何故パラグアイ赴任の内示に小躍りして喜んだのか。一つには、13年振りに国際協力の海外最前線に立てることにあった。心は揺さぶられ
大いに踊った。二つには南米の国パラグアイでの協力最前線であった。スペイン語圏に属するがゆえに、もう一度気合を入れて錆びついたスペイン語の
レベルアップにつなげられるものと喜んだ。今次の赴任ではスペイン語を徹底的にマスターしようと張り切った。基礎からもう一度
遣り直しするくらいの気概が湧き上がった。それにスペイン語の環境下で、毎日少しずつでも、特に「西和・和西海洋辞典」のアップデートに取り組めることであった。
更に、チリやウルグアイなどの未だ一度も訪れたことのない異国、それも「海あり近隣諸国」を訪ねることができる
ことであった。例えば、アルゼンチンへの「里帰り」はもちろんであるが、ブラジル、チリ、ウルグアイのまだ見ぬ港町を散策し、
海洋博物館などを訪ねることもできること間違いなしと浮き足立った。それに3年間に一度付与される日本への一時休暇帰国の権利
を振り替えて、米国やカナダなどへの「健康管理旅行」もできるものと心がはやった。とにかく、「海なし国パラグアイ」への赴任を前向きに捉えて心をウキウキさせた。
海洋辞典づくりでは何かと英和・和英辞典に集中してきたが、任地がスペイン語圏であれば、かつてのアルゼンチン赴任時と同じく、
「西和・和西海洋辞典」づくりに真正面から向き合い、少しでも進化させる絶好の機会となりそうであった。アルゼンチン時代は海にまつわる
語彙を何でもノートに書き溜めるというアナログ・スタイルをもって始めた。だがあれから15年ほど経った今では、辞典づくりは
デジタル・スタイルであり、そのウェブサイトを運営管理するまで歩んでこられてきた。
日常的にオンライン海洋辞典のアップデートに向き合えるのと、そうでないのとでは、生活の楽しみや張り合いに大きな違いが出る。
人事異動で海外の何処に赴こうが、またそれが何時の赴任であろうが、今や時間と場所を気にせず、辞典を「進化」させられる状況にある。
何処でも何時でも語彙拾いをして、日本のサーバーにアップロードしコンテンツをアップデートできる。
現代の情報通信技術の偉大な進歩の真っただ中に生きていることに、先ずもって感謝であった。
とにかく英語よりもスペイン語の辞典づくりに集中することにした。アルゼンチンの場合と同様、赴任地パラグアイの地の利を
最大限生かすことにした。赴任後まもなくして隣国ブラジルに赴任中の元JICA入団同期の友人からポルトガル語の辞書と解説書を
譲ってもらった。それもあって、ポルトガル・日本語海洋辞典作りにも着手したかったが、実際の取り組みはパラグアイから帰国後の
ことになってしまった。ポルトガル語よりフランス語辞書をめくりながら、海の語彙拾いをすることが多くなって行った。
さて、一個人一台のパソコンが相互に接続され、デジタル情報を世界的に共有できるという時代が正に現実のものとして到来し、そんな時代に巡り
合わせることができたのは、辞典づくりを始めていた私にとっては全くラッキーと言う他なかった。
パラグアイでも辞典づくりを少しずつでも続けることができれば、その「進化」につながると内心大いに喜んだ。
それに、楽しみながら取り組む語彙拾いや辞典のアップデートは、私にとって、日常的なストレスの解消やリフレッシュにつながる
ものであった。辞典づくりを毎日10分でも15分でもしたかった。それ故に、ハード・ソフト面でのあらゆる諸準備を整えて渡航する
つもりであった。
パラグアイへの赴任は、天職としての「国づくり人づくり」のための国際貢献とともに、語学の「達人」を目指しての
再挑戦、海洋辞典の半歩先への進化、そして外地勤務に伴うストレスの軽減化という一石三鳥以上の喜びをもたらしてくれるものと、
人知れず秘かに興奮していた。正式の内示を受け喜び勇んで家族に報告した。早速どう準備を進めるか、久々の赴任の段取りを巡らし
始めた。その昔、職員課勤務時代に「生活環境調査(1993年)」で、アルゼンチンに加えパラグアイをも訪問し、それなりに土地勘や
予備知識を積み上げていた。そのことが渡航の緊張を和らげ気を楽にさせてくれることになった。
パラグアイ赴任のためのいろいろな情報を掻き集め始めた。プライベートライフにおいてもストレスなく快適に過ごすうえで
最も気にしたのはネットの通信事情であった。現地の通信事情が今いち不透明ななか、海洋辞典のアップデートに必要なハード・
ソフトのあらゆる諸準備を慎重に行った。輸送中での破損が心配であったが、当時自宅で使い慣れていたIBM社製のデスクトップパソコン
などのPC関連機器一式をアナカンパニード・バゲッジ(アナカン荷物)として持参することにした。IBM社製のパソコンはその当時世界で広く普及し、
代理店も多く、万一の場合には修理も容易であろうと考え、IBM製に執着していた。事実、現地で実際に不具合に見舞われ困り果てた
ことがあったが、IBM代理店に持ち込み相談したら無料で修理してくれ、感謝に耐えなかった。
さて、パソコン本体はブラウン管テレビと同じくらいの大きさであった。それを段ボール箱に慎重にパッキングした。
ホームページ作成関連図書やソフト関連品をはじめ、辞典づくりに必要な全てのハード・ソフト資材を、段ボール箱に
一つ一つ丁寧に詰め込んだ。別の段ボール箱には縦置き型のサーバーをパッキングした。私なりに用意周到であった。
とにかく、現地の通信環境を満足に把握できないので、自前のハードとソフト一式全てを持ち込んで、自己完結的に万全の準備態勢を
整えることにした。
挙句の果てにプリンターまでアナカン荷物として空送するという念の入れようであった。200ボルトを100ボルトに減圧すると同時に、
停電時には暫く電源をバックアップできるという「無停電電源装置」を新規に購入し梱包した。隙間にはクッション材とともに、
辞典の全デジタルデータを納めた「MO」という外付け記憶装置と何十ケースもの記憶媒体を、キーボード、コード類などと共に梱包した。
現地で接続さえすればすぐにでも辞典づくりができるというのが準備目標であった。諸々のソフトウェアも抜かりなく一式揃えた。
また、職場で業務上使用するノート型パソコンもスーツケースに詰め込んだ。神経質なほどに、納得の行くまで全てを梱包し尽く
した。現地での通関上のトラブルを最小限にし、また輸送途上での損壊を極力避けるために、大手の手慣れた運送会社である「日本通運」に
依頼し空送してもらうことにした。
私的には、パラグアイでの辞典づくりにとっての最大の懸念材料は、ネット環境・通信事情であった。「ftp」というアプリ
をもってパラグアイからデータを日本国内のサーバーに円滑にアップロードできるかが心配であった。まさか電話ダイアルアップ
方式での接続ではあるまいと考えていたが、高速通信が一般家庭でも可能であることが分かってきて、安堵して赴任の途に就いた。
パラグアイでは固定電話の普及率が極めて低いが、固定電話さえ引かれていれば、日本と同様に高速ネット通信が期待できそうであった。
日本では、固定電話回線を利用したダイアルアップ方式を卒業し、ネット接続機器のルーターを介した「ADSL方式」による高速
通信が一般に広く普及していた。職場の企画庁では、JICAと同じように、光通信で快適にネット接続ができ、「ネット
スケープ」などのブラウザを使って快適にネットサーフィンができた。企画庁では自前のネット接続専用サーバーが庁舎内に装備され、その運営
管理は同僚のオーストラリア人コンサルタント2名が、ウイルス対策も含めてフルに対応していた。ある時、サーバーにウイルス
が侵入したために、各自のパソコン端末からの駆除と修復にそれなりの時間を費やするはめになった。プロバイダーのサーバーを経由しないで
個人でネットサーバーを独自かつ直接的に運用することの大変さを思い知った。他方、日本とは逆に携帯電話の普及率は日本以上であった。
さて、着任後暫くして段ボール箱が無事届けられ、急いで開封してセッティングを始めた。何の不具合も無いことが確認でき
た時には心底安堵した。また、自宅でのネット環境そのものを整えるべくあちこち奔走した。地元のプロバイダーがJICAや企画庁が入居する
オフィスビル内に営業拠点を構えていたので、契約手続きや支払いなど何かと大変便利であった。早速、プロバイダー契約の他に、
携帯電話の通信契約も結んだ。そして、パソコンをネットに接続できるか、先ずはその動作を確認した。そして、
「ftpソフト」を用いてファイルや画像を日本のレンタル・サーバーへアップロードできるかを試みた。結果成功し上出来の滑り出し
であった。
時に接続を巡る技術的トラブルや、課金・支払い上のトラブルなどに見舞われた。電話ではラチがあかない時には直接出向いて
交渉したりで、イライラが積もることもしばしばであった。そんなことを繰り返しているうちに、徐々にネット環境が整い始め、
辞典づくりが順調に転がり始めた。後に家族3人(妻、娘2人)がやってきて、家族全員のプロバイダー契約と携帯電話通信契約の料金
を全部足し合わせると、何と通信費総額は4万円近くにもなってしまった。発展途上国で日本におけるのと同じような通信環境を整えるには想像以上
に高くつくものになった。
私的には、余暇時間を見計らいながら辞典づくりにかかわることは、毎日滋養強壮剤あるいはビタミン入り清涼剤を摂取するようなものであった。
精神安定剤的な効能を得るようなものと言えた。仕事上の毎日のストレスを発散させ自身をリフレッシュさせることに繋がった。
辞典づくりに2、30分ほど没頭すると、その日のストレスを全て忘れ去り、発散させることができた。
自分でも不思議なくらいに、明日の仕事への心の準備が整い活力を取り戻すことができた。通信・パソコン環境が整うと、語彙拾いや
アップデートはいつでも自在に可能となり、一人でも楽しめるという良さがあった。西和・和西海洋辞典の「進化」を図るまたとないチャンス
がそんな日常の中にあった。
さて、パラグアイでの生活に欠かせないのが良好な住まいと通勤用の車両であった。道路事情は余り良くなかった。特に地方の支線道路
ではまだまだ未舗装が多かった。アスンシオン市街地でも穴ぼこが多く、大雨が降るとすぐにあちこちで水溜りと冠水が発生していた。
通勤には四駆のランドクルーザーの「プラド―」(トヨタ)を考えていた。地方の支線道路はほとんどが「ティエラ・ロッサ」という
鉄分の混じる赤みがかった土壌に覆われ、雨が降るとすぐにぬかるみとなり、時に脱出できないほどにタイヤを取られてしまう。ランクルの選択が正解であった。
新車の購入には現金で全額一括払いが求められるため、現金で300万円相当以上のドルを持参する必要があった。
トランジットした米国の税関を何とかかいくぐりパラグアイまでドル・キャッシュを持ち込んだ。ニューヨーク東京銀行ドル口座を前回のアルゼンチン
赴任時以来解約もせずそのまま塩漬けにしていた。また、小切手帳も保持していた。だが、パラグアイに着任早々市中の両替商にいきなり
個人振り出しの小切手を持ち込み、300万円分のドル現金をすんなりと入手できるはずもなかった。新車の場合、車代金全額を支払い後に
顧客の条件に合った車両の生産を開始することになる。だから、全額支払っても新車を手にできるのは優に何ヶ月も先のこととなる。
車両購入の他に、住宅賃貸契約の締結と同時に、月額家賃のドル現金払いの他、敷金・礼金を加えた3~4か月分ほどのドル
払いが必要となる。当座のホテル代・生活費に加えて、住宅関連の支払いに、100万円相当のドル現金を用意していた。意を決して日本
国内で定期預金を解約してそれらの自己資金を準備する他なかった。他の赴任者も同じような境遇であろう。JICAが支払ってくれる
支度金だけでは到底賄えなかった。いずれにせよ、自己資金を完全に精算(ペイバック)できる目途がつくのは、ようやく丸3年後の
帰国を迎える頃になってからのことである。だから、公私の理由を問わず、赴任途中において早期帰国することになれば、当初の
個人的軍資金をリカバリーして収支バランスを取ることはかなり難しくなる。その時は自己リスクということになる。
さて、不動産屋を介して候補となる住宅を数軒案内されたが、ある物件についてすこぶる気に入り即座に契約を交わすことにした。
髙い塀に囲まれた広い敷地内に数十軒もの一戸建て独立家屋が建っていた。最も気に入ったのは敷地全体が鬱蒼と亜熱帯樹林で
生い茂っていることであった。まるでスピルバーグ監督の映画「ジュラシック・パーク」に登場するようなジャングルで生活するか
のようであった。その戸建式コンドミニアムの正門には守衛が24時間陣取り、人の出入りをチェックしていた。治安面では心配なさそうで、これも重要な借り上げ
条件の一つであった。
敷地内には共用の洒落たプールがあり、そのプールテラス脇には「キンチョ」と
称されるバーベキュー専用の小さな施設があった。そして、その供用プールとテラスは我が家のリビングの真正面近くに配されていた。
朝起きて、カーテンを開くと、朝日がプールに差し込む。水面がキラキラと輝く様が樹林の間隙から垣間見える。そんなジャングル
ガーデンテラス風景ほど清々しいものはなかった。週末はプールサイドで水浴と木浴が同時にできそうで、リフレッシュにはベスト
であった。プールもキンチョも、また原生樹林のようなジャングルも全て共用物であったが、そんなことをすっかり忘れて、あたかも
自分たちの専用物であるかのような錯覚に囚われていた。特に週末はそんな環境を独り占めにし、陽光で眩しいほど水面がキラキラと
照らされたプールを眺めながら、カフェを手に爽快なリゾート気分に浸りながら過ごす。そこに身を置くだけで心が満たされるという、夢心地のような別世界がそこにあった。
間違いなく一生に一度あるかないかの生活環境に思えた。リビングの片隅には少し大き目の事務机を置いた。そこにデスクトップ
パソコンなどをセットし通信ケーブルを壁際に沿って這わせた。
さて、「ジュラシック・パーク」の風景写真などを家族に送って早く来るように促した。次女はその年(2000年)の春に、希望していた
公立高校に入学したばかりだったので、父の都合で、いきなりパラグアイで高校生活を送るかどうかの選択を迫ることになった。
スペイン語圏の異国にて英語での高校生活を送るべきかどうか迷っているものと、当時は予想していた。だが、ずっと後年になって
娘に訊ねて見ると、「海外生活も悪くないと思いつつも、先ずは日本で憧れの高校生活を暫く楽しんだ後に、パラグアイに生活拠点を
移してみたい」と考えていたという。さて、半年ほどした一学年の半ば頃に、妻と次女がはるばるやって来た。
「ジュラシック・パーク」を写した写真に動かされてやって来きたと思うのは私一人であった。
英語とスペイン語の世界に飛び込むことをよく決意したものだと一人感心していた。後で知ったが、一年後に帰国しても二学年
から編入できるという、当時の公立高校としては珍しい特別配慮があることが高校留学の決め手だったようだ。
アスンシオン空港の近くにあったハイスクールを事前に訪ね、学校の環境、雰囲気、カリキュラム、学生事情など、学校のハード・ソフト面に
ついて調べた。米国人子弟が主体の本格的な「アメリカン・ハイスクール」ではなかったが(同校には入学定員に余裕がなかった)、
それに準じた第二のアメリカン・ハイスクールであった。打ち合わせたところ、その場で内々の入学許可を得ることができ、妻と共に安堵した。
ハイスクールでの英語の授業を追いかけて行くのはやはり大変であった。科目のなかでも世界史については、妻がその英語教科書を翻訳し、
毎週娘が目を通しキャッチアップしていた。同校出身の家庭教師を学校から紹介してもらい、テキストや授業の録音などを噛み砕いて
説明してもらいながら、ドロップアウトしないよう必死に食らいついた。少なくとも最初の半年は学業について行くのに必死であった。
その後韓国、ブラジル、コスタリカなどからの留学生らと気の合う友達になれたようで、高校生活や授業に大分慣れ親しみ安定してきた。
英・西・日の3ヶ国語の環境で多感な青春時代を過ごすのは、それが順調にいけば刺激的ではある。だが、歯車が狂うと登校拒否を起こしは
しないかと気を揉んだ。登校拒否や家での閉じこもりもせず学業生活を送れていたことに安堵した。ドロップアウトもありえるかもと
内心心配していたのだが、最も不慣れな最初の半年ほどの時期を何とかやり過ごすに至った。本人の頑張りと妻の献身的なサポートの賜物であった。
ところが、何を考えたのか、本人はハイスクール2年目に入る直前にあっさりと帰国してしまった。帰国後同じ公立高校の二学年
半ばからの復帰を果たした。
その後、東京外国語大学スペイン語学科を休学した長女が、2001年中頃にやって来た。スペイン語に囲まれての生活で、生の
スペイン語を毎日実践練習できる絶好の「遊学」の機会となった。最も恵まれたことは、私の職場の「企画庁」に頻繁に
出入りすることができたことである。職員の仕事の邪魔になりはしないかと心配するくらい入り浸っていた。そして、何人ものパラグアイ人
職員と仲良くなり交流が次第に濃密となっていった。毎日生きたスペイン語での実践学習を通じて語学を上達させられるという、
またとない体験となったようである。
ところで、長女はスケッチを趣味としていたので、暇さえあればスケッチブックをもって街へ出掛け、雑多の街風景のスケッチを
楽しんでいた。ある日のこと、セントロ(旧市街地)にある「英雄廟」に近い街角で「アイスクリーム売りのおじさん」という絵を描いた。本格的に画家の
道を歩み始める原点となった作品の一つである。機会を得て、「アスンシオン市立文化センター」において、描き溜めて
いたスケッチの展覧会を開くことにつながった。企画庁大臣や関係者の助力もあって展覧会につながったようで、それは本人の大きな実績となり、また自信になったようである。
そればかりか、娘にとってのパラグアイ生活は、画家としてのキャリアを目指して奮起し、絵画・スケッチを生業とする人生を歩み出す
起点となったに違いない。
ところで、アスンシオンは実に緑豊かな都市である。街はずれにある小高い「ランバレの丘」から町全体を見渡せる。
そこから眺望すると、町全体が亜熱帯ジャングルの中にすっぽりと埋没しているかのようである。セントロ(旧市街地)に少し高い
ビルがそびえる程度である。それでも、旧市街地からパラグアイ川を対岸へ渡り振り返ると、川沿いにアスンシオンの摩天楼が
そびえ立ち、さすが「百万都市」だけあると感慨深げにもなる。もちろん人口1,000万人以上の大都市ブエノス・アイレスとは比べようがない。
かつてスペイン人の征服者(コンキスタドーレス)が、ラ・プラタ川流域に入植した黎明期にあっては、アスンシオンが
ブエノスよりもずっと早くに拓かれた町であった。
15分も歩けば旧市街地中心部のビジネス街を通り抜けてしまうが、そこに歴史的史跡のバジリカ、「独立の家」の他、大統領
官邸、国会議事堂、政府機関などの官庁施設が集まる。
ブエノス・アイレスと比べようもなく田舎然としている。町全体が緑豊かな広大な自然公園の中にすっぽりと埋まるようである。
数年後にそんな緑溢れる都会から真逆の砂漠の国サウジアラビアの首都リヤドに赴任することになるとは、知らぬが仏とはこのことであった。
リヤドから一歩郊外に出れば、あるのは「緑のカーペット」ならぬ、荒涼とした「土漠のカーペット」があるのみであった。
話しは少しそれるが、マンゴーの大樹の下を青年が通りかかると、大勢の若い女性が、熟したマンゴーが落下するが如く、
青年をめがけて落ちてきたといわれる。1800年代中期のアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイとの「三国同盟戦争」のために、
パラグアイ青年男子は軒並み戦死してしまったといわれる。青年男子は極端に減少し、大勢の若い女性が取り残されることになった。
男女比の極端なアンバランス状態の時代が続いていたのである。
ここからは私個人の推測であるが、パラグアイ人の若い女性は年頃の男性に対してより献身的かつ優しくなったのであろう。
戦後の永きにわたり、女性は献身的なキャラクター、スピリッツを醸成し、内面的精神性にまで高め、さらに社会的対応
能力を自然と培ったのであろうか。パラグアイ人男性はちゃらんぽらんとなり、昼間から酒に溺れて働かないという体質が身に備わって
しまったのか。女性の献身性
にあぐらをかいてきたらしい。パラグアイ人から聞いた話である。何の科学的な論拠がある訳ではなく、異邦人の勝手な解釈かも
知れないが、そんな話を聴いたことがある。「三国同盟戦争」がもたらした男女比の極端なアンバランスは事実であるが、その結果男女の
精神性や国民性にまで影響がもたらされたのだろうか。確証のない想像の域を出ない話なのか。いずれにせよ、今の私には、パラグアイは「男性天国」、
「男性優位の社会」であるように見て取れた。
日本人男性は、そんなパラグアイ人女性の優しさ、愛想のよさ、人懐っこさ、純朴純真さを感じ、それに魅かれてきたのかもしれない。それ故に、
なかにはそれを秘かな原動力と活力源として、大いにパラグアイ女性にアタックしてきたのかもしれない。即ち、独身青年の移住者、JICAマン・専門家・協力隊員、
商社マンなどの日本人青年らは、パラグアイ人女性のそんな「国民性」に魅惑されたり、時には「誤解」したうえで、勤労や技術協力に励み社会貢献に
精を出してきたのかもしれない。さらには個人的な愛情をパラグアイ人女性に注ぐ者もいたことであろう。それもあってか、
日本のODAはずっとこの方、南米諸国の中でも最大の援助額がパラグアイに注ぎ込まれる状況が続き、ODAの総合デパートであったと言えるかも
知れない。独断と偏見に基づく邪推かもしれないが、ODAの基層に流れるスピリッツの一つではないかと推察した。
日本の対パラグアイODAが中南米で長くトップレベルであったことの謎を解く鍵がこんなところにもあるような気がする。日本人男性は
大いにパラグアイ女性の優しさと献身性に報いたいと努力したに違いない。少しでもあてはまるところがあるとすれば、パラグアイ
国はパラグアイ人女性の献身さに大いに救われてきたといえる。
セントロと称される旧市街地のはずれに「メルカード・クアトロ(Mercado Cuatro)」という庶民でいつもごった返す、雑貨店などが
軒を並べる市場がある。縦横数丁ほどの街区を占めていた。狭い路地の両側に所狭しと、靴・草履、衣類、子ども用品・おもちゃ、帽子、化粧品、メガネ・サングラス、
文具、化粧品、日用品などの雑貨の他、土産品、野菜・果物、肉類などを扱う店が軒を連ねていた。何でも揃っていて、値段は安い。
その市場界隈には幾つかの韓国系レストランやカラオケ店もあった。経営者・オーナーはたいてい韓国人であった。
日本のカラオケボックスのような明るい雰囲気ではなく、雑居ビルの数部屋か一軒家を転用したような薄暗くて場末の居酒屋とスナックを
ミックスしたようなものであった。在外で永く生活すると、機会を見つけては仕事仲間と時々立ち寄り、昭和時代の古い歌謡曲を歌ったりした。
異国の生活にすっかり慣れて緊張感が薄れてくる一方で、日本が懐かしくなる気持ちがじわじわと芽ばえてくるからであろう。
「メルカード・クアトロ」の近傍に「山田旅館」という日本人がオーナー兼経営者のホテルがあり、刺身定食やトンカツなどの日本食
にありつけるレストランが併設されていた。百万都市での本格的な日本食レストランは多くはなく3軒ほどのみであった。その旅館(ホテル
形式)には日本人専門家や事務所職員の誰しもが赴帰任時に殆どと言って良いほどお世話になっていた。私も賃貸住宅が見つかるまでは1週間ほど投宿させてもらった。その目と
鼻の先にも、日系・韓国系のカラオケ屋や台湾系中華レストランなどがあった。時に専門家との定期・不定期の寄り合いのため集う
ことが多かった。
カラオケで思い切り声を張り上げては、大いにストレスを発散させることが幾度となくあった。
1960-70年代の昭和の唄を歌いまくった。断然古い唄であるが、「カスバの女」、アリスの「チャンピオン」「君の瞳は1万ボルト」
など、その他「青春時代」、「二人の世界」などで、声張り上げればその日のことを忘れ頭の中を真空にして家路に就けた。
一年もすれば仕事に慣れるとはいえ、異郷の地で毎日スペイン語でやり取りしていると、ストレスは自然と溜め込むことになる。
日常的な環境を変えるには、一つには遠くに「旅」することが策であったが、手軽なところではカラオケであった。
パラグアイにはこれといった見るべき名所旧跡や自然景勝地がそう多くある訳ではないが、家族揃っての赴任であったので、
アスンシオン近傍の町だけでなく、地方都市や田舎にも時々出かけた。首都から一歩出れば牧歌的田園風景が広がっていた。
車でしばしば遠出したのは、ブラジルとパラグアイの国境線になっているパラナ川の支流のイグアス川に架かる「イグアスの滝」
であったかも知れない。気丈夫にも、義母がはるばる地球の裏側まで一人やってきた機会をとらえて、また友人の来訪があった時
など何かにつけて世界的な瀑布の「見参」に出掛けた。
時には東部の国境の町シウダー・デル・エステからパラナ川にかかる大橋を渡り、ブラジル領土側から瀑布を見物した。
乗合のスピードボートで滝壺直下まで突進し、猛烈な瀑風と「雨」に打たれた。奮発して観光用ヘリコプターに搭乗し、上空から瀑布を眺めたこともあった。
100メートル以上の落差をもつ大瀑布の直下から見上げたり、直上から見下ろしたりするのは圧巻である。だが、ヘリから瀑布を遠望すると、
広大なジャングルの中に埋もれて、あたかも山奥の温泉から湯けむりがわずかに立ち昇る程度の存在でしかない。だがしかし、今まさに
膨大な量の水が落下する瀑布のすぐ傍に立って眺めれば圧巻という他ない。ヘリコプターが、巨大な水の塊りの落下に引きずり込まれ、
滝壺へと吸い
込まれそうである。
ほとんどの瀑布見学は、パラグアイ南東の国境の町エンカルナシオンからパラナ川を渡り、アルゼンチン側へ入国し、川沿いに北上するのが
常であった。パラグアイ側にも、イエズス会が先住民族へのキリスト教伝道のために建てた幾つもの修道院の遺跡が遺される。
アルゼンチン側にもそんな遺跡が遺され、道すがらその幾つかを散策した。例の「ミッション」という映画のメインストーリーを紡いだ
遺跡である。ある時はアルゼンチン側から観光ボートで瀑布の滝つぼ直下まで辿った。「ア」側での見どころの一つは、イグアス川に架かる
狭く細いコンクリートの渡河橋を伝って、瀑布の中央部にある「悪魔の喉仏」と呼ばれるところからの見学である。瀑布の水が最も集中
して落下する凹部のすぐ傍まで辿ることができる。その展望台に立てば足がすくみ、圧倒的な水量の落水とともに瀑布の滝壺へと
吸い込まれそうである。
他に見るべきものといえば、パラグアイで世界的に誇れる人工構造物っとしては「イタイプ・ダム」や「ヤシレタ・ダム」である。隣国ブラジルやアルゼンチン
と共同出資して建設された世界的規模の水力発電所である。例えば、パラグアイは、ブラジルと建設費を折半
する一方で、発電量をも折半する。パラグアイにとっては発電機一基で国内電力需要を十分賄えるとされる。残部の取り分の発電量を
ブラジル側に全量輸出し、建設費の償却に充てているという。そんなダムや発電所を何度か社会見学した。
ブラジルへの売電によってパラグアイ負担の建設費が全て償還された暁には、原価償却費を毎年積み上げても電力売上金のかなりの
部分が国家収入となり、パラグアイの将来を明るく照らす灯火であるはずであろうが、発電所の財政・金融的収支見込みなどについて、
3年間の赴任中一度も新聞でお目にかかったことがない。関心は大いにあった。だが、
ブラックボックスに封印されたままのように思われた。アンタッチャブルということか。
ダム・発電所以外と言えば、小さな歴史的史跡や博物館がある。市街地中心部にある鉄道駅が「鉄道博物館」となっていて、
エンカルナシオンとアスンシオンの間を結んでいた蒸気機関車が展示される。アルゼンチン経由の日本人移住者などは、同国
をパラグアイ川に沿って北上し、国境の町ポサーダスにてパラナ川を渡河し、その対岸のエンカルナシオンでパラグアイの土を踏んだ。
そこから汽車でアスンシオンを目指したという。また、1800年代の製鉄所史跡と博物館の他、「三国同盟戦争」でのロペス大統領の終焉の
地「セロ・コラの丘」、幾つかの日本人移住地、イパカライ湖、大通りの中央分離帯を国境線と定める地方都市「ペドロ・ファン・カバ
ジェーロ」などである。チャコ地方も何度か足を運び野鳥の自然の楽園を散策し、郷土自然博物館も訪ねたりもした。
週末には、時に家族で食事やショッピングに出かけたり、パラグアイ・ハープの演奏会や日系移住者の文化行事などに参加したりもした。
牧歌的田園の散策と親日的な人々とのふれあいや交流は、忘れがたいものである。パラグアイの伝統的な楽器である竪琴(ハープ)の
旋律や音色は、日本人の琴線に触れるものである。何とも言えない哀愁を帯びており、私的には牧歌的な田園風景をいつも鮮やかに
蘇らせてくれる。
日頃からパラグアイ国内のプロサッカーリーグ戦に、時に家族でスタジアムへ足を運んだ。2002年には日韓両国を舞台にサッカーW杯が
開催された。南米大陸10か国間でアウェーとホーム方式で予選大会が開催された。パラグアイはホームでアルゼンチン、
ブラジルなど9カ国と戦った。毎回市内の国立競技場に出向き、その全試合につき生の熱い戦いを家族や、時に友人らと観戦した。
当時チラベルという有名なゴールキーパーを擁するパ・ナショナルチームは、W杯に常連のように出場を果たしていた。
W杯南米予選大会はもとより、大会期間中にはパラグアイ国民も我等日本人も興奮に酔いしれた。蛇足だが、たまたま1986年に
アルゼンチンに赴任していた時に、メキシコでサッカーW杯が開催され、ディエゴ・マラドーナを擁したアルゼンチンチームが優勝した。
当時2歳であった次女は、決勝戦を放映するテレビの前で小さなアルゼンチン国旗を振り回しながら、大はしゃぎであったことを思い出す。
私的にパラグアイで最も心を癒され何より好きであったのは、牧歌的でのどかな田園風景である。パラグアイは紛れもなく農牧国である。
起伏のなだらかな田園地帯では大豆畑や牛の放牧地が広がる。減少しつつあったが、場所によってはなおも亜熱帯ジャングルが残されていた。
総じていえば、国土の南東半分ではジャングルがどんどん農地化される一方で、田園風景がどこまでも広がる。
北西部のチャコ地方には荒涼とした乾燥地帯が広がる。そこにドイツ系移民のメノニータの人々が農牧業を営み、同地方の経済
発展を支えてきた。
余談ながら最後に治安について触れたい。治安はアルゼンチンよりもはるかに良かった。それでも、車上荒らしに遭ってしまった。
毎週二日テニス教室に通っていた。テニス場の外周フェンス沿いにあった空き地にいつも駐車していた。当然ながら車内には何も残すことはなかったが、
不用意ながら、その日はずぼらをしてカバンを残してしまった。魔が差した。練習を終えて車に乗ろうとしたら窓ガラスが壊れているのに気付いた。カバンが
盗まれていた。財布などの貴重品はカバンから取り出していたが、小切手帳だけはそのままにしてしまっていた。
毎週同じ行動パターンを繰り返していたため、獲物を狙う潜在的窃盗犯にパターンを掴まれていたことに、車上荒らしに遭って
初めて気が付いた。全く私が間抜けであった。アルゼンチンであれほど経験していたにも関わらず、
パラグアイでの治安の良さをいいことにして、ほとんど無警戒であったことを悔み恥じた。だが、後の祭りであった。
ニューヨークの東京銀行支店にすぐさま連絡し、特定番号以降の小切手の支払いの差し止めを申し入れ、小切手帳の再発行の依頼をした。
小切手帳の再発行がなされいつものノーマルな経済生活に戻るのに半年以上かかってしまった。車上荒らしでの盗難くらいで済んだのはまだ
ラッキーであった。
パラグアイ在職中の2001年3月11日それは起こった。ニューヨークを舞台にした世界史的事件となり、全世界を震撼させた。人生で幾つかの歴史的
事件・出来事を経験してきたが、NYでの同時多発航空機ハイジャックと貿易センタービル激突テロ事件は3指に入る大事件であった。
赴任して1年後くらいのことである。11日朝いつもの通り、企画庁の執務室で仕事に取り掛かって間もなく、企画庁大臣の秘書が
今すぐメイヤー大臣室へ来てほしいと駆け込んできた。何事かと駆け付けてみると、局長、総務課長などの幹部職員や秘書らがテレビを前に
何かを食い入るように見つめていた。NYからの生中継のテレビシーンが映し出され、それに釘付けであった。マンハッタンの双子の貿易
センタービルの一つの高層階から黒煙がたち上って、ビル上層階は見えないほどであった。その後暫くして、航空機が飛来しもう一つの
ビルに激突し突き刺さり、反対側のビル壁面から断片が飛び散るという、一瞬のことであったが凄まじい光景を見てしまった。
最初は、映画のロケシーンにしては迫力があると錯覚して観ていたくらいであった。
大臣の娘さんがNYに居て、父親の大臣の元へ「今すぐテレビを見て!」という緊急国際電話が入ったという。何事かとテレビをオンにすると、
貿易センタービルが炎上していたという訳である。最初は映画の撮影シーンなのかと目を疑った。余りにも実写的シーンであり
凄くトリッキーな撮影シーンだと感心する一方、正直何をしているのか解せなかった。これって現実なのか。まさかハイジャックされた
航空機による意図的な激突などとは夢にも思わなかった。そのうちそれが現実のものと分かり、さらにびっくり仰天した。
歴史的なテロ事件をライブで見てしまった。パラグアイとNYは時差なしのまさに実写そのものであった。誰の口も開いたままで、呆然唖然としていた。
そのうちさらに信じられない光景がテレビに映し出された。ビルが突如崩れ落ち始めた。それはリアルの実際の崩壊場面であった。
その衝撃は半端ではなかった。2本のビルが崩壊するシーンを生中継で見てしまった。下界では人々は灰にまみれ、必死にビルから遠ざかろうと駆けていた。
何という凄まじい、この世の光景とは思えないものであった。心臓が破裂しそうなショックであった。
その後、ペンタゴンを標的にした
航空機テロなどのニュースが飛び込んで来た。後で分かったことだが、サウジアラビア人を主体とするテロリストたちが何機もの
民間航空機を同時にハイジャックし、センタービルやペンタゴンめがけて自爆飛行をし、数千人の死者が出る大惨事となった。
それ以来世界中でテロが激しくなる一方、米国をはじめテロとの本格的な戦いの時代へと突入、世界情勢が一変した。
2003年3月パラグアイから帰国して1年半後、自爆テロによる爆破事件に遭遇し大ケガを負ったサウジアラビア事務所長に代わって、
首都リヤドへ赴任することになろうとは全く思いもしなかった。全く人生わからぬものである。装甲車や武装兵士で厳重に
警備された「コンパウンド」という、特別に隔離された集合居住区を生活拠点にして、3年近く再び協力最前線に立った。
赴任中、石油化学精製プラント、内務省、米国領事館などへの、サウジ人のテログループによる襲撃事件が続き、世界のマスコミを
賑わせた。日常的に起こるテロ事件に懸念を抱きながら、専門家らに、人の多く集まるところや、内務省・警察機関などを避けて帰宅
するよう注意を呼びかけた。パラグアイで3年間の青春時代を駆け抜けたと思いきや、砂漠の国でテロに身をかがめながら次の青春時代を
駆け抜けた。パラグアイで家族全員で過ごした生活は忘れがたいものとなったが、サウジでの単身赴任生活はもう
一つの忘れがたいものとなった。
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