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    第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第4節: アルゼンチンへ赴任する


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       第9章・目次
      第1節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第2節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第3節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第4節: アルゼンチンへ赴任する
          [参考資料]無償資金協力部での海外渡航歴(JICA・JICSなど)<作成中>



  署名済みの合意文書(「討議録(R/D)」)のオリジナルを大事に抱えてアルゼンチンから帰国し、早速長期専門家5名の人選や 派遣手続きと向き合った。先ず、プロジェクトの「業務調整」の任務を担う専門家の人選であった。業務調整専門家については、 「自分が赴任しなくて誰が?」という思いであったし、自身の派遣こそがベストであると考えていた。

  プロジェクト成立のための合意形成に真剣に取り組み、経緯を誰よりも熟知していた。それに「ア」国関係者とそれなりの信頼関係を 醸成してきたと秘かに自負していた。さらに、3年にわたるチュニジアの「漁業訓練センタープロジェクト」などの運営経験に基づく 豊富な知見を培ってきたという思いもあった。自信過剰気味であったとは言え、「自分以上の適任者が他に誰がいるのか」という思いに 満ちていた。

  実のところ、3回目の公務出張の後半辺りから業務調整の職務に就く専門家として「ア」国に赴任することを渇望し、その決意を固めていた。 人知れず「プロジェクトに自身が赴任せずして何とする」という強い思いに突き動かされていた。志願するならプロジェクトが 成立した直後の今をおいてないと考え、ついに志願の名乗りを挙げることにした。オルティス校長に大見栄を切ってしまった手前、校長らと 協働して何としてもプロジェクト第一ステージの最初の3年間におけるミッションを成就させたかった。

  先ず、佐伯水産室長に率直に相談した。余談だが、室長は大のアルゼンチン・タンゴ好きで、特にアルゼンチン人なら知らない人 はいないくらい超有名なカルロス・ガルデルというタンゴ歌手の大ファンであった。今回の3回目の出張の折には、ブエノスのあちこちのミュージックショップを探し回して、ガルデルのほぼ全てのタンゴ曲を収めた20巻ほどのカセットテープをようやく手に入れることができた。

  何故カセットを買い求めたのか。実はタンゴに目のなかった室長が調査団員としてアルゼンチンにいつか一度は出張したいと要望し、 担当の私と「バトル」になりかけた局面に遭遇したことがあった。だが、室長は要望を自身の胸の内にしまい込んで、担当者の私に出張を 譲ってくれていた。それがあって、がルデルのタンゴ・ミュージック・カセットを必死で買い求めたという次第であった。 室長はカセットに大感激してくれた。そして、全テープを質の良い日本のテープにダビングまでして「永久保存」できるようにしていた。

  プレゼントできたお陰で、室長に私の赴任のことで相談しやすかったことは事実である。 室長が私のかつての「独り言」を認めて、職員同士間でのプロジェクトのバーター取引を暗黙的に認めてくれていたことのお礼の意味も カセットには込められていた。

  さて、プロジェクトの業務調整員としては、外部人材ではなく、JICA職員の私が派遣されるように人事課に掛け合って欲しいと、 室長に願い出た。私は本来そんなことをする柄ではなかったが、今回だけは違っていた。「人生の最大の分水嶺はここにある」と判断して、 自身が本来もつ職業倫理観を飛び越え思い切って室長に掛け合ったという訳である。JICA人生で後にも先にも、具体的な人事異動先 について自ら上司に頭を垂れて願い出たのはこれが最初で最後であった。

  室長は快諾してくれ、人事課に内々につないでくれた。結果大成功であった。室長から一枚の申請用紙を受け取った。そして、 プロジェクトに業務調整を任務とするJICA職員を送り込まねばならない必要性と妥当性などについてしっかり論述するようにと指示された。

  「ア」国の技術レベルの高さは漁業においても例外ではなく、またアルゼンチン人のプライドは南米諸国の人々のうちでも想像以上に 高いものがあった。それも海軍の退役将校で占められる漁業学校の主要関係者のプライドは飛び抜けて髙いものがあった。プロジェクト 運営の難しさが予想されるなかで、彼らと伍してプロジェクトを切り盛りし技術指導の成果をあげ、漁業教育の向上という ミッションを完遂するには、現地の社会事情のみならず、プロジェクトの交渉経緯を熟知し、さらに関係者と信頼関係を構築してきた JICA内部の人材を派遣することが最善であるなどと論述した。

  予見される将来における「ア」国200海里経済水域(EEZ)における日本の漁業権益に関わる日ア政府間交渉の有り様を鑑みれば、 本漁業学校プロジェクトを通じた良好な両国関係の構築・維持に対する期待にはすこぶる大きいものがあった。故に、 プロジェクト・ミッションを成就してその期待に応えるには、外部人材からの一般公募的な人選よりも、JICA職員がその任に就くことが最も 適切かつ至当である旨を説明した。

  ありったけの思いつく理由を申請用紙に書き込み、室長に急いで手渡した。即座に人事課へ提出される運びとなった。人事課への「職員 派遣申請用紙」の提出の意味するところは、余程問題がない限り、職員派遣人事につきポジティブに検討されること、さらに一歩進んで 職員派遣が事実上内諾されていることを示すものでもあった。さらに言えば、プロジェクトの成立に携わってきた担当職員の私自身を 現地へ送り出すことを「了」とすることを示唆していた。

  かくして、「水産室職員 中内清文」を、1984年4月以降に業務調整員として「ア」国に派遣してよろしいか伺います、という決裁案を プロジェクト担当者である私自身の手で直に起案した。担当者が自身を派遣することを起案するのは何とも妙な感覚であった。 そして、職員の人事マターであるので、人事課長にも合議する形で同決裁案を関係部長らへ回付した。

  数日後のこと、決裁文書が手元に戻って来た。人事課長決裁欄には赤鉛筆で自筆署名がなされていた。嬉しさのあまり万歳して 飛び跳ねたいほどに舞い上がってしまったが、そこはぐっと堪えて飛び跳ねるのを我慢した。全身には喜びで鳥肌が立ち身震いが 止まらなかった。室長や先輩職員に報告した。嬉しさの余り体内の血が沸きたつような心境であった。

  帰宅後、真っ先に打ち明けたのも、また最も喜んでくれたのも妻であった。実は妻は東京外大のスペイン語学科出身であり、結婚前は JICAの嘱託としてスペイン語の素養を生かして研修事業部に勤めていた。だから南米諸国やラテンアメリカ文化にもそれなりの深い 関心を抱いているはずと確信していた。それに、アルゼンチンなら家族揃って躊躇なく赴任できると踏んでいた。

  「ア」国は南米諸国の中でも社会生活レベルが高く、子育ても含め安心して安全で安定した生活ができそうな国の一つであった。私的には、 スペイン語をかじったばかりなので、内心では妻の語学能力を80%以上当てにしていた。プロジェクトで公式、非公式に通訳・翻訳が必要となれば、 力になってくれるものと大いに期待してしていた。大船に乗ったつもりであった。水産庁出身のJICA副総裁や室長、また先輩・同僚からも、 中内にはその奥の手があるから語学面での問題はないものと思われていたようである。

  だがしかし、暫くして、妻が第二子を宿していることが明らかとなり、目算は目の前でガタガタと崩れ去ってしまった。 プロジェクト一年目は最も語学的サポートを当てにしていたところであったが、全くそうはいかなくなってしまった。 故に一時期ひどく落ち込んでしまった。だが、気を取り戻して、スペイン語の独習にそれまで以上に必死に向き合わざるを得なくなった。

  時は少し遡るが、スペイン語の学びについてはホンジュラスへの沿海水産資源調査関連の出張時が最初のきっかけとなった。 その後アルゼンチンへの初出張を経て、スペイン語の勉学向上心は一段と高まって行った。JICA人事部が主催する「語学研修初級コース」、 さらに「中級コース」を終えてかなりの時が経った頃のこと、予算がようやく確保されたとのことで、延期されていた「上級コース」が 開設され、真っ先に申し込んでクラス入りした。同じ受講するなら、単に出席率100%の達成だけでなく(出張による欠席は「無罪 放免」であった)、語学の成績もクラスでトップをマークすることで、人事課にその名が伝わり、研修記録に留め置かれるよう受講に 励んだ。実際にもトップクラスの成績をマークできた。

  初級コースを受講し始めた頃は、中南米への赴任願望が芽生えることはなかった。語学研修に取り組む姿勢としては、「まじめに出席にして、 語学成績もそれなりに良」との評価を人事課にアピールしておくのも、何かの時のプラスになるかもしれないと思う程度であった。いわば一般的 な向上心に少し毛が生えた程度の身の入れようであった。だがしかし、「ア」国への出張回数を重ねるにつれて、心境が変わって行った。

  語学研修に真剣に打ち込む姿勢を猛烈にアピールし、「成績優秀」の評価が人事課に伝わるようにしたいと意識するほどに真剣になっていた。 今回の人事課による赴任決裁案のスムーズな承諾も、恐らくはそんな受講姿勢や語学成績がポジティブな評価に結びついたこと、また漁業学校 プロジェクトへの真摯な取り組みが報われた結果であると疑わなかった。憧れのタンゴの国アルゼンチン、「南米のパリ」ブエノス に赴任できるとは、夢のようであった。

  さて、航海・漁具漁法・漁獲物処理の3分野の長期専門家の人選については室長を介して水産庁などにお任せすることで納得していた。 専門家の人選は人脈豊富な室長に委ねられる。いわば室長の専権的事項であった。だが、自身が赴くプロジェクトの「リーダー」の任に就く専門家 については、室長に丸投げとする訳にはいかないという強い思いがあった。

  リーダーと業務調整員(コーディネーター)とは車の両輪であると認識していた。両者の一枚岩的な信頼関係、親和性のある連携プレー や協業関係は、プロジェクトの成否に大きく影響する。チュニジアの「漁業訓練センター」プロジェクトの運営経験からも、そのことを 痛感していた。学んだ教訓の一つは、リーダーと業務調整員との公私にわたる厚い信頼関係がプロジェクトのミッション成就の要となる ということであった。両者の信頼関係は他の専門家の行動態様や指導性発揮にも大きな影響を与えることになると思い込んでいた。

  そこで、室長に人選を丸投げせず、人選の決定に絡むことがベストであると考えた。調整員となる私自身が推薦できるリーダー候補者に 心当たりがあるのかないのか。あるとすれば、是非推薦することが好ましかった。私と一緒に赴任してもらえる候補者はいないか、 真剣に模索を始めた。即座に思い浮かんだのは、チュニジアに3度も団長として参団してもらい、信頼関係を築き上げ、また人柄や気心も 知るところの森敬四郎氏であった。当時「JICA神奈川水産研修センター」の所長の職位にあった。森氏にお願いしてもらえないか、 室長に率直に相談した。

  室長は真摯に耳を傾けてくれた。室長はその後いつの間にか、チュニジア・プロジェクトの過去の運営事情やアルゼンチン・プロジェ クト形成時の諸事情などを呑み込んだ上で、内々に人事課に相談をもちかけてくれていたようであった。ある日突然、「森氏本人、 及び水産庁や人事課とも内々に相談した結果、森さんにリーダーを引き受けてもらえそうである」ことを知らされた。思いの他 そんな明るい見通しではあったが、条件が一つだけあるという。

  当時、森氏は水産庁から「JICA国際水産研修センター」の所長として出向してまだ一年そこそこであった。任期はまだ2年ほど残されていた。 出向期間を1年ほど短縮するという特別な措置が取られるにしても、それが限度であるという。人事当局としては、出向の伸び縮みの ことで組合騒動の火種にならないよう特に配慮する必要があったらしい。今後向こう1年間は所長を勤め上げ、その後プロジェクトへ赴任 するのではどうか、ということであった。少なくとも2年間の出向を確保することを意味していた。従って、一年間ほどリーダー 不在の状態となるが、それでもよしとするかが問われた。

  私的には、その条件を理解し即座に肯定的な返答をした。一年待った後に森氏を派遣してもらえるというのであれば上出来であった。 森氏の派遣を今確実なものにしておかなければ、この先どんなリーダーが選ばれ派遣されて来ることになるか分からないこと であった。全く面識のない未知数のリーダーといきなり現地で「お見合い結婚」するのようなものであった。これではリーダー・調整員の 人選および組み合わせパターンは従前のやり方と何ら変わらないものとなってしまう。

  チュニジア・プロジェクトにおける「リーダー・調整員の信頼関係の重要性」の経験則を生かさずして、自身の「ア」国漁業学校 プロジェクトにおけるミッション成就はない。私はそう確信していたので、リーダー不在のままでも、その間ベストを尽くして事に 当たることを覚悟した。家族の渡航の遅れとリーダーのそれとの二つの壁をどう乗り越えようかと、物心両面において真剣に諸準備を 模索し始めた。

  赴任は1984年4月になった。私の赴任の志願が承諾され、また森所長の着任の見通しも明瞭となり、結果JICA人事部にいわば人事上の 大きな「借り」を作ったことになった。私的には、当時「借り」を作ったという意識など全くなかった。だが、30年以上JICAで時 を過ごすと、若い頃には見えなかったことも、年を重ねることで見えるようになるものであった。

  「ア」国赴任後のJICA人生を振り返れば、人事上の「借り」に対して高い利息を付けて償還することになろうとは、当時にあっては 全く知らぬが仏であった。とはいえ、将来支払うことになるかもしれない人事上のツケというか代償についての中身を予め知り得た としても、「ア」国赴任の志願に向けて名乗りを上げず赴任を諦めることなどありえなかったに違いない。また、森氏の リーダー就任を諦めることもありえなかったはずである。

  さて、赴任に先だって、1980年1月から1984年3月まで勤務した水産室での4年間についてざくっりと総括的に振り返っておきたい。 「独り言」がきっかけで、中米ホンデュラスに次いで「ア」漁業学校プロジェクトを担当することになり、さらに中南米との関わりを 得た。何とラッキーであったことか。水産室での勤務は、国連ニューヨーク本部に海洋法担当法務官としての奉職を志願しアプリケー ション・フォームを送付した後、当該ポストの空席待ちをするにはベストな立ち位置にあった。とはいえ、 面接への実際の呼び出しはずっと来ないままであった。

  実際のところ、水産室への異動後にあっては、国連応募後のことをフォローするどころでなかった。ア首連や「ア」国のプロジェクト の合意形成交渉がまずもって取り組むべき職務であった。4年間に世界各地でのタイプの異なる幾つものの水産関連プロジェクトを運営し、 貴重な実務的ノウハウなどを得ながら国際協力の実践を積み重ねていた。さまざまなハードルを乗り越え、そのゴールに辿り着き、 またミッションを成就することの難しさや真摯な取り組みの大きな価値も学んだ。

  おしなべて見れば、海に回帰し海にまつわるキャリアを積み重ね、その増量アップにつながった。申し分のない 「国連ポストの待機場所」でもあった。国連ポストの空き見通しがたたないことに焦りを感じることなく、また生計維持に何の心配 もすることなく経済的安定の中で待ち続けられたといえる。もっとも、国連ポスト空席事情や応募の行方について、この頃全く気に かけることなく水産プロジェクトの運営管理業務に邁進していた。目の前の水産プロジェクトを遣り遂げ、よりよい成果を得ることが その頃における日常的な最重要テーマであった。

  農林水産省、水産庁などの行政機関をはじめ、遠洋水産研究所や水産工学研究所などの水産研究機関、水産大学校、 北海道大学水産学部、海外漁業協力財団(OFCF)、水産資源開発調査センター、栽培漁業センターなどの多くの 水産関連公益法人、幾つかの民間水産会社などとも関わりをもち、それらの関係者と人脈づくりができたことも大きな財産となった。

  二足のわらじを履き公私共々多忙を極めながらも、最も充実した人生の4年間(1980~1984年)であった。即ち、任意団体にして 非営利の「海洋法研究所」を創始し、その中核的なボランティア事業として、日本にまつわる海洋法制・政策や海洋開発動向などに関する 英語・日本語版の「海洋開発・海洋法ニュースレター」づくりに取り組むこともできた。もっとも、「ア」国への赴任のためにそれらの 全てのチャレンジは中断に追い込まれた。英語版の「海洋白書/年報」の類いの創刊は帰国後に再チャレンジせざるをえなかった。 全て致し方のないことで何の悔いることはなかった。

  水産室では、日本の水産事情・動向だけでなく途上国の水産事情について、国内外の研究機関や公益法人などが発刊するさまざまな 定期学術刊行物の閲覧を通じて学び知る機会をもつことができた。また、JICA図書館は非常に身近な存在であり、世界の水産関連情報 などにアクセスする上で大いに重宝することとなった。

  JICAでは当然に専念義務があった。従って、「海洋法研究所」としての調査研究論文・記事などの作成や情報発信活動については、 全て週末や祭日などの余暇時間をあてがった。2020年代にある現代と違って当時にあっては、誤解を招かないようにするため二足のわらじ を公言することは意図的に差し控えた。だが、自身にとっては、二足のわらじはライフワークを充実させ、自身を 何かといろ成長させ、さらには自身を楽しませてくれた。

  水産室での水産分野での国際協力の職務につき手を抜くようなことは決してなかった。二足のわらじはむしろ二足の相乗効果をもたらして くれた。水産分野は部分的ではあるが自身の専門領域であり、また海への回帰を求め続けてきたことの中核領域をなすものであるので、 手を抜くどころか国内外のあらゆる漁業関連情勢に高いアンテナを張り続け、本来の職務の遂行に大いに還元することができた。 そして、世界各地の発展途上国に展開するJICA水産プロジェクトに遣り甲斐と生き甲斐をもって真摯に向き合うことにつながった。

  さて、1984年4月に単身にて、4度目となる「ア」国への渡航のため機上の人となった。河合君はブエノス事務所に勤務を続けていて 心強かった。オルティス校長らの多くの関係者とは再会が待ち遠しかった。初めての「ア」国出張時に比べれば、 圧倒的に語学能力は向上していた。多少の憂いはあったが、武者震いするほど順風満帆の船出であった。

  水産室での「独り言」が漁業学校プロジェクトに繋がり、赴任の機会をも掴むことになり、さらに海への回帰をさらに 堅固なものにできる立ち位置へと導いてくれることになった。新天地における人生の出立に感謝の上にまた感謝であった。マル・デル・ プラタで待ち受ける前途洋々たる未来に、一人ブエノスに向かう機上にて祝杯を挙げた挙げた。


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