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    第8章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その1)
    第7節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む


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       第8章・目次
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する [付属資料]JICA水産室時代に おける海外出張略履歴
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その1)
      第4節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)
      第5節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その1)
      第6節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その2)
      第7節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む



  1980年1月から勤務した水産室での4年間のうちの最初の2年半に担当したプロジェクトは、いずれもイスラム文化圏に属する 国々を対象とするものであった。非イスラム圏唯一のプロジェクトは、西太平洋ミクロネシア地域のパラオの「カツオ一本釣り 訓練プロジェクト」くらいなものであった。

  時を経るにつれてふと思うことがあった。当時水産室でなおも新人であった私には、イスラム圏諸国の案件が どうも意図的に割り振られているのではないかと思うようになった。ミクロネシアの例外がなかった訳ではないが、水産室に配属 されて以来担当していた案件は、イスラム文化圏のチュニジアの「マディア漁業訓練センター」、アラブ首長国連邦の「水産 増養殖センター」、そしてインドネシアの「沿岸養殖センター」などのプロジェクトであった。

  イスラム文化圏諸国の案件ばかりを担当すると、他地域の異文化や人々と向き合う機会が少なくなり、 国際理解が偏ったものになるのではないかという独善的な解釈の下、そのような懸念を抱いていた。日頃からそんな思いが 頭の片隅に沈積していたのであろう。中南米地域などのプロジェクトも担当したくて、ある日のこと水産室で机を並べる同僚・ 先輩職員たちに聞こえるように、「イスラム諸国の案件がやたらと目立つ。誰か他の地域の案件と交換してもらえませんか」と、 彼らにバーター取引を求める「独り言」を吐露した。1982年中頃のことであった。それは冗談というよりは、本気度の方がすぐる 独り言の発信であった。

  かくして、ある先輩から譲ってもらったプロジェクトの一つは、中米ホンジュラスで実施途上にあった「カリブ海沿岸水産資源調査」であった。 JICAに奉職して初めて太平洋を越え中米に業務出張できる可能性を得て大いに喜んだ。それにまた、生まれて初めて カリブ海に面するウォータフロントに立つことができるというので、二度有頂天になって喜んだ。だが、太平洋越えやカリブ海での ビーチ散策のことを思い浮かべて有頂天になる姿を見せるのは余りにも恥ずかしかった。そこで、周りに悟られないように席を立って トイレに向かった。私的にはその後、仕事への情熱や士気、また心の満足度も格段に上昇した。先ずその水産資源調査のことから触れたい。

  ホンジュラスでの「カリブ海沿岸水産資源調査」は水産室でも珍しいプロジェクトであった。自身にとっても これまで担当経験のないカテゴリーのプロジェクトであった。首都テグシガルパは中米地峡の山あいにあるが、その北西部 のカリブ海にほど近いところに同国第二の都市サンペドロ・スーラがある。

  スーラから北50kmほどの地にプエルト・コルテスという カリブ海に面するかなり大きな港町がある。水産資源調査を行なうためのJICAチームの拠点がその港町に設営されていた。同地ではリーダー、漁労、 調査船の機関の3名の専門家が活動していた。私は当該案件の「作業監理調査団」の一員として、 資源調査の現況や課題を掌握し、その円滑な実施を促進するというミッションをもって現地へ赴いた。1983年2月初めの頃で、日本では 真冬であったが、亜熱帯地域に属する現地は暖かくて快適であった。

  水産資源調査の地理的範囲としては、プエルト・コルテス港から100km余り東方にあるカリブ海沿岸の漁師町ラ・セイバと、そこから もう少し東にあるトルヒーヨという漁村までの間にある地先沿岸水域であった。10トンクラスの新造小型調査船を日本から持ち込ん だ。だが、前任の担当者から聞いた話によると、プエルト・コルテス港で貨物船から同調査船を陸揚げする最中に、 事もあろうに落下の憂き目に遭い海中に没してしまったという。

  即刻に保険求償がなされ再び調査船が建造され送り込まれたものの、調査はかなり遅れて着手されたという。そんなことが 私が担当する前に起こっていた。魚探、測深器、レーダー、その他引き網、刺し網 などの漁具をフル装備していた。プエルト・コルテス港を拠点にして、沿岸水産資源の賦存状況全般、特に商業的開発 の可能性のある有望な浮き魚類の推定量などを定量的・定性的に探るのがミッションであった。地先沖合いを一定間隔で曳網 などを縦横に引き回すことで試験操業を繰り返した。他方、陸上ではそのデータ解析に取り組んでいた。

  二年近くにわたる当該調査の結果、やはりサメ類が圧倒的優越種であった。それ以外のハタ、スズキなどの市場価値の高い魚類や カツオ・マグロの高度回遊性魚類の資源量は少なかった。なお、ロブスターやエビなどの商業価値の髙い甲殻類については、 調査の対象外であった。甲殻類は米国系大資本による独占的捕獲の対象となっていたので、ホンジュラス側としては調査対象とは したくなかった(あるいは、できなかった)ようである。

  調査結果として、多獲性魚種として目ぼしいものはサメ類くらいなものであったので、一般漁民の期待に応えることができなかった。 練り製品の原料やフィレの干物を製造できる可能性はあった。鮫の捕獲を大々的に推奨することも一策として考えられた。だが、 その集中的な漁獲の結果として乱獲を招きかねないリスクもあった。そのため、それを推奨することはどうしても抑制的にならざる をえなかった。

  3名の専門家による調査結果は、彼らが帰国した後JICA名で正式に報告書として取りまとめられ、かつスペイン語に翻訳された。その上で、ホンジュラスの水産局長を日本に正式に招聘し、レポートの概要を説明した。また、調査過程で生まれたいわば副産物である、ラセイバから トルヒーリョにかけての地先沿岸域のかなり詳細な深浅図 (主に内水・領海内の海底地形図) が作成された。そして生の水深データと共に、 同国の貴重な財産として同局長に直接引き渡された。

  余談であるが、ホンジュラスの東側において国境を接する国はニカラグアである。1979年に「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」 という反政府武装勢力が勝利を収め、革命政権が成立した。当時革命政権を率いていたのがダニエル・オルテガ(Daniel Ortega)であった。 これに対し、親米派である「コントラ・グループ」と称される反革命政府軍(事実上、傭兵からなる民兵組織・ミリシアで、通称 「コントラ(Contra)」と称された)が、FSLN政権軍と激しく対峙し、国内でゲリラ戦を繰り広げていた。

  米国はコントラを支持する立場を取っていた。コントラ軍はニカラグア・ホンジュラス国境地域に身をひそめたり、時にホンジュ ラス側へ越境しながら、コントラ軍自身の安全を確保していた。そして、コントラを支援する立場から、米国はホンジュラスに軍事顧問 団などを駐留させていた。調査団はそんな時代にホンデュラスに足を踏み入れた。我々が投宿したサンペドロ・スーラの民間ホテルには、 そんな米国顧問団が滞在していた(もっとも、顧問団の将校・兵士などの姿は目にしなかった)。

  その後、1988年3月になって、「サンディニスタ民族解放戦線」を核とする政権軍と、片や反政府側のコントラ軍は、コスタリカの 仲介による「和平協定」が成立したことを受けて停戦するに至った。そして、政権軍の規模縮小やコントラ軍の武装解除に至り、長年 の内戦に終止符が打たれた。政府軍部隊を離脱したり、武装解除となったコントラ兵士の中にはニカラグアの地方の奥深い山中に農牧民として 移住した者も多いといわれる。

  1990年2月には、国際監視の下で国政選挙が実施された。リベラル派の野党連合を率いるビオレータ・チャモロが、ダニエル・オルテガ が率いるFSLN政権側を破って、大統領に就任することになった。オルテガ大統領らの元政権指導者は下野し、チャモロが率いる親米リベラル派 が政権を担った。

  10年以上も親米リベラル派政権時代が続いていたが、時の国政選挙でFSLNを率いるダニエル・オルテガが再び大統領として政権の 座に返り咲くことになった。私が2007年にニカラグアのJICA事務所に赴任した当時は、彼が政権の座に返り咲いて間もない頃であった。 その後2年間の赴任中に、中央省庁や警察庁などの大臣/長官・局長・課長クラスは勿論のこと、一般官吏に至るまで、それまでのリベラル派官吏から FSLN所属の官吏へと、見事なまでに取って代わられて行くのを目の当たりにした。

  さて、プエルト・コルテス港から首都テグシガルパへの帰途のこと、その西方10kmほどにあるオモアというカリブ海沿岸の村に 遺されたスペイン植民地統治時代の遺跡である「サン・フェルナンド要塞」に立ち寄った。スペインが新大陸に築き遺した要塞なるものにこの時 生まれて初めて足を踏み入れる機会をもった。小さな歴史的遺構であったが、大航海時代のスペイン征服者たち(コンキスタドーレス) の痕跡を目の当たりにしながら、暫し感慨深く散策した。

  その後オモアから南下し首都に向かった。その通りすがりのこと、グアテマラとの国境に近い「コパン・ルイナス」というマヤ文明の 遺跡にも立ち寄った。ジャングルにかつて深く埋もれていたであろうマヤ文明の遺構に生まれて初めて触れた。 「コパン遺跡」はスペインの植民地統治後に終焉を迎えることになったマヤ文明の証しである。他方、先の「サン・フェルナンド要塞」 はその文明終焉後にスペイン征服者が築造し統治したことの証しの欠片であった。

  首都テグシガルパに戻った後、台湾が協力する水産養殖プロジェクトを視察した。今度は首都から60kmほどの距離にある太平洋沿岸を 目指して南下した(当時、ホンデュラスもニカラグアも台湾と外交関係を樹立していた)。メキシコからパナマ まで中米地峡を縦断する国際幹線道路である、いわゆる「パン・アメリカン・ハイウェイ」沿いにある村サン・ロレンソへと赴いた。 プロジェクトはその村から少し南の、「フォンセカ湾」最奥のマングローブに覆われた岸沿いの地にあった。

  フォンセカ湾は奥行きの深い大きな湾で、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの3ヶ国が同湾に面し、3本の「海の国境線」で 分割される国際的な内水である。同湾訪問の25年後の2009年頃のことになるが、ニカラグア赴任当時、同湾口に向けて南から北へ 突き出した小半島の先端を尋ねる機会をもった。その突端に所在するニカラグアの小漁村ポトシから、フォンセカ湾最奥に位置する サン・ロレンソ辺りに連なるホンデュラスの山々を遠望する機会があった。ポトシから遠望しながら当時の台湾プロジェクトの視察 のことを感慨深く思い出した。

  さて、ホンジュラス水産資源調査プロジェクトのバーター取り引きの他に、水産室の先輩職員のもう一人が譲ってくれたのが、南米 アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」であった。アルゼンチン人はプライドがひと際高く、同案件の合意形成に漕ぎ着けるのは 難しいとの一言と共に一冊のファイルを受け取った。

  そのプロジェクトとの関わりが私の運命を大きく変えることになろうとは、人生の未来は本当に分からない ものである。元を正せば、たった一言の吐露がもたらしたことであった。その後の運命のいたずらを今でも感謝の念をもって 思い起こす。アルゼンチンで素晴らしい「第三の青春時代」を送ることになったプロジェクトでもあった。そのエピソードは次章次節に譲ることにしたい。

  休題閑話。異種であったもう一つのプロジェクトに触れたい。日本政府による戦時賠償の意味合いをもって、かつてカツオ一本釣り漁船 がパラオに供与された。供与後何年を経た頃のことか不詳であるが、JICAの水産技術協力が実施されることになった。 そのミッションを平たく言えば、パラオ人だけで同カツオ漁船を操業させることで商業的採算性をとることができるのか、 それを実証して見せるよう日本側に求められた。私は、早期退職を近々に控えていた室長代理から急きょ同案件を引き継いだ。 プロジェクト・サイトは西太平洋のミクロネシア地域にあるパラオの主要都市コロールにあった。

  かつて日本は、国際連盟から、パラオを含むミクロネシア(南洋群島)の「委任統治」が認められていた。1922年には同群島全体を 管轄する「南洋庁」の本部がそのコロールに設置されていた。第二次大戦における日本の敗戦によって、1947年に「国連信託統治領」として 米国の管理下に置かれた。1981年になってパラオ共和国自治政府が発足し、その後紆余曲折の経緯を経て、1994年10月に国連信託 統治を終了し、パラオ共和国として独立した。

  現地訪問した1980年11月当時にあっては、まだサイパン島に信託統治の行政府が置かれ、 そこにミクロネシア地域の漁業政策を司る水産局があった。先ず行政府水産局にラモン局長を訪ねた。そして、表敬と軽い打ち合わせの後 パラオに向かった。パラオはいずれ独立するとしても、米国といかなる対外関係を保持するかを巡って政治的に騒々しかった。 そんな中、日本政府はパラオに対して戦時賠償の意味合いをもつ経済支援としてカツオ一本釣り漁船を無償供与し、米国からは歓迎を 受けていたという背景があった。

  ところで、「カツオ一本釣り漁業開発プロジェクト」に関する合意文書を読んで背筋に緊張が走った。カツオ漁船操業の経験の 乏しいパラオの人々にとっては、漁船を乗りこなしてカツオを船艙一杯に捕獲し、地元の米国系缶詰会社などに卸して、 経済的収益を上げ操業の収支バランスをとることはなかなか至難の業であった。

  かくして、日本に対して、パラオ人によるカツオ操業の商業的レベルでの採算性を実証するよう求められた。事実JICAと取り交わした 合意文書には、カツオ操業を指導する専門家を派遣し、それを商業的レベルで実証するよう明文規定をもって取り極められていた。先ず そのことに驚きであった。政府の対外技術協力でそんなミッションを合意し受け入れるのは極めて稀で、例外の一つと思われた。 かくして、「漁業開発」という冠名の下、事実上「カツオ一本釣り操業訓練」と「操業の商業的採算性の実証」を 目途にする本プロジェクトを担当するよう突如室長代理から譲り受けることになった。これがイスラム文化圏以外の国でのプロジェクト を担当した初めてのケースであった。

  さて、カツオ一本釣り操業には、生き餌としてカタクチイワシの稚魚が不可欠であった。プロジェクトでは、先ずその採捕と蓄養 から始まった。カタクチイワシは極めて神経質な魚である。その稚魚の採捕後すぐに漁船内の狭く行き場のない生け簀へ移し、さらに 船を走らせて揺らしたりすると、すぐに弱ってしまい多くが斃死してしまう。

  コロールに近いロックアイランドは、こんもりと樹林に覆われた小さな島嶼が浮かぶ海洋性の有名な景勝地であった。そのロックアイランドの 静穏海域の一角に設置した浮き生け簀内でイワシを蓄養していた。そして、イワシの興奮を徐々に抑え込み馴致させ元気をつけさせていた。

  長い大竿に釣り糸をセットし、その先に大きな鉤針をつける。甲板の舷側に立ち、漁船の周囲に蝟集して飛び跳ねるカツオの 群れに向かってその鉤針を投下する。次の瞬間にカツオを鉤針に引っ掛けて甲板へと豪快に釣り上げる。カツオを逸散させないために、 生きの良いカタクチイワシを船内の生け簀からたも網ですくい上げ船の周囲に撒く。さらに、船側から水のシャワーを海面に浴びせることで、 イワシが乱舞しているとカツオに錯覚させるように仕掛ける。かくして、カツオを船の周りに常に寄り付かせながら、乗組員はカツオ と豪快に格闘する。カツオ魚群を探索し発見することも、また目にも止まらぬ早業でカツオを鉤針に引っ掛けて休む暇なく船上へ釣り 上げることも相当の熟練の技を要する。

  若いパラオ人乗組員を集め、操業における技能、規律やチームワークを担保するために、地元の酋長や長老らによる彼らへの 指導を仰いだり、威厳を借りることも時に必要となる。操業のノウハウを修得してもらうだけでなく、狭い船上での社会生活を営む上 で心得るべきいろいろな約束事がある。日本人とは社会・文化的価値観が異なるパラオ人の若者たちに、船上での決まり事や生活習慣 などを習得してもらうには、それなりの根気のいるタスクである。パラオ人青年に給与が支払われると、時を余り経ずしてビールの泡 に消えてしまうことも時にあるという。パラオ人乗組員がベクトルを合わせ船上でワンチームとなって操業に立ち向かえるよう 訓練を続ける他にミッション達成の道はなかった。

  幾多の社会・文化および運営上のハードルを乗り越え、パラオ人乗組員に操業上の熟練度を上げてもらうためには、専門家にとっても 毎日が真剣勝負の闘いであった。単に操業訓練をこなすだけというならともかく、パラオ人乗組員だけでその商業的収支バランスを とりうることを実証できるほどに月平均漁獲量を上げるには想像以上の苦労が付きまとっていた。

  水産庁の「遠洋水産研究所」の遠洋資源室長を団長とし、カツオ漁業のベテラン漁労長を団員とする計画打ち合わせチームは、 コロールからの帰途、再度サイパンの信託統治行政府水産局に立ち寄り、操業訓練の現況や課題、今後の見通しなどを報告した。 同じく、在グアムのアガナの日本総領事館にも同様の報告を行なった。1980年11月上旬の頃であった。JICAの数多の技術協力プロジェクトの なかでも、「商業的採算性を実証することを目的とした技術協力を行なう」というのは、間違いなく後にも先にもこれが唯一のもので あったに違いない。

  日本人専門家の直接的な指導の下で操業の採算可能性を実証することについては成就することができたが、その後、パラオ人自身 の手で如何様にカツオ操業を続け、収支バランスのとれた持続可能な漁業経営を続けられるようになったであろうか。特に漁船の エンジンの良好な保守点検・修理、時にオーバーホールを行ないながら、エンジンを長持ちさせることが持続的な漁労と経営上の 観点からの要である。その後の歩みについては十分なフォローができず忸怩たる思いである。せめてサイパンの水産局長に近況を尋ねる ことをしてこなかったことを自省する。

  その後時を経て200海里排他的経済水域(EEZ)レジームが南洋にも一般的に設定されるという情勢が押し寄せた。パラオは自身の 200海里EEZへ日本、韓国、台湾などの外国漁船の入漁を呼び込み、その結果どの程度の外貨収入を得てきたであろうか。 外国カツオ漁船からのEEZへの入漁料の徴収によって、パラオの国庫財政はかなり潤されてきたのであろうか。あるいは、 自らのカツオ操業もさらに伸長してきたのであろうか。あるいはまた、パラオ人青年は、同じ南洋のキリバス国の青年たちのように、 外国船籍のカツオ漁船に乗り込み、雇用機会と外貨収入の増進と生計向上を図ってきたのであろうか。

  200EEZ時代になって、パラオにおいても、自国民が自ら漁獲しなくとも、他国にカツオ・マグロ操業(EEZへの入漁)を許可することで、 国家収入を稼ぎ、もって海からの恩恵を受けることが可能な時代になった。1994年11月に発効した「国連海洋法条約」がそれを保証してきた。 カツオ・マグロなどの高度回遊性魚種の水産資源が乏しければ、その恩恵は少なくならざるをえない。だが、最早先進漁業諸国による 独占的な水産資源利用、略奪的漁業、あるいは乱獲を懸念するようなことはなくなった。

  新海洋法条約の成立によってこれまでの広大な公海での「漁業自由の原則」はかなり制限的なものとなり、翻って今日では発展途上国は200海里EEZレジームの下で、過去には考えられなかったような大きな恩恵を享受できるようになった。「海の憲法」の成立による海の国際ルールの大変革によってもたらされた新しい現実を観ることができるようになった。国際海洋 法を学んできた一学徒としては、実に感慨深いものがある。

  さて、パラオから帰国後、先輩から譲り受けたアルゼンチン・プロジェクトと真剣に向き合った。まずはアルゼンチンのプライドの高い当該漁業学校プロジェクト関係者に日本の水産業や漁業教育の現状などについて理解を深めてもらうため、何名かのカウンターパート を招請することから取り組むことになった。



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      第3節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その1)
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      第6節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その2)
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