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    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第3節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る


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       第21章・目次
      第1節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第2節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第3節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第4節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


  ニカラグアは、中南米・カリブ海諸国の中でもハイチ、ホンジュラス、ボリビアなどとともに、国民が貧困に喘ぎ苦悩する国の一つと数え られてきた。実際に赴任し腰を落ち着けて生活をしてみると、同国の政治経済や国民の生活事情を直接肌で感じるようになった。そして、 あらゆる分野において国際社会からの支援・協力が求められているように見受けられた。時間がさらに経つにつれ多くの社会 インフラの脆弱さや貧弱さ、国民の困窮・貧困の深刻さは確信に変わって行った。

  日本からの援助形態の一つである、有償資金協力 (円借款・政府ローン) については、ニカラグアの経済財政事情の好転がなおも 芳しくないとみえて、ローン返済能力の観点から当時においても見合わせとなっていた。 他方、技術協力と無償資金協力については幅広い分野で実施されており、私は、再び協力の最前線に立って働けることとなった。 無償資金協力の最重点分野のうち、社会経済発展に大いに貢献し高い評価を得ていたのは、老朽化した橋梁の建て替えや 新規の橋梁建設であった。

  日本人には想像もつかないであろうが、地方の田舎道に一歩足を踏み入れれば、当然あるべき箇所に橋梁が架けられていない ケースが至る所で存在していた。国道沿いでは架橋されていても、老朽化している橋梁も沢山あった。日本はこの道路交通インフラ 整備分野で毎年のように数十億円規模での支援を長年実行し、円滑な陸上輸送を確保するうえで顕著な貢献を果たしてきた。

  日本による過去の橋梁関連支援実績につき自国民に広く広報しようと、当時のマルティネス運輸大臣は、過去に日本の援助 で架け替えられた、または新規に架橋された全ての橋梁の写真を収めたアルバムタイプの広報冊子を自らの主導で発刊した。日本の協力に 深い感謝を示しつつ、他方で日本からの援助を広報するスポークスマン的役割を果たしてくれていた。

  首都マナグアと地方の主要都市間を結ぶ幹線道路は舗装され、人の行き来や物流において重要な役割を果たしていたが、それ以外の 地方道路は砂利道か土道がほとんどであった。幹線道から一歩外れると未舗装のままで、川には橋梁がなくザブザブと川床を横切る ケースも多い。毎年雨期が5,6か月続くが、増水のために渡河できなくなることも頻繁であった。大抵は両岸に鋼製ワイヤーが張り渡され、 それを発動機仕掛けで手繰り寄せる、「パンガ」というはしけで渡ることがごく普通の田舎風景となっていた。それがいわばニカラグア の原風景ともいえた。個人的にはそんな牧歌的風景が大好きではあったが、人や物の移動を非効率にしていた。

  赴任中、道路交通インフラ整備分野において、ある一つの記憶に残る調査に携わることができた。国の北西部ではホンジュラスと国境を 接し、南東部ではコスタリカと国境を接する。そして、中米地峡をメキシコからパナマまで、通称「パンアメリカン・ハイウェイ」 という最重要の国際幹線道路が貫通していた。ニカラグア北部の山岳地域を縦断し、首都マナ グアを経て、「ニカラグア湖」の南東側を通ってコスタリカとの国境へ至る。インターステート(国家間を縦断する)の幹線道路は ニカラグア湖南東岸を通るその道路一本しかなかった。同湖の北側には未舗装の国道があり、同じくコスタリカとの国境へ通じる(ただし、 両国の国境ゲートは開かれていない)。しかし、「サン・ファン川」という同湖から唯一流れ出る幅150メートルほどの河川には 一本の橋も架けられていなかった。例の「パンガ」が対岸に暮らす住民の生活を支える唯一の手段で、ほそぼそと不定期に運営されて いただけであった。

  ニカラグアの悲願は、そこに「サンタ・フェ橋」を架け、その前後の未舗装道を150kmにわたって舗装し、 コスタリカへ通じる第二の「パンアメリカン・ハイウェイ」を完成させることであった。 国道沿いの北部域において多様な農牧林業開発を促進するとともに、コスタリカとの間で物流を増進させることであった。 コスタリカ側では既に国境まで舗装道路を開通させていた。さらに、架橋の完成に先だって、「米州開発銀行(BID)」からの財政 支援をもって150kmの砂利敷き国道の舗装化も進められることになっていた。日本とBIDは可能な限り連携を図りつつインフラ整備計画 の推進に取り組んでいた。

  2008年度には、この架橋計画がJICA無償資金協力プロジェクトとして採択され、基本設計調査が行われることになった。 そして、その調査団の団長として現地参加する任に預かった。その半年ほど後にJICA本部で同調査報告書案が作成され、 ニカラグア側に説明する調査団が派遣されてきた。団長としてその調査団にも参画した。「国際協力システム(JICS)」とJICA本部において 無償資金協力業務に5年間ほど携わってきたかつての経験がこんなところで役立つことになり、嬉しい限りであった。米州開発銀行との調整 が奏功した結果、150kmの砂利道の舗装工事が先行して着手されていた。ところで、私はその架橋工事の起工式に臨むことなく 帰国の途に就いた。いつしかニカラグアを再訪した折には、200メートル長の「サンタ・フェ橋」をこの足で「渡り初め」 してみたい。

  さて、無償資金協力での第二の重点分野は、地方都市における公立総合病院の建設や、看護教育・保健施設などの充実を図るための 医療保健機材の整備であった。首都から数十kmに位置する古都グラナダには無償資金協力にて大規模な公立総合病院が建設され運営されていた。 かつて1990年代初めに調達部契約課に勤務していた折、この案件を担当したことがあった。

  何故その案件を記憶していたのか。中米の最貧の国にこんな大きな総合病院を建設して果たして十分に運営維持され持続可能なのか、 契約交渉順位第一位であったコンサルタント企業に診療や治療費徴収システムにつき執拗なまでに質問したからであろう。 今回は地方都市の山間部にあるボアコという町に近代的な総合病院が建設されつつあった。 毎月コンサルタントの施行監理責任者との間で工事進捗状況に係る報告会をもち、その現状を理解していた。病院は予定通り竣工し、オルテガ 大統領と日本大使を主賓に迎えて開所式典が盛大に行われた。

  第三の重点分野は、絶対数が不足している小学校校舎の新規建設や、老朽化した校舎の建て替えなどへの無償資金協力であった。 ニカラグアは圧倒的に若年層の人口が多く、将来の発展に大きな可能性と期待を抱かせる国であった。だが、初等教育施設の継続的な 整備拡充が強く求められれいた。勿論、教育や教員のレベル向上も必要とされていた。全国の公立小学校では殆ど午前と午後の 二部制であった。何はともあれ初等教育施設整備が喫緊の課題であり、日本は一般無償資金協力による校舎の建設だけでなく、 日本大使の「ポケットマネー」などと巷で称される「草の根無償資金協力」をもって、校舎の建て替え・改修を真剣かつ長年にわたり 推し進めていた。過去の累積の教室増設数は何百にも達していて、日本は顕著な貢献を果たし続けていた。

  第四の分野は、農業の生産性向上を支援するために、「食糧増産援助(略称「2KR」)」という無償資金協力をほぼ毎年のように 実施していた。供与資材は主に肥料であった。ニカラグア政府は日本から供与された何千トンもの化学肥料を農民に供給するに当たり、公正な 入札をもって農業資材販売会社に卸していた。政府はその販売代金をいわゆる「カウンターパート資金」として政府の中央銀行の2KR特別 口座に長年積み上げ国家の歳入としてキープしいた。ニカラグア側はこのカウンターパート資金を誠実に積み上げていたので、日本側 からの評価は高かった。

  同資金は、ニカラグア外務省と日本大使館との協議をもって、農道整備やその他の社会インフラ整備などのために有効に 活用されるよう組織化されていた。つまり、ニカラグア外務省国際協力局内に、カウンターパート資金が投入されるプロジェクトを 運営管理する担当部署が長年組織化されていた。同部署は、いろいろな具体的な案件の省庁間調整や大使館との 協議を行いつつ、資金の配分調整を果たす機能を担っていた。JICAはそこに専門家を派遣し、ニカラグアのカウンター パートと協働していた。同資金による橋梁・医療保健・初等教育・農業などの分野における社会的基盤整備への支援は、政権が中道右派・左派、 親米・反米的であるかを問わず、ニカラグアの「国づくり」や国民の民生向上に大きな貢献を果たしてきたことは間違いない。

  さて、記憶に強く刻まれたカウンターパート資金の活用事例の一つを述べたい。ニカラグアのカリブ海側には2つの特別自治区があった。 事例はそのうちの一つの自治区での事業であった。いつの日にか、カリブ海沿岸地方の自然や社会・文化事情などをこの目で見てみたいと、 赴任前からその機会が訪れることを心待ちにしていた。15世紀末頃からの「大航海時代」に黄金の国「ジパング(日本)」や「カタイ (中国)」などの「インディアス」(インドより東方にあるアジアの諸地域)を目指したコロンブスは、その第三次探検航海において、 「エスパニョーラ島」や「キューバ島」からさらに西方に向けて航海することにチャレンジした。現在のホンジュラス沿岸に到達した後、 南下を続けた。その時大嵐に遭遇し、コロンブス等はやっとの思いである岬を回り込むことで遭難を逃れたといわれる。 現在ホンジュラスとニカラグアとの国境線から突き出た「マリアに感謝する岬」のことである。

  その岬から南に伸びるカリブ海沿岸域にはどんな自然風景が広がり、人々はどんな営みをしているのか、興味津々の眼差しを 持ち続けてきた。そんな中、初めての遠出の出張として、「ラグーナ・デ・ペルラス」(スペイン語で「真珠のラグーン」という意味) というカリブ海に面する小さな漁村へ足を運ぶことになった。ペルラスはまさにその岬と同じ海岸線の延長線上にあった。 もっとも、岬はペルラスから何百㎞も北方に位置しており、岬へのアクセス道路はなく、内陸部から河川を何百kmも遡下する 他ない、想像を越す辺境の地であった。

  実は首都マナグアからカリブ海沿岸の町へ辿れる道路は事実上3本しかなく、いずれも土道や砂利道であった。その内の一本が 2KR積立資金の一部を活用して、ロードローラーやブルドーザーなどで補修されることになった。 具体的には、カリブ海寄りの内陸部に「エル・ラマ」という重要な河川港(エスコンディード川とその支流のエル・ラマ川との交点)があって、その町からペルラス漁村まで100kmほどの砂利道が通じていた。毎年半年ほどの雨期を経ると、砂利道は傷みが累積し続け荒れ放題となり、 年々車両の通行は困難となっていた。

  道路補修が完了し通所式典に出席することになり、ついにカリブ海側に足を踏み入れる機会が回って来た。起点のエル・ラマ からランドクルーザーで、亜熱帯ジャングルの中を貫通する補修済みの砂利道を快適に走り抜けた。そして、日本大使やマルティネス 運輸大臣らの出席の下、ペルラスでの式典の末席に加わった。式典後、その昔スペインと英国がニカラグア東部で覇権争いをしていた頃と余り 変わってはいないであろう漁村風景を眺めながら、ラグーンの岸沿いに村内を歩き回った。円錐形の屋根を葦か何かで葺いたような、 いかにも伝統的様式の村民集会用の館は、この地方独特のものであった。村民の庭先では幾つものムシロが広げられて、赤い小エビが 天日干しされていた。その風景が実に印象的で脳裏に強く焼き付けられた。一般住宅の中には一見場違いのような裕福そうに 見える建屋もあった。麻薬のトラフィッキングか何かで羽振りがよいのではないかと囁かれているそうである。

  その後、ペルラスから少し内陸部へ戻ったところにある集落から「ランチャ」(細長い小型乗り合いスピードボート)という ボートに乗船した。村は「エスコンディード川」という大河近くに位置していた。鬱蒼と茂った亜熱帯樹林に囲まれたラグーンや、迷路の ように入り組んだ狭水道の水面を滑らかに疾走した後、いつのまにかエスコンディード川に入り込んだ。そして、「ブルーフィールズ」 というニカラグアでは最大のカリブ海沿岸港湾都市に辿り着いた。空軍のヘリコプターで首都に戻る大使と大臣とはそこで別れ、 ニカラグア外務省とJICAの関係者は再びボートでエスコンディード川を百数十kmほど遡航してエル・ラマまで戻った。大河の幅は100~ 150メートルほどで、鬱蒼と茂ったジャングルが常時両岸に迫っていた。こうして、カリブ海沿いの内陸側水郷地帯の自然環境に 触れることができた。

  ブルーフィールズは「ブルーフィールズ湾」という大きなラグーンの岸辺にあり、またエスコンディード川の河口に立地していた。 同河川はラグーンでもあるブルーフィールズ湾に流れ出ていた。そのラグーンは狭水道によってカリブ海に通じていた。 ブルーフィールズで上陸し暫く街を散策し、社会的諸事情をいろいろと垣間見ることができた。既述の通り、ニカラグアの国土の東側 (カリブ海側)半分を占める大きな行政区が2つあった。北部自治区と南部のそれである。 北部の自治政府は「プエルト・カベーサ」という沿岸都市にあり、南部のそれは「ブルーフィールズ」にある。スペインの植民地であった ニカラグアに、当時ジャマイカを植民地化していた英国が攻め入り、その東側を支配したという歴史的経緯がある。そのため両自治区 は英語文化圏に属している。同じ中米地域にあるベリーズ国は英語文化圏となっているが、かつては英国領ホンジュラスであった。 「英国領ニカラグア」とはならなかったが、2つのニカラグア自治区となって現在に至っている。

  地図を見ると、首都が立地する太平洋側からそれらの自治区行政府のある2つの都市に通じる道は事実上それぞれ1本のみである。 一本は北部自治区政府のあるプエルト・カベーサ、他は南部自治区政府のあるブルーフィールズに伸びている。しかし、道路や治安事情 が悪く、ランドクルーザーなどの四駆車でもってしても、真に安全に行き着けるか確証をもてないほどである。 JICA事務所では専門家・ボランティア隊員によるそれらへの通行を許可していなかった。特に半年間の雨期での通行は全く安全でないとの認識であった。

  かくして、首都からカリブ海側へ安全に辿ることができるのは、2KR積立資金で補修されたその一本の 砂利道しかなかった。それも小漁村のペルラスまで通じるだけであった。ペルラスから200kmほど北方のプエルト・カベーサや、 50km南方のブルーフィールズに辿れるまともな道路は一本もなかった。エル・ラマからブルーフィールズへは ランチャという路線水上バスで辿る他なかった。プエルト・カベーサやブルーフィールズへは民間航空機だけが安全なルートである。

  さて、エル・ラマは数千トンクラスのフェリーや貨物船などが積み降ろしできる重要な内陸河川港である。 首都からエル・ラマまでは片側一車線であるが、しっかり舗装された幹線道路となっている。その河川港から太平洋沿岸にある ニカラグア唯一のコンテナの積み降ろしが可能なヤードやクレーンをもつ「コリント港」へ通じている。もちろん、コリント港と首都マナグアは 「パンアメリカン・ハイウェイ」とその支線道で結ばれている。5~6000トンの大型船がカリブ海からエスコンディード川をエル・ ラマまで遡り、そこでコンテナをトレーラーに積み替え、マナグアなどへ陸送する。エル・ラマは、 河川と陸上とのモーダル輸送によって両大洋間をまたいで物資輸送を可能にする、いわゆる「ドライ・カナル」(陸の運河)の起点となっている。

  かくして、ニカラグアのカリブ海側沿岸都市ブルーフィールズの産業や社会・生活事情をはじめ、ニカラグアの多様性ある 民族・文化や地理・自然環境に初めて触れることができ、大いに興味と親近感を膨らませることになった。その後、北部自治区のプエルト カベーサにて技術協力プロジェクトを開始するにあたり、同区行政府・地元の大学・NGOなどの関係者 との初顔合わせや、プロジェクト運営協議のために同地を訪れた。それはまた、カリブ海沿岸地区の社会・文化事情の理解をさらに深めること につながった。余談だが、ブルーフィールズ沖合にニカラグア領である島嶼の「コーン・アイランド」があり、エル・ラマ港から フェリーが通っている。

  若干話は赴任前のことに遡るが、JICSに出向していた折、無償資金協力案件でニカラグアに出張したことがあった。地方農村基盤 整備用機材の供与に関するプロジェクトのためであった。略称「POLDES」という地方農村開発公社は、地方の農道などを整備するために必要な ブルドーザー、及びそれを効率的に運搬し巡回させるための大型トレーラー、さらに修理工具類を搭載してブルドーザーの作業現場 に急行して応急処理に当たる特殊車両などの供与につき協力を求めていた。ブルドーザーはまた、乾期に備えて家畜向けの飲料水用溜池 を整備するために使用されるという。

  その具体的な農村基盤整備計画、過去の整備実績、自然環境、機材運用の人的資源などに関する現地調査、さらに 計画自体の妥当性を判断するための関連資料の収集などを行った。それらの体験が、赴任後に業務を進める上で大いに役立つことに なった。農道整備はまた農産物の市場へのアクセス、各種農業・生活資材の搬入などのために、僻地の集落に暮らす村民の生活向上 にも役立てられるものであった。辺境の地方山間部では、現在でも馬の背中に載せて獣道のような道なき道を通って、最寄りの集落や 地方都市を行き来している農民が少なからず暮らしている。そんな農民家族にあちらこちらで出会った。

  もう一つ、無償資金協力業務の経験が大いに生かせたことがあった。コスタリカに近い太平洋沿岸に「サンファン・デル・スール」 という漁港がある。そこにかつて水産無償資金協力として漁港整備がなされた。漁船からの水揚げ岸壁、漁獲物の荷捌き場、冷凍・ 冷蔵貯蔵施設、漁船修理のための陸揚げ用ランプウェイ、魚市場管理施設などが整備された。だが、施設が十分活用されていないのでは ないかという風聞があった。

  日本大使館はニカラグア水産当局をはじめ、オルテガ大統領にも改善を強く申し入れてきた。JICAも 善処を求めてニカラグア水産当局と協議する一方、JICA独自に漁業・水揚げ実態調査、原因究明のための聴き取り調査をはじめ、 改善策の検討などに資する現地コンサルタントを傭上し、詳細な調査を実施した。そして、社会的背景や真相を明らかにし、 改善提案を盛り込んだ報告書を大使館と水産当局に提出し、漁港のさらなる有効活用のための一層前向きな努力を水産当局に促す 努力をした。過去の無償資金協力の経験がフルに役立った。

  休題閑話。技術協力においても、あらゆる分野での支援や協力が求められていると見受けられた。技術協力プロジェクトの実施分野は 多岐にわたっていた。そのうちでも、JICAは主に4つの重点分野を中心にして支援していた。第一の分野は、農牧業における生産性の 向上であった。ニカラグアの最重要産業である農牧業の生産性の向上、ひいては農牧業従事者の所得・生活向上を 究極目標においての協力であった。

  「家畜繁殖技術の向上と普及のため、さらに地方モデル農家を対象とする家畜飼育技術の向上のためのプロジェクト」。 同国中部地区における特定の零細畜産農家をプロジェクトのモデル対象農家にして、5年間の予定で、放牧地での牧草栽培、 肥育管理、家畜衛生管理、配合飼料生産などの技術指導と普及をカウンターパートとともに目指すものであった。プロジェクトの本拠地 を首都近郊の農牧省家畜試験場に置いて、人工繁殖のための実地訓練も同時並行的に進められた。 親牛の精子が液体窒素容器で極低温保存され人工繁殖に活用され、子牛増殖に貢献していた。

  また、農牧省と協力して「野菜・果樹栽培技術の向上と普及のためのプロジェクト」の実施。農牧省中央農業試験場が主体となって、 野菜や果樹の栽培技術の向上と普及を目指していた。同試験場の農業普及員への栽培技術の指導と移転を図りながら、彼らを通じて特定 地域の農家を対象に営農指導や技術普及を展開するというものであった。

  ニカラグアでも技協プロジェクトはいずこも同じ共通的な悩みを抱えながら運営されていた。即ち、農牧業に限らずどの省庁 でもプロジェクトにおける活動費の予算割り当てが少なく、例えば普及員の業務用バイクの燃料費の確保さえも相当苦労する有り 様であった。首都周辺地域での技術指導・普及活動とはいえ、徒歩で対象農家へ実地巡回指導に出向く訳にも行かず、相当の燃料費 を日本側で負担することも止む得ないところであった。プロジェクト実施中は まだしも、その終了後の普及活動を持続可能なものにできるのか大いに懸念された。一般的に世界のどのJICAプロジェクトにとっても 共通した悩みといえた。

  その他、プエルト・カベーサにおける「モデル野菜栽培圃場の造成・展示と栽培技術の対象農家への普及と生計向上のためのプロ ジェクト」。北部自治地区のカベーサにおいて、自治区行政府、市役所、地元の大学、非営利民間団体、国際機関など と様々に連携し合い、いろいろな農作物を栽培するモデル圃場を建設し、その栽培の可能性を実証する一方で、 技術の普及と生計の向上を目指すものであった。

  JICAはプロジェクトのコアとして、2名の長期専門家を派遣した。連携する機関によるプロジェクト運営経費の負担約束を巡る 不履行に悩まされた。また、自治区行政府を巻き込んだ政党間の対立と支持者間のいざこざなどを背景に、市内の治安が悪化 する事態が続いた。プロジェクトの事務所がデモ隊の暴徒に荒らされたり、また専門家への身体的安全が危険にさらされたりもした。 プロジェクトの初期段階では実施上の困難がいろいろと生じたが、中期以降には全関係者の協力のベクトルが合わされ、 その成果を徐々に発現できる方向へと進展した。

  ところで、赴任中、多くの出張をこなした。遠距離の出張地としては、北部自治区行政府が所在するプエルト・カベーサであった。 プロジェクトの開始の早い段階で訪れ、先方関係者と協力体制を確認し合いそのレールを敷く努力をした。P.カベーサは例の「マリアに 感謝する岬」から4~500kmの距離にあり、首都マナグアからP.カベーサまで地図上では陸路一本の道があったが、 未舗装の悪路らしくランドクルーザーでも辿り着けるのか確証をもてないほどであった。P.カベーサへは10人乗りくらいの定期運航 される民間機で飛んだ。

  同地はカリブ海でのロブスター漁の基地でもあった。だが、港といっても丸太で組み立てた長さ100メートルほどの朽ちかけた 桟橋一本が沖へ突き出ているだけであった。そこにロブスター漁のための漁船が何隻か停泊していた。漁は潜水による捕獲らしく、 漁船には幾つかの一人乗りボートや大型の酸素ボンベが装備されていた。ダイバーが無理を重ねて長時間潜るなどして潜水病に 冒されるという事故は時折新聞でも話題になっていた。

  また、地方都市・古都のレオンから相当奥深い辺境の山間部に所在する集落に分け入り、植林と資源循環型農牧業の融合を図りながら 生産性の向上や民生向上を目指してのプロジェクトも実施した。地方の辺境の山間地域では、生活のためとはいえ山林の伐採が長年繰り返され、 自然環境の悪化が進み、地域住民はますます生活上の困難を背負うようになっていた。地域住民の持続可能な生活が成り立つように、 資源循環型の営み方について住民と共生しつつ追求する必要に迫られていた。

  JICAは地方自治体と協力して、山間部僻地の集落に暮らす住民を対象に、苗木の育成方法の指導、その植林活動による森林および 自然環境を保全するための実践、果樹・きのこ類や野菜の栽培、鶏・豚の導入・飼育、養魚の育成など、資源の複合的な 利活用や自然循環型営農による生活基盤の強靭化と生計向上に取り組んだ。自然や資源の利用と保全の両立を目指すプロジェクトであった。 僻地の対象集落を訪れ、村民と懇談したり活動状況をつぶさに見て回ったり、またプロジェクトの中間報告会や終了時評価会などに 出席し、その進捗状況や課題の把握に努めた。

  第二の重点協力分野は、初等教育、中でも初等算数指導力の向上であった。小学校の建て替え・新規建設というハード面での協力 だけでなく、師範学校や教員養成校の教員、特に彼らの算数指導力の向上に資するために、算数の教科書や教授法の刷新、新たな「算数指導 要領」の作成などによる指導レベルの向上に取り組んだ。

  詰まる所、将来小学校教師として教壇に立つ師範・養成校の生徒たち自身の算数指導能力の向上に繫げるためのプロジェクトであった。 究極的には全国の小学生の算数の理解度を増進させることにつながるはずのものである。読み書きそろばんをしっかり学び理解する 生徒を育てることは、将来の「国の宝」を創出することとイコールである。貧しい ニカラグアにとっては、スペイン語の読み書きと算数のさらなるレベル向上は、同じスペイン語圏に暮らす他の中南米地域の人々と 十分伍して生計を立てて行けるよう、国家の要である人的資源の育成につながるはずである。

  第三のそれは、保健省管轄下にある医療・保健衛生分野である。例えば、乳幼児死亡率の低減につなげるための母子保健レベルの向上 、若者たちの性や妊娠などのリプロダクティブヘルスに関する知識の普及や向き合い方についての啓発を目指すプロジェクトに 専門家を派遣して取り組んだ。また、保健省の担当局を拠点として、全国の保健所に勤務する看護師や保健衛生人材の看護・保健衛生レベルの 向上を目指すプロジェクトにも取り組んだ。さらに、保健省と協力して、特に中米地域で罹患者が多い「シャーガス病」に関し、その罹患実態を 把握し、罹患率の低減を図るために如何なる対策を講じるべきかを探るためのプロジェクトを新たに創世を目指して取り組んだ。

  首都圏のある地区のコミュニティでは、貧困問題をはじめ、青少年の非行・モラル崩壊や家庭内暴力などの家族の悩みなど を抱える一般住民が多く暮らしていた。そこで、それらの家庭関連の諸課題に向き合い相互扶助を推進する役割を担える 指導的住民を育成することから始め、住民間の互助の仕組みを構築し普及させるプロジェクトを家族省と協力して実施した。

  日本の民生委員をモデルとした社会福祉促進事業の一翼を担うことができる、ニカラグア版民生委員の育成と制度的立ち上げを 目指すものでもあった。役所からの側面支援の下に、地域社会に暮らす住民の自主自立的な相互扶助や民生の向上を目指すものである。 特定地区を対象にしたプロジェクトの実施において所定の成果が上がり、その運営が軌道に乗る見込みが立ったこともあって、第二 フェーズでは事業を面的に拡大することにつながった。将来的には、全国レベルにおける民生委員制度の創設と国民の相互扶助への 発展に寄与することが期待される。

  特筆に値するもう一つの人的貢献といえるのは青年海外協力隊員(JOCV)の活動であった。もちろんジュニアだけでなくシニアボランティアも 活動していて、ピーク時には総勢70名ほどがニカラグア全土で活動していた。ボランティア活動はあらゆる分野に及び、例えば 首都・地方の保健所に配属される看護師・保健師、身体障害者へのリハビリを支援するNGO配属の理学療法士、遠方の辺境地からやって くる妊産婦をケアするNGO配属の保健隊員をはじめ、地方の小学校での教育指導、職業訓練校での技術指導、地方行政機関での土木設計・工事 監督の支援、NGOなどでの青少年活動、家畜衛生の巡回指導、修道院での営農活動支援、地方集落での農村開発と生計向上支援、 環境保全教育、大学での日本語教育、公益スポーツ団体での野球指導などさまざまである。

  隊員は首都とその近郊での配属が多かったが、太平洋岸沿いの地方や内陸山間地にある市町村でも多く活躍していた。また、 隊員の中には、牧畜営農・家畜衛生などの技術協力プロジェクトとの緩やかな連携を図ったりもしていたが、特に注目したのは 隊員同士の相互支援による活動の質的向上と面的拡大などを目指す取り組みであった。

  個々の隊員からの発案を起点にして、その小さな創意工夫が配属先やそのステークホルダーへの支援につながることも多い。 配属先では財政的余力がなく、隊員の工夫を実現できないという現状がある。JICA事務所としては積極的に隊員のアイデアや取り組み に資金的支援を図った。赴任中、予算的制約を理由にして隊員の発案と予算申請を諦めてもらうようなことは一度もなかった。 今から振り返れば、隊員らが現場での課題解決のために一層具体的工夫を凝らし、さらにもっと提案を挙げるよう呼びかけ、所属先 や地域社会により貢献できるよう隊員らをもっと鼓舞できればベストであった。事務所の予算を脅かすほどの申請があるとすれば、 貢献度の高い案件を優先的に採択し予算手当てすれば済むことであったであろう。

  また、自らに課した職務として、週・月単位で定期的に隊員の所属先や活動現場を巡回訪問し、 その活動環境や状況を理解し、課題などを探るよう取り組んだ。活動地域の地理や社会事情などを肌で感じることは 大変重要なことであった。また、大いに喜びとするところでもあったので、事務所での所長業務が滞らない範囲で積極的に動き回った。

  少しでも活動を理解しその側面支援につながるようにと、隊員らとの懇談会をもつようにした。マナグア市内やその近郊への日帰り 出張が多かったが、地方へのそれもかなりこなした。そんな隊員への巡回は、活動への資金的サポートに関する隊員からの事務所へ の要望の増加につながって行ったことを後で実感することになった。

  ところで、専門家は毎日の通勤の足として自家用車両を所有し治安上の問題はほとんどなかった。だが隊員は一般公共路線バスか タクシー(乗合式タクシーもある)が移動手段であった。バスは車内でのすり事案が主であった。車内で乗客が突然強盗に早変わりする という事件は、隣国の場合よりもずっと件数的に少なかった。問題は夜間におけるタクシーでの移動であった。いくら警戒しても夜間 は警戒しきれないことが多い。タクシー運転手自身の内通もあってか、相乗りとなる乗客が強盗に早変わりすることが少なからずあった。 特に地方から首都に夜間上京することになった場合は、そのリスクが髙かった。

  周辺国のホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルなどに比べて治安は相対的に良い方であったといえたが、 それでも夜間での乗合タクシーはリスキーであった。事務所としてもいろいろ対策を講じた。事務所と契約済みの特定個人タクシー を事前に電話で予約した上で乗車するという方法によって、リスクを相当減退させられた。それでも、昼夜問わず60~70名の隊員の 安全が常に気掛かりとなっていた。大使館の安全担当事務官の協力も得て、全隊員に向けての定期的な安全講習も重要行事であった。

  隊員への訪問だけでなく、技術協力プロジェクトに関連した現地視察、個別打ち合わせ、プロジェクトの中間・終了時評価 などのための定期的会合、専門家による技術普及に向けた講習会、関係省庁との会議への参加などのため、日帰りや宿泊出張は ひっきりなしであった。その他、大使館との定期協議、国際機関との協議会、他国の治安対策に関する情報交換会への参加などもあった。

  首都圏内だけでなく、地方への宿泊出張も繰り返した。プロジェクトの現場を訪れ、活動の進捗状況や課題を知ることは、 事務所による側面支援の在り方やタイミングを計るうえでの基本であった。活動の現況や成果への理解を深めること、プロジェクト 内部の悩みや課題を掌握することは、事務所としてのサポートを検討するうえで有益であった。また、ニカラグアの関係省庁と接触する 中で、日本側の支援方針や援助重点分野などを時に説明することは、今後の対ニカラグア協力案件を発掘・形成するうえで重要な ことであった。

  他方、無償資金協力プロジェクト関連では、建設工事や医療器材の搬入などの現場視察を行ったり、関係者と面談し現況の説明に耳 を傾けた。また、2KR資機材(主には肥料)の供与式典、草の根無償資金協力による小学校建設開校式典、「サンタ・フェ橋」基本 設計調査に係る現地調査、「サン・ファン・デル・スール漁港」の現況と活性化に関する現地調査、小学校建設現場の視察、 2KRの積立資金による地方砂利道補修工事の竣工式典への参列(2007.10)など、毎月の半分は事務所を離れ現場へ出掛けた。現場こそ 「国づくり・人づくり」の最前線であった。また、プロジェクトの新規発掘・形成に当たっての萌芽的情報と着想を得るための重要な 機会となった。特に貧困格差の激しい地方へのさまざまな出張の機会は錆びついた脳を大いに刺激し、新規プロジェクトの発掘・構想 の源となった。

  さて、ニカラグア国内のあちらこちらへ公務出張を重ねる一方で、週末と有給休暇とを繫ぎ合わせた私的な旅も大いに楽しむべく 積極的に努めた。赴任当初は業務の掌握に四苦八苦であった。国内においては断続的に続く公務出張に明け暮れ、プライベートな 旅を考える余裕は全くなかった。だが、逆に海外への旅は赴任国の地の利を生かすことで、公務の合間を縫って周辺諸国を訪ね、 自身の活動エネルギーを充電するよう心掛けた。当時を振り返って見ると、着任して1年ほどの 間に出掛けたプライベートな「海と船の散策の旅」のほとんどは、国内のそれではなく海外へのそれであった。 国内での私的な最初の旅は、強いて言えば、赴任の翌年の2008年末の大晦日に古都レオンにある修道院のようなホテルに一泊して一人 静かに年越しをしたくらいであった。

  既に述べたが、赴任後の最初の海外への私的な旅は、週末と有給休暇とを繫ぎ合わせてのパナマへの4泊5日の旅であった。 何が何でも一にも二にも、同国の地の利を生かしてパナマ運河を見たかった。次いで旅したのが、米国カリフォルニア州の沿岸諸都市 (サンフランシスコとモントレー、サンディエゴとラ・ホヤ、ロサンジェルスとサンタバーバラなど)を周遊した。その後、メキシコ (首都やベラクルスなど)やコスタリカ(首都やプンタレーナス)などであった。いずれも近隣諸国の海と船、海洋博物館などの歴史 文化施設を散策しリフレッシュするための旅であった。ペルー・リマにも出かけたが、用向きは中南米所長会議への出席であった。 赴任中二回目となったメキシコへの旅も同じく会議出席のための公務であった。プライベートな旅は圧倒的に海外への旅となり、国内 でのプライベートの本格的な旅ができたのは何と着任後1年以上経た頃であった。

  赴任した2007年10月から2009年2月までの1年半は、国内での業務出張と、海外への私的な旅に明け暮れていたが、 ついに国内の本格的な旅らしい旅のチャンスが巡ってきた。同僚3人と「ニカラグア湖」に浮かぶ火山島の「オメテペ島」(淡水湖に浮かぶ 島としては世界最大といわれる)へ、わずか一泊二日の週末利用の小旅行をした。それが赴任後初めての純粋にプライベートな ほんの僅かばかりの遠出の旅であった。

  その旅の道中での雑談において、「エル・カスティージョ」という地に、スペイン植民地時代の要塞史跡が遺ることを知った。 「ニカラグア湖」から流れ出る唯一の河川である「リオ・サンファン川」を50kmほど下ったところにあるという。 いつしかそこへ旅したいと思いを馳せた。そして、「セマーナ・サンタ(聖週間)」という長めの祭日が比較的早くやってきて、 その機会をとらえて訪れた。余談だが、ニカラグア湖は、中南米地域では「チチカカ湖」に次いで2番目に広い湖であり、世界では10番目に大きい淡水湖であるという。

  エル・カスティージョへの旅が私を「ニカラグア運河」に目覚めさせることになるとは想像だにしなかった。 要塞内にプリ・コロンビア(1492年のコロンブスの新大陸到達以前の時代)から現在に至るまでのニカラグアの歴史を数十枚の パネルで展示する小さな展示室があった。その展示の中に「ニカラグア運河の夢」というパネルが4,5枚あった。そこで「ニカラ グア運河」にまつわるこれまでの長い歴史や、ニカラグア国民の夢を知ることになった。

  運河にも興味を抱いていた私は、俄然にニカラグア運河の有望候補ルートを巡る踏査と、今だ現在にまで続くニカラグア国民の 夢そのものに前のめりになった。その後、ニカラグア政府が2008年に公表した運河に関する「プレフィージビリティ調査報告書」 なるものをひも解いた。そして、有望運河ルートとされる6つのうちの幾つかのルートを実際に踏査してみようと思い立った。

  最有望ルートの中で最も関心を寄せていたのは、カリブ海に注ぐ「エスコンディード川」の支流の「エル・ラマ川」と、「ニカラグア湖」 に注ぐ「オヤテ川」の分水嶺であった。その分水嶺を目指して馬でオヤテ川をJOCV土木隊員と共に遡上した。その途上で循環器系疾患に よる緊急事態に遭遇した。その後、奇跡の生還を果たしたが、職務遂行を断念し帰国した。これらのことは次章に述べたい。

  事故から多くの教訓を学び、人生を見つめ直すきっかけを得た。生還後暫くして、新たな決意の下で人生を歩むことになった。生かされた 残りの人生を「ウェブ海洋辞典」づくりにかける決意にもつながった。他方で、ニカラグアには何か宿題をやり残してきたという強い 思いがある。いつしか再びニカラグアの土を踏みその宿題をやり終えねばとの思いを、帰国後15年経た2024年の現在でも心に留めている。

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    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第3節 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る


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       第21章・目次
      第1節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第2節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第3節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第4節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する