プロジェクトの実施を約束する「討議録」が署名された翌年の1984年4月、単身、機上の人となってアルゼンチンへ向かった。河合君はなおも
ブエノス・アイレスのJICA事務所に勤務していた。また、オルティス校長以下学校の関係者もそのままであった。関係者が変わらず勤務していると
思うと心は軽かった。新規プロジェクトの場合、往々にして現地に知る人がほとんどいない中で赴任することが多い。だが幸いにも、
現地には顔見知りの人たちばかりだし、プロジェクトや現地事情についての予備知識も十分あるので、何の不安に駆られることもなく
旅立つことができた。唯一あるとすれば、家族と一緒に旅立てなかったことである。だが、追っつけやって来るはずだったので、希望をつなぐ
ことができた。
当初妻のスペイン語能力を当てにしていたが、出産のために現地への渡航が半年以上ずれ込むことになってしまった。
それ故に妻による通訳・翻訳業務へのサポートは全く当てにできないと覚悟し、その分だけ自身の語学鍛錬に必死となった。
とは言え、語学の素養は、当初の習いたての頃に比すれば、格段に向上していた。
だがしかし、独り身になってオルティス校長らといざ仕事に就いてみると、やはり語学力不足に泣かされることになった。語学力を向上させようと、
赴任後まもなく、午前中、塾通いすることにした。校長夫人を個人教授にして必死に手習いをした。路線バスを乗り継ぎ、校長宅
へ週2回通った。語学能力にそこそこ自信ができ、仕事や生活にも余裕を感じるようになったのは、やはり一年近く経た後のことであった。
さて、プロジェクト・サイトのマル・デル・プラタに足を踏み入れず、未だブエノス・アイレスに留まっていた時のこと、これ
まで眺めてきたブエノスの街風景とはどこか違って見えることに気付いた。何故なのか。これまでは、一過性のいわば通りすがりの「異邦人」
の視点で街を見ていたようだ。赴任後は生活者としての視点に切り替わったのかもしれない。かつては、何かアルゼンチン的な物や風景に魅せられては
立ち止まって眺めていた。だが、赴任後は、目的地に向かってまっしぐら、道草をすることなく用足しを効率的に済ませてしまおうと動き
回る自分がいた。短期滞在型の異邦人の眼が長期滞在型の生活者のそれへと変わってしまい、行動パターンもそのように変わってしまったのであろう。
何十日もかつて宿泊していた例のクリジョン・ホテルにまた暫く宿を定めることにした。そこからJICA事務所までは、南米諸国のスペインからの
独立の立役者サン・マルティン将軍の勇ましい馬上姿の巨像の傍を通り、サン・マルティン広場を通り抜けて5分ほどであった。
広場は大樹にて鬱蒼と覆われ、まるで杜のようであり、市民が憩うための絶好の公園であった。広場は少し高台にあった。その広場から海軍本部ビル
方面を見下ろすと、そのすぐ坂下には、つい2年ほど前にフォークランド諸島を巡って戦争をしていた英国の名を冠した「時計塔」がそびえる。
その塔のすぐ対面には「レティーロ」という名の大きな鉄道発着駅舎があった。そこから路線電車に乗って一時間ほど行くと、ラ・プラタ河の
デルタの一角にあるティグレという水郷の町があった。ティグレははブエノス市民の日帰りの絶好の行楽地であった。
さて、何度も事務所へ足を運び、幾つもの手続きをこなし、またプロジェクトの拠点づくりのための実務について相談した。
「ア」国外務省から交付される身分証の発行手続き、日本の国際自動車免許証を「ア」国の普通免許証に切り替える手続き、日本大使館への在留届
の提出などから始まった。購入する自家用車の車種をフランス・ルノー社の「18GTX」というステーション・ワゴンに手っ取り早く決めて、
代理店に250万円相当の米ドルを支払った。邦銀から大半を借金したものである。プロジェクトの活動のためにJICAから支給される
「現地業務費」という名の公金数ヶ月分を受領し、また公金口座開設のための情報収集などを進めた。
専門家は通例、赴任する前に東京銀行ニューヨーク支店に米ドル建て口座を開設し、追って東銀の個人用小切手帳を発給してもらうことになる。
その振り出す米ドル小切手をドル現金や現地のペソ通貨に換金できるようアレンジしなければならなかった。事務所が取引するブエノス市中
の両替屋と交渉してもらって、マル・デル・プラタの両替屋においてもその個人小切手を引き取って換金してくれるよう、ブエノスの当該両替屋
を介して話を付けてもらう必要があった。生活資金の用立てに直結する重要不可欠なアレンジであった。
軍事政権が長く続いていたアルゼンチンでは、確か1983年頃に国政選挙が実施され、既にアルフォンシン大統領へ民政移管がなされていた。そして、
「ア」海軍とOCS設計・日本水産共同事業体との間でコンサルタント契約(工事の施行監理委託契約)が締結されていた。事業体は、学校施設の詳細
設計図、工事・機材仕様書や数量計算書、建設工事請負契約書案などの入札図書一式を作成し、既に入札の実施を取り仕切っていた。
結果、フジタ工業が工事請負業者となっていた。
建設工事現場では、OCS設計から派遣された倉持氏が施工監理を統括する任にあった。倉持氏は私とほぼ同年輩であり、どういう訳か
ウマがよく合った。コミュニケーションを密に図りながら親密さを増し、互いに学び合った。
また、日本から派遣されていたフジタの日本人工事関係者とも新しい出会いが生まれ、中にはほぼ同年輩者もいた。学校プロジェクトを完遂する
という同じベクトルを背負い、同じゴールを目指す関係者として仲良く交わった。完工の期限である1985年3月をめざして急ピッチで工事が
進められて行った。
さて、「漁具漁法」と「漁獲物処理」分野の専門家二人が私より1か月ほど遅れてブエノス・アイレスのエセイサ国際空港に到着した。
二人は日本水産という大手水産会社の定年退職者で、優に60歳を超えていた。二人とも見るからに、個性が人一倍豊かであり、また
頑固そうにも見える老紳士であった。そんな大先輩のプライドを傷つけないよう日頃から注意を払った。個性豊かな老紳士の頑固さがあっても、
それをこの異国の地で敢えて変えてもらうつもりはなかった。社内でのこれまでの長年の人間関係を何となく引きずっているようでもあったが、
プロジェクトに持ち込まれないことを祈った。プロジェクトでは平日四六時中同じ居場所で濃密な時間を過ごすので、良好な人間関係
の維持は何よりも大事であった。
「航海」分野担当の専門家はその後1か月ほどしてブエノスの土を踏んだ。未だ50歳前後の現役バリバリの同じ日本水産の社員であった。
どこかの関連会社に出向していたようだ。彼は何ごとにも動じそうになく、のんびり然とし、また温厚でもあったので、二人の老紳士
のクッション役的な立ち位置を期待した。片や、私は当時30歳半ばの若輩者であった。
先ずは専門家の生活基盤づくりへの支援に努めた。不動産屋と掛け合いさまざまな物件の貸借条件を事前に承知したり、住居の下見にも出向いた。
賃貸対象住宅の周辺環境、治安状況、経済社会生活上の利便性などを説明したり、不動産屋や家主との契約交渉における心得を助言したりした。
また、専門家は契約一年後は何時でも契約解除できるといういわゆる「外交官条項」や、早期帰国に伴う中途解約時における家賃精算方法や払い
戻し条件に関する条項を契約書へ挿入しておくことは、専門家の権利義務にまつわる大事なポイントであった。その他、契約締結後のJICAへの
住宅手当の申請手続きをも側面支援した。
調整員として当然なすべきこともあったが、業務範囲外と思われることも、可能な範囲で支援するよう心掛けた。衣食住のうち、まず住み処を
確保し、次いで何時でも小切手や米ドル紙幣をペソ通貨に換金できるように手当てし、生活を落ち着かせることを何よりも優先した。その他、
専門家の生活安定化に重要であったのは、通勤の足を確保することであった。専門家三人は、2百万円前後の中型または小型の新車を無税購入する
手続きをした。手元に届くまで数ヶ月はかかった。それまでの間、可能な限り通勤の足として私の車に便乗してもらうことにした。特に6~8月の厳冬期は、
南極からの寒風にさらされながらバス通勤するのは辛いものがあったので、足を提供し生活面でのサポートを心掛けた。
専門家三人は、政府の技術協力事業に携わるのは初めての経験のようであった。また、専門分野の知見を他者に教えるという、学校での
教鞭経験もなさそうであった。JICA専門家業務経験が初めてであれば、着任しても何をどうしてよいのか
分からず、大いに戸惑うのは当然であった。「今後2~3年間の活動計画や技術指導計画を作成してください」と言っても、どんな計画を
どのように作成すればよいのか、自身の自立的判断の下ですぐさま業務遂行することは無理であった。
プロジェクトは1985年4月までは準備期間であった。学校が竣工し新校舎に移転すれば本格的な技術指導が始まることになるが、それまで
10か月ほどの期間があった。そして、専門家のスペイン語能力にはかなりの差があった。「航海」専門家はスペイン語の初心者のようであった。他の二名は、
そのレベルにかなりの違いがあった。「漁獲物処理」専門家が上級者とすれば、「漁具漁法」専門家は中級者とはいかなかった。
私もそうであったが、我々4名の専門家は準備期間を最大限に生かして語学力を必死に向上させ、コミュニケーション・スキルをアップさせる
必要があった。
学校の勤務時間は変わっていたが、合理的でもあった。午後1時から9時までの8時間勤務で、カウンターパートによる学生への授業は午後2時から
8時まで行われた。カウンターパートには別途特別勤務手当てが支給され、専門家との協業活動に従事した。学生のほとんどは妻帯の社会人であり、
午前中は生活費を稼げるよう配慮されたものとなっていた。従って、専門家は語学の向上をはじめ、日常生活を落ち着かせながら、
カウンターパートへの指導計画や協業計画の構想、学校での海技・漁業教育制度やシラバス・単元などの理解のためにも、午前中をフル有効に
活用することが期待された。
討議録で位置づけられる1年間の準備期間が何故設定されたのか。専門家の語学力向上や生活安定化のためのみならず、2年目から始まる
本格的な技術協力のための指導計画あるいは技術移転計画や協業計画をカウンターパートとしっかり練り上げるためであった。
「皆さん、それでは来年からの2年間の指導計画などを作成願います」と一言発すれば済むような状況では全くなかった。かくして、専門家三人
と真剣に向き合い、全員のベクトルを合わせるべく、私の真の任務が始まった。振り返って見れば、かつてオルティス校長に対して、技術協力は3ヶ月ではなく
少なくとも3年、場合によっては5年必要であると、大上段に構えた。にもかかわらず、2年間の指導計画すら作成できない、作成できてもその
内容が伴わないというのでは話にならなかった。
2年間の具体的な指導計画や協業計画を少し掘り下げてみると、6つほどの計画になる。専門家には、準備期間が設定されている意義とともに、
それらの計画づくりに専心してもらう必要があった。無償資金協力として供与される主要機材(訓練船を含む)の実習計画づくりに加えて、来年度の技術指導や協業の
ためにさらに必要とされる機材の詳細な計画づくり、無償供与の主要機材の操作・メンテナンスのためのマニュアル作成に関する計画づくり、
視聴覚教材作成に関する計画づくり、カウンターパートの日本での技術研修計画づくり、長期専門家では伝授し難いノウハウについて別途指導
の任に当たる短期専門家の派遣と活動計画づくり、各協力分野の補助テキストや関連資料作成にまつわる計画づくり、水産教育レベルの向上に
資するその他の計画づくりが求められた。毎日専門家と向き合い、口角に泡を飛ばしながら議論を重ねた。
「業務調整」と「リーダー」を兼ねる私の務めとしては、一日でも早く、3名の専門家が、語学能力のさらなる向上と生活全般の安定化を図り
ながら、自立的活動を早期に可能とするよう、またカウンターパートと円滑に協業活動できるよう環境と態勢を整えることであった。
先ずは専門家の基本的な心得のようなことにも踏み込まざるをえなかった。
来年からの2年間の具体的活動目標を定めるとしても、その目標達成には、専門家全員のベクトルを同じ方向に合わせ、チームワークを醸成し
助け合いながら日々の活動に励むことの大切さを申し合わせた。べクトルがバラバラの方向を指向した場合のプロジェクトの末路をも語った。
専門家一人だけが自らの努力で高い成果を収めたとしても、ベクトルがバラバラで非協調的な運営がなされ続けたならば、JICAや「ア」
国側からすれば、プロジェクトの全体的評価は残念なものになりかねない。
計画づくりで大切な幾つかのことをいつも心して専門家と向き合った。それはチュニジア・プロジェクトの運営において学び取った
心得でもあった。先ずカウンターパートから「現状を教わる」ことを通じて「現況を知る」ことを基本に挙げた。「プロジェクトはカウンター
パートからいろいろ教わることから始めよう」と申し合わせた。例えば、漁業学校の海技資格や教育制度全般につき、また各自の指導分野における座学や実習の
具体的実態(内容、やり方、カリキュラム、シラバス、単元など)、それらの課題などをカウンターパートからよく教わり理解すること、
それがその後の指導計画づくりの基本となると訴えた。その過程において、カウンターパートが専門家からいかなるノウハウ
を求めたいのか、教育レベルを上げるために何に取り組みたいのか、いろいろな思いや情報を吸収しながら、今後の協業計画のなどを打ち合わせる
ことを促した。一にも二にも、じっくり時間をかけカウンターパートとコミュニケーションを図ることを専門家の基本とするものであった。
指導・協業計画づくりに当たり専門家のイロハについてしっかり理解してもらえるよう繰り返し語った。
さらには、専門家とカウンターパートがベクトルを合わせ、コミュニケーションをしっかり取りながら計画づくりをすること、逆に決して
日本人だけで計画づくりを完結させないよう申し合わせた。計画づくりには、専門家自身のリーダーシップが必要不可欠ではあるが、
カウンターパートとの日頃のコミュニケーションを通じてなされていくものである。
カウンターパートとの充分な意思疎通と協業のプロセスを経ることなくしては、それらの計画が真に生かされ実行される
ことは余り期待できない。計画づくりでは、専門家にうまくリーダシップを発揮してもらいつつも、カウンターパートと「協業」することを
強く促した。また、「指導計画」というようなおこがましいものを作成するのではなく、全て「専門家とカウンターパートとの協業・協働計画」
を練り上げることを目指すのがベストであるとの思いを何度も語った。そのような認識や姿勢の下で事を進めることが何よりも大切と考えてのことであった。
計画づくりでは、専門家自身が作成してそれをカウンターパートに押し付けることがないよう何度もお願いした。たとえ時間が掛かろうとも、
カウンターパートとよくコミュニケーションをとりながら作成することを基本とした。さもなければ、日本人の専門家が勝手に作り上げたもの、
日本人による日本のためのプロジェクトになってしまい、アルゼンチン人と日本人によるアルゼンチンのための協業・共同プロジェクトとは
ならないからである。計画づくりは一人で作り上げないで、必ず打ち合わせしながら積み上げてほしいと強く促した。アルゼンチン人の
プライドをおもんばかる必要がここにあった。かくして、専門家は、学校の漁業・航海教育レベルの向上のために、カウンターパートと
しっかり意思疎通を図り、いろいろ教えを乞いながら、「協業・協働計画づくりを協業する」ことに努力を傾けた。
今回無償供与される機材には重要かつ大型の新規実習機材が幾つもあり、それらを航海・漁業教育にどう取り込んでいくかが最重要課題であった。
例えば、オッタートロール網の50分の1ほどの模型を製作し、網の組成や曳き方によってどのように海中を曳網されることになるかを観察する
回流水槽実験装置がある。オッターボードの取り付け方や曳網速度などによる網口の開き具合、底層・中層・表層曳きでの網なりや水中位置などを
模擬実験しながら、実物での最適な漁具構成や製作法、曳網法などを学ぶことができる。
トロール網がターゲットにする魚群を適格に捉えながら曳網されているかを理解し、魚群をうまく捉えるにはどうすればよいかをシュミレー
ションできる。
回流装置のオペレーション方法やメンテナンスのマニュアル作りは、カウンターパートが誰に代わってもノウハウが引き継がれ、教育上の持続可能性を
確保するうえで重要である。漁網モデル製作から回流実験に至るまで互いに協業し、その成果を共有し合い、
生徒に曳網をデモンストレーションすることで、水産教育レベルの向上に資することができる。また、そのデモンストレーションの視聴覚教材
を製作することで、座学の一コマにおいて「漁法の見える化」を図ることができる。さらに、訓練船「ルイシート号」での実際のトロール曳網
実習に生かすことができよう。
教室内に設置される電子海図と航海シュミレーションの装置も重要な実習機材である。これは国連専門機関である国際海事機関(IMO)の
規則により、海技資格を付与する場合には、この装置を用いて一定期間、操船の模擬訓練を行なう義務が課されている。アルゼンチンは
当該条約加盟国であった。航海シュミレーターを用いて学生にどのように操船の模擬訓練をさせるか、まずカウンターパートが慣れ親しみ、
その後さまざまなプログラミング方法を理解することが必要である。そのプログラミング方法(電子海図や船舶・気象などのパラーメータ―の
設定方法)や模擬訓練教授法・実施要領とメンテナンス法につきしっかりと実用的マニュアルや補助テキストを作成し、カウンターパートが誰に代わって
も引き継がれ、教育上の持続可能性を確保できるようにすることは必須である。この実習によって学校の航海訓練レベルが一気に世界的
標準にアップグレードすることにつながる。
教授専用のパソコンモニターには、生徒が操船する「自船」とその他多数の船舶を電子海図上で同時に表示できる。錯綜する港内の電子海図や
狭い海峡の電子海図を自在に設定できる。また、教授は、それらの船舶の動きについてのパラメーターを自在に設定できる。
例えば、船舶の航行する針路、速度をはじめ、海流や風の向き・速さなどの海象条件をモニター上に自由自在にプログラミングできる。
学生はレーダーのレンジを調節し、かつそこに映る全ての他船の動きを把握しながら、所定の海象条件の下で、自船のブリッジで舵輪を回し、かつ
機関に指示を与えているかのように操船できる。
漁獲物処理の大型実習機材には、魚の頭部を自動的にカッティングし、三枚に下ろす「バーダーマシーン」というフィレ―製造機があった。
また、燻製試作機もその類であった。バーダーや燻製機の実習をカリキュラムに取り込みながら、実習やメンテナンス法のマニュアル作成、
補助教材づくりが検討された。地元のマル・デル・プラタには幾つかの魚類缶詰め製造工場が稼働していた。今回、学校には缶詰め製造
試験機は供与されなかったが、視聴覚教材を作成することで補うことが計画された。
漁業学校として漁業教育レベルのアップに繋がる大型機材は何と言っても20トン規模の訓練船「ルイシート号」であった。訓練船は旧学校にはな
かったものであり、それを用いての全く新たな実習が加わることになる。海上での実習訓練をカリキュラムにどう組み込み、トロール網、
刺し網、延縄などの漁具漁法を、いずれの海技資格クラスに順次実習させるか、詳細な実習・漁具製作計画づくりや資材の事前準備などがいるし、
船長・指導教授・実習助手などの教官を配備する必要がある。訓練船での海上実習も水産教育レベルの向上に直結するものであり、その計画
づくりには多くの時間が割かれた。
計画づくりには短期専門家の派遣に関する計画も含まれた。長期専門家自身では指導できない不得意な領域については、短期専門家の
派遣をJICA本部に要請し、カウンターパートに指導してもらうべく計画を練ることになる。視聴覚(A/V)教材づくりのエキスパートを招聘し、
A/V教材作成担当の教官へ有益な教材の撮影や編集の技術移転を図ることは、その筆頭であった。その他、長期専門家とカウンターパート
に対する「水産教育方法論」の指導についても検討された。また、フル活用できていなかったパソコンの操作や活用法に関する指導などに当たる
短期専門家を招聘する具体的計画が作られた。他方、長期および短期専門家による現地での技術指導が困難なテーマについては、日本の
適切な教育機関などにカウンターパートを送り込んでいかなる研修を行なうのがベストか、その具体的計画も検討された。
アルゼンチン海域で漁獲される商業的価値のある主要魚類について、漁船航海部員がよく理解しておくことも重要なことである。
そのため、アルゼンチンの200海里経済水域で獲れる主要魚種の同定を行なう短期専門家を招聘する計画が立案された。主要魚種を写真、
イラストなどでもって示す学校独自の図集を作成することになった。
当時はまだデジタルカメラのない時代であったが、手作りのアナログのカラー写真やイラスト図集であっても有益であった。また、
主要魚種の視聴覚教材を作成し、座学で学生に例示することも構想された。漁獲対象とする魚はどんなものか、どう加工処理されるのか、鮮度を保持するにはどう船上
処理されるべきかを説明する魚類関連の補助テキストの作成もありえた。漁業に従事する漁船員がアルゼンチンの主要魚種をしっかり同定でき魚種の
生物学的特性を知ることは、学校の教育レベル向上に資するものであった。
視聴覚(A/V)教材を自ら作成し、それらをさまざまな領域の教育に活用することは、学校全体の教育レベルのアップには極めて有効な
取り組みである。視聴覚教材づくりを専属的に担う教官を雇い入れ、カウンターパートに指名される予定であった。また、A/Vづくりの
短期専門家の派遣要請も計画される一方、協業して作成すべきA/V教材のコンテンツについて各協力分野で検討された。視聴覚教材づくりは、
三つの協力分野に限らず、電気、機械、救急救命など他の領域においても取り組むこととなった。
無償協力による実習機材の他に、技術協力のための予算枠において供与される機材についての計画を作成する必要があった。
翌年からの本格的協力期間における技術指導や協業のために必要とされる機材があるとすれば、その計画づくりは早いに越したことはなかった。
何故ならば、機材計画書を提出してから届けられるまでほぼ1年を要する。A/V教材を作成するために今後必要となる資機材、水産教育用に
製作・市販されるA/V教材の購入とか、訓練船での実習用引き網を製作するための網地やロープ類、訓練船のその他の装備品などが
想定された。その機材内容をカウンターパートとともに立案し、出来る限り適格な技術的スペックの作成が求められる。
スペックの確認などのためにJICA本部とのやりとりが重なれば、機材の到着はそれだけ遅れることになる。調達の優先順位を付すとともに、
急ぎのものは空送を要望した。
2年間の技術指導・協業計画づくりにおいては、できる限り定量的な目標を設定するよう務めた。
何をどこまで達成することを目標とするのか、その達成目標を定量的に設定するよう取り組んだ。
それは評価を客観的にしやすくするためである。カウンターパートにとっても理解しやすく、またベクトルを合わせやい。定量化できない目標については
定性的に設定することも止む得ないとした。また、カウンターパートと合意の上、プロジェクト実施途上で目標項目や数値などを変更する場合、
新旧の目標項目や数値目標・達成期間などを併記し、備考欄にはその理由などを明記することを予め申し合わせた。実施途上で、目標項目を
全く新規に追加する場合は、その旨を備考欄に明示する。いずれにせよ、目標の修正も可能とする一方で、カウンターパートとの協議と同意
を必須と申し合わせた。
JICA水産室で4年間いろいろなプロジェクトの運営を担当し経験を経てきた職員が、専門家をうまくリードできず、
このアルゼンチン・プロジェクトを軌道に乗せることができなかった、という訳にはいかなかった。泣き言も言える立場にもなかった。
赴任を真剣にサポートしてくれた室長や、稟議書に自筆署名をしてくれた人事課長、その他大勢の上司、先輩、外部関係者に全く申し開きがたたなかった。
我慢強く、根気強く専門家と対話を重ねつつ、2年間の具体的な計画づくりに取り組み、遣り終えることができた。
レベルの高いカウンターパートを相手に、上から目線での「技術指導」や「技術移転」の計画づくりではなく、「専門家・カウンターパート
みんながベクトルを合わせて協業しましょう」という基本姿勢で事に臨んだことが、よかった。「カウンターパートに教わりつつも協業した」
ことが、プロジェクトの成功の基礎であったことを、後刻しみじみと理解した。
また、私的には、水産室でのいろいろなプロジェクト運営の経験、特にチュニジア・プロジェクトのそれがあったればこそ、
一年間の準備期間を乗り切ることができた。その経験なくして自信をもってこのプロジェクトには臨めなかったことは明らかであった。
経験に基づく知恵と忍耐力とリーダーシップが問われた一年間であった。私自身の赴任と存在の意義が問われ続けた。
長いトンネルのような道のりが1984年4月に始まり、ついに明るい光を見たときには、感涙であった。三人の専門家とともにプロジェクトの黎明期を
乗り切れたことは、感無量であり意義深かった。旧学校の寒々しい一室で一台のストーブを囲みながら、寒さを凌ぎながら議論を重ね、
プロジェクトの準備期間のうちでも盛期にあった6~8月の冬期を乗り越え、名実ともに「春を迎える」ことができた。計画づくりに半年以上の
期間を要した。「討議録」においてプロジェクト準備期間として一年間が認められていたことは、本当に正解であり、有り難いことであったと
しみじみと思い起こした。
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