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    第8-1章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る


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     第8-1章・目次
      第1-1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第1-2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する



  マル・デル・プラタ(MDP)の真冬には南極からの身を切るような寒風が吹きすさぶ。そんなMDPでひと冬を過ごした。本当に長く 感じられた。私は未だ若かったけれど、それでも厳冬期の寒さは骨身に堪えるものであった。旧漁業学校の校舎は、鉄筋(または鉄骨か) コンクリートの柱や梁にレンガを積み上げ、白い漆喰を塗っただけの建物で冷え冷えとしていた。その教室の一つで、校長がわざわざ 気を利かせて用意してくれた電気ストーブ一台を取り囲みながら、その寒さに耐えた。我々専門家はカウンターパートと協働して、 翌年の1985年4月から本格的に開始される技術協力プロジェクトのための諸々の計画づくりに励んだ。振りかえ見れば、 着任した頃は南半球では秋季(4~6月)であったが、その後厳冬季(7~9月)を経て、ようやく春季(10~12月)を迎える頃、 それらの計画づくりの仕上げ段階を迎えようとしていた。そして、避暑客で溢れ返るサマーバケーションの時季(1~2月)を経て初秋を 迎えていた1985年3月頃には新校舎がほぼ完成しつつあった。旧校舎からの移転や大統領を迎えての竣工式の開催計画もほぼ 固まりつつあった。

  4月になって学校の人も物も旧校舎から竣工したばかりの真新しい新校舎へと引越しした。学校が手配した引っ越し業者の手で、 実習機材・学務書類や図書類・机や椅子・事務機器などの一切がっさいが手際よく新校舎へ運び込まれた。その後暫くして、森リーダーが、 プロジェクト開始からほぼ一年遅れで、家族2名と共にブエノス・アイレスに到着した。 ブエノスで諸手続きを4、5日かけて済ませることができた。秋のさわやかでしのぎやすい頃であった。その後、リーダー家族はシーズン・オフとなり 喧騒が通り過ぎたMDPの地に足を踏み入れた。これでプロジェクトの日本人関係者はフルメンバーとなった。

  マル・デル・プラタでは既に下見をしておいた幾つかの住宅候補物件の中のこれぞとおぼしき住宅(一軒屋)に腰を落ち着けて もらった。学校への通勤の足については、数か月後に新車が届けられるまで間、私の車を頼ってもらうことにした。その頃には 他の3人の専門家には新車が届けられていた。ところで、リーダーは無免許であった。策として、私の車で少しずつ運転練習をして もらうことになった。運転は全くの初心者であった。だが、時間はたっぷりとあったので、授業のない午前中に一般の路上での 走行運転、バックでの車庫入れ、坂道での発進など繰り返し練習してもらった。その後一か月ほどして、有資格の試験官に 同乗してもらって一般路上で運転技能試験に臨み、無事目出度く合格し免許証を取得できた。かくして、一つの大きな私的任務をやり 終え、肩の荷を降ろすことができた。

  さて、「ア」側からアルフォンシン大統領や政府関係者らを迎え、日本側からは東京からの来賓者として桜内義雄元衆議院議長( 外務・農林水産大臣など4大臣を経験)や、斎木千九郎駐「ア」日本国大使らの臨席の下、新学校の大講堂で盛大な竣工式が開催された。 その後、近くの名門ゴルフ倶楽部のラウンジに会場を移して、記念のレセプションが行われた。

  ところで、校舎の管理棟2階には校長室・副校長室、1階には総務・学務室、会計室、図書室兼教授控室、受付・給湯室などが 配置された。リーダーと私には、管理棟内の2階に、狭いながらも共用の執務室一部屋が確保された。その執務室は廊下をはさんで校長・副校長室の 斜め向かいに位置し、カウンターパート同士がいつでもコミュニケーションを取ることができた。専門家のためには、座学教室の広々とした一室が 執務室に転用された。カウンターパートと協働するにも十分過ぎるほどの大部屋であった。 プロジェクトではこの頃から専門家チームの一員として一名のアルゼンチン人秘書を雇うこととし、タイピング、電話応対、航空券などの 購入・両替手続き、資料作成補助をはじめ、ありとあらゆる補助業務に就いてもらった。

  話しは少しズレるが、私の家族は、リーダーよりも半年ほど早く、1984年11月中旬の盛春の頃、生まれて3ヶ月ほどの次女の 乳飲み子と5歳過ぎの長女を連れて日本から遥々やってきた。次女は道中の機内でぐずつくことがほとんどで、妻はほとんど休め なかったという。それ故に、労をねぎらうため奮発をして、いつもの古風な「クリジョン」ホテルではなく、少し近代的で星の数 一つアップしたホテルに部屋を取り、3日間フルにルームサービスを活用し、ゆっくり休養して体力回復できるように精一杯 配慮した。渡航に当たり20フィートコンテナに生活用品など一式を詰めて発送し、乳飲み子を抱えて35時間のフライトの苦痛に 耐えたことからすれば、これくらいの配慮など全く足らないくらいであったといえた。こうして、家族4人でのアルゼンチン 生活が始まった。私的には8か月近く単身赴任であったがゆえに、スペイン語には否応なく必死に向き合わざるを得な くなったことで、幸いにもその上達スピードは相当アップさせられていた。そして、何処に行くにしても西和辞書を離さず持ち歩く ことを習慣にしていた。この良き習慣を赴任中の3年間維持し続けた。

  さて、プロジェクトの黎明期を乗り越え何とかプロジェクトを軌道に乗せるべく奮闘を続けた。プロジェクトの初年はいわば 「生みの苦しみ」の一年であったが、特に「冬季の長いトンネル」を抜け出し、ようやく春季とサマーバケーションの時季に辿り 着いた感じであった。1985年初秋の4月にはプロジェクトのチーム全員が揃い、その2年目に入り本格的な協力期間が始まった。 その頃には、何の憂いもなく、業務面でも生活面でも全てが順調に滑り出し最高のコンディションにあった。

  プロジェクトを軌道に乗せようとこれまで肩ひじ張って緊張の連続であったが、この頃には肩の荷を降ろし、心を解放させ、 リラックスしながら日常業務をこなしつつあった。その日常の落ち着きが心に大きな余裕を生んだのであろうか。ある一つの閃きが突然 脳裏に突き刺さった。まさに、プロジェクトの進捗が順調に滑り出していたがゆえに湧き上がってきた閃きであった。 頭の片隅に追いやられていた思いが突然脳裏から飛び出した感じがあった。

  学校内では、専門家とカウンターパートなどとの間で、航海、漁具漁法、漁獲物処理、救急救命、機関の他、電気・機械・訓練船・ 視聴覚教材制作などのいろいろな教科に関連してコミュニケーションが日常的に交わされていた。 そのやり取りの中にはいいろいろな専門的な語彙が含まれていた。それも日本語、スペイン語、英語の3言語によるやり取りであった。

  かくして、そんな閃きを得たのは学校内で日常業務に勤しんでいる最中でもことであった。リーダーと相部屋にしていた執務室 で二人してタバコを片手に会話を交わしていた1985年の4月のある日のことであった。 「航海、漁労などに関する日英西語の語彙集づくりをするには、これほど恵まれた環境はないのではないか」という思いが去来した。 次の瞬間、「日常的に耳にしたり、目にする海にまつわる語彙を何でも書き留める絶好の機会である、それらを書き留めなくて何と する」との啓示的閃きを得た。それは脳天に檣頭電光の如くの衝撃的であった。この機会を逃したらもう二度とチャンスは巡って こないのではないか、という強迫観念のようなものを感じた。語彙集づくりのラストチャンスであるに違いないと思えた。

  航海、漁労、水産加工などの日常飛び交う専門的語彙を拾い、語彙集づくりをするというアイデアを閃いた時、間髪を入れずに その日のその時から即その下準備を始めた。過去2回も実現するに至らなかったという過去の苦い失敗の教訓から、即その場で大学ノートを準備した。語彙をABC順に書き留めるため、 各ページにABCの見出し用ラベルを貼った。そして、専門的語彙などに出会った時には、その語彙の接頭語に合わせて分類しながら、その場で書き 留めることにした。その場にノートを持ち合わせない時には、何かの紙切れなどにすぐにメモを取るようにした。

  数ヶ月もすればノートは5~6冊にもなってしまった。そして当然の成り行きとして、ある問題に直面した。ノートの冊数がどんどん増え 続けて行けばいくほど、その問題に悩まされることになった。即ち、語彙の重複が気になり始め、頻繁に立ち往生すること になった。既にノートに書き込んだ語彙なのか否か、そうであればその語彙はノートのどこに書き留めたのか、ノートをひっくり 返して重複の有無などを確認するための回数が段々多くなり出した。そして、その確認にひどく手こずるようになり、その対処法につき考えざるをえなくなった。 何冊ものノートを行ったり来たりで、無駄な時間を費やするようになっていて、その非効率さに苛立つようになっていた。

  時間軸をここで少し巻き戻すことにしたい。実は、海の語彙集づくりの思いつきは初めてではなかった。最初は米国シアトルでの留学時代であった。 海洋関連の社会科学系の教科だけでなく、海洋学・水産資源管理論・海洋鉱物資源やその開発などに関連して海洋自然科学系や工学系 の教科を学んだり、またタームペーパーの作成に取り組んでいた時にさまざまな海語(海洋関連の専門用語)に出会った。それらを書き留め、自身の学術的 利便のための語彙集を自作するには一つのビッグ・チャンスであった。だが、課せられたリーディング・マテリアルの読破 やタームペーパーの作成に忙殺され、結局のところ単位取得の重圧に押しつぶされ、ついに日の目をみることはなかった。目の前の学業のことで精一杯で余裕がなかった。

  二度目のチャンスは、アルゼンチンへの赴任前に、海洋調査研究に関する非営利目的で任意の団体として創始した「海洋法研究所」の 中核的活動として、日本の海洋法制・政策や海洋開発動向を扱う「英語版・海洋法と海洋開発ニュースレター」を発行した時のことである。 「英語版・海洋白書/年報」の類いのような研究レポートの発刊構想にも取り組みたいと思い描いていた頃でもあった。 さまざまな海語を拾い上げ、集積し、語彙集づくりに取り組む上でのもう一つのまたとないチャンスであった。語彙集づくりを 目指して一度は足を一歩前に踏み出し始めたものの、いつしか尻切れトンボになって しまった。当時、語彙集づくりの必要性や利便性があるにはあったが、その「起点」にも「発火点」にもなりえなかった。 結局、一度ならず、二度までも、語彙集づくりのチャンスに遭遇したものの、あっけなく目の前を通り過ぎてしまった。

  漁業学校に勤務していた時に出会ったのが三度目のチャンスであった。当時それを「海洋辞典づくり」のビッグチャンスと大上段に構えて 取り組んだ訳ではない。だが、語彙集づくりをする上で二度と巡り会うことのないベスト・アンド・ビッグチャンスであることだけは十分認識できた。 その10年ほど後に、世界はインターネット時代を迎えた。そして、語彙集をネットを通じて世界に発信することができる時代が 到来した。その時に初めて「オンライン海洋総合辞典づくり」の原点と起点は、アルゼンチンの国立漁業学校にあったことを悟ることになった。

  当初は、航海、漁業などの専門的語彙が和英西語の三か国語で飛び交う環境下に身を置いていたが、聞き流しで終わらせるには「余りにももったいない」と思い、書き留め 始めたことが発端であった。語彙集づくりをすれば、専門家やカウンターパートらにも何がしかの役に立つのではないかと思い、「善は急げ」のことわざ通り、 先々のことは何も考えずに始めた。ところが、10年後に、信じられないような情報通信技術の出現により状況が一変した。 語彙集づくりに思いもかけなかった一条の光明が差し込むことになった。内心では世界中のパソコンが何時の時代かに繫がるかも知れないと 漠然的ながらも秘かに期待してはいた。だが、ネット時代が余りにも早くやって来て驚愕的世界の出現を目の当たりにした。ネットと語彙集 との連関性については後章にて触れたい。

  さて、過去の失敗を二度と繰り返すまいと、またこれが最後のチャンスと自身に言い聞かせ、即その日から大学ノートを準備した。そして、 試しに思い浮かべられる専門的語彙の20~30語をABC順に書き留めてみた。それが最初の一歩であった。いつも大学ノートと西和辞書 を机上に置き、どこへいくにもそれを持ち歩くようにした。海に少しでも関連する語彙を何時でも何処でも拾い上げ書き留めた。この手法が原点であり、語彙集づくりはそれから始まった。 かつて高校生時代のクラブ活動で経験したトラウマを払拭するのに、大学4年間もかけることになったことは既章で述べた。3度目 の語彙集づくりは、トラウマ払拭に取り組んだ過去の忸怩たる思いとどこか相通じるところがあった。

  専門家やカウンターパートらの会話だけでなく、西和辞書や業務資料・図書などに目を通した際たまたま気付く海の語彙を何でも手当たり 次第に拾い上げノートに記した。語彙がスペイン語や英語であれば、「これ日本語で何というの」と対訳を調べたり、専門家やカウンター パートに尋ねたりした。日本語、英語、西語の辞書などでじっくり調べ確認することも多くなった。 まずは耳にし目に見した語彙が記憶から消え去る前に、その場で書き留めておくことが最も重要であった。何時でも何処でもメモする ことが習慣となり、いわば偏りのある個人癖にもなって行った。

  さて、ノートが何冊にもなり、語彙の重複が目立つようになった。間もなくして思いついたのがプロジェクトのパソコンの活用であった。 「ア」への赴任時、いわば「現代版ノートと鉛筆」としてのパソコンを専門家用携行機材として購入し、プロジェクトにもち込んだ。 機種は沖電気のデスクトップ型パソコン(OKI/IF800という機種)であった。だが、活用を思いついた時はまだ防塵シートがかぶせ られたままで、ほとんど未使用状態であった。

  当時JICA本部ではワープロはすでに社内で公文書づくりなどにかなり使われていたが、パソコンはそれほど普及してはいなかった。各課 にパソコン一台が共用として支給される程度であった。その用途もごく限られていた。 パソコン画面上のフォーマットに氏名の他に、人数、等級、派遣期間などの変数をインプットし、専門家や調査団員の渡航経費をできるだけ 自動計算させるくらいなものであった。 赴任前でのパソコン操作経験と言えばこれくらいで、それ以外の用途では使ったことはなかった。業務文書作成はほとんどがまだワード プロセッサー(ワープロ)に頼っていた。

  だが、赴任時に思い切って自身の専門家用「携行機材」としてパソコンをもち込んだ。世は移り変わりパソコンはそのうち 業務上の必需品となるかもしれないと思う一方で、現地でマニュアルを読んで独習すればパソコンを使いこなせるようになるかもしれないと、 今回思い切って携帯することにした。現地ではパソコンを少なくともワープロとして 使いこなし、本部への報告書などの業務文書の作成にフル活用するつもりであった。とは言え、当時まだ使いこなすところまでは到底いかなかった。 だがしかし、語彙集づくりで利用する必要性が生じることになった。アナログ方式での語彙集づくりに限界を感じるようになり、 止むを得ずパソコンを使い出すきっかけになった。

  パソコンに被せていた防塵カバーを取り払い、モニター画面の前に陣取り、電源をオンにした。そして、恐る恐るソフトフロッピーをスロット に差し込むことから始めた。短期専門家としてプロジェクトに招聘した水産大学校の前田教授の来「ア」時に、「ワード」という日本語文章 作成用ソフトの初歩的な操作法につきほんの少しだけ手ほどきを受けたことがあった。それを思い出しながらのチャレンジであった。

  OKI/IF800のパソコンは、当時では、NECの機種と共に最先端のマシーンであったが、2020年代である現在から振り返れば何処かの博物館に展示されていても 可笑しくない年代物である。1960年代の旧式の箱型白黒テレビのような形と大きさのパソコン本体には2つのフロッピーディスクの投入口(スロット)があった。左側の投入口に「ワード」という 日本語文章作成用ソフトのフロッピーディスクを、右側のそれには入力されたデータの記録媒体用のフロッピーディスクを投入して、 パソコンをワープロとして機能させた。かくして、「習うより慣れよ」の心構えで、文明の利器たるパソコンに初めてワープロ機能を付加して、 アナログノートを見ながら入力を始めた。

  複雑なことはできなかったが、先ずはABC順に語彙をベタ打ち入力したり、その集積を図った。その入力過程で語彙の重複化を簡単に回避あるいは 解消することができ、一挙にそれまでの課題の解決を見た。語彙集づくりの効率は大幅にアップした。語彙の加筆修正はお手の物となった。 また、コピー&ペーストすれば、語彙や文章の移動による並べ替えが簡単至極に可能であり、また補筆修正も瞬時に対応できた。

  ワープロやパソコンが世に存在しなかったアナログ時代における辞書づくりはいかに難義であったことかと偲ばれた。 語彙とその対訳や用例などを一枚のカードに記載し、それを何千何万枚とABC順やアイウエオ順に並べたことであろう。加筆修正するためには 該当するカードを一枚一枚探し出し、作業後に元に戻す。すべて手作業であったことであろう。つい1980年代初めまで基本的にこんな作業が繰り返されていた はずである。

  さて、最初の頃はパソコン操作はぎこちなく、大変戸惑いながらの作業であった。入力エラーなどで字句修正に時間を取られた。 だが、試行錯誤しているうちにいろいろ学習して、徐々にパソコン操作に慣れ、1~2週間後には曲がりなりにも新規語彙の入力や 修正がしっかりできるようになった。そして何冊もの大学ノートを行ったり来たりすることの無駄な作業は皆無となった。語彙拾いでの重複を 避けながら、圧倒的に効率よくABC順に入力できた。加筆修正は瞬時になすことができた。びっくりするぐらい効率よく語彙集づくりを進められた。 ワープロでも同じであったであろうが、パソコンの偉力は抜群であった。パソコンは語彙集の編さん者には救世主であった。

  学校への出勤を毎日30分ほど早めて、それまでノートに書き留めていたアナログデータをパソコンに入力するようにした。 そのうち、時に午前中フルに出勤して、入力に取り組む様にもなった。それを2年近く続けた。学校での授業そのものは午後2時から 8時までで、専門家は原則午後1時から9時までの8時間勤務であった。2年間で完成することは無理としても、次の専門家らに 引き継ぐに値する専門的語彙集の基礎編くらいまでは「進化」させたかった。

  さて、新規の語彙入力を続けていると、フロッピーディスクがデータで満杯になる。データの何割かを別の新規フロッピーに移転させる 必要がある。このデータ分割によって今度はフロッピー自体がだんだん分割されて行くことになる。スロットに該当するフロッピーをその 都度こまめに差し替えながら、新規入力や補筆修正を繰り返すことになる。当時、パソコンの内蔵記憶容量やフロッピーのそれが極端に少なかったからである。 それでも、何10冊ものノートに書き留められている語彙が重複しているか否かを確認をする手間暇、不便さ、ロス時間を考えれば、 フロッピーの差し替えは大した手間ではなかった。それに、語彙がある程度まとまった頃合いを見計らって、同じ接頭語の語彙を 拾いながら入力すればかなり効率化できることであった。

  「ワード」を用いて語彙の入力ボックスを作り、それを三分割し、一に語彙の見出し語を、二にその対訳を、三に文例などを入力 する。そして、見出し語をABC順に一挙にソーティングする。論理的には、パソコン内に数多の「語彙カード」を作れるはずだが、 パソコンでそれを可能にするためのプログラミングの知識はなかった。それに「エクセル」も持ち合せていなかった。現代では当たり前の「エクセル」 というソフトを当時知ることもなかった。また、「ワード」でベタ打ちしたデータについて、ABC順にソーティングするノウハウを 持ち合わせてもいなかった。結局全てを諦めて、語彙と対訳と文例を単純にベタ打ちすることをその後ずっと2年間続けた。もちろん、 語彙集を読みやすくする工夫は凝らした。ところで、前田教授に相談しながら、「ワード」でそのような入力ボックス(語彙カードに相当するもの)の 作成とソーティングの可能性を模索してみたが、何の成果も生みだせなかった。

  当時プロジェクトに「エクセル」のソフトを持ち合わせ、かつ使いこなせていたとすれば、語彙集づくりもさらに効率化できたのかもしれない。だとしても、 現代のネット時代になって、エクセルで作成したその語彙集のテキスト形式ファイルをホームページ閲覧専用のHTML形式ファイル へ簡便に変換し、ネット上で閲覧できたかどうかは定かでない。情報技術の日進月歩を思えば、不可能なはずはないのかも知れない。 だが、当時のプロジェクトには「エクセル」もなく、また「ワード」を用いて語彙集づくりのための特別のプログラミングを 行なう知恵もなかった。それ故に、語彙を単純にABC順にベタ打ちで入力し、コピー&ペ-スト機能を使いながら並べ替えるという、最も原始的方法で作業を続けた。

  原始的な使い方であったとは言え、パソコンと言う革命的な文明の利器をもって、入力されたデータに思い通りの加筆修正を加え、 また簡単にデータを並べ替えることができ、語彙集づくりを驚異的に効率化できたことについては、その技術革新に感謝であった(もっとも、この程度の ことならワープロでも十分であったであろうが、プロジェクトにはOKI電気製のパソコンしかなかった)。 何はともあれ、3度目のチャンスにして、語彙集づくりの歯車を一回転させることができた。振り返れば、「オンライン海洋総合辞典」づくりの 千里の道もこのような一歩から始まった。プロジェクトの準備期間が終了し、2年目に入いったばかりの1985年4月頃のことであった。 その後帰国して10年も経ないうちに、インターネットというとんでもない情報通信技術に遭遇することになった。その技術革命は 目からウロコの感激をもたらした。生きている間にネット技術に巡り遭えて良かったというのが正直な思いである。

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      第1-1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第1-2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する