アルゼンチンの港町マル・デル・プラタ (Mar del Plata; MDP) の真冬には南極からの身を切るような寒風が吹きすさぶ。そんなMDPでひと
冬を過ごした。本当に長く感じられた。私は未だ若かったけれど、それでも厳冬期の寒さは骨身に堪えられないものであった。当時の漁業学校
の校舎は、鉄筋 (または鉄骨) コンクリートの柱や梁にレンガを積み上げ、白い漆喰を塗っただけの建物で、校舎内の空気は冷え冷えとしていた。
その教室の一部屋が専門家の執務室にあてがわれた。そこに校長がわざわざ気を利かせて用意してくれた電気ストーブ一台を取り囲みながら、
皆してその寒さに我慢した。
我々専門家はカウンターパートと協働して、翌年の1985年4月から本格的に開始される技術協力のための諸計画づくりに励んだ。
振り返ってみれば、着任した頃は南半球では秋季(4~6月)であったが、その後厳冬期(7~9月)を経て、ようやく春季(10~12月)を迎える頃、
それらの計画づくりは仕上げ段階を迎えようとしていた。そして、避暑客で溢れ返るサマーバケーションの時季(1~2月)を経て、さらに初秋を
迎える1985年3月頃には新校舎がほぼ完成しつつあった。旧校舎からの移転や大統領を迎えての竣工式の開催計画もオルティス校長と大統領
官邸などの下でほぼ固まりつつあった。
4月になって旧学校の全関係者は竣工したばかりの真新しい新校舎へと引越した。学校が手配した引っ越し業者の手で、
実習機材・学務書類や図書類・机や椅子・事務機器などの一切がっさいが手際よく新校舎へと運び込まれた。その後暫くして、森リーダーが、
プロジェクト開始からほぼ一年遅れで、家族2名を伴ってブエノス・アイレスに到着した。
ブエノスで諸手続きを4、5日かけて済ませることができた。秋のさわやかで凌ぎやすい頃であった。その後、森リーダー家族は、夏の
喧騒がすっかり過ぎ去ったMDPの地に足を踏み入れた。これでプロジェクトの日本人関係者はフルメンバーとなった。
マル・デル・プラタでは既に下見をしておいた幾つかの住宅候補物件の中のこれぞとおぼしき住宅 (一軒家) に腰を落ち着けて
もらった。学校への通勤の足については、数か月後に新車が届けられるまで間、私の車をタクシー代わりに頼ってもらうことにした。
その頃には他の3名の専門家には新車が届けられていた。
ところで、リーダーは元々運転免許証の所持者ではなかった。策として、私の車で少しずつ一般路上での運転の練習をして
もらうことになった。「ア」国では免許保持者が助手席に座り指導することが認められていて、その点では随分大らかであった。リーダーには
運転経験が全くなかった。だが、授業のない午前中ならば時間に余裕があったので、一般路上での走行運転、バックでの車庫入れ、
坂道での発進などを繰り返し挑戦してもらった。その後一か月ほどして、有資格の試験官に
同乗してもらって一般路上での運転技能試験に臨み、無事目出度く合格、免許証を取得できた。かくして、一つの大きな私的任務をやり
終え、肩の荷を降ろすことができた。そして、森リーダーとご家族の行動範囲は一気に広がり、生活の楽しみも格段に増えて行った。
さて、「ア」側からアルフォンシン大統領や政府関係者らを迎え、他方日本側からは東京からの来賓者として桜内義雄元衆議院議長(
外務・農林水産大臣などの4大臣を経験)や、斎木千九郎駐「ア」日本国大使らの臨席の下、新学校の真新しい講堂で盛大な竣工の記念式典
が開催された。その後、会場を近くのゴルフ倶楽部のラウンジへ移し、記念のレセプションが行われた。
ところで、校舎の管理棟2階には校長室・副校長室、1階には総務・学務室、会計室、図書室兼教授控室、給湯室、レセプションなどが
配置された。リーダーと私には、管理棟2階に、狭いながらも共用の執務室一部屋が確保された。その執務室は廊下をはさんで校長・副校長室の
向かい側に位置し、両校長のカウンターパートといつでも打ち合わせ会合をもつことができた。
専門家のためには、当分開設見込みのない海技資格クラスの受講生用教室が執務室に転用された。広々とした教室には、専門家3名用の
デスク・椅子の他、カウンターパートとの打ち合わせ・協働作業用の会議テーブル、複写機などが配され、また暖房装置の設置もあり快適であった。
カウンターパートと協業するに十分過ぎるほどの大部屋であった。
プロジェクトではこの頃から専門家チームの一員として一名のアルゼンチン人秘書を雇うこととし、タイピング、電話応対、航空券などの
手配・両替手続き、資料作成補助をはじめ、ありとあらゆる補助業務に就いてもらった。
話しは少しズレるが、私の家族は、リーダーよりも半年ほど早く、1984年11月中旬の盛春の頃、生まれて3ヶ月ほどの
乳飲み子の次女と5歳過ぎの長女を連れて遥々日本からやってきた。次女は道中の機内でぐずつくことが殆どだったようで、妻は殆ど眠れ
なかったという。それ故に、労をねぎらうため奮発をして、いつもの古風な「クリジョン・ホテル」ではなく、少し近代的で星数
一つグレードアップしたホテルに部屋を取り、3日間フルにルームサービスを活用し、ゆっくり休養して体力回復できるように精一杯
配慮した。乳飲み子を抱えて35時間のフライトでの労苦に耐えたことからすれば、これくらいの配慮など取るに足らないくらいであった。
妻は渡航に当たり20フィートコンテナに生活用品や食料品をどっさりと、さらに子供用自転車まで詰め込んで発送していた。こうして、
家族4人でのアルゼンチン生活が始まった。私的には8か月近く単身赴任であったがゆえに、スペイン語には否応なく必死に向き合わざるを
えなくなった。そのことから、語学上達スピードは相当アップさせられていた。何処に行くにしても西和辞書を離さず持ち歩くことを
習慣にしていた。この良き習慣を赴任中の3年間貫き通した。
さて、厳冬期の数か月間とプロジェクトの黎明期の一年を乗り越え何とかプロジェクトを軌道に乗せようと奮闘を続けた。プロジェクト
の初年の「準備期間」はいわば生みの苦しみの一年であったが、特に「冬季の長いトンネル」を抜け出し、ようやく春季を迎え、さらに
サマー・バケーションの季節に辿り着いた感じであった。1985年初秋の4月にはプロジェクトチーム全員が揃い、その2年目に入り「本格
的な協力期間」が始まった。その頃には、何の憂いもなく業務面でも生活面でも全てが順調に滑り出し最高のコンディションにあった。
プロジェクトを軌道に乗せようとこれまで肩ひじ張って緊張の連続でもあったが、この頃には両肩の荷を降ろし、心を解放させ、
リラックスしながら日常業務をこなしつつあった。その日常の落ち着きが心に大きな余裕を生んだのであろう。ある一つの閃きが突然
脳裏に突き刺さった。まさに、プロジェクトの進捗が順調に滑り出していたが故に湧き上がってきた閃きであった。
頭の片隅に追いやられていた思いが突然ポップアップしてきた感じであった。
学校内では、専門家とカウンターパートなどとの間で、また時に他の学校教職関係者らも交えて、航海、漁具漁法、漁獲物処理、
救急救命、船舶機関の他、電気・機械・訓練船・視聴覚教材制作などのいろいろな教科にまつわる会話が日常的に交わされていた。
そのやり取りの中にはいろいろな専門的な語彙が含まれていた。それも日本語、スペイン語、英語の3言語によるやり取りであった。
かくして、ある閃きを得たタイミングは学内で日常業務に勤しんでいる最中でもことであった。リーダーと相部屋にしていた執務室
で二人してタバコを片手に紫煙を揺らせて会話していた1985年の4月のある日のことであった。
「航海、漁労などに関する日本語・英語・スペイン語(西語)の語彙集づくりをするには、これほど恵まれた環境はないの
ではないか」という思いが去来した。次の瞬間、「日常的に耳にしたり、目にする海にまつわる語彙を何でも書き留め、語彙集を作る
絶好の機会である。それらを書き留めなくて何とする」との、まさに神がかった啓示的言葉と思えるような閃きを得た。脳天に檣頭電光の如く
突き刺さった。「この機会を逃したらもう二度とチャンスは巡ってこないのではないか」という強迫観念のような
ものを感じた。語彙集づくりのラストチャンスであるに違いないとも思えた。
航海、漁労、漁獲物処理などの日常飛び交う専門的語彙を拾い、語彙集づくりをするというアイデアを閃いた時、間髪を入れずに
その日のその瞬間から、即その下準備を始めた。過去2回のそんな機会に巡り合いながら、実現するに至らなかったという過去の苦い教訓から、
その場で大学ノートを準備した。語彙をABC順に書き留めるための見出し用ラベルをノートの各ページに貼った。そして、専門的語彙に
出会った時には、当該語彙(見出し語)の接頭文字に合わせてABC順に分類しながら、その場でノートに書き留めることにした。
その場にノートを持ち合わせていない時には、何かの紙切れなどにすぐにメモを取るようにした。
数ヶ月もすれば大学ノートは5~6冊にもなってしまった。そして当然の成り行きとして、ある問題に直面した。ノートの冊数がどんどん増え
続けて行けばいくほど、その問題に悩まされることになった。即ち、語彙の重複が気になり始め、頻繁に立ち往生すること
になった。既にノートに書き込んだ語彙なのかそうでないのか。そうであればその語彙はノートのどこに書き留めたのか。ノートをひっくり
返して重複の有無などを確認するための回数が段々多くなり出した。そして、その確認にひどく手こずるようになり、その対処法
を真剣に考えざるをえなくなった。何冊ものノートを行ったり来たりで、無駄な時間を費やするようになり、その非効率さに苛立つように
なった。
時間軸をここで少し巻き戻すことにしたい。実は、「海の語彙集づくり」の思いつきは初めてではなかった。最初は米国シアトルでの
留学時代であった。海洋関連の社会科学系の教科だけでなく、海洋学・水産資源管理論・海洋鉱物資源学やその開発などに関連して、
海洋自然科学系や工学系の教科を学んだり、またタームペーパーの作成に取り組んでいた。その時にさまざまな「海語」(海洋関連
の専門用語)に出会った。それらを書き留め、自身の学術論文などの執筆上の利便に資するために語彙集を自作するには一つのビッグ・
チャンスであった。だが、教科書・資料のリーディングやタームペーパーの作成、さらには単位取得の重圧に押され、ついに日の目をみる
ことはなかった。目の前の学業のことで精一杯となり、それを手掛ける余裕が生まれなかったからである。
二度目のチャンスは、アルゼンチンへ赴任する前のこととして、海洋調査研究に関する非営利目的の任意団体として創始した「海洋
法研究所」の中核的活動として、日本の海洋法制・政策や海洋開発動向を扱う日本語・英語版の「海洋法と海洋開発ニュースレター」を発刊した
時のことである。また、「英語版・海洋白書/年報」の類いのような研究レポートの発刊にも取り組みたいと思い描いていた頃でもあった。
さまざまな海語を拾い上げ、副次的な成果としての語彙集づくりを始めるにはもう一つのまたとないチャンスであった。語彙集づくりを
目指して一度は足を一歩前に踏み出したものの、いつしか尻切れトンボになってしまった。当時、語彙集づくりの必要性や利便性が
あるにはあった。だが結局のところ、その「起点」にも「発火点」にもなりえなかった。一度ならず二度までも、語彙集づくりのチャンス
に巡り合ったものの目の前を通り過ぎてしまった。
漁業学校に勤務していた時に出会ったのが三度目のチャンスであった。当時それを「海洋辞典づくり」のビッグチャンスと
大上段に構えて取り組んだ訳ではなかった。だが、語彙集づくりをする上で二度と巡り会うことのない「ベスト・アンド・ビッグチャンス」
であることだけは十分認識できた。その10年ほど後に、世界はインターネット時代を迎えた。そして、いみじくも語彙集をネットを
通じて世界に発信することができる革新的な時代が到来した。その時に初めて「オンライン海洋総合辞典」づくりの原点あるいは起点は、
アルゼンチンでのこの「国立漁業学校プロジェクト」にあったことを悟ることになった。
当初は、航海、漁業などの専門的語彙が和英西語の三か国語で飛び交う環境下に身を置いていたが、聞き流しで終わらせるには
「余りにももったいない」ことと思い、書き留め始めたことが発端であった。語彙集づくりをすれば、専門家やカウンターパートらの
コミュニケーションにも何がしかの役に立つのではないかと思い、「善は急げ」のことわざ通り、先々のことは全く気にせずに始めた。
ところが、10年後に、信じられないような情報通信技術の出現により状況が一変した。
語彙集づくりに思いもかけなかった一条の光明が差し込むことになった。内心では世界中のパソコンが何時の時代かに繫がるかも知れないと
漠然な期待を抱いていたところはあった。だが、インターネット時代が余りにも早くやって来て仰天であった。情報通信ネットワーク網の
驚異的な世界的広がりを目の当たりにした。なお、ネットと語彙集づくりとの連関性については後章にて詳しく触れることにしたい。
さて、過去の二度の失敗を繰り返すまいと、またこれが最後のチャンスと自身に言い聞かせ、即その日から大学ノートを机上の
隅に準備しメモ取りを始めた。そして、試しに思い浮かべられる専門的語彙の20~30語をABC順に書き留めてみた。それが最初の一歩であった。
いつも大学ノートと西和辞書を机上に置き、どこへいくにもそれを持ち歩くようにした。海に少しでも関連する語彙を何時でも
何処でも拾い上げ書き留めた。この手法が原点であり、語彙集づくりはそれを原点にして始まった。
かつて高校生時代のクラブ活動で経験したトラウマを払拭するのに、大学4年間もかけることになったことは既章で述べた。3度目
の語彙集づくりは、トラウマの払拭に取り組んだ過去の忸怩たる思いにどこか相通じるところがあった。
専門家やカウンターパートらの会話だけでなく、西和辞書や業務資料などに目を通した際たまたま気付く海にまつわる語彙を何でも手当たり
次第に拾い上げノートに記した。語彙がスペイン語や英語であれば、「これ日本語で何というのか」と対訳を調べたり、専門家やカウンター
パートに尋ねたりした。日本語、英語、西語の辞書などでじっくり調べ確認することも多くなった。
まずは耳にし目に見した語彙が記憶から消え去る前に、その場で書き留めておくことが最も重要な起点(基点)であった。
何時でも何処でもメモすることが習慣となり、いわばマニアック的な個人癖にもなって行った。
さて、ノートが何冊にもなり、語彙の重複が目立つようになった。間もなくして思いついたのがパソコンの活用であった。
「ア」へ赴任する時、いわば「現代版ノートと鉛筆」としてのパソコンを、専門家の赴任と同時に携行することが許される機材
(当時「専門家の携行機材」と称されていた)として購入しプロジェクトにもち込んだ。
機種は沖電気のデスクトップ型パソコン (沖電気製の「IF800」という機種)であった。活用を思いついた時はまだ防塵シートが被せ
られたままで、殆ど未活用状態であった。
当時JICA本部ではワープロは既に社内で公文書づくりなどにかなり使われていたが、パソコンはそれほど普及してはいなかった。各課
にパソコン一台が共用として支給されていた程度であった。その用途もごく限られていた。
パソコン画面上のフォーマットに専門家や調査団員らの氏名の他に、人数、等級、派遣期間などの変数をインプットし、彼らの渡航
経費をできるだけ自動計算させるくらいなものであった。赴任前でのパソコン操作経験と言えばこれくらいなもので、他の用途では
使ったことはなかった。赴任前にあっては、業務文書の作成はなおもワードプロセッサー(ワープロ)に頼っていたのが殆どであった。。
だが、赴任時に専門家専用にあてがわられる「携行機材」としてパソコンをもち込んだ。世は激しく移り変わりパソコンはそのうち
業務上の必需品となるかもしれないと想像する一方で、現地でマニュアルを読んで独習すればパソコンを使いこなせるようになるかも
しれないとの思いで、今回思い切って携帯することにしたものである。現地ではパソコンを少なくともワープロとして
使いこなし、本部への報告書などの業務文書の作成にフル活用できれば良かれとの思いであった。とは言え、当時まだ使いこなす
ところまでは到底いかなかった。だが、いみじくも語彙集づくりで利用する機会を得ることになった。アナログ方式での語彙集づくり
に限界を感じるようになり、必要に迫られパソコンを使ってみるきっかけを得た次第である。
パソコンに被せていた防塵カバーを取り外し、モニター画面の前に陣取り、電源をオンにした。そして、恐る恐るソフトフロッピー(
パソコンを作動させるためのアプリケーションを収納したフロッピーデスク)をスロット
に差し込むことから始めた。短期専門家としてプロジェクトに招聘した水産大学校の前田教授の来「ア」時に、「ワード」という日本語文章
作成用ソフトの初歩的な操作法につきほんの少しだけ手ほどきを受けたことがあった。それを思い出しながらのチャレンジであった。
沖電気の「IF800」型パソコンは、当時では、NECの機種と共に最先端のマシーンであったが、2020年代半ばの現在から振り返れば何処かの
博物館に展示されていても可笑しくない年代物である。1960年代の旧式箱型白黒テレビのような形と大きさのパソコン本体には
2つのフロッピーディスクの投入口(スロット)があった。
左側の投入口に「ワード」という日本語文章作成用ソフトのフロッピーディスクを、右側のそれには作成されたデータを記録する
ためのフロッピーディスクを投入することで、パソコンをワープロとして機能させた。かくして、「習うより慣れよ」の心構えで、
文明の利器たるパソコンに初めてワープロ機能を駆動させて、大学ノートを見ながら入力を始めた。
複雑なことはできなかったが、先ずはABC順に語彙をベタ打ち入力したり、その集積を図った。その入力過程において語彙の重複化を
自身の目で確かめながら回避したり、あるいは重複語彙を抹消することができ、かつての課題の一挙解決を見た。語彙集づくりの効率は
大幅にアップした。語彙の加筆修正はお手の物となった。
また、コピー&ペーストすれば、語彙や文章の移動による並べ替えが簡単にできた。また、補筆修正も瞬時に対応可能となった。
ワープロやパソコンが世に存在しなかったアナログ時代における辞書づくりはいかに難義であったことかと偲ばれた。
語彙とその対訳、用例、語釈などを一枚のカードに記載し、何十万枚ものそんなカードをABC順やアイウエオ順に並べたことであろう。
加筆修正するためには該当するカードを一枚一枚探し出し、作業後に元に戻す。全ては手作業であったことであろう。つい1980年代の
初めまで基本的にこんな作業が繰り返されていたはずである。
さて、最初の頃はパソコン操作はぎこちなく、大いに戸惑いながらの新規入力や修正作業であった。入力エラーなどのために字句修正に
時間を取られた。だが、試行錯誤しているうちにいろいろ学習し徐々にパソコン操作に慣れた。1~2週間後には曲がりなりにも新規語彙
の入力や修正をしっかりできるようになった。そして何冊もの大学ノートを行き来するという無駄な作業は皆無となった。語彙拾いでの重複を
避けながら、圧倒的に効率よくABC順に入力できた。加筆修正もほぼ瞬時になすことができた。かくして、語彙集づくりを自身ですらびっくりする
ほど効率よく進められた。ワープロでも同じ効率を得られたことであろうが、パソコンの偉力はそれを上回るものであった。パソコンは語彙集の
編さん者にとっては正に救世主のようであった。
学校への出勤を毎日30分ほど早めて、それまでノートに書き留めていたアナログデータをパソコンに入力するようにした。
そのうち、時に午前中フルに出勤して入力に取り組む様にもなった。それを2年近く続けた。学校での授業そのものは午後2時から
8時までで、専門家は原則午後1時から9時までの8時間勤務であった。2年間で完成することは到底無理としても、次の専門家らに
引き継ぐに値する専門的語彙集の基礎編くらいまでは「進化」させたいと期待した。
さて、パソコンへの語彙入力を続けていると、フロッピーディスクがデータで満杯になる。データの何割かを別の新規フロッピーに移転させる
必要がある。このデータ分割によって今度はフロッピーの枚数が徐々に増えて行くことになる。スロットに的確なフロッピーをその
都度こまめに差し替えながら、新規入力や補筆修正を繰り返すことになる。当時、パソコン内蔵の記憶容量やフロッピーのそれが極端に
少なかったからである。それでも、何10冊ものノートに書き留められている語彙が重複しているか否かを確認をする手間、不便さ、
ロス時間を考えれば、フロッピーの差し替えは大した手間ではなかった。それに、語彙がある程度まとまった頃合いを見計らって、
同じ接頭文字をもつ海語を一まとめにしてコピー&ペーストすればかなり効率化できた。
「ワード」を用いて語彙の入力ボックスを作り、それを三分割したうえで、一に語彙の見出し語を、二にその対訳を、三に文例などを入力
する。そして、見出し語をABC順に一挙にソーティングする。論理的には、パソコン内に数多の「海の語彙カード」を作れるはずだが、
パソコンでそれを可能にするためのプログラミングや操作法の知識はなかった。また、「ワード」でベタ打ちしたデータについて、ABC順にソーティングするノウハウも持ち合わせていなかった。それに、現代にあっては当たり前の「エクセル」というソフトを当時知る由もなかった。
結局全てを諦めて、語彙・対訳・文例を単純にベタ打ちすることをその後ずっと2年間続けた。もちろん、
語彙集を読みやすくする工夫はいろいろと凝らした。ところで、短期専門家の前田教授に相談しながら、「ワード」でそのような入力ボックス(
語彙カードに相当するもの)の作成とソーティングの可能性につき模索してみたが、結局何の成果も生みだせなかった。
当時プロジェクトに「エクセル」のソフトを持ち合わせ、かつ使いこなせていたとすれば、語彙集づくりもさらに
効率化できたかもしれない。だとしても、その後インターネット時代を迎えた時に、エクセルで作成したそれらの語彙集やエクセル・データ
のファイル(拡張子が「~.xls」のファイル)からテキスト形式ファイル(拡張子が「~.txt」のファイル)や、ホームページ閲覧専用
のHTML形式ファイル(拡張子が「~.html」のファイル)へ簡便に変換し、かつウェブ上で閲覧できたかどうかは定かでない。
情報技術の日進月歩を思えば、不可能なはずはないのかも知れない。だが、当時のプロジェクトには「エクセル」もなく、また
「ワード」を用いて語彙集づくりに最適なプログラミングを探り出すような知恵もなかった。それ故に、語彙を単純にABC順にベタ打ち
するとともに、コピー&ペ-スト機能をフルに使いながら並べ替えるという、デジタルの世界にあっても最も原始的方法で作業を続けた。
原始的な使い方であったとは言え、パソコンと言う「革命的な文明の利器」をもって、入力されたデータに簡単な加筆
修正を加えたり、またデータを並べ替えることができ、語彙集づくりを驚異的に効率化することできた。そのことに限って言えば、技術
革新に感謝であった(もっとも、この程度のことならワープロでも十分であったであろうが、プロジェクトには沖電気製のパソコン
しかなかった)。
何はともあれ、3度目のチャンスにして、語彙集づくりの歯車を一回転させることができた。振り返れば、「オンライン海洋総合辞典」づくりの
千里の道もこのような一歩から始まった。プロジェクトの「準備期間」が終了し、2年目に入いったばかりの1985年4月頃のことである。
その後帰国して10年も経ないうちに、世界の人々はインターネットというとんでもない革新的な情報通信技術の旋風に巻き込まれる
ことになった。当該技術革新は語彙集づくりに勤しむ私にも目からウロコの感激と感涙をもたらした。生きている間にネット技術に
巡りあい、実際にその恩恵に浴することができて喜びに堪えないというのが正直な思いである。
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