インドネシアでの漁港建設計画事前調査から帰国してすぐに本格的に取り組んだのは、北アフリカのイスラム教国チュニジアでの
「国立漁業訓練センター」というプロジェクトであった。担当してみて徐々に芽ばえてきた思いがあった。、
私的には、「課題のデパート」のようなプロジェクトであった。勿論、最初から固定観念をもってその運営に臨んだ訳ではない。
結局のところ後々になって知ることになったのは、同プロジェクトを通して学んだ教訓の多さであった。他のいずれのプロジェクト
よりも数多く、しかも多岐にわたっていた。
さて、同プロジェクトが所在したマディアは首都チュニスから南東200kmほどにある、地中海に面した小さな漁業町で、特に沿岸漁業が
盛んであった。チュニジア水産局の肝いりで、そこに国立の「漁業訓練センター」が設置され、そこでトロール網、巻き網、沿岸漁業
(一時期、マグロ沿岸延縄指導を含む)の3つの漁労技術の全国的な普及と漁業生産性の向上を目指していた。全国からセンターに水産
普及員らが集められ、3つの漁労技術に関する座学と実習を通じて彼らの技術の多様化やレベルの向上、究極的にはチュニジア全体
の漁業振興を目指した。
日本からのインプットは、リーダー、3漁法の長期専門家、業務調整員、さらに日仏語通訳兼翻訳の業務に当たる専門家の
総勢6名の長期専門家派遣であった。また、マグロ延縄の漁労技術を指導するために、神奈川県・三崎漁港界隈で「マグロ漁の神様」
と称される、マグロ延縄漁に長けた短期専門家も派遣され。更には、青年海外協力隊(JOCV)の漁労隊員一名も指導に加わっていた。
他方、専門家からのノウハウの直接的な受け手であるチュニジア側カウンターパートとして、それぞれの漁法につき少なくとも
一名以上指名された。
彼らは大学を卒業してまだ日の浅い青年であった。若いカウンターパートは柔軟性があってノウハウの受け手としては申し分はなかった
が、職業人として何がしかの漁労従事経験を経てきたという訳ではなかった。つまり、漁労の実践経験に裏打ちされた、何がしかの
漁労知識を擁するとは言い難かった。実は、チュニジアには、幾つかの水産高校は存在したものの、日本の場合と異なり、水産学部漁業
学科のような漁業技術を専門に学べる学部・学科はなかった。彼らは、チュニス大学の生物学部などで生物学を専攻するという教育的
バックグラウンドをもつ青年たちであった。
先ず、3協力分野担当の長期専門家によって、彼らとペアを組むカウンターパートに対して個別的かつ集中的に該当する漁労技術
の指導が施された。また協働して、指導要領をはじめ、同センターの受講生である水産普及員向けのテキスト類などの製作に取り組んだ。
カウンターパートによる漁労技術の修得にほぼ目途が立ちつつあった2年目以降、今度は指導要領を踏まえつつシラバスやカリキュ
ラムに沿って、カウンターパート自身が専門家の指導の下、受講生に対して直接的に担当の座学を講義するために教壇に立った。
普及員向け漁労講習は年2回をサイクルにしていた。講習を通じたノウハウの最終的受け手は漁業従事者であった。即ちセンターでの漁業訓練
によって伝授されるノウハウの究極的な「エンド・ユーザー」は実際に海で漁業に勤しむ漁民らであった。
かくして、漁労技術の受け渡しは4つの階層構造となっていた。日仏語の通訳専門家を含めたとすれば、長期技術専門家→
通訳専門家→ カウンターパート→ 受講生である水産普及員や水産高校教員→ その先に控えるエンド・ユーザーの漁業従事者という、
5つの階層構造であったといえる。その技術移転プロセスの長さを想うと、ため息が出るほど長期に及ぶ息の長いものであった。
エンド・ユーザーである全国の漁民が普及員らから学び得た漁労ノウハウを実際の海での操業に生かして、今まで以上の漁獲高や漁業
生産性を上げて生計向上に繋げて行くまでには、長い長い道のりが横たわっていた。時間や労力さらに経費の掛かる漁業技術の移転方式であった。
チュニジアのプロジェクトでは、通訳・翻訳を担う専門家と、かなりフランス語に長けたトロール網漁業専門家を除いて、語学面では
大いに苦労を強いられていた。それ故に、プロジェクト開始して一年後には通訳専門家というもう一人の「人的資源」を特別に投入することになった。だとしても、JICAの漁業教育関連プロジェクトでは、少なくとも4階層構造(専門家・カウンターパート・受講者・エンド・ユーザー)
となるのは、至極一般的なことであった。それにしても、「国づくり人づくり」を目指しての技術の受け渡しや「種まきの手法」を観るにつけ、
相当のもどかしさを感じざるを得なかった。そして、水産室着任後数年を経た時点でも、技術移転とはこのようなものと認識し現実的には
それを受け入れていた。
フランス政府の援助の下にフランス人がチュニジア人漁民へ直接的に技術移転する場合は別格として、例えばドイツの政府援助
機関「GTZ」が派遣するドイツ人専門家が技術指導に携わる場合でも、日本のそれと五十歩百歩である。理論的には、日本政府が、
漁労技術に長けフランス語にも堪能な外国人専門家(例えばフランス人やフランス語を母国語とする外国人)を世界から広く
リクルートして、チュニジア人カウンターパートや訓練受講生(または漁民)に対して直接に技術移転するという方法もありうる。
技術移転のコストパフォーマンスは相当な程度向上するに違いない。
だがしかし、日本が援助経費を全額負担しながら、技術移転による人材育成がフランス人などの外国人
によってなされるとなればどういうことになろうか。日本による対チュニジアへの二国間協力でありながら「日本と日本人の顔」が全く見えないということになる。それが最大の課題として残る。日本国民は「日本の顔が見えない援助」を良しとするであろうか。
例えば、「国際食糧機関(FAO)」が、漁業技術指導プロジェクトを、日本政府も資金提供に加わっている、機関への通常の拠出金をもって
「FAOの名の下に」実施する場合であれば、どうであろうか。あるいは、複数国から特別に援助資金を一つのバスケット(特別の共通口座)に
寄せ集めて実施する場合であればどうであろうか。前者の場合はFAO直轄の協力事業であり、後者は多国間
(マルティラテラル)協力である。いずれも日本の国旗のみを掲げて援助するものでないから、日本の顔が見えなくともよい。被援助国にとっては
むしろ見えないのが良いとされる。
だが、二国間(バイラテラル)協力であれば、やはり「日本人」専門家による「日本の国旗の下」での技術移転でないと困るのである。
日本からの全面的な援助資金の下でバイラテラルに協力する限りは、やはり「日本の国旗と日本人の顔」をみせてこそ日本による協力で
あることを示威することになる。二国間協力の場合では、援助資金を支弁する国(日本・日本国旗)と、派遣される専門家(日本人・国籍)
がイコールとなるのが殆どである。
さて、ほぼ4年にわたってこのプロジェクトの運営を担当することができた。そして、その間プロジェクトの運営管理に関する
いろいろな実務上の有益な知恵を授かった。プロジェクトでは、「漁労技術の普及」や「水産教育レベルの向上」、究極的には「漁業生産性の
向上」などを目指して、両国関係者は努力を重ね奮闘した。その過程で乗り越えねばならない幾つもの壁にぶち当たった。
諸々の壁を乗り越えるためには想定以上に多大な時間と労力を費やせねばならなかったが、他方では乗り越えられず手痛い教訓だけを残すことになった壁もあった。
プロジェクトの実施において往々にして直面する幾つかの共通的な壁がある。その一つはカウンターパート
の定着性の問題である。プロジェクトの成否を左右する最も重大な問題であった。カウンターパートは専門家から直接に、かつ最初にノウハウ
を受けるパートナーである。カウンターパートは一年ほどかけてノウハウの受け手として成長することが期待される。しかし、成長したカウンター
パートが、個人的な事由か否かは別にして、道半ばにしてプロジェクトから離脱したり、あるいはその他の事由で交代を余儀なく
されることがあった。プロジェクトの使命を完遂する上での最大の痛手となる。チュニジア側にはそれなりの止むを得ない事情
があったとしても、日本側関係者にとってはお先真っ暗となる。当該分野での技術移転をどう建て直すべきか茫然失意となる。
さて、その離脱の事実を受け入れて、チュニジア側にせめて交代者を早期にリクルートしてもらう他手立てはなかった。新規に着任するまで
半年以上掛かることがあった。欠員補充が遅延し長引くことはそれだけ大きな痛手となる。全く最初からカウンターパートへの技術移転を
始める必要があった。プロジェクトを5年間も実施すると、その途上でそのような「受け手の断絶」が起こらないとは言い切れない。
チュニジア側の運営責任者の意志とはかかわりなく、カウンターパートの個人的都合で起こりうることもあった。カウンターパートの
離脱はプロジェクトにとって最大の損失で不幸な出来事となり、克服しようにも完全に克服できるとは限らない難儀の中の難事である。
いわゆるカウンターパートの定着率は、プロジェクトの進捗と成果に最も大きな影響をもたらすことになる。とは言え、勿論、
長期専門家の派遣の大幅遅延、彼らの語学能力や技術指導能力のレベル不足など、日本側の責が問われることもありえた。
第二に、言葉の壁がある。専門家とカウンターパートとの仏語コミュニケーション上の壁は当初からつきまとった。
基本的にノウハウの効果的で効率的な移転のためには、フランス語による十分なコミュニケーション能力が必要不可欠といえる。
実技の場合は多少の例外はあろうが、座学での技術移転においては以心伝心とは行かない。
確かに建前としては、専門家もカウンターパートも英語能力を十分に有し、両者のコミュニケーションは英語を介して行われると
謳われる。故に、技術移転は十分可能と言う建前と前提に立つことが殆どのケースである。だがしかし、実際は専門家もカウンターパート
も英語が堪能であるとは限らない。カウンターパートの高いレベルの英語能力、専門家の仏語能力のそれは、お互いのこととしてノウハウの
受け渡しには死活的に重要である。専門家とカウンターパートの協働しての活動目標の達成率は、専門家の豊富な経験と技術ノウハウは
勿論であるが、両当事者間における英・仏語によるコミュニケーション能力によって大きく左右される。
プロジェクトの2年目の早い段階から、語学の壁を乗り越えるための仕組みを模索した。日仏語通訳・翻訳を専門的に担う長期専門
家を特別に投入して、語学上の髙い壁を大幅に低減すべく対策を講じた。私の知る限りこのような特別措置を講じたプロジェクト事例はなく、
例外中の例外といえた。
座学において漁業理論を教授したり、漁労テキスト類を共同製作したり、また実習を指導するにも、言語による
コミュニケーション能力が不可欠である。語学能力が不足すれば、それだけ人材育成の実効性を確保することが難しくなってしまう。故に
フランス語に堪能な通訳専門家を投入して補った。指導に要する時間は倍化する
ことになったが、指導の質は着実に倍化することにつながった。
プロジェクトの開始に先だって両国間で取り交わした「討議録(Record of Discussions; R/D)」という合意文書において、
トロール網や巻き網などの操業実習のための訓練船については、チュニジア側が準備するという取り決めになっていた。センター
には150トン級の「サラクタ号」という訓練船が手当てされていた。だが、同船は船尾トロール船であり、巻き網(旋網)の漁労実習
には装備と構造的観点からして不向きであった。
そのため、巻き網船がずっと後に手当てされる時点まで、その実習は大幅に遅延する事態となった。
何度もチュニジア水産局側に訓練の実現のために民間の巻き網漁船の手当て(例えばチャーター方式)などがなされるよう善処を申し入れていた。
だが、手当てがなされない空白期間がかなり長期間続いた。これが巻き網実習訓練の決定的な積み残しをもたらす要因となった。
さて、プロジェクト4年目の1982年11月に評価調査団を派遣し、各分野ごとに指導期間をどう按配するか、両国関係者間で協議する
ことになった。その評価の結論として、実習訓練が初期段階から事実上未実施となっていた巻き網分野については、実習船の手当てを条件に
5年目以降半年間ほど延長することになった。
沿岸漁法分野については、日本側の事情で当初から長期専門家の派遣が大幅に遅れ、カウンターパートへの技術指導はもとより、
水産普及員への十分な座学・実習を執行できなかったことから、ほぼ一年ほど延長せざるをえなかった。トロール漁法分野は、座学も実習も
当初計画通り進捗したことから、5年間で協力を終了することで双方合意した。
プロジェクトの進捗の有り様は、第一に専門家派遣の遅延が大なり小なり影響していたが、第二に日本からの漁労実習用資機材の現地への
接到がかなり遅れていたために、軒並み実習の実施に支障を来すというマイナスの影響をもたらしていた。巻き網は実習船の
手当てが遅れていたので、日本からの漁網資材供与の遅れは余り顕在化するには至らなかった。
だがしかし、長期専門家の派遣がスムーズでなかった沿岸漁法分野にあっては、関連資機材の日本からの購送はプロジェクト当初から
不可能となったばかりか、その座学も実習指導も決定的な遅れにつながっていた。結局、プロジェクトが始まって第一陣の資機材が現地へ
送り届けられたのは、開始から1年半以上も後のことであった。何故、資機材の購送に1年半以上もかかるのか、その複合的な近因と遠因
について、担当者として、時を経て少しずつ理解し自己評価できるようになった。
資機材の遅延はいろいろな要因の重なりであった。専門家が現地に赴任後、住居を見つけ賃貸契約を交わし異国での日常生活を落ち
着かせるのに数ヶ月から半年近くはかかる。その翌年に利活用することになる実習用資機材をカウンターパート
と協働して検討し、その詳細な仕様書(技術的スペック)を作成する必要がある。
トロール網や巻き網のような大がかりな資機材の場合、漁具構成の詳細検討や設計図面の作成などに相当の期間を要する。
年間4~6千万円にも上る資機材の全ての仕様書の作成を終えるのに数ヶ月では済ませられない。
その後、チュニジア政府による「A4フォーム」と言う正式の機材要請書案の作成がなされ、同政府内手続きを経て外交ルートで日本の
外務省、JICA水産室に公式に届けられるまでには、また何ヶ月も要することになる。当然ながら、専門家が未着任の沿岸漁法分野では
この仕様書の検討・作成はできないことになった。
要請書を待っていてはとても埒があかないので、担当者の私は、外交ルートとは別建ての実務処理を行ない、さらにそれを前倒しする
ことが殆どであった。別建ての航空速達便で送付されてきた仕様書の写しをもって、内容を一通り吟味のうえ調達部機材課に購送(購入と空送)
手続きを前倒しで依頼した。仕様書に不明な箇所があると、現地への確認作業に相当の期間を要することとなる。
国際宅急便(DHLなど)、ファックスもインターネットもない時代である。へたをすると、技術仕様が不明確であるため、その照会のため何度
も国際郵便を往復させることになった。国際電話では込み入った仕様の打ち合わせは困難であった。
因みに、商社入札においては、機材の技術スペックが明瞭であること、また原則として複数社間での競争が成り立つよう
技術スペックに偏りがないよう作成されている必要がある。これに多くの労力、時間、経験が必要とされた。また機材課では世界中の何百
もの案件が第2~3四半期に集中し、その実務処理に目詰まりを起こしがちで、時間だけがどんどん消費されるのが毎年の業務パターンであった。
入札後商社が決定されても、製造に何カ月もかかった。納入後、海上輸送されるのにさらに数ヶ月を要した。コストは髙いが、
資機材の一部については止む無く空送することにして、かなり大幅な時間短縮を図った。チュニジアでの通関や国内輸送などの期間を考慮すると、
専門家が赴任して資機材が現地に届けられるのは、順調に事が進んでも最低1年は要することになる。プロジェクト2年目の初期段階から
日本から購送される資機材をもって実習できるのは、全てのプロセスが全く順調に進捗した場合のみである。専門家による
資機材の検討開始から現地に接到するまでの全ての工程において、処理時間が少しずつずれて行くだけで、優に1年半は覚悟しなければ
ならない。チュニジアのプロジェクトでは、後者のケースとなってしまった。前任者からチュニジア案件を引き継いだが、不幸にも
インドネシアの漁港建設事前調査案件の現地出張と重なり、さらに私自身の不慣れも手伝って、機材調達の工程が大幅に後ろにずれ込んで行った。
当時、全てがアナログの時代であった。あるのは国際航空郵便だけであった。機材リスト・仕様書や漁具設計図などを素早く受領する
ための通信手段は国際郵便だけであった。書類を日本・チュニジア間を往復させるには15日から20日を要する、実にスローな時代であった。
遅れの理由につながった事情は数多くあった。自身の手を離れ自身ではコントロールできない工程が殆どであった。
専門家自身の仕様書作成の不慣れや技術スペック上の不備の多発、私自身の出張による不在や不慣れ、調達に関するJICA内部
規則に基づく手続き上の絶対的な所要時間、競争入札に堪えうる技術スペックを完成させるために関係部署で費やされる絶対的所要期間、
メーカーによる機材の製造期間、海送にかかる数ヶ月の絶対的期間など、気の遠くなるような実務上のプロセスと絶対的所要時間、
および人為的な「不作為」の時間が常につきまとうことになった。
プロジェクト協力期間の5年間のうち少なくとも最初の1年半以上は、実習訓練は何も執行できなかった。
後にこの教訓は大いに生かされることになった。後章で詳しく触れたいが、数年後に赴任したアルゼンチンでの「国立漁業学校」
プロジェクトの合意文書の「討議録(R/D)」において、最初の一年間を専門家とカウンターパートがさまざまな準備を
こなすための期間と定義し、かつ正式に合意文書に明文化し、残余の4年間を実質的な技術協力に充当することとした。その結果、最初の
1年間にあっては資機材はプロジェクトに届かないことを前提とし、初年度の実習については5か年活動計画に組み入れる必要はなかった。
チュニジアでの教訓が最も生かされたところである。JICAの数多のプロジェクトの中でもこのような合意文書の取極めは極めて稀な
ケースに違いなかった。
さて、チュニジアプロジェクトに立ちはだかる壁は日本人チーム内にもあった。語学能力、専門的技術力、人生経験や人生観、個性
など全てが異なる6人の長期専門家が、JICAによってバラバラにリクルートされ、半強制的にチーム編成がなされることがある。
チュニジアプロジェクトがまさにその例であった。プロジェクトによっては水産庁傘下の
行政・研究機関に全専門家の選考を全面的に依頼できる場合もあることにはある。5年間、全専門家が良好なチームワークの下一丸と
なって技術指導に当たり、当初のミッションが十分に達成されることが理想である。だがしかし、現実には多くの阻害要素がプロジェ
クトに持ち込まれたりする。特にリーダーや業務調整員の指導力、人的資質の
あらゆる要素が現地で試されることになる。
チームを構成する専門家の相性をはじめ、専門家同士の人間関係の親和性や協調性、組み合わせなどが時にプロジェクト運営の
成否に大きな影響をもたらす。互いの関係のこじれは、プロジェクトに大きな負のインパクトをもたらす。プロジェクトからの公式報告書の他に、
リーダーをはじめとする各専門家からの理解に苦しむ私的なレターがJICA本部や担当者に寄せられ、プロジェクト内情をあれこれと訴え掛けられたりする。思い思いの訴状的な個人レターは不協和音が外部に発せられることを意味し、専門家の取り組みのベクトルが合わさっていないこと、
ワン・チームになっていないことの証左になってしまう。
リーダーの指導力の下、各専門家による技術指導のベクトルをほぼ同じ方向へ導き、シンクロナイズさせられることが理想である。
だが、プロジェクトは実際上いろいろな悩みを抱え込むことがある。人的摩擦の発生に翻弄される典型的日本人集団へと陥ってしまうことがある。
稀なことではあるが、チーム内で暴力まがいの出来事が引き起こされることもある。そうなれば最悪である。
専門家のあらゆる要素、例えば指導力・統率力、専門的技術力、英・仏語コミュニケーション能力、人格や人間的資質、協調的な人間関係
構築能力など、殆どは目に見えない要素が複雑に絡み合う中で、カウンターパートを巻き込んでの強力なワンチームを形成・維持できるか
否かが問われることになる。
長くプロジェクトを運営していると現地における専門家同士の人間関係模様とプロジェクト自体の進捗状況がいろいろと細かに見て取れる。
プロジェクト内部では専門家同士が火花を散らしぎくしゃくしたり、時には激しいバトルになることもある。かくして、プロジェクトの
さまざまな壁を乗り越えながら、何とかプロジェクトの運営をやり終え「撤収」させるに至った。そして、多くの教訓を学ぶとともに、
忸怩たる思いを残すことになった。
さて、1982年JICA評価調査団は、沿岸漁法分野については無条件で、また巻き網については訓練船の手当てがなされることを条件に半年から
1年ほど延長することでチュニジア水産局長との間で合意しようとした。調査団は局長室でその協議結果を記した「討議録」にサインする直前のこと、念のため通訳調整員に仏語訳に目を通してもらった。
何と、事前に合意していた訓練船の船名が別船のものに書き換えられていた。調査団は局長に問い正した。
同船の所在地情報を聞き出し、その実在を確認するため予備日を費やして遠距離にある漁港へ取って返した。局長からそんな「もてなし」を
受けるとは想像だにしていなかった。時にそんな理不尽なことに巻き込まれることもあった。それを教訓として肝に銘じた。
もっとも、その後にも先にも被援助国政府から思いもかけず故意の「ウソ」を文書に盛られることは経験してこなかった。
カウンターパートの定着性の問題、専門家派遣の遅延など、日本・チュニジアの双方がそれぞれに責を負うべき諸課題があった。また
言語とコミュニケーション上の問題はずっと長く引きずった双方の共通課題であった。それらを乗り越え、両国の専門家とカウンターパートとの
協働によって、3分野において、カウンターパートへの技術指導書、水産普及員への座学用テキスト・実習マニュアル
などの作成、座学・実習用資機材の供与、達成度は異なるものの訓練船による各分野の海上実習、カウンターパートに対する日本での
技術研修の実施など、プロジェクトで当初計画された主要活動項目を何とかやり終えることができた。
ところで、最後に、担当者として最も心に引っ掛かったこととして、プロジェクト終了後のずっと先において発現が期待される真の
成果について一言。例えば10年後のこととして、水産普及員らによる全国的な技術普及の努力の結果、エンド・ユーザーの漁業
従事者の漁獲高や漁業生産性の向上などの水産振興が図られ、かつその成果が「見える化、可視化」されるのであれば、
日本国民の税金がチュニジアの「国づくり人づくり」に役立てられたものと、真にポジティブな評価をなしうるはずである。
単にプロジェクトの活動項目をやり終えたというだけでは、余りにも釈然とせず心残りに感じていた。
10年後における真の成果の具体的な発現はどのようなものであろうか。プロジェクト終了時点には、真の成果を見ようとしても見える
ものでは全くなかった。至極当然のことである。
水産普及員らへの漁業訓練の終了時点で、エンド・ユーザーの漁民の漁獲高や漁業生産性の成果をストレートに直結させ可視化
させるのは全く時期尚早であり、短絡的過ぎると思われる。十分な時間の経過を置かなければ、訓練の成果は発現され得ないことは
明々白々である。だとしても、日本・チュニジアが協働して「漁業訓練センター」で播いた種が、例えば10年後にどんな成果を発現
しえたかを知りたいという思いある。では、10年後の真の成果の発言を評価するための手法や基準について、
プロジェクトの当初段階においてどのように制度設計しておけば、その成果を適正に可視化できるであろうか。
果たして10年後にその成果を「可視化」することは可能であろうか。理論的には可能であっても、それを実際に可視化することは事実上
為し得ないようにも思われる。また、コスト・パフォーマンスの観点から可視化する価値は殆どないと言われてしまうかもしれない。
想うに10年後にそれを評価するには、漁業訓練に参加した水産普及員や彼らの指導を受けた漁民にアンケートをする
他ないであろう。少なくとも一つの重要な手法である。
例えば、水産普及員や漁民に対するアンケートの質問内容を想定するとすれば、
「貴方は10年前漁業訓練センターでトロール網、巻き網、沿岸漁具などの講義や実習を受講し学んだ漁法の
ノウハウについて、過去10年間何十人の漁民に対して積極的にそれを提供してきたか」。
「例えば、漁民向け講習会を開催し総計何百人の漁民にそのノウハウを説明したり提供できたと考えるか」。また、「それらのノウハウの
伝授によって漁民の漁獲量や漁業生産性のアップに寄与したとみなしうるか。あるいは、どの程度寄与したと考えるか」。更に
「アップに寄与したのはセンターでの漁業訓練に依拠するものか、別の社会経済的要因によるものと推察されるか」、などを想い浮かべた。
プロジェクトの成果発現には長い期間が必要である。それ故に、水産普及員などへの漁業訓練と、エンド・ユーザーの漁獲高・漁業
生産性アップなどの漁業振興との関係性について5年後10年後に質的あるいは量的に適正に評価をなしうるよう、プロジェクト当初から
それなりの制度設計を工夫しておく必要がある。成果を質量的に推し測るために如何なる設問を投げかけることで、その関係性を的確かつ
客観的に把握できるであろうか。また、如何なる基礎データを継続的に集積し分析することによってその関係性を把握できるであろうか。
漁獲高や漁業生産性アップなどの水産振興は、漁業訓練の結果だけでなく、時間の経過の中で他の技術・社会経済的ファクターが
複雑に絡み合い相互作用によってもたらされるものであろう。故に漁業訓練教育と漁業振興との関係性について分析し評価することは
至難の業に違いない。かくして、今日までこのことについての「解」を見い出せないままに来てしまった。多くのプロジェクトを通じて「国づくり人づくり」の種は播かれるが、エンド・ユーザーレベルにおける漁業訓練教育の真の成果をどのように、またどの程度評価することができるか
が最後に残された大きな課題となろう。技術協力において最も悩ましいプロジェクト共通のテーマがここにある。
最後に一言。チュニジア・プロジェクトほど運営上の多くの反省点や教訓を残すに至った案件はなかった。
プロジェクトにおいて克服すべき真の壁は何であるか、一担当者として、それをどう克服すべきかの方策につきあれこれと思案し、
その「解」を求めようともがく機会を得た。そして、得られたさまざまな学びや教訓は自身の大きな財産となった。そして、後年のプロジェクト運営に大いに生かされることになった。
さて、水産室でほぼ4年間お世話になった後の異動先は、アルゼンチン海軍管轄下の「国立漁業学校」プロジェクトであった。
チュニジアでの体験を経ずしては、アルゼンチンでの同種のプロジェクト運営の責務を全うすることは到底できなかった。結局、
プロジェクトにとって最も大切なことは、プロジェクトに適格な人的資源を得て、良好な人間関係を維持しながらワンチーム
となってプロジェクトの使命に立ち向かうことである。JICA担当者はプロジェクトがいかなる困難な状況に直面しようとも、その運営
上の責務を放り出す訳には行かない。使命を完遂すべく全身全霊をもってプロジェクトに向き合い、最善の努力を尽くす必要がある。現地に赴任するJICAプロパーの業務調整員もまたしかりである。
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