ニカラグア国内のあちこちへ数多くの日帰り・宿泊の業務出張をこなす一方で、ウォーターフロントや海洋関連施設などを散策
するプライベートな旅もせっせと続けていた。よくよく振り返って見ると、着任以来1年数ヶ月の間に出掛けたプライベートな
旅のほとんどは海外であった。着任後の最初の海外への私的な旅は、先ず「パナマ運河」の社会見学であり、次いで米国西海岸
(カリフォルニア州)のウォーターフロントや海洋博物館巡り、コスタリカの港町プンタレーナス、メキシコの港町ベラクルス
などであった。他方、着任して半年後の2008年2月、週末土日を利用して、同僚3人にさそわれて、一泊二日の初めての国内旅行に
出かけた。行き先は「ニカラグア湖」に浮かぶ瓢箪のような形の「オメテペ島」であった。
ニカラグア湖は中南米地域ではチチカカ湖に次ぐ大きさで、しかも淡水湖中に存在する島としては世界最大と言われるオメテペ島が湖上に
浮かぶ。同島には、標高1500メートルほどの富士山のような円錐形の活火山「コンセプシオン山」と「マデーラ山」がペアで仲良く
そびえ立ち、その島影を湖上に映し出す。その情景は風光明媚と表現する他ない。太平洋と同湖との間に「リーバス」という地方都市
があるが、その近傍の湖畔にある「サン・ホルヘ港」を発着場とする定期フェリーが同島との間をシャトルしている。
赴任する数年前に青年協力隊員が同島の火山に登山中大けがを負い、地元の方に救援されて、一命を取り止めたという。敬意を表し感謝の
気持ちを伝えるために当時の関係者にお会いもした。島では、先住民族が遺した石造物や島内のエメラルドグリーンの池などを散策し、
また、火山灰土で黒っぽい湖畔の砂浜を散歩したり、宿のテラスでのんびりとニカラグア産カフェをいただきながら、
取りとめもない会話を楽しんだ。談笑はいろいろな旅の話に及んだ。その中で、スペイン植民地時代に建てられた「エル・カス
ティージョ要塞」が辺境に遺され、今では歴史的遺跡として観光地化されていることを知った。「エル・カスティージョ」とはスペイン語で「要塞、砦」
という意味である。
正式には「エル・カスティージョ・デ・ラ・コンセプション」と呼ばれる要塞は、ニカラグア湖からカリブ海に注ぎ出る「サン・
ファン川」の岸沿いにあるという。ニカラグア湖の南東端に、湖から唯一流れ出るサン・ファン川
の流頭に「サン・カルロス」という町がある。スペイン植民地時代に築造された要塞はその町から川を70kmほど下った河岸にある。
次に国内を旅するなら、先ずはエル・カスティージョという辺境の地を訪ねてみようと心に決めた。ニカラグア国内には、これと
言った見ごたえのある歴史的な史跡が少ない中で、その要塞を次の旅のターゲットにすることも悪くないと
、頭の片隅にインプットした次第である。その後いろいろと関連情報を集めた。だが、その旅が実現したのは、2009年2月のことであり、
オメテペ島への旅からほぼ1年後になってしまった。パナマ運河への旅は終えていたが、米国、コスタリカ、メキシコへの海外の
旅を最優先にした結果、国内の私的な旅は随分先送りになっていた。
かくして、2009年2月に同僚一人を誘って、週末と祭日利用の2泊3日の旅程で、エル・カスティージョへの亜熱帯ジャングル・
ツアーを敢行した。サン・カルロスへは空路の他陸路もあった。かつては、ニカラグア湖最奥の港町グラナダからそこまでハイスピード
船(ソ連邦製)の定期航路もあったようだが、ロシア人船長がウオッカを飲酒しながら操船し陸岸に乗り上げ座礁させてしまった。それ以来
航路は閉鎖されたと、まことしやかに言い伝えされてきた。陸路に就いては、首都マナグアから国道280kmほどの距離であったが、
うち120kmほどは砂利道であり、悪路と聞かされていた。平均時速20㎞で走行するとして、往きだけで9時間も要し、丸1日がかりである。
「米州開発銀行(BID)」の融資で舗装工事が計画されていることは承知していた。四駆の小型自家用車での走破を考えたが、
安全策を採って空路とした。定期航空路線があり一日一往復していた。15人乗りくらいの
小型単発プロペラの民間機に早朝乗り込み、機上の人となった。今回の旅が、「ニカラグア運河の夢」なるものを初めて知る
きっかけとなった。さらには運河の夢を追いかけ有望運河ルートを踏査するきっかけになろうとは思いもしなかった。
マナグア空港を飛び立ち暫くして、ニカラグア最古のスペイン植民都市でり、ニカラグア湖岸にある港町グラナダ上空を通過後したは、
殆ど同湖上空の縦断飛行となった。グラナダ通過後20分ほどして、フロントガラス越しに、オモテペ島の活火山が遠くに霞んで見えてきた。
その後双子の活火山がだんだんと大きく浮かび上って来た。ついには真横に両火山の双壁を見ながらの飛行となった。その後1時間
もしないうちにサン・カルロスの町とサン・ファン川の流頭の上空を旋回し、畑地や牧草地に囲まれた飛行場に着陸した。場内にはプレハブ
のような簡素な空港待合室があるだけであった。
空港からタクシーに乗りサン・カルロスの市街地へ、さらに船着き場を目指した。「ランチャ」と呼ばれる50人乗りほどの「
定期乗合水上バス」ともいえる細長いスピード・ボートの発着場で切符を買い求め、早速に乗り込んだ。暫くしてボートは満席
状態となり、エル・カスティージョへ向けてほぼ定刻通りに桟橋を離れた。
出港して10数キロ下ったところにある「サンタ・フェ」という集落を通過した。比較的川幅の狭いここでも100~150メートルほどあり、
両岸には渡船の発着場の存在を感じさせる人工構造物が垣間見えた。ニカラグア政府がそこに長さ200メートルほどの橋梁の建設につき、
日本に無償資金協力を要請している場所であった。余談であるが、この旅から帰って数ヶ月後に、「サンタ・フェ橋」の基本設計を
行なうためのJICAの無償資金協力調査が始まり、その団長として現地参加することになった。調査にはこの旅の体験が大いに役立つ
ことになった。
サン・ファン川はエル・カスティージョの少し下流域まで100%ニカラグア領土内を流れ下っている。即ち、同河川をはさんで
サン・カルロスから下流に向かって5kmから10km幅において同河川の対岸もニカラグア領土となっている。ところが、
エル・カスティージョの8㎞ほど下流域からは、両国国境線は川の南岸(カリブ海の河口に向かって右岸)となっている。
もっと言うと、両国の国境線はそもそも全く河川の中央には引かれていない。
コスタリカの警備艇などの公船やその他の私船は、その
河川での通航が可能なのか、ましてや公船は警備・救助などの公権力の行使をなしうるのか、2国間で長く争われていた。
紛争は「国際司法裁判所(ICJ)」に付託され、その判決によればコスタリカの公務執行が限定的にせよ認められ、平和的に紛争解決
がなされたという。余談であるが、サン・カルロスからその対岸に渡り10kmほど辿ると、コスタリカとの国境へと通じる。
当時はその国境は閉鎖状態にあったが、コスタリカ側は国境までの舗装道路を既に建設済みということであった。
ランチャの後方船内には自動車のエンジンらしきものがむき出しで取り付けられている。大きな唸り音を響かせ、時速3~40㎞の
スピードで快調に疾走した。天候も良かった。舷側には飛沫防御用の立て板も何もなく吹きさらしであった。時にスコールがやって来て、
風雨が船内に猛烈に吹き込むことがある。それに備えて、透明の丈夫なビニールシートが舷側上部から垂れ幕のように吊り下げる
仕掛けになっていた(平時はまくり上げられ固縛されている)。
さて、ランチャが疾走し吹きつける自然の風は凄く心地よいものであった。サン・ファン川の上流域の場所によっては、
ジャングルの繁みが薄くなり、岸の後背地は開拓されて牛の放牧地となっている。時折それを垣間見ることができた。だが、川を
下れば下るほど、両岸には鬱蒼と繁った亜熱帯ジャングルが途切れることなく延々と続いていた。
川幅は場所にもよるが、相変わらず100~150メートルほどあった。
1時間半ほどかかって「ボカ・デ・サバロス」という、川岸に形成される小さな集落に着いた。その集落はサン・ファン川とその
支流である「サバロス川」との合流地点にあった。予約済みの宿泊地は、両河川がT字型に交わる角の川岸に、川へ向かって突き
出すように建っていた。サン・ファン川の水中に丈夫な杭を打ち、その上に3、4の部屋と共用部の板張りのテラスが造作され、
飾り気のない簡素な木造高床式建物であった。
夕暮れが迫るなか、サン・ファン川に面した板張りテラスに並べられた2つのロッキングチェアに座り、目の前をゆったりと
流れる川と、鬱蒼と茂るジャングルだけの二色からなる景色を眺めながら、優雅で贅沢な時間を過ごした。10歳くらいの少女が実に
器用に丸木舟のパドルを漕ぎ、舟を巧みに操つりながら通り過ぎて行く。何か「原始的な」異次元の世界に身を置いて眺めている
かのような錯覚に囚われそうであった。日頃の世界とのギャップに今更ながら驚く一方で、そんな牧歌的風景に身も心も吸い込まれていた。
少女は友達か親戚の家に遊びに行くのか、それともお使いに行くのか、勝手な想像を巡らせていた。我々自身も文明的要素がほとんど
ない「原始的」環境の中に溶け込み、その一部になり切っているような気分であった。ジャングルに囲まれた静寂な空間に佇み、
大自然に溶け込みながら至福の時間を過ごすかのような気分に浸る。「原始的な時間」が流れるかのような気分でもあった。
40年ほど前の大学生時代にクラブ活動(里山を探索するワンダーフォーゲル部)として辺境の山中奥地で
テントを張り静寂が支配する時空で何度も過ごしたが、その時以来の感覚が蘇るようであった。
飾り気も何もない部屋に、裸電球がぶら下がり、簡素なベッドと、水を汲み身体に浴びせる冷水溜めがあるだけであった。だが、
何もないことに幸せな気分になれるのが不思議であった。エル・カスティージョまではあと1時間ほどの距離にあったところ、
現地のホテル事情が分からなかった。それ故にネットで「ボカ・デ・サバロス」に宿を見つけた瞬間に迷わず予約を入れ今回の投宿
となったものである。
結果として、滞在はわずかな時間に過ぎないが、精神的な安らぎと空疎になれる境地をもたらしてくれた。テレビ・ラジオはもちろん、
近代的電気製品、携帯電話などとは無縁の環境がそこには「整っていた」。ニカラグアの秘境の地と言うに相応しく思える地であった。
蚊よけに持参した蚊取り線香に火をつけ、さらに蚊よけスプレーをたっぷりと噴霧し、マラリア対策だけは忘れず施した。夜の帳が完全に
下りたら何もすることがないので、明日の要塞見学を楽しみにしながら、ベッドに横たえた。それにしても、蚊よけ対策の度が過ぎて、
部屋内に充満する強臭に相当の我慢を強いられてしまった。
翌朝、第1便の水上バスに乗り込んでエル・カスティージョに向かった。ランチャは、鬱蒼と生い茂る亜熱帯ジャングルを
舳先で切り裂くかのように快走し続けた。間もなく到着する頃になると、正面遠方の右岸に小高い丘を視認できた。
そして、近づくにつれてその丘の上に建つ要塞の姿をはっきりと捉えることができた。要塞の高塔にはニカラグアの巨大な国旗が
誇らしげに翻っていた。ランチャが船着き場に接岸する頃には、石を堅牢に積み上げた要塞は仰ぎ見るほどに高くそびえていた。
重厚感と威厳のある姿は見上げる者に威圧感を放っていた。早速上陸し、細い坂道をはうように登って、要塞の最も高い所に
ある石畳の見張り回廊に出た。
要塞の大きさを確かめるかのように回廊を行ったり来たりしながら、そこから周囲360度の風景をとくと見渡した。見渡す限り
ジャングルが広がり、眼下には薄チョコレート色のサン・ファン川が遠くまで伸びていた。要塞がこの地に築造されたゆえんを
容易に理解しえた。要塞の規模は思ったほど大きくないにしても、カリブ海から遡上し進攻してくるどんな小さな敵ボートや敵兵・海賊ら
をも見逃すことはないと思われるほど、絶好の高台に築かれていた。
下流に向かっても、また上流に向かっても、要塞がそびえ立つ丘以外に高地は無く、監視のための見通しは抜群であった。
要塞直下の川面は波立っていて、急流の様相を呈していることに気づいた。築造当時から自然発生的に川底が浅くなり急流が
形成されてきたのか。それとも敵船の侵攻を阻むため、人為的に砂利や割り石が川床に投下されたものなのか。あれこれ想像しながら、
スペインの征服者(コンキスタドーレス)たちがやって来た頃からほとんど変わらないと想像されるジャングル風景を暫し眺めた。
さて、要塞の外回りの巡覧を終え、内部を散策してみることにした。要塞内のある大きな部屋に足を踏み入れてみると、そこは展示室に
活用されていた。壁面には15枚ほどの大型パネルが掲示され、何やらニカラグアの歴史などを紹介していた。
余談だが、要塞の修復のみならず、それらの展示は、近年スぺイン政府の「国際援助庁」からの全面的協力の下で実現されたもの
であった。そのことは、幾つかの広報用立て看板から読み取れた。
最初のパネルは、プレ・コロンブス時代(1492年コロンブスが「新大陸」に到達する以前の時代)のニカラグアの先史や
先住民族について記されていた。次いで、「地理的発見の時代」の黎明期頃の歴史、特にコロンブスの探検航海、その後の「スペイン
からの征服者」による「新大陸」征服や植民地化、サン・ファン川周辺地域への英国による侵攻、海賊の襲撃を防護するために
築造された数多くのスペインの要塞などについて解説するものであった。
また、後に英国海軍提督となったホレーショ・ネルソンとエル・カスティージョとの接点についても紹介されている。
既章で触れたように、ネルソンが若き海軍士官であった頃、ジャマイカからニカラグアに侵攻、要塞を攻め落とそうとサン・
ファン川を遡上した。だが、落塞直前に病に倒れジャマイカへ搬送された。ネルソンは1805年に、ナポレオンが派遣したフランス・スペイン
連合艦隊を撃破した(トラファルガーの海戦)ことで有名でもある。また、19世紀中頃の米国カリフォルニア
でのゴールド・ラッシュと、米国人によるパナマやニカラグアの中米地峡横断の歴史などについても、数多くの図絵を添えてパネル
説明がなされている。
最後に釘付けになったのは「ニカラグア運河の夢」と題する2枚のパネルであった。スペイン植民地時代初期より両洋をまたぐ
運河開削に関心がもたれていた。征服者は運河開削の可能性を検討し踏査もしていた。だが、当時の技術では無理であった。
後年、サン・ファン川やニカラグア湖を利用して、両洋運河を建設するという「夢」が芽生えるのは必然的であった。過去には
「パナマ地峡」よりも「ニカラグア地峡」の方が、地形的、技術的、経済的などの総合的観点から見て有望視されたという調査結果
も公にされていた。そして、ニカラグアは、米国政府や企業とニカラグア運河建設のための条約や民間協定を結び、関係企業は実際に何がしか
の開削工事を実施したりもした。だが、実を結ぶことはなく途中で放棄された。
他方で、フランス人レセップスによる「パナマ運河」建設が開始された時は、「ニカラグア運河の夢」は遠のいてしまった。
だが、工事は完全に頓挫した後、米国がそれを引き継いだ。当時、米国は、パナマでの建設工事を続行すべきか、ニカラグア地峡で
開削すべきか真剣に検討した。政治的な紆余曲折を経て、結局米国議会は僅差でパナマ運河建設を引き継ぐという政治的選択をした。
他方で、米国政府は、戦略的にニカラグアとの間で条約を結び、ニカラグアに運河を建設できる権利を保持したままであった。
だが、米国によってパナマ運河工事が再開され、実際に運河を開通させた結果、ニカラグアにとっては自国領土内の地峡に両洋運河
を建設するという夢はいみじくも葬り去られた。
エル・カスティージョのパネルで、そんな「運河の夢」があったこと、そのおおよその歴史的系譜を学んだ。
ニカラグア「運河の夢」と題する2枚のパネルでの説明書きを通読した時は、衝撃を受け鳥肌が立つのを感じた。はっと驚く
と同時に、私の脳裏にぐさっと突き刺さるものがあった。私的には、2枚の展示パネルから目からうろこが落ちるほどの大発見
をしたも同然であった。中米地峡での運河と言えば、パナマ運河しか頭になかったからである。
その証拠にニカラグアに赴任して真っ先に旅したのはパナマ運河であった。
だが、今回いみじくも要塞の展示室ではっと気づかされた。ニカラグアの人々にとっては、運河と言えば、自国領土内での
建設が期待される「ニカラグア運河」のことであり、それを建設する夢を何処かに持ち続けているものと理解するに至った。
「ニカラグア運河の夢」の存在を初めて知ることになり、一人興奮した。
展示パネルは全体としてニカラグアの歴史をじっくりと紐解くための資料としてコンパクトにまとめられていた。特にニカラグア
運河を知るためのまたとない資料であると考え、全パネルをカメラで切り撮ることにした。帰宅後は画像をパソコンに取り込んで、
じっくりパネルの説明書きを熟読し、ニカラグア運河を巡る長年の系譜などを学べるものと喜んだ。
さて、要塞展示室の全ての説明パネルをカメラで切り撮った後、水上バスで同僚とサン・カルロスに戻り、そこでもう一泊投宿した。
翌日、マナグア行きの飛行機の切符を購入しようとしたが、やはり確保できず、やむなく一般乗合の路線バスで帰ることにした。
アメリカの小中学生が通学に利用する、車体がオール・イエローカラーでお馴染みのスクールバスを転用したものであった。座り心地は
良いとはとても言えなかった。
出発してから1時間もすれば、バスは寿司詰め状態となった。日本のラッシュアワー並みであった。我われ二人は
早くからバスターミナルで待機したので、何とか座席にありつけた。バスは未舗装のデコボコの砂利道を何の頓着もせず
120kmの距離を突っ走った。途中一回だけ、舗装道路が間もなく始まるという小さな集落でトイレ休憩がなされた。
私も同僚も、単調なドライブに飽きて苦痛を感じることはなかった。満員の乗客たちの表情や、次々と乗り込んでくる物売りの
商売のやり方などを興味津々で観察しながら、時に車窓から自然風景に目をやりながらローカル色に溢れる路線バスによる旅を大いに
楽しんだ。乗客たちや物売りの表情を眺めていると、何となく千差万別の人生が見え隠れするようであった。今回のバス体験で未舗装の
悪路がどの程度なのかも理解できた。思いもよらず、そのことが次回の砂利道走破に生きることになった。
帰宅後、早速画像をパソコンに取り込み、閲覧してびっくり仰天した。何百枚も撮った画像のうち、屋外で撮ったものについては、
快晴にも恵まれていたので写りに問題なかった。だが、要塞展示室で切り撮った殆どの画像の写りは良くなかった。何故か。
展示パネルを撮影した画像では軒並み焦点がずれており、ピンボケばかりであった。全く使い物にならならずショックであった。
展示室は少し薄暗かったところ、フラッシュを使わず撮影したが故であろう。大失敗であった。折角「運河の夢」の系譜などを学ぼう
としたが、まともに説明書きを読めない状態であった。できるだけ早く、再撮影のために出直すことにした。そうせざるをえなかった。
今度はパネルだけをうまく撮影するに専念することを目的に出戻ることにした。
次のチャンスを探った。1か月半後にそのチャンスが到来した。2009年4月の「セマーナ・サンタ(聖週間)」という全国的祝祭日を
利用して戻ることにした。サン・カルロスへの道路事情は分かったので、今度は自身の乗用車で出掛けることにした。かつてはひどい
悪路を想像して単独走破を諦めていたが、四駆仕様の普通乗用車でも十分走破できると踏んでのことであった。
「運河の夢」への自身の関心が冷めないうちに、早い段階で画像の撮り直しのために現地へ戻りたかった。
砂利道の悪路は6時間以上かかることを覚悟して、早目に一人マナグアを出立した。午後遅く無事サン・カルロスに到着し、ホテルに投宿した。
翌日はランチャを一艘思い切ってチャーターして、ストレートに要塞を目指した。今度は画像の写り具合を確かめながら、パネルを
慎重に撮影した。念のためにフラッシュも使った。全てのパネルを切り撮った。今度は「運河の夢」の系譜などを紐解けること
を楽しみにして、家路に就いた。
現地でたまたまJICA事務所員や協力隊員に出会った。そして、協力隊員3人がランチャと四駆に同乗して首都マナグアへ帰ることにした。
帰途、車を運転しながら協力隊員と会話をしていた時、あるアイデアがふと湧いてきた。今後は、ニカラグア運河の有望候補ルートの
幾つかを踏査するというアイデアを思い付いた。さらに、ランチャをチャーターして単独で河川ルートを探索するのは
余りにももったいないと考えた。そこで、希望する隊員がいるなら運河ルートを陸路と水路で巡るツアーへの参加を歓迎すると、
彼らを通じて隊員らに誘いをかけることにした。特に土木隊員は、その専門分野からして大きな関心をもつかも知れず、また運河土木
の学びは将来何がしかの役に立つかもしれないので、踏査へのジョインを大歓迎したいと強調した。
さて、展示室の画像の写り具合は、今度はばっちりであった。週末など余暇時間を見ては、パネルのスペイン語説明書きを
隅から隅まで読み、その要約も順次作成した。先ずは出来るだけ詳細な地図を入手することから始めた。意外なことに、5万分の1
の全国地図が存在することが判明した。「ニカラグア国土地理院」で踏査対象地域の地図数10枚を買い求めた。実は、JICAがその全国
国土地図作成に全面協力した「開発調査」プロジェクトの素晴らしい成果であった。
さて、自分でもこれほどまで「運河の夢」に前のめりになるとは思いもしなかった。地図数十枚を自宅の壁に張り付け、
運河候補ルートの大雑把なプロッティングをしたり、車とランチャによる踏査ルート案を練り始めた。こうして、
ニカラグア運河の最有望候補ルートを踏査する旅への第一歩を踏み出した。ニカラグアでの仕事においても、また私生活にあっても
、遣り甲斐と楽しみがますます増えることにつながった。
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