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    第8-1章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第3節 パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する


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     第8章・目次
      第1-1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第1-2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する



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  アルゼンチンのマル・デル・プラタ(MDP)に所在する「国立漁業学校」に1984年4月に着任してからようやく10カ月が経ち、翌1985年 1、2月の盛夏を迎えた。南米と日本の季節は真逆なので、1,2月は日本では真冬であるが、アルゼンチンでは真夏であった。 かくして、赴任以来最初のサマーバケーションの時季を迎えようとしていた。家族(妻・子2人)は事情で半年以上遅れて、1984年11月 中旬にMDPに到着した。その後好感のもてる近隣住民のお陰でわずか数ヶ月にして「ア」での生活にすっかり慣れ、直前に迫った 夏季にはどこか旅に出掛けることを楽しみにしていた。

  実はMDPは南米でも有数の避暑地であった。ブエノス・アイレスはラ・プラタ川という大陸性大河の畔にあるが、河幅が広い所で 100km近くあり対岸が見えない。しかも河口域はミルクコーヒー色に染まっており、海水浴などできるものでない。結局河口から400km 以上離れた大西洋岸沿いのMDPであれば、夏季の高温多湿のブエノスを離れてブルーオーシャンに臨む浜辺で海水浴を楽しめるという訳である。 普段はMDPの人口は数十万人であるが、1,2月の盛夏ともなれば押し寄せる避暑客らで人口は倍以上に膨らむ。我々MDP住民は、 避暑客相手のビジネスでもしていない限り、長期滞在客でごったがえす市街地の喧騒に堪えかねて、町から暫くの間脱出したく なるのが正直なところであった。

  さて、赴任して初めて迎えた夏季には、1,400kmほど南西にあるサン・カルロス・デ・バリローチェという、アンデス山脈の麓に ある観光景勝地を目指して出掛けることにした。バリローチェは「南米のスイス」と称されるだけあって、アンデスの雄大な大山系 の中の大自然に抱かれ、森と湖、渓谷と氷河、滝と渓流が織りなす人間と動物たちの楽園であった。胸いっぱいに清涼なオゾンと酸素を 吸い込んで「肺や血液」を浄化できそうであった。とはいえ生後6ヶ月に満たない乳飲み子を抱えての初めての車での遠出であった。 単純に往復するだけでも7日間以上も要することになり、内心では20日間ほどの長距離ドライブを無事遣り終えることができるのか、 旅程の長さ、オフロードでの走行、乳飲み子の体調などを思うと不安は尽きなかったが、細心の注意を払えば何とかなるだろうと 楽観的に考えるようにした。長女は5歳半ほどであった。

  ところで、アルゼンチンは国土が広大であり、大陸性のスケールの大きい自然に溢れており、訪れてみたいところが幾つもあった。 国内をあちらこちら巡り歩くまたとない機会でもあった。乳飲み子を抱えての長期国内旅行であれば、公共交通機関などでの移動や乗降 に苦労せざるをえない。しかし、自家用車で遠出することになれば、幼児を伴ってもドア・ツー・ドア感覚で身軽に移動することが できる。同じ旅をするにしても何かと気が楽であり安心であった。と言っても、運転するのは私一人なので疲れる話であった。 だが、車の運転は大好きであったのでほとんど頓着しなかった。それに、長距離ドライブであっても、若かったのでまだまだ体力に自信が あった。それに何百㎞も走ってたまに通過する地方都市に交通信号機がわずかに設置されている程度であり、都市間には全く信号機のない国道を快適にドライブ できるはずであった。先を急ぐ旅でもなく、また運転に疲れ切るほど無理する訳でもなく、のんびりと休み休み旅すればよかった。 先ずは居眠り運転こそ絶対的に避けたかった。

  かくして、赴任してまだ1年にもならない1985年の初旬に、漁業学校の夏季休校期間を利用して、家族で「アルゼンチンの不毛の大地 パタゴニア」の外縁を大きく周回する「冒険旅行」へと出かけることにした。往きはパタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下し、 南米大陸最南端の「ティエラ・デル・フエゴ島(Isla de Tierra del Fuego)」にある「ア」国の最果ての町ウシュアイアを目指した。 ウシュアイアは「マゼラン海峡」に臨む港町であり、一度は足を踏み入れたいと念じていた町であった。その後、南米大陸の背骨であるアンデス山脈東側沿いに北上し、 名高い山岳景勝地のバリローチェを経て、パタゴニアをほぼ周回した後帰着するという計画であった。 東京から見れば地球のほぼ裏側に位置する「ア」国のパタゴニアの大自然を体験できるのは、人生の中でもそれほど機会は多くないとの 強い思いがあった。赴任の機会をぜひ生かしたかった。

  私の車はフランスのルノー社製のステーションワゴン(型式は1984年製造の「18GTX」)であった。普通乗用車の後部座席のさらに後方 に二人が座れる簡易のシートがあった。その座席を前方に倒し畳み込めば、バックドアからたくさんの荷物を押し込むことができた。 JICA事務所の河合君のアドバイスもあって、家族で遠出することを念頭にこのタイプを購入したものであった。 ついにそのワゴンを本格的に生かせる機会がやってきた。

  思った以上にかなりの重装備とならざるを得なかった。生活用品一式を幾つかの段ボール箱に区分けしながら積み込むことにした。 先ず、電気炊飯器や什器一式、簡易ガスコンロ、鍋、フライパン、やかんなどを納めた。お米、味噌、インスタントラーメン、おにぎり用の 海苔などの他、醤油・塩・胡椒などの各種調味料をはじめとして、できる限り多くの日本食材を詰め込んだ。4人用のテント一式、 折り畳み式のテーブルと椅子、エアマット、毛布、アイスボックス、携帯ランプ、衣類一式、子どものための生活用具一式、 ベビーカーや粉ミルク、哺乳瓶などのベビー用品だけでなく、万一の野宿に備えて幾つかの特殊用品も整え、ぎゅうぎゅう詰めに押し込んだ。 車のルーフにはキャリアをセットし、そこにテーブル・椅子、テントなどを括り付けると名実ともに満載状態になった。 最後に20リットルの予備ガソリンを携帯するためのポリ容器を押し込んだ。

  マル・デル・プラタからほぼ大西洋岸沿いに一路南下し、500kmほど先のバイア・ブランカ(スペイン語で「白い湾」の意味)を目指した。 ブエノスとバイア・ブランカの間には、半径400kmほどで円を描いたような形状の「パンパ」と呼ばれる、広大な面積を誇る 放牧・穀倉地帯が広がる。バイア・ブランカはその「パンパ」で産み出される穀類や牛肉などの農牧産品の一大集積地であり、また 積み出し用の商業港を有する。バイア・ブランカまで海岸線とほぼ並行して、いわばパンパの東側半周外縁をなぞるように大平原を ひた走った。時に、見渡す限りの緩やかな丘陵地に向日葵の大輪で 埋め尽くされた畑が続く。まるで、黄色い絨毯を地平線の果てまで敷き詰めたようであった。日没時になると柔らかいオレンジ色の 太陽光線に照らされて、何とも美しい牧歌的な田園風景となり、運転の疲れも自然と癒された。

  そして、見上げる大空には底部が平らだが上部がむくむくしている小さな浮き雲が規則正しく縦横列になって広がっていた。行けども 行けども数多の浮き雲が地平線から湧き上がり途切れることがなかった。大陸と大海とが隣り合わせであることの なせる業なのであろうか。ほぼ海岸線と並行して空一杯に、まるで魚のうろこを規則正しく浮かべたかの ように延々とどこまでも続く。南米大陸という巨大な陸塊と大西洋という海塊とが接する海岸線の上空ともなれば、雲景のスケール もかくも巨大になるものかと思いたくなる。大陸性大地の空を一面に覆う浮き雲、大牧草地のグリーンの絨毯と向日葵のイエローの絨毯の世界が 広がるが、放牧牛はまばらでしか見かけない。おそらく日本では北海道でしかお目にかかれないような雄大な田園風景である。 時速百数十㎞の髙速で走行したいところであるが、そこは安全のためぐっと我慢して、常に時速80~100kmほどに抑えつつドライブを続けた。 陽が落ちる頃には、バイア・ブランカの市街中心部で見つけた星2~3クラスのホテルに投宿できた。

  翌日、バルデス半島の最寄りの町プエルト・マドリンを目指した。バイアから50kmほど南下すると北緯40度線辺りに河口をもつ 「コロラド川」という大河を横切った。千数百km西方にあるアンデスの山々、それも南米大陸最高峰の「アコンカグア山」(6,960m)の近く から悠然と流れ下る大河である。そのコロラド川を境にしてパタゴニアのステップ地帯に入り、自然の様相は一変し荒涼としてくる。 不毛の大地の始まりである。さらに40度線を越えて少し南下すると「ネグロ川」の河口にあるビエドマという町に至る。バイア・ ブランカから240kmほど南にある。

  ビエドマからさらに400kmほど走破し、世界自然遺産に登録される「バルデス半島」への ゲートウェイである町プエルト・マドリンを目指した。 マドリンはパタゴニア北部の一大漁業基地であり、またアルミニウム製錬の大基地ともなっている港町であった。 ところで、はるばる持参してきたキャンピング用具を使ってみる良い機会との思いに目覚め、半島の何処かでオートキャンプ場かテント 設営可能地をみつけ野営することを試みることにした。そこで、マドリンの少し手前で国道3号線から外れて全体が国立公園となって いる半島内へと足を踏み入れた。

  「バルデス半島」はオタリア、トド、イロワケイルカ、クジラ、シャチなどの海洋性哺乳動物やマゼラン・ペンギンの他 野生生物の楽園である。半島は地形的には、江戸時代の長崎の「出島」のように海に突き出ていて、その付け根はごく狭い地峡と なっている。あるいは、酒の徳利を横に倒して、その底部を大西洋に向けて突き出したようなものである(あるいはマッシュルームの ような形状をしている)。その徳利の細くなった首部に相当する地峡部を過ぎてすぐのところに「プンタ・ピラミデ」という、 半島で唯一の小さな集落があった。その集落の近くの砂浜にて、 日が暮れないうちにテントと簡易テーブル・椅子を設営し、手早くインスタント食品を準備して夕食を済ませた。子どもらにとっては初めて のテントでの野営であったが、何事もなく無事一夜を明かすことができた。

  時間軸を少し戻すと、私的には、この半島に足を踏み入れたのは二度目であった。1983年に初めてアルゼンチンに出張した折、 パタゴニアでの漁業事情を視察するために、他の調査団員とともに、まず空港のあるトレレウ(マドリンから50kmほど南の地)の町に 降り立った後、チャーターした車でこの「ピラミデ」に立ち寄ったことがあった。 野生のミナミセミクジラ(southern right whale)がボートの真下を悠然と通りゆく姿に鳥肌が立つほどに興奮を覚えた。 クジラジラミなどからなる「カロシティ(callosities)」というかなり大きな白い塊を、巨体のあちこちに付着させていた。 ミナミセミクジラの大きな特徴らしい。クジラは6~12月に観察でき、8~9月(晩冬~初秋)がピークという。ピラミデがクジラ ウォッチングのメッカになっていることは、当時ピラミデを訪れて初めて知った。

  「バルデス半島」に初めて興味を抱いたのはJICAに就職して数年後のことであった。研修事業部で「地熱エネルギー資源探査」 集団研修コースの巡回指導調査団員としてエジプト・トルコ・フィリピンの3か国に出張した。それがきっかけで、陸上において だけでなく、海洋における自然再生可能エネルギーの開発にも興味をもち出したことは、すでに述べたとおりである。 その頃に紐解いた海洋開発の書物の中で、このバルデス半島地峡での潮流発電所建設構想について知った。まさか、自分の足でその地に 立てることになろうとは感動ものであった。

  「出島」のような半島の縦(南北)方向の距離は120kmもあるが、半島付け根部(出島へ渡る橋に相当する)は細く大きくくびれている。 そのくびれた地峡部の南北方向の距離(出島でいえば橋の幅)はわずか 6㎞ほどである。北側には「サン・ホセ湾」(el golfo de San José)、南側は「ヌエボ湾」(el golfo de Nuevo)という奥行きが 深い入り江がある。半島の付け根部分をスプーンで鋭くえぐったように海が南北方向から深く湾入している。

  さて、1975年の法律で「ア」政府はバルデス半島における潮力発電所に関する可能性を調査するように義務付けられた。 当時の原子力発電所と同等の1,200メガワットを発電する潮力発電所の建設可能性も考えられた。だが、半島周辺での干満差は 8.7メートルほどであったことから、同湾入り口を堰き止め外洋と内湾との潮汐の水位差を利用しての潮力発電は困難と見込まれた。 そこで他の方法が考案された。付け根の地峡部の陸地を開削し、運河(水路)を建設し、両湾間の潮位差によってたえず行き来する 潮流を堰き止め、堰内部に埋め込んだ水中タービンを回転させ電気を起こすというアイデアがある。「ア」海軍における計画に 違いないと思い、漁業学校の副校長ジャベドニー元海軍中佐に、同計画立案について尋ねたことがあった。確かに構想されていた との言質をえたが、経済採算性あるいは自然環境上の観点から立ち消えになってしまったのか、それとも彼は詳細を承知してい なかったのか、それを忘れてしまったのか、その構想内容について何も語ってはくれなかった。

  さて、テントを畳み全てを車に撤収した後、半島を少し散策することにした。今回はクジラウォッチング はしなかったが、半島最北端の「プンタ・ノルテ」まで出かけた。途中海岸線沿いに巨体をのんびりと横たえる野生のトドを暫し 自然観察した。その後プエルト・マドリンの市街地とそこから地先に向けて突き出した一本の長大な桟橋に立ち寄った。 マドリン市街地の北のはずれに「海洋自然科学博物館」がその立ち寄りした1985年の当時から既に開館していたかどうかは定かでは ないが、同博物館を実際に訪れる機会を得たのはそれから15年も後のことである。

  翌日、大西洋岸沿いに砂利道を走破して「プンタ・トンボ」という、マゼラン・ペンギンの自然の営巣地(ルッカリー)を訪ねた。 海岸には何万羽というペンギンが群がっていた。ペンギンは海岸沿いの土中に小さな巣穴を掘り、そこを生活拠点にしている。 巣穴には交代で卵を抱く親鳥がいる一方、相方は餌を求めて海へ魚捕りに出かける。そんな親鳥 が何千何万も数ある巣穴の中から自身の帰るべき穴を選り分けて帰巣できるのであるから驚きである。ペンギンが巣穴と海との間を よちよち歩きにて行き来する自然のままの姿は愛嬌があって微笑ましくもあり観ていて飽きない。

  その後、国道3号線に出て、そのまま500kmほど南下し、パタゴニアの大西洋岸中央部にある漁業と石油生産の町コモドロ・リバダビアに向 かった。そして、いつもの習慣で、先ずは港に立ち寄った。港に立ち寄るのは、初めて尋ねる町の中での自身の居る地理的位置を把握 するためである。岸壁に着いて眼中に飛び込んできた風景は、どこか奇異に感じられるものがあった。それが何であるかを理解 するのに暫く時間がかかった。

  生まれて初めて潮汐作用が引き起こす大きな現象を眼の当たりにした。有明湾沿いの九州・柳川などの遠浅の海岸で見かける 干潟風景とは異なり、またそのスケールも違っていた。干潮時に潮が引き、 海岸線の地先が干潟になるというような光景ではなかった。リバダビア港の岸壁に立って初めてそこが本来海水で満たされている はずの大きな港であることが分かった。車から降りて岸壁に立って下を見ると、何と漁船が真下にあった。引き潮で着底していたのである。 遠目からでは岸壁に隠れて見えなかった訳である。 改めて港内を180度見渡しよく目を凝らして観察した。全ての船は浮かんでいるのではなく、海底に鎮座していた。 遠くの防波堤沿いにそこそこの大きさの近海漁船が目に映った。だが、港内に海水が全くないという異様さに気付いた。船は どれも浮かんではいなかった。生まれてこの方こんな奇異な港湾風景を見たことはなかった。

  目を凝らしてもう一度観察した。海底がずっと先の防波堤まで日干し状態になっていた。漁船は乾ドックで船底修理を待つ かのように、船体全体を地上にさらけ出していた。リバダビアでは干満差は10メートル位はあるように思えた。 日本では、有明湾で5~6メートルほどの干満差を観察できるようであるが、アルゼンチンでそれよりもはるかに大きな潮位差を体験することが できて幸運であった。世界的に有名なカナダ東部ノバスコシア州の「ファンディ湾」での大潮時の干潟風景をこのリバダビアの地で 観たような気になった。

  さて、翌日コモドロ・リバダビアを後にして、南米大陸の中で最南端にある辺境の町リオ・ガジェゴスを目指した。 まだ700kmほどの距離があった。低灌木がところどころ 生い茂る荒涼とした殺風景なパタゴニアを大西洋岸沿いにさらに南下した。岸沿いと言っても国道はほとんどの場合かなりの 内陸部を走っている。真に海を見ながらの走行は意外とごくわずかである。さて、沿岸に並行的に貫通する国道は完全舗装され 快適に走行ができたが、難点が一つあった。

  道路の中央部が見るからにかなり盛り上がっており、蒲鉾形をしていた。アルゼンチンは右側通行であり左ハンドルである。 その蒲鉾状の道路を何千kmも運転すると、車も体もいつも道路右側の路肩方向へと傾くことになる。さらに、車自体が自然と 道路右側の路肩方向へと流されて行く。その偏向性を必死に食い止めようとすると、ハンドルの左半分を片手ではなく両手でしっかりと 握りしめていなければならない。毎日7、8時間もそうやってしがみついていることになる。このスタイルを取り続けると結構疲れるのは必定 である。

  それにパタゴニアは「風の大地」でもあり、南緯40度辺りでは通年偏西風が吹いている。道路周辺に生える低灌木を見ると、 多くはその影響を受けて、西のアンデス側から東の大西洋側へなびくような樹形となり、長く偏西風に抗い耐え忍んできたことをまざ まざと見せつけられる。時に東側の大西洋から海風が吹くなかを南下すると、さらに左ハンドルの左半分にしがみつくことになる。 日本でも高山に生えるハエマツが強い恒風のために斜めに扁形して生えているように、偏西風に抗うパタゴニアの低灌木の樹形は その風物詩そのものであった。

  コモドロ・リバダビアの市街地を少し通り過ぎた辺りで一軒の手頃そうなモーテルを見つけ投宿した。翌朝モーテルを出発し先を急いだ。 目指すリオ・ガジェゴスのはるか沖合の大西洋上には、「フォークランド諸島(マルビーナス諸島)」がガジェイゴスとちょうど同じ緯度に浮かぶ。 アルゼンチンへの赴任がかなりずれ込むことになったフォークランド戦争の激戦地となった例の島嶼である。それを思うと、自身と関わりのない 島嶼とは思えなかった。歴史を遡れば、スペインやポルトガルが中南米大陸を植民化した後、一世紀ほど遅れて英国やオランダなど の新興国が領地を得ようとして始まった16、17世紀頃からの領有地紛争がなおも現代まで引きずっているということであろう。 日本周辺海域にも今後何世紀も続くかも知れない2、3の係争地があることを思い起こしながらドライブを続けた。

  いつものことだが、運転中、お腹が減ればその都度おにぎりをぱくつきながら運転を続けた。だが、 ガジェゴスのかなり手前で、すでに夏の太陽ははるか西方のアンデス山系に既に落ちていた。余談だが、ガジェゴスまで後250kmほど の地にプエルト・サン・フリアンいう小さな沿岸漁業の町があり、その近くを通った。そこがマゼラン艦隊が16世紀初め頃に越冬した地で あったことを当時全く知らなかった。大航海時代の歴史に余り興味を持たずその史実を知らなかったのである。

  夜も遅い時刻にリオ・ガジェゴスの町に入った。街はかなりの広がりをもっていて、それ故に市街中心部か分かりにくかった。 それに目指す「ACA」(後述)の場所もあやふやであった。そこで、いつも旅の習慣として、港のある方向へと向かった。街中での自身の 地理的位置を理解するためである。石炭の積み出し施設らしく、大きなベルトコンベヤーが暗闇の中、 けたたましい轟音をたてて石炭を運搬船に流し込んでいるかのようであった。音だけが情景を思い描く頼りあった。コンベヤーは 独り動いていて、人影が全くなく道を尋ねることもできなかった。 皆自宅で夕食をとる団欒の時間であった。何やら馬鹿でかい積み出し用鉄骨構造施設から斜めに伸びる大きな構造物の下をくぐり抜けたが、 暗闇で何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。ほとんど明かりが灯らない中、埠頭沿いにしばらく南下したところで、 ようやく「ACA」のでかいシンボルマークが夜空に浮かび上がっているのを見つけ胸を撫で下ろした。

  「ACA」とは「アルゼンチン自動車連盟」の略称で、主要地方都市では大抵それが直営するガソリンスタンド兼宿泊施設があり、 会員は割引で宿泊できた。赴任後暫くしてオルティス校長に勧められて専門家全員が会員となり、以来重宝してきた。 旅での投宿の3分の1くらいは「ACA」の経営するモーテルにお世話になった。子ども用の遊戯施設もあり、清潔で安く安心して泊まることが できた。携帯電話もなく、カーナビなどもない時代のこと、目的地に行き着くのに意外と苦労する事が多かった。土地勘の全くない地方 都市では、「ACA」の施設は分かりやすい「物標」となった。連盟は日本の「JAF」と同様に会員への各種ロードサービス を提供していた。「ACA」マークは地方に行けばいくほど安全安心の保証マークであった。 それに、「ACA」はドライバーが見つけやすいところに立地していて、何かと頼りにできた。

  さて、翌日早速、市街中心部にある旅行代理店を探し出して旅の相談に訪れた。ガジェゴスの港から「ティエラ・デル・フエゴ島」 へ渡海する直行フェリーの運航時刻の情報を得て、その乗船券を購入するのが目的であった。だが、全くうかつであった。 私的には、とんでもない思い込みをしていた自身を大いに恥じた。旅の出立に先だってしっかりと学習して予備知識を得ていなかった。代理店でそのことを思い 知らされ愕然とした。知れば知るほど、自身のバカさ加減に唖然とするばかりであった。

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    第8-1章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第3節 パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する


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     第8章・目次
      第1-1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第1-2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する