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    第8章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その1)
    第4節 チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)


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       第8章・目次
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する [付属資料]JICA水産室時代に おける海外出張略履歴
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その1)
      第4節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)
      第5節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その1)
      第6節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その2)
      第7節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む



  さて、「チュニジア国立漁業訓練センター」プロジェクトにまつわる幾つかのエピソードへテーマを移すことにしたい。1980年代初め、 ファックスもパソコンも、さらにインターネットもない時代であった当時、日本・チュニジア間の通信手段はもっぱら国際航空 郵便であった。国際宅急便の「フェデックス(Fedex)」が当時業務用に頻繁に利用できたという記憶は殆どない。緊急の場合にあっては、 国際電話か国際電報による通信が頼りであった。

  当然、電話や電報をもってしては、物品は勿論のこと画像や設計図も送れなかった。2025年の現在とは全く想像もつかないほど制約の多い 通信事情にあった。国際郵便では往復に2週間以上もかかり、現代からすれば実に超スローなアナログ時代であった。 それ故に、いずれの技術協力プロジェクトでも、当時ならではの大変有り難い予算を計上することが認められた。

  即ち、毎年一回だが、日本側関係者がプロジェクトサイトを訪れ協議するための予算が支弁された。JICA専門家、カウンターパートの他、 両国のプロジェクト関係者(チュニジアの水産局長、日本大使館書記官らを含む)が膝を突き合わせ、プロジェクトの現況や課題、 評価、計画調整、課題への対応策などについて協議したりして、関連情報を共有し、もって全関係者のベクトルを合わせながらプロジェクト を前に進めるためであった。当時としては、関係者が一堂に会して対面形式にて情報共有と意思疎通を図ることは、プロジェクトの円滑な 運営と計画達成にとって大変意義深いことであった。インターネット会議が普及する 現代では、こんな「贅沢な」現地訪問による現況視察と打ち合わせは許されないかもしれない。

  私が担当者として初めてチュニジアへ調査団を組織し派遣したのは1981年3月のことであった。その「打ち合わせ調査団」を 組織するに当たり、水産庁国際協力室から団長候補者として推薦されたのが、「水産庁・水産工学研究所」の研究室長であった 森敬四郎氏であった。森氏は定置網などの漁具設計を担う研究室の責任者であった。大変温厚で知性に溢れ、懐が深く包容力のある 紳士であった。英国育ちの紳士であるかのような立ち振る舞いからして、まさに「ジェントルマン」というニックネームを献上したい くらいであった。

  森氏との出会いと、チュニジアへの公務出張の共通体験がなければ、その後の私の人生はまるで違った「航路」を歩んでいたに違いない と思うほどである。森氏を団長にしてチュニジアへの初出張をこなした後、さらに2回も同じプロジェクトのために、団長として 御足労をいただいた。森さんと私は、公私共々色んな場面で波長が上手く重なり合い、いつしか両人の歯車がしっかりと噛み合うよう になった。そして、互いの距離が目に見えて縮まり、互いに気心が知れる間柄になって行った。

  森さんとは、後に、アルゼンチンでの「国立漁業学校プロジェクト」にリーダーとして赴任していただいた。そして、アルゼンチン 赴任中も、また帰国後も家族同然にお付き合いをいただき、常日頃ハッピーな気持ちで過ごすことができた。

  チュニジアへ初めて出張を共にした頃にあっては、先々二人の関係がどうなって行くのか何の見通しももたなかった。だが、森さんとは その後生涯にわたりお付き合いをさせていただくことになった。そして、私たち家族の人生や日々の生活は何かと豊かで有意義な ものとなった。チュニジアへの初出張での出会いがその後の親密な人間関係を育み築く上での起点となったことを、ずっと後に認識する ことになった。更に言えば、森さんは私の第二の「父親」と思えるほどに敬愛し、身近に感じられる存在となった。

  さて余談が続くが、当時チュニジアに渡航する場合、ヨーロッパのいずれかの都市で一泊投宿することが認められていた。というのは、 チュニジアはアフリカ大陸北部に位置するものの、国際航空業界では同じヨーロッパ圏内にあると見なされ、ヨーロッパのいずれの 主要都市を経由地にしても、またそこで一泊してもしなくても、正規料金を払う乗客には同一航空運賃が適用された。ヨーロッパの都市 を覗き見る絶好の機会をもてることを意味していた。市中滞在が数時間しかないなか駆け足で散策した直後チュニジア入りしても、 あるいは一泊してじっくり街を探索したとしても、往路・復路のそれぞれに経由してみたい都市を一つ、あるいは時に二つを 選択して、街をどう散策するかあれこれと思案するのも楽しみに一つであった。

  ヨーロッパの経由地においてホテル・チェックイン後すぐさま飛び出して他団員らと共に市中を散策することがいつものパターン であった。異国の街中に身を置き、行き交う人々や通りすがりの風景を目にし、何かを感じ、時に脳裏に強烈な刺激を 受けることにつながった。社会・歴史・文化的な好奇心を全開にして、皆でお上りさんになってそぞろ歩きするのは、海外出張のいわば 「おまけ」のようなものであった。ましてや、初めて訪れる地であれば、なおさら見るもの聞くもの超新鮮で、自ずとテンションが上がった。

  他団員の希望に配慮しながら、日本・チュニジア間の3度にわたる往復で、ヨーロッパの経由地として6都市以上に足を踏み入れた。 昼夜を問わず街中に身を置き、好奇心を全開にして社会・文化的見学を楽しみ経験値を高めた。とはいえ、過去何十年も前の体験であり、 またその後に別用で何度か出掛けた公務出張や個人旅行の記憶がごちゃ混ぜになり、最近では何時のことであったか曖昧模糊になる ことが多くなってしまった。

  チュニジアへの初めての往路ではロンドンを経由地に選んだ。最も感涙したのは例のテムズ川であった。世界にかつて君臨した 大英帝国、その帝都ロンドンの市街を流れるテムズ川の水は世界に通ずるといわせしめた、そのテムズ川の畔に初めて立った時の 感激は強烈なもので、全身に鳥肌が立つほとであった。団員皆で完全にお上りさんになって、寸暇を惜しんで、陽が落ちるまで、 一目だけでもあれこれが見たいと駆けずり回った。

  時にロンドン名物のタクシーにも乗車して、バッキンガム宮殿、ビッグベンを擁する国会議事堂、ロンドン・ブリッジなどをうろつき回った。 お上りさんが端から我々を見たとすればさぞかし滑稽に見えたに違いない。当時、「英国銀行」の地下に眠るという、「トラファルガーの 海戦」で英国を大勝利に導いた「ホレーショ・ネルソン提督」の柩にお目にかかった(とはいえ、その記憶は曖昧に残影するのみである)。 グリニッジの屋外ドックヤードに係留される「カティ・サーク号」や、その少し先にある「国立海洋博物館」へ足を伸ばす余裕 などはまだ持ち合わせてはいなかった。

  ある時はパリを経由した。シャルル・ドゴール空港からバスで市街地の「オペラ座」近くにあるホテルへ移動した。バスがパリ市街地 中心部に入り、車窓から街風景を初めて眺めた。目に飛び込んでくる大通り沿いのパリ独特の風景は、華やかさと煌びやかさに溢れ、何か 特別のものを感じながら息するのも忘れて魅入った。日本の都会風景とはまるで次元の違う異界に足を踏み入れたかのようであった。要するに、 「華のパリ」的風景に鮮烈な感動を覚えた。今でも心に受けた当時の衝撃波は生涯忘れえぬものとして遺されている。1980年代初めの 頃である。

  パリでも団員揃ってすっかりお上りさんになってしまった。「凱旋門」から「シャンゼリゼ通り」をそぞろ歩きしながら、「コン コルド広場」辺りまで下った。陽がすっかり落ちて歩道はかなり暗かった。通りに面した高級ブティックやジュエリー専門店、旅行会社、土産物店 などの明かりを頼りに、落ち葉で足を滑らせ骨折などしないように摺足で歩いたことを思い出す。日のあるうちに「モンマルトルの丘」にも登り、 画家たちが向き合うキャンバスに、全くもって随分と遠慮がちに背後からそっと覗き込んだりもした。お上りさんになるのも決して悪くはなかった。

  二回目のパリでは次はこれを見たい、あそこにも立ち寄りたいと、欲が出てくるのも止む得なかった。勿論、エッフェル塔に登ってパリ の四方全景を見渡したり、「ムーラン・ルージュ」でパリジェンヌのカンカン踊りなども、当時はおまけのサービスとして航空会社支給 の無料券(バウチャー)で楽しむ機会にありつくことができた。とにもかくにも、パリの「超洗練」されたと私には思える 街並みの美しさや華やかさに魅了され続けた。正直、日本の都市にはない「美」に魅入ってしまった。そして、パリ風景の余りの美的異次元性に 衝撃を受けた。1981年3月頃のことである。

  時に、オランダのアムステルダムを経由した。スキポール国際空港から電車で市街地中心部にある「中央駅」に降り立ち、 最初に出会った街風景の異趣に仰天した。私的には、まるで「お伽の国」に足を踏み入れたような錯覚に襲われた。また、アムステルダムは まさに運河の都市であった。お上りさんになって、縦横かつ扇状に伸びる運河のボート遊覧を楽しんだ。勿論、運河沿いに団員皆で あちこちそぞろ歩きをした。

  散策の途上で偶然にも運河沿いの小道に「飾り窓の女」の館がずらりと軒を連ねる風景に巡りあった。その館通りに沿って女子高校生 らしい一団が、先生に引率されて散策する姿をみかけた。彼女らは、全く悪びれる風も、また気恥ずかしい風も見せず、飾り窓の中の女性 に目をやるのかやらないのかガヤガヤとざわめきながら「社会科見学」をしていた。通りすがりにそんな場面を目にした私は、余りの 社会・文化的ギャップに唖然とし言葉も出てこなかった。観察している私の方こそ何か気恥ずかしさを感じるくらいであった。

  歩き疲れたため、団員皆して、飾り窓の通りに並行する運河に架かる小さな橋の袂で見つけたオランダ風居酒屋(バール)に立ち寄った。 ビールの大ジョッキを傾けながら一休みし、チュニジアでの仕事疲れを暫し癒し英気を養った。明日は日本へ向かう日の前夜のことであった。 余談であるが、中央駅からそう遠くないところに「国立海洋博物館」があることをずっと後で知った。その訪問を実現できたのは 25年ほど後になってからである。

  ある時はドイツのフランクフルト経由を試してみた。初めてのドイツ経由であった。ドイツは他のヨーロッパ諸国とは異趣の風情を 漂わせていた。路線電車で市街中心部に出て「ゲーテ博物館」などを訪ねるのが時間的にみて精一杯であった。ドイツの街並みのイメージとしては、 豪快に大ジョッキを飲みながらジャンボな腸詰を味わうのがぴったりである。

  さて、時にはローマ経由を選び、お上りさんになって、半日市内観光ツアーバスに飛び乗り、車窓からコロッセオなどの古代ローマ 遺跡などを垣間見た。通りすがりにせよ一瞬でも本物を目にして、瞼のシャッターを開閉させ眼球の奥のスクリーンに焼き付けることが、 私的には大事であった。通りすがりの瞬間的焼き付けであろうとも、皆してその場に居合わせ見ることこそが経験値と幸福度の アップに繋がると信じていた。また、海外出張時の経由地における「おまけ」のような立ち寄りの醍醐味であろう。何時の日にか その地に舞い戻ってじっくり散策する機会をもてることもあろうといつも期待していた。

  3度目のチュニジア出張時のこと、ある一つのことに気付いた。ようやく気付いたと言えた。経由地でお上りさんになることに 便乗して、経由地で「海や船」に関わりのある何かをこまめに訪ねることをアイデアとして思い付いた。何か海や船にまつわる歴史・文化的施設や史跡を見たい、見てやろうという意欲が芽生えた。チュニジア渡航も最後ということもあって、経由地の選択とその訪ねたい具体的海洋 歴史文化施設につきターゲットを絞り込むことにした。デンマークのコペンハーゲンを帰途の経由地に選んだ。そして、目的意識 をもってまっしぐらに出向いたのは、コペンハーゲンの郊外にあるロスキレという港町に所在する「バイキング博物館」であった。

  他団員に事前に納得してもらって、市内のホテルから割り勘でタクシーに乗り込みロスキレに向かった。「バイキング博物館」では、 ロスキレの沿岸沖の海底に埋没していたバイキング船が発掘され展示されていた。発掘された外板を鉄製の骨組にパズルを合わせるように 丁寧に張り合わせた、3艘ほどの船が復元されていた。初めてみるバイキング船の実物に団員皆が魅了された。タクシーで団員を引き回し、 一人100ドルも散財させてしまったが、それだけの価値は十分あったと納得してもらえたことで、内心ほっとした。

  経験値は異国での社会見学によって随分と高められることに繋がった。異国の通りすがりの都市や田舎町において、時間の合間を縫いながら 寸暇を惜しんで何かを見学するというのであれば、「海や船」と少しでも関わりをもつ歴史・文化施設や史跡などに立ち寄ってみることにした。 立ち寄って見学するのにも時間とエネルギーが必要である。当時はまだまだ体力・気力ともにエネルギーに満ちていて、合間 をくぐり抜けて動き回るには十分若いといえる歳頃にあった。それに、大抵は好奇心が旺盛な他団員との出張であったことに恵まれた。そして、 そのことが奏功して、トランジット地においていろいろと見聞を広めることができた。

  異郷の町を通りすがりにちらりと覗き見るにせよ、寸暇を惜しみつつも気合を入れて何がしかの文化施設や史跡を探索して回るにせよ、 それは海外出張における余暇時間をフルに活かした楽しみの一つであった。初めての町であるならば、その町に体や目を慣らすためにそぞろ 歩きをするのも良い。時にはベンチに腰掛けて往く人々を眺めたり、鳥のさえずりを聴いたするのも、何がしかの潤いをもたらしてくれる。私的には、余暇時間をもって寸暇を惜しんで貪欲に街をあちこち散策しながら、何か絵になる被写体を探し回るのが自己流の楽しみ方であった。ヨーロッパの 幾つかの経由地でのそんな探索や散策は、人生を彩り豊かなものにしてくれた。

  さて、チュニジアではプロジェクト・サイトのマディアだけでなく、水産事情を知るために幾つかの地方都市の漁港や魚市場なども公務で 訪問した。その道中で思いがけず、古代ローマ時代の遺跡風景に出くわしたりもした。マディアから南下すると チュニジア第二の都市で大漁港を擁するスファックスがある。その時にプロジェクトの計らいで少しの時間寄り道をして、スファックスから 少し内陸部に入った片田舎の村・マトマタに立ち寄り、社会見学を通じて見聞を広めた。

  マトマタはサハラ砂漠へ通じる地方幹線道路のほんの入り口にあって、ナツメ椰子などの樹木が生い茂る緑豊かな森を擁するオアシスであった。砂漠ばかりの荒涼とした無生物的世界から突如として、人間が暮らす森の世界が現われた。これが書物に言う「オアシス」かと、 自身の目を通してオアシスの具体的イメージを育むことができた。マトマタには北アフリカ地域に暮らす先住民のベルベル人が多く居住する。 地下に向かって直径・深さがそれぞれ10~20メートルほどもある巨大な竪穴を掘り、その穴の側面に横穴式住居を刳り抜き生活している。

  チュニジアは古代ローマ時代の遺跡が随所にみられ、その宝庫であることを誇っている。エルジェムという内陸部の地方都市には、 古代ローマ時代の大きなコロッセオが遺されている。現在ローマ市内に遺される古代コロッセオと比肩できるもので、 世界三大コロッセオの一つとされる。

  チュニス近郊には、古代ローマ時代にチュニスへ上水道を引き込むために築造されたレンガ造りの壮大な「水道橋」が何キロにもわたり 天空にそびえ連なっている。マディアからチュニスへ戻る通りすがりに、そのような歴史的建造物に暫し足を止め、史跡を仰ぎ眺めた。 唯それだけのことであるが、その後チュニジアの歴史文化への好奇心を掻き立てるきっかけを得ることができた。

  イスラム圏の都市には大抵「メディナ」と呼ばれる、城壁に囲まれた旧市街がある。そして、その一角には政治・行政的中核をなす 「カスバ」がある。首都チュニスのメディナの入場門をくぐり抜けると、近代的都会風景から一変して、イスラム文化の鮮烈な景色と香りが充満 している。異国情緒が感じられるイスラム風の伝統的な路地裏的風景に圧倒されその魅力に引き込まれる。狭い路地が迷路の ように入り組み、出口がどちらの方向にあるのか、角を曲がるたびに方向感覚が失われて行く。案内人が同行してくれていたので 事なきを得たが、一人で初めて足を踏み入れ迷い込んだとすれば、不安を募らせながら迷路を彷徨い続けたことであろう。

  地方の田舎道を辿ると、大抵ある田園風景に出くわす。見渡す限りに濃緑色のカーペットを敷き詰めたようにオリーブ畑が広がる。 そして、ロバに引かせた荷車に幼い子どもたちを乗せ、ロバを巧みに操りながら家路を急ぐ老農夫とすれ違う。牧歌的風景に何か癒される ものを感じる。ロバ引き荷車を眺めていると、時間が止まっているかのようにも感じてしまう。

  もう一つのチュニジア的風景に出会った。チュニスの北の郊外に有名な「カルタゴの遺跡」がある。その近く で、これぞチュニジアを代表する彩りを発見し魅了された。住宅の外壁はすべて真っ白に塗られている。そんな白亜の住居に、太陽の明るい光が さんさんと降り注ぎ、いかにも眩しく反射する。どの家の窓枠や玄関扉全てに、決まって色鮮やかな原色的ブルーカラーに染められている。 遠くには二つのブルーが融合していた。地中海のオーシャン・ブルーとその天空のスカイ・ブルーである。窓枠と扉の原色的ブルーは地元では 「チュニジアン・ブルー」と呼ばれる。

  チュニジアには三度足を踏み入れ、時に地方への移動途上において、あるいはほんの少しだけ寄り道をし時には大回りをして、 いろいろな自然風景と社会文化的史跡などに触れた。他者から見ればそのような体験は取るに足らないものと片づけられるかもしれない。 だが、私にとっては意義深いものである。プロジェクトへの愛着や情熱を高めるための「ビタミン補充剤」となった。プロジェクトへの取り 組みを後押しするためのエネルギーとなって自身に還流してきた。知的好奇心を全開にしながら、チュニジアの歴史・社会・文化などに理解を深めれば、プロジェクト担当者としても、また個人的にもそれへの愛着・愛情も深まり、一層真剣に向き合い取り組むためのエネルギーを湧き 起こしてくれた。

  さて、寄り道で見た風景の中で、最も興味をそそられた歴史・文化的風景は、「カルタゴの遺跡」の寸景であった。 カルタゴは、現在のレバノン辺りで繁栄した古代の「海洋民族フェニキア人」によって創建された植民都市であったという。 それに特別の興味をもっていた。現地に遺された遺跡の殆どは、古代ローマ時代のものであり、それも廃墟同然の体を成していた。 しかし、それだけでも自身の目で垣間見れたことに大きな意義を感じることができた。

  最初のチュニジア訪問時のこと、週末に専門家らに誘われて立ち寄ることができた。カルタゴは、チュニス郊外の大統領官邸近くの、 地中海に面する丘にあった。カルタゴ時代に築造されたという港や造船所の跡があるらしいが、そのことはずっと後で知った。 それ以来実物を見る機会に出会えてこなかった。そして、機会を逃したという残念な思いをずっと引きずって来た。当事垣間見れたのは 古代ローマ時代の「大浴場の跡」とその背後に広がる地中海だけであった。

  フェニキア人は紀元前2000年頃、現在のレバノン辺りの地中海沿いの狭い土地に限定されながら暮らしていたという。熟練した船乗りであった 民は、地中海西方に目を向け、船を操り交易活動を活発にしていた。そして、北アフリカ沿岸、スペイン南部沿岸、その他シチリア島 などの島嶼に植民地を建設して行った。紀元前814年にはカルタゴの地に植民地を創建した。古代ローマの建設よりも60年ほど 早いとされる。なお、カルタゴ発祥の地とされる「ビュルサの丘」には貯水槽、6階建ての住居、200余りの船を収容できる円形軍港もあったといわれる。

  ところで、紀元前3世紀中頃から前2世紀前半まで3回にわたり、古代カルタゴは西地中海の覇権を巡ってローマと戦争を繰り広げた。いわゆる 「ポエニ戦争」である。「ポエニ」とは、ローマ人がカルタゴ人のことをそう呼んだものである。カルタゴは、古代フェニキア人が 現チュニジアの地に創建した植民市を起源にして発展した商業国家であり、最盛期には50万人以上の人口を擁する大都市であったと言われる。

  さて、「第一回ポエニ戦争 (前264-前241年)」ではローマが勝利し、その結果ローマははじめてシチリア島を最終的にその属州とした。 「第二回ポエニ戦争 (前218年~前201年)」で、イベリア半島南岸のカルタヘナに進出していた カルタゴのハンニバル将軍が、スペインから強靭な象の部隊をも引き連れ、果敢にピレネー山脈を越え、さらにアルプスをも越えてローマに迫った。前216年には「カンネーの戦い」で勝利した。だがしかし、ローマを直接攻撃するには至らなかった。後に反撃に転じたローマのスキピオ将軍 の部隊は北アフリカに上陸し、前202年にカルタゴ近郊の「ザマの戦い」において、カルタゴ軍を撃破し敗北させた。

  「第三回ポエニ戦争 (前149年~前146年)」では、ローマはカルタゴを完全に滅亡させた。カルタゴおよびその全領土を徹底的に破壊し 尽くし、市民を殲滅したうえで「属州アフリカ」として支配した。カルタゴ総人口50万人のうち生き残った55,000人のカルタゴ人は奴隷 として売られたという。

  かくして、カルタゴの都市は跡形もなくなった。古代都市カルタゴの廃墟は残存するようで実は殆ど無くなり、荒れ果てた土となって 地中に埋もれてしまったといえよう。現在チュニス郊外にわずかに跡を留めるが、浴場跡も含めその殆どは古代ローマ時代のものである。 ポエニ戦争に勝利したローマは、西地中海の覇権を掌握するとともに、多くの属州を獲得し大帝国への道を歩み始めた。カルタゴがローマに 勝利していれば「カルタゴ大帝国」が生まれていたのかもしれない。

  なお、紀元後698年には、ローマの植民市カルタゴは、アラブ人によって破壊され、イスラムの世界へと移り変わって行った。 チュニス市内の「国立バルドー博物館」には、古代ローマ時代の色彩タイルで描かれた モザイク画のコレクションが数多く展示される。三度にわたるチュニジアへの出張を機に、古代フェニキア、古代ローマ、さらには中世のベネチアや ジェノバなどの地中海海洋都市国家、ビザンツ帝国、オスマン帝国などによる地中海を巡る覇権争い、社会・文化的融合の歴史、地中海 交易などに少しずつ関心が向くようになった。海外出張はいつも知的好奇心を掻き立て、学びへの意欲を高めるきっかけをもたらしてくれる 有り難い存在である。

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    第4節 チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)


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      第7節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む