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    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第1節 カナダ・バンクーバー経由で、キューバの海と要塞を訪ねて


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     第21章・目次
      第1節: カナダ・バンクーバー経由で、キューバの海と要塞を訪ねて
      第2節: 香港とマカオの海洋博物館などを訪ねる/2007.7パック旅/2015.11
      第3節: 台湾の基隆・淡江・高雄の海と港を巡り、海洋博物館を探訪する/2016.6パック、2017.2淡江
      第4節: 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる/2017.4
      第5節: ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う/2018.9
      [資料]ポルトガル~ギリシャ旅程略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコダガマ・支倉常長・コロンブス
      第6節: 放浪の旅は続く/世界は面白いものに満ちている


全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」 → [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


  さて、2007年から2009年にかけて中米ニカラグアへ赴任した折のこと、週末や休暇を利用して何が何でもと最初に訪れたかった 国はパナマであったが、その次に足を踏み入れたかったのはキューバであった。赴任して半年ほどしてからパナマへ迷わず旅した。ところが、 別に巡って来た機会を捉えて米国西海岸やメキシコなどに旅したこと、さらにはキューバへの旅計画をあれこれと思案ばかりを重ねて いる間にどんどん後ずれしてしまった。幸いにも、JICA内部規定上治安などを理由にした渡航禁止の対象国ではなかった。  しかし任期末が迫る2年目の後半になって、本帰国の時期から逆算するようになるところまで追い込まれた。キューバへの旅が 赴任中の最後の海外への旅となると考え、旅の具体的プランを相談するために現地の旅行代理店に出入りを重ねた。そして、ついに 航空券の購入直前まで漕ぎ着けていた。だがしかし、例のごとくニカラグア運河ルートの踏査途上の山中で心臓発作に 襲われ九死に一生をえることになり、幻の旅となってしまった。大病でキューバへの弾丸ツアーどころではなく、間もなく帰国となって しまった。

  2011年3月にJICAから完全離職後、月日はあっという間に流れ去っていたが、奇跡の生還を果たして徐々に気力体力が回復して くるなか、キューバへの旅はいつも心のどこかに引っかかっていた。ニカラグアから帰国して4年目を迎えた2015年になって、次女が 放った「キューバに行ってみないか」という誘いの一言が背中をぐっと押した。 時々海外へ足を伸ばし旅を楽しんではいた。そして、キューバ行きを諦めていた訳ではなかった。だが、その夢は遥か遠くのものと 感じていた。それに、中米・カリブに行くならばニカラグアへも足を伸ばし、運河関連のかつての踏査の幾つかの地を含めて、 思い出の地方の町や村などを訪ねて見たいという思いがあった。キューバとニカラグアの旅ルートをどう組み合わせるべきか、 思案をしていたところがあるので、キューバへの旅プランはストレートに前には進んではいなかった。

  ところが、次女が突然何を思ったのかキューバへ旅したいと言い出し、その旅への誘いを受けた。 それを聞いて渡りに船で即同意した。旅は道連れとすぐに乗った。キューバへの旅に親が便乗して出掛けるというのも不思議な感じが したが、全く頓着しなかった。キューバへの旅を実現できなかったのは、まさにニカラグアでの置き土産のせいであった。ニカラグア 運河の踏査を十分やりきれなかったために、心残りの気持ちが強かったからである。 こうして、ニカラグアとキューバを切り離しができたお陰で、キューバへの親子倹約旅行を実現できる機会がようやくというか、 意外と早く巡って来た。 奮起して二人で旅に出たのは2015年2月2日のことで、帰国は同月17日であった。後で知ったことだが、次女は日本で民泊経営にチャレンジ することに関心を抱いていたらしく、キューバでの一般市民による民泊の経営方法や事情などを知って何かの参考にしたいという、 それなりの秘めたアイデアがあったらしい。

  九死に一生を得て奇跡の生還を果たしたが故に生きながらえ、キューバへ旅する機会がこうして巡って来た。あの世に逝っていれば、そんな 旅は全くありえなかった。正しく幻の旅に終わっていたかもしれない旅の実現は願ってもないことであった。それに昨年2014年3月に アルゼンチンまでの35時間近い長距離フライトもやりこなしていた。また、パタゴニア地方を1週間ほど放浪した。健康上何の 支障もなく、体力と気力に自信をもてるようになっていたので、キューバへのフライトも全く不安がなかった。娘はメキシコ経由、 私はカナダ航空でバンクーバー経由とし、バンクーバーで数日滞在することとした。過去に果たせなかった「バンクーバー海洋博物館」などを探訪し、 その後同じキャリアでハバナを目指すこととした。同じキャリアであれば当然飛行賃も割安となり、プラスのサービスも期待でき そうであった。

  何故私はキューバに行こうとしたのか。何をこの目で見たかったのか。ハバナは、コロンブスが1492年に「新大陸」の島に 到達して以来、中南米大陸やカリブ海諸島の征服や植民地化の最前線的な立ち位置にあった。また、船団を組んで中南米の金銀財宝 を本国のセビーリャへと積み出し、本国とを結ぶ中継基地としての歴史的役割を果たす町であった。大航海時代に関心ある者として、 その歴史の一端に触れてみたかった。また、ヘミングウェイは相棒のキューバ人船長を連れだってよく沖釣りに出掛けた。 その体験をベースに「老人と海」を著述した。彼がカリブの海でカジキマグロなどを追いかける実体験をしたのが、フロリダ海峡に 面した小さな漁村コヒマルであった。その漁村を訪ね、沖に広がる紺碧の海を臨む岸辺に佇んで、潮風に吹かれたてみたかった。 彼のハバナ近郊の邸宅は今は博物館となり、そこに保管されている彼の愛艇も見てみたかった。

  スペイン植民地時代の堅牢な要塞などの数々の遺蹟をはじめ、1959年にカストロ兄弟、チェ・ゲバラなどによって成就された 「キューバ革命」の関連史跡や遺物、そして表層的に過ぎないかもしれないが、革命後の今のキューバ社会の実相風景を 見てみたかった。革命後既に半世紀以上が経ち、共産主義的国家建設やガバナンスを貫き通してきたキューバ。米国の厳しい制裁 を受け続けながら、その政治経済社会体制とキューバイズムを貫徹してきた。その結果としての現代キューバの社会経済事情の一端を 垣間見たかった。カストロ兄弟が生きている間にハバナの土を踏んでみたかった。 1990年代初めに東西冷戦が終焉したなか、キューバは国際政治の現実に翻弄されながらどこを目指して国づくりをしようとしているか、 それを思い起こすきっかけにしたかった。

  さて、バンク―バーに2泊寄り道することにし、その後カナダ航空を乗り継ぎキューバに向かうことにした。第一の目途は 「バンクーバー海洋博物館」と「水族館」を訪ねる事であった。第二はウォーターフロントやダウンタウンを改めてゆっくり そぞろ歩きし、「贅沢な時間」を過ごすことであった。バンクーバーの英国ビクトリア朝の街並みは美しく、その取り巻きには 海、湖、川、山、森ありで、その自然環境は埼玉川口に住む私からすれば、羨ましくなるほど自然豊かな都市環境がある。

  ワシントン大学時代、何度か友人とシアトルからバンクーバーへ旅した。ビクトリア朝の街並みをはじめて目にした時には その美しさに驚嘆してしまった。また、友人とカナディアン・ロッキーへ旅する途上でもほんの少し立ち寄った。 JICA時代には、アルゼンチン出張の帰途の折にトランジットで、恩田団長や小圷団員らと共に立ち寄ったこともあり、市街地や近郊の 森林公園やサーモンふ化場などを散策もした。だが、いずれの旅でもすぐ近くを通りながら一度も「海洋博物館」や「バンクーバー水族館」を 訪ねる時間を取れず、素通りばかりでずっと心残りであった。今回やっとの思いで、バンクーバーでの遠い過去での「忘れ物」を 拾い上げて、心の空白を埋めようと試みた次第である。

  「海洋博物館」を訪ね、街中を散策するためだけに今回2泊も投宿し、急がずのんびりと時を過ごしてみたかった。ダウンタウン の目抜き通りで最も賑やかな「グランヴィル・ストリート」に面する戦前風のレンガ造りの安ホテルから南西へ徒歩で、まず、何故か 「フォールス川」と呼ばれるクリーク(入り江)を目指した。グランヴィル・ストリートの裏通りにある車道はヘビのようにくねくね曲がり、車は蛇行しながら ゆっくりと進み、両脇の広い歩道沿いには土産店やお洒落なショップが軒を連ね、なかなか華やかな通りであった。かつて学生時代 に街を訪れた時にはこの界隈をたむろした。蛇行した通りは当時の日本には見かけなかったもので、その発想に驚嘆し目に焼き付け られていた。さて、クリークの岸辺に立つと、対岸にはクリークの中洲である「グランヴィル・アイランド」があり、そこには複合的 商業アミューズメントパークがあった。

  アイランドへは7,8人乗りの可愛い超ミニ水上バスで渡った。そこはブティック、貴金属、ブランド品などの ファッショナブルなショップで埋め尽くされ、また高級なレストランや子どもが喜ぶアミューズメント施設などが整備され、市民や 観光客が憩えるエリアであった。街中に居ながらウォータフロント・リゾートの雰囲気に溢れたパーク内を散策し、時にはクリークに 面した総ガラス張りの日当たりのよいカフェでコーヒーを楽しんだ。眼前のマリーナに係留されるいろいろなクルーザーやヨット を眺めながらゆったりとした贅沢な時間を過ごした。まさに至福の時であった。よく観察してみると、クリーク両岸を渡す可愛いミニ水上 バスがあひるのように行き交っている。そうかと思えば、少し大きめの水上バスがクリーク内の路線水上ルートに沿って運航されて いるようであった。

  米国ワシントン州のシアトルから「州間道ルートNo.5」を北上し、カナダとの国境を越えてカナダ側の「州道ルート99」を通ってそのままダウン タウンに入り、グランヴィル通りへと繋がることになる。その直前には「グランヴィル・ストリート・ブリッジ」というアーチ型の 大橋が架けられている。カフェをしながらその直上に架けられた大橋を見上げた時のこと、突然昔のことを思い出した。 1974-75年の米国留学時代に、シアトルから友人と初めてバンクーバーにやって来た。その時はじめてダウンタウンの摩天楼を仰ぎ見た。 その摩天楼はルート99に架かる大橋を通過する頃に突然現われた。不思議にも何故かその時の情景を鮮明に記憶している。その大橋とは、 カフェをしながら今見上げている橋そのものであることに気付いた。大橋の下にはこのような素晴らしい市民らの憩いの場が広がって いようとは知る由もなかった。2015年のキューバへの旅の寄り道から遡ってちょうど40年前のことの記憶を呼び起こしてしまった。

  実はそのアイランドに足を向けたのには理由があった。アイランドに「船舶模型博物館」があることがネットを通じて 調べがついていた。是非とも寄り道したいと住所を頼りに探したが、影も形もなかった。番地は正しかったが、どうも別の娯楽施設に 鞍替えしてしまっていたようだ。

  その後、徒歩とバスでダウンタウンを横切り、その北側にあるバンクーバー港に面する「シーバス」の 渡船発着場界隈をぶらぶら散策して、気に入った被写体を見つけてはカメラに収めた。渡船発着場の様相は昔の面影を色濃く残していたが、 その隣の大桟橋には大型客船を模したような大型客船専用ターミナルの建物が建設され、近代的ウォーターフロントに再開発されていた。 ターミナルは港湾や出入国の管理事務所・税関だけでなく、港風景や対岸の山々を眺めながらグルメやカフェを楽しめる市民や 観光客の憩いのための複合施設となっていた。ターミナルの地先には水上飛行機の発着海域があり、カフェのガラス窓越しに 海面を滑空し離着陸する飛行機を眺めながら、暫しのんびりと過ごした。

  ターミナルの斜め向かいには、樹林にこんもりと覆われた小高い丘がある。丘全体が「スタンレー・パーク」という市民の憩いの場 となっている。バンクーバー港は奥行きの深い大きな入り江内にあって、丘はその入り江の湾口に突き出し、狭水道に面している。 その狭水道にはサンフランシスコの「ゴールデン・ブリッジ」のような吊り橋型の長大橋が架けられ、その景色は壮観である。 1980年代初期にアルゼンチン出張の帰途30年振りに立ち寄った時が最後の訪問であった。だが、過去一度たりとも、「海洋博物館」にも、 またスタンレーパーク内にある水族館にも訪ねる機会はなかった。個人的趣味で館内見学を最優先させる訳にはいかず、ニアミスばかり を起こしていた。特に博物館と水族館はずっと心残りで、何とか機会を見つけて一度は館内巡覧をしてみたいと秘かに期待し続けていた。 今回はその見学のみを目指してのバンクーバーへの寄り道ゆえに、ようやく希望が叶えられた。

  翌日、海洋博物館に出向いた。カナダの海洋博物館の初めての見学であった。メインの展示は「セント・ロック号」であり、その 実物が屋内展示されている。バンクーバーから北米大陸沿いに北極海を探検し、ついに北西航路を切り拓きカナダ大西洋岸 (Atlantic Canada)へ到達した。さらに逆ルートでバンクーバーへ戻るという往復航海に成功した、世界で初めての船である。 さて、思いがけず興味ある展示に出会った。規模は小さいが、世界の海賊についての特設コーナーが設けられていた。 内容は教科書的ではあったが、私的には海賊の歴史上の人物や史実を学ぶことができた。その他多くの船舶模型をはじめ、ロック号 の北極海探検史料、海上での保安活動などについて展示している。「バンクーバー水族館」は全く新館としてオープンしていた。 その昔パーク内に団員らとともに足を踏み入れものの、水族館(旧館)の前を素通りしたことがある。今は新館となり、かつての 面影は全くなかった。新館内をわくわくしながらじっくり巡覧したが、家族連れや子供たちが楽しみ喜びそうな数々の工夫が施された 近代的な水族館であった。

  さて、ハバナに向かう日がやってきた。50年も前の1970年代中頃に比べて、今や米国のパスポートコントロールでの入国審査や セキュリティ対策は厳重になり、犯罪者やテロリストなどの危険人物、その他お尋ね者の入国を抑制しようと、ピリピリと緊張感が 張りつめている。今や印象の悪くなってしまった米国のそんなイミグレ―ションを全く通ることなく、米国領土を一気に飛び越えることは 片や痛快ではあった。だがしかし、第二の故郷であると自認するシアトルに立ち寄れないことは寂しい限りであった。またの機会もあろう と諦めた。さて、フライトがカリブ海の上空へと差し掛かった時のこと、機内で心臓発作の急病人が発生し、患者を急遽病院へ 搬送するたため、最寄のマイアミ国際空港に緊急着陸することになった。そのためフライトはかなり遅れ、ハバナ到着も深夜になった。 普通の国への渡航ならば何の心配もしないが、キューバのハバナである。何が待ち受けているか気になった。飛行機はついにハバナ 空港に着地した。中南米に関わりをもつようになって30数年になっていたが、初めての国への足の踏み入れはやはりわくわく感が 半端ではなかった。2015年2月のことである。 

  公共バスはなくタクシーしかなかった。民泊先を通じての迎えの車の手配のことは少しは心に止めていたが怠ってしまっていた。 イミグレ―ションは少し時間がかかった。そして、クレジットカードでキューバ通貨を引き出せる「現金支払機・ATM」を探し、通貨 を引き出した。上手く引き出せるのか心配していたが、杞憂に終わった。だが、案の定、タクシー乗り場では長蛇の列であった。 深夜のことでもあり、見たところ台数も少なく、数時間は待たざるをえないことを覚悟した。 行列のすぐ前にフランス人のマドモワゼルと、彼女を迎えに来ていたキューバ人男性ガイドが並んでいた。何と彼女はスペイン語をかなり 話せた。彼らの番が来ても次にいつタクシーがやって来るか当てにできなかった。彼らと雑談しながら、その合間に交渉した。 結果、相乗りさせてもらう話がまとまり、3人で市街地中心部のセントロへ向かった。もちろん、タクシー代は私が負担した。

  彼らは市街地に入る直前の住宅街の一角にあり、中から明るい光が漏れる一軒家で下車した。その後、市街地に入ったようだが、 進むにつれ何か映画ロケのためにセットされたかのような、人の気配が感じられないゴーストタウンのような街並みが続いた。 街灯は裸電球だったかどうか記憶にはないが、通りは淡いオレンジ色の街灯で薄暗く照らされていた。通りには数階建ての集合住宅などが 建ち並んでいたが、とにかく明かりがほとんどなく、薄気味悪いという印象であった。さて、深夜に私の民宿に到着して、さすがに びっくり仰天した。業務で発展途上国に数多の出張を経験し、いろいろな街に足を踏み入れてきたが、これほど仰天する環境に立地 する安宿に泊まったことはなかった。

  宿泊先は「カサ・パルティクラル」、いわゆる政府公認の個人経営の民宿であった。民宿は一人一泊20米ドル、2000円余りで あったが、問題は、アパートのような3階建ての建物とその周囲の環境にあった。タクシーのドライバーに「ほら着いたよ。ここが そうだ」と案内された。一瞬、何かの間違いではないかと思った。民泊経営者自身らが暮らすアパートの館はほとんど真っ暗闇で、しかも、 周囲の様相を目を凝らして眺めると、まるで廃墟とスラムを合わせたように見えた。本当にここが住所の地なのか念を押す始末であった。 「そうだ」という。荷物を抱えて、灯りがほとんどない暗く狭い通りからアパートの敷地へ入った。だが、そこで暫く立ち往生して しまった。敷地ゲートからアパートまで足元を照らす明かりが何一つなく真っ暗闇で、どう進んでよいのか迷うほどであった。 驚いた私は一瞬動揺した自身を落ち着かせた。暫くするうちに目が暗闇に慣れてきて、アパートの階上に通じる階段まで何とか 辿り着けた。廃墟のようなこんなアパートに客が快適に投宿できる部屋があるのか、疑念と心配を胸に暗闇にある階段を上って行った。

  3階の玄関ドアに辿り着いた。そこまで来ると薄暗い裸電球がドアの傍に隠れるように灯されていてほっとした。それが アパート敷地内の唯一の灯りのように思えた。そして、ドアを開けた瞬間、思わず安堵の溜息をついた。小さいながらも普通の リビングが目に飛び込んで来た。食卓や食器棚、椅子などが、居間全体を照らす灯りとともに瞬間的に眼に入った。中に入りもう一度 見渡すと、テレビ、パソコン、ソファー、台所などが備わっていた。兎にも角にも明かりが居間を照らし、狭いながらも温かみのある家庭的雰囲気に包まれていた。主人と夫人が出迎えてくれ、 挨拶を交わした。すぐさま部屋に案内された。部屋は暗かったが2台のベッドが備わっていることが、差し込む廊下の灯りで見て取れた。 第一印象として、居心地良さそうであった。一足先にハバナ入りしていた次女が既にベッドで就寝中であり、安堵した。 かくして、ハバナの深夜の旧市街地風景の強烈な印象が脳裏に焼き付けられてしまった。特にアパートとその周辺環境に抱いた印象 を脳裏から消そうにも消せず、旅で疲れているはずなのになかなか寝つけなかった。

  翌日になってようやく様子が分かって来た。部屋の窓を開け外の様子を眺めた。3階から見えた旧市街の一角の様相にびっくり仰天 した。我われのアパートもそうであったが、周囲の数階建ての多くの建物も、土壁やコンクリートがむき出しのような様相で、全てが 土色であった。カラフルなものは何も目に入らなかった。さて、用意されたトースト、目玉焼きとカフェの朝食にありついた時には、 真に生き返った心地となった。

  その後、民宿先からほぼ2km四方の旧市街地を散策して回った。ハバナの旧市街中心部の様相や 人々の暮らしぶり、治安状況などの片鱗が徐々に見えてきた。因みにスペインゆかりの街らしく綺麗に区画整理がなされ、4,5階建ての 建物が各通りに沿って並んでいる。だが、修理や手入れもままならないと見えて、建物の中には内壁がむき出しで、何の家具調度品 もなく住民が暮らしている風でなかったり、またどこかが崩れ落ち廃屋同然となっている建物が目立った。特に、私の民宿のある地区 では多かった。だから、到着日の深夜にあっては、まさに廃墟の街かゴーストタウンに紛れ込んだような印象をもってしまった のであろう

  旧市街地のなかでも観光客で賑わう中心部では、銀行、レストランやバー、土産物店、両替商などが集中し、そこだけは観光客向けの 別格の「繁華街」であった。米国人アーネスト・ヘミングウェイがその昔長く利用していたホテル「アンボス・ムンド」や、彼がよく通った というバル(スペイン風居酒屋、バーのこと)も繁華街の一角にある。また、植民地時代の要塞や「歴史博物館」、「自然史博物館」、カテドラル などがコンパクトに集中して、大勢の観光客がそぞろ歩きしている。ところで、旧市街をあちこち歩き回って、治安は悪くないこと が分かって来た。ハバナの経済は海外からの観光客によって支えられているところ大きい。自ずと良い治安状況が保たれているのであろう。 警察官は不思議と見かけることはなかったが、治安が悪くなれば市民経済にどんな悪影響がもたらされるのかよく理解されている ものと推察した。私の投宿する民泊周辺地区がどうも廃墟的建物が集中する環境にあることが分かった。それに、 30数年も発展途上国と向き合ってきた私からすれば、人々の貧しさが見え隠れする途上国の現実世界に何の違和感も驚きもしなかったはず であるが、何故か今回の旅においてハバナ市民の質素さや貧しさに驚いた自身に驚いてしまった。だが、人々の清貧さにはさらに 驚かされた。

  さてところで、何故キューバに旅することに一種のマニアック的な強い欲求を抱いていたか。キューバのイメージと言えば、 強烈な太陽、その下にキラキラと輝くエメラルド・グリーンのカリブの海、ビートのきいたサンバなどのカリブ音楽。1950年代の クラシックカーが走り回り、時が止まったかのような世界であり、それらに魅了されてきた。1980年代半ばの35歳前後にアルゼンチン に赴任していた時、チェ・ゲバラのことが時に話題となり、興味を抱くようになっていた。1928年6月生まれの彼はブエノス・アイレス大学医学部で学ぶ 一方、南米大陸をバイクで駆け巡っていた。放浪の旅中、貧困であえぐ中南米の多くの人々に出会い、言葉を交わし、社会経済的格差 や差別などに触れ、多くのことを感じ取り、また人々の貧困と真正面から向き合ったはずである。途上国の国づくりや人づくりの仕事に 身を置いていた私は、彼と共感できる何かを探そうとしていたようだ。キューバでの革命にカストロ兄弟らとのめり込んで行った彼の 心情とどんな重なり合うものがあるのか、知りたくもあった。

  さて、第二次大戦後から間もない1952年、キューバでは軍事クーデターを起こしたバティスタが政権の座についた。 他方、1953年7月26日、兄フィデル・カストロ、弟ラウル・カストロらが主導する119名の反バティスタ・反体制運動武装集団は、 親米派の独裁的バティスタ政権の打倒を目指して、同国東部の町サンティアゴ・デ・キューバにある「モンカダ兵営」を襲撃した。 だが、完全な失敗に終わり、武装集団のほとんどの者が虐殺された。生き延びたカストロ兄弟らのリーダー格については、 高度な政治的裁判にかけられた末、15年の刑期が科せられ収監された。ところが、1955年5月に、バティスタ政権の恩赦によって、 カストロ兄弟を含めた全ての政治犯が釈放されることになった。

  カストロ兄弟らはほどなくメキシコに亡命した。そして、同国で潜伏中、バティスタ政権を打倒すべく組織化と軍事訓練を押し進めた。 このカストロ・グループは、モンカダ襲撃の日に因んで「7月26日運動」(M26)と呼ばれる。さて、メキシコに潜伏中のカストロ兄弟 はチェ・ゲバラと運命的な出会いを果たすことになる。南米大陸を駆け巡る2回目の旅にあったチェ・ゲバラは、メキシコに辿り着いた。そこで、 カストロ兄弟と出会い、ゲバラとカストロらは虐げられた人々の貧困や米国などの支配からの解放を巡って互いに意気投合したという。 そして、ゲバラはキューバの反政府ゲリラ闘争に参加することになった。

  その後、彼らはメキシコで、資金難の状況の中、ようやく、十分とは言い難い数10トンほどのクルーザーを買い込んだ。 その船が「グランマ号(Granma)」である。1943年頃に建造された定員12人のディーゼルエンジン駆動の船であった (「グランマ号」は現在キューバ共産党機関誌の名前にもなっている)。その後、 カストロ兄弟、ゲバラら総勢82名が乗り込んで、1956年11月25日深夜メキシコのトゥスパン(*)を出航し、 1週間後の12月2日に難儀の末マングローブの繁るキューバ東部南岸の地にようやく上陸を果たした。大幅な定員過剰での航海であり、また荒天のために予定より遅延したことなどで、 闘士らの士気は相当低下していたとされる。また、カストロは事前にキューバへの再上陸を公言していたので、上陸直後に バティスタ政府軍に包囲され、ゲリラ部隊側に惨憺たる結果をもたらした。結局逃げ延びることができたのはカストロ兄弟、ゲバラ、 カミーユ・シエンフエゴスらわずか12名だけであった。
* 首都メキシコ・シティ北東部にある、メキシコ湾沿岸の町(Tuxpan de Rodriguez Cano)のこと。

  かくして、反バティスタ政権への武装解放闘争に身を投じたカストロやチェ・ゲバラたちは、その後キューバ国内で25か月にわたる ゲリラ闘争の最初の第一歩を踏み出した。因みに、ゲリラ12人はキューバ南東部にあるマエストラ山脈に逃げ込み潜伏しつつ、 ゲリラ活動を続けた。そして、国内の反政府勢力との合流を果たしつつ、徐々に陣容を立て直し、政府軍との厳しいゲリラ戦を繰り返し ながら山中を転々とした。闘争部隊は、その後カストロ兄弟の部隊とゲバラのそれとの2部隊に分かれ、首都ハバナを目指した。 ゲバラはある地方の町で政府軍の兵器弾薬輸送列車を襲撃し捕獲した。この成功はゲリラ側に勝利をもたらす大きなきっかけをもた らすことに繋がった。かくして、1958年革命ゲリア軍は本格的な攻撃と進軍を展開し、ハバナの制圧を目指した。そして、 1958年12月ハバナは陥落した。翌1959年1月1日になって、ゲバラとカストロ兄弟らゲリラ側はついに、バチスタ大統領を国外逃亡へと追い詰め(バティスタは同年元旦に ドミニカ共和国へ亡命した)、親米政権を打倒し政権を奪取、そして革命を成就させた。同年1月8日には闘争部隊は首都ハバナを 完全制圧し、かつカストロらはハバナ入りを果した。

  カストロ兄弟とチェ・ゲバラ(兄のフィデル・カストロの死後は、弟のラウル・カストロが国家評議会議長を務めた)らが命を 賭けた一連の武装闘争、およびその後の国家体制の大変革は「キューバ革命」と称された。 F.カストロは当初から社会主義革命を目指していた訳ではなかったといわれる。また、米国との敵対関係を希求していた訳でもなかった ともいわれる。だがしかし、米国によってキューバの新革命政権が受け入れられないことを思い知ったカストロは、米国の大企業 資本がもつキューバでの利権を接収・国有化し、そのため関係は悪化して行った。他方、キューバはソ連等の東側陣営と関係強化 を図り、支援を得ようとした。ところが、1990年代初めのソ連崩壊以降には、その支援は低下し苦しい国家運営に置かれた。 超大国・米国との政治外交・経済関係が冷え込み、その制裁はずっと続き、その経済発展は抑制され続けてきた。

  革命家チェ・ゲバラは新政権樹立後、その要職を務め、長く政権を担ってきた。だが、彼はカストロ兄弟らと袂を分かち、アフリカ やボリビアにおける解放戦線に身を投じた。アフリカを離れボリビアでの反政府ゲリア活動に身を投じる中、アンデス山中にて政府軍 に発見・拘束され、時間をさほど置かず政府軍兵士の手で、イゲラにおいて処刑(射殺)された。1967年10月のことで、享年39歳であった。私は大学一年生であった。 その後時は40年以上経た2010年頃のこと、長女が画家修業でスペイン・バルセロナに滞在中にボリビア人の女性と親しくなり大変 世話にもなった。そして、ずっと後になって彼女の口から直接聞かされた話しであるが、当時彼女の父親らは自宅にゲバラらを かくまっていたという。さて、2022年現在では、カストロ兄弟を初め革命時代の指導者たちは政権から全て身を引き、革命後の世代 が政権を引き継いでいる。

  余談であるが、ハバナ市街地の「革命博物館」の傍には、カストロやゲバラら総勢82名の武装闘士が1956年にメキシコから キューバに渡海した時のクルーザー「グランマ号」が保管されている。カストロらにとっては最も大事に保管すべき革命の物証その ものに違いない。船は総ガラス張りの大きな記念館内に収められ、かつ爆破でもされないように兵士らによって厳重に警備されている。 入館は禁止されていてガラス越しの見学のみであった。

    さて、キューバ革命後まもなく米国と国交断絶し、経済制裁などの締め付けをずっと受けることになった。カストロらは社会主義 革命を貫いてきた。かつて米国の資本主義政策の「餌食」となり、国内の政治経済は長く牛耳られていた。革命によって米国から の政治経済的支配からは脱却してきた。だが、かつて革命に駆り立てられたカストロやゲバラたちは、キューバの経済社会発展を どう導きえたのであろうか。革命後半世紀以上経た現在、カストロ反米左派政権はいかなる発展を国民に提示してきたのであろうか。 現実の国際政治のなかでキューバが生存し、世界諸国に伍して国家的発展の未来を切り拓くのは容易いことではなかったが、 医療も教育も無償の世界を実現してきた。政府も国民も富の余りの偏在、経済的格差をよしとせず、ずっとこの方「貧しさを共有」してきた ように見える。その結果、キューバでは一体どんな日常生活の風景が展開されているのであろうか。 キューバ社会の実相を深掘りすることはできなくても、あるがままの町や田舎の実風景や、人々の表情や暮らしぶりの片鱗だけでも 一異邦人として垣間見たかった。そして、キューバについて論じることがあるとすれば、それは何なのか、その視座や視点はどうなのか、そしてどんな 学びが得られるのか、ということに関心を抱いてきた。

  休題閑話。ハバナには4,5日滞在し、中心街を朝から晩までほっつき歩き回った。スペイン・コロニアル風の情趣がたっぷり 遺される旧市街地(セントロ)を心往くまで探索した。ヘミングウェイが1930年代の10年間ほど住み暮らした常宿の「ホテル・アンボス・ ムンドス」を訪ねた。ホテルはハバナ旧市街の目抜き通りの一つである「オビスポ通り(Calle del Obispo)」に面していた。 彼が寝泊まりしていた部屋は、小さな展示室として公開されていた。5階の角部屋の511号室が彼の住処であった。そこには釣り上げた獲物の巨大マカジキ と共に誇らしげに納まる1930-40年代の彼の写真、ゲバラやカストロと肩を並べる古い写真などが飾られている。 部屋にはまた、彼の愛用のタイプライターや釣り具、手紙類などが展示されている。

  ホテルの6階の屋上テラス&バーからは一層見晴らしよく旧市街の街並みが眺望できる。その他、ハバナ港から外海へ通じる長さ 1kmほどの狭いアクセス・チャネル(狭水道・運河)、その運河をはさんて対岸の丘の上に建つ「カバーニャ要塞」や「チェ・ ゲバラ 第一邸」の他、彼の執務室のあった館などを一望できる。正面眼下には「市立博物館」(旧スペイン総督官邸)が建つ。そのパティオ(中庭) にはコロンブスの立像が鎮座する。そのほか、すぐ近傍には「自然史博物館」が控えていた。さて、その屋上バーではじめて本場のモヒート試飲した。ヘミングウェイが愛飲したモヒートは、 ラム酒にスパークリング・ウォーター、ミント、レモン、砂糖などを加えたカクテル(但し、砂糖抜きであったらしい)であった。

  旧市街の目抜き通りといえば、銀行、ショップ、カフェ、レストランなどが並ぶ、歴史と賑やかさのある「オビスポ通り」である。 通りは「プラサ・デ・アルマス(武器の広場)」から始まり、市立博物館や自然史博物館、「ホテル・アンボス・ムンドス」の前を通り、 その少し先にはヘミングウェイがよく通った小さなバーがあり、その通りの行き着くところに、同じく彼がよく通った「バール・ フロリディータ」がある。観光客が探訪する市街地エリアは、「アルマス広場」から1,2kmの範囲内に集中している感がある。 街中の普通の建物を改造して設けられたミニ水族館が観光客用に何気ない通りの一角にあった。キューバ周辺海域のトロピカルな 魚に好奇心を掻き立てられ道草した。ハバナ港の一角に観光客のために設置された大型メルカード(市場)があり、キューバ土産 としての木工細工、絵画、民芸品、その他雑貨などを扱う数多くのショップが軒を連ねている。市街地のあちこちにある食用油など の政府配給品を扱うミニショップの他、観光客や裕福な市民が出入りし、品揃いも豊富な大型スーパーマーケットなど、 後学のために探索してみたりした。また、市街地のみならず、郊外にあるアグリメルカード(農産物市場)や果物市場など幾つか巡り、 庶民の台所事情を垣間見た。市場での野菜・果物の品揃いは豊富で、人々で活気付いていることの意外さに驚かされた。

  さて、「アルマス広場」からも狭水道(運河)からも遠くないところに遊園地公園があって、その一角にサムライ姿の仙台藩士 ・支倉常長の銅像が立つというので足を運んだ。銅像は「プエルト通り 」(マレコン Malecónとも称される) 沿いに建ち、日本を 望郷するかのようであった。江戸時代の1600年代初期に、仙台藩主・伊達政宗の命を受けて、慶長遣欧使節を率いてスペインに上陸後、ローマへと旅した。 銅像の台座銘板に刻まれる説明書きを要約すれば、以下の通りである。支倉常長は1613年に仙台を出立した。当時の仙台藩主伊達政宗の 命で、「発見の時代」にあったヨーロッパに向けて、友好親善大使の資格にて派遣され、太平洋と大西洋を横断し、スペインそして ローマに到着した。そこで国王フェリペ3世とパウロ5世教皇との謁見が許された。支倉常長は異国の地での多くの窮乏に耐えて、 様々な困難を克服し、彼の使命を果たし、7年の苦難の旅の末、懐かしい故国の地に戻った。1614年7月に、スペインへ向けて大西洋を 横断する途上において、船はハバナの町に寄港した。彼はキューバの地に足を踏み入れた、史上初の日本人の一人であった。

  ところで余談だが、1519年にスペイン人によって建設されたハバナは新大陸植民地支配の中心地となり、またスペインと新大陸 との貿易の中継地として繁栄した。1545年には、現在の南米ボリビアのアンデス山中において「ポトシ銀山」が開発された。そこで 豊富な銀が安価に採掘され始め、1500年代後半には大量の銀が生産されるに至った。銀インゴットの輸送ルートの一つはパナマ~ハバナ 経由であった。即ち、銀山から陸路でペルーのリマへ、リマのカジャオ港からパナマ市に海上輸送された後、パナマ地峡の「カミーノ・ レアル」(王の道、スペイン王に通じる道)を横断し、ポルトベーリョ(Portobelo)へ。そこから再び輸送船に積み込まれ、ハバナ港へ と集められた。その後はスペインのセビーリャへと輸送された。海賊からの略奪から防御するために、1500年代中期には5~600トン規模 の船へと拡大し、さらには1000トンクラスのガレオン船へと発展した。また、海賊対策として、ハバナから船団を組んで大西洋横断 の途に就くことが多かった。

  さて、1492年コロンブスが新大陸(現在の西インド諸島のエル・サルバドール島)へ到達後、キューバ島西部の北岸の入り江に スペイン人が入植し、その居住地としたのは1519年のこととされる。それがハバナの始まりである。 スペインはその後、キューバを重要拠点の一つにして、メキシコやその他の中米地域、さらに南米大陸全土へとその勢力圏を広げて行った。 ハバナは16世紀後半に、新世界で最初に要塞化された。そして、ハバナは、特に17~18世紀にかけて新大陸との植民地貿易の重要 拠点、あるいは中継地として隆盛を極めた。繁栄のピークを迎えたのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけてであった。 他方、ハバナが繁栄するにつれ、英国・オランダ・フランスなどの新興列強諸国の敵対・対抗勢力からの武力攻撃に対し、 さらにはカリブ海を跋扈する海賊による略奪行為に常に警戒と防御を怠るわけにはいかなかった。

  ハバナをハバナらしくさせているのは、スペイン統治時代の要塞などが遺される旧市街地のコロニアル風街並みだけでなく、 1950年代の米国製乗用車が国中を走り回り、今ではクラシックカーのオンパレードを観ることができること、そしてあたかも1950年代に タイムスリップできることである。ハバナでしか見れない独特の情趣を醸し出している。あたかもハバナの旧市街は1950年代で 時が止まっているかのようである。世界中を探してもそんな風景に出会える世界はないように思える。

  さて、敵対国や海賊からハバナを防御するため、ハバナ湾口(カリブ海からハバナ港へのアクセス運河の出入り口)の両岸に、 植民地時代の16~18世紀にかけて築造された4基の堅牢な要塞がある。最も訪れたかったのは、市街地にあるそれらの歴史的遺物であった。 しかも2基の要塞内には海洋にまつわる歴史文化展示館が設営されている。それらを是非とも見学したかった。ハバナを訪れて見て 何故スペインは港をハバナに築造したのか、分かり過ぎるほどよく分かった。

  ここで要塞築造の略史を少し紐解いてみたい。
(1)運河の出入り口の先端部に2基の要塞が築造されている。先ず、北側の岬の突端部の高台に「モーロ要塞(Castillo de los Tres Reyes Magos del Morro)」が、そしてその南側の対岸の市街地区で、かつ海沿い平地に「プンタ要塞(Castillo de San Salvador de la Punta)」が、16世紀末から17世紀にかけて、数十年間の歳月をもって築造された。そして、かつては2基の要塞の間には、運河 をまたいで太い鉄鎖が張られ、敵船や海賊船によるハバナ市街やハバナ港への侵攻を防いでいた。 両要塞は潜在的侵攻者らに対して多くの大砲が睨みを効かせ、軍事的威圧感を与えていた。特に「モーロ要塞」はカリブ海最強の砦 といわれた。

(2)運河を1kmほど内陸へ進んだ両岸には、先ず南側の市街低地に「フエルサ要塞(Castillo de la Real Fuerza)」が、そして北側 高台に「カバーニャ要塞(Fortaleza de San Carlos de la Cabaña)」が築造された。「フエルサ要塞」は16世紀半ばに築造が 開始され、同後半に築き上げられたもので、ハバナ最古の要塞である。創建時は木造であったが、石造りに再建された。

(3)4基の要塞のうち最後に築造されたのが「カバーニャ要塞」である。1762年に「モーロ要塞」を迂回して岬に上陸した英国軍 によっていわば背後から侵攻され、同要塞は11か月間ほど占領されたという屈辱の歴史をもつ。そのことから、防御体制を強固にするため、 18世紀後半の1774年に「カバーニャ要塞」が新たに築造されたという経緯がある。その後、スペインは条約に基づき、フロリダを 英国に譲渡するかわりに、「モーロ要塞」の占拠が解かれ返還を受けた。

  特にポトシ銀山が開発されて以降、ハバナの街や港がさらに発展し、新大陸の金銀財宝を輸送する船団の集結地となったのか、 その理由が行ってみて分かった。入り江はいわば酒徳利のような形で、外洋から幅100メートル、長さ1kmそこそこの狭水路(アクセス運河 /Canal de Entradaと称される)を辿ると、その奥に 大容積の海が広がり、そこにハバナ港がある。フロリダ海峡を横切りハバナに近づくと岬に小髙い丘が見える。 実はその背後に狭水路と内海が隠されている。つまり、北風や偏西風が遮蔽され、かつ外敵から完全に防御される最良の狭水路と 内海がある。まさに天然の良港中の良港である。外洋とはその狭水路でのみ通じている。

  植民地時代、特に17~18世紀にかけて、ハバナは新大陸との植民地貿易の拠点あるいは中継地として隆盛を極めた。 他方で、英国などの敵対国からの攻撃や海賊による略奪などに常に警戒を怠るわけにはいかなかった。 故に、堅牢な要塞が狭水道沿いに4基も築かれ、大砲で睨みを効かせ、防御を固められてきた。そして、中南米のメキシコ、ペルー、 ラ・プラタのスペイン副王領からベラクルス、ポルトベーリョ、マラカイボなどを経由して、金銀財宝がこのハバナに運び込まれた。 そして財宝は、少なくとも年1回本国からの船団に積み込まれ、セビージャへと輸送された。そして、スペイン王国の財政を16世紀以降 数世紀にわたり支え続けた。

  市街地の一角にある「国立自然史博物館」やコロンブス銅像が中庭(パティオ)に建つ「市立歴史博物館」 (旧スペイン 総督官邸)のすぐ近くに位置する「フエルサ要塞」の中に海洋展示室が幾つか設けられている。1500年代中期にアンデス山中の「ポトシ 銀山」で採掘された銀のインゴットや植民地時代の銀貨、コロンブスの旗艦「サンタ・マリア号」などの多くの帆船 模型を初め、航海用具、帆船の船体構造・艤装模型など、スペインやハバナを軸とした海洋交易や中南米植民地統治の歴史・文化の 一端が展示される。

  余談だが、ポトシ(Potosí)は、南米ボリビア南部のアンデス山中の標高3,500~4,000メートルにある町である。 1545年に当地で銀山が発見された。以後豊富な銀が安価に採掘され始め、1500年代後半には 大量の銀が生産されるようになっていた。 特に1570年代に導入された「水銀アマルガム法」(精錬法の一つ)、および「ミタ (mita)」という先住民族のインディオに割り当て られた強制労役制度によって、銀の生産量は飛躍的に増加して行った。そして、ポトシは、メキシコの「サカテカス (Zacatecas) 銀山」 とともに、新大陸における銀山の代名詞になった。西語の「potosí」は「無尽蔵の富」を意味する一般語となっている。既述の通り、ポトシ産出の銀インゴットは、パナマ・シティ~パナマ地峡(カミーノ・ レアル)~ポルトベーリョを経て、ハバナに一旦集積され、スペインから派遣されたガレオン船団によって本国へと輸送された。

  海洋展示室は「モーロ要塞」にも設営されている。運河入り口北側の岬突端の岩山に石垣を積み上げた堅牢な「モーロ要塞」 には2つの海洋展示室が設けられ、コロンブスの第一回探検航海の船隊3隻の模型とともに、彼の4回に渡る航海のルート図や 探検史を語るパネル、ピンソン船長らの絵画などが展示される。またその隣室には、英国侵攻部隊兵士が「モーロ要塞」の背後から 攻め上がり、ついに要塞を攻め落とし一時期占領したことを描写する戦争画の他、英国艦船が要塞に向け激しく砲撃する海戦の 様を描いた絵画など数十点が展示されている。なお、羅針盤、天体高度観測器、四分儀などの航海器具も多くはないが陳列される。

  さて、日を改めてコヒマル(Cojímar)には2月8日に出掛けた。首都ハバナから海岸沿いに車で20~30分の東方の地にコヒマル(Cojímar)という小さな 漁村がある。ハバナもコヒマルもキューバ島の北岸沿いにあって、 メキシコ湾流(ガルフ・ストリーム)が大河となって 流れるフロリダ海峡に面している。湾流域は、 世によく知られた、マーリン (英語marlin; マカジキ) などの大物釣りの絶好の海域である。 1954年のこと、米国人作家アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899-1961)がノーベル文学賞を受賞した。 コヒマルはその受賞に大きく貢献したとされる彼の傑作「老人と海」の舞台になったところである。小説の着想は、コヒマルの漁師が巨大カジキを釣り上げたという実話から得たといわれる。 コヒマルには小さな入り江があって、その入り口には小さな要塞「トレオン・コヒマル」が建つ。その傍らには、ヘミングウェイの死後、 漁村の漁師らが錨などの鉄を持ち寄って鋳造し建てた彼の胸像が据えられている。

  ヘミングウェイはフロリダ半島沖合に浮かぶ島「キー・ウェスト (Key West)」 に12年間ほど暮らした後、 1939年にハバナへと生活拠点を移した。 同年から1960年までの21年間(彼の生涯のほぼ3分の1)をキューバで過ごした訳である。 ハバナの旧市街にある「ホテル・アンボス・ムンドス Hotel Ambos Mundos」を常宿にしていたが、ハバナ郊外の「サンフランシスコ・デ・ パウラ」(ハバナ南東の郊外15㎞ほどにある)という小漁村近くの丘の上に建つ大きな屋敷に移り住んだ。 彼の旧邸宅は「フィンカ・ヒビア  Finca Vígia」として知られる (「ビヒア」とは望楼、「フィンカ」とは別荘のことで、「望楼のある別荘」という 意味である)。

  ヘミングウェイは愛艇の「ピラール号」を漁村コヒマルに碇泊させるとともに、愛艇に乗ってマーリン (marlin, マカジキ) などの大物を追いかけて、湾流(ガルフ・ストリーム)の流れるフロリダ海峡沖へと数え切れないほど船出した。 愛艇の船長はキューバ人漁師のグレゴリオ・フエンテス(Gregorio Fuentes)であった。彼はグレゴリオに全幅の信頼を寄せていた。 彼にとってグレゴリオは船長であるとともに、よき話し相手、飲み友達であり、大の友人であった。 ヘミングウェイ自身の湾流での大物釣りの実体験、グレゴリオとの長く深い交わり、そしてコヒマルの漁師たちとの交流などの 全てを 結実させたものといえるのが、彼の傑作「老人と海」である。彼はそれを「フィンカ・フィビア」で書き綴った。そして、1952年に出版した。 1954年には、ノーベル文学賞を受賞するにいたった。

  彼が愛艇を係留し、よく釣りに出かけたというコヒマルの海辺には、彼の行きつけのレストラン&バー「ラ・テラーサ」がある。 日改めてそのレストランを訪ねた。そこには、彼の写真などが飾られている。彼が厚い信頼を寄せていたピラール号船長のグレゴリオ・ フエンテスの肖像画や写真、フィデル・カストロ国家評議会議長 (当時) とヘミングウェイが大物釣りの大会時に談笑する写真 (年代不詳)、ゲバラと彼との談笑写真などがバーの壁に飾られている。また、入り江に臨むレストランには、船長や友人と談笑した テーブルとイスが当時のままに残されている。「着席御遠慮下さい」とのプレートが置かれ、彼の特別専用席となっている。 私もそのバー(スペイン語でバール)のカウンターで彼の愛飲した例のモヒートを飲んでみた。キューバ葉巻は持ち合わせていなかった。 10年以上喫煙していなかったが、葉巻を持参し吸ってみるべきであった。

  さて、さらに日を改めて、ヘミングウェイの旧邸宅と愛艇「ピラール号」(ピラールとは聖母マリアの名前)を訪れた。邸宅の書斎には沢山の本、 愛用の机・椅子や家具、ベッドなどが残されている。彼は低く目の本棚の上にタイプライターを置き、立ったまま執筆したという。 愛艇はかつてコヒマルに繋がれていたが、今は邸宅に陸揚げされ保存され、私の眼前にあり、もう少し手を伸ばせば触れられそう であった。彼が何度も着座したに違いない艇尾のトローリング・チェアを眺めた後、少し肩の力を抜いた。彼の死後、遺言により 旧邸宅や愛艇など全てがキューバ政府に寄贈された。現在は「ヘミングウェイ 博物館」となっている。フィデル・カストロやチェ・ゲバラらによるキューバ革命が成就した1959年1月から2年半後の1961年7月に、 ヘミングウェイは母国アメリカでライフル銃をもって自ら命を絶った。グレゴリオは2002年104歳にてこの世を去った。

  米国租借地があるキューバ島東部のサンチアゴ・デ・クーバという歴史ある都市に行きたくて、キューバ航空直営の切符取扱い事務所 へわざわざタクシーで足を運んだが、フライトの予約も購入もできないことが分かった。1か月後も同じだという。 路線バスで行くには24時間ほどかかるらしく、諦めることにした。そこには米国が租借する有名な「グアンタナモ基地」 がある。また、そこにもスペイン統治時代の堅牢で巨大な要塞「サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城(Castillo de Morro)」があり、 館内には海洋関連の展示がなされているという。 サンチャゴへの旅は絶望的となっていたものの、ふと思いついて、日本人スタッフが勤務する旅行代理店を訪ね、地方都市へのバス ツアーの可能性を探ることにした。さて運よく、2泊3日の地方ツアーに空きがあり、40人ほどの外国人観光客に混じってジョイン できることになった。

  車窓に流れる田舎地方の牧歌的な田園風景を眺めながら、ハバナから500kmほど離れた地方都市へ足を伸ばすことができた。 最終的にはそれぞれに歴史や景観など特性の異なる4つの都市を周遊することができた。そのうち、シエンフエゴスの町は、 最も印象深いものであった。かつてサトウキビなどの大プランテーション経営で財をなしたフランス人植民者たちによって 築かれた町であった。興味はその町というよりも、途中、ガイドに頼んで、名前は忘れたが、ある歴史的に有名な渓谷に立ち 寄ってもらった。その渓谷には広大な平野部が広がり、見渡す限りサトウキビが栽培されていた。キビを収穫し製糖工場に運び 込む鉄道も敷かれていた。今もレールが遺る。かつてこの大農園では大勢の黒人奴隷が酷使されていた。農園主の邸宅近くには 奴隷を監視するために建てられた、高さ50mほどの見張り塔が今も残っている。それを見上げた時、コロンブスが新大陸を「発見」 して以来、大西洋をまたぐいわゆる「大三角貿易」によって、アフリカからカリブ諸国・南米大陸に連れてこられた数多の黒人が 400年以上も重労働に耐えて耐え忍んで来た過去を思わずにはおられなかった。

  ツアーはその他トリニダードという都市へも周遊した。旧市街がユネスコ世界文化遺産となっていて、市街地に建つ教会の鐘楼 からはコロニアル風の街全体を見渡すことができた。見下ろす風景は世界遺産らしく、スペイン植民地時代の面影を色濃く残し、 フォトジェネティックであった。この都市もかつて西欧人らの大プランテーション経営で繁栄した町である。ツアー途中、チェ・ ゲバラが率いる反政府部隊が、政府軍側の武器弾薬輸送列車を襲撃し大打撃を与えたという、歴史的現場を訪れたりもした。 また、チェ・ゲバラの遺体が埋葬されている「霊廟・記念館」を訪れる機会を得た。撮影禁止であった。

  今回の地方都市ツアーはキューバの滞在を非常にリッチなものにしてくれた。牧歌的な田園地帯の風景を道中沢山観ることができた。 周遊した都市は観光地としてどこもそれなりに整備されている印象をもち、本当の庶民の暮らし振り、生活実態はほとんど垣間見ることすら できなかった。ハバナの民泊での宿泊費は一泊20ドルほどであった。それは一般公務員の給与の1か月分であると聞かされていた。 民泊経営者は、ドルの現金収入がある一方、普通の庶民は手に入れがたいパンやバター、ジャム、砂糖などを宿泊客用への提供という ことで容易に入手できるはずである。ドル収入に対する納税金は高いであろうが、客からのチップなどで副収入で潤うことは考えられる。 いずれにせよ、外国人観光客相手のキューバ人はそうでない一般人に比べて圧倒的に実入りがよいという話はよく聞くところである。 一般庶民への配給は少なくなりつつあるとも聞く。一体庶民は生活をどのように成り立たせているのか、なかなか見えないところであった。

  ある小さな博物館でガードマンのような職員が共産党機関紙(政府の正式広報新聞)である「グランマ」を読んでいたので、 それを売ってほしいとストレートに頼んだ。彼は急な話に驚いた様子で、最初は渋っていた。だが交渉を続けるうちに、 5ドルで買うことができた。彼は党機関紙を外国人に個人的に売ってもいいものか一瞬迷った表情をした。次に得た金をどうすれば いいものか、上司に報告すべきか、ポケットにねじ込んでおくべきか迷った風であった。想像に過ぎないが、交渉の過程と表情などから そのように感じた。一般市民は何を思い、何をもって生業とし、本当はどんな暮らしぶりなのか、教育や医療面ではすべてタダであるも 社会保障や仕事、生活の満足度、社会的課題や悩み、特に「貧しさのシェア」についてどう思うのか、これからも関心をもって 学び、理解を深めていきたい。次回キューバを訪れたら、スペイン語を駆使して本音を深掘りしてみたい。






[資料]ヘミングウェイ関連の略史

・ 1899年、米国イリノイ州のシカゴ郊外の町オーク・パークに生まれる。

・ 5年ほどのパリ生活を終えて、米国フロリダ半島南西沖に浮かぶ小島にある港町キー・ウェスト (Key West) に12年間ほど暮す。
(当時の邸宅が博物館として公開されてきた。彼は大のネコ好きで、邸内には当時の愛猫の数え切れないほどの子孫が住みついてきた)

・ 1939年、キー・ウェストからキューバのハバナに生活拠点を移す(同年から1960年までの21年間、即ち生涯のほぼ3分の1を キューバで過ごした)。 そして、ハバナ郊外のサンフランシスコ・デ・パウラ(ハバナの東方14㎞ほどにある)という小漁村近くの丘の上に邸宅をかまえるまでは、 ハバナの旧市街にある⌈ホテル・アンボス・ムンド Hotel Ambos Mundos⌋を定宿にした。
(ホテル5階の511号室が彼の部屋であった。その部屋から旧市街の他、外海からハバナ港に通じる運河、その運河沿いに建つモーロ要塞や カバーニャ要塞などを望見できる。同室は現在も一般公開され、当時の手紙類、タイプライター、釣り具などが展示されている)。

・ その後、サンフランシスコ・デ・パウラの邸宅に移り住む。⌈フィンカ・ビヒア⌋ (望楼をもつ別荘の意味; Finca Vígia) として知られる。 彼はそこで⌈老人と海 (The Old Man and the Sea, El Viejo y el Mar)⌋ を執筆した。邸宅敷地内には、 かつてコヒマルに停泊させ、大物釣りに用いられた愛艇⌈ピラール号⌋(Pilar; 聖母マリアの名前)が保存されている。

・ 1952年、⌈老人と海⌋が出版される。 彼はほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期にかけて書き上げたが、⌈老人と海⌋は彼の作品のうちでも晩年に 近い小説となった。翌1953年、ピューリッツアー賞を受賞する。

・ 1954年、ノーベル文学賞を受賞する。⌈老人と海⌋はその受賞に大きく寄与した作品となった。

・ 1959年1月、キューバ革命が成就する。即ち、1959年1月、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ等が率いていた革命軍が首都を制圧し、 20年以上独裁的政権を率いていたバティスタ大統領はドミニカ共和国に亡命し、政権は崩壊する。
(ヘミングウェイはそのニュースを米国アイダホ州サンバレーで知らされた。革命の3か月後にキューバへ一時帰国する)。

・ 1961年1月、米国はキューバと国交断絶するにいたる。
・ 1961年7月、ヘミングウェイ、ライフル銃にて自殺。享年62歳であった。
・ 1967年10月、チェ・ゲバラはボリビアの山中で捕まえられ、その翌日射殺される。

・ 2015年3月現在、米国オバマ政権はカストロ政権と国交正常化に向けた外交交渉を行なっている。
オバマ大統領の任期の残余期間中に両国外交関係がどう正常化され、現在まで半世紀以上も続いてきた米国による対キューバ経済制裁が どう解除されて行くのか、世界的に注視されている。
(フィデル・カストロが国家評議会議長を退いた後は、キューバ革命を共にした実弟のラウル・カストロが議長職を引き継いで来た。


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全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」 → [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第1節 カナダ・キューバの海と船と要塞を訪ねて


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     第21章・目次
      第1節: カナダ・バンクーバー経由で、キューバの海と要塞を訪ねて
      第2節: 香港とマカオの海洋博物館などを訪ねる/2007.7パック旅/2015.11
      第3節: 台湾の基隆・淡江・高雄の海と港を巡り、海洋博物館を探訪する/2016.6パック、2017.2淡江
      第4節: 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる/2017.4
      第5節: ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う/2018.9
      [資料] ポルトガル~ギリシャ旅程略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコダガマ・支倉常長・コロンブス
      第6節: 放浪の旅は続く/世界は面白いものに満ちている