2000年の元旦は個人的にも意義深いものであった。「いよいよ21世紀への扉が開かれた」という感動を覚えた。そして、21世紀に突入
して間もない2000年春先に、13年ぶりの2回目の海外赴任に向けての号砲が鳴り響いた。1987年(昭和62年)3月に最初の赴任国であったアルゼンチンからに帰国して
以来、新宿勤務に塩漬けとなり、川口と新宿の間を13年間も通い詰めていた。余りにも長いことから、人事に全く口うるさくなかった
私であったが、さすがにしびれをきらしていた。そんな折、たまたま人事課長とトイレで立ち話をする機会があった。「あれから
もう13年。そろそろ在外の最前線に立ちたい」と、本音と冗談とが入り混じった「独り言」をついに漏らしてしまった。ほとんど確信犯的な「独り言」であった。
その数ヶ月後のある日、人事課長と改めて人事のことで正式に面談する機会があった。在外勤務のことであった。自分勝手な憶測であるが、
例の「独り言」の成果であったと思われる。あの時漏らしていなければ、赴任はさらに何年も遠のいていたかもしれない。
人事課長の最初の一言は「英語圏であればいつでも赴任は可能である」かのような口ぶりであった。だが、丁重かつ婉曲的に遠慮を
申し上げ、中南米への赴任を希望している旨を正直に伝えた。時が暫く経った頃に得た赴任候補地は、南米のパラグアイということであった。
希望が聞き届けられたことに大いに喜んだ。
パラグアイはボリビアと同じで海に面しない内陸国、「海なし国」であった。毎週末家族とビーチに出掛け、水浴びをしたり
潮風に当たってリフレッシュするというプレミアムな時間を過ごすことはできないのが残念至極であった。パラグアイは南米の「へそ」と呼ばれ、
南米大陸の真ん中辺りにあった(地理的には大陸のずっと南寄り)。海辺でたまにリフレッシュするには、
東西南北どちらの方角に向かったとしても1000kmほど離れていた。飛行機で旅してもビーチに辿り着くのに4,5時間は掛かる。
だが、発想の転換をした。「暫らくぶりに海を見たい」というありふれた口実ではあるが、週末や有給休暇などをフルに活用して隣国へ
出掛ければよいではないかと思い直した。チリやウルグアイなど未だ訪れたことのない「海あり近隣諸国」を訪ねることもできる。
ブラジルのサントスやリオ・デ・ジャネイロなどの、青少年の頃に憧れた港町をじっくり散策し、海洋博物館や海にまつわるいろいろな
歴史文化施設を見て回れるものと内心大いに喜んだ。
それに日本へ一時帰国する権利を振り替えて、カナダ・米国などへの長期健康管理旅行もできると、パラグアイへの赴任を
大いに喜んだ。
喜んだのはそんな理由だけからではなかった。スペイン語での職務となるので、昔アルゼンチンで苦労して
培った語学力を再び生かすことができる。もちろん、13年も経っていたので、語学力は相当に錆びついていた。鍛え直しが不可欠で
あった。前向きに捉えて、赴任の機会を最大限に生かし、初心に立ち戻って一からスペイン語を鍛え直そうと固く決意した。スペイン語検定一級に
合格できるくらいの実力を養いたいものだと心が燃えた。
それに、語学と言えば「海洋辞典づくり」をさらに一歩前に進める絶好の機会でもあった。周りに日常的に転がるスペイン語の海洋
関連語彙を拾い上げつつ、西和・和西海洋辞典を進化させることができるものと喜んだ。何と言っても日常的にスペイン語と関われることが
辞典づくりにはベストな環境であった。スペイン語環境に深く身を置き絶えず刺激を受けられることは有り難かった。
パラグアイの土を踏むのは初めてということではなかった。多少の土地勘があった。人事部職員課勤務時代に、アルゼンチンとパラ
グアイの「職員生活環境実態調査」のために一週間ずつ滞在したことがあった。まさか、そのパラグアイに赴任できるとはラッキーであった。
確かにアルゼンチンの純粋な白人系国民の世界とは異なり、パラグアイは社会生活上の環境やレベルにおいてかなりの落差があることは感じていた。だが、
パラグアイの人々の純朴さ、素朴さ、牧歌的田園風景や田舎臭さも大好きであった。生活の諸相をかなり想像できた。首都アスンシオンや地方都市な
どの現況を思い起こせば、赴任に当たっての不安のほとんどをかき消すことができた。南米の片田舎で仕事も生活を大いに楽しもう
というポジティブなわくわく感が込み上げ期待が膨らんだ。
休題閑話。2000年(平成12年)3月に、いよいよ国際協力の最前線に赴任し、「パラグアイ大統領府」傘下にある「企画技術庁
(Secretaría Técnica de Planificación; 略称STP)」に着任した。所属は「国際協力局」であった。カウンターパートは経済
博士号の肩書をもつマリオ・ルイス・ディアス局長であった。大変温厚な紳士で人望も極めて厚かった。彼の執務室のすぐ近くに小さな個室をもらった。私の肩書はJICA派遣の
「開発計画」専門家であった。そこに3年後の2003年3月に離任するまで勤務した。
企画庁は「アイフラ」という、アスンシオンではかなり近代的なビルに陣取り、その階上にはJICAの「パラグアイ事務所」が同居していた。
アスンシオンは「パラグアイ川」沿いに創建された町である。歴史的にはブエノス・アイレスよりもずっと古く創建された都市である。
大統領官邸はそのパラグアイ川の畔に建ち、アイフラからは至近距離にあった。企画庁やJICA事務所からは、左右対称の宮殿のような
美しい白亜の官邸を見下ろすことができた。アルゼンチン以来の在外勤務であり、それも同じ南米スペイン語圏での勤務であったので、
仕事面でもプライベートライフにおいても楽しめそうで抱く期待は大きかった。だが、他方で、「開発計画」専門家という大それた肩書に恥じない
仕事をなしうるのか、正直のところ一抹の不安を抱えながらの船出であった。
企画庁 のミッションをざっくりといえば、大統領官邸の指示の下に、経済社会発展のための国家戦略や中長期基本計画を策定し、
その実行面において旗振り役・司令塔の役目を果たすことである。また、国家財政が脆弱なパラグアイ政府にとって、いずれの国家計画
を執行するにも、国際機関や欧米諸国・日本からの経済・技術的支援が欠かせなかった。企画庁はそれらの機関や諸国からの援助受け
入れ窓口となり、その受け入れに当たり必要な対外的調整を行なっていた。また、外国援助を希求する国内の関係省庁との連絡・
調整の機能をも果たした。また省庁からの要請案件の優先順位の調整に携わった。国際協力局がそれらの任務を負い、局長がその責任者であった。
日本政府・JICAとの関係をざっくりと記したい。日本は、技術協力、無償資金協力、有償資金協力の3つの協力を提供していた。「国際
協力局」は、関係省庁・地方自治体・公立大学その他の公的機関から、日本に援助を要請したい諸々のプロジェクト案件を募集し受理する。
日本政府やJICAの援助基本方針や重点分野などを鑑みながら、またパラグアイ政府自身の経済社会発展計画を踏まえながら、
それらの案件に対する援助要請上の優先順位の調整などを図る。また、それら案件の実施上の諸条件の確認や調整をも行なう。かくして、
日本側の援助重点分野などを踏まえつつ、候補案件の優先順位づけとその調整にイニシャチブを発揮することが期待される。
パラグアイでは数多くの「プロジェクト方式技術協力」(専門家派遣、研修員受け入れ、機材供与の三位一体の協力)、海外青年協力
隊員のボランティア活動、無償資金協力などが実施されているが、企画庁は関係省庁・機関と連繋しながら総合的なモニタリング、評価、
プロジェクト運営上の共通課題への対処、将来のプロジェクトへのフィードバックなどに取り組む。また、過去のプロジェクトの
成果の発現や、その面的拡大にも髙い関心を払い、それに正面から向き合う。
南米の「最貧国」と称されるパラグアイに対して、日本は他の援助諸国の中でも最大規模の支援を長年行なってきた。
1991年に日本のバブル経済がはじけたとはいえ、1997年頃までは米国を追い越して「政府開発援助(ODA)」のトップドナーの位置にあった。
2000年にはODAは下降線を辿り始める状況ではあったが、当時JICAはなおも数多くのビッグ・プロジェクトを進めていた。
JICAはパラグアイに対し長年援助してきた関係上、また時に最大の援助国の位置を占めていたこともあり、パラグアイ側援助受け入れ
窓口機関の企画庁内にいわば「ジャパン・デスク」を擁していた。即ち、JICAは技術協力専門家として歴代にわたり職員を同ディスク
に派遣し、日本とパラグアイを繫ぎ合わせる任に当たって来た。
さて、13年振りに赴任するのは嬉しかったが、「開発計画」という肩書の専門家として、大統領府企画庁に配属されることには
多少の違和感もあった。何故ならば、JICAでの業務経験が長く、海外での技術協力の執行にノウハウを蓄積してきたが、一国家の経済社会
開発に特化した職務を担った経験がなかったからである。国際技術協力全般の実務やプロジェクト運営管理に経験があるだけであった。
パラグアイ政府の国家戦略政策立案や計画遂行の一翼を担う担当部局の国際協力局に所属しながらも、大上段に構えて開発計画を
ぶち上げることはとてもできそうもなかった。そうするための経験も能力も不足し、また権限もなかった。むしろ、JICAによる技術
協力を少しでも充実させ、パラグアイの経済社会発展につながるプロジェクトを発掘し、将来への橋渡しをすることが大事だ
という思いであった。
そこで、私なりに専門家としてのミッション、役割、立ち位置、期待されるところは何なのかを模索し、再認識しておこう
と幾つかのことに取り組んだ。先ず過去に実施された技術協力や無償資金協力の足跡をモニタリングしながら、その成果や課題を知る
ことが大事であった。また、現在進行中のいろいろな技協・無償協力プロジェクトの進捗を理解することにも取り組んだ。
日本の対パラグアイ援助重点分野を理解しつつ、また現在のパラグアイ政府の経済社会発展計画の取り組みや重点課題を理解の上、
プロジェクト・ニーズを模索し、その発掘・形成と向き合うことにした。それによって国づくり人づくりにつながるプロジェクト
が将来「発芽」することを期待した。国際協力局と協力しながら、パラグアイ側の経費負担能力・実施能力を見極め、実施条件や
環境を整えること、また日本側の実施能力・態勢などを見極めながら、企画庁とJICA事務所間の橋渡しを行い、国づくり人づくりのための種を播き続けることを第一とした。
それが、専門家の理想的かつ現実的な職務と理解した。
職務を頭で納得し得たとしても、具体的に何にどう取り組めばよいのか、当初はその悩みは深かった。国際協力局長や日本担当課長らと、
さらに経済局などの他局の職員らとのコミュニケーションの中から、JICAとして寄与できることは何かと暗中模索が続いた。国づくり人づくりに
意義あるプロジェクトに何でも取り組もうと試み続けた。
時系列的ではないが、たとえば、同局長・課長やJICA事務所に次のような提言をなすべく取り組んだ。
アスンシオンの南東100kmほどに「ラ・コルメナ」という日本人移住地がある。日本人として初めての集団入植地で、当初の移住者は
亜熱帯ジャングルを一から開墾し、辛苦の末に農業を始めた。彼らはいろいろな野菜などを育て市場を徐々に切り開いた。さらに
その南東の地にある移住地「カーサパ」では果樹栽培に心血を注ぎ徐々に生活基盤を築いて行った。何度かその移住地を訪問するうちに、
一つの村おこし的施策を創案し、その後計画案を練り上げた。果樹を主体とする世界一のガーデン式造園計画案である。
日本人が入植し「果樹栽培の里」として発展してきたカーサパ移住地に、温帯・亜熱帯性果樹園を10年計画で創成する
というものであった。亜熱帯と言う地理・気候条件を生かした、中南米でも一目置かれる果樹試験栽培・展示園の建設・運営と自然環境
研究所の設置などを提案した。
果樹栽培・展示公園では日本の桜を大きな池の周囲の丘陵地帯に植樹し、毎年満開の桜を鑑賞しながら「バーベキュー祭り」を開催する。10年かけて賛同・協力者
を増やし、毎年の桜祭りを盛り上げ、季節になれば行楽客にも訪れてもらう。日系果樹栽培農家をはじめ、日本大使や専門家、両国政府関係者、
農協などの有力関係者に桜の樹1本100ドルで記念植樹をお願いし、桜樹には寄進者名を付し公益団体・NPO法人が公園を世話する
という構想である。政治・経済界などの著名訪問者による記念植樹の拡大をも構想した。多種多様な果樹の記念植樹と栽培を継続し、
世界でも希少価値のある何百種という亜熱帯果樹園をめざす。アスンシオンの植物園との連携も視野に入れる。亜熱帯果樹の研究
機関をも同公園内に維持できれば申し分ない。JICAの果樹専門家やシニア・青年ボランティアによる継続的な協力も期待される。
一例であるが、社会経済発展の種を播こうと取り組んだ。だが、移住地に根を下ろさない私には思うようには運動の大きな「うねり」
を起こすことは難しかった。
パラグアイ国土の中央部をパラグアイ川が流れ、国土を二分する。二分された北西側の国土は「チャコ」地方と言われる。同河川はさらにチャコの東縁を北上し、かつ
ブラジルとの国境をなしている。チャコ東方のブラジル側には世界的に有名な「パンタナル」という大湿地帯が広がる。パラグアイ
側もその一翼を担う。そのこともあって、
チャコのパラグアイ川沿い一帯は野生動物の楽園であった。特に野鳥の宝庫であった。
チャコの恵まれた自然環境を探り、ネットで世界に広報し、エコツーリズムのモデル案を模索するため、チャコのオフロードの
道なき原野を実際に踏査し、自然原野の風景や野鳥・ワニなどの写真を数多く撮影した。
その踏査体験と写真・資料をもって、チャコでのバードウオッチングをはじめ、エコツーリズムに国内外の関心者を誘うための
ホームページ作りをした。エコツーリズムに関心をもつ企業、観光庁、投資促進公社などが連携しながら、モデルコースを開発し、
ネットでも広報するよう提言案をまとめ国際協力局長などに提出した。自然環境の保全を図りつつ、パラグアイの野鳥などの野生生物
資源を生かして、自然観察やサファリ―ツーリズムの促進の可能性などを追求することの重要性を訴えた。
赴任当初から何人かの他の分野で活躍する長期専門家がいた。例えば、農業協同組合の組織化・運営などを指導する専門家、農牧省
にて農政全般の助言を行なう専門家、また商工省に配属され貿易保険をはじめ貿易促進のための諸制度の創設を構想する専門家
なども勤務していた。中にはJICA専門家業務に就くのが初めてで、業務の進め方につき時に相談を受けることもあった。
例えば、商工省配属の専門家から、「一村一品運動」を推進したいが、何か良い策はないかということであった。
同専門家は同運動の先駆けとなった大分県と太いパイプをもつとのことなので、県担当者を短期専門家として招き、「一村一品振興
セミナー」を商工省と協同して開催することを提案した。短期専門家の派遣を実現するための公式書類や活動計画書の作成などについて
いろいろ助言をする機会をもった。翌年になって、同運動のプロフェッショナルである県担当者によるセミナーがアナログとデジタルの
豊富な資料をもって実施された。一村一品の理論や多くの実践事例が紹介され、有意義な橋渡しとなった。
ある時は、企画庁や他の省庁の関係者とフィールドにでかけ、将来の協力の可能性を模索した。パラグアイはお湯や冷水を注いで、
「ボンビージャ」という金属製ストローのような用具でマテ茶を吸飲する習慣がある。マテ茶を大々的に有機栽培する農場関係者
からその輸出の可能性について相談を受け、農場や製造工場を視察する機会をえた。残留農薬問題、植物検疫のクリアー、有機
栽培のコスト問題やその貿易促進の取り組み施策などについて
意見交換した。世界や日本市場への販路開拓にはいろいろなハードルあるところ、可能な限りの助言をした。
マテ茶の新規市場開拓の窓口として日本のジェトロやパラグアイ側の輸出促進公社などのへのアプローチをも促した。
また、有望な森林資源を活用して、特にパルプ原料をえるために成長の速い樹木であるユーカリの植林に取り組む植林企業体と共に
その現場を訪問した。ユーカリを単品種だけの植林ではなく、他の亜熱帯樹種との適正な混栽式植林の場合における成長度合いや
有効性を観察していた。植林の成長率や採算性の観点からだけでなく、ジャングルの真に再生させる上でどれほど有効なものかという視点からの
植林実験に取り組んでいた。単種植栽・多種植栽の実験を行い、大方のデータを得つつあるという。JICAは造林普及にも協力しており、有益な事例を学ぶ機会となった。
また、国立大学などの要請に応じて、ディアス局長とともにアスンシオン大学獣医学部水産学科の研究施設などを訪問し、その研究現況などを知り、JICA協力の可能性などを
模索した。養魚場が整備される途上にあり、学科長らはスルビーなどの淡水魚の養殖に関心があった。まずは短期あるいは長期養殖専門家を通じての助言
が適切と推察された。JICAに何ができるかをいろいろと助言した。その他、大学や団体から要請があれば、局長らと現場へ出掛け、意見
交換を行い、JICAの重点援助分野や企画庁による経済社会開発の観点から、プロジェクト発掘のためのベクトル合わせを模索したり、いろいろな提言を
推し進めた。
ディアス国際協力局長や日本担当課長らと、現在進行形の技術協力プロジェクトの現場を訪問し、現況を自身の目で観て理解するよう
モニタリングに務めた。例えば、パラグアイ南部地域の「看護・助産教育強化プロジェクト」をはじめ、「中小企業活性化のための
指導者育成」、「中小規模の酪農経営指導」、「度量衡などの検定検査技術の向上」、電気・機械などの「職業訓練技術促進センター」
や「大豆生産技術研究センター」における大豆品種改良・栽培技術指導、小農家のための「野菜生産技術の改善指導」、パラグアイ
東部地域の「造林普及指導プロジェクト」など、当時多くの大型プロジェクトが実施されていたところ、現場訪問を積み重ねた。
だが、半日程度の通り一ぺんの視察や意見交換では、プロジェクトのハード面での現況を多少大まかに理解できても、ソフト面、
即ちプロジェクトの活動上いかなる課題に向き合い、その進捗状況を深く理解することはなかなか難しい。目標達成上の成果やその
長短期の課題について適格な情報を得るのは容易ではない。プロジェクトで共通する課題は、カウンターパート配置の充足率や定着率、パラグアイ側が負担すべき
カウンターパートの活動費、特に出張経費の支出、超過勤務手当ての支給などである。プロジェクトにとって、ステークホルダー
であるには違いないが、さりとて部外者的存在である企画庁関係者に余り深入りや深掘りされたくないとの本音があり、自らの
悩みを打ち明け解決策を求められることは極めて少ない。余程信頼関係がないとそのような課題に関与することは難しい。モニタリングも評価も
皮相的なものとなり、それなりの限界があることは否めない。また、難題を打ち明けられても企画庁が解決できる余地は極めて
少ないことも事実である。
さて、在任中私にとっても重要な業務となってしまったのが無償資金協力の現況のモニタリングであった。企画庁国際協力局長や
大使館と密にタイアップして、過去10年以内のプロジェクトをピックアップし、現地踏査を実施した。先ず無償資金協力の過去の
プロジェクトの利活用状況についての事前文献調査を積極的に実施した。企画庁としても関係省庁と共に把握する必要があった。
決して後ろ向きの業務ではなく、フォローアップや将来へのフィードバックを見据えた大変重要な任務であった。
JICAは進行中の無償資金協力プロジェクトについては「実施促進」という立場にある。引き渡されて1年後に瑕疵検査
がなされ、合格すればJICAの業務上の役目は原則として終了する。無償資金協力の場合、日本政府・大使館がプロジェクト発掘・
形成から実施、その後の評価・フォローまで一貫して常にその第一義的責任を負うことになる。被援助国は援助された施設などを
有効に活用し所定の目的を達成する責務がある。援助の調整窓口機関である企画庁も、関係省庁と協力して常日頃プロジェクトの利活用状況を
モニタリングし、それが不十分であれば自国財産として適正に利活用され、初期の目標が達成されるように必要な是正措置が執られる
ようにする責務を負う。
さて、4,5年の間隔で日本の会計検査院による無償資金協力プロジェクトのその後の利活用状況を視察する調査団が
派遣されてくる。赴任中その調査団を迎えることになった。たまたま、私は無償資金協力業務経験が長いこともあって大使館とも
タイアップして対処することが期待された。10年以内のプロジェクトについてその基本計画と実績についてフォローした。
パラグアイでは、毎年2~3件の無償資金協力プロジェクトが実施されていたので、過去10年も遡ると検査対象プロジェクト
は数十案件にも上る。その分野は教育、医療・保健、農業、民生向上、水供給、道路建設その他の社会インフラなど多岐にわたる。
企画庁と大使館とがパラグアイ関係省庁やプロジェクト実施関係者と協働で、それらの利活用の実態把握に向けた現場踏査に尽力
し、課題があれば協議し対処策を共有した。時に、重要な課題には、企画庁大臣名や国際協力局長名をもって関係省庁やプロジェクト
実施機関に公式文書で善後策を申し入れたりもした。
アスンシオン市内に建設された「パラグアイ日本社会文化センター」では様々な社会文化活動が一般市民や日系人らによって
実施されていたが、その利活用の頻度や施設のメンテナンスが十分になされているか。綿花を紡ぐための織機を装備する製糸実験・
教育的モデル工場が援助で建設されたが、その現況や実績はいかがか。施設や機材によっては、いろいろな社会事情に直面するプロセス
において当初の計画通りに利活用されていない場合がある。いかに改善するか、その施策が模索された。飲料水の確保に苦しむ地方住民に
対し飲料水を安定的に供給するために、井戸掘削と給水塔の建設、一定の地理的範囲までの導水幹線路の敷設、各戸経費負担による
各家庭までの支線路配管などを行なう「地方給水施設建設プロジェクト」も踏査した。給水状況をなじめ施設のメンテナンス
や水道料金の徴収などの現況を現地で聴き取りを行い、課題への対応を模索した。
農業分野では、例えば地方農村部での野菜や果樹などの「共同集荷場施設の建設と選別機の設置」などのプロジェクトもあった。
施設・機材の利活用・メンテナンスの現況、加入組合員による経費分担状況などを把握し、その利活用を見届けた。日本人が入植し
農業に勤しむ幾つもの村落が国内に点在する。農業資機材・生産物の搬出入の利便性や生活向上を図るため、村落に通じる
支線道を建設したり、舗装するための砕石機・アスファルト敷設機やアスファルト資材などが供与された。計画された道路舗装や橋建設の
実際の現況や、資機材の維持管理状況などを見届けた。特に資機材がその後どう有効に利活用されているかに関心が集まり、
その有効利用を見届けると同時に必要な改善について明らかにされた。
ところで、「開発計画」専門家として関与し取り組んだ個々の業務の全てをここに記すことは困難である。3年間にJICA・企画庁に提出
した公式邦文・スペイン語報告書の総計は4~500ページは下らない。多くの職務や企画に手を染め、可視化できる何がしかの成果を得ようと
努力を重ねたものの、さて「具体的成果は何か」と問われれば、忸怩たる思いに駆られる。時の経過と共にそれ悟るに至ったことから、
途上において業務取り組みにつき方向転換を模索し、その「選択と集中」を図ることにした。特にそれは、大豆生産技術研究センタープロジェクト
の評価と、進行中であった「経済開発調査」後のクラスター戦略の推進を支える共通基盤的インフラの整備に関わるものであった。
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