2007年から2009年にかけて中米ニカラグアへ赴任した折のこと、週末や有給休暇を利用して何が何でもと最初に訪れたかった
国はパナマであったが、その次に足を踏み入れたかったのはキューバであった。赴任して半年ほどしてからパナマ運河を一目見たくて
迷わずパナマへ旅した。その後には、巡り巡って来た機会を捉えて米国西海岸やメキシコへ旅したこと、さらにキューバへの旅
計画をあれこれ思案ばかりを重ねているうちにその探訪機会はどんどん後ずれしてしまった。
幸いにも、キューバはJICA内部規定上治安事情を理由にした渡航禁止の対象国ではなかった。しかし任期末が迫る2年目の後半
になって、本帰国の予定日から逆算するようになるところまで追い込まれた。キューバへの旅が
赴任中の最後の海外への私的な旅となると考え、旅の具体的プランを相談するために現地旅行代理店に出入りを重ねた。そして、ついに
航空券の購入直前まで漕ぎ着けることができた。だがしかし、「ニカラグア運河」の候補ルートの踏査途上の山中で心臓発作に
襲われてしまった。そのためキューバへの旅は幻となってしまった。急転直下キューバへの弾丸ツアーどころではなく、間もなく
帰国せざるをえなくなってしまった。
ニカラグアから本帰国後1年余り勤務した「健康管理センター」を最後に、2011年3月にJICAから完全離職後、月日はあっという間
に流れ去っていたが、徐々に気力・体力が回復してくるなか、キューバへの旅のことが事あるごとに蘇るようになっていた。
ニカラグアから帰国して4年目を迎えた2015年のある日、次女が突然漏らした「キューバに行ってみないか」という誘いの一言が私の
背中をぐっと押した。時々異国へ足を伸ばし旅を楽しんではいた。そして、キューバ行きを諦めていた訳ではなかった。だが、その夢は遥か遠くのものに
なりつつあると感じていた。
他方、中米・カリブ海方面に行くのであればニカラグアへも足を伸ばし、かつて踏査していた運河候補ルートの幾つかの地を含めて、
思い出の地方都市や辺境の村なども併せて訪ねて見たいという思いがあった。キューバとニカラグアの旅をどう組み
合わせるべきかを思案していたところであったので、キューバ一か国への旅プランは片隅に追いやられていた。
ところが、次女が突然何を思ったのかキューバへ旅したいと言い出し、その旅への誘いを受けた。
それを聞いて渡りに船との思いで即同意した。次女の旅に親が便乗して出掛けるというのはしっくりと来なかったが、頓着することでも
なかった。キューバへの旅に踏み切れなかったのは、まさにニカラグアでの置き土産のせいでもあった。「ニカラグア運河」ルートの
踏査を十分やりきれなかったために、先ずはニカラグアへの旅を優先したいとの気持ちであった。
兎にも角にもこうして、ニカラグアとキューバとの切り離しができたお陰で、キューバへの「親子倹約旅行」を実現する機会が
意外と早く巡って来たと喜んだ。奮起して二人して旅に出たのは2015年2月2日のことで、帰国は同月17日であった。後で知ったことだが、
次女は日本で外国人旅行者用の民泊経営にチャレンジしたいとの強い関心を抱いていたらしく、ハバナでの一般市民による民泊個人経営
の方法や事情などを探ってその参考にしたいというアイデアを秘めていたらしい。
ニカラグアで九死に一生を得て生きながらえてきたお陰で、キューバへ旅する機会がこうして巡って来た。自然淘汰されてしまっていれば、
そんな旅などはありえなかった。正に幻の旅に終わっていたはずである。他方それに、健康上何の支障もなく、体力と気力に自信をもてる
ようになっていた。因みに、昨年2014年3月にはアルゼンチンまでの35時間近い長距離フライトも無事やりこなし、またパタゴニア地方
での1週間ほどの放浪の旅もこなしえた。健康上キューバへのフライトも全く不安はなかった。
次女はメキシコ経由、私はカナダ航空でバンクーバー経由とし、バンクーバーで数日間滞在することにした。過去に果たせなかった
「バンクーバー海洋博物館」などを探訪し、その後同じキャリアでハバナを目指すこととした。同じキャリアであれば航空賃も少しは
割安となり、プラスのサービスも期待できそうであった。
何故キューバに旅し何をこの目で見たいと願っていたのか。ハバナは、コロンブスが1492年に「新大陸」の島に
到達して以来、スペインによる中南米大陸やカリブ海諸島の征服や植民地化の最前線という立ち位置にあった。かつて船団を組んで中南米の金銀財宝
を本国のセビーリャへと積み出していた。即ち、本国とを結びつける中継基地としての歴史的役割を果たしていた。大航海時代に関心
ある者として、その歴史の一端を示す遺物遺跡などに触れてみたかった。
また、米国人作家アーネスト・ヘミングウェイは相棒のキューバ人船長を連れだってフロリダ海峡域へよく沖釣りに出掛けたとされる。
その体験をベースに「老人と海」を著述した。彼がカリブの海でカジキマグロ(英語でmarlin、マーリン)などの大物を追いかけていた
のが、同海峡に面した小さな漁村「コヒマル」であった。その漁村を訪ね、沖に広がる紺碧の海を臨む岸辺に佇んで潮風に吹かれたてみたかった。
彼のハバナ近郊の邸宅は今は博物館となり、そこに保管される彼の愛艇も見てみたかった。
スペイン植民地時代の堅牢な要塞などの数々の遺蹟をはじめ、1959年にカストロ兄弟、チェ・ゲバラなどによって成就された
「キューバ革命」の関連遺物や史跡、そして表層的に過ぎないかもしれないが、革命後の今のキューバ社会の実相風景の中に身を
置いてみたかった。革命後既に半世紀以上が経ち、共産主義国家の建設やガバナンスを貫き通してきたキューバである。米国の厳しい
政経上の制裁を受け続けながら、その政経社会体制とキューバイズムを貫徹してきた。その結果としての現代キューバの実相をその
一端であっても垣間見たかった。カストロ兄弟が生きている間にハバナの土を踏んでみたかった。
1990年代初めに東西冷戦が終焉したなか、キューバは国際政治情勢に翻弄されながらも、どこを目指して国づくりをしようとしているか
を思い起こすきっかけにしたかった。
さて、バンク―バーに2泊の寄り道をすることにし、その後カナダ航空を乗り継ぎキューバに向かうことにした。第一の目途は
「バンクーバー海洋博物館」と「バンクーバー水族館」を訪ねる事であった。第二はウォーターフロントやダウンタウンを改めてゆっくり
そぞろ歩きし、贅沢な時間を過ごしたかった。バンクーバーの英国ビクトリア朝の街並みは美しく、その自然環境として
海、湖、川、山、森が取り巻く。埼玉・川口に住む私からすれば、羨ましくなるほどの豊かな自然に抱かれた都市環境にある。
ワシントン大学留学時代(1974~75年)、何度か友人とシアトルからバンクーバーへ旅した。ビクトリア朝の街並みをはじめて目に
した時は、その美しさに驚嘆し感動した。また、友人とカナディアン・ロッキーへ旅する途上でも、ほんの暫く立ち寄ったことがある。
JICA水産室勤務時代には、アルゼンチン出張の帰途にトランジットした折、元水産庁次長・恩田調査団長や水産庁国際協力室長代理の
小圷団員らと共に立ち寄り、その美しい市街地をそぞろ歩きし、また近郊の森林公園(スタンレーパーク)やサーモンふ化場などを散策
したりもした。だが、いずれの旅でも、すぐ傍を通りながら一度も「海洋博物館」や「水族館」に立ち寄る時間に恵まれず、
素通りばかりでずっと心残りとなっていた。今回やっと遠い過去における「忘れ物」を拾い上げ、その空白を埋められそうであった。
「海洋博物館」を訪ね、街中を散策するためだけに2泊も投宿し、急がずのんびりと時を過ごそうと務めた。ダウンタウン
の最も賑やかな目抜き通りの「グランヴィル・ストリート」に面する、レンガ造りのいかにも戦前風の安ホテルに転がり込んだ。
そこから南西へ徒歩で、「フォールス川」と呼ばれるクリーク (入り江) を目指した。当時には「グランヴィル・ストリート」の一本
裏通りにある車道はヘビのようにくねくね曲がり、車は蛇行しながらゆっくりと進んでいた。両脇の広い歩道沿いには土産店やお洒落な
ショップが軒を連ね、なかなか華やかな通りであった。
留学時代に街を訪れた時にこの通りをよくたむろし、強烈な印象が残っていた。
何故なら「蛇行通り」は当時の日本には全く見かけなかったもので、その着想のユニークさや面白さが印象的で強く目に焼き付け
られてた。さて、クリークの岸辺に立つと、対岸にはクリークの中洲である「グランヴィル・アイランド」があり、そこには複合的
商業施設のコンプレックス兼アミューズメントパークがあった。
アイランドへは7~8人乗りの可愛い超ミニ水上バスで渡った。そこはブティック、ブランド品、貴金属などの
ファッショナブルなショップで埋め尽くされ、また品格のあるレストランや子どもが喜ぶアミューズメント施設などが整備され、市民や
観光客が憩えるエリアであった。街中に居ながらウォータフロント・リゾートの雰囲気に溢れるパーク内を散策し、時にはクリークに
面した総ガラス張りの日当たりの良いカフェテリアで朝のコーヒーを楽しんだ。眼前のマリーナに係留されるいろいろなクルーザーやヨット
を眺めながら、ゆったりとした贅沢な時間を過ごした。まさに至福の時であった。よく観察してみると、クリーク両岸を渡す可愛いミニ水上
バスがあひるのように行き交っている。そうかと思えば、少し大きめの水上バスがクリーク内の路線水上ルートに沿って運航されて
いるようであった。
かつての留学時代、シアトルからインターステートのフリーウェイ「ルートNo.5」を北上し、カナダとの国境を越えて
「ブリチッシュ・コロンビア州道ルートNo.99」を通ってそのままダウンタウンに滑り込んだ。「ルート99 」はそのまま「グラン
ヴィル通り」へと繋がることになる。その直前には「グランヴィル・ストリート・ブリッジ」というアーチ型の大橋が架けられている。
カフェをしながらその直上に架けられた大橋を見上げた時のこと、突然昔のことを思い出した。
留学時代にシアトルから友人と初めてバンクーバーにやって来た。その時はじめてダウンタウンの摩天楼を仰ぎ見た。
その摩天楼は「ルート99」に架かる大橋を通過する頃に突然現われた。何故か不思議にもその時の情景を鮮明に記憶している。
その大橋とは、カフェをしながら今見上げている橋そのものであることに気付いた。大橋の下にはこのような素晴らしい市民の
憩いの場が広がっていようとは、あの当時知る由もなかった。
2015年のキューバへの往きの旅の寄り道から遡ってちょうど40年前の記憶を呼び起こしてしまった。
実はそのアイランドに足を向けたのには理由があった。アイランドに「船舶模型博物館」があることがネットを通じて
調べがついていた。是非とも寄り道したいと住所を頼りに探した。番地は正しかったが、形も影もなかった。別の娯楽施設にどうも
鞍替えされてしまっていたようだ。
その後、徒歩とバスでダウンタウンを横切り、その北側にある「バンクーバー港」の一角にあるフェリーの「シーバス」の
発着場界隈をぶらぶら散策して、気に入った被写体を見つけてはカメラに収めた。フェリーは「バンクーバー湾」をはさんで北岸に
あるベッドタウンと南岸のダウンタウンとの間をシャトル運航されていた。その渡船発着場は昔の面影を色濃く残していた。発着場の隣の大桟橋は近代的
ウォーターフロントへと再開発され、大型クルージング外航船専用ターミナルとなっていた。
ターミナルには港湾や出入国関係の管理事務所や税関施設が陣取ってもいる。また、湾の対岸に連なる山々や港風景を眺めながらグルメ
やカフェを楽しむ、市民や観光客の憩いのための複合施設ともなっていた。ターミナルの地先には水上飛行機の発着海域があり、カフェテラスの
ガラス窓越しに、海面を滑空し離陸する水上飛行機を眺めながら、再びのんびりと贅沢な時間を過ごした。
ターミナルの斜め向かいには、樹林にこんもりと覆われた小高い丘がある。丘全体が「スタンレー・パーク」という市民のウォー
キングやジョッギングなどの憩いの場となっている。「バンクーバー港」は奥行きの深い大きな入り江(バンクーバー湾)内にあって、
その湾口に突き出した丘によって狭水道が形成されている。その狭水道にはサンフランシスコの「ゴールデン・ブリッジ」にそっくりな
吊り橋型の長大橋が架けられ、その情景は壮観である。
1980年代初期にアルゼンチン出張への帰途30年振りに立ち寄ったのが最後の訪問であった。だが、過去一度も「海洋博物館」にも、また
スタンリーパーク内の「水族館」にも訪ねる機会はなかった。トランジットにあるとは言え、個人的趣味でそれらの施設への
見学を優先させる訳にはいかず、ニアミスばかりを起こしていた。特に博物館と水族館はずっと心残りで、何とか機会を見つけて
一度は館内巡覧してみたいと秘かに期待し続けていた。今回はそれらの施設の見学のみを目途にしたバンクーバーへの寄り道故に、ようやく
訪問が叶えられた。
翌日、海洋博物館に出向いた。カナダにおける海洋博物館への見学は今回が初めてであった。メインの展示は「セント・ロック号」であり、その
実物が屋内展示されている。バンクーバーから北米大陸沿いに北極圏の海を探検し、ついに「北西航路」を切り拓き、カナダ大西洋岸
(Atlantic Canada)へ到達した。さらに逆ルートでバンクーバーへ戻るという往復航海に成功した、世界で初めての快挙を成し遂げた船である。
さて、思いがけず興味が湧く展示に出会った。規模は小さいが、世界の海賊についての特設コーナーが設けられていた。
内容は教科書的ではあったが、私的には海賊の歴史上の人物や史実を学ぶことができた。その他多くの船舶模型をはじめ、「ロック号」
の北極海探検史料、海上での保安活動などについて展示している。「バンクーバー水族館」は全く新館としてオープンしていた。
その昔パーク内に団員らとともに足を踏み入れたものの、水族館(旧館)の前を素通りするだけに終わったことがある。今は新館となり、かつての
面影は全くなかった。今回新館内をわくわくしながらじっくり巡覧することができた。家族連れの子供たちが楽しめ喜びそうな数々の
仕掛けが施された近代的な水族館であった。
ハバナに向かう日がやってきた。半世紀も前の1970年代中頃に比べて、今や米国のパスポートコントロールでの入国審査や
セキュリティ対策は厳重になり、テロリストなどの危険人物、その他お尋ね者の入国を抑止しようと、ピリピリと緊張感が
張り詰めている。印象の悪くなってしまった米国のそんなパスポートコントロールを全く通ることなく、米国領土を一気に飛び越えることは
内心痛快ではあった。だがしかし、第二の故郷と自認し片思いのままであるシアトルに寄り道できないことは寂しい限りであった。またの
機会もあろうと諦めた。
フライトがカリブ海の上空へと差し掛かった頃のこと、機内で心臓発作の急病人が発生し、患者を急遽病院へ
搬送するたため、最寄のマイアミ国際空港に緊急着陸することになった。そのためフライトはかなり遅れ、ハバナ到着も深夜になってしまった。
普通の国への渡航ならば何の心配もしないが、キューバのハバナである。何が待ち受けているか気になった。飛行機はついにハバナ
空港に着陸した。中南米に関わりをもつようになって30数年になっていたが、初めての訪問国キューバへの足の踏み入れはやはりわくわく感が
半端ではなかった。2015年2月のことである。
公共バスはなくタクシーしかなかった。民泊先を通じて迎えの車を手配してもらうことは少しは気に止めてはいた。だが、
怠ってしまっていた。パスポートコントロールには少し時間がかかった。そして、クレジットカードでキューバ通貨を引き出せる「現金支払機・ATM」を探し、通貨
を引き出した。上手く引き出せるのか心配していたが、杞憂に終わった。だが、案の定、タクシー乗り場では長蛇の列であった。
深夜のことでもあり、見たところ台数も全く少なく、数時間は待たざるをえないと覚悟した。
行列のすぐ前にフランス人のマドモワゼルと、彼女を迎えに来ていたキューバ人男性ガイドが並んでいた。何と彼女はスペイン語が
かなり堪能であった。彼らの番が来ても次のタクシーがすぐにやって来るか当てにできなかった。彼らと雑談しながら、その合間に交渉した。
結果、相乗りさせてもらう話がまとまり、3人で市街中心部(セントロ)へ向かった。もちろん、タクシー代は遠隔地に向かう私が負担した。
彼ら二人は市街地のはずれの住宅街の一角にあって、中から明るい光が漏れる一軒家の前で下車した。その後、タクシーは市街地
に入ったようだが、何か映画ロケのためにセットされたゴーストタウンのような街並みを進んだ。
街灯は裸電球だったかどうかは記憶にないが、通りは淡いオレンジ色の街灯で薄暗く照らされていた。通りに沿って数階建ての集合住宅などが
建ち並んでいたが、明かりがほとんどなく薄気味悪いという印象であった。さて、深夜に私が泊まる民宿に到着して
びっくり仰天した。業務で発展途上国に数多くの出張を経験し、いろいろな街に足を踏み入れてきたが、これほど仰天する環境に立地
する宿に身を置いたことはなかった。
宿泊先は「カサ・パルティクラル」、いわゆる政府公認の個人経営の民宿であった。民宿は一人一泊20米ドル、2000円余りで
あったが、問題は、アパートのような3階建ての建物とその周囲の環境にあった。タクシーのドライバーから「ほら着いたよ。ここが
そうだ」と促された。一瞬、何かの間違いではないかと思った。民泊経営者自身も暮らすアパートの館はほとんど真っ暗闇で、しかも、
周囲の様相を目を凝らして眺めると、まるで廃墟とスラムを合わせたように見えた。
本当にここがメモ書きの住所に言う民宿のある地なのか念を押す始末であった。
「そうだ」という。荷物を抱えて、灯りがほとんどなく暗くて狭い表通りからアパートの敷地内へと足を踏み入れた。だが、そこで暫く
立ち往生してしまった。敷地に入るゲートからアパートの上り階段まで足元を照らす明かりが何一つなく真っ暗闇で、どう進んで
よいのか迷うほどであった。一瞬動揺した私は自身を落ち着かせた。暫くするうちに目が暗闇に慣れてきて、アパートの階上に通じる
階段まで何とか辿り着けた。廃墟のようなこんなアパートに客が快適に投宿できる部屋が用意されているのか。懸念を抱きつつ
暗闇の中をたどたどしい足取りで階段を上って行った。
3階の玄関ドアに辿り着いた。薄暗い裸電球がドアの傍に隠れるように灯されているのを見てほっとした。それが
アパート敷地内の唯一の灯りのように記憶する。そして、ドアを開けた瞬間、思わず安堵の溜息をついた。小さいながらも普通の
リビングが目に飛び込んで来た。灯りに照らされた居間には食卓や椅子、食器棚などがあった。
中に入りもう一度見渡すと、テレビ、パソコン、ソファー、台所などが普通に備わっていた。兎にも角にも、ほのかな明かりが居間
を照らし、狭いながらも温かみのある家庭的雰囲気が醸し出されていた。
主人と夫人が出迎えてくれ、挨拶を交わした。すぐさま部屋に案内された。部屋は暗かったが2台のベッドが備わっていることが、
差し込む廊下の灯りで見て取れた。第一印象として、居心地良さそうであった。一足先にハバナ入りしていた次女が既にベッドで
就寝していて、先ずは安堵した。かくして、ハバナの深夜の旧市街風景が強烈な印象となって脳裏に焼き付けられてしまった。
特にアパートとその周辺環境の印象が脳裏から消えず、旅で疲れているはずなのになかなか寝つけなかった。
翌日になってようやく様子が分かって来た。部屋の窓を開け外の様子を眺めた。3階から見えた旧市街地の様相にびっくり仰天
した。我われのアパートもそうであったが、周囲の数階建ての多くの建物も、土壁やコンクリートがむき出しのままになった様相で、全てが
土色であった。カラフルなものは何も目に入らなかった。さて、用意されたトースト、目玉焼きとカフェの朝食にありついた時には、
真に生き返えることができた。
その後、民宿先からほぼ2km四方の旧市街地を散策して回った。ハバナの旧市街中心部(セントロ)の様相や
人々の暮らしぶり、治安状況などの片鱗が徐々に見えてきた。因みにスペインゆかりの街らしく碁盤目状に区画整理がなされ、4~5階建ての
建物が各通りに沿って並んでいた。だが、修理や手入れもままならないと見えて、建物の中には内壁がむき出しで、何の家具調度品
もなく住民が暮らしている風でなかったり、またどこかが崩れ落ち廃屋同然となっている建物が目立った。特に、私の民宿のある地区
ではそんな建物が多かった。だから、到着日の深夜にあっては、まさに廃墟然とした街かゴーストタウンに紛れ込んだような印象を
もってしまったのであろう。とはいえ、ハバナ市当局からすれば、再開発や修復の途上にあるということらしい。もっとも、予算不足
で遅々としているとか。
旧市街地のなかでも観光客で賑わう中心部では、銀行、レストラン、バー、土産物店、両替商などが集中し、そこだけは観光客で
溢れ返る別格の「繁華街」であった。米国人アーネスト・ヘミングウェイがその昔長く利用していたホテル「アンボス・ムンド」や、
彼がよく通ったというバール (スペイン風居酒屋、バーのこと) も繁華街の一角にある。また、植民地時代の要塞やカテドラル、
「歴史博物館」、「自然史博物館」などがコンパクトに集中し、大勢の観光客がそぞろ歩きしていた。
ところで、旧市街をあちこち歩き回って、治安は悪くないことが分かって来た。ハバナの経済は海外からの観光客によって支えら
れているところが大きい。警察官は不思議と見かけることはなかった。治安が悪くなれば一般市民経済にも大きな悪影響がもたら
されることになると、一般市民たちにもよく理解され、彼らの努力によっても良い治安状況が保たれているのであろう。
私の投宿する民泊周辺地区がどうも廃墟のような建物が集中する環境にあることが分かった。それに、
30数年も発展途上国と向き合ってきた私からすれば、人々の貧しさが見え隠れする途上国の現実風景に何の違和感も驚きも抱かな
かったはずであるが、今回の旅においてハバナ市民の質素さや貧しさに驚く自分がいたことに何故だか自身で驚いてしまった。
だが、人々の清貧さにはさらに驚かされた。
ところで、何故キューバに旅することにマニアック的な強い希望を抱いていたのか。キューバのイメージと言えば、
さんさんと降り注ぐ強烈な太陽、その下にキラキラと輝くエメラルド・グリーンのカリブ海、ビートのきいたサンバなどのカリブ音楽
である。また、1950年代のクラシックカーが走り回り、時が止まったかのような異空間であり、それらに魅了されてきた。
1980年代半ばの35歳前後の頃にアルゼンチンに赴任していた時、チェ・ゲバラのことが時に話題となり、興味を抱くようになっていた。
1928年6月生まれの彼はブエノス・アイレス大学医学部で学ぶ一方、南米大陸をバイクで駆け巡ったという。放浪の旅中、貧困であえぐ
中南米の多くの人々に出会い、言葉を交わし、社会経済的格差や人種差別などを体感し、多くのことを肌で感じ取り、また人々の貧困にも
真正面から向き合っていたに違いない。途上国の国づくりや人づくりの仕事に身を置いていた私としては、彼と共感できる何かを探そうと
していたのかも知れない。キューバでの革命にカストロ兄弟らとのめり込んで行ったチェ・ゲバラの心情を推し測り知りたくもあった。
さて、第二次大戦後から間もない1952年、キューバでは軍事クーデターを起こしたバティスタが政権の座についた。
他方、1953年7月26日、兄フィデル・カストロ、弟ラウル・カストロらが主導する119名の反バティスタ・反体制運動武装集団は、
親米派の独裁的バティスタ政権の打倒を目指して、同国東部の地方都市「サンティアゴ・デ・キューバ」にある「モンカダ兵営」を襲撃した。
だが、完全な失敗に終わり、武装集団のほとんどの者が虐殺された。生き延びたカストロ兄弟らのリーダーたちについては、
高度な政治的裁判にかけられた末、15年の刑期が科せられ収監された。ところが、1955年5月に、バティスタ政権の恩赦によって、
カストロ兄弟を含めた全ての政治犯が釈放されることになった。
カストロ兄弟らはほどなくメキシコに亡命した。そして、同国で潜伏中、バティスタ政権を打倒すべく組織化と軍事訓練を押し進めた。
このカストロ・グループは、モンカダ襲撃の日に因んで「7月26日運動」(M26)と呼ばれる。さて、メキシコに潜伏中のカストロ兄弟
はチェ・ゲバラと運命的な出会いを果たすことになる。南米大陸を駆け巡る2回目の旅中にあったチェ・ゲバラは、メキシコに辿り着いた。
そこで、彼はカストロ兄弟と出会い、虐げられた人々の貧困からの脱却や米国などの支配や抑圧からの解放を巡って互いに
意気投合したという。そして、チェ・ゲバラはキューバの反政府ゲリラ闘争に参加することになった。
その後、彼らはメキシコで資金難の中ようやく、十分とは言い難い数10トンほどのクルーザーを買い込んだ。
その船が「グランマ号 (Granma)」である。1943年頃に建造された定員12名のディーゼルエンジン駆動の船であった
(「グランマ号」は現在キューバ共産党機関誌の名前にもなっている)。その後、
カストロ兄弟、ゲバラら総勢82名が乗り込んで、1956年11月25日深夜メキシコのトゥスパン(*)を出航し、
1週間後の12月2日に難儀の末マングローブの繁るキューバ東部南岸の地にようやく上陸を果たした。
大幅な定員過剰での航海であり、また荒天のために予定より遅延したこともあって、
闘士らの士気は相当低下していたとされる。また、フィデル・カストロ(兄)は事前にキューバへの再上陸を公言していたので、上陸直後に
バティスタ政府軍に包囲され、ゲリラ部隊に惨憺たる結果をもたらすことになった。結局逃げ延びることができたのはカストロ兄弟、チェ・
ゲバラ、カミーユ・シエンフエゴスらのわずか12名だけであった。
* 首都メキシコ・シティ北東部にある、メキシコ湾沿岸の町(Tuxpan de Rodriguez Cano)のこと。
かくして、反バティスタ政権への武装解放闘争に身を投じたカストロやチェ・ゲバラたちは、その後キューバ国内で25か月間にわたる
ゲリラ闘争の最初の第一歩を踏み出した。因みに、ゲリラ12人はキューバ南東部にあるマエストラ山脈に逃げ込み潜伏しつつ、
ゲリラ活動を続けた。そして、国内の反政府勢力との合流を果たしながら、徐々に陣容を立て直し、政府軍との厳しいゲリラ戦を繰り返し
つつ山中を転々とした。
闘争部隊は、その後カストロ兄弟の部隊とチェ・ゲバラのそれとの2部隊に分かれ、首都ハバナを目指した。
ゲバラはある地方の町で政府軍の兵器弾薬輸送列車を襲撃し捕獲した。この成功はゲリラ側に勝利をもたらす大きなきっかけを生む
ことに繋がった。かくして、1958年革命ゲリラ軍は本格的な攻撃や進軍を展開し、ハバナの制圧を目指した。そして、
1958年12月ハバナは陥落した。翌1959年1月1日になって、カストロ兄弟とチェ・ゲバラらのゲリラ側はついに、バティスタ大統領を国外逃亡へと追い詰め(バティスタは同年元旦に
ドミニカ共和国へ亡命した)、親米政権を打倒し政権を奪取、そして革命を成就させた。同年1月8日には闘争部隊は首都ハバナを
完全制圧し、かつカストロらはハバナ入りを果した。
カストロ兄弟とチェ・ゲバラ(兄のフィデル・カストロの死後は、弟のラウル・カストロが国家評議会議長を務めた)らが命を
賭けた一連の武装闘争、およびその後の国家体制の大変革は「キューバ革命」と称された。
F.カストロは当初から社会主義革命を目指していた訳ではなかったといわれる。また、米国との敵対関係を希求していた訳でもなかった
ともいわれる。
だがしかし、米国によってキューバ新革命政権が受け入れられないことを思い知ったカストロは、米国の大企業
資本がもつキューバでの利権を接収・国有化した。そのために関係は悪化して行った。他方、キューバはソ連などの東側
陣営と関係強化を図り、支援を得ようとした。ところが、1990年代初めのソ連崩壊以降は、その支援は減退し苦しい国家運営を余儀なくさせられる
ことになった。超大国・米国との政治外交・経済関係が冷え込み、米国による制裁はずっと続き、キューバの経済社会的発展は抑制され続けてきた。
革命家チェ・ゲバラは新政権樹立後、その要職を務め長く政権を担ってきた。だが、彼はカストロ兄弟らと袂を分かち、アフリカ
やボリビアにおける解放戦線に身を投じた。アフリカを離れボリビアでの反政府ゲリラ活動に身を投じる中、アンデス山中にてボリビア政府軍
に発見・拘束され、時間をさほど置くことなく政府軍兵士の手で、同国のイゲラにおいて処刑(射殺)された。1967年10月のことで、彼は
享年39歳であった。当時私は大学生になったばかりの頃であった。
余談であるが、その後時は40年以上経た2010年頃のこと、長女が画家修業でスペイン・バルセロナに滞在中にボリビア人の女性と親しくなり大変
世話にもなった。そして、ずっと後になって彼女の口から直接聞かされた話であるが、当時彼女の父親らは自宅にチェ・ゲバラらを
かくまっていたという。何と言う奇遇であることか。さて、2022年現在では、カストロ兄弟をはじめキューバ革命時代の指導者たちは
政権から全て身を引き、革命以後の世代が政権を引き継いで今に至っている。
ハバナ市街地の「革命博物館」の傍には、カストロやチェ・ゲバラなど総勢82名の武装闘士が1956年にメキシコから
キューバに渡海した時のクルーザー「グランマ号」が保管されている。カストロらにとっては最も大事に保管すべき革命の象徴的物証その
ものに違いない。船は総ガラス張りの大がかりな特別の記念館の建物内に収められ、かつ兵士らによって厳重に警備されている。
入館は禁止されていてガラス越しの見学のみであった。
さて、キューバ革命後まもなく米国と国交断絶し、経済制裁などの締め付けをずっと受け続けることになった。カストロらは社会主義
革命を貫いてきた。かつて米国の資本主義政策の「餌食」となり、国内の政治経済は長く牛耳られていた。革命によって米国から
の政治経済的支配からは脱却してきた。だが、かつて革命に駆り立てられたカストロやチェ・ゲバラたちは、キューバの経済社会発展を
どう導き得たであろうか。革命後半世紀以上経た現在、カストロ反米左派政権はいかなる発展を国民に提示してきたのであろうか。
現実の国際政治と米国からの制裁下においてキューバが生存し、世界諸国に伍して国家的発展の未来を切り拓くのは容易いこと
ではなかったはずだが、医療も教育についても国民に無償提供することを実現してきた。政府も国民も富の余りの偏在、経済的格差を
よしとせず、ずっとこの方「貧困共有」してきたように見える。そうしたなか、キューバ国民は一体どんな日常生活を送り続けて
いるのであろうか。
キューバ社会の実相を深掘りすることはできなくても、先ずはあるがままの町や田舎の実風景や、人々の表情や暮らしぶりの
片鱗だけでも一人の異邦人として垣間見たかった。そして、キューバについての思いを論じることがあるとすれば、その視座や視点は
何であろうか、そしてどんな学びを得ることができるのか、長く関心を抱いてきたところである。
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