「特別研究生」という身分で、関西大学大学院(法学研究科国際法専攻)に1973年4月からもう一年在籍することになった。国際法ゼミ
にもう一年通学することで学究や教育上のキャリア形成にどれほど役立つことになるのか、全く見通せず未知数であった。カナダへの留学の見込みが
ほぼ絶望的となっていたために、便宜的に院に籍を置かせてもらうようなものであった。いわば「留学浪人生」となった。そんな自虐的
な思いで再び院に通い始めた。
だがしかし、全く思いもよらず留学浪人生活の一年間は中身の濃密なものとなった。一言でいえば留学へ真っ直ぐに伸びる近道を
行くが如くの一年となった。しかもその一年はそれだけではなかったことを後で知ることになった。浪人生活における一年間の出来事を
走馬灯の如く軽く受け流し、全てのことを机の引き出しにしまい込んでしまうようなことにはならなかった。驚愕するような出来事が
凝縮された一年間となった。
思いもしなかった出来事を総括することもしないで、普段のありふれた過去の事柄としてしまい込んでしまうのは余りにももったいないし、
自身の人生に対する冒涜のような気がした。余りにも多くの出来事に出会い、当初は自身でも何をどうしてどうなったのか、頭の中を整理
できない状態であった。改めて最初からそれらを整理して何がどうであったのか総括しておきたい。
1973年3月に大学院修士課程を無事修了したものの、最早タイミングよく最短コースをもってカナダ留学を果たせる見込みはないものと、
忸怩たる思いを抱きつつカナダ留学に見切りをつけた。TOEFL600点の壁は厚かった。そして、別の可能性を探ることにした。
それまで全く念頭になかった米国留学を視野に入れ始めた。大きな方向転換であった。国連安全保障やPKOなどのテーマを米国留学を通じて
究めていける可能性があるのかどうか。恐らくはその可能性は少ないものと覚悟した。そして、第一志望を米国東岸でなく西岸にある都市、それも
カリフォルニア州の大都市ではなく、シアトルという港湾商業都市にした。神戸の米国総領事館などで資料を探るうちに、
ワシントン大学を見つけた。カナダ留学からシフトし、自らの能動的な選択によって辿り着いた結果がそれであった。
更にその頃、身の振り方につきもう一つ大きな選択をした。大阪・茨木の片田舎に一人引き籠もり、家の農事の手伝いをこなしつつ、語学能力
アップのための独学に没入することも思い描いた。だが、いろいろ悩んだ末、ある選択をした。最善だと思えるある別の秘策を閃いた。
即ち、「特別研究生」という資格で大学院に残ることであった。
一年後輩の修士課程院生とともに国際法ゼミに出席できることになった。仲間がいて、議論し合い、互いに刺激し合うことは大いに
有意義なことであった。留学浪人生の身に甘んじることには一時期悔しい思いを抱いていたが、研究生の身分を得て定期的に院に
通うのは正にベストな選択であり、また恵まれた学究環境に戻れることに感謝した。
大学院で今回国際法ゼミ担当の指導の任にあったのは竹本教授であった。昨年までとは事情が一変していた。意図して指導教授を
選ぶことができた訳ではないが、たまたまそういう巡り合わせになったのは大きな「事情変更」であり、個人的には「救い」であった。
担当教授は昨年よりも一回り以上も若返った。旧態依然の徒弟関係を求めるような教授ではなかった。また、学究上の指導力には
定評があった。かくして、たまたまの成り行きにして73年4月から、竹本教授の指導下にある国際法ゼミに身を置くこととなった。
振り返れば、私的には幸運に恵まれた学究生生活へのリ・エントリー、返り咲きであった。
更に思いがけなかったのがゼミでの学究テーマであった。当時国連によって開催されようとしていた「第三次海洋法会議」に上程されて
いた各国の諸提案がゼミでの学究材料となった。同会議の第一回会期は1973年にカラカスで始まり、その後10年以上も続くことになった。世界の海洋
における国際法秩序は、アフリカやアジアの多くの国々が独立を果たした1950~60年代よりもはるか以前に、主に欧米先進諸国の慣行によって
形成されてきたものである。それら新興独立諸国からすれば、その秩序形成に参加してこなかったものであり、翻ってそれら先進
諸国の国益に沿うように形成されてきた国際法的フレームワークの根幹や諸制度に大いに不満を抱いていた。
また、大多数の発展途上国は、現行国際法上大陸棚の外側の限界に関する規定が極めて曖昧なため、資本と技術を有する先進諸国が、
公海下に無尽蔵に賦存するマンガン団塊などの深海底鉱物資源を独占的に開発するのではないかと深い懸念を有していた。
また、日本、ソ連、ポーランドなどの遠洋漁業先進諸国が、広い公海での「漁業の自由の原則」を御旗にして、他国の海岸沖近くまで
進出し水産資源を獲りまくっていたことに強い不満を募らせていた。そこで、世界の海洋法秩序を全面的に見直し、新しい海洋法条約を制定
するための国連主催の外交会議である「第三次海洋法会議」の開催を圧倒的に支持していた。
1973年からカラカスで実質的な会議が開始されたが、そこにはさまざまな重要な諸提案が上程されていた。ゼミでは重要サブテーマごとに
それら諸提案を院生らで読み解き、議論し合い、合理的な新法制を模索するということになった。かくして図らずも、竹本教授のゼミにおいて、
国連海洋法会議や新海洋法制について深い関わり合いをもつことになった。
国際海洋法は国際法の重要なサブフィールドの一つであるが、それまで真正面から向き合ったことはほとんどなかった。大袈裟に言えば、
法科系大学生になって以来ずっと海洋法のことは殆ど関心をもたず、また実際6年以上も山に埋没し海のことから遠ざかっていた。だが、
特別研究生になっていきなり世界の海洋関連事項の学究に取り組めることになった。神戸商船大学への受験を諦め、海のことから遠ざかった
時から数えればほぼ7年目のことである。
他方で、ワシントン大学ロー・スクールから大学案内などを取り寄せ、出願の準備を進めていた。ロー・スクール大学院修士課程には二つの
プログラムしかないことが分かった。一つは「アジア法プログラム」、他は「Law and Marine Affairs Program」であった。
それを直訳すれば「法律および海事プログラム」であるが、私的にはそれを「海洋総合プログラム」と捉えた。海洋に関する自然科学系と
社会科学系、さらに工学系の諸学の垣根を越えて、学際的・複眼的・融合的に学び、海を巡る諸課題を多元的で文理融合的な視座・視点を
もって解決に取り組める能力を高めようという、当時としては画期的で最先端の理念を擁していたプログラムである。
かつては国連安全保障やPKOなどに関心があり、カナダ留学ではそれを第一義的テーマとし、例え米国留学にシフトできたとしても
そのテーマでの学究を視野に入れていた。だから、ワシントン大学ロー・スクールへの留学が実現した場合、学究テーマの大幅変更
を伴うことを意味した。だがしかし、安保やPKOに執着すべき理由は特段なかった。それに、青少年時代から海が大好きで海や船に関わる
こと、航海士になることに憧れを抱いていたことでもあり、また現在進行形で竹本ゼミにおいて海洋法を深掘りしようとしていた。
そして、たまたまだが、研究生として当時向き合っていた学究テーマと、将来ワシントン大学で関わり合うかもしれない
テーマとが完全に一致するという、願ってもない展望が開けそうで心に響くものを強く感じた。
究極的に目指すは国連法務官であった。同じ法務官であっても、安保やPKOに関わるスペシャリストというよりも、海洋法を担当する
法務官の職務が私的にはベストであった。安保やPKOについては学究上のテーマに留めおき、法務官の職務においては海洋法を
専門とすることの方が圧倒的に願ったり叶ったりであった。
そして、もう一つ明るい光を見た。居残った大学院での海洋法の学術的取り組みと、将来における海洋法担当法務官への奉職志願という
二つの事柄の延長線上に、おぼろげながらも「海への回帰」の萌芽が見えた。海洋法担当法務官となれば、その後深く長く海との関わり
合いをもちつつ職業人生を送ることができると考えた。船乗りにはなれなかったが、海の法律のスペシャリストとして海と関われる
ことになり、そのような形で「海への回帰」を実現できれば、遣り甲斐のある最高の人生が待ち受けているはずと小躍りするくらい
嬉しかった。是が非でも留学し、「海洋総合プログラム」で海洋法他、海洋関連諸学を究めたかった。
さて、特別研究生となってそんな思いを胸に秘めつつあった1973年の春先に、院の前庭の芝生の陽だまりに座って、タブロイド
版学内新聞の「関大新聞」を広げ何気なくページをめくっていた。その時に、母校の先輩の活躍を紹介する囲み記事が一瞬視野に入った。
ページを閉じようとした時のことであった。「国連」の2文字、さらに「法務官」という3文字が瞬間的に網膜に投影され、通り過ぎて
行った。だが、その直後瞬時にその5文字が脳に伝達され、間髪入れずページを元にめくり返した。
新聞を膝にのせてそんな記事が掲載されたページを開いたのはたまたまの偶然であった。記事の中の5文字を見逃さなかったのは
偶然のことなのか、それとも半ば必然的なことであったのか。国連奉職の志しを抱いていなければ、たとえ新聞を広げその記事に
目をやり読んだとしても、その記事は目の前を通過して行っただけのことであろう。新聞を広げたのも、またそのページをめくったのも偶然。
だが、紙中の一つの記事の中に「国連」と「法務官」の文字を瞬間的に捉え、大学先輩の活躍譚に辿り着いたのは、そんな夢や志しが
あってのことといえる。
母校の先輩に国連法務官がおられた。正に私が目標としていた国際公務員として活躍される大先輩である。後輩として誇らしかった。
「法務官になるのは夢物語ではなく、達成可能なことなのだ」と自分に言い聞かせることができた。部署などは不明であったが、
国連本部宛てにレターを投函すれば先輩の手元に届けられるはずだと、早速手紙をしたためた。
どんな情報でもいいから得たいと、また職場や仕事などの生情報を得ようと筆を取った。幸いにも暫くして丁寧な返事をいただき、
それ以来文通が始まった。手紙をしたためるという行為がなければ、その後の文通もなかったし、また曽野氏との面会の機会も
生まれなかった。学内新聞や記事との遭遇は偶然であろうが、東京での直接の対面は自らの能動的行為の結果がもたらしたもので、半ば
必然的な出来事であった。
曽野氏が夏期休暇か何かで一時帰国されることになり、会える機会を作っていただいた。ニューヨークに帰任される前日、羽田空港でならば
少し会う時間を取れるとの電話連絡を受け取った。まさか、そんな電話をいただけるとは思いもよらなかった。翌日喜び勇んで新幹線で上京し、
羽田空港へと向かった。初対面は国際線ターミナル出発ロービーの上階にあるレストランであった。そして、初対面にして5つの事柄に
出会うことになった。
第一に、曽野氏は私が第一希望としていたワシントン大学ロー・スクール(ジュリス・ドクターコース)の卒業生であることが
はっきりした。第二に、ロー・スクールに入学した場合指導教授になる予定であったウイリアム・T・バーク教授と、曽野氏は旧知の仲であったこと。
第三に、帰任はニューヨークへの直行ではなく、シアトル経由であったこと。第四に、ロー・スクールに立ち寄る予定らしく、バーク教授
に会うことになれば母校の後輩が入学を志願していることを伝えてもらえる可能性があること。そして、第五に、バーク教授への推薦状
をしたためることもやぶさかではないと、ご支援の温かい一言をいただいたこと。
全く予期していなかったこれら5つの事柄に、わずか一時間ほどの間に次々と向き合うことになった。曽野氏にとっては承知の事ばかりで
あったに違いないが、私にとってはびっくり仰天の諸事の重なり合いに遭遇した。
三人を繫ぐことになった余りの不思議な運命の糸に驚嘆するばかりであった。たまたまの成り行きと一言で済ませられなかった。
運命的な糸の紡ぎをどう理解すればいいのか、自問自答しても答えは見い出せなかった。その糸を紡いだのは偶然のことなのか必然のそれか。
対話から紡ぎ出された事柄が私にもたらした衝撃は言葉に表わせないほど大きかった。引き起こされた興奮の余韻は東京から帰郷するまでずっと続いていた。
学生食堂でたまたま手にした大学新聞、その掲載記事にたまたま目が留まった。志しがなければ目の前をさっと流れ去っていた
はずの2つの単語であった。一通の手紙をしたためたこと、そして上京しての対面がなければ、これらの5つの事柄に向き
合うことはなかった。一連の行為を突き動かしたのは、まさに国連奉職への夢、志しや情熱であった。偶然と必然が入り混じっていた。
留学や国連奉職への志しと幾つかの行動から放たれた強い磁力が偶然を引き寄せ、必然であるかのような結果を招いたように思えた。
当時、羽田空港における初対面での対話がワシントン大学留学を拓く大きな分岐点となるとは知る由もなかった。
研究生になりたての頃は、留学浪人生活は人生の「遠回り」、「回り道」になると悲観的な思いがあった。だが、
その1年後には全くそうではなかったことを学んだ。回り道する過程で語学力をアップできる機会も得た。TOEFL600点は達成しえ
なかったが、550点以上のスコアを報告できた。竹本教授と直に正面から接する機会も生まれ、そのゼミで海洋法と向き合える好機へと
繋がった。留学希望国と大学を大幅にシフトし学究テーマも変更となったが、ワシントン大学の「海洋総合プログラム」と出会った。
そして、偶然をチャンスとして掴み取りながら、諦めずに足を一歩ずつ前に進め続けた。結果、その途上で幾つもの出来事に
遭遇することになった。
海外留学とその先の国連奉職と言う目標や希望をもち合わせていたが故のたまたまの巡り合わせであった。
一年の浪人生活、一年の回り道は、次のステージにジャンプアップするための不可欠の助走期間であった。浪人生活は次の運命
を切り拓くために用意されたものであったと言えよう。思い起こせば、無駄な出来事など何一つない道のりであった。一年間に体験した
事柄のどれ一つが欠けても、留学への道を辿り得なかったかもしれない。回り道の人生で曲がり角を一つ違えて
いたとすれば、運命の糸は全く違う方向へと導いていたかもしれない。
留学がなければ「海洋総合プログラム」の専攻はなかっただろうし、また海への回帰は特別研究生の修了とともにそこで途切れて
いたに違いない。繰り返しになるが、多くの出来事は偶然だったのか必然だったのか判然としない。だが、これだけは言えよう。
特別研究生としての一年間は、後にも先にも最も有意義な人生の一コマであった。その回り道が無ければ、海を友にしながら生涯にわたり
「海洋総合辞典」づくりを楽しむという、その後の人生も存在しなかったに違いない。
船乗りへの夢が砕け散ってからは、海への関心はすっかり薄れ山や里歩きに向いていた。自身が描いていた「海を舞台にする人生」を
6年も忘れ海から遠のいていた。海に回帰することなど頭の片隅にもなかった。
だが、ワシントン大学の「海洋総合プログラム」への留学が決まってからは、海への本格的な回帰に向けて歩み出す兆しが見え始め
たまらなく嬉しかった。そして、その先において海洋法担当法務官として国連に奉職できれば、海のへの回帰は一過性ではなく、その後
一生涯海と関わり合いをもち続けられるものと期待が膨らんだ。先走り過ぎかと思いつつも、将来の明るい展望に喜びを隠し得ず、心は
留学に向かって突っ走るばかりであった。
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