1979年3月上旬のこと、思いもかけなかった初情報に接し嬉しさの余り小躍りしそうになった。晴天の霹靂であった。
「林業水産開発協力部・水産業技術協力室」(略称:林開部水産室)へ人事異動することになるとの噂がどこからともなく伝わってきたからである。そして、ついに、1980年(昭和55)年1月7日、林開部水産室に配属された。それ以降、何と、1984年3月末(昭和59年3月31日)まで
ほぼ4年間も水産室でお世話になった。敢えて言うならば、私的にはこれ以上相応しい部署はなかった。水産室では、アジア、
大洋州、アフリカ、中南米地域で30件ほどの水産関連プロジェクトを運営し、水産分野における発展途上国の「国づくり人づくり」の
ために取り組んでいた。
JICAには、新宿本部に数十の部署の他に、国内支部や国際研修センターなどの15、6の国内付属機関があった。だが、海に直接的に
関係する部署としては、水産室の他には、三浦半島先端近くの、相模湾に臨む長井地区に所在する「神奈川国際水産研修センター」
だけであった。時の人事部が水産室での欠員を埋めるために、職員の履歴書をよく精査した結果として、私が浮上してきたのであろう。
アメリカ・シアトルのワシントン大学の「海洋総合プログラム」に修学し、国際海洋法だけでなく水産資源管理などの学びが
評価されたものと想像をたくましくした。
入団後4年目になろうとしていた1980年1月初めにおける水産室への配属であり、思いがけなく早い水産室への出勤に自身でも
信じられず、願ったり叶ったりであった。実社会における職務として海外の水産関連技術協力プロジェクトの運営を担うことができる
のは何よりも嬉しかった。まさに、「二足のわらじ」のうちの本業である職務において海との繋がりをもてたこと、海の世界へ本格的
な回帰を果たすことができた。幸運の灯火が完全に燃え尽きていなかったことに感謝したかった。
かつては、水産室に配属されるチャンスは先ずないであろうという先入観に囚われていた。水産高校や水産大学の卒業者ではなく、
また何の漁撈実習経験もない者にとっては、水産室への配属は場違い畑違いと思い込んでいた。だが、水産室への内示に接し、
これもありなんと正直驚いた。そしてまた、「これぞ望むところなり」と一人悦に入り自己納得した。人事課はさすが職員の履歴書
をよく読みこなしていると感心もした。随分と早い段階から異動の噂話しに接し、実際の配属が待ち遠しくてわくわくとした日々
を送っていたが、ついに翌年の1980年1月の正月明けにその異動の日を迎えた。
林開部もご多分に漏れず縦割りの行政組織となっていた。林開部長や同部管理課長をはじめ、その課長代理も林野庁から、そして水産室長は
水産庁からの出向者であった。水産室は何故か室長代理2名(1名は家庭の事情で近々早期退職予定のうわさがあった)、
プロジェクト担当職員4名、常勤嘱託1名の小さな所帯であった。代理以下全てJICA生え抜きの職員、いわゆる「プロパー職員」であった。
水産室のミッションはいたって明白であった。農林水産省の外局である水産庁の「国際協力室」を窓口にして、水産庁の他局部課や
国立水産研究機関を初め、「海外漁業協力財団」や「日本水産資源保護協会」などの漁業関連の公益法人、民間の水産会社、
その他漁撈や養殖の技術専門家個人の協力を得ながら、日本がもつさまざまな水産技術を世界の発展途上国に提供し、水産分野
における「国づくり人づくり」に寄与することが、その使命であった。「海洋総合プログラム」で学んできたものを少しでも生かしながら、途上国の水産分野での発展に向けてどんな貢献ができるのか、期待と情熱を秘めながら水産室へ着任したことを思い出す。
水産室で運営される技術協力プロジェクトを大きく類別すると6つのタイプがあった。
第一に、引き網(トロール網)や刺し網、巻き網、定置網などの漁具漁法に関する、いわゆる漁撈技術を途上国に移転し、漁業生産性の向上
をめざすプロジェクト、
第二に、漁獲後にどう処理を施し、練り製品・燻製品・缶詰などの水産加工品を製造するかという、漁獲物処理・加工
に関するポストハーベスト技術の向上をめざすプロジェクト、
第三に、水産訓練センターや水産高校などの水産教育機関における水産教育レベルの向上をめざすプロジェクト、
第四に、各種魚貝類の人工ふ化、種苗生産やその稚仔魚や稚貝の育成、人工餌料生産や魚病対策、肥育技術などに関する
いわゆる増養殖技術の向上をめざすプロジェクト、
第五に、調査船をもって沿岸水産資源の量的分布状況などを調査するプロジェクト、
第六に、漁港や養殖施設などの建設の妥当性を見極めたり、それらの基本設計を行なうための調査プロジェクトである。
ところで、「神奈川国際水産研修センター」では、沿岸漁業、養殖、水産加工、漁協経営など、それぞれ6か月ほどの集団研修コース
を運営していた。研修員に水産関連技術を学んでもらい、帰国後に母国の水産振興に生かしてもらうという、水産関連技術に特化した研修
施設であった。センターで修得することが困難な水産技術については、国公立大学の水産学部や地元の水産高校などの協力を得ながら
研修の拡充を図る措置も講じられる。私的には、研修センターへの配属もいつの日にかあり得るものと、内心期待するところでもあった。
だがしかし、内情を知るにつれて、自身の教育のバックグラウンドや実技的訓練の未経験の観点から、それは無理そうであった。
研修センターの職員は、水産高校や水産大学などの産業技術系教育機関において、漁撈・養殖・加工などの専門的座学や実技教育を修めた
者でなければ、途上国の研修員への技術指導は務まらないと思われた。研修指導にはまずもって、漁網づくりや網修理、各種の
乗船実習を通じての漁撈訓練、養殖魚のための餌料生産や飼育管理、魚病対策などの実践的経験やノウハウなどが必要であった。
いわゆる文系のバックグランドのみを有する者には殆ど不向きな職場であった。やはり、専門的実技上の教育訓練
を積んできた者以外が配属される可能性は低かった。私にとっては、本部において、海洋領域に最も近い水産関連プロジェクトの
運営という職務に就けただけでも、望外の喜びとするところであった。まさに「本丸への人事異動」そのものであった。かくして、
水産室への配属とそこでの職務遂行は、「海への回帰」を決定的なものへと深化させてくれることに繋がった。
当時の「技術協力プロジェクト」のプロトタイプについて少し触れたい。沿岸水域における水産資源調査プロジェクトや、水産施設建設
のための基礎調査または予備的フィージビリティ調査の事例は多くはなかったが、タイプとしては存在していた。最多であったのは
次の4つのタイプのプロジェクトであった。そして、次の点でほぼ共通するところがあった。
即ち、先ず協力期間は概ね5年間であった。プロジェクトの使命を果たすために幾つかの協力分野が設定される。日本からの当該協力
への投入(インプット)要素としては、第一に長期専門家の派遣である。即ち当該分野において豊富な経験とノウハウをもつ長期専門家が
リクルートされ現地へ派遣される。通常は2~3年の任期で、5~6名が派遣される。うち1名がリーダーに任命される。また1名が
コーディネーターと称される業務調整員の職務に就く。他の専門家がリーダーや業務調整員を兼務する場合もある。
業務調整員は、本部(水産室)・現地JICA事務所と先方政府のカウンターパート機関 (例えば、農漁業省水産局) との間に入って常に
実務的調整を図り、プロジェクトの円滑な進捗に努め、また専門家が相手国カウンターパート人材に技術指導を円滑に進められるよう
さまざまな実務と雑務をこなす。勿論、プロジェクト運営上必要となる資材購入、出張、打ち合わせや接待などのためのJICA資金(現金・
銀行口座)を有効・適正に支出し管理する責務を果たす。さらに、毎年幾つかの
分野において何名かの短期専門家が1か月から数ヶ月間派遣されるが、その手続きなどを推進する。
第二のプロジェクトの柱として、漁撈や水産加工などの実技指導のために、またその他水産教育指導のために必要とされる
資機材が毎年供与される。第三に、専門家からの技術移転の直接の受け手であるカウンターパート人材を日本に招聘し、プロジェクトの現地
指導では伝授しがたいノウハウを供するとの目的で日本研修が組み入れられる。プロジェクトにつき年間数名の研修枠が付与される。
技術協力プロジェクトはこのように、専門家派遣、資機材供与、カウンターパートの日本での研修が三位一体となって実施される。
プロジェクトの実施に先立っては、先方政府カウンターパート機関とJICA調査団との間で、「討議録 (Record of Discussions、略称
R/D)」という合意文書が取り交わされる。同文書には、協力によって達成されるべき最上位の目標、その目標達成のための大まかな実施計画、
派遣される専門家の協力分野、協力実施期間、両国政府がプロジェクト実施上互いに有する権利と果たすべき義務、特に先方政府によって専門家
に供される特別の待遇(所得税の徴税免除、故意による場合を除き技術指導上カウンターパート人材に与えた損害に対する賠償責任からの免除など)
や住居・医療保険に関する便宜供与などについて取り極められる。後日には、両国政府が同文書に盛られた合意事項を正式に担保する
ために、外交ルートで「口上書」が取り交わされる。
さて、水産室で担当したプロジェクトを時系列に総覧してみたい。配属されて最初に担当したのは、インドネシアの「プラブハン
ラトゥ漁港建設計画」にまつわるプロジェクトであった。着任数か月後には、最初の出張として、現地へ事前調査に赴くことになった。
水産庁漁港課長を団長にして同課長代理、港湾技師2名など総勢6名からなり、事前調査にしては大所帯であった。
プラブハンラツゥは首都ジャカルタのほぼ
南にあって、インド洋に臨む小さな漁村であった。調査の目途は、漁港を建設することの必要性・妥当性や、建設するとすればその方式
(掘り込み式、防波堤築堤方式など)を含め、如何なる概念設計を行なうべきかを吟味することであった。現場の浜に立ちわくわく感を高揚させた。
というのも、自然環境や社会状況などをよく観察しヒアリングしながら、漁港建設のプロフェッショナルがどんな専門的判断を下すのか、
素人同然の私にとってまさに興味津々であった。
後々で考えてみると、インドネシア案件を担当したのには、どうも何か訳があるようであった。水産室での担当はこのインドネシアの調査から
始まったが、同国はムスリム(イスラム教徒)人口が世界で最も多い国である。その後すぐに担当したのがチュニジアの「国立漁業訓練
センター」プロジェクトであった。同国もイスラム教国であった。また、ほとんど同時期に担当したのがアラブ首長国連邦(UAE)
の技協プロジェクトであった。
チュニジアもUAEも、その後3年以上もプロジェクト担当者として付き合い深入りすることになった。私はイスラム文化圏専属の担当者なのかと
錯覚に陥るほどイスラム文化圏漬けとなった。プロジェクトの担当を地域ごと、文化圏ごとに課員を割り振るなどという話を上司
から一度も聞かされたことはなかった。たまたまそうなったのか、私だけが課内の暗黙の決まりを知らなかっただけなのか、
次第にプロジェクトの分担の偏りを気にすることが多くなった。
ア首連でのプロジェクトは、同国の一構成首長国のウム・アル・クウェインでの「水産増養殖センター」建設のためのプレ基本設計
調査案件であった。中東アラビア半島の一角を占めるペルシャ湾岸の国・UAEも押しも押されぬイスラム教国であった。UAE農漁省と取り交わした合意文書の中に、ある一つの英単語を使い方を間違ったことが外交問題となり、JICAは同施設の建設工事業者に対する施工監理をする
という前代未聞の仕事と向き合った。一文字違いがとんでもない事態を引き起こしたことに衝撃を受けた。
施工監理を軌道にのせるのに、人生で初めて精神的に追い詰められ、鬱病に罹ってしまった。
胃に穴が開く激痛の日々をも経験もした。この案件は数多のエピソードのオンパレードとなった。その幾つかを本章一節にしたため紹介したい。
その後北アフリカのチュニジア案件「国立漁業訓練センター」プロジェクトを担当した。それもイスラム教国であった。この案件こそが
最もプロトタイプの技術協力プロジェクトであった。トロール網、巻き網、沿岸漁業などの漁撈技術を水産普及員に伝授し、エンドユーザーの
漁業従事者の生産レベルを向上させるのが究極的な使命であった。プロジェクト運営は初めての経験であったので、みんなこんなものかと思いつつ、
成果がなかなか見えて来ない、課題山積のプロジェクトに3年間「悪戦苦闘」した。終わって見れば、プロジェクト運営の「教科書」
あるいは「バイブル」と言えそうな存在となっていた。プロジェクトは課題のオンパレードであり、貴重な教訓に事欠かなかった。そして、
エソードも多かったので本章一節にしたため紹介したい。
イスラム文化圏諸国ばかりを担当する私は、ある日ついに独り言を漏らしてしまった。イスラム担当専属のように暗黙的に認識されていた
ことが解せなくで囁いてみた。それも、周りの先輩諸氏にはっきとり聞こえる様に囁いた。
先輩職員は私のわがままを汲み取ってくれて、先ず中米のホンジュラス国の「沿岸水産資源調査」プロジェクトを回してくれた。
その後さらに、アルゼンチンの「国立漁業学校」プロジェクトを譲り受けた。
自身は何の案件をバーター取引として差し出したかは記憶にない。いずれにせよ、独り言がその後の人生に思いがけない奇跡のような幸運をも
たらした。
バーター取引で担当することになったホンジュラス水産資源調査であるが、何と水産室に着任後まる3年を経て
初めて太平洋を越えて出張することができた。カリブ海沿岸での浮き魚などの沿岸魚類資源の現況調査の進捗を把握し、
先方水産局側と今後の調査の進め方などを協議するためであった。
商業的価値のあるカツオ、マグロなどの高度回遊性資源のポテンシャルなどにつき期待がかかっていた。だが、漁獲の殆どは
サメばかりで、採算が取れそうな有用資源を見い出すのは困難な状況に直面していた。フカヒレ製造のためにサメを捕獲し過ぎると、
サメすら乱獲に繋がりかねない。結局調査前に想定されていた結果を得るべくして得たということになってしまった。
バーター取引で次に担当することになったのは「アルゼンチン国立漁業学校」プロジェクトであった。同国の技術レベルもプライドも
思う以上に高いので、先輩は「この案件は難しいよ」と言いつつファイルを手渡してくれた。プロジェクトは二つのフェーズをもっていた。
一つは学校での漁業教育レベルを向上させるための技術協力。他は、レベルを向上させるには学校の施設と実習機材全体をフルに
リニューアルしないと始まらず、学校建設を行なうための無償資金協力である。ワンセットの協力であった。
とはいえ、中南米でも先進国であるアルゼンチン側関係者のプライドは高く、ましてカウンターパート機関は日露戦争(日本海海戦)
時に日本側に協力したアルゼンチン海軍であった。交渉はやはり難航した。だが、年3度も日本とアルゼンチンを
往復して紆余曲折の実務交渉の末、海軍教育局長との合意文書の成約とプロジェクトの樹立に漕ぎ着けることができた。このことが、
次の新しい運命を切り拓くことに繋がろうとは夢にも思わなかった。エピソードに事欠かないので本章別節にしたため紹介したい。
時は少し遡るが、水産室に着任後暫く経った1980年後期に室長代理が退職することになり、担当していた大洋州のミクロネシア
のパラオでの「カツオ一本釣り漁業指導プロジェクト」を急きょ担当することになり現地に赴いた。独り言を漏らして一気に中南米
プロジェクト2案件に関わるまでは、これが唯一の非イスラム圏でのプロジェクトであった。
担当した私は、合意文書を通読して一瞬たじろいだ。戦時賠償の一環として日本が供与したカツオ漁船をもって、「パラオ人乗組員
だけでも商業的採算性に適うような操業が実現可能である」ことを実証するよう求められたプロジェクトであった。両政府に「実証
できない」という結果報告をもってプロジェクトを終了させるという選択肢はなかった。このプロジェクトについても本章別節に
したためることにしたい。
さて余談だが、最後に、私の担当ではなかったが、南米チリ・パタゴニア地域のコジャイケという村で実施された、南半球にサケを
移植するというサケ養殖プロジェクトは、今日では大成功を収めた水産プロジェクトとしてよく語り継がれてきた。
JICAの国際協力の中でもこれほど注目を浴び、かつ事実経済・技術的成果を上げたプロジェクトはなかったかもしれない。日本の技術協力が
一国の歳入の増収や経済発展にこれほど貢献したとされるプロジェクトはこれが唯一かもしれない。
コジャイケのふ化場を起点にして日本産シロザケを南半球に移植するという、壮大なロマンを秘めたプロジェクトが、当時席を隣り
合わせにしていた同僚が担当していた。実は、先ず米国が1960年代にチリにサケの移植を試みていたが成功しなかった。
他方、1960年代後半から、日本もチリでサケ養殖のための諸々の下準備を進めていた。チリ政府は、1970年になってパタゴニアの
アイセン州コジャイケにふ化場を完成させるとともに、日本側は1974年に日本産シロザケの発眼卵を送り込み、そのふ化放流事業を開始した。
その後、日本とチリ両政府は、正式に「サケマス資源の養殖に関する技術協力協定」を締結し協力することになった。
主に「北海道さけますふ化場」などが協力した。以後、1986年まで、長期・短期養殖専門家などを派遣し、シロサケ、サクラマスの発眼卵
を空輸し、ふ化放流事業を繰り返し、日本産サケの南半球における成育とコジャイケの河川への回帰を10数年にわたり試みた。
その間、チリの20名以上の養殖技術者らを北海道などに招聘し、技術研修を続けた。
だがしかし、放流されたシロサケの稚魚の南太平洋での回遊と成長後における母川への回帰という、壮大なロマンは実現しなかった。
日本産サケの南半球への移植はかなわなかった。他方、サクラマスについては湖において定着するにいたった。いずれにせよ、養殖技術そのものは連綿として受け継がれ普及拡大し続けた。
1978年に日魯漁業 (現マルハニチロ) がプエルト・モント湾でギンザケの養殖事業に乗り出し、その3年後海面養殖産を水揚げした。
プロジェクトにかかわったチリ側養殖技術者らは、民間養殖事業にその知見を活用したり、また他者へ技術移転したりして、ノウハウが次々と
産業・商業的に活かされ続けた。地元に残った技術はさらに受け継がれ続けた。
現在では養殖サケはチリ国の一大輸出産品となり、貴重な外貨収入源となっていることは、よく知られた話である。
私は水産室に1979年から1984年まで在籍したが、このプロジェクトはその当時まさに佳境状態にあった。次々と現地から寄せられるサケ捕獲
情報に、水産室一同はそのサケの出自について一喜一憂したものであった。
閑話休題。事情により4年間もの長きに渡り、水産室に奉職することができた。世界の水産プロジェクトに直接的に深く関わる
ことができ、これ程に遣り甲斐と生き甲斐をもって職務に没頭できたことはなかった。他方、二足のわらじを履き続け、「海洋法研究所」
の名の下で英語版ニュースレターを遅れ遅れにせよ発刊を続けた。途上国への水産技術協力とニュースレターによる
世界への海洋法制・政策の情報発信によって、海との関わりや繋がりは一層強固なものとなって行った。真に「海の世界への回帰」は揺る
ぎないものとなっていた。
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