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    第10章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
    第5節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する


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       第10章・目次
      第1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第3節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第4節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第5節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する



  南米大陸(本土側)最南端の町リオ・ガジェゴスに到着した翌日のこと、早速市街地に出向き旅行代理店を探し出し、相談に乗ってもら ったところまでは意気揚々であったが、全くとんでもない思い違いをしていたことに気が付きショックを受けた。自分の思い違いに情け なくなった。リオ・ガジェゴス港からカー・フェリーに乗れば、そのまま大西洋岸沿いに一路南航し、マゼラン海峡を軽く横切った 後すぐにでもアルゼンチン領「ティエラ・デル・フエゴ島」の中心都市ウシュアイアに辿り着けるものと、何の疑いもなく信じ込んでいた。 ガジェゴスという町は、大西洋からマゼラン海峡へ回り込んだすぐのところに位置しているものとばかり思い込んでいた。それがとんでもない 思い違いの始まりであった。

  旅に出る直前まで、「ガジェイゴスからフェリーに乗ればすぐに渡れる」という友人の言葉をそのまま鵜呑みして信じてしまっていた。 「ガジェゴスからそんなに簡単にフエゴ島へ渡れるのだ」と、自身で何の地理情報や交通情報も入手せず、また地図で確かめることもしなかった ことから招いてしまった失策であった。それにフエゴ島に渡るフェリーがガジェゴス港から一日数便はあるものと思い込んでいた。 だが、そんなフェリー運航はどこにもなかった。アルゼンチン国土の大きさを改めて思い知らされた。

  恥ずかしながら、リオ・ガジェゴスからフエゴ島の港町ウシュアイアまでの詳細なルートをずっと後で知った。ガジェゴスから 長距離国際バスで陸路を辿って一時間ほど南下した後、チリとの国境を通過しチリ領内に入る。そして、チリが運航するフェリーで マゼラン海峡を渡り、フェゴ島に辿り着く。だがそこはまだチリ領内である。再びチリ領内を陸路で150kmほど辿った後、 アルゼンチンとの国境を経て「ア」領に入る。しっかりと2回パスポートコントロールを 受けることになる。

  その後フェゴ島のチリ・「ア」国境からウシュアイアへは陸路をさらに250kmほど辿ることになる。現在でもそれが最も一般的な陸上 ルートである。距離にすれば何と東京から大阪ほど離れている。私は、他言するには余りにも恥ずかしいという思いで、この失策を 心の中に封印してきた。いずれにせよ、ブエノスのJICA事務所からはチリ国への渡航許可を得ていなかったので、飛行機で往復する以外に策は なかった。

  車をリオ・ガジェゴスに数日間預けておいて、飛行機でガジェゴス・ウシュアイア間を往復する方法を真剣に考えた。だが、ガジェゴス では数日前からかなりの強風が吹き荒れていたことに少し神経質になっていた。強風のなか一家4人で搭乗することに正直なところかなりの戸惑い と抵抗を感じていた。あれこれ悩んだ末、結局ウシュアイア行きを諦めた。次回いつの機会になるか分からないがフエゴ島への旅に就いては 出直すことにした。そして、残念至極だが、「マゼラン海峡」を横断するという「夢」を一時封印した。

  それにまた、ウシュアイアは世界に名の知れた「ビーグル海峡」に面しており、いつかはその海峡で 戯れるという「夢」を胸にしまいこんだ。人生で積み残したこの2つの夢が実現できたのは、何と2011年にJICAから完全に離職した後さらに 5年も経た頃であった。つまり30年以上も後のこととなってしまった。その時には、ウシュアイアにある昔の監獄を利用した 本格的な「海洋博物館」を初めて訪問することができた。遅くはなったものの約30年後に夢を果たすことができた。

  さて、前節でも少し綴ったが、リオ・ガジェゴスまで後250kmほどを残す距離にプエルト・サン・フリアンという大西洋岸沿いの小さな 漁村がある。マゼランがスペインから東方世界に浮かぶ「マルク諸島」(いわゆる香料諸島、現インドネシア領)を目指して世界周航の旅に 出たのが1519年のことであった。ウルグアイのモンテビデオ(現・首都)に辿り着いて、彼は部下に近傍の入り江を探検させた。 その結果、マゼランは、その入り江はラ・プラタ川のそれであって、当時「南の海」と呼ばれていた海(後に「太平洋」と称される ことになる)へ抜け出ることが可能な水路ではないことを確認した。その後、彼は別の水路を求めてさらにパタゴニア沿いに南下し 続けた。だが、時季がそれを許さなくなり、ついに越冬することを決意した。その越冬地がサン・フリアンであった。

  今回の家族との旅に際してはそのことを全く知らなかった。それ故に、国道から外れてすぐの距離にある サン・フリアンの漁村に立ち寄ることはなかった。サン・フリアンを訪れ、マゼランらが船隊を陸揚げし船底掃除や乗組員の休養を行なったという 「サン・フリアン湾」の浜辺などを実際にたむろしたのも、同じく30年以上も後のことであった。

  その浜辺をたむろした時のことサン・フリアンに町営の郷土博物館があることを知り立ち寄った。そして、ある木片が厳重なガラス ケースに入れられ展示されていた。その昔マゼラン船隊のうちの一隻が斥候の航海に就き先航したというが、当時サン・フリアンの 少し南方で難破してしまった。木片はその難破船のものとして展示されていた。それを観てびっくり仰天、大興奮を隠せなかった。 後章の別節で綴ることとしたい。

  休題閑話。全くひどい思い違いのために、フエゴ島への渡海はそう簡単でないことが分かった。家族のことを慮って ウシュアイア行きを諦め、翌日には針路をアンデス山脈沿いに北上することに転じた。まず200km余り先にあるエル・カラファテを目指した。 カラファテはアンデス山系の麓にあって壮大な氷河の先端部が湖に崩落するところを旅人の目と鼻の先で観察できることで世界的によく知られ ている。「ペリト・モレーノ」という大氷河の先端部が、その幅数㎞にわたり「アルゼンチン湖」に轟音を発しながら崩れ落ちる。その大自然 の営みの光景は圧巻と言う他ない。

  大氷河はまるで生きているかのように、不気味なうめき声というか、軋み音をたてている。一日数メートルほど下方へずり下って いるという。崩落するその最先端では氷河がひび割れ、鋸のようにギザギザとした鋭い歯の形状を呈している。そして、その先端部 が重力に堪えかねて、あちこちでドドーンという大音響と共に湖面へ崩落していく。その崩落の度に湖面には津波のような大波が立つ。 巨大な氷塊が崩落する様をそのすぐの対岸陸地から間近に眺めることができる。迫力満点である。観る者は全身に鳥肌を立てることになる。

  翌日になって、カラファテ近傍の「プエルト・バンデーラ港」からアルゼンチン湖遊覧船に乗船して「ウプサラ氷河」を見学するツアーに 参加した。大氷河が湖に幅何㎞にも渡ってせり出し崩落するところを、今度は船上から眺めることができた。湖面には崩落した大小数多 の氷塊が浮かび、船はそれらを慎重に避ける航路を選びつつゆっくりと進む。余談だが、遊覧船は湖中のある小さな島に立ち寄った。そこは ウォルトディズニー映画の「バンビー」という当時有名となった洋画が撮影されたという島であった。正に洋画のシーンを彷彿とさせるようで、 目の前の木陰からバンビ―や妖精が今にも飛び出して来そうな森であった。乗船客の子どもたちには大人気の森であった。

  翌日は、いよいよ一日中砂利道を走行することになる「冒険的ドライブ」へと出立した。パタゴニアのうちでも最もパタゴニアらしい オフロードの区間であった。当日少し緊張した面持ちで朝を迎えた。目指すは750kmほど北方にあって、砂利道が舗装道に変わる はずの辺境の町パソ・リオ・マーヨであった。カラファテから70kmほど北上すると、「ビエドマ湖」越しにそびえ立つアンデスの名峰 中の名峰「フィッツ・ロイ山」(標高3,400m)をついに視認することができた。名峰のピークは鋸の歯のように幾つもの峰が連座して そそり立っていた。そんな連峰の岩壁姿を暫く遠目に観ながら、砂塵を巻き上げて疾走を続け先を急いだ。

  ガソリン切れで立ち往生しないか心配なので、20リットルの予備ガソリンを入れたポリ容器を最後尾に積んでいた。さすがにガソリンが 車内に臭った。1~2時間に1台ほど猛スピードで疾駆し砂煙をもうもうと吐き出す対向車とすれ違った。フロントガラスには対向車による 跳ね石でガラスが破損しないよう頑丈な金網を張り付けている。何台ものそんな対向車とすれ違った。また5~6メートルはありそうな 無線用アンテナを髙く伸ばし揺らしながら猛烈な勢いで疾走する車もあった。

  途中小さな村を通りかかった折、念のためガソリン補給が可能なガソリンスタンドがあるかどうかを確かめようとした。ガソスタとは 呼び難いほどの質素なスタンドがあった。村人専用のようであった。だが、給油できるか訊ねたところ、「今日はあるよ」という返事。 ガソリンはまだ半分以上残っていたが、有り難く満タンにしてもらった。投宿予定地はまだまだ先にあり、結局予備ガソリンについても 途上で消費しながら、目的地とした町に何とか辿り着くことになった。途中一台の故障車に遭遇し呼び止められた。依頼に応じて、 応援車両の派遣を求めるメッセージを次の村で伝達した。

  さて、砂利道をようやく抜け出たところにある片田舎の町パソ・リオ・マーヨで投宿先を見つけ何とか落ち着いた。日本で600㎞以上にも及ぶ 砂利道を、予備ガソリン用ポリタンクを携えて走破するようなところは、はるか昔になくなっていることであろう。この日事故や故障もなく辿り 着けるか内心不安であったが、手に汗を握り、時に息をぐっと押し殺しながらのスリリングなドライブを無事終えることができた。念のためタイヤ を点検したら後輪の一本がパンクしていた。チューブレスであったので何とか持ち堪えたようであった。常時少なくとも予備タイヤ一本は 必需なので、早速町のパンク修理職人を探し回り有り難くお世話になった。

  その後、アンデスの麓沿いに、完全舗装された国道を快適に北上し、エスケルという割りに大き目の地方都市に到着した。翌日 エスケルの市街地をぶらついたり、アンデスの山々を「空中散歩」できる展望台があるという尾根筋へドライブしたりした。その後、 200kmほど北にある「南米のスイス」と称される例のバリローチェを目指してアンデス沿いにさらに北上を続けた。

  バリローチェの数10㎞手前にある「マスカルディ湖 (Lago Mascardi)」辺りで国道からそれて渓谷を奥深く分け入った。奥地の川岸で、 ほどよいキャンプ地を見つけ、テント設営をすることにした。今回の旅で二度目の大自然の中での野営となった。奥深い渓谷の中に 静かに水をたたえる湖、針葉樹林が鬱蒼と生い茂る森、ニジマスが棲息していそうな渓谷中の清流、そして融解して大きな空洞を 見せる大雪渓など、家族揃ってのんびりと大自然の中をそぞろに散策した。

  翌日からはバリローチェ郊外のドイツ系のロッジなどに投宿しながら、市街地中心部の目抜き通りをそぞろ歩きをした。バリローチェは、 針葉樹林の丸太を模したチョコレートの製造販売が有名であり、多様なデザインのチョコレートのショッピングなどを楽しんだ。 大勢の観光客に混じってのそんなそぞろ歩きは、心を弾ませ以外にもこれまでの長距離ドライブの疲れをウソのように癒してくれた。

  時に深い渓谷に抱かれたレストランで、新鮮なニジマスの丸ごとの塩焼きを食した。生まれて初めて味わったニジマスの 塩焼きの美味しさは格別であった。バリローチェには数日滞在し、その間、冬場にはスキー場となる尾根筋の展望台へケーブルカー とリフトを乗り継いで登攀し、そこからアンデスの山々の「空中散歩」をしっかり満喫することができた。また、幾つかの渓谷周遊 コースをのんびりとドライブし、途切れることのない美しい湖や渓谷、そして鬱蒼と茂る森の大自然に心身共に癒された。

  バリローチェから帰途についた。400kmほど先に進んでリオ・ネグロ州の州都ネウケンへ移動し、そこでたまたま見つけた国道沿いのモーテル で投宿した。モーテルには屋外に共同プールが設置されていた。未だ日没には余裕があり子どもと水浴びを楽しんだ。 翌日には500kmほど先のバイア・ブランカを目指した。ネグロ川とコロラド川にはさまれた区間にさしかかった。そこには、まさしく地図上に 定規で直線を引いて、設計通りに建設されたという道路がある。アルゼンチン人の友人らからよく聞かされた評判の悪い道路であった。 ついに、100kmも完全に真っ直ぐな例のいわく付きの道路にさしかかった。

  行けども行けども地平線から完全に真っ直ぐな道路が湧き上って来た。100kmの区間は、川があろうと丘を上ろうと下ろうと、 道には唯の一ケ所の緩やかなカーブすらなく、完全にストレートであった。そこをドライブするのはひどく苦痛であり、本音としては通過したくはなかった。ハンドル操作を一切する必要がなく、アクセルペダルを踏んだままとなる。脚は棒状態 となり、しかも徐々に麻痺してきた。右手で右足の太ももをマッサージしながらアクセルを踏み続けた。真っ直ぐな道がこれほど苦痛で ドライバー泣かせであるとは、生まれて初めて経験したことであった。周りには見渡す限り低灌木しか生えないパタゴニアの荒涼とした 大地が広がる。

     眠気を追い払い苦痛から気をそらせるため、フォークソング・グループの「アリス」の「チャンピオン」や「君の瞳は一万ボルト」 など(1970年代に流行った曲)のテンポの早い賑やかな曲のCDをセットし、音量をマックスにしてがんがんと車内に響かせながら ひたすら睡魔と闘うしかなかった。ボリューム一杯でも妻子3人がすやすやと眠り込んでいた。時に一瞬のことだが、ブレーキを強く 踏み込んでイタズラしたが、目を覚ます気配は全く無く完全に夢の世界に没入していた。

  両手をハンドルに紐で縛りつけておきたかった。アクセルペダルに重石でも置いて、ペダルをずっと 押さえ付けておきたい衝動にも駆られた。友人は口をそろえてそんなことを愚痴っていたことを運転しながら思い出した。 結局、距離100kmのドライブにおいてハンドル操作を一度もすることなく走り終えた。本当のことである。 何という「運転手殺しの道路」であることか。道路建設当局によるドライバーへの嫌がらせのための築道としか思えないような 道であった。恐らく建設費を抑える意図も多少はあったのかもしれないが・・・・。

  こうして、バリローチェから3日掛けてパタゴニアを横断し、無事18日ぶりにマル・デル・プラタに帰還した。パタゴニアを大西洋 岸沿いに南下し、さらにアンデス沿いに北上し、ついに5,000km余りを駆け抜けた。生涯において、一回のドライブ旅行でそんな長距離・長期間 に及ぶ走破を体験することはそうざらにあるものではなかった。私と家族のかけがえのない共通体験となり、 その思い出が家族の大切な財産ともなった。旅中睡魔に襲われ居眠り運転をするような危険を一度も犯すことなく、一人で何とか運転し切った。 今更ながら家族全員の若さとエネルギーに乾杯であった。「第三の青春時代」万歳と叫びたくなるほどの感動を呼び起こした パタゴニアの旅であった。

  さて、パタゴニアへの旅から半年が経ち、今度は冬期休暇の時期を迎えた。離任する予定にしていた1987年3月までまだ実質1年半余りあった。 そこで、今度は、南ではなく、アンデス高地の未だ見ぬ北の大地、それもボリビアとの国境の町を目指しての遠出を試みることにした。 パタゴニアへ旅した時と同じ年の1985年の冬季(日本では夏季)のことである。

  「ア」国は実に広大であった。国土の狭い発展途上国への赴任であったならば、3年も暮らすのであれば専門家に付与された休暇一時 帰国の権利を利用して、ほぼ間違いなく家族を伴って日本へ一時帰国するか、近隣の先進国への健康管理旅行とするのが普通であったに違いない。 だが、「ア」国赴任中、一時帰国のことは思い浮かばずじまいであり、またブラジル、チリ、ウルグアイなどの「海のある隣国」すら にもそのような旅行に出かけることはなかった。私的には「ア」国はそれだけ国土が広大であり、また訪れるに魅力的な自然と文化に溢れていた。

  かくして、再び車に生活用具一式を積み込んで、「ア」国第二の大都市コルドバに向けて一気に北へ駆け上がった。そして、アンデス山系に 囲まれたトゥクマン、サルタ、フフイの3州を巡った。マル・デル・プラタとボリビアとの国境の町ラ・キアカとの往復を含めれば、 またしてもで4,500㎞ほどの長旅になってしまった。

  3州にはスペイン植民地時代の面影が色濃く残っていた。コロニアル様式の古く荘厳な教会や政府庁舎などの建物、その他コロニアル 風の一般家屋も多くみられた。旧市街全体がまさにコロニアル風情で、私好みの異国情緒に包まれていた。また、我々と同じモンゴロ イド系インディヘナ(インディオ)が多く暮らす村の風情も大いに気に入った。ブエノスなどの白人ばかりが目立つ大都会とは全く 別世界風の情趣を醸し出していた。

  サルタは1582年にボリビアから南下してきたスペイン人によって建設された植民定住地であるという。1545年頃ボリビアの アンデス山中のポトシで銀山が開発され、その後莫大な富がスペインに運び出されていた。ポトシ鉱山から産出された銀のインゴット などをブエノス・アイレス経由でスペイン本国へ運ぶ中継地として栄えた地方都市がサルタであった。今もその植民地時代における繁栄 の片鱗を垣間見ることができる。

  他方、「ウマワカ(Humahuac)」は、フフイとラ・キアカとの間にある「ウマワカ渓谷」の中心の町で、インディヘナが多く暮らす 観光地として知られる。ウマワカでのことであるが、インディヘナの音楽グループが民族衣装を身にまとい、アンデス地方の 伝統的なフォルクローレを聴かせてくれるというレストラン情報を偶然現地で入手した。人生で初めて、チャランゴやケーナ などによる生演奏が聴けるという良い機会を得た。「花祭り(エル・ウマワケーニョ)」「コンドルは飛んで行く (コンドル・パーサ)」、「カルナバル」などのアンデスのフォルクローレに耳を傾けることができ酔いしれた。たったそれだけ のことだが、我々家族にとっては、アンデスの伝統音楽に直に聴き惚れる機会となり感激の涙を流さんばかりであった。

  最も印象に残るもう一つの出会いは、「ウマワカ渓谷」近傍における、過去に一度も目にしたことのない山岳風景である。 同渓谷は「南米のグランドキャニオン」と呼ばれるらしい。山々の稜線から裾野にかけて地層が斜面全体にむき出しになって連なる。 地層は豪快に大きく褶曲し波打つ。各層には異なる鉱物が含まれるようで、各含有鉱物特有の色彩を放っている。何層にも重なり 大きく褶曲して露出する地層は、七色の虹のようなグラデーションに彩られる。生まれてこの方はじめてにして、そんな豪快な地層の 造形美に魅せられ度肝を抜かれた。また、アンデスの山あいの渓谷では時に荒々しい原野が広がり、その中に巨大なサボテンが 林立するという独特の風景に出会ったりもする。また、ウマワカ渓谷とその周辺ではインディヘナの集落が点在し、アルパカやリャマ などとの素朴な暮らしぶりを思い浮かべることができた。

  ウマワカからさらに北上しボリビアとの国境の町ラ・キアカに向かった。高度はアップダウンを繰り返しながらいつの間にか 高度4,000m以上もある峠を越えた。ウマワカのガソリンスタンドでキャブレーターのガソリン噴射性能の調整を行ってもらっていたので、 難なく走破できた。

  ところで、アンデス高地では、ホテルの部屋は一階から上階へと順次埋まっていく。到着が日暮れ近くになってしまい遅めのチェック インとなったために最上階の3階の部屋しか空いていなかった。しかも、エレベーターがたまたま故障中であった。少なくとも家族4人分 の身の回り品だけでも、3階まで何度も往復して運び上げた。高山病に罹らないように、ゆっくり一歩一歩階段を踏みしめながら 小1時間かけて運び上げた。車で3~4,000m級の高地をアップダウンしていたこともあって、高度にかなり馴致していたのであろうか、頭痛を免れたようだ。ほっとしたところで、缶ビールを少しずつ味わった。だが、熱いシャワーを浴びることだけはやはり躊躇した。

  ラ・キアカに辿り着き、国境のゲート前で車を止めた。向こう側にはボリビアの町風景が垣間見えた。最初から国境を越えるつもり がなかったので、JICA事務所から渡航許可を得ていなかった。ゲートを前にしてボリビアへ一歩足を踏み入れたくなったが、それは止めておいた。 後で地図を紐解くと、ポトシは国境から300kmほど北のアンデス山中にあった。

  1545年頃スペイン人がそのポトシで銀山を発見しインディヘナに重労働を強いて開発した。銀産出量は膨大で、スペイン王国に 富をもたらし続けた。銀のインゴットの多くはかつてペルーのリマへ運ばれ、船でパナマ・シティへと送られた時期があった。 そして、パナマ・シティからパナマ地峡のジャングルを間切る「カミーノ・レアル(Camino Real)」という「王の道」を経て、カリブ海側のポルト ベーリョの港へと運ばれた。

  ポルト・ベーリョでスペインのガレオン船に積み込まれ、キューバのスペイン植民都市ハバナへと移送された。南米大陸北岸のカルタヘナ (現・コロンビアの港町)などの他の港からも運び込まれた金銀財宝と合わせて、スペイン本国から年1回仕立てられてやって 来る船団に積み込まれた。そして、本国のセビーリャへやカディスへと運び込まれた。スペインは長年にわたる銀の採掘によって、 その財政が支えられ王国の繁栄の礎になったことは歴史が示すとおりである。なお、銀のインゴットの輸送はリマ・パナマ・ポルトベーリョの ルートからサルタ、ブエノス・アイレス経由のルートに取って代わられたという。

  ラ・キアカの国境からポトシまではおよそ300kmの距離であった。丸1日あれば十分往復できる道のりであるが、国境を越えることは なかった。14年後に隣国のパラグアイに3年赴任した。ボリビア南部の低地にあるサンタクルス(パラグアイとの国境に近い)を経て 丸2日もドライブすればポトシに行ける距離にあったが、「銀山紀行」の旅は実現できなかった。パラグアイ赴任中ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなどの「海のある隣国」へ向けて旅することに殆どの休暇期間と資力を費やしてしまったからである。

  1986年の夏季に再びバリローチェへ旅した。今度は最短コースを選択した。マル・デル・プラタからバイア・ブランカ、ネウケンを経て バリローチェへ向かった。バリローチェへは、ストレートかつ最少日数の3日間をかけて直行した。道中には手頃なホテルが所在する地方都市は500~600km間隔にしかなく、その間には適当なモーテルが余り見当たらず、また運転疲れとリズムを考えると、どうしても3日間を要した。 さて、今回は激しく動き回らずに、バリローチェにしっかり「ベースキャンプ」を据えて、その周辺の湖や渓谷、緑溢れる森をゆっくり と巡った。その他は市街地の観光エリアとなっているいつもの目抜き通りを右に左にと渡り歩きウインドウショッピングやカフェなどを 楽しみながら優雅で贅沢な時間を過ごした。

  実はさらにもう一度バリローチェへ旅した。本帰国する少し前の1987年夏季に森リーダー家族と飛行機でバリローチェへ向かった。 現地でレンタカーを借りて周辺の森、湖、渓谷を案内し、またいつものように市街地の目抜き通りを散策した。帰りは大失策をやらかしてしまった。 航空券に手書きされたフライト出発時刻を読み間違ってフライトを完全にミスしてしまった。止む無く、マル・デル・プラタ行きの 長距離夜行バスに24時間ほど約1,600kmの道のりを揺られて帰着した。 それはそれで良い体験ができたと森リーダー家族には慰めを言ってもらったが、面目を失いバツの悪い話であった。

  バリローチェへの旅とともに夏期休暇は終わり、業務や生活面のあらゆることが一段と気ぜわしくなり始めた。離任するまでの 時間を視野に入れつつ、総仕上げのモードに入って行った。そして、1987年を迎えると正に帰国や引き継ぎの準備に追われた。 交代の長期専門家を迎える頃には、マル・デル・プラタに別れを告げる日が迫って来た。

  ところで、アルゼンチンでの仕事や生活を通じて、日本では考えられないような沢山の出来事に遭遇した。びっくり仰天のありえないような エピソード、ラテンアメリカらしいエピソード、さらに「へえ! そうなの」という軽めのエピソードまで、大中小の体験を通して 雑多な挿話を紡ぐことになった。次章ではそのうちの幾つかを是非紹介してみたい。

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    第5節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する


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      第2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第3節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
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