さて、JICA長期技術専門家(漁港建設)としてかつて在カイロのエジプト政府庁に勤務していた友人から紹介された、日本人経営の
旅行代理店にコンタクトし、「船がスエズ運河を通航するところを見たい」と希望を事前に伝えていた。そして、レンタカーとドライバー
の手配などを依頼していた。一目でも良いから運河を見たかった。運河南側の入り口にある港町スエズにて、運河への進入路付近の
岸壁に立ってみたかった。また、運河が砂漠の中を貫通するところを眺めてみたかった。そして、可能ならば、特に「日本・
エジプト友好橋」の上から、大型船がその航跡を残しながら運河を通航する様をカメラで切り撮りたかった。
さて、ホテルで代理店の車両とドライバーを待ち受けた。ドライバーが一人でやってくるものと思いきや、代理店代表の日本人社長も
わざわざ来てくれていた。ドライバーの紹介が目的と思ったが、さにあらず。ドライブに同行してくれるという。
社長自らわざわざ同乗し、道案内を買って出てくれたのには、やはりそれなりの訳があるのであろうと直感した。
運河とその両岸の一定区域は、厳重に軍の管轄下に置かれていることは推察していた。写真撮影だけでなく、立ち入り禁止区域への無断立ち
入りなどで、旅行者の私が軍兵士や警備員とのトラブルに巻き込まれないようにするとの配慮からであろうか。
あるいは、万一お客がトラブルを引き起こした場合には、同地で営業する代理店主として適切に対処せねばならないとの観点からであろう。
トラブルの防止と対処の両面から、社長自らが砂漠のドライブに付き添ってくれ、またガイド役を引き受けてくれたものと、
おおよその訳を推察することができた。
社長の案内の下、ワゴン車はカイロから一路スエズ運河沿いの町イスマイリアに向けてひた走った。社長は道中何度か「運河は
写真撮影禁止なんですよ」と、暗に運河撮影でトラブルを避けてもらいたいとの思いをちらつかせつつ、独り言のように言い続けていた。
写真撮影のことでトラブルにならないように同行していることを暗に言いたかったようだ。やはり、警備に当たる軍関係者らといざこざがあっては代理店としても大変迷惑を
被ることになると、自他ともに慮ってくれていたのであろう。時間の経過と共に、サウジにおける場合と同様に、写真撮影にはくれぐれも
心せねばと少しずつ緊張感が増していった。
気が付くと我われのワゴン車は、地中海側の運河入り口にある町ポートサイドと、紅海側の入り口にあるスエズとのほぼ中間地点にある
イスマイリアという、運河沿いの町をめがけて疾走していた。やがてイスマイリアを脇に見ながら、今度は運河に沿って
北上した。だが、運河を実際に間近に視認できたのは、イスマイリアの北20㎞ほどのところにある、かつては運河に架かる世界最長の
旋回橋であった「エル・フェルダン鉄道橋」辺りであった。
旋回橋は鉄道橋であったが、1967年の中東戦争において破壊された。アプローチ部分の橋梁だけが遺されていて、
中央部は爆破され崩れ落ちている。遥か遠くにあっても、それでも戦争の傷跡を否応なく感じさせるものであった。黒く焼け焦げた
ような巨大な鉄の遺構は、それを見る人に何かを訴えかけているようだ。鉄道橋の旋回部分は340メートル長
もあったという。さて、橋からさらに北へ5㎞ほど進むと、対岸のシナイ半島側のエル・カンタラというところへ渡るために運河
に架けられた大橋が視界に入って来た。桁下70メートルの高さがある道路橋であり、通称「日本・エジプト友好の橋」(日本の
円借款・有償資金協力で建設された)と呼ばれている。
友好橋のアプローチ坂を上れば眼下に砂漠の中を貫通する運河風景を目にすることができると、鼓動が高まるのを感じた。
道中気付いたことであるが、運河沿いの道路は運河自身から結構離れたところを通っている。そのため、車窓から運河を観ようにも、その
姿を視界に入れることはできないでいた。髙塔やビルから見下ろせるのであればともかく、低地の砂漠地帯をドライブする限り
期待できないことであった。だから、唯一期待できることとして、その友好橋を渡る時が唯一のシャッターチャンスであると考えていた。
幸いにもその日は天気が良く、橋上から少なくとも砂漠の中を細い帯のように伸び行く「水の道」だけは切り撮れるものと、
小さなデジカメを両膝の隙間に忍ばせて、緊張した面持ちで待ち構えていた。ワゴン車が大橋のアプローチ道路の坂道を上り
始め、少しずつ水路が視界に入って来た。
今でも思い出すが、そんな坂道を上り行く途上であっても、社長は「運河のカメラ撮影は禁止なんですが、、、、」とつぶやくという
念の入れようであった。それを聞いて一瞬たじろきそうになったが、今更言われてもと半ば居直り、気を取り戻してカメラを
ぐっと握りしめた。社長としてはこの期に及んでもそれを言わざるを得なかったのであろう。社長はさぞかし辛い立場にあった
ことであろうと、少しは同情した。万が一軍の監視兵らに双眼鏡でピンポイントで覗かれ、
渡橋後呼び止められ、カメラの没収や画像の削除、そして代理店主も営業停止や罰金などを課せられる羽目になるかもしれなかった
からである。彼はそこまでは言わなかったが、客の私が何をしでかすか、気が気でなかったに違いない。社長のつぶやきに内心戸惑いながらも、
覚悟を決めてシャッターボタンを押すための「臨戦態勢」に入っていた。とはいえ、何処からどう監視されているか分からないと思い、
自身もそれなりに緊張していた。
社長は過去にいろいろ苦い経験もしてきたことであろうから、想像以上に心配していたに違いない。橋上での停車や駐車は
勿論禁止である。写真撮影も禁止である。ましてや、橋上でワゴン車を止めて写真を撮るなどは自殺行為に違いなかった。本音では、
車を10秒でも停車してもらいたかった。そう頼みたかったが、ぐっと我慢した。私が実際にそれをドライバーに求めていれば、
社長はそれを確実に制止していたことであろう。
橋の通過時初めて社長が同行してきた理由を悟った。ドライバーと私だけならば、
私がドライバーをうまく丸め込んでしまうか、買収するなどして、橋上で一瞬停車したり、あるいは少なくともゆっくりと走行させるかして、撮影に便宜を
図ってくれるよう、ドライバーに無理やり何らかの画策をしていたかも知れなかった。社長はそれを恐れたのであろう。
橋上での停車などの不穏な動きは、必然的に監視員の目に留まる確率は圧倒的に高まる。橋を渡り切ったところの検問所で尋問に遭い、
メモリー消去やカメラ没収となっていたかもしれない。それで済めばよいが、身元引き受けのために在エジプト日本大使館員のお
世話になる破目になっていたかもしれない。社長はそんな出来事を何度も体験してきたのかもしれないと憶測した。ましてや知人の紹介
でやって来た「お客」だから、何かと余計に心配してのことだったのかも知れない。彼は、アプローチの坂道を上る途上で、何度かドライバー
に「スピードを緩めるな」と指示し続けていた。
社長のつぶやきで緊張感が一気に高まるなか、長いアプローチ坂を上り続け視界がだんだんと開けてきた。
長大橋のスロープを上って行くと、見渡す限り平坦な砂漠の地平線がはるか彼方まで伸びていた。橋の中央部辺りにさしかかると、
運河というよりも一本の細い灌漑用水路のような「水の帯」が地平線の彼方へと伸び、そして砂漠へと消えて行く様を初認することができた。
見たかった風景に鳥肌が立ち、感激の余り身体中の血が沸点に達するようであった。これが、かのレセップスが建設した運河だと思うと
最早感涙であった。
ワゴン車が橋の頂上部に近づくかなり手前で、偶然にも、一隻の大型貨物船が橋をくぐってその少し先を煙をたなびかせ
ながら通航して行く風景が目に飛び込んできた。紅海を目指して南航中であった。活写するには絶妙のタイミングであった。
水路上に航跡を残しながら今まさに遠ざからんとしていた。そんな風景に遭遇できることに淡い期待を抱いていたものの、それが
本当になるとは信じられなかった。そんなシャッターチャンスに恵まれるとは、余りのラッキーさに驚嘆するばかりであった。
活写するには絶好の被写体、そのアングル、絶妙のタイミングが同時にやってきた。偶然にもこの場面に巡りあうとは全く幸運と
言う他なかった。夢中でシャッターを押し続けた。
社長の指示もあって、ドライバーはゆっくりではなく、ハイスピードで橋を通過させようとしていた。渡橋する全ての車は
監視されていて、ゆっくりとした走行では撮影行為を目撃されてしまうと、ドライバーは焦っていたに違いなかった。私には少なくとも
そう思えた。私は私で、超焦りながら、シャッターを何度も切り続けた。だが、ハーフボタンを押してピントを合わせ次の写真一枚
を切り撮るのに間合いを取らねばならなかった。橋の頂部辺りを通過する頃には超焦りながら無我夢中で撮り続けた。
4,5枚は切り撮れたが、後でチェックしてみたところ、最高傑作の絵になる画像は何と1枚だけであった。それでもこの旅で
最も価値ある写真1葉を確保することができ大満足であった。実は橋はトラス構造になっていて、ほとんどのフレームのどこかに鉄の
柱が大きく写り込み残念な結果になっていた。だが、その一葉だけはトラスを偶然うまくすり抜けて、ばっちりと水路を行く大型船を
捉えていた。後で気付いたことだが、連続シャッターシステムを使えばよかった。
船舶が船団形式で運河を通過する時間帯を事前に正確に計算していたのであればともかく、全く何の計算や計画もなく、通りすがり
において偶然にもこんな絶好のシャッターチャンスに出くわすとは、100回当てずっぽうに友好橋を往復してもこんな幸運は有りえない
かもしれない。最高のシャッターチャンスに恵まれ被写体を切り撮ることができた。長年の思いが「アッラーの神」にでも通じたに違いない。
わずか10~15秒間の橋上での通過であったが、眼下に大型船が通過する瞬間をワンチャンスで切り撮れた。絶妙のシャッターチャンスに
恵まれ感謝した。これ以上のラッキーさはなかったに違いない。船が通航していなければ、砂漠の中に「灌漑用水路」が
伸びているだけの、何の変哲もない写真となっていたことであろうし、それも仕方のないことではあった。
青少年の頃の夢であった外航船の航海士になっていたとすれば、日本・欧州間航路上にあるこのスエズ運河を何度も行き来した
かもしれない。58歳にならんとしてようやくその運河を見ることができ、感無量であった。若い頃の夢が破れてからも
スエズ運河のことを頭の片隅にしまい込んできた。生涯において一度は、たとえ通りすがりであっても、この目で見てみたいと想い
続けてきた。それまでエジプトには何度か訪れていたが、2007年7月についにその夢が叶った。JICAに1976年に入団して以来約30年後のことであった。
さて、友好橋を渡り運河東岸のシナイ半島側へ、その後は運河に平行して南下し、港町スエズへと向かった。
途中、イスマイリアの対岸に到着した。そこには運河をアメーバのように東西方向に行き来するフェリーの発着場があった。
暫し発着場の畔に立ちフェリーのピストン運航を眺めた。その運河風景写真を間近で活写したかった。だが、兵士の監視の目が注がれている
ものと思い、カメラは向けなかった。誤解を招いてはいけないと、車窓からも撮らなかった。到着したフェリーは、船首部の可動式
ランプウェイを岸側のコンクリート斜路に押し付け、その間に車両や船客が乗り降りしていた。対岸はイスマイリアの町であるが、
フェリーで対岸へ渡らずに、運河を見下ろせる近傍の水辺公園へと向かった。
一般見学者のための公園らしく、そこには見晴らしのよい展望台と広場があり、運河をかなり遠くまで眺望することができた。
カイロを出発して以来そこで初めて車を降り、運河の水際まで下りて佇むことができた。数百メートル先では、
先ほどの運河両岸の発着場を忙しく行き来するフェリーや、時に運河(バイパス部)を通航して行く船などをしばらく眺めた。
運河沿いに実際にドライブしてみるまでは、運河の何処で何をどの程度「見学」することができるのかほとんど分からなかった。
軍の支配下にあって厳しく監視や取締りがなされ、運河に何処まで近づけるか予想もできなかったが、ようやくここに来て運河見学の
ストーリーの粗筋が見えてきた。
その後、紅海側入り口の港町スエズに向けて南下し、先を急いだ。小1時間ほど走った時、はるか遠くの景色に釘付けになった。
「あれは地中海側の港町ポートサイドと紅海側のスエズとの中程にある大きな湖ではないか」と直観した。
元々スエズ運河の幅は一般的に狭くて、大型船が余裕をもって対面通航することができなかった。従って、
北上する船団と南下する船団(コンボイ)の通航時間帯を予め設定しておいて、船団を交互に一方向にのみ通航させざるをえない。
従って、そんな片面通航では、対面通航の場合と比較すれば、2倍以上の時間を要することになる。だがしかし、幸いなことに、
運河の中程に大きな湖(大・小ビター湖)がある。従って、大ビター湖を船団の対面通航と待避場所とすることによって、船団の通過
時間を大幅に短縮することができる。
湖は余りにも遠くにあり、しかも船のエンジンから出る煙か、それとも砂漠から砂塵が舞い上がっているためか分からないが、
空が霞んでいた。黒ずんだ胡麻粒のようなものが地平線の彼方に幾つも浮かんでいて、最初は何なのかよく分からなかった。
私は社長に車を止めてほしいと頼み込んだ。そして、窓を開けて目をじっーと凝らして、果たして船なのか見届けようとした。
数多くの大型船が数珠つなぎになっていた。ほぼ半分の船は船首を南に、他の半分は北に向けていることを何とか認めることが
できた。ようやく、船団が交差しようとしていると確信した。遠くの地平線辺りが黒煙で黒ずんでみえるのは、双方の船団が一斉に
エンジンをふかし、動き始めたからと見て取った。
かくして、思いがけず、「大モッラ湖」(大ビター湖)で待避し、時間調整をしながらすれ違う船団の姿をかろうじて遠目にすることが
できた。しっかり目に焼き付けた。
後で地図上で見てみると、ワゴン車を停車してもらった地点は湖に最も接近する地点であった。これも大変ラッキーであった。
その地点でかすかな黒煙や船影に気付かなければ、その運河風景を活写できなかったであろう。ポートサイドと
スエズでそれぞれ待機していた船団が決められた時間に一斉に「機関全速前進」で出発し運河へと進入する。そして、この湖内で一旦待機し
すれ違う。湖岸へもっと近づき、すれ違う船団の実相を見たいという衝動に駆られた。だが、アクセス道路もなさそうだし、ガイドに
無理なお願いをするのも遠慮して、すぐに諦めた。だが、カメラの望遠レンズの倍率を最大にして、車中から被写体「運河を行くコンボイ」
を切り撮った。人はその写真をみて「何を撮ったのか」と疑問を呈するであろうが、私的にはこれも価値ある一葉となった。
帰国後、分かりやすいキャプションを添えて、ウェブ海洋辞典の「一枚の特選フォト」にアップロードしたい。
さて、サウジに帰国後、ネットで運河通航の仕方を調べてみた。運河内の通航可能なレーンは1つであり、南北方向のいずれか一方向だけ通航
できるシステムになっている。ただし、船舶がすれ違える場所は、「バッラ・バイパス(Ballah By-Pass)」や「グレート・ビター湖」
など、5か所で可能であるという。通常は10~15隻ほどから成る船団が3組編成され、運河内を同時に航行することになる。
一例を上げれば、地中海側ポートサイドから第1船団が早朝に進入し、グレート・ビター湖に停泊し待機する。そして、第1船団は
そこで、紅海側スエズの「テウフィーク港」から進入してきた第2船団とすれ違う。この第2船団はエル・カンタラ近郊の「バッラ・バイパス」
をそのまま進航してポートサイドへ向かうが、ポートサイドから進入し別のバイパスを通る第3船団とすれ違うことになる。
運河を通過するには、時速約15ノットの比較的低速力で11~16時間を要する。この低速航行によって運河の側岸が航跡流で浸食される
のを防いでいるという。
最後に、スエズ運河についてもう少し触れておきたい。運河は1869年11月に開通した。明治2年のことである。地中海側ポート
サイドから紅海側スエズまで全長約200km、その深さは24m、幅員は205mである。既述の通りほぼ中間点の運河西岸にはイスマイリア
という町がある。運河では喫水20m以下、または載貨重量数が240,000トン以下で、かつ喫水からの高さが68m以下で、最大幅77.5m
以下の船であれば通航可能となっている。これらを上限とする船舶基準は「スエズマックス」と呼ばれる。
運河をはさむ地中海と紅海間には海面の高度差はほとんどない。いわゆる「海面式」と呼ばれ、運河の中には閘門はなく、運河内の海水は
自由に流れている。潮の干満により、大ビター湖内に潮の「分水嶺」がある。スエズ運河を通ってロンドン・横浜間を航行する場合の
距離は11,000海里、20,400kmであるが、アフリカ大陸南端を回航すれば14,500海里、26,900kmとなる。運河により24%ほど
短縮されることになる。運河通航可能基準を満たさずアフリカ南端を回航することになる超大型船舶は「ケープサイズ」と称される。
さて、ワゴン車はさらに南下を続け、「アハマッド・ハムディ」と名付けられた、運河の下を貫通するトンネルを走り抜けた。
今度は運河をシナイ半島側から西側へと横切り、運河最南端の港町スエズへと向かった。運河の入り口は「ポート・タウフィーク」
と称される。そして、紅海側の運河へのゲートウェイの岸壁に立った。岸壁から身を乗り出すように顔を右や左に向け、時に岸壁を
往ったり来たりして、運河風景をしっかりと焼き付けた。岸壁からは、船が安全に運河へ進入できるよう、船舶誘導のための導堤の
ようなものが沖合に向けて長く伸びている。入り口の水路幅が思っていたよりもずっと狭いにもかかわらず、運河作業船らしき
大型船舶がほぼフルスピードで進入して来た。運河通航に手慣れた船なのであろう。縦列のコンボイを組んで通過する様をこの岸壁に
立って眺めるのはさぞかし見応えがあるものであろう。だが、それは叶わなかった。タイミングとしては大幅にずれていたからである。
そのことを後で知った。
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.