サウジアラビアに赴任して半年もすると諸々のストレスやフラストレーションが蓄積され限界に達するような気がしてきた。
サウジでは最新作の映画鑑賞もできず、また活力の素になりうるアルコールの「燃料切れ」を起こしがちで、ストレスもいつの
間にか臨界点を突破しそうになる。
そこで、異次元的生活の惰性がもたらす、息が詰まりそうな「酸欠症」と「アルコール欠乏症」
を少しでも和らげようと、金・土曜日の週末などを利用してア首連などの近隣諸国へリフレッシュに出掛けた。
ア首連のドバイはペルシャ湾港湾都市の中でもリフレッシュするに最適で有り難いところであった。何度かドバイに足を運んでいる時に
思い付いたのが、アラビア半島を時計回りで旅し、未だ見ぬ半島周縁諸国を探訪することであった。
かくして、バーレーン、カタールに次ぐ時計回りの旅先として、新たな視点をもって改めてドバイを目指すことにした。その初回の旅は
2006年1月であった。
初回の旅では、ア首連の歴史文化を展示する「ドバイ博物館」をはじめ、
文化遺産が展示されるヘリテージ・ビレッジ、クリークの波止場沿いに連なるダウの船溜り、その他魚市場やスークなど、ドバイ市街地の
中心部を広く浅く観て回った。また、首長国シャルジャーにも足を伸ばし「海洋博物館」を訪ねた。そしてその後、ドバイとシャルジャー
の博物館をもっと多くの時間を割いてじっくり見学したいと、2006年4月と7月にもドバイへ弾丸ツアーを敢行した。
[参考メモ]
・ アラブ首長国連邦(第1回)、ドバイ博物館・漁業展示室、クリークのダウ船の波止場、スパイススーク・魚市場、
ジュメイラビーチ、シャルジャー海洋博物館など 2006.1.5-9
・ アラブ首長国連邦(第2回)、シャルジャー海洋博物館など再訪、その後JICA専門家と合流し同便でサウジ入りする、2006.4.29
・ アラブ首長国連邦(第3回)、ドバイ博物館など 2006.7.27
さて、時計回りでのドバイへの初回の旅を中心にその足跡を辿ることにしたい。先ず市街地中心部「バール・ドバイ地区」の
「ドバイ博物館」を見学することから始めた。博物館は「アル・ファヒディ・フォート」という要塞が活用されている。要塞は1787年
に築造されたもので、ドバイの中で現存する建造物としては最古とされる。城門をくぐり、四辺の陵塁に囲まれた中庭に入ると、
小型ダウ船を含む3~4隻の実物の伝統的木造小型船が展示されている。それが初めてのフォート見学であった。
フォート探訪の最大の目途は、館内をじっくり巡覧しながら出来るだけ遠い昔のドバイを写した写真あるいは絵画を探すことであった。
特に、ドバイの海辺風景、漁撈風景、クリークでのダウ船による船荷積み降ろし風景などの写真・絵画を探すことであった。
それによって、ドバイがその昔どんな港町・漁村であったか、またどのように発展してきたのかをわずかでも推察できよう。ドバイ集落
の発展史を辿って見たかった。
第二の目的は、クリーク水域内をまるでアメーバのように行き来する「アブラ」と称される渡し船、いわば水上乗合バスに乗船して
クリーク両岸を行き来して船遊びを楽しむこと、そして水面からアングルを付けて見上げ違った両岸風景を眺め、ドバイの別の顔を
発見することであった。「アブラ」乗船体験は今回が初めてであった。それに水上バスやダウ船が往来するクリーク風景を存分に
活写したかった。いずれにせよ、時間に余裕がなければできないことであった。
第三に数多のダウ船がクリークの岸壁に横付けされ、そこで港湾労働者が渡し板を伝って様々な船荷を積み降ろしする、躍動感溢れる
港風景なども活写したかった。第四に、首長国シャルジャーにある「海洋博物館」を是非とも訪ねたかった。
ドバイ訪問は初めてではなかったが、これらは一度も体験する機会がなかったことである。
クリークの西側の「バスタキア地区」は昔のアラブ風の伝統的街並みが遺される歴史文化保存地区であった。旧市街の狭い路地を散策すれば、
まるで昔のアラブ世界にタイムスリップしたような気分になる。ドバイの湾岸地域では近代的高層ビルの建設ラッシュが進み、
摩天楼が生まれつつあった。だがそんな風景よりも、昔のドバイの実相を教えてくれる史跡や街並みの古写真に関心があった。
「ドバイ博物館」ではドバイの歴史、文化、社会、産業 (漁業・工芸など) を広範囲にわたり学ぶことができた。民族衣装に身を包んだ
昔の職人・庶民の蝋人形をはじめ、彼らの工房やスークなどの実物大のジオラマが設営され、商いや生活の実相がリアルに再現されている。
ダウ船の造船現場や、潜水漁師による天然真珠貝の採取などを再現した迫真のジオラマもある。特に真珠貝採取のジオラマ展示には魅了された。
他方で、ドバイの百年前の姿を写す古写真はいずこに展示されているかと真剣に探し続けた。
結局「ドバイ博物館」では、ドバイの集落・都市形成を理解する上で助けとなるような古写真を見い出すことはできなかった。
しかし、ある一枚の写真だけはその形成についての想像を掻き立てくれた。その写真とは少なくとも半世紀以上前のドバイを空撮したものであった。
年代は明記されていなかったが、ドバイの町全体を真上から写した、白黒の平面的空撮写真であった。
クリークを中心にしたもので、クリーク両岸の市街風景やその湾口をはっきりと写し出していた。そして、画像上下には砂漠が
大きく広がりるものの、砂漠が街を侵食するような勢いを感じさせるものであった。日干し煉瓦で築かれウインドタワーを備えたアラブ
の伝統的住居がはっきりと見て取れた。
住宅が密集する市街地はクリーク沿いにへばりつくようにして細長く伸びていた。そして、その市街地のすぐ際まで無生物的な
砂漠が迫っていた。まるで鹿の群れがトラに襲われぎゅーと身を寄せ合うかのように、住居は主にクリーク西側にへばりつき、砂漠
による浸食から集落を防御しているかのようであった。
この古写真はドバイの成り立ちをいろいろ想像させてくれた。現在摩天楼がクリークの岸沿いに林立する風景からは想像も出来ないが、
ドバイはどこを見渡しても砂漠に押し込められる世界であった。ペルシャ湾の海から砂漠の内陸部に深く入り込んだクリークが存在したがゆえに、
その入り口付近に自然発生的に集落が形成されたように見受けられる。恐らくは、黎明期の村民は漁労や天然真珠採取で
もって細々と生計を営んだことであろう。
ペルシャ湾は漁業資源が豊富であり、また特にアコヤ貝などは天然真珠という「金を産む貝」
であり、人々をリークに惹き寄せたに間違いない。また奥行きの深いクリークは、昔からダウ船の静穏な停泊地・避難港として、また荷物の積み
降ろしや積み替えの港として最適であったに違いない。
かくしてドバイは、沿岸零細漁業に依存するこじんまりとした漁労集落が自然発生し、時を経て天然真珠採りの一大拠点として、さらに
メソポタミア地域とインダス川地域・インド西岸域・東アフリカ西岸域などとの海上物資輸送の中継貿易港として
繁栄していたのではないかと推察した。ローマ時代から大航海時代にかけてのドバイの港町・漁村の様子は如何様であったか、興味が尽きない。
沿岸漁業(真珠採取業を含む)に従事する漁民の他に、ドバイには、ダウ船で物や人の海上輸送を担う船乗りや、大勢の波止場人夫
たちが住みつき、港町は徐々に発展して行ったと想像する。既述の通り、ドバイはその地の利を生かして、ペルシャ湾岸やインド・東アフリカ
西域との海上交易の一大中継地として発展してきたのは間違いない。多くのステベドア(港湾人夫)や商人らも住みつき、
小さな沿岸交易集落から外洋交易都市へと大きく移り変わってきた言えよう。そして、ドバイの政治経済社会を取り仕切る有力部族長が
現われ、ついにドバイ地域を支配する王侯とそのファミリーが君臨する世界へと変貌してきた見受けられる。ドバイの発展をざっくりと
言えばそういうことに違いない。現在ではア首連は7つの首長国家をもって連邦を形成している。
ドバイが真水に恵まれていたこと、クリークと呼ばれる奥深い入り江があったことが、海上交易の中継拠点としての発展・繁栄
の基礎となったといえるが、ドバイでの真水は古来よりどのように確保してきたか、ついぞ博物館で訊きそびれてしまった。クリークには涸れ沢
(ワジ)ではなく、表層水のある河川が注ぎ込んでいたであろうか。ワジであってもクリーク周辺を手掘りすれば真水を豊富に確保
できたのであろうか。アラビア半島周縁諸国は今もって石油ガスに恵まれる資源大国であり得ても、現代でさえ真水が彼らの生命線
であることに全く変わりはない。
クリークには水上バス(はしけぶね・渡船)と言える「アブラ」という乗合船が、市民らの日常の足としてその両岸のあち
こちに設けられた発着場の間をひっきりなしに行き交っている。アブラはまた観光客のための足でもある。クリークの中程2ヶ所には道路橋
が架かるが、アブラが無ければ相当の迂回を強いられることになり、不便この上ないはずであり又時間の浪費ともなる。
さて、何度もそのアブラに乗船してみたが、余り変わりばえしないルートでの行き来に少し飽きてしまった。
そこで、一艘のアブラをタイム・チャーターすることにした。クリークの最奥近くまで辿ったり、ペルシャ湾からクリークに入り込む
湾口付近(シンダグハ地区)までのんびりとクルージングした。
ドバイの街並みをクリークの水面から、いつもとは違うアングルや目線で見上げた。フォトジェニックや感動的な風景画像を活写できた。
ドバイにもアフリカや南西アジアなどから大勢の出稼ぎ労働者らが来ている。そんな多文化を背負う人々らが乗船者として
アメンボウのように縦横に行き交うアブラを毎日足代わりに多用している姿を沢山活写した。
ところで瞬間的であったが、船客を乗せない空船で疾走するアブラを見かけ思わずカメラを向けた。船頭は操縦席のリクライニング
シートを精一杯に倒し、まるで仰向けに寝ているような格好で、足だけで舵を操縦していた。飛沫を巻き上げながら眼前をあっという
間に疾走し去り行く姿を見送った。ふざけた船頭に唖然としながらもとっさに彼を切り撮ることができた。
さて、チャーターしたアブラの船頭に「クリーク湾口からペルシャ湾へ出てみたい」と頼んでみた。湾口付近の地理的形状としては、
港湾人夫が常用する手鉤の先端のように鉤形に曲がっている。だから、外洋が大荒れになっても、クリーク内は殆ど風波の
影響を受けず静穏に保たれていると想像される。クリーク湾口の少し手前にはこじんまりとした埠頭があり、ダウ船の船溜まりができている。
そこにはダウ船の出入りを監視する港湾当局の建物も見て取れた。
湾口から外洋に出たすぐの西岸沿いには、埋立によって外貿用コンテナ・ターミナルと埠頭が整備されている。そこにはキリンの
ような格好をしたコンテナ積み降ろし用の巨大ガントリー・クレーンが幾つも林立する。ペルシャ湾に出て海側からクリーク湾口や
港湾施設などを眺望してみたかったが、「アブラはクリークから外洋へ出てはならないという規則に
なっている」とのことで、船頭に制止されてしまった。
外洋に出たかったもう一つの理由としては、ドバイの湾岸沿いでは高層ビルの建設ラッシュが続いており、またパームツリーを模した巨大な
人工島の埋め立てが進行途上にあり、海側から摩天楼の有り様や人工島造成のそれを垣間見たかったからである。
高さ800メートル以上もあるという世界一の超高層ビルも当時建設中であった。ドバイを1980年7月に初めて訪れた時には高層ビルと言いうる
ものは殆ど存在しなかった。
さて、クリーク東岸の「アル・ラス地区」の海岸沿いには数㎞にわたりダウ船専用の長大な岸壁が連なる。総延長1km近くあるかも知れない。
そこには数え切れないほどのダウ船が、縦列だけでは物足りず、イワシの串刺しのように5~6隻のダウ船が舷を接し合って
横列に停泊している。縦横列をなして何百メートルも居並ぶダウ船の船溜まり風景は圧巻である。
「船乗りシンドバッド」の昔のアラブ世界にタイムスリップしたかのようである。彼もこんな船溜まりに停泊するダウ船を操って
海に乗り出したことであろうと想像をたくましくする。まさに「アラビアン・ナイト (千夜一夜物語)」 の彼の海洋冒険譚を彷彿とさせる。
埠頭には、自動車やタイア、冷蔵庫などの白物家電製品、食料品、セメントその他の建築資材、日用雑貨品など、ありとあらゆる商品が
足の踏み場もなくうず高く積まれ、ダウ船への積み込みを待っていた。
ダウ船との積み降ろしは今でも人海戦術であり、大勢の人夫によってなされている。岸壁からダウ船へ長い厚板が架けられ、人夫が担いで積み
降ろしている。ダウ船は木造が殆どであるが、中にはFRP製のダウ船もある。はるか昔から、マストに巨大な縦帆を張って、
ペルシャ湾周辺諸国や遠くはパキスタン、インド、東アフリカ諸国へと航海した。今日でもそれら諸国との間を頻繁に往来し、海上輸送の重要な
一翼を担っている。
昨今ではダウ船の殆どが機帆船となっている。強い順風が吹けば燃料節約のためエンジンを使わずに帆走だけで
航海するという。時代により輸送対象品目は変わっても、ダウ船が輸送する姿はイスラム教が8世紀に台頭し布教され出した時代から
千数百年以上も変わっていないのかもしれない。渡し板をまたぎながら埠頭をあちこち散策し、ダウ船や積み降ろし風景の他クリークの
水辺風景などを飽きるまで活写した。
ドバイではその他、これまで一度も探訪しなかった「シェイク・サイード邸」、つまり現在の首長の祖父にあたるシェイク・サイード
の住居を訪ねた。アラブの伝統的建築様式を色濃く遺す近代的な館である。また、近くには「ヘリティッジ・ビレッジ」がある。
昔の伝統的建築様式をもつ住居を再現した博物館には当時の家具調度品も展示されていた。
「アル・ラス地区」という旧市街では、魚や野菜のスーク、金銀宝飾品を扱う「ゴールドスーク」、さらに「デイラ・オールド・
スーク」という「スパイススーク」など、ドバイを象徴するスークを初めてじっくり巡り歩いた。特にスパイスショップを丹念に
覗き込んだ。スパイススークのどの店にもありとあらゆる香辛料(100種類以上はあろうか)が麻袋やガラス・ケースなどに容れて並べられている。ショップ内には、何とも言えない強烈なスパイスの香りを漂わせていた。1980年に調査のためにドバイに初めて足を踏み入れた45
年前とは全く違った風景に見えたのは、歳の故でも何でもない。当時はアラブの世界に殆ど関心をもたない異邦人の眼差しをもって、それも街角を
いつも急ぎ足で通過していたためであろう。
ドバイでの思いがけない成果は、「フィッシュ・マーケット」を訪ねた時であった。魚市場を45年ぶりに訪ねたが、
市場はすっかり新築され、以前に比べてずっと清潔さが感じられるものとなっていた。魚貝類を陳列するには見栄えの良い真っ白いタイルと、
鮮度を保つため砕氷がふんだんに使用されていたのが印象的であった。そして、買い物客に魚介類の新鮮さを声高々に訴えているのが印象に残った。
また、魚貝類を買い求めに来る客の多さにも驚かされた。魚貝類への人気や需要の高まりを感じさせてくれた。
さて、市場にはペルシャ湾で獲れる魚類や漁具漁法に関する展示室が併設されていることを、マーケットを訪問して初めて知った。
大小各種のダウ漁船の写真とともに船種の解説が添えられており学ぶことが多かった。館内のそれらの資料を活写したことは言うまでもない。
もう一つの大きな目的地はシャルジャー首長国であった。ガイドブックでたまたまシャルジャーに「海洋博物館」があること
を知り、是が非でも訪れようと決意し又楽しみにしていた。シャルジャはドバイから北東へ100㎞ほどで、それほど遠くはなかった。シャルジャーの港の泊地には大小のダウ船や漁船が係留され、そこそこの賑わいを見せていた。
さて「海洋博物館」へと先を急いだ。館内には、ダウ船の大小模型が陳列され、漁具漁法などが紹介されている。その他、
ダウ船のびっくりたまげるような巨大な滑車、天然真珠を選別するための小さな金属製
容器(底に小穴が開けられ、真珠をふるいにかけ粒揃いの真珠を選別する)、真珠の重さを量るための天秤と分銅、真珠の品質判定の
ための基準を記した小冊子、世界最古といわれる真珠、潜水用ウェイト、ダウ船建造のための大工道具などが展示される。
博物館で切り撮った画像を改めてよく見てみた。アラブ諸国の中で、規模は小さいが「海洋博物館」と称する展示館があるのは大変
珍しいことであった。シャルジャーはその昔、19世紀前半アラビア半島を代表する港として栄えたという。市内には「シャルジャー水族館」も
所在していたが、時間の都合で割愛を余儀なくされた。近傍の「ヘリテージ・エリア」も散策した。はるか昔の
シャルジャーと海との関わり合いを学べる貴重な機会となった。
シャルジャーの港では、数基のジャッキアップ式石油掘削リグが鎮座していた。着底型のそれに見えた。着底型であるか
半潜水フロート式リグであるかは別にして、日本国内でははるか沖合で稼働するのが一般的で、しかもその稼働リグ数は極限られて
きたために、そのような実物の巨大掘削リグに間近にお目に掛かれる機会はめったになく、実物鑑賞は大変印象的であった。
人生で3度目(USA、ブラジル、UAE)の機会となった。
さて、週末と有給休暇日のタイミングを見計らいながら時計回りの次国への旅を続けた。2006年4月3日~7日の
ことである。目指すは、「千夜一夜物語」に語られる船乗りシンドバッドの故郷と謳われるオマーンであった。余談だが、かつてオマーン
国王は日本人女性を妃に迎えたという歴史があり親日的国家である。さて、オマーンの首都マスカットから北西数百㎞ほどにある、
オマーン湾に面したソハールは7世紀以降アラビア半島随一の規模を誇る港町であったという。
シンドバッドはそのソハールの港から出航したとされる。オマーンは7~15世紀までソハールを中心にアラブ世界とペルシャ、インド、
東南アジア、中国とを結ぶ海上貿易で栄え、当時のオマーンの隆盛ぶりを今に伝えるとわれる。だが、ソハールは1507年以降ポルトガル
の統治を受けることになった。
「海のシルクロード」の主幹ルート上の拠点の一つとなり、東アフリカから中国・広東にかけ広く交易し当時の繁栄の面影を残す
ソハール。その港町に身を置き、ウォーターフロントや海洋歴史文化施設などを垣間見たかったが、残念ながらソハールに立ち寄る
機会をもてなかった。
翻って、ソハールとは真逆方向にある同国最南端のアラビア海(のうちのアデン湾に近い)に面する「ドファール地方」の中心地サラーサ
を訪ねたかった。サラーサはその昔、黄金と同等の価値をもっていたという、儀式用香料である「乳香」の産地・集積地として知られる町である。
だがしかし、旅程が許さず、結局ずっと手前に所在するスール(マスカットから200kmほどの距離にある)という港町を目指すことにした。
さて、首都マスカットにはごつごつした岩山が海岸線に沿ってあちこちにそそりたつ。それらの谷間には平坦地が少なからず散在し、
そこにこじんまりとした市街地が形成されているような印象を抱いた。インド洋・アラビア海からペルシャ湾に至る際の、
アラビア半島東岸の玄関口として、マスカットもソハールも古くから栄えていた。
だが、1507年から1650年までポルトガルの支配下にあったマスカットについては、1650年に時の
スルタンがマスカットをポルトガル支配から取り戻した。そして、東アフリカにも植民地を広げ、その後最盛期を迎えたという歴史をもつ。
その当時のオマーンは英国と並ぶ海洋国家と位置づけられるほどであったと、どこかの書物で読んだことがある。
マスカットは大きく3地区に分けられる。「グレート・マスカット」、「マトラ」、「オールド・マスカット地区」である。
グレート・マスカットの西方区域には「自然史博物館」があり、そこを訪ねた。クジラやイルカの骨格標本、貝類のコレクションなどの
展示室もある。グレート・マスカットの中のルイ地区は内陸部に少し入った山あいの商業地であるが、そこに「オマーン国軍博物館」があり、
オマーンの歴史、国軍の発展史、陸海空軍関連の各種模型、制服、武器の他、実物の戦車・戦闘機・ジープ・大砲・小型艦船などが展示される。
「マトラ地区」は弓なりに伸びる海岸沿い大通り(コルニーシュ)に沿って発展した市街地である。地先沖には国内外の貨物船が停泊する
「カブース港」がある。コルニーシュ界隈には、いかにもアラブ風の古い街並みが広がり、その一角に迷路だらけの「マトラ・スーク」
がある。魚市場のあるウォーターフロントに立つと、半円形状の湾が大きく開けていて眼前に美しい海と港風景を眺望することができる。
湾沿いのコルニーシュをしばし散策し、背後の岩山の頂部にそびえる要塞「マトラ・フォート」や、湾口の
マレコン(防波堤・突堤)辺りに停泊する大型船を眺めながら旅の疲れを暫し癒すことにした。
「マトラ地区」の背後の岩山頂部に建つ「マトラ・フォート」はアラビア半島随一の城塞である。ポルトガルが16世紀に最初
から手掛けて築いた建造物はこのフォートだけである。同地区のスークや魚市場を散策すると
船乗りシンドバッドの世界にタイムスリップしたような錯覚を覚える。
「オールド・マスカット」には「宮殿アラム・パレス」が鎮座し、
宮殿の両サイドの岩山にはポルトガル統治時代の歴史を感じさせる「ミラニ・フォート」と「ジャラリ・フォート」がそびえる。
宮殿からそう遠くないところに「国立博物館」があり、オマーンの歴史、工芸・美術品、古銭、幾つもののフォートの立体模型などが
展示される。「ベイト・アル・ズベール邸」は伝統工芸品などを展示する博物館となっている。
余談だが、同地区の南には日本政府の水産無償資金協力で建設された「海洋科学センター(Marine Science and Fisheries Centre)」
がある。JICA水産室勤務時代(1980年1月~1984年3月)の直属上司であった佐伯室長が退職後にJICA専門家として赴任されていたところ
である。若干の展示室があるようだ。メインの活動領域は海洋科学研究および魚貝類の生物学的調査および養殖研究である。
さて、マスカットのほぼ南東方向100㎞ほどにある、アラビア海のオマーン湾沿いの町スールへ、レンタカーを借りてドライブした。数時間
内陸部の土漠を走行した後は、荒々しい山が迫りくるアラビア海沿いに、土煙を上げながら走破した。途中幾つもの
小さな漁村を通過した。その度に海辺に立って、アラビア海をぼんやりと眺めた。幾艘もの漁撈用ボートが干出浜に打ち上げられ
た風景にも出会った。
途中、水無し川の谷筋(涸れ沢・ワジ)が海に向かってほっかりと口を開けた渓谷への入り口辺りを通り掛かり立ち寄った。また、スールの
少し手前の岸沿いでは、LNGコンビナート基地が視界に入った。沖に向け細長く突き出しているLNG積出桟橋(バース)では、
LNG船が停泊し液化天然ガスを積み込んでいた。そのLNG船は、オマーンの飛び地の「ムサンダム半島」と、アジア大陸側のイラン
との間にある「ホルムズ海峡」を航行する必要がないので、船舶の海上安全や経済安全保障上優位に立っている。
漁港町でもあるスールは、アフリカ東部や紅海諸港との貿易で6世紀頃から栄えた港町である。また、その昔、ダウ船などの
帆掛け船にとっては、ペルシャ湾諸港とインド西海岸諸港、更に東南アジア諸港と結ぶ「海のシルクロード」の主幹ルート上
の中継地でもあったはずである。
スールの町のはずれには狭水路があり、一方は海に、他方は奥行きの深い入り江に通じていた。その水路沿いには、歴史を感じさ
せる要塞がそそり立ち、その城塞下には数多くの小型漁撈船が係留されていた。また、その近傍には
ダウの造船所があり、建造中にある大きなダウ船から小型ダウ船まで、所狭しと並べられていた。まさにオマーンでじっくりと
見たかったダウ造船所風景がそこにあった。
造船所では、全く何の囲いも塀もない浜のオープンスペースに無造作に鎮座した数多くのダウ船を時間を忘れて
じっくり見て回った。船の外板に素手でさわり、その感触を確かめることもできた。
楔形のみとハンマーをもって外板の隙間に槇皮(まいはだ)を埋める船大工、ペンキで船側外板を塗装する作業員、外板に釘を打ち
込んだ跡の小穴にコルク栓のような木片を埋め込む大工、火に炙って整形された船材を組み立てる船大工らが忙しく動き回る。そんな風景
を活写した後、狭水路沿いに入り江の奥へと進み、別地の造船所や船溜まりを探索しさらなる被写体を追いかけ続けた。そこでも
ダウ船づくりに勤しむ人々に巡り会えた。スールでの活写の旅は心の満足度を100%まで高めてくれた。
帰途にスールの町はずれにある漁港に立ち寄った。波止場には多くのダウ船が泊していた。同港のすぐ近くに小さい「郷土
民俗資料館」のような建物があり、漁業関連コーナーを巡覧することができた。眼前のアラビア海の季節風や海流をうまく捉まえて
東方に向かえば、自然とインド西岸の「マラバール海岸」のゴアやカリカットなどに辿り着けると思うと、感慨深いものがあった。
余談だが、オマーン領土の飛び地である「ムサンダム半島」を探訪し、幅員24海里(1海里=1,842m)もない、石油ガスの海上輸送の
大動脈でありチョークポイントでもある国際海洋法上「国際海峡」と定義される「ホルムズ海峡」を遠望したがったが、立ち入るには特別許可が
いるようであった。飛び地へはドバイから陸路で直線にして200kmほどの距離であるが、一度も探訪しないままサウジから帰国することに
なってしまった。後で思い起こせば、もっと真剣にチャレンジすべきであったが、またの楽しみに取って置くことにしようと思い直した。
次の時計回りの旅先としてイエメンを楽しみにしていた。特に「海のシルクロード」のルート上にあるアデンやモカを探訪し、
インド洋と紅海を結ぶ重要な「国際海峡」である「バブ・エル・マンデブ海峡」を眺望できる陸(おか)に立ちたかった。
アデン港はかつてスパイス、乳香、アラビカ・コーヒーなどを扱う重要な中継貿易のための積み出し拠点であった。
だがしかし、治安上の理由から、JICA職員である限りは、海外赴任中であろうとなかろうと、業務以外の私的渡航は禁止であった。
アラビア半島の時計回りの「海とダウ船をたどる旅」の目標地としては、バーレーン、カタール、
UAE/ドバイとシャルジャ、オマーン、その後はイエメン、アフリカ側のジプチ、エリトリア、スーダンなどへと照準を定めていた。
だが、イエメン以下のそれら諸国への私的渡航はここにきて頓挫することになった。
イエメンへの旅においては、「バブ・エル・マンデブ海峡」近傍にあって、「海のシルクロード」のルート上にある古い港町
であるアデンに強い興味を抱いていたが、他方でシバームという旧城塞都市にも足を踏み入れたかった。日干し泥レンガ造りで
できた高さ約30メートルほどの高層住宅が昔の姿のまま500棟ほど遺され、現在でも住居として使用されているという。
シバームは「砂漠のマンハッタン」とも
呼ばれるらしいが、かつてはスパイスや乳香などのアラビア半島陸上交易ルート上にあって大いに繁栄していた。そもそもシバー
ムは乳香の大産地であった。乳香を産する樹木が自然に生える姿をこの目に焼き付けたかった。それにしても当時の私的な好奇心は
自身でも驚くほど旺盛であった。地図帳を眺めては次の旅への出立を掻き立てられていた。だが残念ながら、公務以外では渡航禁止であった。
さてイエメンを諦め、ジプチを次の目標とした。ジプチはイエメンのアデンや「バブ・エル・マンデブ海峡」の対岸にあった。
そして、可能ならばアラビア半島と「アフリカの角」との間にあるアデン湾を横切ってソマリアなどへも弾丸トラベルにチャレンジ
したかった。
ジプチ領土内には東アフリカを南北に貫く大地溝帯が走り、ジプチはその北端に位置しており、太平洋やインド洋などの
大洋底の中央海嶺と同じ地殻構造と地形を見ることができるという。マグマが地下から湧き上り地殻プレートが左右へ拡大する壮大な
地学的大景観は、本来ならば太洋深海底でしか見られないが、何とジプチの陸上に露出しており、それを一目垣間見ることを期待して
のことであった。
だが、ジプチもソマリアも私的渡航は禁止されており如何ともしがたかった。エリトリアがエチオピアから分離独立して
以来、エチオピアは紅海に面することはなくなった。更に時計回りを続けるとすればスーダンであるが、ここも渡航禁止である。かくして、
選択の余地がなくなり、時計指針のずっと先にあったのはエジプトであった。
仕事をする中でそんなに多くの旅ができるのかと疑問を投げかけられようが、殆ど問題はなかった。いずれもサウジの週休日の金・土曜日
での弾丸トラベルを基本としていた。場合によっては有給休暇1日でもプラスすれば十分であった。リヤドから朝方に出立すれば
ランチタイムにはジプチやエリトリアなどの土を踏むことができる距離にある。訪ねたい場所の数は限定されるが、目途とする
場所に立ち、例え1時間でも見たかったものをこの目で見ることがてれば十分満足なのである。
エジプトでは何処を訪れ何を見るのか週末毎に諸々の計画を練った。ナイル川で「ファルーカ」という一本マストの縦帆の川船に乗って
船遊びの真似事をしてみたい。またナイル川の水位計(ナイロメータ―)を一度は覗いて見たかった。
「太陽の船博物館」もぜひ訪ねてみたい。何千年も起源前のファラオのために建造され、地下に埋葬されていた木造の古代船である。
バラバラの残骸と化していたところを発掘され、人の手で慎重に組み立てられ、今では博物館に保管されている。本物の古代エジブト
船は歴史の重厚さとロマンを感じさせてくれるに違いなかった。そして、最大の目途は、未だ見ぬスエズ運河をこの目に焼き付けること、そしてカメラで活写することであった。
友人から紹介してもらった、カイロで旅行代理店を営む日本人社長にコンタクトした。そして、レンタカーとドライバーの手配に万全
を期すことにした。そして、物事はついでということで、エジプトから一気に西方へ「行程線」を伸ばし、少し変則的な時計回りであるが、
モロッコへ向かうことにした。今回は4日ほどの有給休暇を取得しての旅とした。
モロッコの首都ラバトには、かつてJICSに出向していた時の同僚が、JICA水資源・水利専門家として赴任していた。モロッコは
同じイスラム国でも社会・宗教的縛りはサウジとは比較にならないほど緩やかであるという。彼は日頃からサウジでの抑制的生活に同情
してくれていた。他方で、モロッコでの仕事と生活を謳歌し、時に何かにつけサウジとは異なる世俗・開放的生活を半ば自慢気に
語っていた。彼は近々に帰任するというので、現地に赴き彼から直に慰めを受けるべく、今次のエジプト旅のチャンスを捉えることにした。
モロッコでの最大のイベントは、私的にはモロッコとスペインとの間に横たわり国際海峡と定義される「ジブラルタル海峡」をこの
目に焼き付けることであった。それにしても、同じイスラム教国であるエジプトやモロッコなどに旅して、サウジとの相違性を
改めて強く感じることになった。文化の異質性を再発見し「異文化への理解」をさらに深めることになったのは、いみじくも旅のもう
一つの成果といえる。
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