カイロからモロッコに向けて旅を続けた。エジプト・エアの航空機は北アフリカの地中海沿岸から少し南寄りの内陸部を飛行して
いるはずであったが、陽がすっかり落ち暗い夜空を飛び続けていた。モロッコには、私がかつて出向していた「公益法人・国際協力
システム(JICS)」での同僚である上村さんがJICA長期専門家(水資源・水利分野)として赴任しており、先ず彼に再会したかった。
その後は、「ジブラルタル海峡」の港町タンジール(タンジェ)を探訪し、できうればアフリカ大陸とヨーロッパ大陸を隔てる
「ジブラルタル海峡」を横切り、対岸のスペインに足を伸ばすことを描いていた。また、モロッコの大西洋岸に沿ってまだ見たこと
のない海や港を気ままに散策するつもりであった。
まず、カイロから国際商業都市カサブランカへ一気に飛び、その足で列車にて同専門家が住まう首都ラバトへ向かった。
彼はラバトの水利省に赴任していた。同じイルラム教国でありながら、モロッコでは、サウジと違ってアルコール
にありつけることを自慢げにしていた。彼が帰国する前に一度は訪ねて「逆慰問」を授かっておきたかった。ビールや
ウイスキーのグラスを傾けながら、積もりに積もったいろんな話を肴にして心行くまで語り合うことを楽しみに、深夜ラバトへと列車
に揺られた。
ラバトの駅で出迎えのドライバーと落ち合い、市街地にある彼の自宅へと案内された。そして、夜遅くまで思い付くままの
話題をネタにして二人で華を咲かせた。翌日午前中は二人で、鬱蒼と樹木が生い茂る大きな公園をのんびりと散歩した。
午後になって、私一人ラバトの街をほっつき歩いた。ラバトはブーレグレグ川河口に発展した都市といえる。
河口両岸に旧市街地(メディナ)が広がる。硬い地層のために河口川岸の南側に削り残されたと思われる高台にメディナの一部が広がっていた。
そのメディナは、12世紀に建てられた周囲何kmにも及ぶ髙い城壁で大きく取り囲まれていた。
城壁内の旧市街地・メディナを何時間かそぞろ歩きした。大西洋とブーレグレグ川河口に向かってそそり立つ「ウダイヤのカスバ」
の堡塁の肩面に、他の大勢のラバト市民らと共に一列に並んで腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら、、
雄大な海景の眺めを楽しんだ。河口対岸の低地に広がっているのは「サレ地区」のメディナで、ウダイヤの高台からその城塞内の様相
を眺望することができた。河口部の少し上流部にある浜には漁船が浜揚げされ、また船溜まりらしきものも視認できた。時折、
眼下の河口部地先の海面をフルスピードで家路を急ぐ漁労用ボートが通過して行く。そのボーとは堡塁から見下ろすと米粒のように
小さく見えた。その後カスバをそぞろ歩いた。河口から少し離れた岩場には高さ30~40メートルの、日本では極見慣れた円筒形の
白亜の灯台がそびえる。過去に10か国ほどのイスラム教国に出張してきたが、今回初めてそのような普通の灯台にお目にかかった
ことに気付いた。
大航海時代の黎明期にポルトガルやスペイン、その後英国、オランダなどの数多くの探検船や交易船が新大陸やアジア
を目指してこのラバトのメディナ沖を航行していたことを想い起こしながら、高台の「ウダイヤのカスバ」の堡塁から海を眺めた。
その後、ムハンマド5世(モロッコ独立の指導者)やその息子ハッサン2世の霊廟の他「ハッサンの塔」などめぼしい名所史跡を散策した。
海と河川に向けて広がるラバトのメディナ内でも外でも活気に溢れていた。アラビア半島の巨大砂漠のほぼ真ん中に位置するオアシス
都市リヤドとは全く異なる風景がそこにあった。海のあるそんな別世界の時空に身を置いていることを心から楽しんだ。同じ首都・都会
といっても、海に開かれているのと、そうでないのとでは、都市や文化の形成においてこうも違いが生じるものかと今更ながら驚きであった。
さて、地方への本格的な旅に出立する時がやってきた。専門家の友人が紹介してくれたモロッコ人青年がガイド兼ドライバーであった。そして、
別途借り上げたレンタカーでもって、大西洋岸沿いに北上し、何はともあれタンジール(Tanger)へ向かった。今回の旅の目的地の一つは、
モロッコ北端の国際海峡に面する港町タンジールであった。道中幾つかの小さな漁村に寄り道して、漁民らの働く姿を活写した。
特に時間を割いたのは、タンジールの数10km南にある小さな漁村アシラー(Asilah)であった。
アシラーには城塞に取り囲まれたこじんまりとしたメディナと、掘り込み式の漁港があった。
漁師7~8人が斜路に丸太を並べ、漁船を陸へ引き揚げようと汗水を流していた。漁網を広げて木製の網針(あばり)で黙々と修繕
する漁師の姿もあった。港内でいろいろな作業を行なうための敷地(エプロン)には、キールを敷きその両側に太い肋骨用角材を
数十本ほど立てたままにした船殻が鎮座していた。建造中の木造漁船であろう。まるで巨大なクジラの骨格標本を、腹部を上に
してひっくり返した様であった。
「あばら骨」むき出しの骨格標本のような、船殻だけの木造漁船を格好の被写体にしていろんなアングルから切り撮った。
日本ではそんな木造船建造風景は遠い過去のものであろう。さてその後、タンジールを目指し再びドライブを続けた。タンジールまで
あとわずかの距離であった。
いよいよ車はタンジールの市街地へと入って行った。間もなく海峡が見えてくると思うと心臓の鼓動が
どんどん高まって行った。海峡横断フェリーの運航サービスを宣伝する大きな広告塔がいくつか目に留まった。興奮はピークに近づき
つつあった。イベリア半島側のジブラルタルとアフリカ大陸北西端に立つ「ヘラクレスの柱」と
呼ばれる地を一度は訪れてみたかった。かくして、街全体を見渡した第一印象としては、数百メートルほどの高さの岩山頂部からジブラルタル
海峡に向かってなだらかに下る斜面上に形成されているようであった。そして、斜面にへばりついた旧市街地のメディナは、御多分に漏れず
何㎞かにわたる城壁によって取り囲まれている。
岩山斜面一杯に広がるメディナが海峡に向かって緩やかに下り行き、どの家からも港を見下ろせるように建てられているようだ。
その斜面頂部辺りにはかつてのカスバが陣取っている。カスバとは支配者の住居地であり、メディナの内外を監視するための城塞の
ことである。そのメディナの最も高い場所にあるカスバからは北側にひろがるタンジールの港町全体を一望できる。
その広がりの北端にあるわずかの平野部に港が築かれていた。その先には「ジブラルタル海峡」が東西に横たわっている。
坂道の多いメディナの中を暫し散策しながら、時に眼下の彼方に横たわる海峡を眺めつつ、数多の歴史を刻んできたことを想像し
ながら感激で涙しそうであった。西には大西洋の大海原、東方に目をやれば地中海である。旧市街地を下から上へ、東から西へと
足が棒になるほどにそぞろ歩いて、海峡とその街中風景を十二分に堪能した。
散策途上で、カスバの城壁のうちのごく一部が崩れ落ち、そこから城外へ通じていることに気付き、一歩外に出てみた。岩山斜面
西側をざっくりと包丁で切り落としたかのような断崖風景がそこにあった。眼前には大西洋の大海原が180度広がり、海風が心地よかった。
城壁に沿って北に目をやると、大型国際フェリーや貨物船が停泊する港と、その先に海峡が眺望できた。どんよりした曇り空であったが、
遥か遠くの海峡対岸にはスペインの陸地がうっすらと視認できた。タンジールの街と海峡風景を心行く
までこの目に焼き付けることができた。何十年も待ち焦がれてきた中で、今日と言う日がようやく巡ってきた。
見下ろす西方には大西洋が、東方には地中海が広がるが、残念ながら視界が今一つで、対岸のスペインは薄っすらとしか見えなかった。
古代海洋民族フェニキア人をはじめ、バイキング、カルタゴ人、海賊など数多の民族や人々が行き来した。北方からはバイキング
がやってきて、海峡を通過し、地中海のみならず黒海沿岸地域へも植民した。8世紀からイベリア半島で勢力を伸張させたイスラム教徒
の最後の砦であった「グラナダ宮殿」が1492年に陥落し、レコンキスタドーレスの思いが成就して、イベリア半島からイスラム勢力
が排斥された。以来500年以上にわたり、海峡はキリスト教徒とイスラム教徒との境界線となり、様々な歴史が刻み続けられてきた。
メディナ内を散策しながら、斜面前方に横たわる「ジブラルタル海峡」を何度も飽きずに眺めた。眺めるたびに感慨深いものが
込み上げてきた。何十年もこの海峡の畔に立つことを待ち焦がれてきた。青少年の頃の夢が叶い日本・欧州航路の外航船に乗組んで
いたとすれば、マラッカ海峡とスエズ運河、そしてこの「ジブラルタル海峡」を幾度となく行き来したことであろう。船乗りとなって
海峡や運河を通過することの憧れや夢をずっと引きずっていた。半世紀を経た後の今回の旅でようやく遥か昔の夢の極々一部を実現でき、
運河と海峡をこの目にしっかりと焼き付けることができた。
海峡への入り口には「ヘラクレスの柱」がそびえているという。アフリカとヨーロッパ側の岬に付けられた古代の地名である。
タンジールの東方50~60kmには、海峡に面する「ムーサ―山」がある。モロッコ最北端
にある高さ842mの山である。そのすぐ東方には、アフリカ大陸のスペイン領セウタがある。セウタの歴史さておき、その「ムー
サ―山」がアフリカでの有力な「ヘラクレスの柱」の一つと見なされている。もう一つの柱は、対岸のヨーロッパ側にある
「ジブラルタルの岩」である。今は英国領であるジブラルタルにそびえる。ジブラルタルは英国がその昔スペインから奪い取った領土である。タンジールからは地理学的にみて「ヘラクレスの柱」
こそ視認できなかった。とはいえ、スペインやフランスなどの欧州諸港とタンジールを結ぶ国際フェリーが発着するターミルを
眼下に眺望しながら、ようやく海峡都市に立つことができたことの感激に大粒の涙を流さんばかりの私であった。
さて、近年において国際社会で「ジブラルタル海峡」の存在が大きくクローズアップされたのは、1970年代初期から始まり10年
以上も続いた「第三次国連海洋法会議」においてであった。マラッカ海峡、ホルムズ海峡、バブ・エル・マンデブ海峡(インド洋と
紅海を結ぶ)などの100以上の世界中の重要な「国際的に
利用される海峡」をめぐる通航制度が、その外交舞台で大きな注目を浴びた。領海の幅が3海里(1海里は1,852メートル)から12海里
へと拡張されることについては、当時の海洋先進諸国のグループも、また参加国の大多数を占めていた、当時「グループ77」と称された
発展途上国でも異論がなかった。だがしかし、マラッカやホルムズ、ジブラルタルなどの幅24海里以下の狭い「国際海峡」には、
公海部分が残されなくなり、海峡沿岸諸国の領海によって「領海化」されることになり(公海部分が残されなくなり)、両グループ
が制度を巡って鋭く対立した。
国際海峡は海上交通路のチョークポイントである。戦略上重要な国際海峡が領海化されると、米ソをはじめ先進海洋諸国の軍用機は
上空飛行できなくなる。潜水艦は浮上してその姿をさらけ出し、国旗を掲揚して通過せざるをえなくなる。
シンガポール、マレーシア、インドネシアその他の多くの発展途上の海峡国はそうあるべきと主張した。グループ77はそれを是とし
支持した。紆余曲折を経て、海洋先進諸国は、グループ77の最たる主張である「200海里排他的経済水域(200EEZ)」を認め、他方グループ77は
国際海峡に「通過通航制度」という、領海での無害通航権よりもはるかに自由な通航を認めることで政治的妥協が成立した。
国際海洋法の大変革期(特に1970年代)においてこれらの法制を学んだ学徒としては、「ジブラルタル海峡」を
瞼の奥のスクリーンに焼き付けておきたかった。マラッカ海峡やホルムズ海峡もそんな「国際海峡」の一つであった。
日本では、同国連会議がなおも開催中の1970年代中頃に、領海幅員を3海里から12海里へと拡張した。だが、対馬海峡、宗谷海峡、
津軽海峡、大隅海峡(日本政府は「国際的に利用される海峡」、いわゆる「国際海峡」とみなす)においては、幅員を12海里へ拡張せず、
もって自由な通航や飛行が可能な「公海」を残すという特別の通航権制度を成立させた。かくして、米中ソなどの外国の核兵器搭載
潜水艦も自由に潜航して通過したり、軍用機は自由に飛行することができるという、世界でも稀有な制度を導入した。
ところで、領海幅員を3海里から12海里へと拡張した結果それらの4海峡には公海部分が残されないということになり、
例えば米国の核搭載潜水艦がそれらの領海化された海峡を通航するとなれば、日本政府が堅持してきた「非核三原則」の一つで
ある「核兵器を持ち込ませず」の政策に抵触することになる。他方、領海に適用される「無害通航権」を根拠にして、当該核
搭載潜水艦の浮上航行を要求するとなると、その自由な潜航通過が保障されず核抑止力を低下させることになる
というジレンマを抱え込むことになる。このジレンマを回避するために、それらの4海峡の中に「公海」部分を残すという、苦肉にして
特別の通航レジームを編み出した訳である。
さて、タンジール港とその対岸のスペインの港町タリファとの間では近距離国際フェリーが運航されているようであった。その他バルセロナやマルセイユ
の諸港とも定期船で結ばれているらしい。カスバから港を目指して迷路のような裏通りを下り、フェリーターミナルへと足を
踏み入れた。暫くターミナル待合室などをたむろしながら、海峡を渡ろうかどうしょうかと、この期に及んで迷って
いた。ウロウロしながらついに「この機会を逃すべきでない」と、思い切って海峡を横断することに意を固めた。すぐその足で階下の旅行
代理店に駆け込み、いろいろ情報を得ながら、明日出航するフェリーのタンジール・タリファ往復切符を買い込んだ。
その夜は興奮して心穏やかにならず、童心に返ったように待ち遠しくてかなかなか寝付けなかった。明日海峡を渡り切れば、
自身の人生に何か一区切りでもつけられるかのような気がした。
翌日大型フェリーに乗船し、海峡横断の旅人となった。対岸のスペイン最南端にある港町タリファに向かった。
タリファは「税率」を意味するスペイン語で、英語タリフの語源でもある。その日は生憎の雨模様で、しかも
風が強かった。大型フェリーは1万トン級であったので、強風を突いてぐんぐんと進んだ。一般客室から右舷側の甲板通路に出た。そして、
寒風が肌に突き刺さらぬようデッキの片隅に身を寄せ、雨混じりで冷たい強風から身を護りながら海峡を眺め続けた。
風にあおられ波がぶつかり合い三角波となる。三角波の頂に白い飛沫が見えたかと思う次の瞬間には吹き飛ばされ蹴散らかされて行く。
フェリーはそんなあれた海をものともせず突き進んだ。私は飽きもせず荒々しい海峡の海をじっと見詰めていた。時折地中海から大西洋に出よう
とする大型船とすれ違った。たったこれだけのことだが、船上人となってジブラルタル海峡横断という、またとない貴重な体験をする
ことができた。これこそが永く温めてきた海峡横断の旅であった。航海はわずか一時間ほどであったが、子どものように
感激を噛みしめていた。「これぞジブラルタル海峡だ!」と叫びたくなる衝動にかられるほどであった。
フェリーは左右から突き出た防波堤の狭隘部を通り抜け、急カーブを描きながらタリファの港に滑り込んだ。大勢のモロッコ人
らの乗船客に混じって一旦上陸し、入国の手続きを済ませ、小さな待合室に身を置いた。乗船客のほとんどはEU側での就労許可証をもつ
モロッコ人であろうと見て取った。EU諸国のどこかに居住し、その地へ戻って行くのであろうか。大勢が上陸して行った。
さて、陸(おか)に上がったのはせいぜい5分ほどであった。少しはタリファの街を散策してみたかったが、日程上すぐさま折り
返す他なかった。往復切符をもつ私は、すぐさま今度はパスポートコントロールで出国審査を済ませた。そして、そのまま乗船し直して、
帰航の途についた。15分もしないうちにフェリーは出港し、再び海峡横断の異邦人となった。
そういえば、思い出したことがある。その折り返しのフェリーは確かにタンジールに直帰するのか、それともバルセローナや
フランスのマルセイユ経由で戻るのか、何ら確かめもせず再乗船してしまった。他港経由であればタンジールに帰りつくのに2~3日は
かかるかもしれなかった。タンジールのホテルで再会する予定のガイドは、何がどうなっているのか困惑するどころではなかったこと
であろう。何故なら海峡横断の旅に出る話をしていなかった。だが、幸いなことにフェリーは直帰航路を進んでくれた。
そうでなければ真っ青になるところであった。フェリーのクォーターデッキ(後部甲板)に出て、タリファの港町が遠ざかる様を眺め
続けた。とにかく海峡を往復することができた。またとない良き経験となった。積年の夢が叶った記念すべき
日となった。「我、ジブラルタル海峡を見たり」。大袈裟であるが、一生のうち二度と同じ体験はできまいという思いで感傷的になっていた。
さて翌日タンジールを後にして、ガイドに薦められるままに海峡沿いに移動し、「スパルテル岬」へ案内された。岬はタンジールの
西方15㎞ほどの距離にあった。そこはアフリカの北西端にあたる。その岬にある高台から大西洋と地中海の境界域に当たる海峡水域を
別の角度から見下ろすことができた。海峡を隔てて、北方にイベリア半島が間近に眺望できる。米粒のように小さく見える船が、
無数の白波が湧き立っては瞬時に消え行く大西洋の荒海から海峡へと進み行く。海峡を通過して
今まさに大西洋の大海原へ突き進もうとする船もある。長い航海を終えようとしているのか、それを始めようというのか、多くの船乗り
たちの思いを乗せて、海峡を通過して行く。その様を暫し眺めながら再び感激に浸った。
目と鼻の先には、モスクのミナレット(尖塔)のような美しい灯台が立っている。アフリカ大陸側の
海峡の入り口に立つこの灯台は1864年に初点灯されたという。
岬を後にして、もう少しドライブしたところにある「ヘラクレスの洞穴(Grottes d'Hercules)」に案内された。巨大な洞窟内に入ると、
大きな岩の割れ目から光りが差し込み、大西洋の海水がわずかだが洞窟内に入り込んでいた。ガイドの言葉を信じて、「アフリカの地図」
を探し求めた。洞窟そのものも名勝らしいが、洞窟内の岩の巨大な裂け目がアフリカ大陸の形にそっくりだとのことで有名だという。
差し込むアングルによっては、洞窟地図上のモロッコの位置辺りに陽光が神々しく星形に輝くという。
洞窟からもう少し南下して、大西洋に臨む断崖のテラスに案内された。崖っぷちを利用して幾層にもテラスが造作され、そこにカラフルな
ビーチパラソル付きのテーブルが並べられたカフェテリアであった。その日は
穏やかな日和日で、テラスに燦々と陽光が差し込み、大西洋の大海原を眺めながら談笑し憩う大勢の人々で賑わっていた。我われも
そこでモロッコ・カフェを味わいながら、暫し旅の疲れを癒した。
さて、海峡地方を後にして一路内陸部の町マラケシュ(Marrakech)を目指した。ドライバーは上村専門家から指示されて
いたのであろう、道を少しそれて私をアトラス山脈の麓辺りにある渓谷へと案内してくれた。
ごつごつとした岩肌むき出しの渓谷風景が続いた。清流が深い渓谷内の道筋に沿って縫うように流れ下る。
専門家が設置したという洪水警報システムの対象地区へと足を踏み入れ、山中の美しい渓谷内を暫しドライブした。その後ハイウェイを一気に突っ
走って彼の有名なマラケシュへと急いだ。
マラケシュと言えば、メディナ内にある「ジャマ・エル・フナ広場」が最大の観光地である。翌日、全国各地からやって来る
大道芸人で溢れ返るフナ広場に赴き、広場のあちこちで繰り広げられる大道芸人のいろいろな珍芸巧芸を横目に、露天商の屋台を巡り歩いた。
歩き疲れては、広場の一角にあるカフェで暫し寛いだ。カフェ2階にはオープンテラスがあり、広場を見下
ろしながらモロッコ・カフェを味わった。広場では蟻が蜜に群がるかのように数多の人々が集まり喧騒を繰り広げていた。
さて、一休みを終えて気を取り直し、フナ広場の周囲にあるスークへと踏み入れることにした。
スーク内には狭い路地が迷路の如く複雑怪奇に張り巡らされ、どこに行き着くのか、迷子になるのも覚悟の上でチャレンジした。
スーク内では数え切れないほどのいろいろな店がぎゅうぎゅう詰めに軒を連ねている。行き着く先も頓着せずにうろつき回り、
異空間へのタイムスリップをたっぷりと楽しんだ。その後は、マラケシュ市内と近郊にある霊廟やモスクなどの幾つかの
名所史跡をお上りさんに成り切って見て回った。女性の化粧用パウダーだけでなく、様々な民族衣装、民芸品
などに用いられるモロッコ特有の色使いの鮮やかさと豊かさに目を奪われた。かくして、マラケシュを朝から晩まで
一日中足が棒になるまでほっつき歩き、モロッコの民族風物詩的な被写体をたくさん切り撮った。
さて、翌日はマラケシュの西方100kmほどにある大西洋岸の漁業の町エッサワラ(Essaouira)に向かった。その道中、ガイドから
聞かされた話として、モロッコ南部にしか生育しないという「アルガンツリー」という樹木があるという。エッサワラ地方はこのツリーの
実から抽出される薬用・食用・化粧用アルガン・オイルで有名であり、それがこの辺りにたくさん生えているという。彼は道沿いに生える
そのツリーを指差しながら教えてくれた。ところで、四足の山羊が器用にもその樹に驚くほど高い所まで登って実を食べるという。
そういえばこの旅行中でのこと、山羊が信じられないくらいの高さまで上手に樹に登っている写真をどこかで目にした。確かカサブランカ
の空港内の大型広告パネルであったかも知れない。そのことを思い出しながら、
車窓を流れ行くアルガンツリーの自然風景を目で追いかけた。
エッサワラの旧市街地のメディナは、ポルトガル時代に建てられた城壁によって取り囲まれる。城壁の一方は大西洋に面する。メディナの
すぐ傍には漁港があり、たくさんの沿岸小型漁船から魚が水揚げされ活気に溢れていた。他方内港では、数え切れないほどの
木造の零細沿岸漁業用手漕ぎボートがひしめき合うように係留される。そんな船溜りに出遭った時には、その美しい風景に思わず目を
奪われ、感嘆の声を上げてしまった。というのも、その無蓋の手漕ぎボートは、すべて色鮮やかなブルーで船体の内側
も外側も塗り込まれていた。だから、港内の水面が見えないほどに、あたかもブルーの花で埋めつくされたガーデンのように思える
ほどであった。これこそがモロッコ漁港にみるユニークで伝統的な原風景に違いないと確信した。
足をさらに進めると、そこは外洋に面した漁港で、小型の沿岸漁船や近海漁船が所狭しと係留されていた。そして、岸壁に横付けされた
トロール漁船からは、獲って来たばかりの新鮮なイワシなどがトロ箱詰めにされ、乗組員の手作業にて船倉から陸揚げされていた。
岸壁に横付けされた他の多くの漁船は横列にひしめき合って係留され、乗組員はさまざまな作業に追われていた。
中には、数百トンクラスの漁船が横付けされ、漁獲物を一杯に入れた木箱に氷を足し込みながら、何人もの手渡しでもって
埠頭に陸揚げされていた。乗組員総出によるそんな人力作業に汗を流す姿をたくさん活写した。すぐ近くの船舶修理用ヤードでは、船底に
くっついた貝殻を除去するなどの船底掃除、漁船外板のペンキ塗り、その他船体の本格的なオーバーホールなどで、作業員が忙しく
立ち回っていた。岸壁をうろつき回りながら、絵になる被写体を探し求めては気の済むまで活写し続けた。
その後、城塞を刳り抜くように築造された「海の門」をくぐり抜け、埠頭エリアからメディナの中へと足を踏み入れそぞろ歩くこと
にした。メディナ内の建物の外壁は真っ白に統一されていて実に美しい。かつてチュニジアの地中海沿岸で見掛けた、白亜の家々と
チュニジアンブルーに塗られた窓枠や扉からなる街風景を思い出させた。「ムーレイ・エル・ハッサン広場」というメディナ内のプラサには、眩しいほどに陽光が降り注ぐ。白亜に統一される外壁に陽光が
照り返し一層眩しさを感じさせる。建物の窓という窓の外枠は、みんな統一してブルーカラーに塗られる。カフェのオープンテラスには
パステルカラーのビーチパラソルが林立する。まるでカンヌかニースの街角のカフェテリアに憩うかのような街風景である。
海沿いにさらに進むと、新鮮な獲れ立ての魚介類を売る朝市が開かれていた。テント下の陳列台には新鮮な魚やイカ・タコ・貝類などが並べられ、
自然と引き寄せられてしまう。屋台にはこんがり焼かれた鰯・イカ・貝類などのシーフードが並び、磯焼きの匂いが海辺に漂い食欲がそそられる。アラブ世界と地中海的世界が海辺で融合したかのような明るい雰囲気が広がる。
メディナの北側は岩場の多い海岸に面し、その岸沿いに髙い城壁(1769年に時のスルタンが築造した)が築かれ、そこに大西洋の
荒波が打ち付けられる。その城壁の先のはずれには「スカラと北陵堡の展望台」と呼ばれる、見晴らし抜群の陵堡がある。
「スカラ(Skala)」とは、要塞の城壁の上部に見回りのために造られた構造物(砲床)のことである。見張り台でもある砲床は何と
200メートルも続いている。そこには、20~30の大砲が、海に向かって、数10メートル間隔で横列に配備され、海に睨みをきかせていた。
その大砲列の様はまさに壮観である。数多の海鳥が荒々しい岩石海岸の上空を飛び交う自然風景と、スカラ上に並ぶ大砲列の
威圧的な風景は、異邦人の私には印象的で忘れがたいものとなった。その城壁のすぐの内壁側にある狭い通りは「スカラ通り」と称され、
古くから寄木細工を扱う多くの工房や民芸品ショップが軒を並べ、エッサワラの歴史と伝統文化を醸し出していた。
その後、エッサワラから海岸沿いに北上し、ポルトガル支配時代の巨大な城塞に囲まれた旧市街地(メディナ)をもつ
「アル・ジャディーダ(El Jadida)」へと向かった。カサブランカの南90kmである。アル・ジャディーダは1502~1769年にかけて、
ポルトガルの支配下にあった時代の都市であり、その面影を色濃く残している。海に面する城塞都市アル・ジャディーダは、1514年に
ポルトガル人によって創建され、1769年までポルトガル領土であった。その城塞の海側の一角には、海との連絡通路を確保する
ために、その一部を刳り抜き、そこに斜路が設けられている。ポルトガル船が到着すると、その海門を通して物資などの搬出入
が行なわれたのであろう。今は門に鉄柵が施されている。ところで、メディナにはポルトガル時代に立てられた教会があり、その
地下に貯水槽が遺されている。水攻めに備えて雨水を溜めておくために、1542年に地下貯水槽へと改造されたものである。
ところで、アル・ジャディーダの城塞のすぐ外側の陸域に木造船を建造する大きなヤードがあった。城塞の一部をなす陵堡・歩廊
からその造船所を見下ろした。木造船組立用の肋骨や梁、その他いろいろな形状の部材が、組み立て作業手順に合わせて秩序だって並べられら
れていた。その組み立て作業を飽きもせず興味津々に鳥瞰することができた。そんな時のこと、その陵堡の展望台近くで、二人の自信
あり気な少年に出会った。彼は「ここからダイブするので写真を撮れ」という仕草をした。二人はほぼ同時にその陵堡から
直下の濠(モート)へと飛び込んだ。高さ10メートルはあった。彼らの元気さ、逞しさ、勇気に旅を続けるエネルギーをもらった。
その後、陵堡から地上へ下りて、造船所ヤードの傍らを通って港内へと歩を進めた。港の埠頭で一軒のレストランを見つけ、ランチにあり付こうと
立ち寄った。そこで偶然にも額に収められた古写真を見つけた。ノルウェーのヘイエルダールが、「ラーII号」で大西洋を横断する航海途上
においてこの港に立ち寄ったようである。その時に撮影されたと見られる写真が壁面に飾られていた。クルー全員の集合写真のようであった。
そこに一人の日本人らしきクルーも写っていた。「ラーII号」の写真だとはっきりと認識したのは、帰国後かなり経ってからである。
同号の航海には、志願して参加した一人の日本人がいたことを知った。そして、切り撮っていた当時の写真を改めて見直した。
そこに一人の日本人像を読み取っても何ら不思議ではなかったのである。遅まきながら「ラーII号」の写真に間違いないと確信した。
さて再び北上を続け、エッサワラから70kmほどにある「サフィ」という城塞の町を通過した。サフィは、アル・ジャディーダと同じく、
16世紀初期にポルトガル人による支配を受けた。だが、ポルトガル人が住みついたのは短期間であったという。
サフィのメディナは、「ウム・エル・ルビア川」の川岸に自然に形成された髙い擁壁や土手を利用して築かれていた。
現在では、鰯缶詰め工場や化学工場が立地し、陶器製造も営まれる工業都市であるという。カサブランカ(Casablanca)の南のはずれ
にある「アズムール地区」までは、あとわずか17㎞の距離にあった。
かくして、最終帰着点であるカサブランカに帰還した。折角の機会と思い、カサブランカ漁港の埠頭にも立ち寄った。
古くは12世紀のムワッヒド朝時代にはアラブ人海賊の拠点であり、貿易港としても発展していた。
モロッコの古い伝統文化と近代的文化とがミックスした都会であり、いわばそのアンバランスが見ものとされる。港には大型貨物船、
客船などが頻繁に出入りし停泊するアフリカ最大級の貿易港である。漁港にはトロール漁船などが居並んでいた。近くには卸売魚市場
があり、またシーフードレストランも軒を並べるが、市場の活動ピークはとっくに過ぎていた。最後に、市街西方に位置する「ハッサン2世
モスク」に立ち寄った。ミナレットの高さは200メートルもあり世界最高とされる。大西洋に突き出た地に建つ「2世モスク」は、
さしずめ海の上に建つ荘厳な様相を呈している。
その昔「君の瞳に乾杯!」という名台詞が語られたという有名な映画「カサブランカ」があった。ハンフリー・ボガードと
イグリッド・バーグマン(2015年生誕100年)らが主演した1942年の映画である。話しの種にと、映画の舞台になったホテルのバー
を夕刻に訪ねた。バーの場所はそこだが、バーはすっかり衣替えされ、往年の面影の欠片もなかった。後で、「リックス・カフェ
(Rick's Café)」がメディナのいずこかに所在するとの情報を得た。
だが、それが映画舞台のバーを復元したものか否かは定かではなかった。後で聞いた話だが、
バーの舞台セットはアメリカ国内に設置されていたらしい。高い飲み代を払いながら得るものなしとなり、がっかりしてバーを後にした。
バーでの高い飲み代のこと以外は、モロッコの旅の収穫は実り多いものであった。イスラム文化圏に属するといえども、モロッコはサウジ
アラビアに比べれば、表面的には普通の国そのものであり、何の違和感もなく快適に旅することができた。
異邦人としての私の心にぐさっと突き刺さり遺物を体内に入れるようなびっくりの異文化体験は一度もしなかった。
サウジでの禁欲的生活から解放され大いに骨休めとなり、大量の酸素を補給することができた。日本に本帰国するまでのこれからの半年間は、
酸欠状態になることなくサウジ生活を続けられそうである。だとしても、二日後にはリヤド生活に戻ると思うと、思わず溜め息が出て
しまった。
さて、初めてモロッコに降り立ち海峡の町タンジールを訪れたが、マルコ・ポーロに匹敵する中世の大旅行家であった
イブン・バットゥータの出身地は、何とそのタンジールであったことを後で知った。そこで最後に彼について少し触れておきたい。
イブン・バットゥータ(英語名: ibn Battuta; 1304~1368年)は、港町タンジール生まれのイスラム法官であった。
アラブ語での正式名はかなり長いものなので省略するとして、「ibn-」とは「息子 (英語: son)」という意味である。
彼は、イタリア・ベニス出身のマルコ・ポーロと並ぶ中世の大旅行家でありながら、ポーロよりはずっと知られていない。
1325~1346年の21年間の彼の旅の行程は概略以下のようなものであった。マーリン朝時代 (1196~1465年) にあったモロッコを出発し、
北アフリカの沿岸を経てエジプト、シリアへ向かった。アラビア半島紅海寄りにあるイスラム教聖地のメッカへ (これらのいずれの地も、
当時エジプト・マムルーク朝 (1250~1517年) の版図下にあった)。その後アラビア半島を横断し、当時イル=ハン国 (1258~1353年)
の版図下にあった、今でいうイラク、イランを巡遊した後、メッカに戻り、そこに1330年まで滞在した。
次いで、アラビア半島南西部にあるイエメンのアデンを経て、東アフリカ海岸の沿岸諸都市モガディシュ、モンバサ、
ザンジバルへと旅した。その後アラビア半島のオマーンへ。ペルシャ湾岸に至りアラビア半島を縦断し、再びメッカへ至った。
その後、小アジア (アナトリア地域) を経て、黒海沿岸を巡遊した。コンスタンティノーブルをも訪ねた。更に、
現在の南ロシアと中央アジア地域 (これらは当時キプチャク=ハン国 (1243~1502年)、イル=ハン国 (1258~1353年)、
チャガタイ=ハン国 (1307年~16世紀) などの版図下にあった)を経て、現在のパキスタン・インド北部へと巡遊した。
1340年までの8年間、インド(当時トゥグルグ朝の版図下にあった)のデリーで法官となった。
更に、インド西海岸を南下して、インド洋にあるモルディブへ渡海した後、1年近く滞在した。その後、東南アジア沿岸を航海し、
中国の泉州・杭州 (臨安) を経て、大都 (現在の北京) に至った。再び泉州から海路にて南シナ海、インド洋を横切り、イランや
イラクを経てメッカに立ち寄った後、モロッコに帰還した。
1349~1354年の5年間の旅に関して言えば、イブン・バットゥータは、モロッコからまずイベリア半島アンダルシア地方を旅した後、
モロッコに戻り、マリーン朝の都フェズから南下し、アトラス山脈を越えてサハラ砂漠へと足を踏み入れた。大砂漠を縦断し、
現在のアルジェリア、マリ、ニジェールなどを巡遊して、1354年にフェズに帰還した。
かくして、25年にわたって、アフリカ・アジア・ヨーロッパのイスラム世界の境域を旅したイブン・バットゥータは、
マリーン朝スルタンのアブー・イナーン・ファーリスの命を受けて、イブン・ジュザイーの口述筆記をもって、1355年に
「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」と題する大旅行記(通称、「リフラ (Rihla) 」)を著した。
彼の遺体は故郷のタンジールに埋葬された。彼の墓前に花を手向けることを思い付かず、また実現もできなかったことは大いに
心残りとなってしまったが、モロッコに再訪する十分な言い訳にはなろう。
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