サウジアラビアの首都リヤドを時計の針の回転軸に見立てて、アラビア半島を時計廻りに旅し、ついに300度ほど回転した。
コンパスの針は320度辺り、方角的には大よそ北西方向を指した。サウジ赴任中の最後の放浪と浪漫の旅先としては、エジプト経由
モロッコとなった。ジプチやエリトリア、スーダンなどを素通りして、エジプトと、その遥か西方にあるモロッコを目指すことにした。
ジプチなどはJICA内規により公務目的以外での渡航が禁止されていたからである。
私的な旅の目標とするところははっきりしていた。今回の度で是非とも実現したいことがあった。砂漠の中に伸びる一本の人工水路
である「スエズ運河」をこの眼にしっかりと焼き付けることであった。そのおまけとして、ギザのピラミッド傍に建つ「太陽の船博物館」
を見学したり、初めての体験としてナイル川にて舟遊びの真似事をしながらゆったりとした時間を過ごすことであった。
そして、リヤドとカイロの延長線上にあるモロッコに、専門家として赴任中の友人を訪ねることであった。そのチャンスをずっと窺って
いたが、ついにやって来た。船遊びと運河の活写の旅に出立したのは2007年7月のことであった。
さて、その友人とは1990年代半ばにJICSに3年間出向していた時の同僚の上村氏のことで、彼は水資源・水利のノウハウを生かして
その当時はJICA長期技術専門家としてラバトの水利省に赴任中であった。サウジはモロッコに比べてダントツに生活環境が厳しかろうと
厚く同情してくれていた。彼の帰任日が近いというので、タイミングを見計らって彼の赴任地を一度は訪ね、同じイスラム世界でありながら
どれほど社会文化的差異があるものか、比較のための談義を交わしておきたかった。要するに、それを酒の肴にして何年も積もる
話に華を咲かせ、徹夜覚悟でビールやウイスキーの瓶底を見たかったという訳である。
そして、もう一つの大目標を胸に擁していた。モロッコ北端に位置し、大西洋と地中海を、あるいはユーラシア大陸とアフリカ大陸を
隔てる「ジブラルタル海峡」を間近で活写し、できうればフェリーで渡海体験をしたかった。この二つの目標はどうしても実現したかった。
いつものことだが、旅の計画づくりの段階からあれこれと思案を重ねることで夜な夜なプログラムラニングに独り楽しんだ。
先ずはリヤドからカイロへ直行した。私のコンパスが狂っていなければ、シナイ半島をかすめ紅海最北部にあるスエズ湾の上空
にさしかかっているはずであった。やがて飛行機は、南北に帯紐のように伸びるナイル川の東側に沿って、丁度紅海の北西端辺り
のアフリカの海岸線沿いを飛行していた。その後、ナイル川と紅海との間の最も狭い砂漠地の上空をさしかかり、遠方にはスエズ運河への紅海側
の入り口に位置する港町スエズがぼんやりと眺望できた。反対側の窓からは、ナイル川の水面が陽光でキラキラと輝いていたはずである。
書物を紐解けば、古代より、ナイル川河岸から紅海に抜ける船を通すために、砂漠を開削し運河を造ろうと何度も試みられ、
実際に船が通行したともいわれる。今回の旅の計画として、在カイロの日本人経営の旅行代理店にそんな古運河の遺構の片鱗でも
ガイドしてもらえないか、本気で探って見ようと思案したこともあった。だが、余りに突拍子もない申し出に酷く困惑させて
しまわないかと心配し結局のところ諦めた。そんなことを思い出している間に飛行機はナイル川上空を低空飛行していた。
やがて、ナイル川に沿っての低空飛行は、期せずして素晴らしい景色をプレゼントしてくれた。大河の両岸にはこんもりとした樹林
に覆われたグリーンベルトが細長く続いていた。そして、グリーンベルトの樹間には肥沃そうな農地が広がっていた。その先には見渡す
限りの土漠が広がり、地平線の彼方へと収斂していた。ナイル川には中洲が幾つもあって、それらも樹林で覆われていて、いかにも
グリーンの絨毯をパッチワークのように並べたようであった。飛行機はナイル川沿いに更に低空飛行し、直下にはサッカラやギザの
ピラミッドが間近に迫りつつあった。まさにナイル川とピラミッドの絶景がそこにあった。そのうち砂漠の色とはまた違った独特の
グレー一色で覆われたカイロ市街の上空を通過後、暫くして飛行機は滑走路へと吸い込まれて行った。かくして、古代エジプト文明を
育んだナイル川とカイロ市街上空の飛行遊覧を満喫するという貴重な体験ができ、実にラッキーに思えた。
日程が許せば、ナイル川を大型観光巡遊船でアスワンハイダムの近傍まで、川辺風景を眺めながらクルーズするのも楽しい旅であるに
違いない。その昔年老いた母親が冥土の土産にしたいというので、ピラミッドや「王家の谷」、ルクソールの「カルナック神殿」などを回る
パックツアーに参加したことがあったが、その時も船旅ではなく鉄路での旅であった。その後も古代エジプト遺跡を何時しか船で
巡ってみたいと思ってはいたが、叶いそうになかった。英国人作家アガサ・クリスティの「ナイル殺人事件」という映画(1978年
リメイク)に見る豪華観光船で古代遺跡を辿るというのは、贅沢の極みかもしれない。
ナイル川と紅海を結ぶ古運河の遺構(今もそれがあるならの話だが)を辿る砂漠の旅も個人的には魅力的である。古代ローマと
古代中国を結ぶ「海のシルクロード」の中の、今は砂漠に消えたとされる幻の「水の道」のことである。
その遺構を辿るなどという旅は考古学専門の探検家が真剣に試みるべきものであり、素人が興味本位で試すような旅ではないと
諦めてはいたが、さりとてナイル川での舟遊びをいかに楽しむかの明確なプランをもたないまま旅に出てしまった。だとしても、リヤドからの
往路において、古運河辺りと思われる砂漠などを上空から遊覧するという、思いがけない体験に大いに心が満たされた。
さて、スエズ運河の「初認」は三日後の楽しみにして、ナイル川でのボート遊びをもって暫しくつろぐことにした。先ず
はナイル川の中洲として浮かぶ「ゲジーラ島」にある水族館を訪れた。世界でもユニークなデザインをもつ水族館
であった。同館では人工洞窟内にいくつもの水槽が設置されていた。世界でもほとんど例がないはずの変わり種の水族館である。
幾つもの小型水槽が順路に沿って刳り抜かれた人工岩壁の中にセットされていた。そこに、ナイルパーチなどの主にナイル川に棲息する淡水産
魚類が飼育展示される。薄暗い人工洞窟内の飼育魚を、足元に注意し目を凝らしながら観察して回るのも楽しいものであった。
勿論、サウジへ帰国した後はウェブ海洋辞典のウェブにて紹介することにした。
その後、「ゲジーラ島」の東岸沿い(シャーリア・ニール沿い)をそぞろ歩きししながら、「カイロ・タワー」を目指した。
途中、「ファルーカ」と称される、ナイル川特有の帆掛け船が岸に接近して来るのを認めた。船の全長よりもずっと長い一本マスト
が高くそびえ、しかも巨大な三角帆をもつ帆掛け船である。すぐ近くの川岸に船着き場があるらしいことを直感した。これはひょっと
すれば乗船できるビッグチャンスの前触れかも知れないと思い、船着き場の存在を当てにして先を急いだ。ナイル川を左岸や右岸の船着き場を
行き来し、気ままに渡し客を拾いながらナイル川を遡ったり下ったりする、いわば「ファルーカの乗合船」のようであった。
運航の時刻表などあるはずもなかったが、ルートや立ち寄る船着き場は決まっているらしい。首尾よく乗船でき大喜びであった。
暫くして一人の年配の女性客と乗り合わせた。住まいはどの辺りなのか訊ねたりして、世間話をしながら時を過ごした。ファルーカは微風を推力にしながら遡航した。
まさに思い描いていた通り、のんびりとした優雅な時間が流れた。これこそが体験したかったナイル川での贅沢な舟遊びであった。
偶然にも、ナイル川特有の風物詩と言える木造ファルーカに出くわし乗船できたという、その幸運に感謝した。顔中白鬚だらけの老船頭が
舵棒を握りしめ、縦帆の大三角帆を巧みに操つり、桟橋に横付けしては、また離岸し遡航する。彼のそんな操船をすぐ傍でじっくり
見物させてもらった。今になって思い起こせば、運賃を支払ったのか否か、記憶はあやふやではっきりと思い出せなかった。
タダであったかもしれない。否、エジプトでタダということはないはずである。
何がしかのチップを払ったのであろうか。思い出せない。ファルーカはもちろんのこと、頭にターバンを巻いた老船頭、その他川面
から見上げたカイロの街風景を思いきり活写させてもらった。
その後、別のスタイルの舟遊びはないものかと、西岸沿いの散歩道「コルニーシュ」(シャーリア・コルニーシュ側)を
辿ってみた。運よく貸し船の看板を見つけ、早速船頭と掛け合ってみることにした。さほど大きくない10人乗りくらいの船外機付き遊覧用
ボートで、それを2時間ほどタイムチャーターできることになった。これで、ナイル川の本流に抗しながらのんびりともっと上流へと遡る
ことができると喜んだ。「異邦人」である私としては、川面に浮かぶボートからの目線で眺める岸辺の景色は格別なもので、心躍り
興味は尽きなかった。
ナイル川は勿論のことだが、南米のラ・プラタ川、パラナ川、パラグアイ川、中国の揚子江、タイのチャオプラヤ川など、大陸を流れ下る
大河は日本のそれとはスケールが全く違う。今回は、悠然と流れ行くナイル川の右岸や左岸へと寄せながら、また川上や川下へと辿りながら、
心に余裕をもってのんびりと戯れていたかった。岸辺には何艘ものファルーカが係留されている。いずれの船も一本マストであるが、どのマストも
異様と思えるほど高かった。そして、そのマストには、これまたマストと同じほどの長さをもつ縦帆用帆桁がだらりと斜めに垂らされて
いた。だが、何となく異和感を覚えるものがあった。何故か。いずれのファルーカも一見したところFRP製と思われた。髭ずらの老船頭
が操っていたファルーカは全て正真正銘の木造製であり、伝統的な情趣を感じさせてくれていた。
いた。
さて、川面を背にして座り、ボートの舷縁に両腕を掛け、反対舷の遠くの川岸風景を眺めていた。その時ある風景が目に入った。
父親とその息子らしき少年が小舟を操りながら、船上から投網をしている姿を認めた。よく観察すると、小舟の艫(とも・船尾)
付近に蒲鉾型の幌をかぶせたような屋根を載せていた。日除けに資するだけでなく、寝泊まりもできそうな船上ハウスのようであった。
想像するに、船を住処としながら、漁労を生業としているように見受けられた。
毎日川を行ったり来たりして、その漁場を変えながら、親子で網を投げ込んでは漁をしているのであろう。
ところで、船遊びしているうちにある事柄に気付いた。例えばタイのチョオプラヤ川や揚子江などの大河では普通に見られる風景がある。
だが、ナイル川にはそれがなかった。河川輸送に従事する普通の貨物船が行き来していない。さらに大型バージを幾つも連結して、
タグボートなどで曳船するか、いわゆる押し船(プッシャーボート)で押しながら航行する姿を全く見かけない。それが
不思議であった。ナイル川沿いには産業用原材料や資機材、食料品・日用雑貨などの製品を河川輸送するだけの需要がない所以なのか。
まさか。それとも地中海沿いの海港アレキサンドリアとカイロ間における輸送はトラックによる陸送をもってほとんど間に合っていると
いうことなのであろうか。あるいは、貨物船に対する航行上の特別な規制があるのか。その後、その答えを探し出すことをすっかり忘れて
旅を続けてしまった。
さて、ボートから下船後、その足で「オールド・カイロ地区」に足を運び、「コプト教会」などの史蹟を訪ねた。そして、川沿いに
南下して、「ローダ島」というもう一つの中洲の最南端にある「ナイロメーター(ナイル川水位計)」を目指した。古来よりナイル川の氾濫
は人々に苦難を強いる自然災害であった。だが、他方では氾濫地域に天然の養分をもたらし、農地を肥沃にするという恩恵を授けるもので
あった。雨期や長雨などによってナイル川の水嵩がじわりじわりと増し、一体どこまで上昇して行くのか、昔の先人たちはどのように
水位上昇を観察し、その程度を理解していたのか。正確な使用年代はよく知らないが、歴史的遺構の一つであるナイロメーターを
一目見たくて訪ねた。
「アスワンハイダム」などが稼働する現代では、農地の肥沃化のために膨大な量の化学肥料が投入されているであろうし、また水位は
十分コントロールされているはずである。かつては、ナイル川の水を「ナイロメーター」と称される垂直竪穴式の大型チャンバーに引き込み、
その水位標の目盛りを読み取っていた。官吏はその水位の変動を絶えず観察し記録していたに違いない。現在ではそんなアナログ式の
水位観測施設による水嵩の増減を見守るのは時代遅れであり、またその必要もなくなり、施設の機能は終焉しているに違いない。
現に、現行施設では川水がチャンバー内に導水されないよう塞がれていて、稼働していないようであった。いずれにせよ、カイロの
シンボルの一つ「ナイロメーター」をじっくり見学することができ、旅の心が満たされた。
その後、往路の飛行機からたまたまその姿を間近に捉えることができた、ナイル川西岸沿いのサッカーラにある古代ピラミッドを目指して
南下した。ローダ島近くでタクシー・ドライバーと交渉してタイムチャーターした。サッカラのピラミッドはどんな様相なのか、
現地で実物を見上げて納得できた。ところで、サッカラへ向かう途上での田園風景が印象的であった。いかにも肥沃そうで緑豊かな
農業地帯を何キロも走った。ナイル川からの灌漑用水路が網の目のように縦横に築かれていることがよく見て取れた。後で地図を見ると、
サッカーラやメンフィス地区には大きな水路が少なくとも3本は走っているようだ。かくして、ナイル川沿いの農業用地に
灌漑水が安定的に供給されていて、その田畑の肥沃さを肌で実感できるフィールド・スタディとなった。
灌漑水路には幾つもの橋が架けられていたが、時に間隔が間延びしていた。地域住民は遠くまで迂回しながら対岸に渡る破目になる。
「彼らにはそれはそれで不便なことに違いない」と想像しながら、車窓から水路を眺めていた。そんな通りすがりのこと、水路の両岸を人力で
行き来する箱舟(ポンツーン)を見かけた。小さな箱舟に乗って、両岸に渡されたロープを手繰り寄せながら他岸へと渡るというものである。
ナイルデルタに暮らす人々の工夫であった。
サウジから帰任後間もなくしてニカラグアへ赴任したが、同国でもそんな渡河システムがごく当たり前のように普及していた。
大規模な動力付きの機械仕掛けでワイヤーロープを回し、4~5台の車両の他に通行人を乗せて対岸に
渡す大きな鉄製ポンツーンもよく見かけた。スペイン語で「パンガ」と称されていた。かくして、日本ではもうめったに
見られない川縁の田園風景をこのナイルデルタにおいて発見した。
さて、サッカラのピラミッドの回りを散策し、見るべきものを目に焼き付けた。ギザのピラミッドとは全く趣きが異なっており、
4~5段の壇層をもつ。壇層は風雨によって浸食されたのか、あるいは重力で自然に崩れ落ちたのか、原形を想像することが難しい
様相を呈している。かくして、ナイル川の流れとともに一日を過ごし、さらに川縁の田園地帯の散策を楽しむことができ、充足感を
もって帰途に就いた。
翌日早速、第二の目的地であるギザに向かった。目指すはギザのピラミッドのすぐ傍に設置されている「太陽の船博物館」である。
古代エジプトの墳墓などから発掘された副葬品としての小さな船模型や、またそんな船を描いた壁画などを見たことはあった。だが、
「太陽の船」はそれらとはまるで次元を異にする最大級の世界的文化遺産である。ピラミッド直下のすぐ傍の地下から発掘された。バラバラになっていた
板材一枚一枚が長時間をかけ丹念に繫ぎ合わせられた。その遺物はまさに4千年ほどの時を経て蘇った実物の船である。
船尾の片舷には舵の役目をする大きな櫓舵が装備される。また、クォーターデッキの両舷には片舷数本ずつの櫂が装備されている。さらに、
航海中のファラオが着座するのであろう、甲板室がある。甲板室内の様相は窺い知れない。悠久の時を経て蘇った船は余りに荘厳
であり、ひしひしと歴史の重みが胸に迫りきた。何度感嘆の溜息を洩らしたことか。「太陽の船」の実物鑑賞はこの日貴重な
メモリーの一部となった。その喜びは大きかった。さて第二の実物の「太陽の船」が発見され、現在も復元作業中であるという。
完全に復元されたその第二の古代船を拝めるのはいつ頃なのであろうか、世界中の人々が待ちわびていよう。
余談であるが、実は2012年に東京でエジプト展が開かれた。観覧したかった展示物の一つは、全長20~30㎝の
小さな船模型であった。紀元前1850年頃の古代エジプトの造形物が眼前の陳列ガラスケースの中にあった。
息をするのも忘れ、ケースにぐっと身を寄せて覗き込んだ。そして、自身の両眼をズームインさせた。約4000年前に造形された
ミニチュアの船をこの目でしっかりと確かめることができた。本物に魅了されたことによる衝撃が自身の
脳細胞に伝わり、そのことをはっきりと感じ取った。船殻は緩やかな弓なり状である。船体中央部で大きく垂下し、船首・船尾の両部が反り上がる。船尾の反り上がりの方が
少し大きい。マストは1本であった。そこに四角い横帆を擁する。帆の上部はヤードに、下部はブームに繋がれ展帆されている。
ヤードを転桁させる索はここでは見当たらなかった。漕ぎ手も見えない。操舵用の大きなオール (櫂舵) が船尾両舷に一本ずつ
支持用の柱に括り付けられていた。
特別展での最大の展示物は、死者が冥界への旅において復活再生するために必要とされる呪文集「死者の書」(パピルスの絵巻37メートル)
であった。そこには古代エジプト人の死生観が宿されているという。船模型は副葬品であったが、どのような思いをもって、
死者のためにこのような船模型が墓に納められたのであろうか。死者は冥界で最後の審判を受けるという。永遠の命を約束されて来世の楽園に辿り着く
ことができるのか、それとも別の運命を辿るのかは、その審判の結果によるといわれる。当該帆掛け船模型は死者がその審判の日まで冥界
を旅するためのものなのか。冥界での旅と船の副葬品との関わり合いについて今一つ理解できなぬまま、とにかく本物を観たという満足感を
もって展示会場を後にした。
その後のことであるが、冥界への旅と「船の模型」との接点について、2012年8月21日付朝日新聞(夕刊)で次のように触れられていた。
木・漆喰で作られたこの船模型は 「古代エジプト人が考える死後の世界には川が流れていて、そこを旅する死者には川を渡るための
船も必要だと考えられていた」。ナイル川畔で暮らした人々は、冥界にも大河があると信じた。そして、船模型の埋葬は、死者が
苦難や危険に満ちた冥界の大河を無事に通れるようにとの思いに基づくものであった、ということを理解した。
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