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    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第1節 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく


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     第3章・目次
      第1節: 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく
      第2節: 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う
      第3節: 関大新聞紙上の先輩活躍記事、偶然目に留まる
      第4節: 羽田空港での初顔合わせと対話は運命の分岐点
      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった



全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビア への赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


  雪上テントの寝袋の中で寝つけないまま悶々としていた時に脳天に突き刺さった閃きによって、人生の新たな目標が定まった。未来はバラ色に 輝いて見え、その高揚感のために眠れなかった。卒後職探しのために駆けずり回るということではなく、そのまま母校の大学院へ 進学して、国際法を深く学び究めることを決意した。かくして、て鉢伏山から意気揚々として下山した。合宿から帰郷してすぐさま、 大学院事務局の扉を叩いて推薦入学などの情報集めに注力した。

  母校の関大大学院の修士課程には法学と政治学の二つの研究科があった。勿論、法学研究科の公法学、その中の国際法を専攻する つもりであった。それ以外の選択肢はなかった。院への入学には大学推薦枠というのがあり、学部の成績が優秀で一定の基準を 満たせば、無試験の推薦枠で入学できるという。先ずはこの3年間での履修 教科の成績の平均値が気になった。他方、4年次に残された必須科目などの成績が良くないと、平均値を押し上げられなくなってしまう。 今となっては手遅れかもしれないが、就活を一切止めて勉学に一層真剣に取り組み始め、その推薦入学に期待を寄せた。 問題は、履修して成績の押し上げを目論むほどには科目数が意外にも残されていなかった。

  第二語学はフランス語を履修していた。語学はもともと大好きで英語も含めて語学講座での成績はほぼオール「優」であった。 語学授業では本人出席が必須であった。マンモス授業では挙手などによって出席の有無が確認されなかったが、少人数の語学授業では、 代理出席のような誤魔化しを例え試みたとしても不可能であった。 もちろん最初から授業をさぼることなくほぼ100%出席した。予習復習も怠らなかった。肝心の法律関係の専門科目の憲法、民法、刑法、 民事・刑事訴訟法、国際法、行政法、その他専門ゼミなどについても、授業をずる休みなどをしていい加減にするという意識は全くなかった。 日頃の部活でのトレーニングや、家での農作業などからくる疲れや眠気を我慢しながらも、可能な限り出席と勉学に励んできた つもりであった。だが、結果としては「優・良・可」が入り混じり、平均値が推薦入学の基準に達するかは微妙なところであった。

  結局のところ、1~3年次の学部時代の学業成績の平均値は数ポイントほど基準に及ばず、涙を呑むことになった。4年次の頑張りは手遅れと いうことになってしまった。かくして、一般入試枠での受験を余儀なくされた。幸いなことに一般枠での試験に合格し、めでたく修士 課程法学研究科の公法学(国際法)を専攻できることになった。かくして、院生活が始まったのは1971年(昭和46年)4月であり、修了したのは 2年後の1973年(昭和48年)3月であった。国際法専攻の仲間には私の他に4人いた。

  ところで、大学4年次の1970年春~秋季に、地元茨木で万国博覧会(Expo '70)が開催された。万博開催地の正式な住所は吹田市 であるが、実際の会場は茨木市との市境にあり、それも最寄りの国鉄駅は茨木駅であった。国連奉職を目標に大学院への進学を 目指していた頃である。 世界中の異文化に地元で接することができ、世界への雄飛を自ら鼓舞できるまたとない機会であった。その地の利を生かして、何度も会場へ足を運んだ。 アメリカ館など人気の高いパビリオンはいつもひどい混雑振りであった。翻ってアジア・アフリカや中南米の国々のパビリオンを見て回った。 国連館も訪問のターゲットであった。国連館では、国連本部勤務の日本人女性職員から就職にまつわる諸事情をいろいろ教わったり、専門職への 応募用紙を手に入れたりした。国連やそこで働く公務員がより身近に感じられ、奉職への志しを最高潮に掻き立てられた。

  国連の専門職員は髙い専門性をもつこと、また十分な職業的経歴も要求される。業務遂行にはコミュニケ―ション能力が欠かせず、当然ながら髙い 語学能力も必要とされる。英語の他にフランス語、スペイン語などの国連公用語の語学能力があればなお一層有利になるという。 専門職の最低限の学歴として、修士号の学位が求められることなどをその国連館への訪問時に知った。国連奉職を目指すのであれば、 大学院で専門性を高めることが必須であった。自身の場合、法律が専門といえるので、その分野での専門職となれば、法務官の仕事が最もなじみやすかった。 できうれば、究極の目標として国連事務総長の特別法律顧問もありうるのではないかと、一人で夢風船を膨らませていた。

  さて、大学院には当時二人の国際法教授が指導に当たっていた。一人は定年退官が近いと噂されていた川上教授と、もう一人は 一回り若い竹本教授であった。院ではもちろん国際法ゼミを専攻した。そして、そのゼミ担当教授は先任の国際法担当教授であった川上 教授であった。竹本教授はまだ院での国際法ゼミの担当教授にはなっていなかった。

  ところで、学部時代には時間とエネルギーの大半を部活と農作業に注いでいたが、院での2年間については違った。 農作業を除いて、すべての時間とエネルギーを院での学究に注ぎ込むことができた。学部時代における勉学不足は嫌と言うほど認識していた。 またそれに、目指すは国連本部事務局の専門職員であったので、今までとは打って変わって学究と真剣に向き合った。何といっても、 国連へ奉職できるか否かの運命が懸っていたからである。その甲斐あって、院での学業成績はオール「優」をマークすることができた。 やればできるのだという面持ちであった。学部時代の成績は人生の次のステップに際しては身を助けることにはならなかった。だが、 大学院でのこの成績は大いに身を助けることにつながるものと秘かに期待した。

  同じ国際法専攻の仲間4人のうちの一人が、イスラエル政府の奨学金をえてテル・アビブ大学へ留学することにチャレンジ していることを知った。彼のそんな留学チャレンジは一つの刺激と励みになり、院に在籍して間もなく留学のことも真剣に模索するように なった。高度な専門性に加え、髙い英語能力なくして、国連法務官が務まるはずもないことであった。 学位に関する最低条件を満たしたとしても、コミュニケーション能力が不十分では全くお話にならなかった。 修士号の学位取得はもちろんだが、さらに何にチャレンジすべきかは明々白々であった。海外留学へのチャレンジを視野に入るようになっていた。 そして、留学へのハードルをどう乗り越えていくかを摸索し始めた。修士課程半ばにして留学を決意し、語学としての英語の能力向上に向け、また 留学のための事務的諸準備を開始した。

  院での学級に最も関心をもちエネルギーを注ぎ込んだ修士論文のテーマは、国連のもつ安全保障制度や機能とその実際の運用、国連平和維持軍の 設置や組織、その活動や運用を通じた紛争防止や地域平和の維持に関するものであった。そのケーススタディとして、1950年の朝鮮動乱における 米国を中心とする「国連軍」の派遣、国連安全保障理事会決議に基づいた集団安全保障のための実力行使の発動、国連憲章規程の適用上の 課題や限界などを取り上げた。そして、米ソ冷戦下における集団安保制度の運用の在り方についていかなる展望をもちうるのかを模索した。 修士論文では、その朝鮮動乱に際しての「国連安全保障理事会における決議案の合法性に関する決定過程」と題して論考した。

  院在籍当時、カナダのトルドー首相政権はその外交政策として、国連平和維持軍の設置・派遣による地域武力紛争の再発防止、地域平和の 構築に熱心であり、国連軍の活用を強く唱導していた。停戦が外交努力で実現された後のことであるが、武力衝突していた国家間の緩衝地帯に 国連加盟国混成部隊を派遣し、武力紛争の再発を抑止するという構想である。そのバリエーションはいろいろあった。 カナダにおいてこの領域の学究に取り組みたいと、カナダへの留学に情熱を注いでいた。国連憲章に基づく安全保障や国際平和と秩序の維持は、 国連の責務と機能の中でも核心的重要性を帯びるものであった。それに、カナダはバイリンガルの国である。 ケベック州などのフランス語圏では、日常的に英語の他フランス語にも接することができ、学究面でもフランス語で取り組む機会も多かろうと考えた。 学部時代にフランス語を第二語学として真剣に向き合い、成績も悪くなかったことから、第一にカナダ留学を最優先に目指した。

  カナダのロー・スクールの大学院での国際法や国連平和維持軍による地域安全保障に関する学究に関心を寄せ、それに取り組める大学の 情報をいろいろ収集した。インターネットのない時代であったから、大阪から上京し、在京カナダ大使館などで、カナダ東部にあるキングストン 大学、トロント大学、クイーンズ大学、マクギル大学などについて情報を集め、大学案内やアプリケーション・フォームなどを取り寄せた。 特にキングストン大学ロースクール大学院を最有力候補とした。願書、成績証明書や推薦状などを順次準備し、アドミッション・オフィスに宛てて 応募した。推薦状には院などでお世話になった竹本国際法教授、平井国際政治学教授、上林社会学教授らにお願いできた。

  法律分野では、日本の高等教育制度と米国・カナダのそれとは大きな違いがあった。日本では4年制大学の学部の一つとして法学部があった。 その上位に大学院(修士・博士課程)があった。米国やカナダでは全く異なった。4年制のいずれかの学部を卒業した後に、弁護士資格取得などを 目指して法律を専門的に5年間学ぶというのがいわゆるロー・スクール(法律専門学校)であった。その上位にあるのが「グラデュエイト・ロー・ スクール(Graduate Law School)」であり、日本語では「法科大学院」とか訳される。そして、修士課程2年と博士課程3年から成り立っていた。米国・カナダの 法科大学院修士課程への応募要件は、「日本の大学院法学研究科修士課程を修めている」か、または「日本の弁護士資格をもち法律実務経験が 2年以上ある」かであった。かくして、米加の法科大学院への入学時における平均年齢は一般的に25歳ということになる。

  カナダ留学には日本での学部・院での学業成績証明書、推薦状(複数)、さらに語学証明書を提出することが求められた。語学証明では、いわゆる 「外国語としての英語試験」、即ち「Test of English as Foreign Language」(略称「TOEFL」)という試験のスコアを提出することが求められた。 カナダの法科大学院の場合のTOEFLスコア基準としては、大学によっても異なるが、キングストン大学などのほとんどの大学院については、 当時600点が要求された。

  神戸に出向いて、年に数回受験していた。受験後のスコアは出願したい大学院宛てに直接送付してもらえた。語学力は短期間で 大幅アップするものではない。テストの難易度、体調などによっても多少は左右されることもあろう。結局、600点以上には一度も達しえず、 550点前後をうろちょろしていた。院時代に独学ではあるが、語学としての英語に真剣に取り組み続けた。だが、そう簡単にはアップにつながら なかった。残念至極であった。時に心は折れそうであった。

  院には2年間在籍し、1973年(昭和48年)3月には修了することができた。学業成績だけは73年2月最速でカナダへ送付できた。院修了と留学 との間の時間的ロスを最小限にするために、即ち院修了年の秋季9~10月の第一クォーターから留学できるように、院修了前後のなる べく早い段階に留学許可を得たかった。早い段階で語学試験のスコアさえ十分にクリアしていれば、 院を修了する頃には恐らく何らかの通知を得られていたかもしれない。しかし、語学基準のクリアをなかなか達成でなかった。そのために、 恐らくは、願書を受け取ったキングストン大学では合否判定をタイミングよくなしえず、判定が先送りされ続けたのであろう。 思い描いていた通りには事は進まなかった。かくして、院修了頃になっても、第一希望のキングストン大学からの通知は届かず、 どうしたものか頭を抱えた。そして、いろいろ悩んだ末に苦肉の策として思い付き決断したは、大学院に特別研究生としてもう一年居残る ことであった。

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    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第1節 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく


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      第1節: 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく
      第2節: 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う
      第3節: 関大新聞紙上の先輩活躍記事、偶然目に留まる
      第4節: 羽田空港での初顔合わせと対話は運命の分岐点
      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった