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    第10章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
    第4節 パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する


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       第10章・目次
      第1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第3節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第4節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第5節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する



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  アルゼンチンのマル・デル・プラタ (Mar del Plata; MDP) に所在する「国立漁業学校」に1984年4月に着任してからようやく10カ月が経ち、 翌1985年の1~2月に盛夏を迎えた。南米と日本の季節は真逆なので、1,2月は日本では厳冬期であるが、アルゼンチンでは真夏であった。 かくして、赴任以来最初のサマーバケーションのシーズンを迎えていた。家族 (妻・子2人) は事情で半年以上も遅れて、1984年11月 中旬に現地に到着した。その後フレンドリーに接してくれる近隣住民とその子供たちのお陰でわずか数ヶ月にして「ア」国での生活 にすっかり慣れ、直前に迫る夏季にはどこへ旅に出掛けようかとワクワクしていた。

  実はMDPは南米でも有数の避暑地であった。ブエノス・アイレスはラ・プラタ川という大陸性大河の畔にあるが、川幅は広い所で 100km以上もあり対岸が見えない。しかも河口の水はミルクコーヒー色に染まっており、海水浴などできるものではなかった。結局河口から400km 以上離れた大西洋岸沿いのMDPであれば、真夏には高温多湿のブエノスを離れて、ブルーオーシャンに臨む海浜で海水浴を楽しめるという訳である。 普段はMDPの人口は数十万人であるが、1,2月の盛夏ともなれば押し寄せる避暑客らで人口は倍以上に膨らむ。我々MDP住民は、 避暑客相手のビジネスでもしていない限り、長期滞在客でごったがえす市街地の喧騒に堪えかねて、町から暫くの間脱出していたく なるというのが正直な庶民感覚であった。

  さて、赴任して初めて迎えた夏季には、1,400kmほど南西にあるサン・カルロス・デ・バリローチェという、アンデス山脈の麓に ある自然景勝地を目指して出掛けることにした。バリローチェは「南米のスイス」と称されるだけあって、大アンデスの山岳に囲まれた 雄大な大自然の懐に抱かれ、また森と湖、渓谷と氷河、滝と渓流とが織りなす人間と動物たち双方の楽園であった。胸一杯に清涼なオゾンと酸素を 吸い込んで心肺を浄化できそうであった。

  とはいえ、生後6ヶ月ほどの乳飲み子を抱えての初めての車での遠出であった。一人で運転して単純に往復するだけでも6日間は 要する距離であり、内心では、5,000km・20日間ほどの長距離・長期間のドライブを無事遣り終えること ができるのか、全く不案内の未知の旅程の長さ、オフロードでの走行、乳飲み子の体調などを思うと不安は尽きなかった。だが、細心の 注意を払えば何とかなるだろうと楽観的に考えるようにした。長女は5歳半ほどであった。

  ところで、アルゼンチンは国土が広大であり、大陸大地にはスケールの大きい自然景観に満ちており、訪れてみたいところが幾つもあった。 「ア」国内の見知らぬ大地をあちらこちら巡り歩くまたとない機会でもあった。特に不毛の大地と称されるパタゴニアの踏査は楽しみであった。 乳飲み子を抱えて公共交通機関を乗り継いで長期国内旅行するのであれば、それらによる移動や乗降に苦労せざるをえない。しかし、 自家用車での遠出ということになれば、乳児を伴ってもドア・ツー・ドア感覚で身軽に移動することができる。同じ方面に旅をするにしても 殆ど気を遣うこともないので道中いつも気が楽であった。

  とは言え、運転するのは私一人なので疲れる話であった。だが、車の運転は大好きであったので殆ど頓着しなかった。 それに、長距離ドライブであっても、歳はまだ35歳過ぎで若かったので、まだまだ体力と気力に自信がみなぎっていた。 それに何百㎞も走ってたまに通過する地方都市に交通信号機がわずかに設置されている程度であり、都市間にあっては全く信号機のない 国道を快適にドライブできるはずであった。先を急ぐ旅でもなく、また運転に疲れ切るほど無理を重ねる訳でもなく、のんびりと 休み休み旅すればよかった。先ずは居眠り運転こそ絶対的に避けたかった。

  かくして、赴任してまだ1年にもならない1985年の初旬に、漁業学校の夏季休校期間を利用して、家族揃って「不毛の大地 パタゴニア」の外縁を大きく周回する「冒険旅行」へと出かけた。往きはパタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下し、 南米大陸最南端の「ティエラ・デル・フエゴ島(Isla de Tierra del Fuego)」にある、「ア」国の最果ての町ウシュアイアを目指した。

  ウシュアイアは「マゼラン海峡」に臨む港町であり、一度は足を踏み入れてみたいと念じていた町であった。同地には昔の監獄跡を利用した 海洋関連博物館もあり、見学が楽しみであった。その後、南米大陸の背骨であるアンデス山脈の東側沿いに北上し、 名高い山岳景勝地のバリローチェを経て、パタゴニアをほぼ周回した後に帰着するという計画であった。 日本からすれば地球のほぼ裏側に位置する「ア」国のパタゴニアの大自然を体験できるのは、人生の中でもそれほど機会は多くないとの 強い思いがあった。赴任の機会をぜひ生かしたかった。

  私の車はフランス・ルノー社製のステーション・ワゴン (型式は1984年製造の「18GTX」) であった。普通乗用車の後部座席のさらに後方 に二人が座れる簡易のシートがあった。その座席を前方に倒し畳み込めば、バックドアからたくさんの荷物を押し込むことができた。 JICA事務所の河合君のアドバイスもあって、家族で遠出することを念頭にこの車種を購入したものであった。 ついにそのワゴンを本格的に生かせる機会がやってきた。

  旅支度では思った以上にかなりの重装備とならざるを得なかった。生活用品一式を幾つかの段ボール箱に区分けしながら積み込むことにした。 先ず、電気炊飯器や什器一式、簡易ガスコンロ、鍋、フライパン、やかんなどを納めた。お米、味噌、インスタントラーメン、おにぎり用の 海苔などの他、醤油・塩・胡椒などの各種調味料をはじめ、できる限り多くの日本食材を詰め込んだ。

  4人用のテント一式、折り畳み式のテーブルと椅子、エアマット、毛布、アイスボックス、携帯ランプ、衣類一式、子どものための 生活用具一式、ベビーカーや粉ミルク、哺乳瓶などのベビー用品だけでなく、万一の野宿に備えて幾つかのキャンピング用品も整え、 ぎゅうぎゅう詰めに押し込んだ。車のルーフにはキャリアをセットし、そこにテーブル・椅子、テントなどを括り付けると、車は名実ともに 満載状態になった。最後に予備のガソリンを携帯するためのポリ容器(20リットル入り)を押し込んだ。

  マル・デル・プラタからほぼ大西洋岸沿いに一路南下し、500kmほど先のバイア・ブランカ(スペイン語で「白い湾」の意味)を目指した。 ブエノスとバイア・ブランカの間には、半径400kmほどの円を描いたように広がる「パンパ」と呼ばれる大放牧・穀倉地帯がある。 バイア・ブランカはその「パンパ」で産み出される穀類や牛肉などの農牧産品の一大集積地であり、またそれら輸出産品の積み出しのための 大きな商業港を抱えている。

  バイア・ブランカまで海岸線とほぼ並行して、いわばパンパの東側外縁の半周近くをなぞるように大平原の中を ひた走った。時に、見渡す限りの緩やかな丘陵地に向日葵の大輪で埋め尽くされた畑が続く。まるで、黄色い絨毯を地平線の果てまで 敷き詰めたようであった。日没時になると柔らかいオレンジ色の太陽光線に照らされて、何とも美しい牧歌的な田園風景に溶け込むようで あった。そして、今日一日のドライブの運転の疲れもそんな自然風景に癒された。

  もう一つの印象的な風景を追い続けながらのドライブとなった。見上げる大空には小さな浮き雲が規則正しく縦横列になって 広がっていた。底部が平らだが上部がむくむくしている。行けども行けども数多の浮き雲が地平線から湧き上がり途切れることがなかった。 大陸と大海とが何千キロメートルもほぼ直線的に隣り合わせになっていることから、浮雲がこれほどまでに連なるのであろうか。 海岸線とほぼ並行して空一杯に、まるで魚のうろこを規則正しく隙間をゆったり空けながら配するかのように延々と浮かびどこまでも続く。

  南米大陸という巨大な「陸塊」と大西洋という「海塊」とが接する海岸線の上空ともなれば、雲景のつながりのスケール もかくも巨大になるものかと思ってしまう。大陸性大地の空を一面に浮き雲が覆う。地上には大牧草地の「グリーンの絨毯」と 向日葵の「イエローの絨毯」の世界が広がる。だが、放牧牛はまばらにしか見かけない(パンパでは人間の数より圧倒的に牧牛のそれが多い)。 おそらく日本では北海道でしかお目にかかれないような雄大な田園風景である。

  時速百数十㎞の髙速で走行したいところであるが、そこは安全のためぐっと我慢して、常に時速80~100kmほどに抑えつつドライブを続けた。 MDPを出立して暫く走行した後に痛ましい交通事故現場を見てしまったことも、スピード抑制に確固とした影響をもたらした。旅行中先ずは時速80km を目標に置くことにした。され、陽が落ちる頃には、バイア・ブランカの市街中心部で見つけた星数2~3の格安ホテルに投宿できた。

  翌日、「バルデス半島」の最寄りの町プエルト・マドリンを目指した。バイアから50kmほど南下すると南緯40度線辺りに河口をもつ 「コロラド川」という大河を横切った。千数百km西方にあるアンデスの山々、それも南米大陸最高峰の「アコンカグア山」(6,960m)からそう 遠くはない源流地から悠然と流れて来る大河である。そのコロラド川を境にしてパタゴニアのステップ地帯(砂漠と温帯の移行地にある乾燥草原 地帯)に入り、自然の様相は一変し荒涼としてくる。正に「不毛の大地」の始まりである。さらに40度線を越えて少し南下すると「ネグロ川」 の河口にあるビエドマという町に至る。バイア・ブランカから240kmほど南にある。

  ビエドマからさらに400kmほど走破し、世界自然遺産に登録される「バルデス半島」へのゲートウェイである港町プエルト・マドリンを目指した。 マドリンはパタゴニア北部の一大漁業基地であり、またアルミニウム製錬の大基地ともなっている。 ところで、はるばる持参してきたキャンピング用具を使ってみる良い機会との思いに目覚め、半島の何処かでオートキャンプ場かテント 設営可能地を見つけ野営することにチャレンジすることにした。そこで、マドリンの少し手前で国道3号線から外れて、全体が国立公園となって いる同半島内へと足を踏み入れた。

  「バルデス半島」はオタリア、トド、イロワケイルカ、クジラ、シャチなどの海洋性哺乳動物やマゼラン・ペンギンの 野生生物の楽園である。半島は地形的には、江戸時代の長崎の「出島」のように大西洋に突き出ていて、その付け根はごく狭い地峡と なっている。別の表現をすれば、マッシュルームを横に倒して、その笠部を海に向けて突き出したような形状である。

  そのマッシュルームの細くなった茎部に相当する地峡部を過ぎてすぐのところに「プンタ・ピラミデ」という、 半島で唯一の小さな集落があった。その集落の近くの砂浜に陣取り、日が暮れないうちにテントと簡易テーブル・椅子を設営し、手早く インスタント食品を調理して夕食を済ませた。他のキャンパーもいて不安はなかった。子どもらにとっては初めて のテントでの野営であったが、何事もなく無事一夜を明かすことができた。

  時間軸を少し戻すと、私的には、この半島に足を踏み入れたのは二度目であった。1983年に初めてアルゼンチンに出張した折、 パタゴニアでの漁業事情を視察するために、他の調査団員とともに、空港のあるトレレウ(マドリンから50kmほど南の地)の町に 降り立った後、チャーターした車でこの「ピラミデ」に立ち寄ったことがあった。

  野生のミナミセミクジラ(southern right whale)がボートの真下を悠然と通りゆく姿に鳥肌を立てながら興奮と歓喜を覚えた。 クジラジラミなどからなる「カロシティ(callosities)」と称されるかなり大きな白い塊が巨体のあちこちに付着していた。 ミナミセミクジラの大きな特徴らしい。クジラは6~12月に観察でき、8~9月(アルゼンチンでの晩冬~初春)がピークという。ピラミデがクジラ ウォッチングのメッカになっていることはその出張時にピラミデを訪れて初めて知った。

  実は「バルデス半島」に初めて興味を抱いたのはJICAに1976年後期に就職して数年後のことであった。研修事業部で「地熱エネルギー資源探査」 集団研修コースの巡回指導調査団員としてエジプト・トルコ・フィリピンの3か国に出張した。それがきっかけで、陸上において だけでなく、海洋における自然再生可能エネルギーの開発にも興味をもち出したことは、すでに述べたとおりである。 その頃に紐解いた海洋開発の書物の中で、バルデス半島地峡に潮流発電所を建設する構想があったことを知った。まさか、自分の足でその地に 立てることになろうとは感動ものであった。

  「出島」のような半島の縦(南北)方向の距離は120kmもあるが、半島付け根部(「出島」へ渡るための橋に相当する)は極端に細くくびれている。 そのくびれた地峡部の南北方向の距離(その出島でいえば橋の幅に相当する)はわずか 6㎞ほどである。北側には「サン・ホセ湾」(el golfo de San José)、南側は「ヌエボ湾」(el golfo de Nuevo)という奥行きが 深い入り江がある。半島の付け根部分をスプーンで鋭くえぐったように海が南北方向から深く湾入している。

  さて、1975年の法律で「ア」国政府は「バルデス半島」における潮力発電所に関する可能性を調査するように義務付けられた。 当時の原子力発電所と同等の1,200メガワットを発電する潮力発電所の建設可能性も考えられた。だが、半島周辺での干満差は 8.7メートルほどであったことから、同湾入り口を堰き止めることによって外洋と内湾(サンホセ湾またはヌエボ湾)との潮汐差を 利用することによる潮力発電は困難と見込まれた。そこで他の方法が考案された。

  付け根の地峡部の陸地を開削し、運河(水路)を建設し、両湾間の潮位差によって絶えず行き来する 潮流を堰き止め、その堰の構造内部に埋め込んだ水中タービンを回転させ発電するというアイデアである。「ア」国海軍による計画に 違いないと思い、漁業学校の副校長ジャベドニー元海軍中佐に、同計画案について尋ねたことがあった。確かに構想されていた との言質をえたが、経済採算性あるいは自然環境上の観点から立ち消えになってしまったのか、それとも彼は詳細を承知してい なかったのか、その構想内容について何も語ってはくれなかった。

  話しは全く少しそれるが、実際に潮力発電所を訪ねることができたのは40年ほど後の事である。即ち、2017年10月に韓国西岸にあって ソウルから南西40㎞ほどにある「始華湖(シファホ)潮汐発電所」を見学する機会があった発電施設内部は見学できなかったが、長大な人工 堰き止め堤防の一角に設けられた発電施設の外観などを観て、そのスケール感を知ることができ感涙であった。また、同発電所が造営されるに至った 特別の事情も知ることができた。何時しかフランスの「ランス潮汐発電所」や中国沿海部のそれをも訪ねてみたいと思う。また、カナダ 東岸の「ファンデー湾」の潮位落差(数10メートル)とそれによって引き起こされる海嘯(ボア)は有名であり、これも一度は訪ねて見たいと 夢見る場所である。

  さて、テントを畳み全てのものを車に撤収した後、半島界隈を少し散策することにした。今回はクジラウォッチング はしなかったが、半島最北端の「プンタ・ノルテ」まで出かけた。途中海岸にて巨体をのんびりと横たえる野生のトドを暫し 観察した。その後プエルト・マドリンの市街地へ向かい、そこから沖に向けて突き出す一本の長大な桟橋に立ち寄った。 ところで、マドリン市街地の北のはずれに「海洋自然科学博物館」があってその当時(1985年)から既に開館していたかどうかは定かでは ないが、同博物館を実際に訪れる機会をもったのは同年から15年も後のこととなってしまった。

  翌日、国道から外れて大西洋岸に最接近した砂利道を走行し「プンタ・トンボ」という、マゼラン・ペンギンの自然の営巣地 (ルッカリー) に 向かった。海岸には何万羽というペンギンが群がっていた。ペンギンは海岸沿いの土中に小さな巣穴を掘り、そこを生活拠点にしている。 巣穴には交代で卵を抱く親鳥がいる一方、相方は餌を求めて海へ魚捕りに出かける。そんな親鳥 が何千何万とある巣穴の中から自身の帰るべき穴を選り分けて帰巣できるのであるから驚きである。ペンギンが巣穴と海との間を よちよち歩きで行き来する野生の姿は実に愛嬌があって微笑ましくもあり観ていて飽きない。

  その後、国道3号線に出て、そのまま500kmほど南下し、パタゴニアの大西洋岸中央部にある漁業と石油生産の町コモドロ・リバダビアに向 かった。そして、いつもの習慣で、先ずは港に立ち寄った。港に立ち寄るのは、初めて訪ねる町の中における自身の地理的居場所を把握 するためである。岸壁に着いて眼中に飛び込んできた風景は、どこか奇異に感じられるものがあった。その奇異さが何であるかを理解 するのに暫く時間がかかった。

  生まれて初めて潮汐作用が引き起こす大きな海象を目の当たりにした。有明湾沿いの九州・柳川などの遠浅の海岸で見かける 干潟風景とは異なり、またそのスケールも違っていた。干潮時に潮が引き、遠浅海岸の地先が干潟になるというような光景ではなかった。 リバダビア港の岸壁に立って初めてそこが本来海水で満たされている はずの大きな港であることが分かった。

  車から降りて岸壁に立って下を見ると、何と漁船が真下にあった。引き潮で着底していたのである。 遠目からでは岸壁に隠れてそれが見えなかった訳である。改めて港内を180度見渡し、目をよく凝らして観察した。全ての船は浮かんで いるのではなく、海底に鎮座していた。遠くの防波堤沿いにそこそこの大きさの数百トンクラスの近海漁船が目に映った。だが、 港内に海水が全くないという異様さに気付いた。船はどれも浮かんではいなかった。生まれてこの方こんな干し上がった奇異な港湾風景 を見たことがなかった。

  目を凝らしてもう一度観察した。海底がずっと先の防波堤まで日干し状態になっていた。漁船は乾ドックで船底修理を待つ かのように、船体全体を地上にさらけ出していた。リバダビアでは干満差は10メートル位はあるように思えた。 日本では、有明湾で5~6メートルほどの干満差を遠浅海岸で観察できるようであるが、アルゼンチンでそれよりもはるかに大きな 潮位差を体験することができてラッキーであった。世界的に有名なカナダ東部ノバスコシア州の「ファンディ湾」での大潮時の干潟風景 の縮小版をこのリバダビアの地で観れたような気がした。

  さて、翌日コモドロ・リバダビアを後にして、南米大陸の中でも最南端にある辺境の町リオ・ガジェゴスを目指した。 まだ700kmほどの距離があった。低灌木がところどころ生い茂る荒涼とした殺風景なパタゴニアを大西洋岸沿いにさらに南下した。 岸沿いと言っても国道は殆どの場合かなり内陸部を走っている。真に海を見ながらの走行は意外とごくわずかである。 さて、沿岸に付かず離れず南北に縦貫する国道は完全舗装され快適に走行ができたが、難点が一つあった。

  道路の中央部が見るからにかなり盛り上がっており、蒲鉾形をしていた。アルゼンチンは右側通行であり左ハンドルである。 その蒲鉾状の道路を何千kmも運転すると、車も体もいつも道路右側の路肩方向へと傾くことになる。さらに、車自体が自然と 道路右側の路肩方向へと流されて行く。その偏向性を必死に食い止めようとすると、ハンドルの左半分を片手ではなく両手でしっかりと 握りしめていなければならない。毎日7、8時間もそうやってしがみついていることになる。このスタイルを取り続けると腕や腰が結構 疲れるのは必定である。

  それに加えて、パタゴニアは「風の大地」でもあり、南緯40度辺りでは通年偏西風が吹いているという。道路周辺に生える低灌木を見ると、 多くはその影響を受けて、西のアンデス側から東の大西洋側へなびくような樹形となり、いつも偏西風に抗い耐え忍んできたことをまざ まざと見せつけられる。時に東側の大西洋から海風が吹くなかを南下すると、さらに左ハンドルの左半分にしがみつくことになる。 日本でも高山域に生えるハエマツが強い恒風のために斜めに扁形して生えているように、偏西風に抗うパタゴニアの低灌木の樹形は その風物詩そのものであった。

  コモドロ・リバダビアの市街地を少し通り過ぎた辺りで一軒の手頃そうなモーテルを見つけ投宿した。翌朝モーテルを出発し先を急いだ。 目指すリオ・ガジェゴスのはるか沖合の大西洋上には、「フォークランド諸島 (マルビーナス諸島)」がガジェイゴスとちょうど同じ緯度に浮かぶ。 アルゼンチンへの赴任がかなりずれ込む要因となった「フォークランド戦争」の舞台となった島嶼である。それを思うと、自身でも訳の 分からない何かモヤモヤした感情が湧いてきた。

  歴史を遡れば、スペインやポルトガルが16世紀に本格的に中南米大陸を植民化したが、英国やオランダなど の新興国が一世紀ほど遅れて領地を得ようと始めた領有争奪戦争が時には現代まで引きずっていることの例証といえようか。 日本周辺海域にも今後何世紀も続くかも知れない幾つかの未解決の島嶼係争地があることを思い起こしながらドライブを続けた。

  いつものことだが、運転中空腹を感じればその都度、朝方出発する前に作りおいたおにぎりを頬張りながら運転を続けた。だが、 ガジェゴスのかなり手前で、夏の太陽ははるか西方のアンデスに既に落ちていた。余談だが、ガジェゴスまで後250kmほど の地にプエルト・サン・フリアンいう小さな沿岸漁業の町があり、その近くを通った。そこがマゼラン艦隊が16世紀初め頃に越冬した地で あったことを全く知らなかった。大航海時代の歴史に余り興味を持たず史実を知らなかったのである。その史実を知って、機会があれば 是非とも訪ねてみたいと思い、その実現に漕ぎ着けることができたのはそれから30年ほど後のことであった。

  夜も遅い時刻にリオ・ガジェゴスの町に入った。街はかなりの広がりをもっていて、それ故に市街中心部か分かりにくかった。 加えて、「アルゼンチン自動車連盟(ACA)」が経営する宿泊施設の場所もあやふやであった。そこで、いつも旅の習慣として、港のある方向へ と向かった。街中における自身の地理的居場所を知るためである。

  石炭の積み出し施設らしく、大きなベルトコンベヤーが暗闇の中、けたたましい轟音をたてて石炭を運搬船に流し込んでいるかの ようであった。音だけが情景を思い描くための頼りあった。コンベヤーは独り動いていて、人影が全くなく道を尋ねることもできなかった。 皆自宅で夕食をとる団欒の時間であった。

  何やら馬鹿でかい積み出し用鉄骨構造施設から斜めに伸びる大きな構造物の下をくぐり抜けたが、 暗闇で何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。殆ど街灯の明かりがない中、埠頭沿いに暫く南下したところで、 運よく「ACA」のでかいシンボルマークのネオンサインが夜空に浮かび上がっているのを見つけ胸を撫で下ろした。

  「ACA」とは「アルゼンチン自動車連盟」の略称で、主要地方都市には大抵それが直営するガソリンスタンド兼宿泊施設のモーテルがあり、 会員は割引で宿泊できた。赴任後暫くしてオルティス校長に勧められて専門家全員が会員となり、以来何かと重宝してきた。 旅での投宿の半分くらいは「ACA」の経営するモーテルにお世話になった気がする。子ども用の遊戯施設も整備され、清潔で安価に安心して泊まる ことができた。

  携帯電話もカーナビもない時代のこと、目的地に行き着くのに意外と苦労する事が多かった。土地勘の全くない地方 都市では、「ACA」の施設は分かりやすい「物標」となった。日本の「JAF」と同様に、連盟は会員への各種ロードサービス を提供していた。「ACA」マークは地方に行けばいくほど安全と安心を保障してくれる信頼のマークであった。 それに、「ACA」はドライバーが見つけやすいところに立地していて何かと頼りにできた。

  さて、翌日早速、市街中心部にある旅行代理店を探し出して旅の相談に訪れた。ガジェゴスの港から「ティエラ・デル・フエゴ島」 へ渡海する直行フェリーの運航時刻の情報を得て、その乗船券を購入するのが目的であった。だが、全くうかつという他なかった。 酷い思い込みをしていた自身を大いに恥じた。旅の出立に先だってしっかりと事前学習し予備知識を得ていなかったことが失策の原因 であった。代理店で尋ねてそのことを思い知らされた。知れば知るほど自身のバカさ加減に唖然とし愕然とするばかりであった。

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