アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」の実施を約束するJICAと「ア」国海軍との合意文書が署名された翌年の1984年4月、
単身、機上の人となってブエノス・アイレスへ向かった。英国・「ア」国のフォークランド戦争 (=マルビーナス戦争)」の勃発で
プロジェクトの開始も一年ほどずれ込んだが、人事部の有り難い配慮のお陰で無事赴任することができた。河合君は日本へ本帰国する
こともなくなおもブエノスのJICA事務所に勤務していた。また、オルティス校長以下学校関係者も全員そのままのようであった。
関係者が変わらずに勤務していると思うと心は軽かった。新規プロジェクトの場合、プロジェクト形成当時から携わって
いる場合はならばいざ知らず、一般的に専門家は現地に知る人が誰一人いない中で着任することが多い。だが幸いにも、現地には顔
見知りの人たちばかりであった。また、プロジェクトや現地事情に関する予備知識は誰よりも持ち合わせていたので、何の不安も抱く
ことなく出立することができた。唯一心配があるとすれば、家族と一緒に旅立てなかったことである。だが、追っつけやって来るはずであったので、希望をつなぐことができた。
当初は、現地で業務上どうしても必要が生じた場合には妻によるスペイン語通訳・翻訳を当てにしていたが、出産のために現地への渡航が
10か月ほどずれ込むことになってしまった。それ故に、妻によるサポートは全く当てにできないと覚悟した。そして、その分だけ自身の語学
鍛錬に必死とならざるを得なくなった。いずれににせよ、語学の素養はかつての習いたての頃と比すれば格段に向上していた。
だがしかし、独り身になってオルティス校長らと日常的に仕事を始めてみると、やはり語学力不足に泣かされることになった。もちろん、
校長は私の語学力を百も承知していたので、互いにコミュニケーションを取る時には彼はその点を十分考慮してゆっくりと話してくれ非常に
助かった。
さて、語学力を向上させようと、赴任して後まもなく、午前中は塾通いすることにした。校長の夫人を個人教授にして必死に手習いをした。
アパートを借り上げるまでマル・デル・プラタのセントロ(市街地中心部)の、かつて出張時にはいつもきまって投宿した「ドス・レイ
ジェス・ホテル」に住まっていた。そのセントロから路線バスを乗り継ぎ、週2回校長宅へ通った。語学力にかなりの自信ができ、
生活だけでなく仕事面でも語学上の余裕を感じれるようになったのは、やはり一年近く経た頃のことであった。私にとっても最初の
一年を「助走期間」に設定しておいたのは全くの正解であった。
さて、プロジェクトがあるマル・デル・プラタに落ち着くことなく、各種手続きや用足しのためにブエノス・
アイレスに留まっていた。その時に改めて認識したことがあった。これまで眺めてきたブエノスの街風景とはどこか違って見えることに
気付いた。何故なのか。これまでは一過性で短期のいわば通りすがりの「異邦人」の視点で街を見ていたようだ。赴任後は同じ異邦人でも
「ア」国に腰を据え付けた長期生活者としての感覚や視点に切り替わっていたが故に違って見えることに気付いた。
街を歩いてもその様子に目移りすることが少なくなり、またその必要もなくなって行った。要は思考や興味どころが変わってしまったようだ。
かつては、何かアルゼンチンらしい異国風情に遭遇してはそれに魅せられ、立ち止まっては眺め道草をしていた。だが、赴任後は、
街に出掛けても目的地に向かってまっしぐらに最短距離を歩く自分がいた。道草をすることなく用足しを効率的に済ませてしまおうと動き
回る別人に変身していた。同じ異邦人でも短期滞在型旅行者の眼が長期滞在型生活者のそれへとすっかり変わり、行動パターンも生活者
のそれを身に付けつつあった。
ブエノスへの出張時に常宿にしていた例の「クリジョン・ホテル」(JICAの指定ホテルで割引があった)に暫く落ち着いていた。
そこから毎日色々な手続きなどをこなすためJICA事務所へ通った。JICA事務所は、南米諸国が宗主国スペインから独立
するに際しての大立役者となったサン・マルティン将軍の勇ましい馬上姿の銅像が誇らしげに建つ「サン・マルティン広場」のど真ん中
を通り抜け2,3分辿った所にあった。
広場は大樹で鬱蒼と覆われ、まるで都会の杜のようであった。市民が憩うための絶好の公園になっていた。広場は少し高台にあって、
そこから海軍本部ビルの建つブエノス新港方面を見下ろすと、そのすぐ坂下には、つい1年ほど前に「フォークランド戦争」で一戦を交えた
英国の名を冠した「時計塔」がそびえ立つ。その塔のすぐ対面には「レティーロ」という名称の大きな鉄道発着駅舎がある。
そこから路線電車に一時間ほど揺られると大河ラ・プラタ川のデルタの一角に立地するティグレという水郷の町がある。ティグレはブエノス
市民には絶好の日帰り行楽地であった。
何度も事務所へ足を運びつつ、幾つもの手続きをこなした。また、プロジェクトの拠点づくりのための実務について河合君や日系人
ナショナル・スタッフらに多くの相談を持ち込み、また必要な一般生活情報などを得た。「ア」国外務省から発給される身分証のための
申請、日本の国際自動車免許証を「ア」国の普通免許証に切り替えるための手続き、日本大使館への在留届の提出などから始めた。
購入する乗用車の車種をフランス・ルノー社の「GTX18」というステーション・ワゴンに手っ取り早く決めた。家族と長距離・長期間ドライブするには最適であるとの河合君のアドバイスに素直に従った。最後部の座席をセットアップすれば計6人は乗ることができたし、
座席を畳み込めば荷物をより多く積み込める優れモノであった。新車を購入する場合、全額を代理店に米国ドルベースで支払う必要があった。
代理店に300万円相当の米国ドル(当時1万数千ドル)を一括で支払った。
加えて、住宅を借り上げるのには当該月と翌月のほぼ2か月分だけでなく、大家へのデポジット(敷金)、不動産屋への謝金など4か月分
約6千ドルを支払う必要があった。車の購入代金と合わせれば着任早々2万ドル(当時では450万円相当)ほどがあっと言う間に支払いに
消えてしまった。東京銀行から多くを借金したものである。赴任にはいろいろな苦労がつきまとった。ブエノスにも同銀行の支店があり、
その点何かと助かった。
専門家は通例、赴任する前に「東京銀行ニューヨーク支店」に米国ドル建て口座を開設し、そこに赴任手当が米ドルベースで振り込まれた。
さて、開設の他に追っかけ個人用小切手帳を同支店から受領することになる。振り出すドル小切手をドル現金や「ア」国通貨ペソ現金に
両替できるようアレンジしなければならなかった。事務所が取引するブエノス市中の両替屋と交渉してもらって、マル・デル・プラタの
両替屋においても我々の個人小切手を引き取ってドルやペソに現金化してもらえるよう、ブエノスの当該両替屋を介してマル・デル・プラタ
のそれに両替してくれるよう許諾を取り付けてもらう必要があった。ペソ建ての日常的生活資金の確保に直結する最重要かつ必要不可欠
のアレンジであった。
なお、プロジェクトおよび専門家の活動資金である月々の公金を受領するための銀行口座の開設も重要な手続きであった。
即ち、JICA本部からの「現地業務費」という名の公金の第1回支給分がブエノス事務所経由で支払われるが、それを受領する
ための都市銀行として「ブエノスアイレス州銀行」を選んだ。開設は同銀のマル・デル・プラタ支店で進めた。現地通貨ペソ建てで
振り込まれるので、両替屋は絡まなかった。
軍事政権が長く続いていたアルゼンチンでは1983年10月30日に国政選挙が実施され、既に同年12月にラウル・アルフォンシンが
大統領に民政移管がなされていた。そして、「ア」海軍と「OCS設計・日本水産共同事業体」との間で「コンサルタント契約」
(建設工事の設計・施工監理業務契約)が締結されていた。事業体は、新学校の詳細設計図、建設工事や機材の技術仕様書・数量計算書、
その他工事請負契約書案などの入札図書一式を作成し、既に入札が実施されていた。その結果、ゼネコンの「フジタ工業」が工事請負
業者となっていた。また、現地の下請け業者も既に選定されていた。
さて、マル・デル・プラタ商漁港のすぐ裏手の後背地にある建設現場では、「OCS設計」本社から派遣された倉持氏が施工監理を統括する
職務に携わっていた。倉持氏は私とほぼ同年輩であり、どういう訳かウマがよく合った。仕事においてコミュニケーションを密に
しているうちに何かと親密さが増し、互いに私的にも行き来するようになった。
また、日本から派遣されていたフジタ工業の日本人工事関係者とも新しい出会いが生まれ、中にはほぼ同年輩者も混じっていた。
学校プロジェクトを完遂するという共通のゴールを目指す日本人関係者として仲良く交わった。1984年4月頃の秋季(日本とは季節が真逆)は
例年になく雨天日が多く工事進捗の遅れが懸念されたが、完工期限である1985年3月を目指して急ピッチで基礎工事が進められた。
さて、「漁具漁法」と「漁獲物処理」分野の専門家二人が私より1か月ほど遅れてブエノスのエセイサ国際空港に到着した。
二人は「日本水産」という大手水産会社の定年退職者で、優に60歳を超えていた。二人とも見るからに、人一倍個性が豊かであり、また
見るからにいかにも頑固そうな老紳士風であった。そんな大先輩のプライドを傷つけないよう日頃から注意を払った。
個性豊かな老紳士の頑固さが目立ってはいたが、その頑固さをこの異国の地で敢えて変容してもらうつもりは毛頭なかった。
社内におけるこれまでの長年にわたる人間関係を強く引きずっているようであった。そのことは着任後暫くしてから容易に推察することができた。
今更ながら過去のことをこの異国の地で転回される政府間協力プロジェクトに持ち込まれないことを祈った。プロジェクトでは平日四六時中、
漁業学校内の一つの教室内で濃密な時間を過ごすので、良好な人間関係が維持されることが何よりも大事であった。何の深入りも
しなかったが、やはり曰くありそうな二人の微妙な人間関係にはほぼ3年間付き合わされることになった。
「航海」分野担当の専門家はその後1か月ほどしてブエノスの土を踏んだ。50歳前後の現役バリバリ風の、同じく「日本水産」
の社員であった。長く日水の遠洋漁船に乗船勤務した後は、どこかの食品加工関連会社に出向し陸上勤務に就いていたようである。
彼は何ごとにも動じそうになく、悠然泰然としている風に見えるが、むしろ何事にものんびり然としていた。感情の起伏は少なく
温厚でもあったので、二人の老紳士の緩衝役的な立ち位置を果たしてもらえるものと秘かに期待した。片や、私は当時30歳半ば過ぎの
JICA現役職員であり、少々言い過ぎかもしれないが自信とエネルギーに溢れていた。
先ずは専門家が早期に生活に馴染み、生活基盤づくりができるよう支援に努めた。不動産屋に掛け合いさまざまな物件の賃貸借条件を
事前に承知し、幾つかの住宅の下見にも出向いた。賃貸候補住宅周辺の治安状況全般を含む生活環境、特に経済社会生活上の環境や利便性
などを説明したり、不動産屋や家主との契約交渉における心得や商習慣などを必要に応じて助言したりした。
例えば、住宅契約書締結後の2年目以降においては、万が一本国からの帰国命令があれば何時でも契約を解除し憂いなく適正に精算できる、
いわゆる「外交官条項」の契約書への案文挿入について専門家に説明した。病気やJICAによる帰国指示などによる早期帰国に伴う
中途解約が発生することがありうる。それに備えて家賃の精算方法や払い戻し条件に関する条文を契約書に挿入しておく
ことは、専門家の金銭に関わる極めて重要なポイントであった(JICAは常に過不足のない精算を求める)。その他、契約書締結後のJICAへの住宅手当の申請手続きについて
も側面支援した。
調整員として当然なすべきこともあったが、業務範囲外、若しくはそれに近いと思われることも、できるだけ可能な範囲でサポートする
よう心掛けた。衣食住のうち、まずは住み処を確保し、次いで何時でも米国ドル小切手やドル紙幣をペソ通貨に両替できるよう、
セントロにある両替屋の窓口担当者へ何度か案内し、早期に生活を落ち着かせるよう務めた。
その他、専門家の生活安定化に重要であったのは、通勤の足を確保することであった。
専門家三人は、ブエノスのディーラーで2~3百万円前後の中型または小型の新車を無税購入する手続きを済ませた。
新車が手元に届くまで数ヶ月は要した。それまでの間、可能な限り通勤の足として私の車に便乗してもらうことにした。特に6~8月の厳冬期は、
遥か南方の南極からの寒風に吹き曝され毎日のバス・徒歩通勤には辛いものがあった。通勤の足を提供し生活と仕事面でのサポートに心掛けた。
業務調整員の通常の業務を遥かに超えてはいたが、自己納得して務めた。
専門家三人は、JICAの技術協力事業に携わるのは初めての経験のようであった。また、専門分野の知見を他者に教えるという、教育現場で
教鞭に立った経験もなさそうであった。JICA専門家業務経験が初めてであれば、着任しても、日々具体的に何にどう取り組めばよいか
分からず、大いに戸惑うのは当然であった。
「今後2~3年間の詳細な協業のための活動計画や技術指導計画を作成してください」、「準備期間にあらゆる
指導のための諸準備やカウンターパートとの協業準備を行なって下さい」と言っても、どんな計画を
どのように作成すればよいのか、自立的あるいは自律的な判断の下で円滑に行動に移すことは無理であった。
プロジェクトは1985年4月までは「準備期間」であった。学校が竣工した後新校舎に移転すれば(1985年4月予定)、本格的な技術指導や協業が
始まることになるが、それまで10か月ほどの期間があった。ところで、専門家のスペイン語能力についてはかなりの違いが見受けられた。
「航海」専門家のスペイン語は全くの初心者レベルであった。他の二名はかなりの語学的素養があったが、そのレベルには相当の違いがあった。
「漁獲物処理」専門家がスペイン語上級者とすれば、「漁具漁法」専門家は中級者といえるものであった。
私もそうであったが、我々4名の専門家は当該助走期間を最大限に生かして語学力を必死に向上させ、コミュニケーション・スキルを
アップさせる必要があった。極めて例外的に、一年の準備期間を合意文書で謳うことができた。自身はその意味を十分認識していたが、
他の専門家には十二分にそれを理解してもらい大いに奮闘・努力を期待した。
学校の勤務時間は日本人には変則的で戸惑うものであったが、学校側としては十分合理的な設定であると言えた。専門家3名の勤務時間
として実際上午後1時から同9時までの8時間勤務に設定することにした。「ア」側カウンターパートによる学生への
授業は午後2時から同8時までであった。他の教職・学務員の勤務も同じであった。なお、カウンターパートには通常の勤務に対する給与に
加えて、専門家との協働活動などのために別途特別勤務手当てが支給された。特別手当ての多寡はプロジェクト運営上の一つのテーマではあった。
学生のほとんどは妻帯の社会人であり、午前中は生活費を稼げるよう配慮されたものとなっていた。他方、専門家は、日常生活を落ち着かせながら、語学の向上をはじめ、カウンターパートへの座学・実習指導などに関する計画立案、海技・漁業教育制度をはじめとする
シラバス・単元などについての十分な学習など、ありとあらゆる準備活動のためにも、午前中を適宜に自主的かつ有効的にフル活用することができた。また、そうあるように強く推奨した。
「討議録(R/D)」で位置づけられる1年間の「準備期間」が何故設定されたのか。専門家の語学力向上や生活安定化のためだけでは
なかった。2年目から始まる本格的な技術協力のための指導計画(あるいは技術移転計画)、協業計画などをカウンターパートとしっかり練り上
げるためでもあった。リーダーの着任がズレ込んでいる中で、「皆さん、それでは来年からの2年間の指導計画など一切を作成願います」
と一言発すれば済むような状況では全くなかった。
かくして、専門家三人と真剣に向き合い、全員のベクトルを合わせるべく、私の真の任務が始まった。そして、その任務の達成度について
後刻問われることになった。振り返って見れば、かつてオルティス校長に対して、技術協力は3ヶ月ではなく少なくとも3年、場合に
よっては5年必要であると大上段に構えてきた。にもかかわらず、2年間の指導計画や協業計画すら作成できない、あるいは作成できても
その内容が伴わない、というのでは話にならなかった。ましてや、リーダーが最初のほぼ一年不在の中、私にとっての責務をフルに
果たすことが求められていた。時にその重圧に耐える覚悟を思い起こし、武者震いする日々が続いた。
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