国内外の海風景に接し愛でてみたい。未だ見たことのない海や船のあるウォーターフロントを散策したり、あるいは海洋・漁業
・船舶などの海にまつわる歴史文化科学関連施設をじっくりみて回ることは、この上ない楽しみである。時には博物館に足を一歩踏み
入れてから息もつけぬほどに陳列品に惹きつけられ、切れ目のない至福と充実の時を過ごすこともある。そこでしか見られない本物や
実物大のレプリカなどを観て、目を保養し、時に深い感動に浸ることもある。また、世界・日本史において歴史的事実が刻まれてきた
場所に身を置けば心が大いに揺さぶられることもある。
何故旅に出るのであろうか。非日常的な異国や異郷の地に身を置くと、日頃のことに慣れ過ぎてきたが故なのか、錆びついた
脳に別の刺激を受けたりする。すると今まで脳の片隅に追いやられていた思いやアイデアがスーッともたげて来ることがある。
70歳を超える身となるとそれをすぐにメモしないと、次の瞬間脳内奥にまた追いやられてしまう。思い出そうとしても思い出せず
愕然となることも多い。脳内の引き出しから無理やり引っ張り出そうとしても、なかなか出てきてくれない。何とももどかしい。
しかし、引っ張り出しに成功してメモすることができれば嬉しくなる。些細なことだがそれだけでもハッピーになれる。
旅中において思い付いたそんなアイデアを記したメモ用紙が幾つも積み上げられると、旅もそれだけで大いに充実した気分になれる。
そして、旅後の日常に戻ってからは、メモしたアイデアの実践を試みる。時に、たった一つのアイデアに取り組み完遂する
のに何年もかかることがある(2018年9月19日に羽田からドーハ経由でローマへ移動するフライト内でこれをメモした)。
さて、2011年3月末にJICAから完全離職して「自由の翼」を背負ってからは、健康と財政上の限界と相談しながら、国内だけでなく
海外にも何度か出掛けてきた。そして、旅中に切り撮った数多の画像のうちから「一枚の特選フォト」として「ウェブ海洋辞典」に
アップしたりもして、辞典のビジュアル化や、それによる辞典の多少の「エンターテイメント性」(辞典
の堅苦しさや乾燥さを少しでも緩和するための試み)に役立てようとしてきた。ところが、2020年になって海外への旅が
当分お預けとなってしまった。
2020年初め頃から、新型コロナウイルス(COVID-19)が世界的に蔓延し始めた。いわゆる「パンデミック」となり、
国民はかつて経験したことのないような行動制限や自己抑制が余儀なくされた。人によってはテレワーク(インターネットの
活用による在宅勤務)となり、「巣ごもり」状態が続いたことであろう。私的には、パンデミックがほぼ終息するステージに
あった2022年末頃までの3年間一度も海外の「空気と水」を味わえずに来た。
何時になれば、パンデミック以前のように何の行動制限もなく自由かつ気軽に海外へプライベートに旅することができるよう
になるのか、数多の人が待ち焦がれていたはずである。終息すれば、生まれて初めて海外へ旅に出掛けるようなウキウキした
感覚になるに違いなかった(2023年からパンデミックはほぼ終息に向かい、2024年にはほぼ完全に
パンデミック以前の「普通の状勢」に戻ったと言える)。いずれにせよ、2020年初めから2024年央まで国外へ旅する元気を失っていた。
だがしかし、終息後初めて国外に出掛けるきっかけを得ることになったのは、ある新聞広告であった。2024年10月に中国重慶から武漢に至る
三峡方面への団体旅行ツアーの団員を募集していた。10数年は待ちこがれていたツアーであった。目途は「三峡ダム」の巨大閘門を
垣間見る事である。
さて、ここでパンデミックの惨状について少し振り返ってみたい。2019年末に中国内陸部の大都市・武漢で新型コロナウイルスによる
幾つもの発症例が次々と発現したことが報じられた。2020年初めから瞬く間に世界中へとウイルス感染が広まり、国際社会に大きな不安と
衝撃をもたらした。それ以来、日本での感染事例としては、例えば、2022年 (令和4年) 中下旬には第7波を迎えていた。
2022年9月2日付けの読売新聞朝刊での特集記事によれば、日本国内での感染状況について次のようなことが報じられた。
・ 2022年9月1日時点では、日本全国の感染者累計1,912万人余、死者累計は4万人を超えた。
・ 国内の最初の死者が2020年2月に初めて確認されたが、2021年4月に1万人を、2022年2月には2万人を超え、2022年5月には3万
人を突破した。
・ 第7波期中では、2022年8月23日における1日当たりの死者数は343人に達し、過去最多となった。同年8月の一か月当たりの
死者数は、過去最多の7,328人を上回った。
・ 年代別死者数(2022年7月6日~8月23日)は、80歳代40.5%、90歳以上33.2%で、それらは全体の74%を占めた。
かつては肺炎による死亡が多かったが、第7波でのオミクロン株では、心臓、腎臓、呼吸器などに持病を抱える人がウイルス感染のために
それを悪化させて亡くなる事例が目立ったという。
・ 2022年9月1日における1日当たりの新たな感染者数としては全国で15万人が確認され、かつ重症者数として555人が確認された。
その前週の8月25日における1日当たりのそれは22万人余に上った。
・ 2022年8月の医療機関外におけるウイルスによる死者数は、8月は過去最多の869人とされた。
(2022年8,9月段階における世界での感染死亡者は600万人以上、感染者数は1億に及ぶと見積もられていた)
2020年初め以来、何度もウイルス感染の波が周期的に日本をはじめ世界を襲ってきた。そして、ウイルスは次から次に変異
を繰り返し、その特性を変えてきた。日本でも波が来るたびに、ウイルスの特性や感染力などが変化し、延べの感染者数は
大幅に増加していた。他方世界各国は、感染拡大阻止のために様々な水際対策を講じたり、ワクチン接種などの防御的
措置に取り組み、「ウイズコロナ政策」の下における自国経済とのバランスを図ろうとしてきた。日本でも半ば手探りで懸命にウイルス
蔓延と闘った。
2020年夏期に開催予定であった「東京オリンピック・パラリンピック2020」も丸1年延期された。実際の開催は翌年に
ずれ込み、しかも大会は無観客のままでの敢行となった。因みに、中国習近平政権は当初から「ゼロコロナ政策」を実施し、北京・
上海などの幾つもの大都会で、感染者が見つかると徹底した全住民の外出禁止措置、即ち都市全域に及ぶ大規模封鎖措置
(ロックダウン)を強権的に実施し、経済社会活動に大きな負のインパクトを引き起こしていた。
各国によって感染拡大状況や医療体制の整備状況などがかなり異なるため、この3年間に執られてきた感染拡大抑制策には
かなりの濃淡がある。日本でも空港・港湾での水際対策として、感染状況を勘案しながら、時の経過と共に良かれとする
具体的措置が講じられてきた。
例えば、国内外での感染現況や変異株の特性の把握から始まって、国内医療機関での患者の治療・入院病床体制の構築、
感染者の一定期間の隔離措置、国内移動の自粛要請、酒類を提供する飲食店などの営業時間制限と補償措置、5人以上での外食自粛、
コンサート・スポーツ観戦などでの無観客化や人数制限、ワクチン接種体制の構築、出入国に関する制限など様々な
制限的措置を講じながら、国民経済や一般生活へのダメージを最少限に抑制すべく取り組みがなされていた。
日本への入国制限について言えば、パンデミック初期の頃から事実上日本への入国禁止の措置が執られはしたが、時の経過と
ともに徐々に緩和されてきた。2022年10月中旬以降では、「3回のワクチン接種証明書の提示」、「入国前72時間以内のPCR検査
での陰性証明書の提出」などの規制が課されていた(両証明書の提示のない者は原則入国できない)。1日当たりの入国者数を1万人
とされていたが、その制限も5万人へと緩和され、次には撤廃されることになった。外国人観光客の「団体ガイド付きツアー」
から「ビザなし個人ツアー」の受け入れへと緩和されたりもした。なお、2022年9月の段階では、第7波が全国的にピークオフに
なりつつあった。
青年ならいざ知らず、75歳以上の後期高齢者のような者にとっては、3年間海外渡航が困難となった時間的空白は大きい。海外のウォーターフロント散策や海洋博物館巡りなどを時には楽しみ、「ウェブ海洋辞典」をビジュアル化する
ための画像を切り撮ったりすることで、辞典編さんへの大きな刺激と励みとしてきた。だが、パンデミックによる諸国への
入国禁止やその大幅制限のために海外へ出掛けるどころではなくなっていた。時間は待ってくれず、過ぎ去った3年間は後期
高齢者には大きな時間的損失のようなものであった。私的には、年1回か2回の海外への旅の楽しみは3年以上も先送りとなり、
髙齢からしてその空白期間のもつ重みは格別なものであった。気力はあっても体力は歳追うごとに衰え行くからである。
それをリカバリーするのは運動メニューのさらなる増量化の自助努力が欠かせなかった。
ところで、ウイルスに感染しないようずっと注意を払い続けていた。不特定多数の人々が多く集まり、かつ換気が悪そうな
居酒屋だけでなく、混雑する一般のレストランやカフェテリアなどに長居することも感染リスクがあると思っていた。とにかくそんな
場所への出入りは極力避けるようにしていた。また、入店するにしても、他客と極力距離を離すなどいろいろ注意を払ってきた
つもりであった。
だがしかし、2022年8月12日、ついに新型コロナウイルスに罹患してしまった。まさか自分が罹るとは思ってはいなかった。
とは言え、第7波ではウイルスが自身にもごく身近な存在であることをひしひしと感じさせた。無症状の感染者が沢山いると
報じられていたからである。友人と久々に会い二か所のカフェテリアを梯子した。恐らくは二つ目のカフェテリアで友人と二人して
同時に感染してしまった。後から振り返ればそう推察された。かくして、二人は第7波の「餌食」になってしまった。
当時高齢者は通例3回は接種していることが多いはずであったが、友人も私もワクチン接種は一度も意図的に受けてこなかった。
同日夕方になって喉にはっきりとした痛みを覚えた。翌日から3日間、38.0~38.9度の高熱を発症した。咳の症状も多少あった。
漢方薬や喉飴で喉の痛みを和らげようとした。喉の痛みそのものは2日ほどでかなり治まった。体温については、4日目から
35.8~36.6度の平熱が続くようになり危機を脱出できた感があった。だがしかし、平熱化してもそのまま2週間ほど飲まず食わずで
ベッドに横たわっていた。当時は第7波のピーク期で、8月のある日における感染者総数は全国で150万人ほどにも上っていて、
殆どが自宅療養を余儀なくされ、「医療難民予備軍」と位置づけられていた頃であった。
肺炎などへの重症化などはなく、何とか自宅での自主隔離・療養だけで済んだ。自宅療養とは聞こえは良いが、最も懸念したのは
高熱状態から重症化してしまうことであった。そんな不安は常につきまとった。肺炎に罹ってさらに重症化したり、他臓器に
悪影響を受け即入院が必要になる場合などであった。基礎疾患がありワクチン未接種でもあった高齢の私が、仮に重症化した場合
には救急車を呼ぶ他なかった。だが、運よく救急車のお世話になれたとしても、重症化患者の入院指定病院が酷くひっ迫していた
時期であった。入院可能な病院が見つかる保証などどこにもなかった。
因みに、第7波ピーク時には全国で1日当たり22万人以上が罹患し、150万人が自宅療養を余儀なくされている状況下にあった。
万一重症化した場合、入院とその治療につき如何ほどの希望がもてるのか、全く心もとない状況であった。
コロナ患者受入基幹病院ではいずれも病床が埋まり、入院も治療も期待できないという最悪の恐れが十分に予想された。
高熱を発症した初期の頃にはそんな不安を抱えつつ、解熱剤のバッファリンをついに服用してみた。服用するとその日は何と
一気に平熱に下がった。だが翌日には服用することをためらい、結果的に元の高熱に戻ってしまった。
自己判断でその服用を継続するのが適切なのか否か迷ったためである。2週間ほど脱水に留意しながら、ずっとお粥と梅干など
を食してしのいだ。4日目以降は運よく平熱化したが、倦怠感が続き、何する気も起らず、ベッドに臥せっているばかりであった。
ようやく8月下旬になって市販の抗原検査キットを薬局で購入し検査してみた。
結果、8月31日に陰性と自己確認できた。
その結果を得て、気分的に少しは楽になり、その後は毎日わずかな時間ながらパソコンを立ち上げ辞典づくりなどの仕事に
向き合おうと努力した。また、寝てばかりいたので身体が鈍り体力が低下する一方であった。少しでもそれを抑制し倦怠感を克服しようと、
毎日ウォーキングに出て外気と自然光を浴びるようにした。かくして、いつもの体力と気力が徐々に蘇る手応えを得ることが
できた。友人の症状はもっとひどく、それも1か月以上一人で病魔と闘い耐えていたようである。
2ヶ月に一回、心臓循環器系専門クリニックに通い、血液検査や心電図検査の他に主治医の診察を受け、いつも常用する薬の処方
箋を得て、血液抗凝固剤、降圧剤などを服薬してきた。若くして基礎疾患のない人ならともかく、コロナウイルス感染はかなり
リスキーであった。重症化して生死を彷徨いそのまま自然淘汰されるか否かは、「運・不運の問題である」と言えばその通りであった。
今回幸運にも重症化せず指定病院のお世話になることもなく、自力で回復するに至った。主治医は「この程度で済んだのは
強運なことであった」と驚きを隠さなかった。かくして、得た教訓が二つあった。
一つは、日頃から体力のみならず、抵抗力や免疫力を高めておくことの重要性である。
罹患した当時は入院・治療にあやかれる医療体制状況からほど遠かった。容態が突然悪化し落命するリスクがない訳ではなかった。
日頃の健康管理をはじめ、体力や免疫力の増進がいかに大切であるかを、この時ほど身に沁みたことはなかった。結果論ではあるが、
それなりにウイルスに何とか打ち勝てるだけの体力や免疫力があったが故に、高熱だけで済んだとも言えた。平素から毎日数キロメートル
のウォーキングを欠かすことなく続けていたことも多少は功を奏したとも思われた。また、食べ物の取り方によって病気に打ち
勝てる体質や免疫力を日頃から養っておくことの重要性を深く心に刻んだ。
もう一つの教訓は「ウェブ海洋辞典」づくりと関係するものであった。何年かの後にはいずれは「中締めの、未完の完」を
もって一区切りへ漕ぎ着けることを目指して取り組んでいたが、「そんな悠長な取り組みで良いのか」と自省するきっかけを得た。
求められていることは、「今日というこの日に辞典づくりの筆を置いてもよい」という気概をもって毎日取り組むことであると
思い直した。かくして、ニカラグアでの九死に一生を得る体験がそうであったように、コロナウイルス罹患は辞典づくりに対する心構えを再び変えることになった。「毎日辞典づくりの一区切りを付けながら、その日の筆を心して置くべし」というのが得た教訓であった。
ところで、2023年からは新型コロナウイルスが普通の風邪かインフルエンザの類いと見なされ、かつてのように自由に海外渡航が
認められるようになることを期待した。そして、その時に備えていつでも海外へ「冒険的旅行」に出立できるように、幾つかの荒削りの旅
プランを練っておきたいと考えた。実際に海外への旅がほぼ無制約的なものになってからではなく、外出を控える巣ごもり時間を
最大限に生かしてプラン作りを早々に楽しみたかった。渡航関連規制がほぼなくなった暁には、旅をいち早く実現させたいという
意気込みの表れである。旅の荷物の諸準備は1、2日もあれば事足る。だが、1、2週間にわたるの異国への旅のプラン作りは
そういう訳にはいかない。
さて、ほぼ完全に渡航制限が解除される日が間もなくやって来ることを見越して、そのプラン作りに着手したいと念じる
旅先の候補国としては幾つもあるが、最も旅してみたい地として以下の5つを選択した。そして、情報収集を重ねつつ旅程素案などを練り上げた後は、更なる情報の収集を重ねつつプランのアップデートを続けたい。
(1) アトランティック・カナダ
「赤毛のアン」の物語の舞台となったカナダ東部の「プリンス・エドワード島」を皮切りに、大西洋岸ニューファンドランドの
港町ハリファックスのウォーターフロント散策と海洋博物館訪問、満ち潮時にボアあるいは海嘯(かいしょう)現象が観られる
「ファンディ湾」沿岸の周回、その他「リドー運河」などの五大湖(オンタリオ湖)湖畔での戯れを計画したい。
(2) インドネシアの「モルッカ諸島(スパイス・アイランズ)」
大航海時代ヨーロッパの列強海洋諸国(ポルトガル、スペイン、英国、オランダなど)が香辛料の丁子、ナツメグ、胡椒などの
獲得・支配を巡って争ったモルッカ諸島の「テルナテ島」や「ティドレ島」に足を踏み入れ、大航海時代所縁の要塞の旧跡、実際の
香辛料の栽培地などを訪れたい。経由地のジャカルタでは、「コタ地区」の海洋博物館(オランダ統治時代の「東インド会社」の旧
倉庫を活用する)や、その他の歴史文化施設、アラブのダウ船のような木造機帆船が数多く停泊し、昔ながらに人力で積み降ろし
をしているウォーターフロントなどを久々にじっくり散策したい。
(3) 再びの中国の「大京杭大運河」
第1回目の運河踏査と重複する部分もあろうが、2回目の探索に挑戦したい。マルコ・ポーロが帰国のために船出した福建省・泉州
の港や、「泉州湾」から発掘された構造船などの海洋考古学的史料などを展示する「泉州海外交通史博物館」の見学、「大京杭大運河」
の最南の起点とも言える寧波の散策、大運河と長江が交わる鎮江(京口)や揚州、運河と黄河が交わる淮安などを訪れたい。
また、「隋唐大運河博物館」などの歴史文化施設の他、運河沿いの要所要所の都市にある閘門施設や、運河を見下ろせる由緒ある髙塔
をも訪ねたい。
(4) 南アフリカの喜望峰とガーデンルート
15世紀の大航海時代ポルトガルの多くの航海探検家がチャレンジを重ねてようやくアフリカ大陸最南端を回航し、いわゆる
「南方大陸」とは切り離されていることを発見した。アフリカ大陸最南端の喜望峰、アグルハス岬とそのウォーターフロントに
立ちたい。そこからポート・エリザベスまたはダーバンまでインド洋沿岸諸都市を結ぶ「ガーデンルート」と呼ばれる風光明媚な海岸
線を辿りつつ、海事・鯨などの海洋関連文化科学関連施設などもじっくり見学したい。
(5) ニカラグアへのセンティメンタル・ジャーニーと「ニカラグア運河」の新ルートの探索
「ニカラグア運河建設の夢」は今はどうなっているのか。香港系中国企業とオルテガ大統領は運河建設につき「コンセッション
契約」を締結し、その後運河新ルート(大西洋側プンタ・ゴルダ川~ニカラグア湖に注ぐトゥーレ川~太平洋側リーバス地峡を結ぶ)の
選定や、そのルートの環境影響調査などがなされた。4,5年前に建設工事開始宣言がマスコミに発表された。だが、その後の工事進捗
状況はどうか、何故工事は頓挫しているのか。運河建設工事の現況を現地関係者へのインタビューなどを通じて知りたい。
また、安全に最大限の注意を払いつつ運河新ルート上の集落、河川、山地などに可能な限り近づき、ゴルダ川とトゥーレ川
との分水嶺の一部でも眺望してみたい。また、ボラーニョス元大統領時代の運河候補ルート上にあったオヤテ川の源流に向けて2009年
踏査中に心臓発作のために赴任半ばで帰国してしまったが、その結果諸々のことを置き去りにしてしまった。一度は心の精算を
しておきたい。「センチメンタル・ジャーニー」と言う意味合いも強いが、首都マナグア、古都グラナダやレオンなどの
諸都市やその他人里離れた田舎の幾つかの村落を再訪したい。
旅の敢行は年齢からくる体力問題だけでなく、年金生活者ゆえに財政とも相談しながらとなる。贅沢な旅とは訳が違う。
ミニマム1日3~5万円を出費する団体ツアーとは異なる。一日当たり1万円か、プラス数千円を基本的な予算枠として
冒険味たっぷりの倹約の旅である。その代わり、旅中は自由行動で見たいものを見る、訪ねたいところだけを探訪する。
それは時に多大な不便も伴うが、自由な思いをもっての楽しみ方ができる。先ずは旅プランを楽しく練りたい。頭のトレー
ニングにもなりボケ防止にもつながる。
世界は見る価値のあるものに満ち満ちているとつくづく思う。そして、旅の夢は無限大的であり尽きることはない。
かくして、上記1~5の旅計画案を次節2~6に綴ってみたい。旅のプラン作りは実に楽しい、実現すればもっと楽しみが増えよう。
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