サウジアラビアに赴任して半年もすると諸々のストレスが蓄積され限界に達するような気がしてくる。サウジでは最新作の映画
鑑賞もできず、また活力の素であるアルコールの「ガス欠」を起こしがちで、ストレスもいつの間にか臨界点を超えそうになる。
そこで、異次元的生活がもたらす、息が詰まりそうな「酸欠症」をはじめ、「アルコール欠乏症」
を少しでも和らげようと、金・土曜日の週末などを利用して、時にア首連などの近隣諸国へリフレッシュに出掛けた。
ア首連のドバイはそのうちでもリフレッシュできる筆頭の有り難い湾岸都市であった。何度かドバイなどに足を運んでいる時に
思い付いたのが、アラビア半島を時計回りで旅し、未だ見ぬ半島周辺諸国を探訪することであった。
かくして、バーレーン、カタールに次ぐ時計回りの旅として、新たな視点をもってドバイを目指すことにした。初回の旅は2006年1月であった。
その後同年4月と7月にもドバイへ弾丸ツアーを敢行した。初回の旅では、ア首連の歴史文化を展示するドバイ博物館をはじめ、
文化遺産が展示されるヘリテージ・ビレッジ、クリークの波止場沿いのダウの船溜り、魚市場、スークなど、ドバイ市街中心部を広く
浅く観て回った。また、首長国シャルジャーにも足を伸ばし「海洋博物館」を訪ねた。だが、ドバイとシャルジャーの博物館をもっと時間を
割いてじっくり見学したいと、同年4月と7月に2回もア首連を再度訪れた。
[参考メモ]
・ アラブ首長国連邦(第1回)、ドバイ博物館・漁業博物館・クリークの埠頭・シャルジャー海洋博物館、スパイス・魚市場、
ジュメイラビーチなど 2006.1.5-9
・ アラブ首長国連邦(第2回)、シャルジャー海洋博物館など訪問、その後岩本女史・JICA専門家と合流しサウジ入りする、2006.4.29
・ アラブ首長国連邦(第3回)、ドバイ博物館など 2006.7.27
さて、初回の時計回りのドバイへの旅を中心にその足跡を辿ることにしたい。先ず市街地中心部「バール・ドバイ地区」の
「ドバイ博物館」を見学することから始めた。博物館は「アル・ファヒディ・フォート」という要塞が活用されている。要塞は1787年
に建造されたもので、ドバイの中で現存する建造物としては最古とされる。城門をくぐり、四辺の陵塁に囲まれた中庭に入ると、
小型ダウ船を含む3~4隻の実物の伝統的木造小型船のが展示されている。それが初めてのフォート内見学であった。
フォート探訪の最大の目途は、館内をじっくり巡覧しながら出来るだけ遠い昔のドバイを写した写真を探すことであった。
特に、ドバイの海辺風景、漁撈風景、クリークでのダウ船による貨物積み下ろし風景などの古い写真を探すことであった。
それによって、ドバイがその昔どんな港町・漁村であり、どのように発展してきたのか推察できよう。ドバイ集落の発展史を辿って
見たかった。第二の目的は、クリークをまるでアメーバのように行き来する「アブラ」と称される渡し船、いわば水上乗合バスに乗船して
クリーク両岸を往来して船遊びをすること、そして水面からのアングルをもってクリークの両岸風景を眺め、ドバイの別の顔を
発見することであった。それは今回が初めての体験であった。それに水上バスが往来するクリーク風景を存分に活写したかった。
第三に数多のダウ船がクリークの岸壁に横付けされ、そこで港湾労働者が渡し板を伝って様々な船荷を積み降ろしする、躍動感あふれる
港風景なども活写したかった。第四に、首長国シャルジャーにある「海洋博物館」を訪ねたかった。
ドバイ訪問は初めてではなかったが、これらは一度も体験する機会がなかったことである。
クリークの西側の「バスタキア地区」は昔のアラブ風の伝統的街並みが遺される歴史文化保存地区であった。旧市街の狭い路地を散策すれば、
まるで昔のアラブ世界にタイムスリップしたような気分になる。湾岸地域では近代的高層ビルの建設ラッシュが進み、摩天楼が生まれつつあった。だがそんな
風景よりも、昔のドバイの実相を教えてくれる史跡や街並みの古写真に関心があった。
「ドバイ博物館」ではドバイの歴史、文化、社会、産業(漁業・工芸など)を広範囲にわたり学ぶことができた。民族衣装に身を包んだ
昔の職人・庶民の蝋人形をはじめ、彼らの工房やスークなどの実物大のジオラマによってリアルに再現されている。ダウ船の
造船現場や、潜水漁師による天然真珠貝の採取などを再現した迫真のジオラマもある。特に真珠貝採取のジオラマ展示には魅了された。
他方で、ドバイの百年前の姿を写す古写真はいずこに展示されるかと探し回した。
結局「ドバイ博物館」では、ドバイの集落・都市形成を理解する上で助けとなるような古写真を見い出すことはできなかった。
しかし、ある一枚の写真だけはその形成についての想像を掻き立てくれた。その写真とは少なくとも半世紀以上前のドバイを空撮したものであった。
ドバイの町全体を真上から写した白黒の平面的航空写真であった。クリークを中心にしたもので、両岸の市街風景や湾口をはっきり
と写し出していたが、画像上下には砂漠が大きく広がるものであった。
日干し煉瓦で築かれウインドタワーを備えたアラブの伝統的住居がはっきりと見て取れた。住宅が密集する市街地はクリークに
沿いにへばりつくようにして細長く伸びていた。その市街地のすぐ際まで砂漠が迫っていた。まるで鹿の群れがトラに襲われぎゅーと
身を寄せ合うかのように、住居は主にクリーク西側にへばりつき砂漠による浸食から集落を防御しているかのようであった。
この古写真はドバイの成り立ちをいろいろ想像させてくれた。現在摩天楼がクリークの岸沿いに林立する風景からは想像も出来ないが、
ドバイはどこを見渡しても砂漠に押し込められた世界であった。ペルシャ湾から砂漠の陸地に深く入り込んだクリークが存在したがゆえに、
その入り口付近に自然発生的に集落が形成されたに間違いない。恐らくは、黎明期の村民は漁労や天然真珠採取で
もって生計を営んだのであろう。ペルシャ湾は漁業資源が豊富であり、また特にアコヤ貝などは天然真珠という「金を産む貝」
であり、人々をリークに惹き寄せたに間違いない。また奥行きの深いクリークは、昔からダウ船の避難地・停泊地として、また荷物の積み
降ろしや積み替えの港として最適であったに違いない。かくしてドバイは、沿岸零細漁業に依存するこじんまりとした漁業集落が
自然発生し、時と共に天然真珠採りの一大拠点として、また海上物資の中継貿易港として繁栄していたのではないかと推察した。ローマ時代から大航海時代に
かけてのドバイの港町・漁村の実相はどうだったのか、興味が尽きない。
沿岸漁業や真珠採取業に従事する漁民の他に、ドバイにはダウ船で物や人を海上輸送する船乗りや、大勢の波止場労働
者たちが住みつき、港町は徐々に発展していったと見て取れる。ドバイはその地の利を生かして、ペルシャ湾岸やインド・東アフリカ
方面の諸都市との海上交易の一大中継地として発展してきたのは間違いない。ドバイが真水に恵まれていたこと、クリークと呼ばれる
奥深い入り江があったことが、その発展の基礎あるいは原動力となり、必然的に海上交易の中継拠点として繁栄したといえる。
多くのステベドア(港湾人夫)や商人らも住みついた小さな沿岸交易集落から外洋交易都市へと大きく変貌してきたのであろう。
そして、ドバイの政治経済社会を取り仕切る有力な部族長が現われ、ついにドバイ地域を支配する王侯とそのファミリーが
君臨する世界へと変貌してきたのであろう。ドバイの発展をざっくりと言えばそういうことに違いない。現在では7つの首長国家が
連邦を形成している。
クリークには「アブラ」という乗合船が市民らのための水上バス(はしけぶね・渡船)として、クリーク両岸のあちこちに設けられた
発着場をひっきりなしに行き交っている。アブラはまさに観光客の足でもある。クリークの中程2ヶ所に大橋が架かるが、アブラなし
では相当の迂回になり、不便この上なく時間の浪費ともなる。さて、何度もそのアブラに乗船してみたが、余り変わりばえしないルートを行き来するのに飽きてしまった。
そこで、一艘のアブラをタイム・チャーターすることにした。クリークの最奥近くまで辿ったり、クリークがペルシャ湾と接する
湾口付近(入り口の地区: シンダグハ)まで、のんびりとクルージングした。ドバイの街並みをクリークの水面から、いつもとは
違うアングルや目線で見上げた。フォトジェニックな風景画像を活写でき感動的であった。
ドバイにもアフリカ・中近東や南西アジアなどから大勢の出稼ぎ者が来ている。そんな多文化を背負う乗船者らの姿と共に、無数の
アメンボウのように縦横に行き交うアブラを沢山活写した。ある瞬間に、乗客を載せず空船で疾走するアブラに気が付き思わず
カメラを向けた。船頭は操縦席のリクライニングシートを精一杯鈍角に倒し、まるで仰向けに寝ているような格好で、足だけで
舵を操縦していた。飛沫を巻き上げながら目の前を疾走していく風景を唖然としながら切り撮った。
チャーターしたアブラの船頭に「クリーク湾口からペルシャ湾の外洋に出てみたい」と頼んだ。湾口付近の形状は、あたかも港湾労働者が
用いる手鉤のように鉤状に曲がっている。だから、外洋が大荒れになっても、クリーク内はほとんど風波の影響を受けず静穏に保たれる。
クリーク湾口付近のクリーク内側にはちょっとした埠頭があり、ダウ船の船溜まりができている。そこにはクリークへのダウ船の
出入りを監視する港湾当局の建物も見て取れた。湾口から外洋に出たすぐの海沿いには、埋立によって外貿用コンテナ・ターミナルが
整備されてきた。その埠頭にはキリンのような格好をしたコンテナ積み下ろし用の巨大ガントリー・クレーンが幾つも林立する。
ペルシャ湾に出て海側から港湾を眺めてみたかったが、「アブラはクリークから外洋には出られない規則になっている」とのことで、
船頭に制止されてしまった。何故外洋に出たかったかといえば、湾岸沿いには高層ビルの摩天楼の建設や、パームツリーを模した巨大な
人工島の埋め立ての造成が進行する途上にあり、海側から垣間見たかったからである。高さ800メートル以上の世界一の超高層ビル
も当時建設中であった。ドバイを1980年7月に初めて訪れた時には何の摩天楼の姿かたちは存在しなかった。
さて、クリーク東岸の「アル・ラス地区」の海岸沿いには数㎞にわたりダウ船専用の長大な岸壁がある。総延長1km近くあるかも知れない。
そこには数え切れないほどのダウ船が、縦列だけでは物足りず、イワシの串刺しのように5~6隻のダウ船が、舷側を接し合って
横列に停泊している。縦横列をなして居並ぶダウ船の船溜まり風景は圧巻である。昔の「船乗りシンドバッド」のアラブ世界にタイム
スリップしたかのようである。彼もこんな船溜まりから海に乗り出したかのように思えてくる。まさに「アラビアン・ナイト (千夜
一夜物語)」 のシンドバッドの海洋冒険譚を彷彿とさせる。埠頭には、自動車やタイア、冷蔵庫などの白物家電製品、食料品、セメント
やその他の建築資材、日用雑貨品など、ありとあらゆる商品が足の踏み場もなく堆く積まれ、積み込みを待っていた。
ダウとの積み降ろしは今でも人海戦術であり、大勢の人夫によってなされている。岸壁から長い厚板がダウ船に渡され、人夫が担いで積み
降ろしている。ダウは木造船がほとんどであるが、中にはFRP製のダウ船もある。はるか昔から、マストに巨大な縦帆を張って、
ペルシャ湾周辺諸国や遠くはパキスタン、インド、東アフリカ諸国へと航海した。今日でもそれら諸国と頻繁に往来し、海上輸送の重要な
一翼を担っている。昨今ではダウ船のほとんどが機帆船である。強い良風が吹けば、燃料節約のためエンジンを使わずに帆走だけで
航海するという。時代により輸送対象商品は変わっても、ダウ船が輸送する姿はイスラム教が8世紀に台頭し布教され出した時代から
千年数百年以上も変わっていないのかもしれない。埠頭を散策し渡し板をまたぎながら、ダウ船や荷物の積み降ろし風景やクリークの
水辺風景などを活写した。
ドバイではその他、これまで一度も探訪しなかった「シェイク・サイード邸」、つまり現在の首長の祖父にあたるシェイク・サイード
の住居を訪ねた。アラブの伝統的建築様式を色濃く遺す近代的な館である。また、近くには「ヘリティッジ・ビリッジ」がある。
昔の伝統的建築様式の住居を再現した博物館には当時の家具調度品も展示されていた。「アル・ラス地区」という旧市街では、魚や
野菜のスーク、金銀宝飾品を扱う「ゴールドスーク」、さらに「デイラ・オールド・スーク」という「スパイススーク」など、
ドバイを象徴するスークを初めてじっくり巡り歩きスパイスショップなどを丹念に覗き込んだ。スパイススークのどの店にも
ありとあらゆる香辛料(100種類以上はあろう)が麻袋やガラス・ケースなどに容れて並べられ、何とも言えない強烈でミックスした
香りを漂わせていた。1980年にドバイに初めて足を踏み入れた45年前と全く異なった風景に見えたのは、歳の故でも何でもない。
当時はアラブの世界にほとんど関心がない異邦人の眼差しでもって、それも街角をいつも急ぎ足で通過していたためであろう。
ドバイでの思いがけない成果は、「フィッシュ・マーケット」を訪ねた時であった。魚市場を40数年ぶりに訪ねたが、
市場はすっかり新築され、以前に比べてずっと清潔さが感じられるものとなっていた。魚を陳列するに見栄えの良い真白いタイルと、
ふんだんに砕氷が使用されていたのが印象的であった。そして、買い物客に魚介類の新鮮さを声高々に訴えているのが印象に残った。
また、そもそも魚を買い求める客の多さにも驚かされた。魚貝類への人気と需要の高まりを感じさせてくれた。さて、市場には、
ペルシャ湾で獲れる魚をはじめ、漁具漁法に関する展示館が新たに併設されていることを、マーケット訪問時に初めて知った。
大小各種のダウ漁船の写真とともに解説が添えられており学ぶことが多かった。館内のそれらの資料を活写したことは言うまでもない。
もう一つの大きな目的地はシャルジャー首長国であった。ガイドブックでたまたまシャルジャーに「海洋博物館」があること
を知り、是が非でも訪れたいと楽しみにしていた。シャルジャはドバイから北東へ100㎞ほどで、それほど遠くはなかった。シャルジャーの
港の埠頭には大小のダウ船や漁船が係留され、そこそこの賑わいを見せていた。さて「海洋博物館」へと先を急いだ。館内には、
ダウ船の大小模型が陳列され、漁具漁法などが紹介されている他、巨大なダウ船の滑車、天然真珠を選別するための小さな金属製
容器(底に小穴が開けられ、真珠をふるいにかけ粒揃いにする)、真珠選別の天秤と分銅、その品質判定のための小冊子、
世界最古といわれる真珠、潜水用ウェイト、ダウ船建造のための大工道具などが展示される。
博物館で切り撮った画像を改めてよく見てみた。アラブ諸国の中で、規模は小さいが海洋博物館と称する展示館があるのは大変
珍しいことであった。シャルジャーはその昔、19世紀前半アラビア半島を代表する港として栄えたという。市内には「シャルジャー水族館」も
所在していたが、時間の都合で割愛を余儀なくされた。近傍の「ヘリテージ・エリア」も散策した。はるか昔の
シャルジャーと海との関わり合いを学べる内容であった。シャルジャーの港では、数基のジャッキアップ式石油掘削リグが鎮座するところに
遭遇した。着底型ジャッキアップ式リグに見えたが、たとえ半潜水型リグであるにしろ、日本でははるか沖合でごく少数のリグが稼働
してきたために、そのような実物の巨大掘削リグにめったにお目に掛かれることはなく、印象的であった。人生で3度目(USA、ブラジル、UAE)の
であった。
さて日を改めて時計回りに次の国へと旅を続けた。2006年4月3日~7日のことである。目指すは、「千夜一夜物語」に語られる船乗りシンドバッドの故郷と
いわれるオマーンであった。余談だが、かつてオマーン国王は日本人女性を妃に迎えたという歴史があり親日的国家である。
さて、オマーンの首都マスカットから北西数百㎞ほどにある、オマーン湾に面したソハールの港は、7世紀
以降アラビア半島随一の規模を誇る港であったという。シンドバッドはそのソハールの港から出航したとされる。オマーンは
7~15世紀までソハールを中心にアラブ世界とペルシャ、インド、東南アジア、中国とを結ぶ海上貿易で栄え、当時のオマーンの
隆盛ぶりを今に伝えるとわれる。だが、ソハールは1507年以降ポルトガルの統治を受けることになった。
「海のシルクロード」の主幹ルート上の拠点の一つとなり、東アフリカから中国・広東にかけ広く交易し当時の繁栄の面影を残す
ソハールの港町に身を置き垣間見たかったが、残念ながらソハールに立ち寄る機会をもてなかった。翻って、ソハールとは真逆方向
にある同国最南端のアデン湾に面する「ドファール地方」の中心地サラーサを訪ねたかった。サラーサはその昔黄金と同等の価値
をもっていた儀式用香料である「乳香」の産地として知られる街である。だがしかし、旅の日程が許さず、結局ずっと手前に所在する
スール(マスカットから200kmほどの距離にある)という港町を目指すことにした。
さて、首都マスカットにはごつごつした岩山が海岸線に沿ってあちこちにそそりたつ。それらの谷間には平坦地が少なからず散在し、
そこに市街地が形成されているような印象である。インド洋・アラビア海からペルシャ湾に至る際の、アラビア半島東岸の玄関口として、マスカット
もソハールも古くから栄えていた。だが、1507年から1650年までポルトガルの支配下にあったマスカットについては、1650年に時の
スルタンがマスカットをポルトガル支配から取り戻した。そして、東アフリカにも植民地を広げ、その最盛期を迎えることになった
歴史をもつ。その当時のオマーンは英国と並ぶ海洋国家と位置づけられるほどであったという。
マスカットは大きく3地区に分けられる。「グレート・マスカット」、「マトラ」、「オールド・マスカット地区」である。
グレート・マスカットの西域には「自然史博物館」があり、そこを訪ねた。クジラやイルカの骨格標本、貝類のコレクションなどの展示室もある。
グレート・マスカットの中のルイ地区は内陸部に少し入った山あいの商業地であるが、そこに「オマーン国軍博物館」があり、
オマーンの歴史、国軍の発展史、陸海空軍関連の各種模型、制服、武器の他、実物の戦車・戦闘機・ジープ・大砲・小型艦船などが展示される。
「マトラ地区」は弓なりに伸びる海岸通り(コルニーシュ)に沿って発展した市街地で、地先沖には国内外の貨物船が停泊する
「カブース港」がある。コルニーシュ界隈には、いかにもアラブ風の古い街並みが広がり、その一角に迷路だらけの「マトラ・スーク」
がある。魚市場のあるウォーターフロントに立つと、半円形状の湾が大きく開けていて眼前の美しい海や港風景を眺望することができる。
湾沿いのコルニッシュ(海岸沿いの大通り)をしばし散策し、背後の岩山の山頂にそびえる要塞「マトラ・フォート」や、湾口辺りのマレコン(防波堤・突堤)
に停泊する大型船を眺めながら旅の疲れを癒すことがことができた。
「マトラ地区」の背後の岩山頂部にある「マトラ・フォート」はアラビア半島随一の城塞である。ポルトガルが16世紀に最初
から手掛けて築いた建造物はこのフォートだけである。同地区のスークや魚市場を散策すると
昔の船乗りシンドバッドの世界にタイムスリップしたような錯覚を覚える。「オールド・マスカット」には「宮殿アラム・パレス」が鎮座し、
宮殿の両サイドの岩山にはポルトガル統治時代の歴史を感じさせる「ミラニ・フォート」と「ジャラリ・フォート」がそびえる。
宮殿からそう遠くないところに「国立博物館」があり、オマーンの歴史、工芸・美術品、古銭、幾つもののフォートの立体模型などが
展示される。「ベイト・アル・ズベール邸」は伝統工芸品などを展示する博物館となっている。余談だが、同地区の南には日本政府の
水産無償資金協力で建設された「海洋科学センター(Marine Science and Fisheries Centre)」がある。JICA水産室勤務時代の直属上司で
あった佐伯室長が退職後に専門家として赴任されていたところである。若干の展示室があるようだ。メインの活動は魚貝類の生物学的調査
および養殖研究である。
さて、マスカットのほぼ南東方向100㎞ほどのアラビア海(オマーン湾)岸沿いの町スールへ、レンタカーを借りてドライブした。数時間
内陸部の土漠を走行した後は、山が迫りくる荒々しいアラビア海の海岸線沿いに、土煙を上げながら走破した。途中幾つもの
小さな漁村を通過した。
その度に海辺に立って、アラビア海をぼんやりと眺めた。幾艘もの漁撈用ボートが干出浜に打ち上げられていた風景にも出会った。
途中、水無し川の谷筋(涸れ沢・ワジ)が海に向かってほっかりと口を開けた渓谷に立ち寄った。また、スールの少し手前の沿岸では、
LNGコンビナート基地が視界に入った。沖に向け細長く突き出しているLNG積出桟橋(バース)では、LNG船が停泊し液化天然ガスを
積み込んでいた。そのLNG船は、オマーンの飛び地の「ムサンダム半島」と、アジア大陸側のイランとの間にある「ホルムズ海峡」
を航行する必要がないので、船舶の海上安全や経済安全保障上優位に立っている。
漁港町でもあるスールは、アフリカ東部や紅海諸港との貿易で6世紀頃から栄えた港町である。また、ダウ船がペルシャ
湾諸港とインド西海岸諸港と、更に東南アジア諸港などと結ぶ「海のシルクロード」の主幹ルート上の中継地でもあったはずである。
スールの町のはずれには狭水路があり、一方は海に、他方は奥行きの深い入り江に通じていた。その水路沿いには、歴史を感じさ
せる小さな要塞がそそり立ち、その城塞下には数多くの小型漁撈船が係留されていた。また、その近傍には
ダウの造船所があり、造船途上にある大きなダウ船から小型のダウ船まで、所狭しと並べられていた。まさにオマーンでじっくりと
見たかったダウ造船所風景がそこにあった。
造船所では、全く何の囲いも塀もない浜のオープンスペースに無造作に鎮座した数多くのダウ船を時間を忘れて
じっくり見て回った。船の外板に素手でさわり、その感触を確かめることもできた。
外板の隙間に楔型のみとハンマーで槇皮を埋める船大工、ペンキを船体外板に塗る作業員、外板に釘を打ち込んだ跡の小さな穴にコルク栓
のような木片を埋め込む大工、整形された船材を組み立てる船大工らが忙しく動き回る。そんな風景を活写した後、狭水路沿いに
入り江の湾奥へと進み、その他の造船所や船溜まりを求めてさらに散策を続けた。そこでもダウ船づくりに勤しむ人々に巡り会えた。
スールへの旅の満足度は100%であった。
その帰途にスールの町はずれにある漁港に立ち寄った。波止場には多くのダウ船が泊していた。港のすぐ近くに小さい「郷土
民俗資料館」のような施設があり、漁業関連コーナーを巡覧することができた。眼前のアラビア海を偏西風と海流とをうまく捉まえて
東に向かえば、自然とインド西岸の「マラバール海岸」のゴアなどに辿り着けると思うと、感慨深いものがあった。
余談だが、オマーン領土の飛び地「ムサンダム半島」を探訪し、幅員24海里(1海里=1,842m)もない、石油ガス海上輸送の大動脈であり、
またチョークポイントでもある国際海峡の「ホルムズ海峡」を遠望したがったが、特別許可がいるようでもあった。ドバイから陸路
で直線距離200kmほどの距離であるが、一度も探訪しないままサウジから帰国することになってしまった。後で思い起こせば、もっと真剣にチャレンジ
すべきであったが、またの楽しみに取って置くことにしようと思い直した。
次の時計回りの旅先としてイエメンを楽しみにした。特に「海のシルクロード」のルート上にあるアデンを探訪し、
インド洋と紅海を結ぶ重要な国際海峡である「バブ・エル・マンデブ海峡」を眺望できるアデン港の岸壁に立ちたかった。
アデン港はかつてスパイス、乳香、アラビカ・コーヒーなどを扱う重要な中継貿易・積み出し基地であった。しかし、治安上の理由から、
JICA職員は、海外赴任中にあっては業務以外の私的渡航は禁止であった。アラビア半島の時計回りの「海とダウ船をたどる旅」は、バーレーン、カタール、
UAE/ドバイとシャルジャ、オマーンへと続き、その後はイエメン、アフリカ側のジプチ、エリトリア、スーダンなどへと目標地
は定まっていた。だが、イエメン以下のそれらの諸国への私的渡航はここにきて諦めざるを得なかった。
イエメンへの旅においては、「バブ・エル・マンデブ海峡」に臨み「海のシルクロード」のルート上にある古い港町であるアデンに強い憧れ
を抱いていたが、同様にシバームという旧城塞都市にも足を踏み入れたかった。日干し泥レンガ造りでできた高さ約30メートルほどの
高層住宅建築が昔の姿のままで500棟ほど遺され、現在でも住居として使用されているという。シバームは「砂漠のマンハッタン」とも
呼ばれるらしいが、かつてはスパイスや乳香などのアラビア半島陸上交易ルート上にあって大いに繁栄していた。そもそもシバー
ムは乳香の大産地であった。乳香を産する樹木が自然に生える姿をこの目に焼き付けたかった。それにしても当時の私的な好奇心は
自身でも驚くほど旺盛であった。地図を眺めては次の探訪を掻き立てられていた。だが、公務以外では渡航禁止であった。
さてイエメンを諦め、ジプチを次の目標としたイエメンのアデンや「バブ・エル・マンデブ海峡」の対岸にはジプチがあった。
そして、可能ならばアラビア半島と「アフリカの角」との間にあるアデン湾を横切ってソマリアなどへも弾丸トラベルにチャレンジ
したかった。ジプチ領土内には大地溝帯が走り、太平洋やインド洋などの大洋底の中央海嶺と同じ地殻構造地形が横たわる。
マグマが地下から湧き上り地殻プレートが左右へ拡大する壮大な地学的大景観をジプチの大地上で一目垣間見ることを期待しての
ことであった。だが、ジプチもソマリアも私的渡航は禁止されており如何ともしがたかった。エチオピアはエリトリアが独立して
以来紅海に面することはなくなった。更に時計回りを続けるとすればスーダンであるが、ここも渡航禁止である。かくして、
選択の余地がなくなり、時計回りのずっと先にあったのはエジプトであった。
仕事もある中そんなに多くの旅ができるのかと疑問が生じようが、殆ど問題はなかった。いずれもサウジの週休日の金・土曜日
での弾丸トラベル形式を旅の基本としていた。場合によっては有給休暇1日でもプラスすれば十分であった。リヤドから直行すれば半日
もあればジプチやエリトリアの土を踏むことができる。訪ねたい場所の数は限定されるが、目途とする場所に立ち、例え1時間でも
見たかったものをこの目で見ることがてれば満足することができた。
エジプトでは何処を訪れ何を見たいのか週末計画を練った。ナイル川で「ファルーカ」という一本マストの縦帆の川船に乗って
船遊びの真似事をしてみたい。またナイル川の水位計(ナイロメータ―)を一度は覗いて見たかった。
「太陽の船博物館」もぜひ訪ねてみたい。数千年前のファラオのための、バラバラの残骸と化した木造の古代船が発掘され組み立て
られ、今では博物館に保管されている。本物の古代エジブト船は歴史の重厚さとロマンを感じさせてくれるに違いなかった。
そして、最大の目途は、未だ見ぬスエズ運河をこの目に焼き付けること、そしてカメラで活写することであった。
友人が紹介してくれた、カイロにて旅行代理店を営む日本人社長にコンタクトして、レンタカーとドライバーの手配に万全を期すこと
にした。そして、物事はついでということで、エジプトから一気に西方へ時計回りの「行程線」を伸ばし、モロッコへ向かうことにした。
今回は4日ほどの有給休暇取得しての旅とした。モロッコの首都ラバトには、かつてJICSに出向していた時の
同僚が、水資源開発・水利専門家として赴任していた。モロッコは同じイスラム国でも社会・宗教的縛りは
比較にならないほど緩やかであるという。彼は日頃からサウジでの抑制的生活に同情してくれていた。他方で、モロッコ生活を
謳歌し、時にそれを自慢げに語っていた。彼は近々に帰任するというので、現地に赴き彼から逆に慰問を受けるべく、旅のチャンス
を窺っていた。モロッコでの最大のイベントは、モロッコとスペインとの間に横たわる彼の「ジブラルタル海峡」をこの目に焼き付ける
ことであった。それにしても、同じイスラム教国であるエジプトやモロッコなどに旅して、サウジの異質性を改めて強く感じることに
なったのは一つの成果である。
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.