約束の時刻をたがわず、羽田空港で曽野氏とうまく落ち合うことができた。そして、既にチェックインを済ませていた曽野氏から
出発ロビー北側2階にあるレストランで話そうかと勧められた。初対面の二人が話しを何からどう切り出したのかほとんど思い出せない。
とはいえ、国連での仕事の内情などを改めて尋ねるようなことはしなかった。
さて、はっきりと記憶に留めているやりとりがある。曽野氏から改めて「アメリカのどこの大学に志願しているのか」と尋ねられた。
私は、即座に「シアトルのワシントン大学ロー・スクール大学院です。履修を志望しているプログラムは「海洋総合プログラム」です」
と答えた。その後間を置かずに「指導教授は誰になるのか」と問われた。
ロー・スクールでの指導教授は、国際海洋法を講義するウイリアム・T・バーク氏であったので「海洋プログラム」への入学が決まれば、
指導教授は彼になるはずであった。そこで、私はすかさず「ウイリアム・T・バーク教授です」と答えた。
次の瞬間驚きの言葉が返って来た。曽野氏は続けて「彼なら良く知っている。これからシアトル経由でニューヨークに戻るつもりだが、
ロー・スクールにも立ち寄るかも知れない」。私は曽野氏がバーク教授と懇意であるとは全く知らなかった。予想外の言葉であった。
もちろん、シアトル経由で、それもワシントン大学に立ち寄る予定であることも知る由もなかった。彼に会うことになれば、貴君に会ったことを話しておこう」と、予期せぬ有り難いお言葉をいただき、二度までも驚きであった。
曽野氏がバーク教授といつ頃どういう深い接点があったのか知る由もなかったし、
尋ねることはしなかった。ただ言葉の端々から、ロースクール在学中からバーク教授の国際法講義を受講し、互いに面識があったらしいこと、
それイノベーションらの知り合いであったことが窺い知れた。いずれにせよ、曽野氏がバーク教授と旧知の仲であることを
その時初めて知った。
何と言う偶然であったことか。関大法学部の先輩が、私が米国留学での第一希望と決めていたワシントン大学の出身であり、しかも
指導教授と旧知の関係だという。三人を結びつけることになった余りにも不思議な糸にびっくり仰天し言葉を失った。それに、ニュー
ヨークに帰任されるにしても、何とシアトル経由であり、しかもワシントン大学に立ち寄り、更にはバーク教授に会うかもしれないという。
曽野氏にとっては予定通りの旅程だったかもしれないが、私からすればこの偶然の成り行きに驚愕であった。
驚愕の成り行きはさらに続いた。話の文脈がどうであったか思い出せないが、ロー・スクール法科大学院への推薦状のことに話しが及んだ。
多分、大学院へのアプリケーションの手続きがどの程度進んでいるのかを知るために、曽野氏はおそらくは推薦状のことも含めて、
その提出状況を尋ねられたのであろう。私は母校の何人かの教授にお願いし提出してきた旨をさらりと答えたはずである。
私から推薦状のことを切り出し、ましてやそれをお願いするほど厚顔無恥ではなかった。初対面では余りにも失礼であり、畏れ多き
ことであった。推薦状をお願いすることなど初めから全く頭の片隅にもなかった。
それにまた、暗にせよ、会話の中でそれを匂わす様なことを一切することもなかった。
ところで、ずっと後になって憶測したことであるが、対話時において私の顔のどこかに「バーク教授への推薦状、できるものならお願いします」という表情を醸し出していたのであろうか。そんなことは決してなかったはずと、今でも信じている。前後の文脈は思い出せないが、曽野氏から、「推薦状がいるなら書いてもいいよ」とおっしゃっていただいた。
その時一瞬脳天に血が昇り、とてつもない驚きと感激を抱いたことを今も忘れることはない。
同じ母校出身とはいえ、初対面の大先輩にとてもそんなお願いが出来るはずもなかった。だが、その場における会話の流れと空気感
を察してそうおっしゃっていただいたのであろう。私は、その一言を単なるリップサービスとは考えず、素直に受け取った。変に遠慮するなり、
身を引いてしまうことはしなかった。後で思えばそれがベストの選択であった。率直即座にお礼を述べて、「よろしくお願い致します」と、
素直に懇願した。
帰阪後早速に、お礼とともに、推薦状に役立ててもらえるよう必要事項をしたためた手紙を投函した。
既にロー・スクールへは推薦状も提出していたとはいえ、バーク教授宛てに直接的な推薦状が送り届けられることになれば、こんな心強いサポートは
ないに違いなかった。
さて、羽田空港から浜松町へ出て、東京駅から新幹線に飛び乗った。今日一日における余りの運命的な出来事に興奮冷めやらずの状態であった。
人生における全ての幸運を今日一日で使い切ったような思いであった。この先の人生にあっては、最早幸運の女神に再会することはないのでは
ないかと心配になるほどであった。いずれにせよ、曽野氏との羽田での対面が運命の大きな分岐点になるかもしれないという、そんなことまで
先読みするような余裕などなかった。
面会を通じて、曽野氏がワシントン大学のロー・スクール(いわゆる法律専門学校; ジュリス・ドクターコース)ご出身であること、
それにもましてバーク教授とは旧知の仲であること、更にシアトル経由で帰任しロー・スクールに立ち寄る予定であること、
バーク教授に会えば母校の後輩が「海洋プログラム」に志願していることを伝えてもらえるかもしれないこと、そして推薦状をバーク教授宛てに
したためることもやぶさかではないということ、全く予期していなかったこれら5つの事柄に対して、わずか一時間ほどの間に次々と
向き合うことになった。矢継ぎ早に一気に向き合ったことの衝撃は余りにも大きく、その余韻は帰阪するまで続いていた。
さてその後、ワシントン大学から何か連絡は届かないかと、毎日のように郵便受けが気になっていた。特別研究生としての学究生活も
まさに終盤にさしかかっていた。そして、1974年の新年が明けて暫く経った頃、バーク教授から一通の航空郵便が届いた。真っ白い封筒の
左上隅にロー・スクールのロゴが入っていた。そのすぐ上にはバーク教授の直筆署名として、青インクで「Prof. Burke」と記されていた。
恐る恐るその場で開封し、真白い便せん一枚の文面に目をやった。不安と期待が入り混じった、その時の緊張感を今でも思い出す。
一気に鼓動の高まりを感じた。急いでさっと斜め読みしたところ、ネガティブな語彙は一切目に留まらなかった。先ずは安堵し、一息ついた。
そして、郵便受けの前に突っ立ったまま、今度はゆっくりと通読し始めた。入学を認める文言をはっきりと読み取ることができた。
末尾にはバーク教授のフル署名がなされていた。最高の嬉しさを噛みしめた。
教授が自らの手で入学許可につき知らせてくれたことの意味を読み取った。バーク教授は旧知の仲である曽野氏から推薦状を受け取ったに
違いなかった。あるいは、ロー・スクールで曽野氏と会い、曽野氏から推薦の一言を直接受け取ったに違いない、と思った。あるいはまた、
それらの両方であったかもしれない。
入学許可はそんな過程を経たうえで発せられたものと重く受け止めた。それらのことは推測に過ぎなかったが、それに間違いはない
ものと信じた。あの日の羽田での出会いと対話がこの結果につながっていることは明らかのように思えた。曽野氏によるサポート
が無かったとすれば、ワシントン大学への留学の実現は遠のいていたかもしれない。あるいは、留学はなかったかも知れない。
勿論、推薦をいただいた3名の母校の教授の恩も忘れることはできない。
書中には、「シアトルに少し早めに来て、語学学校で英語学習をすることを推奨します」との助言がなされていた。教授からの直々の
指示であると受け取った。結局目標にしていたTOEFL600点以上のスコアを一度も提出することができずにいた。語学力は髙ければ
高いほど、学業などのあらゆる面で好ましくはある。それは全くの道理である。
TOEFLスコア550年プラス・アルファそこそこでは「海洋プログラム」の修学は相当しんどいことであると、過去の多くの留学生の事例を
見てきたバーク教授からすれば、胸中にはそんな率直な心配があったのであろう。かくして、百歩前進の喜びを噛みしめながら、
渡米のための雑多な準備に取り掛かかり始めた。先ずは推薦を受けた語学学校(English Language School; ELS)への入学手続き、
「I-20」という留学ビザの取得などに向けた準備に奔走した。
さて、1974年6月下旬、大阪から羽田へ、そして羽田からシアトルに向け離日した。7月からシアトル市内の私学シアトル大学の
キャンパス内にある語学学校で、9月末までの3ヶ月間語学研修に励むことになった。間もなく26歳を迎えようとしていた。
計画より一年ほど留学浪人生を送り、当初の頃はそれは人生の回り道、遠回りの道のように思えたが、後に振り返ればむしろベストな
道を歩むことができたと確信をもつようになった。
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