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自伝を書いてみていろいろなできごと、思いなどを理解し、それらを言葉に紡ぐこと、言語化できた。プレイバックしたい。
・ 生涯でどんな大事件、出来事に遭遇し、何を学んだか。
父親の死、交通事故、死にぞこない、JICAでのODA不正事件に巻き込まれ白髪となった、ニカラグアで心筋梗塞死の縁に立ち九死に一生を
えた。
・ どんな人生目標をもちどうなったか。船乗り、国連、辞書づくり、そして海への回帰、夢のその後。
・ どんな節目あったか。転機は。商船大学受験ならず。4回もの海外・異国への赴任と生活・公務、その回数だけ「青春時代」あった。
・ どんな人生の人との奇遇・偶然があったか。: 小谷神戸商船大学長との出会い、麓氏との出会い、浅野先生との出会い:
海洋法研究所立ち上げ、竹本先生と海洋法、海への回帰の第一歩、曽野先生との出会いとUW留学、、、、朝日新聞記事広告とJICA就職。
・ どんな人生の転機がおとずれたか。
・ 故郷を離れ公私にわたり国内外へ旅した海洋、出張した海洋、異国文化に触れたか。4ヶ国赴任、50回の海外出張、海洋ウォーターフロント
と一枚の特選フォトを楽しむ。10年は東さんが旅につきあってくれた。
・ どんな結末を迎えたか。人生は何だったか。: AIの出現、デジタルに助けられ翻弄された。
・ 「幸せであった」と感じられれば、それで十分である。人生トータルでそう思えれば十分。
・ 人生飽きることなく一つのことを追い求めてこれた。
・ 海の語彙の大海を媚び続けられたことも幸せであった。辞典はその語彙の大海への入り口である。ほんの入り口。
・ 悩みはそのバトンリレー、経験値をたかめた。
・ 中締め、未完の完で十分、知となり肉となった。
・ 日本足のわらじで人生2倍生きることができた、その代わり時間の流れはその分「快速」並みであった。
・ 公務の出張でも、時間を惜しんで週末空いた時間みては博物館、ウォーターフロント散策した。10分でも「実物や実物風景」に触れ
現地を知る、目のこやしになり将来インスピレーションを生むことになる引き出しにしまい込んだ。
・ 二足のわらじといっても決して公務手抜かず、公私相乗効果あり。その事例は?
知見アップ、話題性アップ、歴史としょもつを紐解くことに、深掘りに繋がる。
・ 畑仕事、野ら仕事10年、山登り400日、十分。
・ 辞典づくりは日頃の仕事、雑事雑用から心を解放、d特区スペイン語できる: 辞典づくりでリフレッシュ、気分転換、全てのことを忘れ
一日をリセットできる。明日のJICA業務に新鮮な気概・気持ちで臨めた。
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「ラストチャプター」に辿り着いた。最後章では、書きそびれてしまった事柄や、追記・付記したいこと、改めて特に強調しておきたいこと
などをアト・ランダム的に、かつ箇条書き的に綴ることにしたい。
人生を決定的に左右した出来事、あるいは左右しかねなかった出来事があった。極大雑把に振り返り総括的に俯瞰してみたい。
少年の頃に抱いた船乗りへの夢、青年の頃に抱いた国連への奉職の志も、結局は実現できなかった。
だが、75歳までの長い人生を振り返れば、一言で表現すれば自己納得のいく、幸せな人生であった。
遂に第24章となる最後章を迎えた。本章では、青少年期から現在に至るまでの人生の歩みについて総括してみたい。
徒然に書くことにしたい。後から思い出しては付け足し、補足修正するというオープンスタイルで書くことにしたい。
人生の最後の総括をするとすれば
何をなし得たか。75歳ともなればいろいろな出来事があった、不運なこともいろいろあった。父は40歳にもならずして家族を置いて
事故死した。JICAでは「ブータンODA無償資金協力案件不正事件」に巻き込まれたりしたし、いろいろな経験をした。
それら全ては、通過点であった。「海洋総合辞典」づくりもそうであった。「完成の完」を理想としたが、とても完了には辿り着けなかった。
だが「中締めの未完の完」という一通過点としての一区切りをほぼつけられる見込みは立った。最後に言えるのは、人生は「楽しく幸せ」
であったこと、それが最後の究極的総括である。
父親の突然の死(交通事故死)は衝撃であった
12歳の小学6年生の末期の1月27日父は突然この世を去った。これが人生を大きく左右する最初の出来事であった。
母親は実家に戻るという選択をせず、中内家に居残り、祖父母とともに全く慣れない農業をもって我々子ども2人を育てる決意をした。
市役所職員であった父の現金収入を突然絶たれた。生活は一変した。家族全員必死に田んぼで働き、米と野菜を売った。
兄も私も悲嘆に暮れている暇などなかった。幸いなことに祖父の弟・妹家族が田植え・稲刈の農繁期には
協働してくれた。お陰で我が家は孤立することなく、その後半世紀にわたりその協働によって助けられてきた。私にとっても一生恩義と
感謝を背負う人生を送った。
船乗りへの夢は叶わず、高校三年次に挫折する
少年の頃海や船が大好きであった。外国航路船の船乗り、それもリオデジャネイロ~サントス~ブエノスアイレスの南米航路就航の移民船
「ぶらじる丸」や「あるぜんちな丸」の航海士に憧れを抱き、ずっとその夢を見続けていた。異国へ強い憧れをも感じていた。
ふとしたことから、中学1年生の時に神戸商船大学学長に船舶事故の件で質問の手紙を送り、以来文通を始めた。祖父と共に大学にも招待され、
何と神戸港にも直々に案内された。船乗りへの夢を高ぶらせるばかりであった。
だが、その航海士への夢は高校3年生後期に潰えてしまった。大きな絶望感を味わった。積年の夢の喪失は人生の第二
の大きな出来事となった。海や船がそれほど好きなら何故に海と身近に接し活躍できる海洋学者、海洋生物研究者などを目指さなかったのか。
柔軟性に欠けるところがあったらしい。その後何の明確な目的も目標ももたず関西の大学に進学するにはした。
ニューヨークの国連本部「法務官」を志す
夢と希望を失ったままであったが、進学した大学ではワンダーフォーゲル部という山里歩きのクラブ部活動に身を投じた。結果として、
没入した部活動で気を紛らわせ、海や船から遠ざかって行った。ところが、大学3年生の冬期合宿中の雪上テントで就寝中に、下山後に
おける就活のことを思い巡らす中で、国連の法務官への奉職、いわば国際公務員となる道を目指してチャレンジすることを閃いた。
脳天に差し込んだ閃きは、その後の人生の方向を導く大きな羅針盤となった。合宿の数ヶ月前に読んだ明石著の岩波新書「国際連合」
が就寝中に走馬灯のごとく思い出されたことによろう。
大学院へ入学し、国際法を専攻する
学卒後就職しないで大学院で国際法専攻し究める道を目指したのは必然的結果であった。さて、学部時代の成績(4年間の履修
科目の平均点)が推薦入学基準にわずかに及ばず、無試験での入学とはならず。止む無く一般入学試験を受験し入学の合格
通知を受け取れた。院への入学は国連への道のりの通過すべきいわば「関所」であり、重要な出来事には違いなかった。
学部時代とは打って変わって学問と真剣に向き合った。法務官を目指すなら国際法以外に専攻の道はなかった。だが、同時に世界の紛争と
平和維持に関心をもっていた。
カナダ、米国などへの留学を模索する
国連の法務官という専門職への奉職には、髙い専門性に加えて、当然英語コミュニケーション能力が必須であった。2年間の修士課程を
修めるのと並行して、カナダや米国の大学院への留学にチャレンジすることにした。カナダのトルードー首相らは当時国連平和維持軍派遣を
主導していた。カナダでそれを学び、国連の同軍による地域紛争拡大防止の推進の一翼を少しでも担いたかった。だが、カナダの
大学院から色よい通知は来ないままであった。結局、院修了後最短距離での留学先は決まらず「留学浪人」せざるをえなくなった。
自宅で引きこもって独学する訳にはいかず、思い付いた苦肉の策が、院の国際法専攻の「特別研究生」として在籍し、院に居残ること
であった。小さな出来事であり現実的選択であった。だが、人生の遠回り的な選択が幾つもの大きな出来事をもたらすとは想像もしなかった。
国際海洋法との出会い
「留学浪人」が全く予期せぬ出来事を生みのめり込むことになった。特別研究生としての国際法ゼミのクラスに在籍するという
回り道したのが、何と幸運であった。当時「国連第三次海洋法会議」進行中であったが、セミでの研究テーマが同会議の
各国提案の分析であった。人生の回り道、遠回り、無駄な期間ではなかった。その間、研究生としてどっぷり国際海洋法と
かかわった。海への回帰の入り口に立ったようなものであった。
大学の大先輩である国連法務官との偶然の出会い
留学先をカナダから米国に変更し、特に米国西海岸の大学を探し応募することにした。中でもシアトルのワシントン大学を知り、要項などを
取り寄せ応募することにした。他方、少し時を遡るが関西大学院生の初め中庭で大学新聞を広げ斜め読みしていた。その時「国連で活躍する
大学の卒業生」という文言が眼前を通り過ぎた。法学部卒業で国連法務官として活躍する先輩を紹介する記事であった。それこそ願ってもない
出会いであった。志あったがゆえに文言が一瞬目に留まったに違いなかった。早速レターを国連本部へしたため助言などを希求した。
暫く文通した。
大学の芝生でタブロイド版の大学新聞を広げて記事のタイトルを追いかけて、ページをめくっているいる時にある記事に目を止めな
かったならば、その執筆者で大学OBの現職の国連法務官を知ることも、手紙をしたためることも、また先輩が日本に休暇一時帰国
の機会を捉えて、大阪から上京し羽田空港て会うこともなかった。会って、ある事実を知り懇意にすがることも無かったのは確かである。
っ先輩がUW出身であり、しかも私の主導教授を知ること、彼に一言伝えること、4通目となる推薦状も考えてもよいこと、こんな偶然に遭遇
することもなかったであろう。留学への道はあの大学新聞記事から始まったこと。私の人生の舞台をアメリカに移す・UW合格留学
することもなかった。奇跡であった。
羽田国際空港での法務官との面談で鳥肌が立ち心が震える
法務官は日本に一時帰国されたのだが、有り難い話を持ち掛けてもらった。日本からニューヨークに帰任する最終日ならば羽田空港で
会えるかも知れないとのことなので、当日大阪から羽田へ会いに向かった。留学の話におよんだ。法務官はワシントン大学のロース
クールであることを確信した。そして、UWでの指導教授は誰になるのかと質問された。ウイリアム・バーク教授と答えた。
バークとは友人でよく知っているとのこと。帰任途中シアトルに立ち寄る予定だが、バークに会えたらUW応募を伝えておこう。
別れ際の最後に、UWへの推薦がいるなら考えてもよいとのこと、素直にそれをお願いした。4通目の推薦状が実現するかもしれなかった。
羽田国際空港での法務官との面談で鳥肌が立ち心が震えるリアルな面談で、鳥肌が立ち心が震える一言。こんな幸運に恵まれていいのかと怖ろしくなるほどであった
バークからの一通の航空郵便を受け取る
法務官と羽田で面談後数ヶ月した頃、バーク教授から一通の郵便が届いた。UW法科大学院の「Law and Marine Affairs Program」の合格通知
のバーク直筆のレターであった。これで国連への奉職に一歩も二歩も近づいた。一通の受領こそ志実現に向けた大きな出来事であった。
1974年6月には語学能力向上のため、教授の助言に従い、語学学校ELSに入学すべく渡米した。25歳にして人生初めての飛行機搭乗、
かつ海外への旅であった。
第一学期の成績悪く挫折、ドロップアウトの危機
1975年10月から幾つかの必須科目につき初っ端からドロップアウト、そのリカバリーに苦労する。さらにバークの必須科目「国際海洋法/I」
の記述試験で「C」をマーク。リカバリーには「A」取得が必須。ショックであった。ドロップアウトの淵に立つ。人生で最も強烈な
挫折を経験し、どん底に沈み込んだ。その出来事は何といえばよいか。大陸棚に関する設問であった。しみじみ語学能力不足を思い知った。
起死回生のための第二学期、挽回できなければ学業放棄し帰国を覚悟
何が何でも起死回生を図る必要があった。バークの助言もあって、「国際海洋法/II」は論文を提出することにした。折りしも国連海洋
方会議では200排他的経済水域の法制化は殆どの発展途上国(グループ77といわれた)の賛成で後戻りできない情勢にあった。
だが、地理的偶然(海岸線の長さ・形状)をもって、海洋資源への排他的管轄権の及ぶ範囲が決せられるのは、いずれの国家にとっても
不合理過ぎるとの想いから、アフリカ諸国をケーススタディにして、200海里ではなくもっと制限して、国際区域を広く取り、そこでの
収益を国際役として国連・途上国の発展などに充当すべきという論旨の論文を著述してバークに提出した。結果、「A」の成績を得て
リカバリーできた。これで、さらに勉学を続ける見込みと希望をえた。この出来事なかりせば、研究室とドミトリーを引き払い
帰国し、国連への志も捨てていたかもしれなかった。3ヶ月一心不乱に大奮起し取り組んだ甲斐があった。
UW留学は第二の青春時代となった
ドロップアウトを免れた第三学期以降は留学生活を楽しむ実感をもつことができた。学究生活環境は申し分なかった。海洋学、水産経済学、
マンガン団塊の採鉱と海洋環境保全、海洋国際組織論、海運学など、海洋にからむ自然科学や社会人文科学系の諸学を学んだ。
日本では考えられない文理融合のプログラムであった。海洋学をはじめ自然科学を学び面白さを体験した。
かくして、海への本格的な回帰を同プログラムを通じてさらに進めることができた。
大学図書館である記事が目に留まる
キャンパス内には、法科大学院の法律専門図書館でなく、総合図書館の他主用学部には専門の図書館が幾つもあった。それらを渡り歩きながら
資料集めをすることも多かった。ある日総合図書館の東洋関連史料室に立ち寄り、久々に日本語新聞を手に取った。朝日新聞の「論壇」
コラムで海洋法制・政策関連記事が目に留まった。内容よりも、執筆者に関心をもった。「潮事務所 麓多禎」と署名。海洋政策や法制、
海洋環境などについて調査研究する民間の事務所らしいことを知った。興味をもちレターをしたためた。それが縁で、シアトルで面談すること
になった。振り返れば、人生を左右することにつながる小さな出来事であった。
帰国後事務所に転がり込む
院修了後日本に帰国、個人事務所に転がり込む。事務所を知らずしていれば「就職浪人」していたはずである。麓氏に救われた思い。
事実上2人事務所。事務所・所長は当時日韓大陸棚条約の是非について深く関与していた。
いずれにせよ、国連への奉職チャンスを待機するうえでキャリアをアップする場として理想的ではないかもしれないがセカンドベスト
と考えた。論文を幾つか書き上げキャリアアップに努める。海洋法シンポの翻訳、新聞記事執筆、研究会・防衛・鷲見主宰などに
顔を出した。アップにつながること何でもトライ。海洋協会。海洋産業研究所など。最大の不安は財政基盤が脆弱。発展が見通せず。それが不安。国連待機するには経済的に持ちこたえられず個人破産の恐れ、事務所には定期収益などなく、経営は厳しく将来への不安が常につきまとった。
海洋法講師、研究者への道は嶮しかった。
浅野先生と知り合うことにもつながった。
国連への専門職員応募のための願書の送付
事務所に勤める傍ら、国連事務局に送付するアプリケーション・フォームを作成し投かんした。ついに投函した。当館自体は小さな行為
に過ぎないが、国連奉職を志してから6年が経過、実務歴はないに等しいがようやく最低限の専門職・法務官への応募の条件を
整えることに漕ぎ着けた。たったこの応募フォーム投函するために6年も要することになった。この応募この段階でフォームを投函して、採用試験のチャンスを待つだけとなった。「応募」という現実に意味ある大きな出来事であった。
* UNへ志願一方、キャリアアップ・維持のためにも自主的海洋研究の個人事務所へ。だが、辞典づくりの財政は厳しく、運よくJICAへ奉職
一方で、キャリアアップのため自主海洋研究を続けた。そして、海洋法研究所創始、主事業に据えたのはニュースレター発刊、英語版海洋白書
の類いの発刊チャレンジ。二足のわらじ履く。かくして、天職のJICAと海洋研究の2足のわらじは生き甲斐遣り甲斐最高潮へ。
亜国への赴任は発刊を下火にさせたが、もう一つの大きな目標が付加された。語彙拾いと語彙集づくり。そして10年後のネット時代に海洋
辞典づくりへと昇華させ、世界へウェブで発信して、今につながる。
国際協力事業団/JICAによる社会人採用の新聞記事
新聞で国際協力事業団による社会人の中途採用を知る。この偶然がなかったら、その後の運命は全く異なったものになっていはことは
間違いない。どう知ったか。喫茶店で。この偶然なかりせば運命は全く変わっていたに違いない。
ある日の早朝出勤前のこと、喫茶店で、昭和の時代らしく、トーストや目玉焼き・ハムのモーニングサービスに有り付き、
コーヒーをすすりながら新聞を広げ、社会面の左下の小さな広告を見つけなければ、人生はどうなっていたのだろうか。
即刻応募し、都内のmmで入社試験を受け、面接試験に進んだ。ついに合格し、1976年11月から超高層ビルの新宿三井ビル出勤する。
合格不合格はまた人生大きく左右する岐路にあった。社会経済的安定には大きな出来事。人生の女神がほほ笑む人生の転機。
当時まだ都庁は空き地のままであった。一か月もしないうちに生まれて初めて月給なるものを受け取った、ありがたかった。
住む世界は変わった。さもなければ、故郷に帰り田畑を耕すこともできず、人生を見失っていたかもしれない。全く異次元の世界に
生きていたかもしれない。現代に言う巣篭りやニート的な生活をすることさえできる状況にはなかったであろう。それがなければ、
国際協力という「天職」に有り付くこともなかった。さらにいえば、10年も海外に赴任し、国際協力の最前線で奮闘することも
なかった。全く異文化の世界で生きることもなかった。パラグアイ、サウジ、ニカラグアで暮らすこともなかった。異次元の世界で
これで、安定して国連採用試験まで待機することができる。待機するには十分な組織。経済的にも安定、大気にはセカンドベスト。
JICAでの組織内での海との関わりは見通せず描けず。不明だが、海洋法制・政策の自主研究にも安定して取り組めることになり、キャリアアップのためにその研究成果を増やすこともできると喜んだ。多くの仲間ができた。
研修事業部への配属、での海との関わり
社会人の第一歩を踏み出す。同部での業務分担はは省庁縦割り構造、通産省、エネルギー庁、工技院所管の多くの技術研修
プログラムの運営管理し、発展途上国から研修員を
受け入れに取り組んだ。そのうちの一つ「沿岸鉱物資源探査プログラム」は東京大学海洋研究所、海洋研究開発研究所JAMSTEC,地質調査所、公害
資源研究所などの日本の代表的海洋研究調査機関の研究者、行政官などが関わり、かれらの協力の下運営された。彼らとの繋がりができた。
また、あるときはUNIDOからの要請でユーゴの研究者をマンガン団塊技術開発・政策状況の視察の要望、一からノウハウを生かし、その
プログラムを組立てアレンジした。留学での教育バックグラウンドを活かせた。できる限りアテンドし、大いに鼓舞した。遣り甲斐を感じる。中東産油諸国向け特設の石油化学工業プログラムも担当、多くのプログラム担当した。
生涯の伴侶との出会い、半径5メートルでの出会い、人生最大の選択
仕事もさることながら、伴侶と巡り合った。人並みに社会的組織に入り、同部には大勢の若い仲間たちがいて、に混じり遭わなければ、
入社半年後に机から半径5mにいる今のワイフと巡りあい人生の伴侶にし結婚することはなかったに違いない。課長から言われた。
「君は何のために会社に入ったのか」。まさかワイフを見つけるためですとは冗談にも口が裂けてもそんなことを言えなかった。
就職と結婚と言う人生最大の出来事が1年のうちにほぼ同時に遭遇した。一度に2つのことで人生バラ色に染まった。
それに、JICA就職して間もなく半径3mにいた今の妻と結婚した。就職と結婚をもって、過去の生活から全く異なる人生を始めた。
水産室への配属と発展途上国での多岐の漁業関連プロジェクトの関わり
願ってもない出来事、それは水産室への配属先であった。海とのつながりが直接的にもて喜んだ。こんなに早く海とかかわれ
ることになる。海への回帰をさらに推し進めた。海への回帰本格。JICAではこれ以上の海との関わりなし。
水産室では、水産分野での国際協力に貢献。世界の発展途上国で4種の漁業関連プログラムの協力実施=漁労技術の移転、漁業教育
レベルの向上のための協力、水産資源調査、養殖技術の移転など多くのプロジェクト運営。
特異なものとして、UAEでの水産増養殖センター建設の施工監理SV, プロジェクトの協議文書の中で一単語錯誤、結果SVを不本意にも
実施せざるを得なくなり、失策、3年従事。チュニジアの漁業教育プロジェクトの運営管理で多くの教訓を学ぶ。
独り言が運命の扉を開き切り拓き、南米の世界へと誘った
水産室でのプロジェクト担当国としては中近東イスラム諸国が多かった。チュニジア、UAE、インドネシアなど。未だ太平洋を越えての
プロジェクト担当は無かった。ある日、半分冗談半分本気で室内の先輩に聞こえるように「たまには中南米方面のプロジェクトを
担当したい。バーター取引をしてもらえませんか」と、独り言を発した。取り引きしたプロジェクトのなかにアルゼンチン漁業学校
プロジェクトがあった。事前調査レベルの進捗にあった。担当してから1年のうちに技術協力や無償資金協力の枠組み交渉のため3回も
往復した。おの努力の甲斐あって両協力のプロジェクトの創成に漕ぎ着けた。独り言がなければ、南米との全く新たな出会い関わりは
生まれなかったはずである。水産室で。あの独り言をぽろりと先輩に漏らさなければ、憧れのアルゼンチンへ
赴任する機会にはありつけなかったのは確かだ。
パンパとタンゴ音楽のアルゼンチンへの夢のような赴任
3度のアルゼンチンへの出張でスペイン語の学習に芽ばえた。英語のみであったところ、先ずNHKのラジオスペイン語講座を毎日
録音して通勤の行き帰りに聴いた。
2年ほど取り組んだ。さらにJICAが提供するスペイン語講座に基礎コースから、中級、上級コース(各半年間)へと皆勤で通し、かつ
成績はトップクラスをマークした。そして、水産室長を通じてアルゼンチンプロジェクトへ業務調整員としての現地赴任を人事部に願い出て
その内諾を得た。かくして担当者が自身を派遣する決裁を起案して人事部にも回付した。結果決裁が下りアルゼンチン赴任が決定した。
大学でスペイン語専攻のワイフを喜ばせることにもなった。アルゼンチンと英国とのマルビーナス戦争の勃発で少しは赴任が遅れたが、
1974年春に現地に赴任した。かくして独り言がアルゼンチン赴任と言う人生を左右する大きな出来事結果につながる・もたらす
導くとは想像すらできなかった出来事となった。そして、水産室から漁業プロジェクトへさらに海への回帰を上書き・強化強固にする
結果となった。第二の人生JICA、しかも水産室勤務とアルゼンチンプロジェクト勤務によって海への回帰強める+国際社会への貢献に踏み入れた。
その後他の道を歩んだが、思いがけず海への回帰を果たした。その後ずっと生涯、海洋辞典づくりを通じて海と関わり合ってた。
アルゼンチンでの閃きが「生涯の友」とする取り組みにつながる
漁業学校プロジェクト1984-1987年ではリーダー、調整員の他に専門領域の「航海」「漁労」「水産加工」の3長期専門家が赴任した。
学校ではこれらの専門領域の語彙、それも英語、日本語、スペイン語の3言語で日常的にまじえながらコミュニケーション
がなされた。プロジェクトが2年目に入った直後、ふと閃いた。専門語彙を単に聞き流しているだけではもったいない、
語彙を拾い集めて後任らの専門家に役立つ
海語の語彙集を作ることを思い付いた。当初は大学ノートでのアナログ対応、しかし後にパソコンによるデジタル方式での語彙集の
アップデートとなり効率は倍加した。そして、途中で放り出すわけにはいかず、帰国後も何年も続けることになった。
さらに、JICAで7年間も水産分野での技術協力プロジェクトを運営した。経験とキャリア積む。
そして最初の赴任先アルゼンチン「国立漁業学校」で一つの閃き。3か国語の海洋関連(航海、漁業、加工、海洋生物など)の語彙拾い
に閃き、取り組む。海洋辞典づくりに繋がり、ずっとそれを通じて海への回帰を果たした。アルゼンチン赴任は人生の転機となった。
語彙拾いの閃き、チャレンジ。
振り返ると人生の一つの転機はアルゼンチン赴任中に訪れた。日英西語3ヶ国専門語彙拾いと蓄積を閃いた。
アルゼンチン漁業学校プロジェクトでは3ヶ国語で航海、漁業、水産加工、海洋生物などの専門用語が飛び交う。それらの語彙を拾い
大学ノートに書き留めることを閃く。パソコンの日本語入力ソフトで処理、デジタル化。
マルデルプラたという南米の名高いリゾート地で第3の青春時代を家族と送ってはいなかったであろう。独り言が幸運の女神の微笑み
をもたらした。そしてアルゼンチン海軍所属になって、国立漁業学校に勤務することにはならなかった。原典・基点はその独り言であった。
国連とのコンタクトを怠り、後悔止まず
応募用紙を送付してから1年ほどして国連の海洋法担当事務局長から1通のレターをいただいた。内容は一言で言えば、現在海洋法担当
法務官には空席はないとの連絡であった。国連には日本人の担当法務官が既に
勤務しておられたことは承知していた。だが、空席まで何年待てばよいのか想像もできなかった。見通しは暗かった。
それもあって、返事もなにもアクションを取らなかった。その無作為、怠慢こと人生を大きく狂わせたのかもしれない。
それを契機に、手紙を出し、近況報告、例えば水産室でのプロジェクト運営、アルゼンチンでの関わり、自主海洋研究、ニューズレター発行など
簡潔に報告すると同時に、なおも法務官に関心があること、大気中であることなど近況報告と奉職への関心を示し、そのレターをフォスターにファイリングしてもらうべきであった。こまめにすべきであった。だが応募1975から1987年の10数年も無作為で過ごした。ほとんど
故意の不作為と怠慢であった。忸怩たる思い。これがUNから遠ざかる大きな要因となった。求めてきた出来事ではなく、無作為・不作為の
負の出来事であった。
アナログ版ニュースレターの発刊と世界への発信にチャレンジする
少し時を遡るが、アルゼンチンに赴任する数年前から二足のわらじを履き続けていた。日本の
海洋法制・政策、海洋開発の最近の動向などを取り纏める「ニュースレター」であった。日韓大陸棚条約、非核三原則と国際海峡通航、
日本周辺の200海里法制・領土紛争などテーマごとにまとめた。さらに英語版ニュースレターにもチャレンジ、世界・日本の主要な研究者、
行政・研究機関などに、発信した。まだアナログ時代であった。だが自主海洋研究のいわば成果であり、語彙拾いと語彙集づくりと
合わせて遣り甲斐のある取り組みチャレンジであった。それらはまた自身のアイデンティティの増進強化につながった。
二足のわらじを履き続ける。
非営利の任意研究団体の「海洋法研究所」の創設と「海洋年報」の発刊にチャレンジ
アルゼンチンから帰国後も二足のわらじを履き続けるその2足とは語彙拾いや語彙集づくりの継続だけではない。ここでやめれば
すべては無駄に帰すので続けた。毎日10、20分取り組めば仕事のリフレッシュ、リセットにもなったし、海のことにかかわれることが
何よりも楽しかった。もっともその先どういう生家・結果を生むのか理解できてはいなかった。兎に角続けた。
他方で、ニュースレターの発刊復活を模索する中で、閃いた。これが帰国後の大きな思い付きであった
会員制で、海洋法制・政策の研究する非営利の任意団体を創設することにした。
潮事務所時代からお世話になっていた顧問の東京水産大学海洋法講師浅野氏に相談した。「海洋法研究所」の創設に賛同して
もらい所長職に就いてもらった。研究所の中核事業として、英語版のいわゆる「海洋白書あるいは年報」を発刊し世界発信する
ことにした。適宜増補・アップデート版を毎年発行することにした。画期的な発想であった。20名ほどの著名な研究者などに
会員になってもらった。パルドー博士、バーク教授、小田ICJ判事など。かくして天職を2つえた。JICAと研究所である。
前向きの大きな出来事であった。
だが、2足のわらじは履き続けた。さらに海への回帰・二足のわらじ。他方で「海洋白書・年報英語版」発刊にチャレンジ
漕ぎ着けた。二足のわらじを履いた。だが長くは続かず、アルゼンチン赴任で一旦は途切れ、帰国後の1987年以降再チャレンジ。
しかし、辞典づくりもあり、仕事もありで人生2倍生きている感じであった。
UNへの夢は追い続けたのでキャリアアップはいつも務める必要があった。すなわち、世界の海洋法秩序や
法制の研究、日本の海洋政策や海洋開発動向など絶えずフォローし、その調査研究を論文等を執筆に務めた。他方、任意の非営利団体
としての「海洋法研究所」を共同して創成し、「ニュースレター」(邦語・英語版)や、さらに「海洋白書/年報」(英語版)を発行・
国内外へ公表もした。その過程で海洋辞典づくりを試みたが十分な形にはならなかった。
結局のところ国連奉職それも潰えた。能力、努力、その他乏しいところがあった。だが後悔などは全くなかった。
13余年国内勤務に塩漬け、国内外のJICA職員らを下支えする業務に就く
出来事ではなかったが、1987年から2000年まで13年にわたり国内で多種の業務に就いて、職業人としての幅を広げるプロセスを
歩むことになった。農技課では民間企業による途上国での農業作物栽培試験事業への融資に当たっての事前事業化可能性調査をこなし、
事業・経営マインド、収支バランスなど多くを学んだ。契約課は当然通過すべき部署。途上国での開発調査や無償資金協力関連
調査は外部のコンサルタントをリクルートする。毎年何百件もの調査に従事するコンサルタントの選定、契約締結、支払い・
精算をこなした。中にはパナマ運河代替調査を実施するコンサルタント選定に関わる
機会も得た。人事部職員課では1200名の職員の健康管理、各種社会保険加入等手続き、福利厚生に携わった。
国際協力システム(JICS)への出向は人生に転機をもたらした
全く予想しなかった人事であった。人生の遠回り、回り道に映った。いわば子会社への出航、それも全く未経験の無償資金協力関連の
業務を関わった。不安がつきまとった。だが、ぐっと耐える他なかった。そこで無償資金協力を学び、慣れ、課の先頭を走らねばならなかった。
無償資金協力はJICAの業務でも主要部門を占めていた。無償資金協力の中の食糧増産援助・2KR(肥料・農薬・農業機材などの途上国援助)、
次いで事前調査やフォローアップ調査、さらに簡易機材調査では途上国政府の代理人となって入札図書作成、入札実施、機材調達、
現地据え付け指導など、そのプロセスを実践した。その後の人生を送るうえでバランスのとれた貴重な経験となった。
これら国内の経験で無駄であったものは何一つなかった。子会社の立場、民間の立場、コンサルタントの立場を理解できた。
転機はJICSに到来した.無償資金協力事業はJICAの大きな柱経験。人生遠回りにあらず。
1995年インターネット時代の到来、ホームページ作成の独学、ウェブ辞典の世界への発信
13年の国内の最大の出来事は、情報技術ITとの画期的な出会いであった。アルゼンチンから帰国以来将来の着地点が見通せないまま
語彙集づくりをしてきたが、将来に一条の明るい光を見た。JICS出向中ニカラグアへある簡易機材調査にM氏らと現地へ赴いた。
出張中M氏は口角泡を飛ばしネットサーフィンなるものの仕組みや有用性を説明してくれた。帰国後ノートパソコンを前に実演までしてくれた。
目からウロコ、晴天の霹靂であり、人生遠回りにあらず。過去10年の語彙集を「デジタル海洋辞典」として世界に発信すること
を即閃き、すぐに「HTMLタグ言語」の独習を始めた。その後1年ほどかけてネットとホームページ作成のための環境を整え、
幾つかの大きな技術的障壁を乗り越え、タグを書き込んでHTMLファイルに落とし込み、プロバイダーのサーバーにデータを送り込んだ。
当時はプロバイダーのホームページをポータルサイトにしていた。とにかく自前の海洋辞典をそこに実装できたことは、最大の
出来事となった。感激のページを目の当たりにし、感涙であった。
ブータンODA不正事件に巻き込まれる
人生を左右する出来事であった。真っ青。なぜなら、秘密事項が新聞に掲載、誰かが新聞社に告発した。ブータンに飛ぶ。確認。
JICS出向、無償資金協力を3年ノウハウを積み上げ、経験を買われて本部無償資金協力業務に配属。南西アジアでトラブル頻発
シューティング。中でもブータン事件はJICA前代未聞の事件。ブータン通信公社幹部がランクル何台も乗り回している。調査に当たる。
何台かのランクルをおDAで調達通信関連機材を連鎖的に出し入れ、その累積額は莫大。ブータンへ確認に出向く。過去多くのJICA幹部
が見過ごし、不正見抜けず。政府・コンサルタント・業者3者に騙され続けた。誰かが内部情報を朝日新聞社にリークされ事実上の「告発」となった。査問委員会にて審問をうける。直に関わり1年間苦しい立場に置かれた。
フォローアップ事業への転身
JICA内で大きな組織変革・改組が実施され、紆余曲折を経てフォローアップ事業に関わる。JICAが過去10年に実施した技術協力や
無償資金協力で途上国に供与した機材や施設を対象に、経年劣化や台風などの自然災害などによる不具合を特定し修理したりしてその機能を回復
・復旧をはかるものである。対象は全途上国、JICAの全事業実施部署からの要請を基に、あらゆるスキームの下で供与された機材や施設
であった。全国・全部・全スキームにかかわり、支援した。
医療器材の修理、ラバーダムの修理、航空管制官訓練機材修理、職業訓練校の修繕、自動車搭載掘削機の修理など
数多くのフォローアップをこなし、国内外から感謝された。遣り甲斐のある仕事。
ドミ連漁港プロジェクト、港内泊地大波で停泊できず、共振作用。パラグアイ帰国後もフォローアップ、技術普及のためフォローアップ資金
投入=新規プロジェクトと同じ。RD不要。母子保健、JOCV体操、プロジェクトサイクルからすればプロジェクトを計画・実施した部署が
担当すべき。
パラグアイへの赴任と新しい展望を開く閃き、大きな出来事
プロジェクトの評価手法、特に大豆関連研究プロジェクトのもつ価値の算出手法に取り組み、また「パラグアイ経済開発」調査のフォロー
をメインの業務にした。 他方、ウェブ辞典づくりを継続できるようにパソコンなど必要なハード・ソフトウェアをフルセットで帯同した。功を奏してほぼ順調に
アップデートを3年間続けられた。暫くして驚いたのは、内陸国でありながら2つの船舶博物館があった。探訪した。歴史的な船の
遺物に感動し、閃いた。ウェブ辞典に海洋・船舶などの博物館を紹介するページを制作し、そこで2つの博物館を世界に紹介すること
にした。さらにその延長線上でビッグな思いつきをした。
海ありの近隣諸国(アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ・チリなど)のウォーターフロント散策や海洋関連施設探訪を行なうことを
閃き、さらにその成果を「一枚の特選フォト 海&船」と題するコーナーを辞典内に制作を思い付き、かつ
それらを順次実行に移した。当時はデジタルカメラの普及期であり、画像を取りまくった。「特選フォト」はもちろん、水族館での海の
生物画像を見出し語に貼り付けることにし、辞典のビジュアル化に大いにつながることになった。
アメリカ東部海岸沿いにウォーターフロントの散策・海洋関連施設の探訪のチャレンジ、貴重な体験
人生において大きなチャレンジであった。一時帰国の権利を振りかえてやく30日間の長旅を敢行した。マイアミのウォーターフロント
散策後、ボストンに入り、レンタカーをもって北はカナダ国境に近いニューハンプシャーへ、そこから順次南下して、マサチューセッツ、
コッド半島、mm島、ロードアイランド、mm島、ニューヨク・ワシントンを敬遠して、ニュージャージー、デラウェア、ノース・サウスかろらいな、ジョージア、マイアミ、最南端キーウェストまでドライブ。毎日2,3の施設を巡覧し、画像を取りまくった。
これが「特選フォト」の貴重なベースとなり、ビジュアル化に多大な貢献をなした。
2002?年3・11のニューヨークの世界貿易センタービルへの航空機テロとビルの崩壊
パラグアイの大統領府企画庁の一室で執務していた午前中のこと、大臣室の秘書にすぐ大臣室に来るようにとの指示を受け駆け付けた。
10名ほどの幹部たちがテレビ画面を食い入るように見つめていた。
栄華のロケ、航空機乗っ取り、双子ビルに激突するのを目の当たりにした。ロケ?その後信じがたい光景を見る。実況風景?
時、
帰国後再びフォローアップ事業へ、刷新された事業スキームをどんどん前進させる
全く新しい概念、サブスキームを付加し、その実践を推し進めた。全国、全スキーム、全部署を対象に、RDの要らない新たな合意
文書不要の足の速いプロジェクト。新規プロジェクトと同じ。研修員、専門家、技術協力、JOCVなど接点があればそのノウハウの
普及を支援:例えば、母子手帳を地方に普及、手帳印刷と地方保健所責任者を対象にセミナー開催、歴代の隊員が体操指導、有望な
選手と関係者を組織を支援、国際大会への参加経費を補助し経験を積ませた。
制度斬新、遣り甲斐、だがプロジェクトのサイクルに戻す。たんたんと過去のプロジェクト機材施設の復旧修理リハビリ、水主のプロジェクト
の成果普及拡大に刷新スキームを展開。
砂漠と戒律厳しいサウジアラビアへの赴任
テロ頻発、前任者三好が襲撃受け大きな負傷、異質の産油国、異文化のリアルの衝撃、テロ事件後公認、何故私が?
10人女性日本研修、大臣メモ・親族帯同・費用はサウジ政府もち、その後国王の裁可を仰ぐ。異文化理解を広げ国づくり人造り
支える。女性と数時間のみ橈は、それもアバヤ、ベール、サングラス。だが多くの仕事した。国王に助言したかった:
太陽光パネル発電と水素製造輸出大国への道。
ダウ船を求めてアラビア半島を時計回りの探訪
映画鑑賞・アルコール求めてUAEへ時に。そこで閃く。映画より、アラビア半島時計回りにダウ船や、ウォーターフロント散策、海洋関連施設
求めて諸国を探訪。まず、バーレーン、カタール、UAE,オマーン、イエメン、ジブチなどは業務以外渡航できず。赴任国内外で
旅を楽しむ。そのた北欧、南欧・地中海、モロッコ・エジプト、スエズ運河・ジブラルタル海峡渡海する。大きな出来事。
ダウなど撮りまくる
役職定年
ついに58歳を迎え、早期退職の道を選んだ。
ニカラグアへの赴任、古要塞探訪にびっくり仰天、運河ルート踏査を閃く
パナマ運河の見学、米国西海岸への旅、メキシコやコスタリカへの旅。キューバはビザ問題で間に合わず。
スペインのエル・カスティジョ要塞への旅でびっくりの発見・閃き。「ニカラグア運河の夢」を知る。運河事前調査をひも解く。
6つの有望候補ルートを実際に踏査することを閃く・前のめりになる。JICA作成の5万分の1地図を片手に隊員と踏査出掛ける。
遣り甲斐、エネルギッシュに。
オヤテの分水嶺を目刺し、山奥で心筋梗塞、辺境地からの奇跡の生還
九死に一生。奇跡。ルート踏査途上で帰国。リハビリに1年。何かをやり残してきた。サンタフェ橋もわたりたい。
東北大震災、原発メルトダウン、ついに完全離職
健康監理センター勤務。早期離職決意。手遅れにならないうちに辞典の「中締めの未完の完」、一区切りを渇望する。棚卸し。
バトンタッチによかれの自己評価まで辞典づくり区切りつけたい。それを目指す。
決意から10数年、未だづくり途上、だがもう少し
1. 辞典5ヶ国はかなりレビュー、アップデート続ける。
2. 画像30万枚、まだ途上。見出し語に貼り付け、一枚のフォトアップ、ビジュアル化成し遂げたい。
3. バトンタッチしたい、その準備を万端にしたい。
「自由の翼」を得て、JICA完全離職後ウェブ版「海洋辞典」づくりに専心専念に務めるとともに、海洋博物館などの国内外の海洋歴史文化施設を探訪三昧するいわば「道楽的」生活を楽しんできた。25章におよぶこのいわば「自分史」も執筆できた。
ニカラグア大病後命を繫いできたこと、その後の10年以上海辞典づくり、好きな旅、海洋博物館巡りができた。また3年間の
パンデミックCOVID19がありどこへも出向けなかったが、海外にも足を踏み入れ巡った。常に脳裏から離れないのはニカラグアでの九死に一生のことである。
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* ニ足のわらじは自己を成長させ、JICAの国際協力・技術協力=プロジェクトの運営などへフィードバックでき、日ごろの業務=
プロジェクトのマネッジの向上に役立ってきた。資してきた。その具体例を2,3上げよ。
社外で取り組んできたこと、二足のわらじで得てきた知見、ノウハウは業務を押し上げた。
辞典づくりや海洋制作・法制・海洋開発研究、ニュースレター・白書づくりと世界への発信などは自発的、任意で崇高な活動であったが、
業務にどう具体的に相乗作用をもたらしてきたか。
* JICA: JICA/国際協力、技術協力、国づくり人づくり、思いは
一つ、少しでもこの国や人々の生活を良くしたい、そのために何をすればよいか、どんなプロジェクトをもってなしうるのか、考え続けて
きた。どうすれば、アルゼンチン・チュニジアの漁業教育レベルを向上させられるか、どんなプロジェクトを創生すればよいか、
そればかりを念じて取り組んできた。その成果はいかほどか、取り組んでいる最中はなかなか成果が見えてこない・見えることはない。
兎に角それを念じて、そのベクトルに向かって、日々担当である限り最善を尽くすことでしかなかった。
ニカラグア大病後命を繫いできたこと、その後の10年以上海辞典づくり、好きな旅、海洋博物館巡りができた。また3年間の
パンデミックCOVID19がありどこへも出向けなかったが、海外にも足を踏み入れ巡った。常に脳裏から離れないのは
ニカラグアでの九死に一生のことである。
有る時命をつないでいなければもちろん好きなことに打ち込めた10数年の人生も今を生きる私もいなかった。
命がつながることで旅・辞典づくりなど楽しみがあることのありがたさ、なしえたことがあることのありがたさを感じる。
人生を振り返ればそういうことであった。生かされてここまで76歳まで来た。何度死んだことか、大病を「通過」して時初めて命の
尊さ、命があるかないかの薄い紙一重、表裏一体を知る。
・ 私が毎日楽しければ周りもそれなりに笑顔になるものと思う。自由過ぎる時間を1、2に使う: 1旅して、2海洋辞典づくり
して。離職後はいわば「わがままに生きる」のもよい。金=家計・財政には我慢、語彙拾いにも根気強く、だがそれ以外には殆ど
我慢して生きないことにした。
有る時命をつないでいなければもちろん好きなことに打ち込めた10数年の人生も今を生きる私もいなかった。
命がつながることで旅・辞典づくりなど楽しみがあることのありがたさ、なしえたことがあることのありがたさを感じる。
人生を振り返ればそういうことであった。生かされてここまで76歳まで来た。何度死んだことか、大病を「通過」して時初めて命の
尊さ、命があるかないかの薄い紙一重、表裏一体を知る。
語彙集からインターネットの時代に身を置くことができた。全く技術革新の時代となった。デジタル海洋辞典づくりと
世界的発信が可能となった。転機は1995年のインターネット元年の訪れと、語彙集をホームページとして世界に公表発信.
その後、JICA奉職の傍ら、海洋調査研究と並行してウェブ版「5ヶ国語・海洋辞典」づくりと発信を続けた。
ネット時代、ウェブ辞典づくり専念、世界発し、だが8年も海外赴任。ニカラグアで転機。大病。
ICAでの35年の職業人生は素晴らしいもの。2足のわらじ、1995~2020年まで、辞典づくりにチャレンジ。で海と関わり充実。辞典づくりを通じての楽しみとプライベートも充実は別格。6回もの「青春時代」を送った。
家族も多くの国内外経験し成長した。私生活も何の過不足なくおしなべて安定ラッキーであった。伴侶とも巡りあい、50年共にした。
娘ら家族にも恵まれた。何よりもよかった財産。
JICA多忙、海外赴任8年など・JICAでは途上国の「貧しさ」の中ニカラグア豊かさを発見することもしばしばであった。
、国連への想い、空席への関心、能力の自覚など、国連から遠ざかる、自助努力せず、夢しぼんできた。
それよりもJICA充実、ウェブ辞典づくりと発信、白書づくり、など、チャレンジ多し。
人生楽しかったハッピーであった。それが全て。私が毎日楽しければ周りもそれなりに笑顔になるものと思う。自由過ぎる時間を1、2に使う: 1旅して、2海洋辞典づくりして。離職後はいわば「わがままに生きる」のもよい。金=家計・財政には我慢、語彙拾いにも根気強く、だがそれ以外には殆ど我慢して生きないことにした。
人生総括して、振り返って、個人的には包括的に総体として幸福ハッピーであったかどうか。
何よりも海を共にし、辞典づくりで毎日が充実遣り甲斐がありえた。
世界に異文化に触れ、国内外を旅つづけ、国際社会に少しは貢献し、事典のさわり基礎の基礎を形作り、世界に発信し貢献もした。
何か人生を2倍生き楽しんだような気がするた。大病してたが80歳まで生きながらえた。辞典づくりをその年までやれた。ハッピーであるかどうかが、全てである。
最後は独りの人間として幸せであったと感じるかどうかではないだろうか。この点に関して言えばイエスである。
多くの偶然の運に恵まれ、人々に恵まれた。何よりも辞典づくりで毎日遣り甲斐をもった、ストレス発散に繋がり、遣り甲斐をもてた。
ハピーになり楽しめた。そしてトータルにして人生楽しくハッピーであった。
辞典づくりがあったから、沢山やるべきこと、やりたいこと、やったことがあった。それが次の原動力にもなった。
人生で多くの自分なりのチャレンジ・挑戦をしたと思う。JICAでの35年の奉職、国際社会への貢献、海洋辞典づくり、海洋白書英文
、研究所創設など。船乗り・航海士への朝鮮、国連法務官への兆戦。
・ 代わって芽が出たのは海洋辞典づくり。そしてインターネット時代に開花し、世界に発信できるチャンスに恵まれた。
それは好きなこと、楽しきことの延長線上にあった。完の完ではなく、未完の完でしかない=通過点のみ、しかし命ある限り
燃え尽きるまで好きで楽しきこと=辞典づくりを続けられるのは最高の人生であった。
・ 辞典づくりは人生を豊かにしてくれた。感謝に堪えない。
死ぬまで「命を燃やし続けられる」ことに没頭したい。それが人生の「勝者・勝利者」であると勝手ながら解する。
* 夢を追いかけた:一等航海士、UN法務官、いずれも実現できなかった。だが別の夢を追いかけた。海洋語彙集に出会う。
生涯海のことに関心を持ち、歳老いても続けた。No1・世界一を目指して。生きる目的の一つとなる。歳を取って杖なし、押し車なければ
ある研究所亡くなっても常に遣り甲斐をもって楽しみをみって辞典づくりに取り組みでき、なおも向上心をもって人生歩み続けられた。
30年取り組む。国連は無理、だがJICAで国際協力に取り組む。
* 国際協力とはなんだったのか。
* 世界の海洋法制、日本の海洋政策や海洋開発の動向などの「海洋研究」と、「海洋辞典づくり」にほぼ生涯にわたり向き合えた
ことは、本当に人生を豊かにして幸福・ハッピーにしてくれた。それらを通じて海に関われたこと、海を自身の傍に置き続けられた
ことは最高の人生をもたらしてくれた。
失敗やうまくいかなカット古都、夢破れたもした。だが敗者復活戦ならぬ再挑戦にトライしたことも。新しい夢が閃き夢に向かって
再び走り出し、追いかけ続けたりもした。
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専門知識と語学力なくして国連は無理。さらに米国のワシントン大学で海洋法やその他海洋諸学を学ぶ。海への回帰を果たした。留学後
国連応募に漕ぎ着けた。だがまてども空席は開かず。その後もうひとつの回帰=国際社会への回帰をJICA奉職で果たした。
米国留学を実現させ国連に応募した。国際海洋法務官への道のりはついに何十年も後の
ことになるが、最後には途切れついえてしまった。そういう総括は余りに身もふたもないので、もう少し歩みを振り返りたい。
だが夢を追いかけたことは無駄ではなかったし、その過程でいろいろな出会いがあり多くの物を得た。
他方でいわば第二の人生は国際協力事業団(JICA,後の国際協力機構)とともに歩んだ。
人生のイタズラ=新聞広告での職員の社会人採用、転機はJICA奉職であった。国際協力事業団(JICA,に奉職し、発展途上国の国づくり
人づくりに30年以上携わることができた。正にJICAでの国際協力、技術協力が天職となった。多少とも国際社会への貢献をなしえた。
JICAへの奉職が叶った。航海士になって異文化世界に触れてみたいと憧れていたが、JICAの業務を海外出張を通じてかなった。
国連での業務を通じて国際貢献を希望したが、JICAのそれを通じて何がしか為し得た。
ほぼ10年以上の海外赴任と数多くの海外業務をこなした。
水産室での多様な海外漁業プロジェクトの運営管理、「アルゼンチン漁業学校プロジェクト」への赴任など7年はUN奉職のキャリア
アップともなった。だが、海洋法務官のポストが開かないままほぼ10年が過ぎ去ってしまった:1976~1984年頃、林氏の離職何年?。
...........................................
> 海洋を巡る社会・科学・技術的課題を研究しその課題解決をめざす、あるいは海洋法制や政策、動向などを調査研究することが
先ずありきである。しかも学際的領域にある。つまり、海洋研究のサブ領域として、海洋科学・技術、海洋法、経済、水産、生物や
非生物資源の開発管理、海の環境保全、海運・海上輸送、海洋エネルギー開発など、広範囲で奥行きが深い。
そして、調査研究の成果として幾つもの論文など英文、外国語で執筆、公表、海外へ発信される。
他方それらを学び執筆の過程で海にまつわる専門的語彙・用語、キーワードなどに巡りあう。日本語英語で何というか。
そして、それらを語彙集として取りまとめるチャレンジした。チャンスは2度あったが具体的なものに結びつかず。
しかし、1980年代中期アルゼンチン漁業学校プロジェクトの技術協力で赴任した折、日英西語の専門語彙に日常接し、主に航海、漁業、
海洋生物など、語彙拾い・集積するチャンスに恵まれ、以来語彙集・海洋辞典づくりへと繋がって来た。
他方、語彙集用語集辞典づくりの成果を1990年代中期ネット時代が到来し、ホームページウェブを作成し世界に発信できた。
1.重要なのは海を巡る課題解決につながる政策研究と、2。副次的成果である辞典づくり。それらは車の両輪である。
それも1は「前輪」であり、2は「後輪」である。1がつねに先導・穿孔して取り組むことであり、2はそれを支える後押しする
取り組みといえる。
辞典は海洋研究を進めs課題解決に役立てようとするもので、いわば前輪、その基盤をなすもの。
研究する過程で、また研究を通じて辞典はより進化し、増殖され、他方辞典は研究をサポートし、課題解決のための「友」となり、
「補助エンジン」となる。
* さて、その意義をどう考え、整理すればよいのか悩み続けている今日。
* 海への回帰、関わり方はつねに大きなテーマであった。
起点は船乗りへの憧れ夢→ 夢破れ海から遠ざかる。他方で新しい夢が閃きそれに取り付かれる。すなわちUNへの奉職めざした。そこで院へ・
国際法専攻。そこで海洋法と深く関わる。他方語学力なくしてUNなし、奉職への可能性を高めるべく留学志す。UWへ留学、そこで専攻
したのがL&MAプログラム、海への回帰の一歩から=初歩的な回帰から、海への更なる回帰、本格的な回帰、confirmative homing/return to the ocean affairs.の
へとつながった。
* JICAに転職得てどうだったか。金儲けの大の苦手の私は全く運よく政府特殊法人のJICA就職、しかも途上国への技術協力を
通じて国づくり人づくり「国際社会貢献」でき、この上ない喜び、遣り甲斐、生き甲斐となる。特に水産室4、漁業学校
プロジェクト3で、しかももっとも専門領域とする
海・水産の知識生かして漁業発展を支える一翼担えた。
* 他方でUN奉職への希望を持ち続ける。空席チャンス待ち続けた。その希望を永続させるのは意外と努力要る。UN法務官、海洋法務官、
国際公務員目指して、高すぎる目標、目標・ハードルはどんどん高くなり意欲希望逆に低くなる。それでもキャリアアップ維持すべく自助
自主努力して海洋研究続ける、「海洋法研究所」立ち上げ創始、さらにその主事業として日本法制・政策を分析まとめ英語
版ニュースレターと白書の類い刊行、二足のわらじは水産室配属1980頃から、亜国除いて、帰国後5,6年の1990年代初期までが
その頃最高潮。
* しかも亜国赴任中ビッグ閃き=海洋関連語彙の拾いと語彙集づくり。帰国後も続行、白書刊行とづくりは両輪となる。
しかも、1995年ネット元年、ウェブ海洋辞典づくりに取り組み始めた。それから、20数年ネットで公開してきた。他方で、2020年代には
生成AI=人工知能の発展が著しくなる。進化は爆発的。辞典づくりや辞典そのものの存在意義につき自問自答することになった。
* 海への回帰、海洋研究と海への興味・好奇心をずっと持ち続けてきた。それによって死ぬまで生涯楽しめることになった。
また辞典づくりによっても楽しめた、また成果もでた。自身を向上できることを、プロセスから多くを学ぶこともできた。
だが、ネット技術に助けられた=一心同体で辞典充実、だが暫くして生成
AI時代となり、自主海洋研究がAIとどう関わるのか、関係性が分からなくなり、辞典づくりの意義を見失いそうになる思いがする。
どんな人生だったか。総論してみれば、ワンパラグラフでいえば。3回死にぞこない、凡人努力あるのみ。結果からよりもプロセスから多くを学んだ。幸せは目の前にある。人生トータルに総括したらどうなる:3-4行に。
* ベストな10設問、それを各主テーマで続ける、翻訳用パラグラフを20作成し翻訳させてみる。GPTなどAIをノートパソにインストール。使い倒す。
* 海のことや、marine affairsのことなら何でも好奇心をもって学びし入りたいとの思いに溢れる。それが私の本質であり、また
本性としてきたところであった。いわばまた日々楽しみとするところでもあった。
* 海への回帰、海洋研究と海への興味・好奇心をずっと持ち続けてきた。それによって死ぬまで生涯楽しめることになった。
また辞典づくりによっても楽しめた、また成果もでた。自身を向上できることを、プロセスから多くを学ぶこともできた。
だが、ネット技術に助けられた=一心同体で辞典充実、だが暫くして生成
AI時代となり、自主海洋研究がAIとどう関わるのか、関係性が分からなくなり、辞典づくりの意義を見失いそうになる思いがする。
・ 凡人の生涯での出来事、大圏、様々な思いやチャレンジしたこと、しようとしたことなど、どれほどの価値・有益なものなのか
わからないが、それを綴ってみた。
出来事ではない。現実に起こっていれば自身はこの世から消えていたはず。人生を左右どころか終止符を打つ出来事になっていたはず。
そうならず事なきを得たことに運命を感じる。
* 人生よくここまで生きながらえた。何度死にぞこないの経験をしたことか、みんな自分が自身に招いたこと。深夜信号無視で通過、
その瞬間別の車が同じ100kmのスピードで横切った。200kmの速度でエンジン部が激突したと思った。同乗者は眠っていた。4人は死んでいたはず。
居眠り運転の怖さ。気が付けばセンターラインをまたいで走行していた。はっと対向車のヘッドライトに気付いて左車線へ、、、。
何度か繰り返した。
アルゼンチンの高速道路で、本線または分岐道、迷っているうちに二又の分離壁に激突か。
逆に横断中の老婆を跳ね飛ばした。トラウマ。行政罰3ヶ月免停、刑事罰無罪放免だがショックから立ち直るのに1-2年。
* どんな人生だったのか。大志を抱き村にくすぶるつもりはなかった。世界を股にかけて何かをしたかった。先ず船乗りになって世界の海を
航海、諸国を知りたかった。しかし、夢破れ目標見失う、しかしその後新しい夢が生まれた・閃く、UN法務官への夢、大学院へ、そこで
研究生・浪人となって海洋法と接する。回帰、UWへ留学、そこで海洋法専攻、海へさらに回帰。
だが、空席なく10年。
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留学帰国後か政策法制研究の個人事務所へ、そこで続行しかし経済的には苦しい困窮。1年後JICA社会人の中途採用、天職得る、
30年国際協力。
7年水産、アルゼンチン赴任で海の語彙拾い閃き、英語・スペイン語語彙拾い始める。パソコン活用で効率化。
・ どう踏ん切りつけるか、区切るか、悩む中で1995年ウインドウズ発売、インターネットの時代到来。海洋辞典のウェブサイト
立ち上げる、世界に発信、語彙拾いの努力実る。
・ 浅野先生との出会い、海洋法研究所の創始、英文ニューズレター発行、海洋白書・年報発刊チャレンジ、二足のわらじ&第二の天職
となる。だがボランティアワーク。
世界の諸国と国際協力をフィールドにした。海の語彙の大海をフィールドにした。
留学帰国後海に関わる仕事を模索し、他の選択肢はあったはず、だが模索しないで事務所へ。そして幸運にもJICAへ。
JICAで国際協力に邁進しながら、他方海洋法研究所で研究続けながらUNへの可能性を待ち続けた。だが、空席なく。
またUNへのアプローチ努力せず、芽は出なかった。
・ 夢や憧れは結局は実現できぬままの人生であった。
青少年期に外国航路、それも南米航路就航の移民船「ぶらじる丸やあるぜんちな丸」
の船乗りを夢見た。だが、航海士への夢は高校3年次に潰えてしまった。その後大学生の後期に、国連への奉職、それも法務官を
チャレンジするのを決意した。そして、米国留学を実現させ国連に応募した。国際海洋法務官への道のりは途中で途切れてしまった。
だが夢を追いかけたことは無駄ではなかったし、その過程でいろいろな出会いがあり多くの物を得た。
・ いわば第二の人生は国際協力事業団(JICA,後の国際協力機構)とともに歩んだ。
人生のイタズラ=新聞広告での職員の社会人採用、転機はJICA奉職であった。国際協力事業団(JICA,に奉職し、発展途上国の国づくり人づくりに30年以上携わることができた。
正にJICAでの国際協力、技術協力が天職となった。多少とも国際社会への貢献をなしえた。ほぼ10年以上の海外赴任と数多くの海外業務
をこなした。水産室での多様な海外漁業プロジェクトの運営管理、「アルゼンチン漁業学校プロジェクト」への赴任など7年はUN奉職のキャリア
アップともなった。だが、海洋法務官のポストが開かないままほぼ10年が過ぎ去ってしまった:1976~1984年頃、林氏の離職何年?。
それに、JICA就職して間もなく半径3mにいた今の妻と結婚した。就職と結婚をもって、過去の生活から全く異なる人生を始めた。
・ だが、2足のわらじは履き続けた。
UNへの夢は追い続けたのでキャリアアップはいつも務める必要があった。すなわち、世界の海洋法秩序や
法制の研究、日本の海洋政策や海洋開発動向など絶えずフォローし、その調査研究を論文等を執筆に務めた。他方、任意の非営利団体
としての「海洋法研究所」を共同して創成し、「ニュースレター」(邦語・英語版)や、さらに「海洋白書/年報」(英語版)を発行・国内外へ
公表もした。その過程で海洋辞典づくりを試みたが十分な形にはならなかった。
・ 振り返ると人生の一つの転機はアルゼンチン赴任中に訪れた。日英西語3ヶ国専門語彙拾いと蓄積を閃いた。
アルゼンチン漁業学校プロジェクトでは3ヶ国語で航海、漁業、水産加工、海洋生物などの専門用語が飛び交う。それらの語彙を拾い
大学ノートに書き留めることを閃く。パソコンの日本語入力ソフトで処理、デジタル化。
・ 転機は1995年のインターネット元年の訪れと、語彙集をホームページとして世界に公表発信
その後、JICA奉職の傍ら、海洋調査研究と並行してウェブ版「5ヶ国語・海洋辞典」づくりと発信を続けた。
・ 「自由の翼」を得て、JICA完全離職後ウェブ版「海洋辞典」づくりに専心専念に務めるとともに、海洋博物館などの国内外の海洋歴史文化
施設を探訪三昧するいわば「道楽的」生活を楽しんできた。25章におよぶこのいわば「回顧録・自分史」も執筆できた。
・ 結局、総括すれば、何のためのどんな人生であったか。一言三言。
> 海洋を巡る社会・科学・技術的課題を研究しその課題解決をめざす、あるいは海洋法制や政策、動向などを調査研究することが
先ずありきである。しかも学際的領域にある。つまり、海洋研究のサブ領域として、海洋科学・技術、海洋法、経済、水産、生物や
非生物資源の開発管理、海の環境保全、海運・海上輸送、海洋エネルギー開発など、広範囲で奥行きが深い。
そして、調査研究の成果として幾つもの論文など英文、外国語で執筆、公表、海外へ発信される。
他方それらを学び執筆の過程で海にまつわる専門的語彙・用語、キーワードなどに巡りあう。日本語英語で何というか。
そして、それらを語彙集として取りまとめるチャレンジした。チャンスは2度あったが具体的なものに結びつかず。
しかし、1980年代中期アルゼンチン漁業学校プロジェクトの技術協力で赴任した折、日英西語の専門語彙に日常接し、主に航海、漁業、
海洋生物など、語彙拾い・集積するチャンスに恵まれ、以来語彙集・海洋辞典づくりへと繋がって来た。
他方、語彙集用語集辞典づくりの成果を1990年代中期ネット時代が到来し、ホームページウェブを作成し世界に発信できた。
1.重要なのは海を巡る課題解決につながる政策研究と、2。副次的成果である辞典づくり。
辞典は海洋研究を進めs課題解決に役立てようとするもので、基盤をなすもの。
研究する過程で、また研究を通じて辞典はより進化し、増殖され、他方辞典は研究をサポートし、課題解決のための「友」となり、
「補助エンジン」となる。
................................................
辞典づくりは続く、旅も続く、生涯海を共にして、リッチな人生になった、楽しんだ。他方Ai,IOT時代、バベルの塔を創ろうとして
神の怒りをかい無数の言語が入り混じる世界にされたといわれるが、人類は今それを克服しようとしているのか、AIのシンポ
によってで言語の壁は克服するのであろうか、他方で海にまつわる営みは深まり海洋技術も進化しよう。
・ だが、無数の一般・専門辞書辞典と同じく、海洋辞典が不要になるなることはない。その進化進歩の正しさを検証する「原典」
はいかに言語の壁が薄くなろうとも、原典として時空を超えて進化し続けなければならず、必要不可欠な存在にあり続ける。
家族と現代に共にあること、存在すること、暮らすこと、生きる事と同様に、海洋辞典づくりは「生きること」そのもの、
生きることを実感することである。同じ出る。
● 海洋辞典づくりという、時間を忘れて打ち込める・没頭できるものがあったからこそ、「自由の翼」をフルに活用できた、
その恩恵を受けることができたといえる。没頭できる物がなかったならば、そんな翼も宝の持ち腐れであったであろう。
また、視点を変えれば、その翼のお陰で辞典づくりは持続可能となったといえる。
* 辞典づくりすることは生きることであり、生きることは辞典づくりすることである。
アルゼンチンに赴任して海の語彙拾いを始めて以来そうであったが、特にJICA現役を引退して「自由の翼」を得てからはまさに
そういうことであった。
人生を総括したらどうなる。子孫への教訓思い家訓
* 子ども・孫にどんな言葉・思いを残したいか: 3つの死に損ないの交通事故・居眠り・深夜信号無視・アルゼンチンでの高速道路にて、
人身事故、山登り、、夢、50のエピソード、UN志、偶然の奇蹟、
* 道楽の有意義、暇つぶしの有意義、遠回りの有意義、ブータン事件から何を学んだか、父の突然死・その日には帰らぬ人、母の教え、
祖父から学んだこと、贈り物、笑ってやれ論-苦しいことがあってもいつかは陽を見る
、
* 出向、回り道、何を学ぶ。
* オヤテ川から何を学んだか。
最大のおのれの弱点
WVとは、何を学んだか、トラウマからの脱却
留学とドロップアウト、最大の危機
青春は6度もあった
人生何が起きるか、原発事故、奇跡の生還、、、
志なくばチャンスをチャンスと気付けない。:JICA広告も、法務官のUN記事も、志なければ眼前を通り過ぎるだけ。志なければチャンスと
気付けず。
好きこそ、全てに勝。楽しむことはさらに優る。毎日の楽しみをもつこと。おれの場合は辞典づくり
多くの紅海、幾つもの試練、忸怩たる思い。祖父母の死に目にあえず、
トラウマにもよるが、そのリカバリーに何倍もの努力いる。
夢はいつか実現する:パナマ運河。船乗りの夢は実現できず、だがそれに近づけた。海を共にして。海を舞台にした職につけたはず
だが、思いつかず。次の夢へ=UN,→辞典づくり。
何をしたかも重要だが、何に取り組みチャレンジしたかがもっと大事。
生涯取り組めるテーマあれば、それは人生豊かにしてくれる。
早期退職・引退、自由の翼、楽しみにしていた。辞典づくりという退屈せず時間を暇つぶしで楽しめる自信があった。
遠い先にある夢・思い・志と、目の前にある父なき農事手伝い。後者に堪えられたのは前者があったから。
私を救ったのは偶然の新聞の一コマ広告、だがそれを目に止めチャンスにしたのは志があったから。
・ いろいろな選択肢があったはずだが、全く目に入らず。船乗りになって動き回ることしか念頭になかった。それに拘泥した。
実際に歩んだのは航海士でも国際公務員・国連職員でもなかった。それを生業にしたかったがなしえなかった。
人間いくつもの生業を同時に選択し生業にするのは不可能、結局JICAという一つの生業を歩んだ。そして「非生業」である「海洋
辞典づくり」を伴とした。「白書・年報」をその一部に組み込もうとしたが道半ばである。だが、
未だその希望を繫いでいる。
・ 柔軟性・しなやかさをもって海と関わり合いをもつ別の生業もあったが、、、、、、。しかし、海洋辞典づくりという省外付き合える
関われるものと出会った。国際公務員の志しに替わるものとして。それは人生をenrich豊かにしてくれた。
辞典が完成したわけでない。完成などありえない。命のある限り、再興の物をめざし、トップをめざして人生を歩み続けられるという
プロセスそのものが素晴らしい。No.1, only one を目指して完成などしなくともそのプロセスを楽しむものである。そのプロセスはカメの
歩みの如くであるが、それへのチャレンジは人生を豊かにしてくれた。
・ AIが進歩しようが「原典」がいる。「海洋辞典」がその内の一つとなれることを目指している。
・ 海洋研究所創始、海洋白書・年報類いの発行は、二足のわらじであるが、営利目的の副業・複業ではない。二足目は非営利の
ボランティアワークである。一足目は転職のJICAでの国際協力。
* 世界の海洋法制、日本の海洋政策や海洋開発の動向などの「海洋研究」と、「海洋辞典づくり」にほぼ生涯にわたり向き合えた
ことは、本当に人生を豊かにして幸福・ハッピーにしてくれた。それらを通じて海に関われたこと、海を自身の傍に置き続けられた
ことは最高の人生をもたらしてくれた。
上記総括にどう吸収するか。
人生そのものが冒険に違いない。アドベンチャーの世界である。幸運や悲運の出来事、成就しえたことや為し得なかったことなどで
満ち満ちている。最後に「人生航路」の歩みをざっくりと総括してみたい。
物心ついた頃に虜になった夢は船乗りになることであった。その夢を実現しようと神戸商船大学への進学を志したが、受験の土壇
場で叶わなかった。視力不足などを見逃してくれるはずもなかった。航海士として世界の諸港で異文化と触れ合うという夢はもろくも崩れ
去ってしまった。
普通の大学に進学し、すっかり海から遠ざかった。大学での部活として、山歩きに没頭するようになった。大学三年生の後期末に雪山で合宿をしていた。下山すれば就職活動の号砲が鳴り響くはずであった。その雪山テントの下で寝袋に潜り込んだ私は、その先の進路に悩んで頭は冴えて寝つけなかった。その時、国連の法務官への奉職を閃いた。国際社会のために何がしか役に立つ仕事に就くことを決意した。
その数ヶ月前に、単行本の岩波新書で明石国連事務次長著の「国際連合」を読んでいたのだが、それがふと脳裏に去来したことが大きかった。
自身の進むべき道は決まった。迷いは完全に払拭された。大学院に進むこと、そこで国際法を中心に学び直すことを決心した。
さらに、留学をも視野に入れて、その実現に向かって挑戦することにした。カナダで、当時最も関心を抱いていた国連平和維持軍の研究
をすることにした。カナダのトルード首相はその当時平和維持軍の熱心な主導者であった。修士課程の修了年の夏頃には渡加の途に就きたかった
が、第一希望の大学からの合格通知は待てど暮らせど来なかった。
かくして、院修了後「留学受験浪人」となってぶらぶらする訳にも行かず、院に特別研究生として一年間在籍し、国際法のゼミに
参加できる手続きを取った。人生の回り道としか思えなかったが、セカンド・ベストの選択であった。昨年までのゼミ担当教授は定年退職
され、取って代わって竹本教授になっていた。
折りしも第三次国連海洋法会議が1970年代初めより開催され、世界諸国が「海の憲法」づくりに向き合っていた。ゼミの研究テーマ
として新海洋法条約草案に資するための各国提案が扱われた。そこで初めて真剣に海洋法条約案に向き合った。留学は先送りとなり、人生の回り道、
遠回りに身を置いた。だが、後にそれは回り道ではなく、海に回帰する入り口であったことが分かった。
商船大学受験が叶わず航海士への夢を諦めて以来、海に回帰し、海に関わることに立ち戻るわずかな兆しをえた。だが、その当時そんな認識はほとんどなく、先々のことは何も見通せていなかった。後で振り返れば、それが海への回帰のはしり、きっかけ、あるいは起点と
なったことを知ることになった。
カナダ留学の展望が開けず、米国の大学にも応募することにした。それが米国北西海岸にある港町シアトルのワシントン大学であった。
既に願書と3通の推薦文を提出して、合格通知を待ち焦がれていた。
その頃、大学院のキャンパスでタブロイド版の学内新聞を拾い読みしていたところ、偶然にもある記事が目に留まった。母校の
先輩がNY国連本部で法務官として活躍されていることを紹介する記事であった。余りの偶然に鳥肌が立った。記事を何度も読み返し、
どうすべきか思案した。
記事に大いに刺激され、迷わずレターをしたためることにした。国連事務局での内部事情や仕事のことについて何でも生の情報や
助言を得ようとした。そして、幸運にも、今度一時帰国するので会う機会があるかもしれないという連絡もいただいた。
ある日突然電話をいただき、羽田空港でならば少し時間を割いて話しができるというので、数日後上京した。そしてびっくり仰天の
展開が待ち受けていた。曽野氏がワシントン大学のジュリス・ドクターコースを卒業、しかも留学できた
場合私の指導教授と目されるW.T.バーク教授は曽野氏がよく知る人であることが明らかとなり仰天させられた。
曽野氏はその日羽田空港を発ってシアトル経由でニューヨークに戻る予定とのこと、ワシントン大学に立ち寄りバーク教授に会うかも
しれず、その時には今日のことが話題になるかもしれなかった。別れ際になって、推薦状がいるなら後日また連絡してくれてもよいとおっ
しゃっていただいた。何と言う奇遇の、そして有り難いお話をいただいた。何が起こっているのか頭を整理できないほどであった。
かくして、幾つかの全く予期せぬ偶然に助けられて、その数か月後合格通知書を受け取った。学内新聞の記事との遭遇から始まって、
幾つかの奇遇がなかりせば、留学もその後の人生もなかったに違いない。
ワシントン大学ロースクールには2つのプログラムがあった。「アジア法プログラム」と「海洋法総合プログラム」であった。もちろん後者を
選択した。竹本教授の国際法ゼミで新海洋法条約の諸提案に関わっていたことは一つの自信につながった。留学を後押しもした。また、
同海洋法プログラムは海への回帰の道筋をより鮮明なもにしてくれた。
だがしかし、留学は厳しかった。教授の勧めで早目に渡米し語学学校で語学力の向上に励んだものの、その不足を痛感するばかりであった。
深刻な挫折を味わった。肝心の海洋法講座では「C」をマークし、ドロップアウトを真剣に悩んだ。そうなれば曽野氏をはじめ推薦を
いただいた恩師らに申し訳が立たなかった。次学期にカバーできなければ帰国止む無しと覚悟して頑張ることにした。学究論文を死に物狂いで執筆、それで「C」
を「A」で相殺し「B」にできた。留学放棄をなんとか思いとどまった。
単位の完全取得は翌年の夏期まで持越し、他方で就活が気になっていた。卒後すぐに国連事務局へ願書を提出する予定だったが、
海洋法務官の専門職の空きポストに出会い、面接試験などを受け全くストレートに奉職できるというほど甘くはなかった。
そんな夏期の頃、資料集めにメイン・ライブラリーに出向いた折、留学して初めて朝日新聞を手に取った。そこで、「論壇」のページ
に行き当たった。海洋環境コンサルタントの麓氏が東シナ海での日韓大陸棚協定や国連海洋法会議での議論などに触れていた。同氏は
海洋環境や海洋政策・法制などを調査研究する個人事務所を主宰されていた。
個人事務所とはいえ、海洋政策・法制の調査研究を続けられるのであれば、国連応募途上にあってもキャリア形成にプラスとなることが
期待できる。早速、事務所での受け入れを依願すべくレターをしたためた。その後、別件で渡米されシアトルに立ち寄られ、面談することができた。
図書館で新聞に遭遇していなければ、この繋がりは生まれなかった。麓氏に救われることになった。
1975年初秋に帰国後すぐに事務所に転がり込んだ。麓所長はその当時国会に上程されていた日韓大陸棚協定批准書案は日本の国益を
害するものとして、その持論を展開することに専心していた。他方、事務所には特段の決まったルーティンワークはなく、ランダムの翻訳や
資料収集、記事執筆などいろいろ取り組んだ。だが、事務所の経営財政は厳しかった。定期収入につながる調査研究や定期情報誌の
編集・発刊などの仕事はなかった。給与は所長のポケットに依拠していたようで、心苦しかった。
調査研究の展望を切り拓こうにもなかなか思うようには行かなかったことが最も辛かった。
国連には応募済みであった。国連法務官のポスト待ちであってもその間キャリア形成やアップに繋げることができる積み重ねが必要であった。
事務所はそういう意味では有益であった。履歴書に職務上の実績を一行でもプラスすることができた。特筆すべきこととしては、麓氏の紹介で
私と同じ学問領域にあった東京水産大学国際海洋法講師の浅野先生と知り合うことができ、後々指導を受けることになった。
事務所の何が不安であったか。周りには同世代の仲間がほとんどいなかったこともあるが、むしろ事務所の海洋調査研究活動の将来における
発展の展望が見通せなかったことが大きな悩みであった。そのことで日々悩み不安を抱えていた。
事務所勤務が半年ほど経った頃、近くのカフェで何気なく朝日新聞を広げ記事の見出しを目で追い拾い読みをしていた時、社会面に
掲載された小さな広告記事が目にとまった。国際協力事業団(JICA)が社会人を中途採用するというものであった。
何はさておき応募することにした。数次の試験を経て採用された。一つの出来事で人生が丸ごとすっかり変わることになった。
1976年11月1日にJICAに勤め出した。
日本政府の政府開発援助(ODA)の一つである対外技術協力を日本政府の名の下に実施することを通じて国際貢献するという世界へ身を
投じることになった。だが、それによって海との繋がりはどうなるのか、またもや海から遠ざかるのか、全く未知数であった。最初の配属先の研修事業部
では少しはあった。例えば、沿岸鉱物資源探査やマンガン団塊探査技術などに関する研修プログラムの運営管理に携わることができた。
わずかなことであったが、そんな接点でも私的には大きな喜びであった。
他方で、国連応募との関連でキャリア形成を続けるためには自ら海洋研究テーマを設定しそれを論じ続け、海洋法関係者らとの接点を模索し
続ける他なかった。国連ポストの空席化と面接試験への呼び出しに備えて、キャリアをアップし続ける必要があった。だが、国連海洋法
事務局からの連絡では、日本人の海洋法務官の空きは現在のところないとの情報をもらっていた。兎に角、留学時での研究成果を呼び起こし、
論文として改めて取り纏めたりして、大学紀要などへの掲載にも務めた。
JICA奉職はもう一つの大きな出来事をもたらした、研修事業部で人生の伴侶に巡り会えた。それは半径5メートルの世界であった。
JICAへの就職によって経済生活力を得たと同時に、伴侶にも巡り会え、人生航路の新たな出発点となった。就職してわずか半年ほどで
後のことであった。
さて、3年後、人事部が私の履歴書に目に止めたようであった。次の配属先は何と水産室であった。世界の途上国での水産
関連プロジェクトの実施部門であった。私の専門領域・学歴からしてこれ以上海に関われる部署はなかった。海への本格的な回帰
となった。キャリアを積み重ねるにはベストな部署に違いなかった。そこに4年近くも在籍し、水産プロジェクトの運営に没頭した。
漁撈、養殖、漁業調査、水産教育の四大プロジェクトの運営のみならず、中東産油国での養殖研究センター建設の施工監理にも携わった。
FAOの水産局にて水産技術協力プロジェクトを実施するのと同じような業務であった。経歴アップには申し分なかった。だが、その間も
海洋法務官の空席化はなかった。
他方、JICA奉職後暫くして、浅野先生に「海洋法研究所」の創建を相談した。そのメインの活動は邦語・英語のニュースレターを発刊し、
日本の海洋政策・法制などの情報を国内外へ発信することであった。遣り甲斐のあるボランティア活動であった。経費は浅野氏と分け合った。
JICAと研究所の二足のわらじを履くもので、最も多忙な日々を何年か過ごしたが、最も生き生きしていた。
水産室2年目のある日、イスラム圏諸国でのプロジェクト運営が多かった私は、同僚に聞こえるようにある「独り言」を漏らした。
その結果、同僚とプロジェクトを交換しえた。その一つがアルゼンチンの水産教育プロジェクトであった。プロジェクトはまだ未成立であった。
かくして年3回もアルゼンチンを往復し、その対外交渉にチャレンジした。そしてその成立に漕ぎ着けた。プロジェクトの現地駐在
コーディネーターについては事情に長けたJICA職員、即ち担当者である私を派遣するのが適当であると訴え、自らも赴任を志願した。
他方で、スペイン語の習得に努力を重ねた。NHK語学講座をほぼ2年間独習し、加えてJICAによるスペイン語講座を基礎コースから
中級さらに上級コースをトータル1.5年にわたり履修した。人事課に「スペイン語研修者に中内あり」と認めてもらうべく、常に100%の
出席率と最優秀の成績を修めるべく努力した。そのアピールの甲斐あって、また上司の理解を得て赴任することになった。
その赴任が自身に何をもたらすことになるか知る由もなかった。
1984年春アルゼンチンに赴任した。家族は事情で半年後にやってきた。そこで、家族と共に「第3の青春」を送った。初年度は、3名の専門家
とプロジェクト立ち上げに苦労したが、当然の生みの苦しみであった。赴任をサポートしてくれた上司らの期待に応えるべく
辛抱強く取り組みプロジェクトを軌道に乗せた。
2年目になって突拍子もないことを突如閃いた。プロジェクトでは航海、漁業、海洋生物などの専門用語が日本語・スペイン語・英語
で日常的に飛び交っていた。聞き流しておくのはもったいないと、それらの海洋関連語彙を拾い上げ、大学ノートに書き留めることを思い付いた。
海洋語彙集を作成するまたとないビッグチャンスであった。
語彙を拾い上げてはABC順にノートにどんどん書き溜めた。アナログ入力の世界であった。何カ月か経るとノートが何十冊にも積み上がり
語彙の重複有無を照合するための作業に余計な労力を注ぎ込むことになった。そこで、必要に迫られパソコンの手習いに踏み切った。日本語
文章作成ソフトの「ワード」をもって語彙を蓄積することにした。語彙の加筆修正、重複照合は大いに効率化され、語彙集づくりはアナログから
デジタルへ急速にシフトした。
ところが、その後の2年間の任期残は語彙集づくりには余りに短かった。赴任中納得の行く語彙集が完成するに至る訳もなかった。問題は帰国後も
語彙拾いとパソコンによる語彙集づくりを続けるかどうかであった。止めれば全ての努力は無駄に帰すことになるとの思いを胸に刻んで続ける
ことにした。1985年から1995年のネット元年までの10年近く何とかやりこなした。
帰国後もう海と関係する部署は無かった。職務を通じて海と関わることは期待できなかった。因みに、農業分野での投融資業務、コンサルタント
選定・契約業務、職員への福利厚生業務、さらには国際協力システム(JICS)への出向など、国内での業務遂行に塩漬けとなった。それは
前々から分かっていたことであり驚くことではなかったが、職務的には海から遠ざかるばかりとなった。これまでの水産室4年、アルゼンチンでの漁業教育プロジェクト
3年の業務こそ夢の様なキャリヤアップにつながる職歴をばく進できた。
だが、職務が海と無関係となったとはいえ、キャリアアップを続けることは大事であった。それに何としても海洋政策・法制関連の研究
を続け、海との接点をもち続けたかった。理由は「海大好き人間」であったからである。
それこそが、海洋辞典づくり(語彙拾いとデジタル版語彙集づくり)の継続の原点、原動力でもあった。
アルゼンチン帰国後は、浅野先生と共同して「海洋法研究所」の活動を再開した。その海洋研究活動のメインとして、日本の海洋政策・法制を
扱う英語版「海洋白書・年報」の類の創刊に取り組んだ。キャリアアップにもなると期待した。
職務上は海から遠ざかるばかりであったが、個人的な取り組みとして語彙集と英語版年報づくりに専心専念した。遣り甲斐は全開であった。
国内では3つの課を渡り歩いた後JICSに出向したりもした。森氏との出会いは、ブルドーザーなどの道路整備機材の現地調査の折であった。
同氏はその道すがら、インターネットのことについて、口角泡を飛ばしながら熱く語ってくれた。また帰国後は、ネットサーフィンのデモンストレー
ションまでしてくれた。私的には目からウロコがこぼれ落ちるような衝撃であった。アルゼンチンから帰国してほぼ10年後の1996年のこと
であった。計らずも急にネット世界へのドアが開かれ、別次元へと足を踏み入れることになった。
ネットを通じて語彙集を「デジタル海洋辞典」として世界に発信できる時代が既に到来していることを実感した。
新しい夢の扉が開かれたという思いであった。過去のこれまでの語彙拾いの成果が急に脚光を浴び、それが陽の目を見るかのような衝撃を受け
身震いするほどであった。
早速ネットのためのハード・ソフト環境を整え、独学でホームページの作成方法を学び、語彙集を徐々にホームページ化し、ついに「海洋
辞典」としてネットにアップした。ネット上でリアルタイムで自作の辞典をブラウザで閲覧できた時は、感激の余り感涙であった。感激で
鳥肌が全身に立った。かくして、ネットの黎明期において、国連奉職への夢に次ぐ、あるいはそれに取って代わる新しい夢というか、
大目標が眼前に現われた。
JICSへの出向は人生の回り道、遠回りではなかった。JICSではじめて無償資金協力業務を経験し、そこで得たノウハウはJICAに復帰後
さらに深められ、かつずっと長く活かされた。また、森氏との出会いはネット世界への誘いとイコールであった。いずれはネットのことを知り、
辞典づくりへの活用を目指していたことであろう。だがしかし、同氏の誘いはデジタル辞典づくりを一歩も二歩も早めてくれた。
余暇時間をもって、少しずつではあるがデジタル辞典づくりを楽しんでいた頃、国連奉職への夢と希望は私の心から自然体で脳裏から消失しつつあった。
先ずもって、国連での国際社会への貢献ではないにしても、日本政府のODAという国際協力を通じて国際社会に何がしかの貢献を担い、
既に20年近くも深く関わっていた。それにもう若くはなかった。
国連法務官職の新参者としてチャレンジするには後ずさりするような
状況であった。英語もスペイン語も大分錆びついていた。それにJICAの年俸も国連に比して実質的に遜色なかった。日本をベースにした
国際協力の業務と私生活が充実していた。それに、海洋辞典づくりと世界への情報発信という新しい夢や目標に向けて羽ばたいていた。
もう国連奉職の夢を諦めても心の傷は十分に癒されるという思いが生まれていた。たとえ、かつての夢が挫折しても新しい夢を描き追いかけつつ
前に進んで行けばよいと悟った。
後で知ったことであるが、日本人海洋法務官は1996年頃にその職を離れられたらしかった。その数年前には国連海洋法条約は加入国数の
条件を満たし成立していた。私的には、海洋語彙集のホームページ化に取り組み始め、前のめりになっていた頃である。
2000年になって、人事課長と立ち話の中で私が漏らした「独り言」が功を奏して13年ぶりに海外の協力最前線に赴けることになった。
パラグアイであった。「海なし国」で、四方の隣国の海辺に辿り着くのに飛行機で数時間はかかりそうであった。だが、スペイン語圏であり、
とりわけ西和海洋辞典づくりの生活環境としては有り難かった。在任中は、スペイン語をもう一度真剣にやり直したかった。既にネットの通信速度は
パラグアイでも圧倒的に進歩し、辞典データを更新するのに日本に居る場合と遜色なかったので大いに救われた。
それに、2000年頃にはデジタルカメラの普及がハイスピードで進んでいた。また「海なし国」ではあるが、何と2つの船舶博物館がある
ことを知り、早速訪ね歩いた。その貴重な博物館画像をホームページにアップして世界に紹介することを閃いた。
それがきっかけで、本格的に諸国の海や船画像をアップすることで辞典をビジュアル化することも閃いた。
その後、週末や休暇を利用して隣国のブラジル、チリ、アルゼンチンなどの海洋博物館などを巡りいろいろな被写体を切り撮り、ホーム
ページで紹介することに前のめりになった。その極めつけが、日本への一時帰国を米国への長期休暇旅行に振り替えて、東海岸沿いに米国・カナダ国境付近
からフロリダのキーウェストまで30日ほどかけて3000kmほどの海洋博物館巡りの旅を敢行し、膨大な画像を切り撮った。
その後、サウジアラビア(2004年から3年)、ニカラグア(2007年から2年)へと、ほぼ立て続けに海外赴任となった。その機会を利用して、
周辺諸国へ海と船風景を求め、海洋博物館などを巡る貧乏旅行を楽しんだ。もちろん旅行後、夜なべ仕事に海・船風景や博物館などの紹介に
取り組んだ。ニカラグアでは、ニカラグアの「運河の夢」を知った。運河建設上、かつてはニカラグア地峡はパナマ地峡よりも有望とみなされて
いた。その候補ルートの幾つかを現地踏査もした。
ところが、その踏査中に山間奥地で心臓発作に襲われ、奇跡的な生還を経験した。九死に一生を得た。まさに自然淘汰される直前にあったが、
生きながらえた。その後、JICAに暫くお世話になったが、2011年3末ついに完全離職した。奇跡の生還という体験をした限り、残りの人生を
悠長に構えて過ごす訳には行かなかった。かくして、その歳になって初めて「自由の翼」を得る身となった。
そして、辞典づくりのために「おまけの人生」を有意義に費やしたかった。63歳を迎えようとしていた。
かくして辞典づくりに専心専念した。アルゼンチンで語彙拾いを始めて以来、語彙集・海洋辞典のコンテンツについてしっかりとしたトータル・
レビューができていなかった。語彙を量的に増やすことに夢中になっていたといえる。「作成中」というフラッグを掲げたコンテンツも多くあり、
忸怩たる思いがあった。それを手始めに、抜本的にあらゆる改善改良を施したかった。また、未処理のままパソコン内に眠る数十万枚の
画像を辞典に貼付したかった。
辞典の完成とどう向き合うのか自問自答し悩んだ。そして、辞典の真の意味での完成はないことを悟った。「未完の完」であっても、
いずれかで一区切りと締めくくりを為す「中締め」の必要性を悟った。コンテンツをベースに締めくくるのは困難と、時間軸で中締めする
ことにした。東京オリンピックの2020年をターゲットにした。そしてほぼ10年取り組んだ。だが一区切りつけられず少し延長した。
今もって辞典づくりは続き、友人らとの博物館巡りなどの旅は続く。2022年の中締めを目指して専心専念し奮闘中である。
振り返れば、行きがかり上の、あるいはたまたまの通りすがり上での出会いや遭遇があった。それがなければ今の自分は無く、全く別の
道を歩んでいたに違いない。たまたまの出会いや遭遇を期待し待ち受けていた訳ではない。だが、何故か奇遇と偶然に出会った。
それが運命と言えばその通りであろう。夢と希望がなければ、それらは目の前を素通りして行ったに違いない。
たまたま目に触れ、またとないチャンスと思い、筆を取るなど「行動」したことが次の出来事に繋がったといえる。
偶然の出会いや出来事だったのか、それらは必然のことだったのか今でも分からない。意志のあるところに道があり拓かれて行くのは真実であろう。
船乗りになって世界を回ることや国連海洋法務官として国際社会へ貢献するとの夢は果たしえなかったが、JICAでの国際技術協力を
通して途上国の国づくり人づくりに何がしかの貢献をなし得た。また世界の沢山の諸国を訪問し人々と交わり文化に触れることができた。
何よりも良かったのは、その国際協力のプロセスを楽しむことができ、人生を豊かにできたと感じられることである。
海洋辞典づくりについていえば、毎日10分、15分のことであっても、心身をリフレッシュさせ明日への鋭気を養うことができた。
「海を永遠の友として」、その辞典づくりのプロセスを楽しむことができ、プライベートな人生をも豊かにできた
と感じられる。何を為しえたかも大事だが、何を為そうとしたかということも大事なことである。
未来の世代に辞典づくりをバトンタッチでき、世界で「Only One & Number One」の辞典を目指して「進化」を続けることができれば望外の喜びである。
世界は人工知能(AI)や情報通信技術などの進歩は怖ろしいほど目覚ましく、辞典・辞書の類もいずれは消えてなくなるかのように
思われていそうである。だがしかし、他の数多くのそれらと同じく、人工知能がいかに進化しようとも「原典」は欠かすはできない。
「デジタル海洋総合辞典」も将来その一つとしての位置を占めることができれば、もう一つの望外の喜びである。
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