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    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第2節 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う


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     第3章・目次
      第1節: 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく
      第2節: 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う
      第3節: 関大新聞紙上の先輩活躍記事、偶然目に留まる
      第4節: 羽田空港での初顔合わせと対話は運命の分岐点
      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった



  本来ならば、2年間の修士課程を修了する1973年の春頃には、カナダのキングストン大学ロー・スクールから合格通知をもら えるのがベストの留学のタイミングであった。時間的なロスが最も少なくなることから、同年の秋期からの留学を願っていたからである。だがしかし、 何の通知の航空郵便も届かなかった。当然と言えば当然であった。600点以上のTOEFLスコアをこれまで一度もアドミッション・ オフィスに提出できていなかったからである。一度でもそのようなスコアが大学側に届けられていれば、73年春頃には合否に 関する何らかの通知を受け取れていたはずである。

  カナダへの留学が叶わなかった場合の身の振り方について思い悩んだ。考え抜いた末に窮余の秘策を思いつき胸にしまい込んでいた。 即ち、関大大学院に「特別研究生」として一年間在籍するというアイデアであった。申請期限が迫る中、何とか間に合わせられる ように願書の準備だけは整えていた。結局、カナダ留学は叶わずと見て取って、願書提出という選択を受け入れることにした。 幸いにも事務局から入学を許可され、73年4月から晴れて国際法専攻の「特別研究生」となった。これによって、再び院での国際法 ゼミに参加できることになり、何とか首の皮一枚がつながった。通院をしてみると、特別研究生という身分は思い描いていたほどには 悪くはなく上々であった。見方を変えれば、留学を見据えて籍を置くところの、いわば「留学浪人生」であった。

  大学院卒業後に全く所属先のないまま家に引きこもって、農作業をしっかりこなす一方で、もっぱら語学能力アップのための猛勉強に邁進するという 選択肢もあった。それも一つのやり方であったが、独学独歩は聞こえは良いとしても、それはかなり寂しく辛い境遇に身を置くことになる と懸念した。共に学び励まし合い、議論を交わすこともないままに、孤立的で孤独な生活を片田舎で 送るのはどうしても気が進まなかった。仲間と学びを共にすることができる居場所や環境が欲しかった。兄は既に 社会人となり市役所に勤めていたので、兄の分まで日頃から農作業をこなす必要があった。だから、暇を持て余すようなことはないはず であった。そんな時間的なことよりも、国際法を出来る限り深く学んでおきたかった。それには、特別研究生に身を置いておくのが 最善の策であった。かくして、何はともあれ、引き続いて院に居残ることができ、73年4月から再び定期的に通い出した。

  一年後輩となる国際法専攻の修士課程在籍の院生に混じって、国際法ゼミに参加できることになった。とにかく一人ぼっちになることもなく、仲間を得て 国際法を学び続けられることが何よりも精神的に安定し心強かった。留学はこの先どう転がって行くのか分からなかったが、諦めることなく 向き合い続ける他選択肢はなかった。取敢えずそれがベストな道であると、足を一歩でも前に進めることにした。もちろん他方では、 語学能力のレベルアップを図るための絶好の機会になると前向きにとらえ、語学の独習を続け、またTOEFLにも挑戦し続けた。

  さて、カナダ留学の見通しは開けそうになかったので、カナダのロー・スクールにこだわらず、心機一転して、例えば米国の大学 での可能性を模索することにした。当初はアメリカ留学については全く眼中になかったが、ここにきて方向の転換を図った。 米国大西洋岸のマサチューセッツ州やニューヨーク州などのアイビー・リーグの大学も考えたが、高額な留学費用などの面からも躊躇した。 それよりも日本からまだ近い距離にあり、住みやすそうでもあり、イスタブリッシュメントが幅をきかすような堅苦しさもない、太平洋岸のワシントン州 シアトルやオレゴン州ポートランド、カリフォルニア州にある大学を模索した。また、米国にはTOEFL基準が550点とする大学院も あることも分かってきた。

  大学要領や応募フォームなどが迅速に届けられたのが、シアトルのワシントン大学であった。シアトルは米国本土の中でも日本に最も近く、 戦前から日本人移民が多く暮らしていた。どの都市よりも親近感を抱いていた。それは何故かと自問した。戦前から日本・シアトル間の太平洋定期 航路に「氷川丸」が長く就航していた。中学校の修学旅行は箱根・鎌倉・東京方面であった。横浜の山下公園や横浜マリンタワーに立ち 寄った折のこと、「氷川丸」の勇姿が瞼にはっきりと焼き付けられた。ワシントン大学の入学案内を読んでみて、その全体的イメージをつかむことが できた。充実した大学環境の下で楽しいキャンパスライフを送れそうであった。先ずは同大学を第一希望とした。入学願書、成績証明書などを順次 提出し、今度こそは、1年半後となる74年秋期からの留学を何としても実現しようと自らを奮い立たせた。

  ところで、特別研究生が義務的に履修して、単位を取得するというようなことはなかった。基本的には担当の指導教授の下で 特定のテーマの下に学究することになった。指導教授はもちろん国際法担当の教授である。指導教授が主宰する国際法ゼミに出席し、 特定のテーマに沿って深掘りをして行くことになる。院では指導教授とはほぼ一対一で向き合うので、緊密さが相当高まる。従って、 いずれの教授の下でいかなるテーマをもって学究にいそしむかは すこぶる大事となる。昨年まで院で国際法の主任指導の任にあった川上教授は既に定年退官にあった。そして、73年春からは一回り若い 竹本教授がその任にあった。過去2年間における院での徒弟関係が打って変わってイノベーションされた訳である。両教授のタイプの違いは 歴然としていて、俄然学究環境に明るい光が差し込んだ。特別研究生として1年間竹本教授の指導下で学究できることは、留学浪人 中の私にとってもすこぶる幸運なことであった。

  さらに、第二の幸運な出来事に遭遇することになった。国際法ゼミにおける学究テーマである。思いもよらなかったテーマに預かる ことになった。即ち、テーマは国際法の一つの重要な学門領域である国際海洋法に関するものであった。

  実は1970代初頭における国際社会では、国際海洋法の秩序全般にわたりまさしく革命的ともいえる再構築への取り組みが始まろうとしていた。 数百年に一度あるかないかくらいの、海洋法秩序に対する歴史的大変革がもたらされる可能性が当時の国際社会には充満していた。 因みに、1970年に国連総会は、新しい海の秩序を形成するための外交会議、即ち国連海洋法会議を開催することを決定していた。 そして、国連は何度かの準備会合を経て、1973年に第三次海洋法会議を招集した。翌年の1974年には、ベネズエラのカラカスにおいて実質的な外交交渉が開始された。

  第三次国連海洋法会議が開催されるに至った大きな時代的背景があった。1958年と1960年に、第一次・第二次の国連海洋法会議が 開催された。そして、1958年には領海、公海、大陸棚、公海生物資源保存に関する4つの国際条約が締結されていた。だが、 海洋法の根幹をなす領海の幅員について、2回の海洋法会議では合意に至らなかった。また、大陸棚に豊富に賦存する海底石油・ガスに 関する沿岸国の管轄権について、1958年大陸棚条約では、「水深200メートルまでの海底」か、または「開発可能なところまで」と規定され、 曖昧な基準となっていた。そして当時には、海底石油開発は水深200メートルを超えて可能となりつつあった。

  当時大半を占めていた開発途上国は、技術と資本をもつ海洋先進諸国が深海底に向けて大陸棚の範囲をどんどん拡大し浸食していくことを深く危惧していた。 特に公海の水深4~5000メートルの深海底には、マンガン団塊という銅・亜鉛・ニッケル、コバルトなどを含む鉱物資源が無尽蔵的に賦存する。開発途上国は、 先進諸国が将来それらを独占的に開発し、もって富の独占化を図るのではないかとの強い危機感を抱いていた。また、日本などの漁業先進諸国は、 他国海岸線近くの沿岸水域まで(3海里幅、即ち5.5km幅の領海の限界付近まで)漁船団を繰り出し、公海での「漁業自由の原則」を御旗に、 早い者勝ちの作法で漁獲をほしいままにしていた。まさに大原則の恩恵を享受し、莫大な漁業権益と実利を得ていた。

  アジア、アフリカなどの開発途上国のほとんどは第二次大戦後に独立を果たした。他方、世界海洋における「より狭い領海」と「より 広い公海」での「航海や漁業の自由の原則」などが、過去数世紀にわたる海洋列強諸国による慣行の下で、国際慣習法として形成されてきた。 もっと言えば、ほとんどの途上国の全く預かり知らぬところで形成されてきた。そして、今になっては、経済・技術パワーのある 先進諸国にとっては、海底石油・ガス、海洋鉱物や水産資源をそのパワーの行使によって、即ち豊富な資金や技術力の投入によって、 実利的恩恵を独占的に享受することになるという未来が待ち受けていることが明らかになってきた。海洋法4条約が成立していたとはいえ、 戦後独立して間もない大半の途上国からすれば、現行国際法下では海からの恩恵にほとんど預かることができないことに危機感と 不満を抱いていた。

  因みに、開発途上国は一致して、沿岸から200海里までの水域内において鉱物資源や水産資源に対する排他的管轄権につき強硬に主張していた。中には200海里 幅の領海を主張する途上国も現われていた。領海幅をできるだけ狭くし、自由に漁業や鉱物資源開発ができる公海をできるだけ広く 捉える現行の法秩序に対する抜本的な修正を高々と要求していた。 最も鋭く対峙したのは、中国を初めとするアジア、アフリカ、中南米の開発途上国からなる「グループ77」と、米国・西欧諸国・日本・ソ連 などの海洋先進諸国の2つのグループであった。因みに、米ソや西欧諸国でさえも、堅固な結束下にある「グループ77」による200海里 排他的管轄権に関する主張の前においては、その歯車を逆回転させることはもはや困難な情勢へと追い込まれて行いた。海洋法会議が佳境にあった 1977年頃には、米国やソ連すらも200海里制度への賛成に方向転換せざるを得なくなっていた。

  日本は同会議初期段階までは、遠洋漁業国の地位をほしいままにしていた。広い公海での「漁業自由の原則」を金科玉条のごとく堅持し、なおも世界中で魚を取りまくって いた。北太平洋では米加日、日ソなどと漁業条約で水産資源保全や漁獲規制などを行い、何とか折り合っていたが、日本は世界中の沿岸諸国の3~12海里 領海のぎりぎりまで進出し、獲りまくっていた。当然、貿易・海運・水産立国として、その国益上 狭い領海と広い公海を支持し、世界海洋での「漁業の自由の原則」の熱烈な唱導者であった。米ソ超大国は主に軍事上の戦略から、領海が3海里 から12海里に拡大する場合、領海化する国際海峡における軍艦の通航の自由、潜水艦の潜航通航、軍用機の上空飛行の自由を同じような立場に 立って求めた。そして後には、米ソの通航上の戦略的主張と「グループ77」が主張する200海里制度とのバーター取引的な相互承認へと 繋がって行った。外交上外堀をどんどん埋められつつあった日本は、米ソに同調して200海里制度の受け入れは時間の問題となりつつあった。

  さて、1973年当時、同会議にはさまざまな重要テーマごとに法制案が諸国から提出されつつあった。 例えば国家主権が及ぶ領海の幅員、そこでの外国艦船の通航権、領海幅の拡張によって領海化される国際海峡における他国の商船・ 軍艦・潜水艦の通航権や軍用機の上空飛行権、沿岸200海里水域における水産資源に対する排他的管轄権、沿岸国の大陸棚とそれ以遠の 公海下の深海底との境界線、公海下の深海底マンガン団塊などの鉱物資源の開発・管理のための法制、フィリピンやインドネシアのような 群島国の領海を測る基線、「海なし国」(内陸国)や地理的不利国の権利、高度回遊性魚種や遡河性性魚種などの漁業管理の在り方、船舶 起因による汚染の規制など、テーマは多岐にわたっていた。

  各国の置かれた地理的、政治的、経済的状況は異なり、国益も異なる。故に、会議に提出された諸提案もそれらの立場の違いを色濃く反映していた。 会議では主要テーマごとに国益が激しくぶつかり、百花繚乱の様相となっていた。利害を同じくするグループ集団が他のそれと激しく 対峙し、どう政治的妥協を図るべきか、まだまだ先は見通せない時期にあった。非公式ではあるが、統合された単一の包括的条約 交渉草案が取りまとめられたのは、それから数年後のことである。

  国際法ゼミでは、幾つかの重要な海洋法制上のテーマごとに提出された法案の写しを国連広報センターなどから取り寄せて、院生は それらを熟読し、内容を紐解き分析し、自由闊達な議論を交わすという手法が採られた。 テーマごとに如何なる法制が将来の新海洋法秩序として相応しいか、合理性があるかをゼミ生で議論し探求することになった。 これが国際海洋法と真剣に向き合った最初の出会いであり取り組みであった。

  過去2年間の院生活においては、ひたすら国連の集団安保制度や平和維持活動などに主たる関心を寄せていた。そんな私にとっては、 海洋法を巡る最新の大局的な動向や重要課題についてほとんど把握せず無頓着のままであった。国際海洋法制に関する深掘りや、 国連海洋法会議での各国諸提案、さらにそれらの合理性の探究は、まさに目からウロコの取り組みであった。 国際法を専攻しながら海洋法に幾らも関心が及ばなかったことに反省しきりであった。

  研究生として国連海洋法会議や海洋法制と関わり合うなかで、偶然知ることになったのがワシントン大学ロー・スクールが 提供するプログラムであった。受領したロー・スクールの案内冊子を見ると、大学院修士課程レベルには「アジア法プログラム」と「海洋総合 プログラム(Law and Marine Affairs Program)」の2つがあった。二つのプログラムしかないのかというのが最初の印象であったが、 すぐさま大きな喜びに変わった。

  「海洋総合プログラム」は願ったり叶ったりであった。竹本ゼミでの学究テーマのまさに延長線上にある ようなものであった。かくして、何の抵抗感もなく即座に、同プログラムを選択することにした。ワシントン大学への留学 に強い意欲と希望が湧いてきた。たまたまの偶然ではあるが、留学が先送りとなって研究生として一年居残ることになり、 その結果国連海洋法会議や海洋法制との直接的な接点が生まれた。そして、海洋法制について集中的に学び理解を深めることに つながった。従前にテーマとしていた国連安保や平和維持軍などからガラリとシフトすることになっても、それはそれであった。 シフトするに相応しい海のプログラムに巡り会えたことに喜んだ。ワシントン入学へ既に願書を提出済みであっても、後日履歴書への 学業実績の追記報告を行いアピールできるので、これまた運気が高まりそうであった。他方で、「海洋総合プログラム」への 関心が大いに増幅し、ワシントン 大学への親近感が一気に膨らんだ。

  竹本ゼミでの海洋法会議や海洋法制との出会い、さらに「プログラム」との出会いは、もう一つの重要な意味合いを包含 していた。偶然にも海への回帰の萌芽を宿していたといえる。ゼミでのそんな出会いは私を海への回帰に向け一歩前に押し出 してくれたといえる。そして、「海洋総合プログラム」に入学できれば、海への回帰をさらに力強く後押しさせ、回帰を確実なもの にしてくれると思った。

  可能性はそれだけではなかった。国連安全保障からシフトした結果、国際海洋法を専門的に担当する国連法務官への道を切り拓く ことになるのではないかと、その先の将来に期待を寄せた。竹本ゼミでの海洋法制の学究は一過性に終わることなく、ワシントン 大学の「プログラム」での学究に繋がり、さらに究極的には海洋法担当の法務官へと未来を切り 拓くことができるのではないかと、期待が大きく膨らんだ。海洋法担当法務官として奉職できるならば、海への回帰はその後 ずっと生涯にわたり続くことになると、漠然だがまるで夢のような世界を思い描いた。

  未来は明るく輝き、希望に満ち満ちているように感じられた。俄然に、留学先はワシントン大学に、修学は「海洋総合 プログラム」に大きな希望を寄せた。そして、海への本格的な回帰に向けた重要な一歩を踏み出せるのではないかと、その好機到来 に諸手を上げて喜んだ。海への回帰に繋がって行けば、こんなに嬉しいことはなかった。

  高校三年の1967年に船乗りを諦め、4年間「海の世界」から「山の世界」へどっぷりと身を寄せていた。雪山テントでの運命的 閃きを得たのは運命的であったが、その後さらに2年間は海の世界から遠ざかっていた。だが、歯車が何か思わぬ方向へと回転し 始めた。カナダへの留学が叶わず「留学浪人」となり、他方で米国留学へとシフトした。研究生としてゼミで海洋法制などと向き合う 途上で、ワシントン大学の「海洋総合プログラム」に巡り合い、海への回帰の萌芽を意識するようになった。

  特別研究生としての居残りは人生の回り道では決してなかった。最初は時間を浪費する無駄な回り道であるかのように重い太平洋が、 その回り道がなければ海洋法や「プログラム」との出会いはなかったし、海への回帰の糸口にも巡り会うことはなかった。院での居残り によって海への回帰の糸を手繰り寄せる結果になろうとは、予想だにしていなかった。自ら海に回帰しようともがいた訳ではないが、 成り行き上幾つもの偶然に出会い、何か不思議で運命的な流れに乗っかるようであった。

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    第2節 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う


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      第3節: 関大新聞紙上の先輩活躍記事、偶然目に留まる
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      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった