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    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第2節 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて


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       第21章・目次
      第1節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第2節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第3節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第4節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


メキシコの旅2008年 12.27土 マナグア→エルサル→ガテマラ→メキシコ , Camino Real Airport Hotel 100ドルでテオティワカン。 12.28日 Zo’calo、Catedral Metropolitana、 Templo Mayor、Museo Naval、Veracruz、 Howard Johnson Hotel 12.29月 Malecon、Faro, Zocalo, Museo Naval、Acuario, Museo Buque Canonero 12.30火 Escuela Nautica, 漁船溜り、Castillo, Museo Naval Mexico City 12.31水 A Managua

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メキシコの港湾都市ベラクルス(カリブ海)の地先に築造された「サン・ファン・デ・ウルア要塞」。英国人海賊フランシス・ ドレークはこの港に停泊中スペイン艦隊に襲撃され命からがら脱出し、本国の英国に逃げ帰った。 [拡大画像]

同上、「サン・ファン・デ・ウルア要塞」。ほぼ全景。 [拡大画像]


  メキシコのカリブ海沿岸の港町ベラクルスを舞台にした、歴史上有名な英国人海賊フランシス・ドレークにまつわるエピソードが あることは、同地探訪のずっと後になってから知ることになった。ベラクルスのランドマークである「サン・ファン・デ・ウルア」、 即ちベラクルス港地先に浮かぶ要塞を舞台にしたエピソードである。ドレークはそのウルアでの辛苦の体験をした。即ち、彼の船が同港で ある強襲事件に巻き込まれ九死に一生を得るという体験をした。そのことが彼の脳裏には深く摺り込まれた。「ウルアでの恨みを忘れ るな!」と、いつも心に刻みつけ、そのことを公言してもいた。ベラクルスを探訪する前にこの歴史に刻まれた出来事の仔細を知って いたとすれば、同港の対面の目と鼻の先にある「ウルア要塞」の巡覧は何倍も面白いものになっていたに違いない。

  海賊ドレークとベラクルスや「ウルア要塞」との関わりについての余談へと話を進めたいが、興味をもてそうにない方は次章次節にお進み 頂きたい。彼は数々の海賊行為や海上戦闘の「功績」、さらに世界周航の偉業などから、英国エリザベス女王よりナイトの称号を授けられ、 「サー・フランシス・ドレーク」と呼ばれた。他方、彼の異名は「エル・ドラコ」または「エル・ドラゴ」であった。英国南西部の デボン州に生まれたが、1540年の2月か3月のいずれの生まれなのか、あるいは1543年生まれなのか、はっきりしないという。だが、没したのは1596年1月28日であった。

  先ず、英国人で当時奴隷貿易に深く手を染めていた商人のホーキンズのことから始める。英国人ウィリアム・ホーキンズの次男ジョン・ ホーキンズらは、1562年に3隻の船団で英国南西部に突き出るコーンウォル半島にあるプリモスを出港した。西アフリカで奴隷を仕入れた後に、カリブ海の「エスパニョーラ島」にて奴隷を高値で売ることに成功した。2年後の1564年にも同様の航海をした。そして、1567年に 3回目の航海を計画した時には、エリザベス女王自身もその航海への出資者の一人として名を連ねた。もちろん、奴隷貿易にまつわる 出資であることなど公にできる話ではなかったが、とにかく奴隷を「新大陸」で売りつける商売は成功し、出資者はあまねくそれなりの 富の分配に預かった。

  その昔、エリザベス女王は、海賊たちにいわゆる「私掠免状」を発行し、内々に自らも私掠船団への出資者となっていた。当時の スーパーパワーであったスペインの「新大陸」における植民地への襲撃・略奪をはじめ、スペイン交易船などからの金銀財宝の強奪を 容認していた。そして、その出資額に応じて海賊行為からの莫大な配当金を得ていた。それらの配当金は、英国の王室&国家財政を 大きく支え続けていたことは有名な話である。英国が「海賊国家」と烙印される所以はここにある。

  さて、商売に成功したホーキンズやドレークらは、カリブ海から本国への帰途にフロリダ沖で嵐に遭遇し、船が損傷した。そのため、 止む無く船の補修のためメキシコへ向かうことになった。1568年9月、彼らは「ヌエバ・エスパーニャ副王領」の下にあった「サン・ ファン・デ・ウルア」に入港した。ベラクルス港のことである。ベラクルスの町は大陸本土側にあったが、要塞がその町すぐ対面の 「サン・ファン・デ・ウルア島」に築かれ、堅牢化が重ねられていた。現在でもその要塞が遺され、その偉容を誇っている。

  さて、ドレークの略年表の時間軸をもう少し遡ってひも解くと、1558年以降に、英国の海賊がホンジュラス、ニカラグアなどの 中米地峡のカリブ海沿岸域に出没し始めていた。ドレークも、20歳代中頃、親戚筋にあたるジョン・ホーキンズが指揮する船団に 仲間入りし、彼の下で奴隷の密貿易に従事するようになった。既述の通り、西アフリカで奴隷を安く調達し、「新大陸」の入植地で 生計を営むスペイン人に高く売りつけた。ドレークはその後、船を自ら調達し船長となったうえで、ホーキンズの船団に加わっていた。 そして、ドレークは既に1570年以降には、カリブ海・西インド諸島とスペインを行き来するスペインのガレオン船や、スペイン植民地 の町を略奪するという海賊行為を始めていた。

  ドレークは、中米地峡のカリブ海沿いの街「ノンブレ・デ・ディオス」(現在のパナマのカリブ海沿いにあって、ポルトガル語で 「ポルトベロ」、スペイン語で「プエルトベージョ」という交易中継港市の少し東側に位置する)を襲撃する途上において、 1572年にニカラグアの「サン・ファン川」に侵入したとされる。同河川は、その上流にある「ニカラグア湖」から流れ出て、 カリブ海へと注ぐ唯一の河川で、湖の最奥の湖岸には「グラナダ」と言うスペイン人入植者が築いた町があった。 ドレークがどう侵入したかの史実が分かれば後日に綴ることとして、1573年の「ノオブレ・デ・ディオス」襲撃をもって、 5万ポンド以上の莫大な銀を略奪したという。

  余談だが、更に有名な英国人海賊のヘンリー・モーガンは、1655年の20歳過ぎの頃、メキシコの「カンペチェ湾」、またホンジュラス やニカラグアなどの沿岸で海賊行為を働いていた。そして、先住民のインディオからニカラグアの「グラナダ」の繁栄ぶりを聞き及ん でいたモーガンは、1665年には、全長190kmほどの「サン・ファン川」を一週間かけて遡上し、5日間かけてニカラグア湖北西端の最奥部 へと縦断し、湖畔にある「グラナダ」の町を3日間にわたり略奪し焼き打ちにした。その戦利品・分捕り品として略奪した財は、 50万ポンド貨であった。

  休題閑話。話しは戻って、1568年9月ドレークらは船の修理のため「ウルア港」に入港した。だが、その数日後にスペイン本国との 間を定期的に往来する船団が「ウルア港」に到着した頃から、ドレークらが進めていた船舶修理交渉の雲行きが怪しくなった。 そして、突然スペイン側から奇襲襲撃を喰らった。ドレークらは1隻を失い、残る2隻で辛くも同港から脱出した。当時スペインは 圧倒的なシーパワーをもって、中南米・カリブ海地域の植民地を支配し、後発国の英・仏などを寄せ付けなかった。他国の船が スペイン支配下の港に入るには、スペイン側による安全の保証がなければできなかった。当時、特にスペインと英国との間には、 相互に猜疑心が生まれており敵対的関係にあった。

  突然の襲撃から難を逃れた2隻のうちの1隻は、ドレークが指揮する「ジュディス号」であり、辛うじて同港からの脱出に成功し 英国に向かった。他の1隻はホーキンズが指揮する「ミニヨン号」であった。ホーキンズの船は途中幾多の難局を経て、翌1569年1月 にプリモスに帰還した。「ミニヨン号」での生還者はわずか15人であった。危機一髪で命からがら逃げ延び、九死に一生をえて英国 に逃げ帰えったドレークは、スペインに対し強烈な恨みを抱くことになった。そして、以後、「サン・ファン・デ・ウルアを忘れる な!」を合言葉に、リベンジに燃えに燃え、英国私掠船による対スペイン船への襲撃は激しさを増して行った。

  さらにドレークを有名にしたのは、彼が世界周航を実現した史上二番目の人物となったことである。 フェルディナンド・マゼラン自身は世界周航途上、フィリピン・セブ島での戦闘にてこの世を去った。だが、エルカーノなどの生き残った 部下たちは航海を続け、何とかスペインへの帰還を果たし、もって人類史上初の世界周航者となった。マゼランの場合、 彼が行った過去の東廻り航海と今回の西廻り航海とを合わせれば、世界周航を成し遂げたと言えなくもない。さて、300トンほどの ガレオン船「ゴールデン・ハインド号」を旗艦とする5隻の艦隊で、ドレークは1577年11月、英国南西部の港町プリモスを出航した。

  大西洋を南下し「マゼラン海峡」を通過し太平洋に出た。そこで大嵐に遭遇し、船団は散り散りとなり、「ゴールデン・ハインド号」のみが 南米大陸の太平洋岸沿いに北上することになった。なお、咆哮する嵐の海に立ち向かう過程で、1578年に、「ホーン岬」並びに「ドレーク 海峡」を発見するに至った。ドレークは当初から世界周航を目途に英国を出帆したか否かは議論の余地があるところであるが、ドレーク らは3年の歳月 (1577~80年)をかけて世界周航を果たし英国に帰還した。

  ドレークの航海軸を少し巻き戻すと、彼は太平洋を北上する過程で、チリやペルー沿岸のスペイン植民地やスペイン船などを襲撃し、 莫大な金銀財宝を掠奪した。彼はペルー沖を行きつ戻りつしながらスペインの金銀財宝船を物色していた。 当時アンデス地方を広く植民地支配していた「ペルー副王領」の中心地の一つはリマであり、南米大陸の金銀財宝が集積されていた。 特に1545年頃には、現在のボリビアのアンデス山中において「ポトシ銀山」が開発され、リマの外港であるカジャオはそれらの積出港 でもあった。財宝船を物色する中で、カジャオにて財宝を積み込み、パナマ・シティに向けて北上するスペイン船「カカフエゴ号」に 遭遇した。そして、彼の襲撃は「大成果」を上げた。ドレークの略奪成功は英国王室を喜ばせ、彼の「名声」をさらに高めた。 この史実についてもベラクルス探訪のずっと後に学んだことであった。

  ドレークはその後太平洋を横断し、スパイス・アイランド(香辛料諸島)の「モルッカ諸島」へ辿り着いた。さらにインド洋、 喜望峰を経て、1580年9月にプリモスへ帰還した。帰還したのは「ゴールデン・ハインド号」のみであった。ここに、フェルディナンド・ マゼランに次ぐ史上二人目の世界周航者となった。彼はエリザベス I 世女王に金銀財宝を献上したが、その額は当時の国家歳入よりも 多かったという。この功績でイギリス海軍中将に任命され、また同時にサーの称号が授与された。 英国王室の歴史として、私掠免状を自国の「海賊船]に発付し、彼らが海賊行為で得た分捕り品から相応の「上納金」や「配当金」を 得るという時代があった。だが、見方を変えれば、英国はじめフランス、オランダなどの他の後発諸国によるスペイン船への海賊行為 や植民地攻略・略奪行為は、スペインの「新大陸」統治へのチャレンジであり、またそれを危険にさらすことに他ならなかった。

  ドレークはさらに1587年、スペイン南部のカディス湾内に停泊していたスペイン艦隊を襲撃し、スペイン王室に痛手を負わせた。 翌1588年には、彼はスペインとの「アルマーダの海戦」で英国艦隊副司令官に叙任され、その艦隊の実質的な指揮を執った。 火船を敵艦隊に放つという海賊らしい戦法で、「スペイン無敵艦隊」と謳われた艦隊をドーバー海峡において撃破し、壊滅状態に追い込んだ。 それも大変有名な史実である。

  ドレークは上司の提督らとドーバー海峡の入り口に臨むプリモスの「ポーの丘」で、スペイン艦隊が同海峡に近づいて来るのを、 ゴルフに興じながら待っていた。ドレークがゴルフに耽溺していた訳でない。英国艦隊の指揮官らがおろおろしている姿を部下に 見せれば、彼らの戦闘士気に影響するとのドレークの深謀の配慮から、指揮官らはゴルフに興じるという作戦であったという。

  海賊行為による王室への多額の配当と国家財政への寄与、「スペイン無敵艦隊」への大打撃、世界史上二番目の世界周航と国威発揚など、 半端でない事績を遺したドレークであったが、1596年、パナマのポルトベロ沖で停泊していた折、赤痢のため55歳で他界した。 鉛のお棺に入れられ、ポルトベロ付近の海で水葬に付された。ポルトベロ探訪のずっと後に知ったことである。

  ドレークの旗艦「ヴィクトリー号」の復元船が、ロンドン市街地の「ロンドン橋」近傍の、テムズ川岸沿いの掘り込み式泊地に係留され 一般公開されている。ビルの谷間のプールのような極狭い泊地に繋がれている。スマホなどでしっかりと停泊場所を確認 しながら出掛けて頂きたい。具体的には、「ロンドン橋」から200メートルほど上流で、テムズ川沿いの「St. Mary Overie's Dock」 近くに係留される。「サザーク大聖堂(Southwark Cathedral)」が目印である。最寄りの地下鉄駅は「London Bridge」である。

  話しは変わるが、メキシコから帰国してほぼ2か月後の2009年2月初旬、ペルーの首都リマで中南米・カリブ海諸国所長会議 が開催され、4泊5日の業務出張の機会を得た。ペルーは実質的に初めての訪問国であった。業務が全て終了し、出席者は最終日にそれ ぞれ適宜赴任国へと帰国する手はずであった。帰国フライトの出発時刻はまちまちで、半日近い時間的余裕が生まれた。これを 機に、社会見学のつもりでリマ近郊の「カジャオ地区」界隈を短時間でも散策しようと、市内路線バスに乗って出かけた。

  リマは16世紀にコンキスタドール(スペイン人の征服者)のピサロが築いた町である。そして、カジャオはリマの外港のある地区であった。「カジャオ岬」先端付近には、ペルー水産研究所、国立商船学校、ペルー海軍学校、コーストガードなど、海洋関連の行政・研究・教育 機関が集積されていた。岬から半島北側沿いに伸びる海岸は、砂浜ならぬ小石ばかりの海岸が続き、造船所、漁港、商港の各地区へと 繋がっていた。小石海岸であっても意外にも大勢の市民が海水浴を楽しんでいた。沖合いには、数多くの漁船や貨物船などが停泊し、 海上輸送や漁業活動などの海での営みの活発さが見て取れた。

  海岸沿いに散策を続けると、海軍跡地内にある泊地に「潜水艦アブタオ号」を係留し一般公開する船舶博物館を見つけ、喜び勇んで 見学した。近傍には堅牢な「レアル・フェリペ要塞」という史跡があった。カジャオの港や街が敵船からの防御の重要な対象物であった ことが分かる。

  さらに進むと、元海軍提督ブラウの記念塔が立つ「ブラウ広場」に行き着いた。1879年5月の「太平洋戦争」の「イキケの戦い」の 記念塔も立つ。実は、1879~84年の「太平洋戦争」(別名「硝石戦争」と称される)では、ペルー・ボリビア両軍とチリ軍が戦い、 チリ側に敗北を帰したペル―・ボリビアは一部領土を失い、ボリビアは内陸国になって現在に至るという歴史をもつ。 広場の周囲において、ペルー海軍・海事センター、海洋保安警察管区司令部などの海軍施設などと共に、偶然にも「ペルー海事博物館」 を見つけ、早速館内を駆け足で巡覧した。

  博物館には、16世紀のドイツ帆走軍艦、19世紀中期にカジャオ・バルパライソ(チリ)間の沿岸航路に就航した蒸気貨客船、南極観測船 「フンボルト号」、近代軍艦などの沢山の模型の他、フリゲート艦「メルセデス号」の船首像、航海計器類などが展示される。 南極大陸へのペルーの領土権主張を示すパネル、実物の魚雷その他の軍事兵器類なども陳列されていた。時間に余裕が無く、わずか20分 ほどの見学となり残念であった。

  スペインが16世紀にインカ帝国の征服を押し進め、現在のリマに町を築き次々と征服・植民地化する上で、カジャオは重要な 港の地位を占めて行った。ボリビアのアンデス山中で、「ポトシ銀山」が1545年頃に開発され、インディオらをこき使って、銀の採掘が 長年行なわれた。「ペルー副王領」からの金銀財宝がこのカジャオからから積み出され、パナマ・シティへ、さらにパナマ地峡の 「カミーノ・レアル(王の道、スペイン王国へ通じる道)」という陸路やチャグレス川などを経て、カリブ海沿岸の港町ポルトベロへ。 さらにキューバのハバナを経て本国セビーリャの「通商院」へと運び込まれるルートが確立されていた。

  カジャオからパナマ・シティへのスペイン輸送船団も、時に太平洋岸沖合で海賊に襲われた。既述の通り、ペルー沖を遊弋し「獲物」 を狙っていたドレークの「ゴールデン・ハインド号」によって、財宝輸送のガレオン船「カカフエゴ号」がカジャオ近くで 強奪された。そして、何時の頃からか、財宝輸送ルートはアンデス山脈山中を南へと延伸され、パラグアイの中心都市 アスンシオンを経て、あるいは時の流れとともに別ルートをもって、ブエノス・アイレスへと運ばれるようになった。

  さて、2007年7月のニカラグア赴任から2008年11月までの1年数ヶ月ほどは、海外への旅はほぼ全てプライベートなものであった。 そして、2009年2月になって初めてペルーへ業務出張として国外へ出掛けた。他方、ニカラグア国内での旅は全く真逆で、仕事のための旅 ばかりであった。ほぼ唯一の例外だったのは、2008年2月の、「ニカラグア湖」に浮かぶ「オメテペ島」への宿泊を伴うプライベートな 国内旅行 (週末での1泊2日) であった。2度目の宿泊を伴うプライベートな国内旅行は、何とその1年後の2009年2月のエル・カスティー ジョへの旅であった。いずれにせよ、着任以来、仕事かプライベートであるかを問わず、国内外へ数え切れないほどの旅に出掛けた。 次節で、国内業務の旅とプライベートな旅行譚についてもう少し触れたい。

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ペルー海洋研究所、同研究所の水生調査センター、国立商船学校、ペルー海軍学校、カジャオ海軍本部ペルー海事センター Instituto del Mar del Perú [IMARPE][Callao]
Centro de Investigaciones Acuícolas, IMARPE[Callao]
Escuela Nacional de Marina Mercante [ENAMM}[Callao]
Escuela Naval del Perú [Callao]
Dirección de Hidrografía y Navegación, Marina de Guerra del Perú ペルー海軍水路・航行局[Callao] 海軍(=la marina de la guerra, la marina de guerra);
Centro Naval del Perú, Sede Callao [Callao, peru]
Museo Naval del Perú [Callao]
トトラ舟、カヌー、19世紀の船舶模型、紅海用具、南極観測船「フンボルト号」模型、南極大陸への領土主張パネル、 魚雷、近代軍艦模型、軍事兵器類、 19世紀中期のカジャオ・バルパライソ沿岸航路就航の蒸気貨客船模型、 バイキング船、フェニキア船、16世紀のドイツ帆走軍艦模型、、、。フリゲート艦「メルセデス号」船首像。
Capitanía Guardacosta Maritima del Callao カジャオの海洋保安警察管区司令部.

この前に1879年5月日の「太平洋戦争」のイキケの戦いの記念塔 1879-84っペルー・ボリビアとチリの3ヶ国が戦った戦争。チリの勝利でペル―ボリビアは一部領土を失い、ボリビアは内陸国にいたる。

Museo de Sitio Naval "Submarino Abtao" 海軍跡地博物館「潜水艦アブタオ号」 [Callao]

近くに海軍提督ブラウのブラウ広場、Real Feripe要塞レアル・フェリペ要塞、

  今回ペルーへは業務出張で訪れたが、それが私的な旅であったとしても初訪問は見るもの聞くもの全てが新鮮で、本当にわくわくである。 実質2日間の会議では、ODA予算が縮小する中、また中南米の事務所設置数も減少する中、日本の技術援助の新機軸をどう打ち出し、 どう中南米の途上国の経済社会発展に貢献できるか、真剣に討議された。先行する中進国アルゼンチンやブラジルなどによる中南米域内協力の摸索、 後発国への支援に対する日本の協力の在り方、あるいはアフリカ諸国へのいわゆる「第三国協力」のあり方や有効性を模索する会議となった。 例えば、ブラジルによるアフリカのポルトガル語圏諸国への支援と日本との連携策の模索など。   ベラクルスにドレークのエピソードがあったことのは、エル・ カスティージョ要塞展示室において、海賊やニカラグア運河などに関するパネル展示に接して以後、書物をひも解いたりして知ったこと である。16-17世紀の「新大陸」周縁での歴史を全く知らずに、ベラクルス港ウォータフロントや威容を誇るウルア要塞などをのんびりと散策した。 思いの他実り多い旅を堪能した。 幻に終わったキューバ、ジャマイカ、ベリーズの旅。週末弾丸ツアーならず。 ジャマイカは海賊の島で、英国人海賊モーガンが本拠地にし、また副総督でもあったジャマイカ、さらにはカストロ兄弟が存命中に土を踏みたい とハバナ、キューバへの旅を次は最優先にするつもりで2,3日でもいいから、ニカラグアから旅したいと思っていた。隣国のベリーズには海洋博物館らしきものあるとか、いつもそのチャンスを 狙っていたが、ニカラグアにはベリーズの外交機関がなく、ビザの取得が難しかった。ジャマイカは治安が悪く、公務でなく私的には渡航は 許されず、いろいろ制約があった。だが、いつしか、格段に格安のカリブ海クルーズツアーに参加したいと計画を温めていた。 マイアミからクルージングのパックツアーがあって、6,7日でバハマ、ハイチ、ジャマイカなどをクルーズできた。それも700ドルほどで、 日本からのツアーを思えば圧倒的に安上がりであった。だが、それは叶えられず。ニカラグアの山中で倒れ、夢に終わった。

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    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第2節 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて


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      第1節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第2節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第3節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第4節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する