南米大陸本土の最南端の町リオ・ガジェゴスに到着した翌日のこと、早速市街地に出向き旅行代理店を探し出し相談をしたところ、
全くとんでもない思い違いをしていたことにショックを受けた。自分としたことが無性に情けなくなった。リオ・ガジェゴス港
からカー・フェリーに乗れば、そのまま大西洋岸沿いに一路南航し、マゼラン海峡を軽く横切った後すぐにでもアルゼンチン領「
ティエラ・デル・フエゴ島」の中心都市ウシュアイアに渡れるものと、何の疑いもなく信じ込んでいた。ガジェゴスが大西洋から
同海峡へ回り込んだすぐのところに位置するものとばかり思い込んでいたのがそもそものとんでもない間違いであった。
旅に出る直前まで、「フェリーに乗ればすぐに渡れる」という友人の言葉をそのまま鵜呑みにして信じてしまった。
「ガジェゴスからそんなに簡単にフエゴ島へ渡れるのだ」と、自身で何の地理や交通情報も入手せず、また地図で確かめようとも
せず招いてしまった失策であった。それにフエゴ島に渡るフェリーがガジェゴス港から一日数便はあるものと思い込んでいた。
だが、そんなフェリー運航はどこにもなかった。アルゼンチン国土の大きさを改めて思い知らされた。
恥ずかしながら、リオ・ガジェゴスからフエゴ島の港町ウシュアイアまでの詳細なルートをずっと後で知った。ガジェゴスから
長距離国際バスで陸路を辿って一時間ほど南下した後、チリとの国境を通過しチリ領内に入る。そして、チリが運航するフェリーで
マゼラン海峡を渡り、フェゴ島に辿り着く。だがそこはまだチリ領内である。再びチリ領内を陸路で150kmほど辿った後、
アルゼンチンとの国境を通過して「ア」領に入る。しっかりと2回パスポートコントロールを
受けることになる。その後さらに、フェゴ島のウシュアイアへは陸路をさらに250kmほど辿ることになる。今でもそれが最も一般的なルートである。
距離にすれば何と東京から大阪ほど離れている。私は、他言するには余りにも恥ずかしいとの思いで、この失策の全てを心の中に封印した。
いずれにせよ、ブエノスのJICA事務所からはチリ国へ渡航する許可を得ていなかったので、飛行機で往復する以外に策は
なかった。
車をリオ・ガジェゴスに数日間ほど預けておいて、飛行機でガジェゴス・ウシュアイア間を往復する方法も考えた。だが、ガジェゴス
では数日前からかなりの強風が吹き荒れていたことに神経質になっていた。強風のなか一家4人で搭乗することに正直かなりの戸惑い
を感じていた。あれこれ悩んだ末、結局渡海を諦めた。次回いつの機会になるか分からないが出直すことにした。そして「マゼラン
海峡」を横断するという「夢」を一時封印した。それにまたウシュアイアは名高い「ビーグル海峡」に面しており、いつかはその海峡で
戯れてみたいという「夢」を心にしまいこんだ。人生で積み残したこの夢が実現できたのは、何と2011年にJICAから完全離職後さらに
5年も経た頃であった。つまり30年以上も後のこととなった。そしてその時に併せて、ウシュアイアにある昔の監獄を利用した
本格的な「海洋博物館」を初めて訪問することができた。兎に角遅くはなったものの約30後に夢を果たすことができた。
前節でも少し綴ったが、ガジェゴスまで後250kmほどの距離にプエルト・サン・フリアンという大西洋岸沿いの小さな漁村がある。マゼランがスペイン
から東方の「マルク諸島」(いわゆる香料諸島、現インドネシア領)を目指して世界周航の旅に出たのが1519年のことであった。ウルグアイの
モンテビデオ(現在の首都)に辿り着いて彼は部下にラ・プラタ川を探検させた。その結果、マゼランは、それは河川であって、
当時「南の海」と呼ばれていた海(後に「太平洋」と称された)へ抜け出ることができる水路ではないことを確認した。その後、彼はそれ
を求めてさらにパタゴニア沖を南下し続けた。だが、時季が悪くなり、ついに越冬することを決意した。
その越冬地がサン・フリアンであった。
今回の家族旅行時にはそのことを全く知らなかった。それ故に、国道から外れてすぐの距離にある
サン・フリアンに立ち寄ることはできなかった。サン・フリアンを訪れ、マゼランらが船隊を陸揚げし船底掃除や休養を行なったという
「サン・フリアン湾」の浜などをたむろしたのも、同じく30年以上も後のことであった。サン・フリアンでは町営の郷土博物館がある
ことを知り立ち寄った。そして、ある木片が厳重なガラスケースに入れられ展示されているのを拝観した。その昔
マゼラン船隊のうちの一隻が当時サン・フリアンの少し南方で難破したが、木片はその難破船のものとして展示されていた。それを観て
びっくり仰天大興奮を隠せなかった。
休題閑話。全くひどい思い違いのために、フエゴ島への渡海はそんなに簡単ではないことが分かった。家族のことを慮って
ウシュアイア行きを諦め、翌日には進路をアンデス山脈沿いに北方へと転じた。まず200km余り先のエル・カラファテを目指した。
カラファテはアンデス山系にあって壮大な氷河を目と鼻の先で見られることで世界的によく知られている。「ペリト・モレーノ」という大氷河が、その幅数㎞にわたり
「アルゼンチン湖」に崩れ落ちる。その大自然の光景は圧巻と言う他ない。
大氷河はまるで生きているかのように、不気味なうめき声というか、軋み音をたてている。一日数メートルほど下方へずり下って
いるという。崩落するその最先端では氷河がひび割れ、のこぎりのようにギザギザとした鋭い歯状になっている。そして、その先端部
が重力に堪えかねて、あちこちでドドーンという大音響と共に湖面へ崩落していく。その崩落の度に湖面には津波のような大波が立つ。
巨大な氷塊が崩落するのを氷河のすぐの対岸にある陸地から間近に眺めることができる。迫力満点である。観る者をして全身に鳥肌が立つ。
別日に、カラファテの近くの「プエルト・バンデーラ港」からアルゼンチン湖遊覧船に乗船して「ウプサラ氷河」を見学するツアーに
参加した。大氷河が湖に幅何㎞にも渡ってせり出し崩落するところを今度は船上から眺めることができた。湖面には崩落した大小数多
の氷河片が浮かび、船はそれらを慎重に避けながら航路を選びゆっくりと進んだ。
翌日は、いよいよ一日中砂利道を走行することになる「冒険」へと出立した。パタゴニアの中の最もパタゴニアらしい
オフロード的な区間であった。当日少し緊張した面持ちで朝を迎えた。目指すは750kmほど北方にあって、砂利道が舗装道に変わる
はずの辺境の町パソ・リオ・マーヨであった。カラファテから70kmほど北上すると、「ビエドマ湖」越しにそびえ立つアンデスの名峰
中の名峰である標高3,400mの「フィッツ・ロイ山」をついに遠望できた。そのピークはのこぎりの歯のように幾つもの峰が連座して
そそり立つ。そんな連峰の岩壁姿を暫く遠目に観ながら、砂塵を巻き上げて疾走を続けた。
ガソリン切れで立ち往生にならないか心配なので、20リットルの予備ガソリンを入れたポリ容器を最後尾に積んでいた。さすがにガソリンが
車内に臭った。1~2時間に1台ほど対向車とすれ違った。フロントガラスには対向車による跳ね石でガラスが破損しないよう頑丈な金網を
張り付けている対向車もあった。また5~6メートルはありそうな無線用アンテナを髙く伸ばし揺らしながら猛烈な勢いですれ違う車もあった。
途中小さな村を通過した折、念のためガソリン補給のためガソスタがあるかを尋ね歩いた。それらしきスタンドがあった。当該村民
専用のようであった。訊けば「今日はあるよ」という返事。もちろん取敢えず満タンにしてもらった。投宿予定地はまだまだ先こことで、
結局予備ガソリンをも途中で補給しながら、目的地とした町に何とか辿り着けた。途中で故障車に呼び止められ、応援車両の派遣を
求めるメッセージを次の村で伝達したりもした。
さて、砂利道をようやく抜け出たところの片田舎の町パソ・リオ・マーヨで投宿先を見つけ何とか落ち着いた。日本で600㎞以上にも及ぶ
砂利道を、予備ガソリン用ポリタンクを携えて走破するようなところは、はるか昔になくなっていることであろう。この日事故や故障もなく辿り
着けるか内心心配であったが、手に汗を握り息を詰まらせるようなスリリングなドライブを無事終えることができた。念のためタイヤ
を点検したら後部の一本がパンクしていた。チューブレスであったので何とか持ち堪えたようであった。少なくとも予備タイヤ一本は
必需なので、早速町のパンク修理屋を探し回り世話になった。
その後、アンデスの麓沿いに快適な舗装国道を北上し、エスケルという割りと大き目の地方都市に到着した。翌日エスケルの市街地
やアンデスの山々を空中散歩できるという展望台のある尾根へ登攀したりした後、200kmほど先にある「南米のスイス」と称される
例のバリローチェを目指してアンデス山系沿いに北上し続けた。バリローチェの数10㎞手前にある「マスカルディ湖(Lago Mascardi)」からさらに渓谷を奥深く分け入り、
ほどよいキャンプ地を見付けテントを設営することにした。今回の旅で二度目の大自然の中での野営となった。奥深い渓谷の中で
静かに水をたたえる湖、針葉樹林が鬱蒼と生い茂る森、ニジマスが棲息しそうな渓谷の中の清流、そして融解して大きな空洞を
見せる大雪渓などをのんびりと家族で散策したりした。
翌日からはバリローチェ郊外のドイツ系のロッジなどに投宿しながら、市街地中心部の目抜き通りをそぞろ歩きしたり、
ウインドウショッピングなどを楽しみ、これまでの4000kmほどの長旅の疲れを癒した。時に深い渓谷に抱かれたレストランで
ニジマスの丸ごとの塩焼きを食した。生まれて初めて味わったニジマスの美味な食感が印象的であった。
バリローチェからの帰途、400kmほど先に進んだリオ・ネグロ州の州都ネウケンへ移動し、そこでたまたま見つけた国道沿いのモーテル
で投宿した。モーテルには屋外に共同プールが設置されていた。未だ日没には余裕があり子どもと水浴びを楽しんだ。
翌日500km先のバイア・ブランカを目指した。ネグロ川とコロラド川との両岸間にある区間(チョエレ・チュエル(Choele Choel)と
リオ・コロラドの区間)にさしかかった。まさしく地図上に定規で直線を引いて、その設計通りに100km築道したという
真っ直ぐな道路を通過することになった。行けども行けども地平線から直線道が湧き上って来た。周りには見渡す限り低灌木しか
生えていないパタゴニアの荒涼とした大地が広がる。
100kmの区間に、川があろうと丘を上ろうと下ろうと、道には何一つ緩やかなカーブすらなかった。
そこをドライブするのは苦痛であり、通過したくはなかった。「アリス」のCDをセットし、「チャンピオン」などの曲の音量をマックス
にして、車内中にがんがん響かせながらひたすら睡魔と闘うしかなかった。
ボリューム一杯でも妻子3人全員がすやすや眠り込んでいる。時にブレーキを強く踏み込んでイタズラするが、目を覚ます気配もなく
まだまだ夢心地にいた。両手をハンドルに紐で縛りつけておきたかった。アクセルペダルに重石でも置いて、ペダルをずっと
押さえ付けておきたいような衝動にも駆られた。結局、距離100kmのドライブにおいてハンドル操作を一度もすることなく走破し終えた。
何という「運転手殺しの区間」であることか。ドライバーへの嫌がらせのために築道したかと思えるような道であった。恐らく建設費を
抑える意図も多少はあったのかもしれない。
こうして、バリローチェから3日掛けてパタゴニアを横断し、無事18日ぶりにマル・デル・プラタに帰投した。パタゴニアを大西洋
岸沿いに南行、さらにアンデス沿いに北上し、5,000km余りを駆け抜けた。生涯において、一回のドライブ旅行でそんな長距離の
走破をそうざらにできるものではなかった。私と家族のかけがえのない共通体験となり、その思い出を大事にしまい込んだ。一度も睡魔に
襲われ危険極まりない居眠り運転を犯すことなく、一人で何とか運転しきった。今更ながら家族全員の
若さに感謝。青春万歳と叫びたいほどの衝動を感じた。
さて、パタゴニアへの旅から半年が経ち季冬の長期休暇の時を迎えた。離任する予定にしていた1987年3月までまだ実質1年半余りあった。
そこで、今度は、南ではなく、アンデス高地の未だ見ぬ北の大地、それもボリビアとの国境の町を目指して再び遠出を試みることにした。パタゴニアへ旅した年と同じ1985年の冬のことである。「ア」国は実に広大であった。国土面積の狭い
発展途上国への赴任であったならば、3年も暮らすのであれば休暇一時帰国の権利を利用してほぼ間違いなく、その名の通り家族を伴って
日本へ一時帰国するか、どこかの先進国に健康管理旅行に出かけるのが普通であろう。だが、「ア」国赴任中、一時帰国も一度たり
ともブラジル、チリ、ウルグアイなどの「海のある隣国」すらそのような旅行にでかけることはなかった。私的には「ア」国はそれだけ広大
で訪れるに魅力的な土地に溢れていた。
かくして、車に再び生活用具一式を積み込んで、「ア」国第二の大都市コルドバへ一気に駆け上がった。そして、トゥクマン、
サルタ、フフイの3州のアンデス山系を巡った。またしてもマル・デル・プラタとボリビアとの国境の町ラ・キアカとの往復
などで4,500㎞ほどの長旅になってしまった。3州にはスペイン植民地時代の面影が色濃く残っていた。コロニアル様式の古い荘厳な教会や
政府庁舎などの建物、その他コロニアル風一般家屋も多くみられた。また、我々と同じモンゴロイド系インディヘナ(インディオ)
が多く暮らす町や村々の風景が異国情趣を醸し出していた。サルタは1582年にボリビアから南下してきたスペイン人によって
建設された植民定住地である。そして、ボリビアのアンデス山中のポトシにて、1945年頃
開発された鉱山から産出された銀のインゴットなどをブエノス・アイレス経由でスペイン本国へ運ぶ中継地として栄えた地方都市
でもある。今もその植民地時代における繁栄を垣間見ることができる。
特に「ウマワカ(Humahuac)」と言う、フフイとラ・キアカとの間にある「ウマワカ渓谷」の中心の町は、インディヘナが多く暮らす
観光地として名高い。ウマワカでの出来事ことであるが、インディヘナの音楽グループが民族衣装を身にまとい、アンデス地方の
伝統的なフォルクローレを聴かせてくれるというレストランを知った。それは良い機会と、人生で初めて、チャランゴやケーナ
などによる生演奏で、「花祭り(エル・ウマワケーニョ)」「コンドルは飛んで行く
(コンドル・パーサ)」、「カルナバル」などのアンデスのフォルクローレを本場で聴くことができた。たったそれだけ
のことだが、家族で聴き惚れ酔いしれ感激の涙であった。
最も印象に残るもう一つは、ウマワカ渓谷における、今まで見たこともない山岳風景である。同渓谷は「南米のグランドキャニオン」と呼ばれる
らしい。山々の稜線から裾野にかけて地層がむき出しになって連なる。地層は豪快に大きく褶曲し波打つ。各層には異なる鉱物が
含まれるようで、各鉱物特有の色彩を放っている。大きく褶曲し何層にも重なって露出する壮大な地層は、虹色のようなグラデー
ションに彩られる。生まれてこの方こんな豪快な地層の造形美を見たことはなく魅了された。
またアンデスの山あいの渓谷には荒々しい原野が広がり、その中に巨大なサボテンが点在して生えるという独特の風景を産み出している。
ウマワカ渓谷とその周辺にはインディヘナの村々が点在し、アルパカやリャマなどの動物との素朴な暮らしぶりを垣間見ることができる。
ウマワカからさらに北上しボリビアとの国境の町ラ・キアカに向かった。高度はアップダウンを繰り返しながら高度4,000m以上も
ある峠を越えた。ウマワカのガソリンスタンドでキャブレーターのガソリン噴射性能の調整を行った。ところで、アンデス高地では、
ホテルの部屋は一階から上階へと順次埋まっていく。日暮れ近くにチェックインしたために最上階の3階の部屋しか空いていなかった。
しかも、エレベーターがたまたま故障中だったので、家族4人分の身の回り品だけでも、3階まで何度も往復して運び上げねばならかった。
高山病に罹らないように、ゆっくり一歩一歩踏みしめて1時間ほどかけて担ぎ上げた。車で3~4,000m級の高地をアップダウン
していたこともあって、高度にかなり馴致していたのであろうか、頭痛を免れほっとしながら缶ビールを少しずつ味わった。ただし、熱い
シャワーを浴びることはやめておいた。
ラ・キアカに辿り着き、国境のゲート前で車を止めた。向こう側にボリビアの町風景が垣間見えた。国境を越える予定がなかったので、
JICA事務所の渡航許可証はなかった。しかし、ゲートを前にしてボリビアへ一歩足を踏み入れたくなったが遅きに失した。
後に地図を紐解くと、ポトシは300kmほど北のアンデス山中にあった。1545年頃スペイン人がそのポトシで銀山を発見しインディヘナを
こき使って開発した。その後の銀産出量は莫大なもので、スペイン王国に富をもたらし続けた。それらの銀のインゴットの多くは
ペルーのリマへ運ばれ、船でパナマ・シティへと送られた時期があった。南米の金銀財宝はパナマ・シティからパナマ地峡の
ジャングルを通る「カミーノ・レアル」という王の道を経て、カリブ海側のポルトベーリョの港へと運ばれた。
ポルト・ベーリョでスペインのガレオン船に積み込まれ、キューバ島のハバナへと移送された。南米大陸北岸のカルタヘナなど
の他の港からも運び出された金銀財宝と合わせて、本国から年1回仕立てられてスペイン本国からやって来る船団に積み込まれ、
本国セビーリャへやカディスへと運び込まれた。スペイン王室は長年にわたる銀の採掘によって、王国の財政が支えられ国家の
繁栄がもたらされたことは歴史が示すとおりである。そんなポトシまではラ・キアカから国境からポトシまでおよそ300kmの距離であった。
2日もあれば十分往復できる道のりであるが、またしても国境を越えることはなかった。14年後に隣国のパラグアイに3年赴任
する機会があったが、ポトシへの旅は実現できなかった。パラグアイ赴任中ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど
「海のある隣国」を旅することに大半の時間と資力を費やしてしまったからである。
1986年夏季に再びバリローチェへ旅した。今度は最短コースでマル・デル・プラタからバイア・ブランカ、ネウケンを経てバリローチェ
へ出掛けた。最初のパタゴニア周回の度でのバリローチェからマル・デルへの帰途の逆コースであった。今回は大移動せず、バリローチェをベース
にその周辺の森や湖、渓谷をゆっくりと巡って過ごした。
実はさらにもう一度バリローチェへ旅した。本帰国する少し前の1987年夏季に森リーダーの家族と飛行機でバリローチェへ向かった。
現地でレンタカーを借りて周辺の森、湖、渓谷を案内した。帰りは大失敗して、航空券に手書きされたフライト時刻を読み間違ってフライトを
ミスした。やむなく、マル・デル生きの長距離バスに乗車し、24時間かけて帰着した。それはそれでよい体験ができたと森リーダー家族に
慰めを言ってもらった。
バリローチェへの旅とともに夏期休暇は終わり、業務や生活面のあらゆることが一段と気ぜわしくなり始めた。半年余り後の離任を
視野に入れつつ総仕上げのモードに入って行った。そして、年が越えると正に帰国の準備や引き継のそれに追われた。
交代の長期専門家を迎える頃には、マル・デル・プラタに別れを告げる日が迫って来た。
アルゼンチンでの仕事や生活を通じてたくさんの大中小のエピソード、驚嘆のありえないエピソードから、それこそがラテン系異
文化とエピソードと思えるもの、さらに「へえ! そうなの」という軽めのエピソードまで、たくさんの挿話が生まれた。
次節ではその幾つかを紹介したい。是非読み飛ばすことなく次章へとページをお進めいただきたい。
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