Page Top


    第17章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第3節 サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活


     Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


       第17章・目次
      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア(その1)
      第2節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア(その2)
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第4節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/砂漠へのピクニック
      第5節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける


  初めて訪れる国に足を踏み入れる場合はいつものことであるが、好奇心が沸き立ちアドレナリンが溢れ意気揚々となる。サウジ アラビアに初めて降り立った時も、経験則からすればそうなるはずであった。だが、首都リヤドの空港に到着 した時には全くそうではなかった。前任者のJICA事務所長が直に巻き込まれた大規模な自爆テロ事件の余韻が、リヤドに暮らす 日本人らの間にまだまだ残っている時であった。欧米人も日本人も「異邦人」として目立たぬように身を潜めながら 暮らしていることは十分気に留めていた。だから、それなりの緊張感をもって空港に降り立った。だとしても、空港のパス ポートコントロール周辺の雰囲気は、これまで訪れた国々のいずれの空港とも全く違っていた。意気揚々どころか異常なほど緊張感が 張りつめ、何とも言えない空気が充満していることを感じずにはおられなかった。まさに異次元の国に足を踏み入れたことを感じ、全身鳥肌が 立ったことを今でも思い出す。

  アラビア半島中央部の大きな部分を占めているのが台地状に広がる「ネジド砂漠」(弓なり状に広がる「ネフド砂漠」と境界を 接する」)であるが、その中心地をなす小さなオアシスに築かれた都市がリヤドである。リヤドから東西に300~800km、南北に800~ 1200kmにわたり、砂漠と土漠の世界が広がる。リヤド周辺の地下には、いわゆる「化石水」が埋蔵されていて、市民はそれを利用 することによって生命を維持してきた。自然の降雨によって補充されることはなく、汲み上げられ利用され尽くされれば枯渇 すると言われている。天水が砂漠の地下に浸み込んで化石水の「貯水池」が自然に補充されるようなことはないからである。

  半島西方端の紅海に沿って1200kmほど伸びる「アシール山脈」は別格だが、平地の土砂漠地では緑というものがほとんどない。 「ディライーヤ」という旧リヤドの街がかつて小さなオアシスに築かれていた。今でも、その周辺はわずかな椰子の樹木によって覆われ、 農業が営まれる。諸外国の外交公館が集積する特別地区では人工植樹がなされ緑も多い。それらは例外的なものである。他に緑地があっても、 金持ちが暮らす住居の敷地内などにわずかにあるくらいで、樹木や芝生を維持するには貴重な水を撒き続けなければならず、維持費がかさむ。 リヤドでの贅沢な暮らしといえば、塀で囲まれた邸宅内に芝生や樹木をふんだんに植え、緑のカーペットをもって癒されることであろう。

  リヤドの町は、東京の山手線のように環状に敷かれた「リング・ロード」という、片側5,6車線もある幹線道路によって取り 囲まれている。その内側では、碁盤の目のようにきちんと区画整理がなされ整然としている。市街地中央のビジネス街には近代的な 高層オフィスビル、ホテル、ショッピングセンターなどが建ち並んでいる。そのビジネス街の周囲には、2~3階建ての低層の住宅などが広がる。 それらの住宅のほとんどは土砂漠と同じ色彩を帯びる。飛行機や高層ビルからリヤドの町を見下ろすと、ほとんど全てがそんな土色一色に 染まっている。その向こうに広がるのはまさに同じような色に染まる本物の土砂漠である。

  少しでも風があると、砂塵が上空に舞い上がり、地平線は霞んで 見える。リヤドの町全体とその先に広がる土砂漠とがすべて同じ土色にくすんでシンクロナイズされる。最初のうちはため息しか 出てこないような、くすんでいて心晴れない風景ではある。だが、そのうち見慣れて来れば、驚くに当たらない普通の無感動的な風景に見えてくる。 砂嵐にでもなれば、陸も空もすべて砂塵で覆い尽くされる。砂嵐の来襲がなくとも、普段から目に見えない細かい砂塵が玄関ドアの 隙間や風呂場の換気扇などから住居内へと忍び込んでくる。何日間か気にも留めないでいると、テーブルの上を指でなぞって文字を 書くことができ、時に来客を前に赤面することになる。

  さて、着任後のリヤドでの住処は決まっていた。前任の所長が1年ほど前にテロリスト自爆事件に遭い大損壊を被った住居はすっ かり修復されていた。その住宅を引き継ぎ我が住まいとした。住宅は「コンパウンド」と呼ばれる、いわば外国人専用の特別居住区内 にあった。一般のサウジ人が暮らす普通の一般住宅地区とは生活環境の異なる別世界がそこにあった。 住人のほとんどは非イスラム系外国人であった。住居区内にはサウジ独自の宗教・文化的慣習や風俗を持ち込まないように との、特別のお触れが発出されていた。居住者としてのサウジ人はオフリミットということっでもあった。

  居住区内では、女性が頭からつま先まですっぽりと覆うガウンのような伝統的民族衣装である「アバヤ」もご法度であった。 聞くところによると、コンパウンドのオーナーはロイヤル・ファミリーに属するサウジ人だという。甲子園球場より何倍か広い敷地 面積を占める居住区は、その周囲を高い塀に囲まれ、その中に一戸建て住宅や二階建てタウンハウスなど数百軒が配されていた。 非イスラム系外国人専用のコミュニティがそこに形成されている。そんなコンパウンドがリング・ロードの内外に幾つも点在していた。

  敷地内には、小さいながらもスーパーマーケット、クリーニングショップ、結婚披露宴にも利用できそうなレストラン、ビデオレンタル ショップ、旅行代理店、ドラッグストア、理髪店・美容室などの他、室内トレーニング用の大きなジム、室内・屋外の25メートルプール や子供用プール、室内・屋外のテニスコート、スカッシュやボーリング場、卓球・ビリヤード場などのスポーツ・娯楽施設が揃っていた。 コンパウンドによっては、9ホールのハーフ・ゴルフ場、野球グラウンドなども完備されている。また、50名ほどが映画鑑賞できる ミニ・ホールもあった。アマチュアの楽器演奏家がプールサイドのテラスでボランティア活動としてミュージックコンサートなども 開催できた。まさに外界のサウジ社会とは別世界がそこにあった。

  だがしかし、ビール、ウイスキー、ワインなどのアルコール類はコンパウンドの外でも内でも一切買い求めることはできない。 住居内では、BBCやCNNなどの欧米メディアのニュース番組や、時間限定であるがNHKの衛星放送を楽しむことができた。サウジの 一般社会から隔絶された塀の中で、日本や欧米スタイルの生活を送ることができた。赴任してみるまでは想像もしていなかったような、 「異邦人」のための快適な別世界がそこに実在していた。塀の外へ一歩踏み出せば、そこはまさにサウジの異次元的世界が広がっていた。 ショッピングセンターなどの人の多く集まる場所に足を踏み入れれば、偶発的なテロ事件に巻き込まれはしないか、絶えず身構えねばな らならず緊張感がいつもつきまとっていた。

  時は遡るが、実はパラグアイに赴任中であった2001年3月11日に、ニューヨーク・マンハッタンで世界を震撼させた大事件が発生した。 サウジ人オサマ・ビン・ラディンが率いる「アルカイーダ・グループ」による航空機乗っ取りによる同時多発民間航空機ハイジャック・ 自爆テロ事件である。NYマンハッタン南端にある「世界貿易センター」の双子ビルに、乗っ取られた航空機が激突し、何と2本の超 高層ビルは崩れ落ちた。世界中の人々はこのテロ行為に衝撃を受けた。自爆テロにおよんだテロリストの半数以上がサウジ人であった。

  当該テロ事件の延長線上にあるテロ事件の一つが2003年5月にリヤドで発生した。その当時サウジはテロとはほぼ無縁であったが、 国内に飛び火した様相となった。その最初の一つが、NY同時多発テロ事件の数年後の2003年に首都リヤド市内のコンパウンドが標的に なり、私の前任者に襲いかかった。サウジへの赴任命令を受ける一年ほど前のことである。

  JICAサウジ事務所長はコンパウンドにタウンハウス様式の住宅を借り上げ暮らしていた。そして、彼が在宅している時に 無差別自爆テロに襲われた。テロリストは、車両に大量の爆弾を搭載して、当時無警戒無防備状態にあった正面ゲートを突破し、百メー トルほど進んだところで、爆破させた。彼の住居の玄関近くで大爆発であった。住宅はめちゃくちゃに破壊された。吹き飛 ばされたドアが彼の眼前を吹き飛び去って行ったという。それが直撃していれば、即死していたに違いないという。彼は顔面などを大きく 負傷し九死に一生を得た。負傷して病院に担ぎ込まれた所長のインタービューが、その日の内にCNNなどのワールドニュースで世界中 に放映された。その1年ほど後に、私は彼の後任者となってサウジに赴任し、JICA入団同期であった彼と交代した。そして、私は、 元通りに全面修復された住居に転がり込んだ。

  当然のことながら、テロ事件以来コンパウンドは厳重な警備体制の下に置かれるようになった。広大な敷地は元々四方ぐるり と堅牢な高い塀に囲まれ、外観上まるで刑務所のごときであった。塀の上部には有刺鉄線が敷かれ、国軍の兵士が定期的に巡回していた。 また、正門前にはバリケードが築かれ、兵士が装甲車を盾にのように配備し、24時間厳重に警備していた。 コンパウンドはいわゆるロイヤル・ファミリーが開発・運営に関わっていることがほとんどである。この自爆事件以降、サウジ西部の 大都市ジェッダの「自動車整備研修所(SJAHI)」プロジェクトの専門家が居住するコンパウンドはもちろんのこと、いずれのコンパウンドも 同様に厳重な警備体制が施されるようになっていた。
* コンパウンドだけでなく、内務省、警察本部、高級ホテル、高層ビルなど、市内の主要な施設ではいずれも、車両による自爆テロ 防御のためにコンクリートブロックなどをゲートのずっと手前の公道からそれらの玄関先まで並べられていた。

  ところで、諸国の大使館はリヤド市内の特別区域に一括集約され、その周囲は厳重に警備され、区域へ通じるアクセス道路 では兵士によって検問・警備体制が敷かれていた。JICA事務所はかつてはその区域内の日本大使館にて執務していたが、何時の頃 からか事務所は数km離れた住宅街区に所在する普通の借り上げ民間住宅(一軒家)に移転していた。コンパウンドからはリング・ロード (外環高速道路)を通って20分ほどで着く。そして、2003年の自爆テロ事件前までは、そこに「日本大使館経済部」の標札を掲げていた。 だが、事件後は事務所がテロの標的にならないように取り外されていた。

  さて、事務所用に借り上げた一般住宅では、これまたテロ対策の一環として、当該住宅1階の窓全てについて下方半分をコン クリートで覆い固められていた。テロリストが自動車で門を突き破って敷地内へ突入し、玄関先で自爆した場合などに備えて、少しでも防御しようというものであった。それ故に、 1階のダイニングルームについては、会議室として時々必要に応じて使用し、リビングルームは太陽光が不足し、電灯を点けても薄暗く 来客者をもてなすには不向きな状態であった。スタッフ全員が2階に退避したようなスタイルとなり、2階4室のみで執務していた。

  自爆テロ事件以降一年以上にわたり、日本人コミュニティは、目立った集会やスポーツ文化活動を自粛していた。即ち、日本 大使館や民間企業グループが主催しての日本人関係者らが大勢集まる年始の集いなどの目立った文化行事や、その他スポーツ大会も ずっと自粛されていた。また、商社マンやJICA専門家などの家族も、日常的往来を控えめにしていた。人の出入りが多いショッ ピングモールやホテル、内務省・警察署・軍事施設などのある場所には近づかないよう日頃から注意を払っていた。

  平穏な日々が続き安堵の心が芽生える頃には、リヤド市中や地方都市でテロ事件が思い出したように発生し、緩んでいた警戒心 が呼び戻された。頻度にすれば数ヶ月に1度くらいは、社会に衝撃をもたらす大規模なテロ事件が発生し、そのたびに身構えた。例えば、リヤド市内の 内務省や治安当局本部などへのテロリストグループの襲撃、東部ペルシャ湾岸都市ダンマンなどのアラムコ(サウジ最大の世界的国営石油 会社)の石油コンビナートへのテロ、ジェッダの米国総領事館への襲撃など、かなり大きなテロ事件が発生していた。

  テロ襲撃発生地区へ知らずして不用意に立ち入ったり、警察・軍とテロリストとの銃撃戦に巻き込まれないよう、日頃から 緊張感をもって警戒をしていた。発生の報が入れば、携帯電話網を使ってすぐ安否確認したり、テロ発生区域に関する情報の通報、 安全な帰宅ルートの指示、現場に近づかない旨の注意喚起など、手分けして連絡した。また、大使館との定期的な業務打ち合わせの中で、 治安情勢についても情報を交換した。事務所では治安対策の一環として、現役の警察官と内々に特別契約を交わし、定期的に会合 をもち、テロの取締り状況、市内危険地域の指定状況、潜在的テロリストらの動向、警察によるアジトの手入れなどの治安対策 などの情報を入手する一方、関係者への注意や警戒の呼びかけを怠らなかった。

  リヤド市街地の一般住宅地区の一角にある大き目のスーパーマーケットに、毎週末に気晴らしを兼ねて食料品の買い出しに よく出かけた。アルコールと豚肉以外は基本的に何でも手に入った。バドワイザーやハイネッケンのノンアルコール缶ビールも 出回るようになったのには驚いた。当時日本では「ノンアル」ビールは全く世に出回っていなかった時代である。 コンパウンド内のミニスーパーでちょっとした日用品は入手できたが、一週間分の生鮮野菜・果物などの食料品を まとめ買いするには、何でもそろう大型スーパーマーケットに出向くのが最も効率的であり、何より気分転換につながった。 初めの頃は物珍しさもあって、いろいろな商品を手に取って品定めをしていた。だが、生活に慣れ買いたい品物が定まってくると、 効率優先のショッピングスタイルに変わり行くのは止む得なかった。いつもの新鮮な野菜・果物やパン・鶏卵、嗜好品などの必需品をさっさと 買い込むだけで、いかにも省力モードの買い出しにで済ませるようになってしまった。

  余談だが、赴任して日がまだ浅い頃のこと、車で帰宅途上に街をぐるぐると走り回り、目をきょろきょろさせながら、 アルコールを売るショップや何かしらのバーを探すこともあった。リヤドやジェッダなどの大都会の目抜き通りには、レストラン、 貴金属店、流行ファッションを追うアパレル専門店などが灯す派手過ぎるネオンできんきらきんに輝いていた。 リヤドの夜の町はネオンの輝きだけからいえば、新宿の歌舞伎町にも見劣りしないくらいである。丹念に探せばどこかでアルコール にありつけるサウジ風かアラビア風の居酒屋の一軒くらいはあろうと期待して、そんな目抜き通りをゆっくりと 走らせて道草したことが幾度かあった。勿論あるはずもないことは分かってはいたが、路地の奥に隠れているバーの一軒でも見つけて、 同僚らに自慢してみたいとの思いであった。その「冒険心」はかなり旺盛であった。何度かそんなことを繰り返しているうちに 諦めがついたというよりは、自身でもさすがにバカバカしくなって二度と繰り返さなくなった。

  サウジでは、勿論ワイン、ウイスキー、ビールなどのアルコールは一切ご法度であった。覚悟を決めて、スーパーで濃度100%の 葡萄ジュースを調達した。そして、新宿の東急ハンズで調達しておいた酵母菌をそこに仕込んで、ワインを自家製造する他なかった。 だがしかし、初回の出来が悪かったせいもあり、また当時アルコールにそれほど強く飢えていた訳でもなかったので、その後は作る気力を 失くして行った。

  リスクを犯し密造までして飲みたいという訳でもなく、あれば有り難く頂くというほどであった。アルコールが大好きな 部類に属する人種であったし、大抵は度を越すまで飲んでしまう方であったが、今回の赴任でアルコールの中毒患者 ではないことを自覚し安堵した。アルコールがなくても十分耐えられることが分かったのは大きな成果であった。 だが、ある時期に、日頃からノンアルコール缶一本を毎夜晩酌に空けていることに気付いた。

  葡萄そのものを買い込み搾汁してもよいが、実は笑えないエピソードがあり、故にそうはしなかった。ある人物の話として、 大量の生ブドウを搾った後の粕の処分方法に困ってしまい、それを水洗トイレで流したところ、下水管が詰まってしまった。大ごと になりワインの密造がバレテしまったという、ウソのような本当の、笑うに笑えない話を聞いたことがあった。

  ワインづくりの秘策はいろいろあることはあるが、完全に一人で極秘裏に遣り遂げられるか、リスクは常につきまとう。特に コンパウンドの従業員やメードなどの外部の人たちに見つかると、当局に密告されるかもしれず、いろいろ厄介な ことになりかねない。それをネタにゆすりたかりもありえるかも知れなかった。製造した回数は多くはなかった。幸いにも、 アルコールがなくても毎日イライラすることなどめったになく、またビールの夢を見るような中毒的症状からは無縁であった。 時にスーパーでノンアルコールビールを買い込み飲んだ気分になれたし、それで気休めにすることができた。喉を誤魔化すために きんきんに冷やし、さらに氷をぶち込んだ。大抵は冷やし過ぎて凍ってしまったビールを少しずつ気長に解凍させながらちびりちびりと 飲むことが多かった。

  ある時アルコールが大好きな短期専門家がリヤドに赴任してきた。赴任して1,2週間して、彼は周りの専門家や所員に「本当に アルコールは手に入らないのか」と真剣に訊いて回っているという。もちろん、誰もが「ない」と答えて、さらりとかわしていた。その後、 アル中の症状が現われてきたらしく、何と大使館の書記官に何とかならないか直に電話を掛け、「サウジでは本当にアル コールが手に入らないのか」と詰め寄ったという。書記官からは「アルコールを手に入る手立てはどこにもない」と答えて おいたことを後日耳打ちされた。下手に用立てすると中毒症状がさらに強烈になるリスクを慮ってのことであった。

  同人はアル中の症状で相当困っているようであった。皆から大いにひんしゅくを買ったが、笑うに笑えない 話であり、まさに苦笑いでは済まされないことであった。気持ちを察し同情はしたが、どうすることもできなかった。 本人は気が狂いそうであったに違いないが、我慢してもらう他なかった。誰に訊いてもアルコールにあり付くことができず、最後は 観念したらしいが、本人にとってはサウジ滞在中は辛い断酒期間であったに違いない。イライラが募り、仕事どころではなくなると 心配させられたが、そこまでは至らなかったことに安堵した。アルコール中毒者でなくとも、毎晩適度に晩酌する楽しみをもつ多くの平均的 日本人男性にとっては、アルコール・ゼロの世界は相当つらいものがある。専門家の人選においては、業務上の支障になるほどの 強度のアルコール依存症患者でないかしっかり確認することが求められるかもしれない。

  余談であるが、意外なことにサウジではタバコの喫煙者を一度も見かけることはなかった。公共施設内では基本的に禁煙であった。私は 30年以上のヘビースモーカーであったが、赴任の半年ほど前にタバコを断つ意を固め実際に止めた。中南米などへの長距離 フライト(15~30時間)においては機内禁煙が辛くなっていた。マイアミ空港でトランジットした時のこと、トランジット・エリア から一旦パスポートコントロールを通って空港外に出て喫煙したこともあった。そこまでして喫煙することが煩わしくなり、情けなくなり、 また肺癌などの重い病気に罹患しないうちにそろそろ完全に禁煙すべきと、一大決心をした。

  医者に医薬品の禁煙パッチを処方してもらい、それを毎日腕に貼り付けニコチンを体内に吸収させた。ニコチン中毒症状は 徐々に緩和・抑制させて行くことができた。2週間後には出勤前にパッチを貼るのを忘れるくらいになった。 かくして、禁煙に成功していたので、サウジに赴任しても、喫煙のため一時間ごとに執務室を離れ、熱風の吹く屋外に身を置く必要も なかった。かつては執務を離れ喫煙の度に陰口をたたかれていたであろうが、サウジではそれもなく快適に執務に専念することができた。 それでも4年ほど後のこと、次の赴任先のニカラグアで心臓循環器疾患で九死に一生を得ることになってしまった。あのまま喫煙を続けていた とすれば、最悪の結末に至り「自然淘汰」されていたのはほぼ間違いなかったであろう。

  さて、サウジでの娯楽、気晴らしの場は「砂漠」にありと、赴任中何度も聞かされた。思い付きもしなかったが、長く生活して みて娯楽場所が何と砂漠にあることを次第に学び理解するようになった。「憩いは砂漠にあり」であった。リヤドの周囲は全て砂漠か 土漠である。リング・ロードから一歩外に出れば、砂漠しかなかった。冬場やその前後の時期は別にして、昼間の戸外での気温 は40~50度に達する危険な世界である。サウジ市民らは太陽が地平線に沈む頃ようやく灼熱地獄から解放されて、屋内から這い出して 街中へ繰り出し、食事やショッピングを楽しむ。勿論、ネオン街をいくら探索してみても、居酒屋など どこにも存在しない。映画館やスナックも、カラオケボックス、ゲームセンターなど、エネルギーを燃焼させる場所 は本当にない。週末外出しても、食事と談笑、ショッピング以外に屋外でどんな過ごし方があるのか、思い付かない。 友人や同僚に誘われるままに、「ピクニック」と称して砂漠へ出掛けるようになって、最高の気晴らしは屋外の砂漠や国内外の 度にあることが少しずつ分かって来た。

  リヤドのリングロードから少し外れたところに「オールド・ディライーヤ」という史跡がある。昔々サウド家が支配していた 頃の旧リヤドの町である。ディライーヤは小さなオアシスの周りに発展していた町でもあった。だが今では廃墟同然であるが、 歴史文化史跡として遺されている。雨がほとんど降らず乾燥しているので、日干し煉瓦でできた住宅や公共的施設が原形をとどめている。 私のリヤド、そしてサウジ国内の探索はこの「ディライーヤ」から始まった。そして暇を見つけては、国内ばかりでなく、周辺諸国を訪ね 大いに見聞を広めることの楽しみを知った。そして「第5の青春」を感じながら過ごすに至った原動力ともなった。

このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.


    第17章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第3節 サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活


     Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


       第17章・目次
      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア(その1)
      第2節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア(その2)
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第4節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/砂漠へのピクニック
      第5節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける