雪上テントの寝袋の中で寝つけないまま悶々としていた時、ある閃きが脳天に突き刺さり人生の新たな目標が定まることになった。
未来はバラ色に輝いて見え、今度は逆にその高揚感のために眠れなくなっていた。卒後職探しのために駆けずり回ることはせず、
そのまま母校の大学院へ進学して、国際法をさらに深く学び直すことを決意した。かくして、鉢伏高原の白銀世界から足取り軽く意気
揚々として下界に下った。心中はまさに凱旋気分であった。合宿から帰郷してすぐさま、大学院事務局のドアを叩いて推薦入学などの関連
情報集めに注力した。
母校の関大大学院の修士課程には法学と政治学の二つの研究科があった。勿論、法学研究科の公法学、その中の国際法を専攻する
つもりであった。それ以外の選択肢はなかった。院への入学には「大学推薦枠」というのがあり、学部での成績が優れ一定の基準を
満たしていれば、無試験で入学できるという。先ずは過去3年間での履修教科の成績の平均値が気になった。他方、4年生に履修する残余の
専門科目の成績が良くないと、4年間における全体の平均値を押し上げられなくなってしまう。
今となっては手遅れかもしれないが、就活を一切取り止めて勉学に一層の磨きをかけて推薦での入学に期待をつなぐことにした。
問題は、成績の押し上げにチャレンジするほどには履修すべき科目数が意外と残されてはいなかったことである。
第一語学は英語で、第二語学はフランス語を履修していた。語学はもともと大好きで英語・仏語については良好な成績を2年間キープ
していた。語学授業では本人出席が必須であった。専門科目であっても学生数は多く本人の出席につき確認されることはなかったが、
少人数の語学授業では代理出席のような誤魔化しは先ずもって不可能なことであった。
語学授業に限らず、憲法、民法、刑法、民事・刑事訴訟法、国際法、行政法その他ゼミなどの法律関係の専門科目についても、授業を
ずる休みなどをするという意図は全く持ち合わせることはなかった。日頃の部活でのトレーニングや、家での農作業などからくる疲れや
眠気を我慢しながらも、最大限の出席と勉学に励んできたつもりであった。だが、学業成績は「優・良・可」が入り混じり、平均値が
推薦入学可否基準に達するかどうは微妙なところであった。
結局のところ、1~3年次の学部時代の学業成績の平均値は数ポイントほど基準に及ばず、涙を呑むことになった。4年次の頑張りは手遅れと
いうことになってしまった。かくして、一般入試枠での受験を余儀なくされた。幸いなことに、一般枠での試験に合格しめでたく修士
課程法学研究科の公法学(国際法)を専攻できることになった。大学院生活を始めたのは1971年(昭和46年)4月であり、修了したのは
2年後の1973年(昭和48年)3月であった。国際法専攻の仲間には私の他に4人いた。
ところで、大学4年次の1970年春~秋季にかけて、大阪で万国博覧会(Expo '70)が開催された。万博開催地の正式所在地は吹田市
であるが、実際の会場は茨木市との市境にあった。それも最寄りの国鉄駅は茨木駅であった。実家から会場までの距離はわずか4㎞ほどで
あった。自記としては、国連奉職を目標に大学院への進学を目指していた頃のことであった。
世界中の異文化に地元で接することができ、また世界への雄飛を鼓舞できるまたとない機会でもあった。その地の利を生かして、
何度も会場へ足を運んだ。アメリカ館など人気の高いパビリオンはいつもひどい混雑振りであった。翻ってアジア・アフリカや中南米
の国々のパビリオンを見て回った。もちろん、国連館も訪問のターゲットであった。国連館ではニューヨーク国連本部勤務の日本人
女性職員から就職関連の諸事情を教わったり、専門職への応募用紙を提供してもらったりもした。国連やそこで働く国際公務員が
より身近に感じられ、奉職への志しを大いに掻き立てられた。
国連の専門職員は髙い専門性をもつこと、また十分な職業的経歴も要求される。業務遂行にはコミュニケ―ション能力が欠かせず、
当然のことながら髙い語学能力も必要とされる。英語の他にフランス語、スペイン語などの国連公用語の語学能力があればなお一層
有利になるという。専門職の最低限の学歴として、修士号の学位が求められることなど、国連館への訪問時に知った。
国連奉職を目指すのであれば、大学院で専門性を高めることが必須であった。自身の場合、法律が専門といえるので当該分野での
専門職となれば、法務官の仕事が最も組みし易いと推察された。出来得れば、究極の目標として国連事務総長の特別法律顧問もありうる
のではないかと、一人で夢風船を膨らませていた。
さて、大学院には当時二人の国際法教授が指導に当たっていた。一人は定年で退官が近いと噂されていた川上教授と、もう一人は
一回り若い竹本教授であった。院ではもちろん国際法ゼミを専攻した。そして、当時におけるゼミ担当教授は先任格であった川上国際法
教授であった。竹本教授はまだ院での国際法ゼミの主任教授の立場にはなかった。
ところで、学部時代には時間とエネルギーの大半を部活と農作業に注いでいたが、大学院での2年間については違った。
農作業を除いて、すべての時間とエネルギーを院での学究に注ぎ込むことができた。学部時代における勉学不足は嫌と言うほど認識していた。
またそれに、目指すところは国連本部事務局の専門職員であったので、今までとは打って変わって学究と真剣に向き合った。何といっても、
国連へ奉職できるか否かの命運が懸っていたからである。その意気ごみの甲斐あって、院での学業成績はオール「優」をマークすることができた。
やればできるのだという面持ちであった。学部時代の成績は、人生の次の進級ステップに際して、我が身を助けることにはならなかった。だが、
大学院でのこの成績は大いに身を助けることに繋がるものと秘かに期待した。
同じ国際法専攻の仲間4人のうちの一人が、イスラエル政府の奨学金を得てテル・アビブ大学へ留学することにチャレンジ
していることを知った。彼のそんな留学チャレンジは私への刺激と励みとなり、院に在籍して間もなく海外留学のことも
真剣に模索するようになった。高度な専門性に加え、髙い英語能力なくして、国連法務官を務められるはずもなかったからである。
学位や職歴に関する最低条件を満たしたとしても、コミュニケーション能力が不十分では全くお話にならなかった。
修士号の学位取得は必須だが、さらに何にチャレンジすべきかは自明の理であった。留学へのチャレンジを視野に入れるようになっていた。
そして、留学へのハードルをどう乗り越えていくべきかの模索を始めた。かくして修士課程半ばにして留学を決意した。英語能力向上に向け
真剣に努力するとともに、留学のための実務的諸準備に取り組み始めた。
院での学究上最も関心をもちエネルギーを注ぎ込んだテーマ、即ち修士論文のそれは、国連の安全保障制度や機能とその実際の運用、
国連軍の設置や組織、またその活動や運用を通じての紛争抑止や地域平和の維持に関するものであった。そのケーススタディとして、
1950年の朝鮮動乱における米国を中心とする「国連軍」の派遣、国連安全保障理事会決議に基づいた集団安全保障のための実力行使
の発動、国連憲章規程の適用上の課題や限界などを取り上げた。そして、米ソ冷戦下における集団安保制度の運用の在り方に
ついていかなる展望をもちうるのかを模索した。
修士論文では、その朝鮮動乱に際しての「国連安全保障理事会における決議案の合法性に関する決定過程」について論考した。
院在籍当時、カナダのトルドー首相政権は、その外交政策として、国連平和維持軍の設置・派遣による地域武力紛争の再発抑止、地域平和の
構築に熱心であり、国連平和維持軍の活用を強く唱導していた。停戦が外交努力で実現された後のことであるが、武力衝突していた
国家間に緩衝地帯を設け、そこに国連加盟国からなる混成部隊を派遣し、武力紛争の再発を抑止するという構想である。国連部隊の編成、機能、
派遣時期などにはいろいろなバリエーションがあった。
カナダでこの分野での学究に取り組みたいと、同国への留学に情熱を注いでいた。国連憲章に基づく安全保障や国際平和と秩序の維持は、
国連の機能と責務の中でも中核的部分を成すものであった。それに、カナダはバイリンガルの国である。
ケベック州などのフランス語圏では、日常的に英語の他フランス語にも接することができ、また学究面でもフランス語で取り組む機会
も多かろうと考えた。学部時代にフランス語を第二語学として真剣に向き合い、その成績も悪くなかったこともあり、第一にカナダ留学を最優先に目指した。
カナダのロー・スクールの大学院における国際法や国連平和維持軍による地域安全保障関連の学究に関心を寄せ、それに取り組める大学の
情報をいろいろ収集した。インターネットのない時代であったから、大阪から上京し、在京カナダ大使館などで、カナダ東部にあるキングストン
大学、トロント大学、クイーンズ大学、マクギル大学などについての情報を集め、大学案内やアプリケーション・フォームなどを取り寄せた。
特にキングストン大学ロー・スクール法科大学院を最優先候補とした。願書、成績証明書や推薦状などを順次取り揃え、アドミッション・
オフィス宛てに応募した。推薦状には院などでお世話になった竹本国際法教授、平井国際政治学教授、上林社会学教授らにお願いすることにした。
法律分野では、日本の高等教育制度と米国・カナダのそれとの間には大きな違いがあった。日本では4年制大学の学部の一つとして
法学部が組み込まれている。大学院(修士・博士課程)はその学部の上位にあった。米国やカナダでは全く異なっていた。4年制のいずれか
の学部を卒業した後、弁護士資格取得を主目的に法律を専門的に5年間学ぶところがロー・スクール(法律専門学校)であった。
そして、同スクールの上位に「グラデュエイト・ロー・スクール(Graduate Law School)」があり、日本語では「法科大学院」と称される。
同法科大学院は修士課程2年と博士課程3年から成り立っている。米国・カナダの法科大学院(修士課程)への応募要件は、「日本の大学院
法学研究科修士課程を修めている」か、または「日本の弁護士資格をもち法律実務経験が2年以上ある」かであった。かくして、米加の
法科大学院入学時の平均最低年齢は25歳ということになる。
カナダ留学には日本での学部・大学院での学業成績証明書、推薦状(複数)、さらに語学証明書を提出することが求められた。
語学証明では、いわゆる「外国語としての英語試験」、即ち「Test of English as Foreign Language」(略称「TOEFL」)という
試験のスコアを提出することが求められた。カナダの法科大学院の場合のTOEFLスコア基準としては、大学によっても異なるが、キング
ストン大学などのほとんどの大学院においては、当時の基準として600点が要求された。
神戸に出向いて、年に2回ほど受験した。受験後のスコアは出願済みあるいは予定の大学院宛てに直接送付してもらえた。語学力は短期間で
大幅アップするものではない。テスト毎の難易度特性、本人の体調などによってもスコアは多少は(数10点くらいは)変動することはありうる。
結局、600点以上を一度もマークしえず、550点前後をうろちょろしていた。大学院時代に語学としての英語の向上のための自助努力を真剣に
続けた。だが、残念至極なことにそう簡単には、半年前に比べて一挙に50点アップなどの好結果に直結させられなかった。スコアを見るたびに
時に心は折れそうであった。
さて、日本の大学院には2年間在籍し、1973年(昭和48年)3月には修了することができた。願書、学業成績、推薦状だけは73年2月
最速でカナダへ送付できた。大学院修了とカナダ留学との間の時間的差異を最小限にしたいとの思いがあった。即ち、大学院修了年の9~
10月の秋季(第一クォーター)から留学できることを切望していた。大学院修了後のなるべく早い段階において留学許可を得たかった
訳である。早い段階でTOEFLのスコア基準点を十分にクリアしていれば、院を修了する頃には恐らく何らかの通知を得られていたかも
しれなかった。だがしかし、基準点のクリアをなかなか思うように達成でなかった。
かくして恐らくは、願書を受領したキングストン大学では合否判定をタイミングよく下し得ず、判定が先送りされ続けたのであろう。
思い描いていた通りには事は進まなかった。院修了頃になっても、第一希望のキングストン大学からの通知は届かず、
どうしたものか頭を抱えた。そして、思い悩んだ末対処の一策として閃いたことは、大学院に特別研究生として在籍することであった。
在籍中は国際法ゼミに参加しながら新しい仲間と共に学究を続けられることも期待できた。「留学浪人」となって自宅で巣籠り状態になることは
避けたかった。
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