。

  ところで、カカオ栽培地から1時間ほどの距離にある港町プンタレーナスでのこと、全団員で夕食を済ませた後ぶらぶらと夕涼み のつもりで海岸通りを散策していた。場末のローカルなバーを見つけて一杯やろうと立ち寄った。中は薄暗く天井にミラーボールが 回っていた。4、5人の女性がいて、声を掛ければ一緒に飲んだり駄弁る相手をしてくれそうなキャバレー的な雰囲気があった。 で、言葉を交わすと、バーの経営者は何と日本人だというのが分かった。 その後どこからともなく青年オーナーが現われた。辺境にある港町のこんなバーで、日本人オーナーと遭遇するとは思いもしなかった。 彼は日本人が恋しかったのか「店を畳んですぐにでも帰国したい」という。「だが借金があって帰国できない」と、見知らぬ我々に 身の上話をするのであった。1988年4月のことである。

  実は2007~2009年に隣国のニカラグアに赴任していた時のこと、海洋博物館らしき施設などを訪ねるために再びプンタレーナス へ出掛けた。市街地の海岸通りを歩いていた時、ある交差点にさしかかった。大型クルーズ船接岸用の一本の長大の桟橋から 直進して来る道と交差する四つ角であった。その一角にレストランがあり、その屋外テラスでランチを取ることにした。

  その昔皆とバーに立ち寄ったのは夜のことで、その店構えや正確な位置はほとんど覚えていなかった。唯一記憶にあったのは、 交差点に面した建物の角っこが四角いケーキの一角をナイフで縦に切り落としたような形状をしていて、そこを 出入り口にしていたことである。テラスで一人ランチしながら「例のバーはこの辺だったかもしれないな」と思いながら、交差点 を挟んで対面にある店を見た。普通どこにでもあるホットドッグ屋のようなファーストフード店がそこにあった。その時、 突然昔のバーの店構えの記憶と目の前のフード店とのそれが照合され、まさしく店はあのバーであることに気付いた。

  外観はすっかり変わっているが、まさしく、入り口付近はケーキカットしたような構えであることを見て取った。 バーを探そうと前のめりになっていた訳ではないが、そのバーに偶然に「再会」してしまった。店の前歴を訊ねてみた。 かつてはバーであったとのこと。例のバーに間違いはなかった。あれから20年以上の 歳月が流れていた。昔通りすがりにたまたま小一時間過ごしただけのバーなのに、心のどこかで「再会」できるかもしれないと期待して いたのかも知れない。奇遇な再会を果たし当時の港町での夜のひと時を思い出した。

  思うに、青少年の頃に、南米などへの海外雄飛に憧れていた時期があった。そして、自身も中南米を放浪の末あの青年のような境遇に なっていたかもしれない。あるいは、中南米のどこかで人生の遠回りか道草を繰り返していたかもしれない。2007~2009年当時同じ 中米の隣国ニカラグアに暮らす者として、その日本人青年のことが、そしてバーでの情景が心のどこかに残像していたのであろう。 そして、彼は当時帰国できないどんな深い訳を抱え、その後どんな人生を辿ったのか、彼のドラマを訊ねてみたかったのかも知れない。 あの当時からまだ帰国できずにバー経営に釘付けになっていたとすれば、どれほど多くの人生ドラマを聴かされる破目になって いたであろうか。「千夜一夜物語」のように延々と身の上話を聴かされ続けたかもしれない。

  休題閑話。南洋のミクロネシア連邦のポナペ島での胡椒の試験栽培事業というのがあった。胡椒の最適品種の選抜、施肥や植栽 などの栽培法を確立した後に、一般農家に委託栽培を普及させるという計画であった。胡椒生産によって、ポナペの国家歳入に 大きな貢献が見込まれた。「黒いダイヤ」としての胡椒が本格的に島内で生産され、輸出が本格化し、例えばハワイなどでの観光土産 用に販売できれば、その貢献も実現化できるとの期待があった。ブラジルのアマゾン川支流域のトメヤスという日本人移住地で、 JICAの前身である「海外移住事業団」時代に入植者に胡椒栽培の技術指導などに携わったことのある職員が今回の調査に 胡椒栽培専門家として参加した。そして、時間をかけてじっくり試験栽培構想が練られた。ポナペの関係大臣、議会関係者や 行政官などが大いに歓迎してくれ、また協力的であった。

  栽培事業の現地管理事務所兼作業所の建設費の他、苗木・肥料・支柱などの材料購入費、栽培管理主任や労働者らの人件費など、 支出計画はそれほど複雑ではなかった。融資申請者は一個人で、JICA融資と自己資金をもって栽培事業に チャレンジする手はずであった。試験栽培のための土地の借り上げとその境界線の画定についてはポナペの特殊事情に配慮する必要があった。 行政管轄官庁には土地台帳や境界図などの書類はあるものの、境界を画定させるための最終権限はポナペの実在する酋長が握っていた。 役所は事実上境界線のことにはほとんど口も手も出せない様子であった。

  また、例えば栽培作業者の雇い入れにおいても酋長の了解が不可欠であった。島内住民の儀式のために提供された食べ物などの 島民間での配分だけでなく、婚姻などに関する酋長の権限は絶対的であるという。島外者には到底想像も及ばない不文律の掟や しきたりがあり、酋長は絶対的不可侵であるという。調査団としても、試験事業が将来いろいろな局面で酋長からの協力や許諾を得て 円滑に執行できるよう、現地調査中には彼の権威に敬意を表し、かつ仁義を切るべくできる限りの配慮を行なった。

  ところで、ポナペ島の周囲の沿岸部はほとんどマングローブに覆われ、魚類や両生類などの生物に重要な棲息環境を提供している。 島を周回してみると、鉄道線路で使うような枕木状の石材が日本の城の石垣のように積み上げられマングローブに覆われる 「ナンマドール」という遺跡に出会った。満潮のため遺跡の周りは海水に洗われ、そこをカヌーで散策した。休日のことであった。 サンゴ礁の島に何故そんな石材が数多運び込まれ組み立てられ、今は廃墟になっているのか。真偽は分からないが世界の不思議の一つでもあるらしい。

  最後に、ブラジルでの椿の試験栽培事業。茶の栽培から椿のそれに転換して、椿オイルを抽出するという事業であった。 候補地はサンパウロから内陸へ100kmほど入った山深い高地であった。日本で長く椿栽培の経験のある専門家に試験栽培方法を検討して もらった。周辺では盛んに茶の商業的栽培が行なわれていることから椿栽培の適地でもあろうが、農家に椿栽培への転換につき インセンティブをいかほど与えられるかが大きな課題と思われた。椿のエセンシャルオイルは主に化粧品に利用される予定であった。

  さて、1988年9月、今回初めてサンパウロ市街地に入ることができた。サンパウロは治安上の理由で、JICA関係者は 業務目的以外に足を踏み入れることは禁止されていた。今回ようやく初めて市街地に、それも中南米随一の東洋人・日本人街の「リベルタージ地区」 に足を踏み入れることができた。同地区は日本人移民らが長きに渡り築き上げてきた街であり、ブラジルに暮らす全ての日本人移民の 故郷そのものであろう。

  1950~1960年代の青少年の頃、サンパウロ市街地が華やかに賑わっている写真を見たことがある。いつかは船乗りとして コーヒー積出港サントスに入港し、華やかなサンパウロやその「リベルタージ地区」を訪れて見たいと思い描いていた。今回サントスに立ち寄ることはなかった。サントス港には 1908年に、初めての日本人集団移民を乗せ神戸港を出港した「笠戸丸」がその第14番埠頭に接岸した。移民の多くはコーヒー農園に 入り込んで行った。その労働環境は凄惨なものであったといわれる。リベルタージは、そんな日本人移民とその子孫らが、肩を寄せ合いながら住みつき 街を形成した。日本人移民らのブラジルでの故郷ともいえる同地区に足を踏み入れ、彼らの移民史の片鱗に思いを寄せ感涙する ばかりであった。サントス港第14番埠頭を訪ねることができたのは、パラグアイに2000年~2003年に赴任していた 時であった。椿栽培調査から10数年後のことである。船乗りになっていれば、移民船「ぶらじる丸」などで、移民らを サントス港に送り届けていたかも知れない。

  ところで、調査団は椿栽培試験の候補地において茶を栽培する日本人一世らしき老夫婦の世話になった。二人の顔にはこれまで の長年の労苦がしわに遺憾なく現われていた。昼食時期と重なり、我ら団員に大きなおにぎりをふるまってもらった。夫婦の暮らす 家屋は粗末に思われた。夫婦の過去の人生ドラマを知る由もないが、恐らくは聴くも涙語るも涙のストーリーであったかも知れない。 異国のこんな片田舎においての老夫婦による温かいもてなしに、また感涙であった。残念ながら、椿の試験栽培が彼の地で実施され たという話はついに聞かなかった。さて、ブラジリアのJICA事務所に足を運び調査状況を報告し、またいろいろ情報の提供を受けた。 市街地外れに建つ展望塔から360度にわたり、地の果てまで広がる大平原を眺めた。眼下にはなおも建設 途上という新生首都ブラジリアが広がっていた。

  余談だが、担当することはなかったが、過去の成功事例として、ある日本企業がカリブ海の国ジャマイカにおいてJICA融資の下 コーヒーの試験栽培事業にチャレンジした。その後本格的なコーヒー栽培事業が展開された。後に「ブルーマウンテン」という、知る人ぞ知るコーヒー豆のブランド として定着している。ブルーマウンテンと称するコーヒー豆はある山地の一定高度以上の土地で栽培された特定のコーヒー豆 にしか名付けることが許されないという。その栽培試験調査で経営計画を担当した例の東さんから聞かされた。

  最後の余談であるが、JICA投融資事業として最大の大輪の花が開いたのは、ブラジルの中央部に位置する「セラード」と称される 不毛の大地であった。「セラード」とはポルトガルやスペイン語で「閉じられた」という意味である。大豆の需要増と 供給国の偏り問題などのために、日本はかつて新しい開発輸入可能国を求めざるを得なかった。かくして、政府主導でブラジルのその不毛の地で大豆を開発し輸入することになった。

  JICAは当時ブラジルの「コチア農業組合」を通じて、その傘下の農民に一人当たり50ヘクタールを開墾するための投融資を行ない、 その大地の開墾と大豆栽培に対する支援を始めた。「セラード」の大地には一粒の大豆もなかった。大豆の試験栽培に融資を行なうことで 農家を支援した。現在では「セラード」は年間1000万トン以上もの大豆を生産する大穀倉地帯に変貌している。現在ではブラジルは 世界でもトップレベルの大豆生産高を誇るまで成長した。当初はJICA融資制度の活用に始まったが、後に「海外経済協力基金(OECF)」 からの巨大融資による本格的な事業展開へと発展することになった。私的には、時期がかなりズレていたため「セラード開発」という 歴史的事業に少しも関われなかったが、JICAの多くの先輩がその開発の初期事業に携わっていた。

  「第3号案件」対象の農作物はさまざまであるが、最適品種の選抜・栽培方法などの技術開発が先行して必要とされる場合には、 JICAの投融資が最も得意とするところである。JICAが海外現地調査を請け負いその栽培技法や実現可能性を調査し、かつ試験栽培の 事業化を資金的に支える。ひいては発展途上国の社会経済的発展に寄与するという優れものである。 試験栽培に対する技術協力の一種であるとともに、それへの資金協力というダブルの支援によって、海外での農業分野における 民間ビジネスのいわば種まきをするという起業活動をお手伝いし、雇用や貿易促進にも貢献できるという夢のあるスキームである。 そのポテンシャリティや伸び代には大きいものがあるが、一般金融市場での金利の大幅な低下傾向が続いたために、企業による その利活用が減退傾向となり、一時期このJICAスキームの廃止という憂き目に あったこともあった。

  私的には、投融資事業を通じて沢山のことを学ぶことができた。また、技術協力プロジェクトと投融資プロジェクトとの違いをいろいろ と実体験した。技術協力プロジェクトでは、人的・物的インプットに対してアウトプット(成果)はどう見積もられ評価される ことになるか。例えば、専門家がカウンターパートへの技術移転や指導を目指す場合、その成果を何をもって推し測り評価すること になるか。経済的収益性・採算性などの指標や基準をもって、技術移転の成果を評価することは皆無に等しい。種を播いたが、その成果を定量的に、特に経済的価値や 収益性をもって示すことはまずできそうにない。

  他方、投融資プロジェクトの場合、初年度には最も多額のプロジェクト初期投資が必要となり、年度ごとの営農計画に基づき、 ありとあらゆる支出と収入見込みをはじきだし、毎年の損益計算書を作成し、20年間のバランスシートをシミュレーションする。 JICAローン返済を睨みながら、事業の経済採算性や収益分岐点について常にウォッチングを重ねることになる。かくして、投融資プロジェクト の成果の評価基準は明確であった。収支バランス、採算性、損益分岐点、返済見込みなどの指標が全てであった。

  投融資業務では、民間企業が進める海外での試験栽培事業や開発輸入事業の一端に関与し、民間ビジネスの視点、センス、 マインドなどに身近に学ぶことができるまたとない機会であったといえる。 JICAの技術協力の中でも、プロジェクトの収支バランスや採算性を常に視野に入れ、ビジネスマインドをもって業務に当たることが 求められる数少ないプロジェクト形態であった。民間ビジネスに関わりつつ、ビジネスマインドが大いに刺激され広げることに繋がった。 民間企業の試験栽培事業への支援、その先にある大きな開発輸入という「夢」を共に追いかけつつ、途上国の国づくりに何がしか の貢献もできるという、意義深い業務であった。事業の種を播き育てる楽しさを知ることもできた。「第3号案件事業」には、民間ビジ ネスの面白さと楽しさ、その先に「夢と意義深さ」が広がっていた。

  最後に、投融資業務では海とのつながりは極めて少なかったが、業務の基本は海外現地調査であった。それ故、世界のいろいろな地において 海や港風景を眺めたり、散策する機会も時に恵まれた。また、その土地に所縁のある歴史や文化について興味をもつきかけにもなった。 特に初めて訪れる国の海辺や港風景を眺め、そこに働き暮らす人々と時に言葉を交わし、肌で何かを感じとり、脳に刺激を受ける ことの喜びはひとしおである。レガスピーの海、アカバの海と港、死海という不思議な塩湖、コスタリカのプンタレーナスで初めて 見た太平洋と海に沈みゆく太陽、新興のカルデラ港、ポナペ島の礁湖とそこでの夜釣り、礁湖の先の破砕帯で白く砕ける波と潮騒、 マングローブの海と生命の息遣い、ナンマドールの石組み遺跡とカヌーイングなど、それらはたいてい週末に、いわば通りすがりに 目にし体験したものである。しかし、そこには人生で初めての実体験で味わう、そこだけでの海の色と香りがあった。五感で触れる ことだけでも、私的には海との何がしかの繋がりと意義深さを感じ取ることができた。

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    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第2節 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験


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     第9章・目次
      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節: 職員課のどの仕事も喜ばれる
      第5節: 英語版「海洋白書/年報」と「海洋語彙集」づくりに前のめる