中米ニカラグアの首都マナグア、地方都市の古都レオンやグラナダなどの今ある情景の中に身を置いてみたい。
それは紛れもなくノスタルジックな思いと言えよう。だとしても後ろめたさを殆ど感じることはない。赴任中、首都・地方の技術協力
プロジェクトや海外青年協力隊員の活動現場を公務として沢山訪ね、またニカラグア運河の候補ルートのあちらこちらを踏査した。平日や
週末を問わず、日帰りや宿泊を伴う数多くの出張の他、私的な旅もそれなりに楽しんだ。あの町あの村は今どうなっているだろうか、懐かしい思いが走馬灯のように駆け巡ることも事実である。
JICAを役職定年した後のこと、2007年9月から2年間ほどニカラグアに赴任した。最初の半年ほどは、仕事
と生活に慣れ、かつ両立させるために必要とされるいわば「助走期間」のようなものであった。要領を得ない業務に真剣に向き合う
とともに、私生活の基盤構築に追われつつ無我夢中で過ごした。だが、その後の1年半における仕事と
私生活については想像以上に充実したものとなった。そして、人生の第6番目の「青春時代」と自画自賛できそうな、エネルギーが
みなぎる時期を過ごした。
任期満了までそんなエネルギーに溢れた「青春時代」が続くものと信じて疑わなかった。だが2009年8月末に、
辺境地の山奥において馬の背にまたがり、「ニカラグア運河」の最有望候補ルート上にある分水嶺を目指して踏査している最中に、
心臓循環器系の発作(冠動脈のひどい狭窄)に襲われた。多くの仲間や関係者の助けをもってマナグアの病院に8時間後の夜遅くに
担ぎ込まれた。そして、奇跡的な出来事のお陰もあって、翌朝にはステント留置手術を受けることができ、九死に一生を得た。かくして、突然にして公務に終止符を打たざるを
得なくなった。
早期帰国フライトへの搭乗につきドクターのOKが出たことから、機上の人となって妻に付き添われ帰国の途についた。
後ろ髪を引かれる思いであった。あれから何と15年以上も生きながらえてきた。他方で、ニカラグアに何かを置き忘れ、
何かをやり残してきたような思いをいつも抱き続けてきた。端的に言えば、センチメンタル・
ジャーニーへの思いが時に湧き上がってくる。ニカラグアでよく訪れた地方の、スペイン植民地時代の趣きが漂うあの町や辺境の
村々、路線水上バス(現地では、スペイン語で「ランチャ」と呼ばれる)が行き交うあの大河や船着き場など、あれからどんな
景色に移り変わってきたであろうか、と懐古することが多くなってきた。
何を置き忘れ何をやり残して来たのかはっきりと答えられない。だとしても、彼の地に残してきた自身の形無き「足跡」を今一度
辿りつつ、純粋にセンティメンタル・ジャーニーをしてみたいという思いは捨てきれないで来た。先ずは首都マナグア市内の
幾つかの地を訪ねてみたい。仕事やプライベートにおいて頻繁に訪れ額に汗して無形の足跡を残して来た場所が沢山ある。
マナグア市内に存する骨組みだけを遺す旧カテドラル(大聖堂)や外務省本館近傍の幹線道路(国道4号線)を古都グラナダ
方面へ数kmほど進み行くと、道沿いに大きな複合商業施設(いわゆるショッピングモール)がある。モール内には専門店・映画館・
レストランなどが軒を寄せ合いいつも利用客で賑わっていた。大きなスーパーマーケットも併設されていた。単身赴任の身であった
ので、JICA事務所からの仕事の帰り道そこに立ち寄っては、フードコートなどで軽く夕食を済ませることもしばしばであった。
また、差し当たり不足している食材を同スーパーで買って帰ることも多かった。
毎週末にはほぼ必ず、翌週分の食材のまとめ買いのために同スーパーに出向いた。時に新作のハリウッド・アクション映画などが
封切られると銀幕鑑賞を楽しんだ。単身の私としては、大いにリフレッシュすることができた。JICA事務所
以外の場所のうちで日常的に長い時間を過ごしたのは、このショッピングモールであった。今ではその界隈はどうなっているだろうか。
思い出しては懐古趣味的な思いに囚われる。というのも、オルテガ大統領が率いる反米・社会主義政権は専制的政治を押し進め、
反政府活動を力で抑え込むことが目立っていて、ショッピングモール辺りでも警察や治安部隊と学生らのデモ隊との激しい衝突が
繰り広げられたことを耳にしてきたからである。
モールからさらにほんの数キロ先には「ラス・コリーナス」という、鬱蒼と生い茂った森に囲まれた閑静な住宅地区がある。
その地区内にある一軒家をドイツ系家主から賃借りしていた。5軒ほどの独立家屋が集まる敷地内のうちの古びた一軒家であった。
応接・リビング・ダイニングが一つに合わさったような広いスペースをもつ。そのすぐ外はオープンテラス風空間となっていて、ロッキン
グチェアやガラステーブルなどが並べられていた。その背後には樹木が生い茂り緑溢れる裏庭空間となっていた。朝方には、そのテラスに面する
幅広のガラス・ドア越しに太陽の木漏れ日が入って来た。また、その裏庭にはマンゴーの巨木数本が植わっていて、季節になると足の踏み場も
無くなるくらいに果実で敷き詰められた。そんな環境が気に入って賃借りすることにした。
住宅施設のうちで残念だったのは、屋外に設置されていた受水塔であった。水道水を高さ3~4メートルの高架タンクに一旦揚水し、
屋内へと給配水する。その施設が頻繁に不具合を起こした。水がタンクからじゃじゃ漏れとなることが多発して随分悩まされた。
タンクの水量感知器と揚水ポンプとの相性がよくなかった。家主の代理人に度々来て
もらって調整してもらった。それに瞬間給湯器の調子が今一つよくなく、シャワーが浴びれず、特に冬場はストレスがヒートアップし
辟易していた。他愛もないが、そんな賃借り住居も今では相当老朽化していることだろうと時々思い起こす。
同地区から国道沿いにほんの少しさらに進むと、樹林に鬱蒼と覆われた、閑静にして広々とした敷地内に、オープンテラス風のレストランがあった(勿論、屋内にも客室があった)。ほぼ毎週末、特に土曜日にはそのレストランに出掛け、焼肉(アサード)ランチを
食し、至福の時間を過ごすことが週の楽しみの一つであった。子牛のある部位のアサードがお気に入りであった。樹林に囲まれ
静寂に完全支配されていた。聞こえるのは野鳥のさえずりとそよ風の音だけであった。一人ランチしながら前週の仕事や私的な
事柄を思い返しては、反省とともに次週の仕事の段取りなどについて思い巡らせた。その他、二足のわらじの一つにしてきた
「海洋辞典」づくりの進め方のことや、国内外への旅のネクスト・プランを思い描いたりして、思案にふける楽しい時間を紡いだ。
何となく心が豊かになり、心に余裕が生まれるひと時であった。あのレストランは今でも健在なのであろうか。
国道をさらに1kmほど古都マナグア方面へ進むと、冠動脈狭窄事故後に担ぎ込まれた、
あの「メトロポリタン病院」がある。病院は今も健在のはずである。当時のJICA事務所の健康監理員の話として、事務所の顧問医で
あったマリア女医が今では同病院専属医師として勤務されていることを最近(2024年春)知った。そしてまた、冠動脈にステント留置
施術をしていただいたホセ医師は他界されたこともも聞かされた(2024年)。ご冥福をお祈りしたい。
マナグア湖畔のレストラン街は当時湖水汚染のため酷い悪臭を放っていたが、昨今ではかなり改善されたという話しを仄聞したことがある。
その近傍には「国立博物館」が存する。1970年代に「マナグア大地震」に襲われ、ダウンタウンが消滅するほど被災してしまった。
同博物館傍には無残にもほぼ骨組だけの廃墟と化したカテドラル(大聖堂)が遺されている。ニカラグアの社会経済は、大震災後半世紀
以上も経た今日でさえダウンタウンが復旧復興していないほどに厳しい試練に付き合わされて来たと言える。また、ニカラグアは
同大震災と同時に、10年以上に及ぶかつての内戦によって負の遺産を長く引きずっても来た。現在、マナグア湖畔や大聖堂、国立
博物館界隈はどんな様相を呈していることであろうか。
* JICA事務所は赴任当時近代的なビルに入居していたが、帰国後暫くしてから移転したという。同事務所内で執務して過ごした
時間が圧倒的に長い。マナグアでは数少なかったあのビルは今も健在だろうか。
既にあれからもう15年、当時日常的に見慣れていた風景が今はどんな姿になっているのか気になって来た。
かつてエネルギッシュに仕事や私生活にいそしんでいた時の日常的風景は大病後にあってはモザイク状に切り裂かれてしまった。
時間が突然止まってしまったかのようでもある。帰国してからは、失われた時間とともに、そんな風景を繫ぎ合わせて修復したいと
模索することが多くなっていた。
いつしかマナグア近郊と地方の幾つかの地を訪ねてみたい。そこには愛でてきた沢山の素朴な田園風景が広がる。
例えば、古都のグラナダやレオン、オメテペ島、リーバス地方などしかりである。
マナグア首都圏だけでなく地方にも、仕事やプライベートでも、日帰りや泊りがけで出掛けることが多かった。数多くの技術協力
プロジェクトが首都や近郊の他、地方でも展開されていた。それらのプロジェクトサイトに頻繁に足を運んだ。
プロジェクトの中間や最終の評価委員会は、現場や最寄りの地方都市で開催されることが殆どであり、最優先にして出席した。
また無償資金協力プロジェクトである「食糧増産援助」の資材の供与引き渡し式、「ボアコ地方総合病院」やその他小学校建設、
道路整備、橋梁建設などの進捗状況の視察や竣工式のため、あるいは過去に実施された無償資金協力プロジェクト(水産無償援助
施設など)の利活用状況の把握などのために現地に赴いた。
自身が団長となって「サンタ・フェ橋建設無償資金協力プロジェクト」の基本設計調査に現地参加したが、その工事着工や竣工は自身が帰国
してから数年を経た頃のこととなった。竣工式典への参加機会は叶えられなかったので、同橋梁を自らの足で渡りたいとずっとこの方
願い続けてきた。
海外青年協力隊員は首都圏だけでなく地方でもボランティア活動に勤しむことが多かった。
赴任して1年後のことになるが、努めて隊員の活動現場へ足を運び、その活動状況や生活環境を把握するように努めた。最盛期には70名
ほどの隊員(シニア隊員を含めて)が首都とその近郊、および地方都市にてボランティア活動に勤しんでいた。
陣中見舞いではないが、泊まりがけで現地を訪ねることもあった。隊員からの月報を通読して現況把握するだけでなく、
首都・地方を問わず現場視察を通じて活動への理解を深めるためであった。
時にランチを共にしつつ、活動報告や課題に耳を傾けた。また、今後取り組みたいボランティア活動へのJICA事務所から
の財政的支援に関する要望を探ったりした。ボランティア活動への事務所からの財政的支援によって隊員活動に対する強力なサポート
促進へ繋げたいと期待した。かくして、側面支援を求める隊員からの申請が事務所へ多く上がって来るようになったと感じた。
技協プロジェクトや隊員を訪ねてのかつての地方視察、あるいはプライベートな地方への旅は、特に次の4つの地方・地域へ
と向けられていた。
(1)グラナダ、サン・ファン・デル・スール(SJDS)方面
首都マナグアの南東にある古都グラナダは、首都からわずか数10kmの距離にある(ニカラグア湖畔でもある)。
スペイン・コロニアル風趣に溢れる、落ち着きがあって居心地の良い町であった。幾つもの古い教会が建ち、小さいが博物館もあり
国内ではちょっとした観光地でもあった。週末の午後ふと思いついては散歩のつもりでよく出掛けた。湖畔には樹木溢れる大きな公園もあった。
運航開始の時期は2008~2009年頃と記憶するが、グラナダ沖にある多島水域への観光遊覧船の就航が始まり、週末思い立って乗船
を楽しんだことがある。ある島嶼にはスペイン植民地時代の古要塞が遺される。
グラナダ市内中心部には、小鳥たちがさえずる緑豊かな樹林に覆われたプラザ(中央広場)があった。プラザに面する、
オープンテラスのあるカフェテリアで暫し腰を下ろし、ニカラグアでの赴任生活を心往くまで愛でたことを思い出す。あのプラザ
やカフェテリア、歴史を刻んできた幾つかの古いカトリック教会など、今はどうなっているだろうか。
マナグア~グラナダ間の国道4号線沿いの中間位置にあるマサヤという、コロニアル風の街並みを保存する町があり、伝統的工芸品を
売るショップが軒を連ねる。そのすぐ近傍にある「マサヤ火山」は、阿蘇山の中岳のように今も大噴火口から白煙を上げていよう。
グラナダからニカラグア湖南西岸沿いに「パンアメリカンハイウェイ」(国道1号線)を2時間ほど辿ると「リーバス地峡」の圏内に
達する。その数10km先はコスタリカとの国境である。ニカラグア湖上には「オメテペ島」という双子の円錐形火山を擁する島が浮かぶ。同国で最も風光明媚な自然風景がそこにある。
「オメテペ島」は淡水湖水上に浮かぶ島としては世界最大といわれる。リーバス郊外のサン・ホルヘという港からフェリーで島へ渡る
ことができる。同地域はニカラグア湖と太平洋との間にあって最も狭まったところである。
リーバスの町から20数kmほど同地峡を横断すると、半円形の湾に臨む漁港町サン・ファン・デル・スール(SJDS)があり、太平洋に臨む
海洋性リゾート地ともなっている。湾北端の丘の頂上には大キリスト像が立ち、そこから湾・港・町を一望できる。また、
同地には無償資金協力で漁獲物の陸揚げ埠頭、荷捌き施設、漁船陸揚げ用斜路、管理棟などの漁港整備がなされた。
余談だが、グラナダは、海賊史上有名なイギリス人海賊ヘンリー・モーガンが、海賊業にのめり込んで以降最初に本腰を入れて襲撃し、
金銀財宝を略奪した町としても知られる。原住民のインディオからグラナダの繁栄ぶりを聞き及んでいたという
モーガンは、1665年に、全長190kmほどのサン・ファン川(カリブ海に注ぐ)を一週間かけて遡上し、更にニカラグア湖を5日間かけて
北上し、グラナダを3日間にわたり略奪した。その戦利品・分捕り品として 50万ポンド貨を略奪した。カヌーで遡上したので
嵩張る財宝は積み残され持ち帰れなかったといわれる。ジャマイカに戻ったモーガンを一躍有名にさせた最初の海賊所業であった。
モーガンはその書に次のように書き残した。「グラナダは英国ポーツマスのように大きく見事な町である。7つの教会と一つの大聖堂があり、
数多くの学校、修道院がある」。現在にあっては、湖に面する港町といっても全長100mほどの桟橋が一本突き出ているだけである。
(注)ポーツマスはドーバー海峡に面する英国の港町。
コスタリカとの国境に近いSJDSの町は、太平洋側での最大の漁港であり、また市民らが手軽に週末やサマーバケー
ションを楽しめる同国唯一の海浜型リゾート地である。週末思いついたら、そこへもよくドライブに
出掛けた。「センティメンタル・ジャーニー」と揶揄されるかもしれないが、SJDSをはじめ太平洋岸沿いに点々と存する小さな漁村や、
海水浴ビーチに再び足を踏み入れ、モザイク状に切り裂かれてしまっ風景の記憶を繫ぎ合わせてみたい。また、「リーバス地峡」は
ブリット川とラス・ロッハス川とを繫ぐ、「ニカラグア運河」ルートが通過する予定の地でもある。今探訪すればどんな運河
風景を見ることができるだろうか。
(2)ニカラグア北西地域: 古都レオン、チナンデガ、コリント、エステリ、山岳部のソモトやオコタル(ホンジュラスとの国境
地域に近い)など
マナグアの北西部にあるレオンにも週末思い立ってはよく出掛けた。ユネスコ世界文化遺産に比較的新しく登録された
レオンの大聖堂や、古都の雰囲気を濃密に残す同聖堂周辺界隈はどうなっているであろか。
レオンの西30kmほどの太平洋岸沿いに奥行きのある入り江がある。その湾口に存する町コリントには、ニカラグア最大の国際商業
港であるコリント港がある。実はニカラグアには近代的な港らしい港はないが、唯一コンテナ積み降ろし用の大型ガントリー
クレーンを実装する国際貿易港がそのコリント港である。岸壁に1万トン級の大型船が停泊し積み降ろしする風景を初めて見て、
小国のニカラグアにも外航貿易港があることに何故か安堵したことを憶えている。
湾奥には、昔ガレオン船の造船所が所在したという町レアレッホがある(2018年にスペイン・セビーリャの「インディアス古文
書館 Archivos de Indias)」を訪ね館内を観覧していた時、偶然にもレアレッホ周辺をごくシンプルなタッチで描写した古地図を見つけ、
大いに驚き感激した。
同国北西地域の平野部にあって日本のような水田が広がるエステリ、その北東部の山岳地域にはマタガルパ、ヒノテガが、また北部の
ホンジュラス国境に近い山岳地にはソモトやオコタルという町が存する。太平洋岸沿いのアポセンティージョには小規模ながら
リゾート型ヨット・マリーナを擁する。また、レオン西方の沿岸域には小さな漁村が点在する。漁村では地元の零細漁民が総出で
船外機付き小型ボートに丸太を敷いて人力で浜揚げする風景によく見かけた。その周囲には笑顔溢れる子供らがはしゃぎ回る。そんな
素朴な漁村の浜辺に佇み眺めるのが大好きで、時を忘れてそんな風景を沢山接写したものである。
余談だが、初期のスペイン人征服者や入植者は最初にマナグア湖の最西端の岸辺にレオンという町を築いた。しかし、近傍の「モモトンボ
火山」の大爆発で町は火山灰に埋もれ、そのため町を放棄した。そして、現在のレオンに町を再建した。発掘された旧レオンの遺跡は
同国で初めてユネスコ世界遺産に登録された。
とにかく太平洋岸沿いには沢山の小漁村が連なり、週末はそれらの漁村にとっかえひっかえよく出掛けリフレッシュした。
日本では莫大な予算を費やして、コンクリート製の頑丈な防波堤で囲まれた漁船の停泊水域の他、漁獲物の陸揚げ埠頭、漁船陸揚げ
斜路などを備える近代的漁港が、至り尽くせりに整備される。そんな日本の漁港風景とは全く異なる海辺風景がある。大抵は小型船外機
ボートが、浜に丸太を敷いて人力で引き揚げられる。父親たちが沖で漁に勤しむ間、子どもらは浜辺で戯れながら漁労ボートの帰りを待つ。
また、彼らはボートの回りに落ちこぼれた小魚を拾い集めて、思い思いに嬉し笑顔を振りまきながら持ち帰る。私自身も、ボート
以外には何の人工的な飾り気の見ない素朴な漁村の浜辺で暫し戯れた。そんな漁村風景を被写体にして、飽きること
なくシャッターを押し続けたものである。赴任中あちこちのそんな漁村を訪ねては大いにリフレッシュした。
因みに、太平洋岸沿いに点在する幾つもの小さな漁村、例えばモンテリマール、マサチャパ、ポチョミル、ラ・ボキータ、エル・アスティ
ジェーロ、グアナカステなどに、週末にふと思い立ってはこまめに車を走らせ、ウォーターフロントでの暫しの散策を楽しんだ。
いくらドライブしても往復数百㎞の道のりであり、マナグア市街地を出れば交通信号機は数えるほどしかなく、
交通渋滞に出くわすこともない。国道を平均80kmで走行すれば数時間でそれらのいずれかの漁村に辿り着けた。早朝に発てばコスタリカの
国境まで行き着き、その日のうちに帰宅できた。
(注)太平洋岸の北西端にはニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルの3ヶ国間で、国際海洋法上の「内水」を分界する
(3ヶ国で分け合う)「フォンセカ湾」がある。その突端にもポトシなどの幾つかの素朴にして小さな零細漁村が点在する。
(3)大西洋(カリブ海)に面する北部および南部大西洋自治区
北部自治区の行政府所在地はプエルト・カベーサである。同地はエビ漁業が盛んな町でもあった。野菜栽培などのモデル農場を開設
して特定地区住民を対象に栽培技術等を普及させ生活向上に役立てるためのJICA技術協力プロジェクトもあった。港と言っても
数百メートル長の木製の桟橋があるだけであった。南部の自治区のそれはブルーフィールズと言い、エスコンディード川の河口に
位置し、同名の大きな潟湖およびカリブ海に面する港町であった。
エスコンディード川中流域にあって、支流のエル・ラマ川がT字型に
合流する地点にあるエル・ラマは、重要な内陸河川商港であった。また、陸運・水運間のモーダルシフトがなされるモデル的港
でもあった。(エル・ラマの内陸河川港と太平洋側のコリント港間の陸送はランドブリッジの一例であった)。だが、エル・ラマと
ブルーフィールドとの間にはまともな道路が全くなく、交通手段はランチャと呼ばれる、車のエンジンを搭載した路線水上バスが
庶民の足であり、貨物はフェリー輸送に頼っていた。エル・ラマ港からブルーフィールズまでのランチャによる旅では亜熱帯ジャングルを両岸に見ながら数時間ほどかかる。公務だけでなく、「ニカラグア運河」の踏査のためしばしば同地を探訪した。
ブルーフィールズは、15年経てもそう変貌するとは思えないような辺境にある港町である。もっとも、「ニカラグア
運河」開削工事がその南数10kmにあるクララ川の河口域周辺で始まっていたとすれば、ブルーフィールズは大西洋側の
最大の工事基地として大変な変貌を遂げる途上にあったに違いない。
(4)南東域のサン・カルロス、エル・カスティージョなど
マナグア東部の内陸都市フイガルパから「ニカラグア湖」沿いに南東方向へ辿る先に辺境の町サン・カルロスがある。同湖から唯一
流れ出るサン・ファン川の流頭にある町である。ここを起点に同河川をランチャで5時間ほどかけて180kmほど下り、大西洋・カリブ海沿岸の
町サン・ファン・デル・ノルテ(SJDN)へ辿ることができる。途中エル・カスティージョ(スペイン語で「要塞」という意味)という
辺境地に存する集落には、スペイン植民地統治時代に築かれた古要塞がある。
フイガルパからサン・カルロスまでの国道は、赴任当時には酷い砂利道であったが、現在は米州開発銀行(BID)の資金によって
舗装されている。路線水上バスの乗合船ランチャで一度SJDNへ訪ねたが、エル・カスティジョへには
何度か足跡を残した。その要塞内にある展示室で初めて「ニカラグア運河の夢」を知った。あの展示室はどのようにリニューアルされて
いるのであろうか。また「サンタ・フェ橋」の通行量は毎年増加傾向にあるのだろうか。
サン・カルロスに向かう国道沿いにあるオヤテ村の入り口にあって、オヤテ川源流への踏査の起点とした例の雑貨店はどうなっている
だろうか。2024年に76歳になった今では、オヤテ川の源流や分水嶺まで再び踏査を試みるためのパワーは残されていない。
候補ルートNo.1~3に共通している、人工湖の堰と閘門の建設の地理的位置について、ついに確証を得ることはできなかった。
それも大きなやり残しの一つとなってしまった。
サン・カルロスにはサン・ファン川を越える橋は一本もなかった。だが、無償資金協力で200メートル長の「サンタ・フェ橋」
が架けられた。その先を数十㎞進めばコスタリカとの国境に至る。だが、未だ国境検問所は開設されず、そこで行き止まりと
なっていることを仄聞してきた。赴任中「サンタ・フェ橋」建設プロジェクトの基本設計調査団の一員団として現地参加してきたが、
その起工式や、またその2年後の竣工式にも参加することなく、何の橋景をも目にしてこなかった。自身の足をもって橋を渡り、
また橋上からサン・ファン川を眺めれば、どんな風景が目に映ることになろうか。
さて、同要塞には展示室が設営されていた。当時室内を何気なく巡覧して、あることを知りびっくり仰天、目からうろであった。
数10枚の展示パネルをもって、ニカラグアのプレ・コロンブス時代の歴史、スペインによる植民地支配から近現代に至るまでの
歴史などが解説されていた。その中に、「ニカラグアの運河の夢」と題する数枚のパネルを通読した時には、全身鳥肌が立ち
パネルに暫く釘付けとなってしまった。
ニカラグアは長くスペインの植民地支配下にあったが、英国がジャマイカから軍部隊を派遣し、
要塞を占拠しようとした。同部隊には、後に英国海軍提督となるホレーショ・ネルソン少尉がいた(第14章第8節参照)。彼は英軍
部隊が同要塞を陥落させる直前にジャングルで重い病気を患い戦線からの離脱を余儀なくされた。ネルソンは後に「上官が彼をジャマイカに
送り返さなければ、その後の彼の人生はなかった」と回顧している。
なお、英国海軍はフランス・スペイン連合艦隊との「トラファルガー海戦」で勝利したが、彼自身はその海戦中に狙撃され、1805年に
落命した。
植民地化を推し進めたスペイン自身も、またニカラグアに派兵して領土に楔を打ち込もうとした英国も、さらには
当時の新興国・米国をも巻きこんで、「ニカラグア地峡」に運河を建設しようと、「地理的発見の時代」以来いろいろな調査・研究が
なされてきた。展示パネルには、米国企業による実際の運河開削工事の着工のこと(800メートルほどのごく部分的掘削に終わった)、
米国とニカラグアとの二国間協定に基づく米国による運河建設に関する約束、米英間の運河建設に関する外交的駆け引きと協定締結
なども語られていた。
さて休題閑話。2年間のニカラグア赴任中に遺してきた足跡を追って幾つかの地を辿ってみたい。かつて健康上の事由のため帰国を余儀なく
されたことで、記憶が突然途切れモザイク状にバラついた部分を少しでも繫ぎ合わせたい。また、ニカラグアの片田舎の素朴な
田園風景、例えば辺境地で日常的に目にし記憶に焼き付けられた丸木舟をはじめ、パンガ(川の両岸に渡したワイヤーをもって、ポンツーンを他岸へと手繰り寄せて、車や人を運搬する)やランチャのある情景、そして片田舎の農漁村の子供らのくったくのない純朴で明るい笑顔を愛でたいと願う。そして、ニカラグアの「国づくり人づくり」のために撒き続けた、JICAの技術協力や無償資金協力の種がどんな花を咲かせているの
か、マナグアや地方都市、さらに辺境の地を歩いて、何がしかの実りを感じたり目にすることができればと、ニカラグア再訪の
機会を待ち続けたい。
* 「ニカラグア運河関連資料」