ニカラグア出張から帰国後、JICSの会議室で調査団員であった「タスク(TASK)」の森氏と何度か「ニカラグア簡易機材調査」の
件で打ち合わせの機会をもった。そして、帰り際には決まって「インターネットのデモンストレーションを用意するのでいつでも
見に来て下さい」とのお誘いを受けていた。同氏の会社のオフィスは、私の通勤経路上にあり、途中下車すればほんの4,5分で
訪問できる近さにあった。帰国後既に2週間ほど経っていたが、ニカラグアへの出張中に憩った週末に太平洋岸の浜辺で撮った私的な
写真を手渡す機会を捉えて、帰宅途上に立ち寄りネットサーフィンを体験させてもらうことができた。
森氏は早速、ノートパソコンを持ってきて開くや否や、すぐ傍の机上にあった受話器から電話回線を引っこ抜いて、パソコンの
ポートに差し込み、キーボードを操作して電話をかけ始めた。パソコンからはっきりと電話の発信音が聞き取れた。暫くして、
パソコンとプロバイダー側のサーバーとが繋がった。当時最もポピュラーな閲覧用ソフトの「ネットスケープ(Netscape)」という
ブラウザーを起動させ、ある企業のホームページにアクセスした。そして、パソコンをくるりと180度回転させ、そのトップ画面
を見せてくれた。その後も政府系機関や有名大手企業の幾つかのポータルサイトを次々と見せてくれた。
余談だが、1996年当時にはまだ「グーグル」のような検索エンジンが存在していなかった。従って、ターゲットのページにアク
セスするには、電話帳のような分厚い「ディレクトリー」と称される、ジャンル別にホームページのアドレスなどを寄せ集めたカタ
ログ帳をネットサーフィンの座右の書にせざるをえなかった。そこには国内外の名の知れた組織のページ情報、例えば「http://www.
.....」で始まるアドレス(URLやドメインとも称される)とその概要が記載されていた。現在ではアクセスしたいサイトの
アドレスが分からなくとも、該当する組織名を始め、その他適当な複数のキーワードを「グーグル」などの検索用ボックスに入力したり、
さらに条件を絞り込んでいけば、ターゲットにするサイトをヒットさせ簡単にアクセスができる。もちろん、現在ではノートパソコン、
タブレット、スマホ(スマートフォン)でも即座にアクセス可能である。音声入力によってもアクセスできる。だが、当時は、
訪問したいサイトのアドレスが分からないと、ターゲット・ページに辿り着けなかった。
森さんはブラウザーをあれこれ操作しながら、ネットの仕組み、サーフィンの方法や楽しみ方、利便性などをいつもの軽快な口調で
目一杯説明してくれた。
さて、デモンストレーションは目からウロコが落ちる驚嘆の連続であった。論より証拠の格言通り、一回の実演は熱弁をふるって行なう
10回の説明よりも効果的であった。ネットがどんなものか、その概要や意義をストレートに理解できた。私は、米国の「ウッズホール海洋研究所」や「船の科学館」
などの海に関する研究所や博物館、その他の幾つかのページへの接続を試みたように記憶するが、自身で初めてネットサーフィンを
楽しんだ。それを体験するなり、「これだ!」と内心で叫んだ。そして、これまで海の語彙を拾い、パソコンに少しずつ入力し蓄積して
きた例の海洋語彙集を、ネットを通して国内外に供すること、関心ある人々にフリーに閲覧してもらい役立ててもらえることを確信をした。
そして、是非ともそうしたいと願った。
アルゼンチンで語彙拾いを始めて以来の取り組みが少しは具体的な形となって報われると直感し、天にも舞い上がるかのような
高揚感をもって全身に鳥肌が立った。語彙集を「デジタル海洋辞典」へと昇華させ、世に送り出せるという画期的なツールと
なり得ることを知りえた。そして、オンラインの海洋辞典づくりへの飛躍的なステップアップと、ネットを通しての情報発信・
一般公開を実現しようと決意した。海の語彙集づくりの起点・始点はアルゼンチンにあった。既にパソコン内において(実際は
フロッピーディスク内で)10年ほど眠ってきたような語彙集であったが、ようやく陽の目を見る千載一遇のチャンスが巡ってきたの
だと確信した。
今回初めて体験したデモンストレーションのお陰で、インターネットが語彙集づくりとどのような関わり合いをもちうるのか、また
語彙集にいかなる可能性をもたらしうるのか、一つの閃きが私の脳内の電気回路の中を電光石火のごときスピードで駆け巡ったことを
よく憶えている。そして、そのデモを通して私にとってネットのもつ画期的意義、無限大の発展性をはっきりと認識することができた。
語彙集のホームページを立ち上げれば、世界の人々に広く情報発信ができ、いつでもどこでもシェアすることができる。語彙集は
1985年の草創期以来ほとんど利用されることなく、いわば「死蔵」状態にあったと言える。だが、情報通信技術の革命的進歩のお陰で、
ネットを通して世界に供することができる、そのことを理解した瞬間であった。
私的には、長く待ち望んでいた情報通信技術の現代的進歩とは正にこのことであったと、全身に鳥肌を立てて歓喜の声を上げたかった。
森氏からの強引とも思えるような熱烈な導きに深い感謝をすべきであった。確かに世の潮流を思い起こせば、早晩インターネットに
向き合い、いつしかそれが何たるかを知ることになり、いずれはネット上での語彙集の発信の可能性に気付かされたに違いない。
だとしても、ネット時代の幕開けの早い段階に気付かせてもらったことの意義は余りにも大きいものであった。先ずはそのことに
感謝した。繰り返しになるが、脳内の電気回路を駆け巡った閃きの衝撃は凄まじいものであった。
アルゼンチン赴任中に語彙拾いを思い立った1985年のあの日以来、「語彙集づくりの後のこと」についてずっとモヤモヤ感に苛まれてきた。
だが、その全てが吹き飛んだ。脳内は晴れ渡り、今後向かうべきベ方向性について狙い定めることができたお陰で、意気揚々と
帰宅の途に就いた。こんなチャンスはJICAに奉職できたことに次ぐビッグなもので、人生でこれっきりかもしれないと思うほどであった。
森氏が私に幸運を運んで来てくれた。JICSで森氏と出会い、ニカラグアへと出張を共にしなければ、「オンライン海洋語彙集」
づくりへの挑戦は遥かに遅れていたに違いない。振り返って見れば、ネットに実際に直に触れるタイミングについても極めて
意味のあることであった。ニカラグアへ出張した折、森氏からネットのことを熱く語ってもらったのは、1995年のネット元年の頃
からわずか1年ほど後のことで、このタイミングが大変良かった。
実は、その出張から1年そこそこ経た1997年4月には、JICSからJICAへ復職したからである。そして、復帰してまもなく全く
不本意にも、ブータン国向けの無償資金協力プロジェクトを舞台にしたある衝撃的な不正事件に巻き込まれ、ホームページづくりは
暫く頓挫してしまった。ブータン事件のために精神的に酷いダメージを被り一年ほど意気消沈の状態を送ることになった。私を知る関係
者は、私が飛び降り自殺でもするのではないかと心配していたという。さらに、その数年後の2000年には南米パラグアイへ海外
赴任となった。オンライン辞典づくりへの取り組みは何年にも亘り出遅れていたに違いなかった。だが、幸いなことに、森氏との
出張をきっかけに、ネット元年後の早い段階でネット世界の手ほどきを受けていたことが幸いすることになった。
JICSへの出向人事がなかりせば、恐らくJICA復帰後に「無償資金協力業務部」への横滑り的配属はなかったであろう。JICSでの無償
資金協力の知見と経験を勘案して同部に配属されたことは想像に難くない。そして、その配属が無ければブータン事件に巻き込まれ
試練の時期を送ることもなかったであろう。ブータン事件の直撃のために語彙集から海洋辞典ホームページづくりへの取り組みどころ
ではなくなり、恐らくその本格的取り組みはパラグアイから帰国後の2003年以降となっていたに違いない。十中八九のところそれは
5、6年以上も遅れていたはずである。
JICSへの出向と海との繋がりについては、想像もまた期待も全くしていなかった。だが時を経て見ると、オンライン海洋辞典
づくりに結びつく人との邂逅に恵まれたことはびっくり仰天の驚きであった。森氏との出会いとデモンストレーションという出来事は、
オンライン辞典づくりという人生の新しいチャレンジや志の起点となった。JICS勤務を通して海と繋がることがないどころか、海との
さらなる強固な繋がりへと導いてくれた。私的には、人生に新しい目標をもたらしてくれた画期的なターニングポイントになったと
言うほどの大きな意義を有していた。活用される機会もなく陽の目を見ることのなかった、いわば「死蔵」状態にあった海の語彙集を、
インターネットを通して世界に発信し大勢の人々とシェアできるという「夢のようなチャンス」に巡り会った。
繰り返しになるが、生涯を懸けるに値する本格的な「オンライン海洋辞典」づくりと、ネットを通じての一般公開への扉が一挙に開かれた。
最高のチャンスをいただいたと神に感謝であった。当時の語彙集に眩しいほどのスポットライトが浴びせられたという思いであった。
語彙集の未来に無限大の可能性と意義をもたらしたと思えた。
ところで、JICSの3年間は、無償資金協力についての知見と経験を豊かにしてくれ、また自身の人間力や社会的生活力を養い高める
機会をも与えてくれた。無償資金協力に関する知識を得ただけでなく、何度かのプロマネ経験を通じて、仕事や人への向き合い方についても
多くを学んだ。一言でいえば、出向人生を通して常に全ての人間力と人格をもって事に向き合うことの大切さを見た。
JICS出向は、私的には、アルゼンチン赴任との関係で、人事上の「借り」をJICAへ返すという別の意味もあった。
JICAへの大きな借りをほとんど返すことができた。だがずっと後になって、それは独りよがりな思い込みであり、その返済では
不十分であったことを知ることになった。だとしても、当時は返済の不十分さなど頭の片隅にもなく、むしろそれを帳消しにするほど
貴重なものをJICSでの勤務を通じて得ていた。
JICSでの勤務は人生の「回り道」や「遠回り」でも、また「道草」でもなかった。当初は「遠回り」の人生も止む無しと割り切る
他なかったが、全く杞憂であった。回り道してよかったと思えた。JICSに勤務して邂逅しえた多くの仲間、また数多の知見と体験を得ることに
繋がった。また、私的な語彙拾いと語彙集づくりに限って見れば、「オンライン海洋辞典」づくりへと通じる近道そのものであった。
JICS時代において図らずもオンライン辞典づくりとその発信への扉を開かせてくれた。新たな人生目標が切り拓かれたことに、感謝の言葉もない。大袈裟かもしれないが、
「オンライン海洋辞典」づくりは、国連海洋法務官への夢と志に取って代わるかもしれないほどの大きな意義を有していた。
そのことをずっと後になって理解することになった。何が人生の回り道であり、その途上で何に出会うことになるか。回り道が人生に
どんな意義のある出会いと出来事をもたらし、どんな運命を辿ることになるのか、人生は摩訶不思議なものであるとつくづく思う。
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