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    第13章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第3節 インターネットを熱く語る「M」さんとの出会い


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       第13章・目次
      第1節: 食糧増産援助(2KR)は優れもの
      第2節: 調査団員の人繰りに明け暮れる
      第3節: インターネットの世界を熱く語る「M」さんとの出会い
      第4節: ネットサーフィンと海洋語彙集づくりの輝く未来
      第5節: 自作ホームページに鳥肌が立ち感涙する



  1995年4月、JICSの「業務第二部2KR課」から、同部「計画調査課」へ横滑りした。調査課は主にJICA無償資金協力の「事前調査」、「フォロー アップ調査」、「簡易機材調査」を扱っていた。そこに2年間在籍した。異動して一年半後、中米のニカラグア国 での簡易機材調査にプロジェクト・マネ-ジャー(以下「プロマネ」)として 関わることになった。件名は「農業生産基盤改善用機材整備計画」というプロジェクトであった。

  ニカラグア政府から援助要請された機材は、大型ブルドーザー1台、それを運搬する大型トレーラー1台、現場に駆けつけ ブルドーザーの応急修理に従事するための工具一式を搭載する車両1台、その他汎用のあるトラック1台であった。ニカラグア側の援助 要請機関は略称「ポルデス(POLDES)」という「農村開発公社」であった。機材の利用計画(地域・県別農道・溜池等の中期整備計画)、 機材内容・数量などの必要性や妥当性、機材の技術仕様、機材調達に関わる概算額などを検討する上で必要となる情報を収集するために、 1996年9月から10月にかけて現地調査に赴いた。調査団の構成は3名で、当時JICSのインハウス・コンサルタント的な存在であった 民間法人「タスク」の森明司氏と通訳団員であった。

  調査のことに触れる前に当該プロジェクトの基層に横たわるニカラグアの歴史について少し触れておきたい。ニカラグアでは、かつてソモサ一族に よる親子3代42年間に及ぶ独裁的体制と支配の下で政権が維持されていた。反政府組織であった「ニカラグア民族解放戦線(FSLN)」が 革命を成功させたのは1979年7月中頃のことであった。ソモサ政権がついに革命で崩壊した(後に「サンディニスタ革命」と呼ばれた)。 ソモサ政権を打倒し権力の座に就いたのは、当時の同解放戦線を率いていたダニエル・オルテガ(Daniel Ortega)であった。 彼が主導する革命政権は1979年から1990年まで続いたが、それは内戦の時代でもあった。 即ち、ソモサ独裁政権の崩壊後に樹立されたオルテガ率いる「反ソモサ・革命政府」と、ソモサ体制時代における国家警察隊 のメンバーを中心とする「コントラ」(反革命政府の樹立を目指す右派武装ゲリラグループ)との間で、1980年代初頭から武力闘争が繰り広げられ 内戦状態となった。当時、親米で反革命勢力であった「コントラ」は、米国の支援の下、政府側の解放戦線軍との間で長年にわたり 内戦を繰り広げることとなった。 (注)コントラはスペイン語では「Contra」である。「反対や対抗する」という意味がある。即ち革命政府に「反対」の立場にある勢力 を意味する。

  「コントラ」は立場の違う幾つかのグループの寄せ集めで、その最大公約数的教義は革命政権への対峙であり、それからの権力奪取 であり、それは米国の利害とも一致するところであった。1981年に米国レーガン政権が成立した後は、米国による「コントラ」への 支援によって内戦は激化した。他方、革命政権の代表格であったダニエル・オルテガが1984年の国民選挙で大統領の席を勝ち取った。 そして、1987年8月には、いわゆる「コンタドーラグループ」によるラテンアメリカ域内の和平努力が実り、ニカラグア内戦については 中米和平合意が成立した。

  和平合意によって、1988年にはサンディニスタ革命政府と「コントラ」との間で武装解除などのいわゆる「サポア合意」に至った。 その後、同解放戦線やコントラの兵士も武装解除がなされ、国内に平和が戻り現在に至っている。そして、1990年2月には大統領選挙が実施され、「サンディニスタ 民族解放戦線 (FSLN)」側の代表であったダニエル・オルテガ大統領は、大方の予想に反して敗退し、ヴィオレータ・チャモロ (Doña Violeta Barrios de Chamorro)が当選を果たし、親米中道派のリベラル的政権が誕生した結果、オルテガ率いる同戦線の政権者 らは下野した。かつてソモサ政権を打倒し権力の座に就いていた革命政権であったが、ここに至って約10年間に及んだ革命政権 時代に幕を閉じることになった。

  武装解除された旧兵士の多くは、一般民間人となって辺境地にある山間部の農村などへ入植し、農牧業に従事してきた。その 入植地は奥地の山間部のさらに奥地が多いという。時のリベラル中道派の新政府としては、武装解除後に山間部奥地などで農牧業 を細々と営む貧しい旧兵士らの農民とその家族のためにも、農業生産基盤を改善し、彼らの生活を支えるとともに、生産性をさらに 引き上げ生活向上を図ることが何よりも喫緊の重要課題であった。

  具体的には、辺境にある山間部奥地の農牧地からの農牧生産品の最寄りの市町村の市場へのアクセス道や、逆に市場からの 農牧生産資材の奥地への搬入道などの新規造成や改修、乾期における放牧牛の水飲み場の新規造成などが切実に求められていた。 ニカラグアでは、4~9月頃に乾期が半年間ほど続き、傾斜地の多い山間奥地における放牧牛のための水の確保は死活的に 重要であった。

  余談だが、1996年にV.チャモロ大統領政権のイニシャチブの下で「平和の灯台」が建設され落成した。その灯台の基礎には、旧革命政権 とコントラ双方の元兵士らによって放棄された数多の武器が集められ葬られた。この灯台は国民融和と国内平和の達成を記念し、 またそれへの願いを込めて建立されたモニュメントである。マナグア旧市街地に建つ国立宮殿(現・国立博物館)や、1972年の大地震 によって崩壊し今では廃墟と化している大聖堂の傍に建っている。

  休題閑話。農村開発公社ポルデスでは、地方農業基盤改善のための5か年計画の詳細、ブルドーザーやトレーラーなどの利用計画 やそれらの必要性や妥当性、詳細な技術的仕様などについて、いろいろ聴き取り調査をした。そして、マナグアから地方都市である レオン、エステリ、フイガルパなどへ辿り、さらに奥地の山間部にある人里離れた集落へと駆け巡り、農道造成中の地や予定地などの現況を 視察し、農牧従事者の営農・生活事情やその生の声を聴取した。また、干ばつ被害程度、地方自治体の農道整備などに関する要望や これまでの取り組み状況などを調査した。

  獣道のような、馬しか通れそうにない道なき道も踏査した。そこを馬にまたがり、その背に生活物資などを積んで住処に戻る途上にある 家族にも遭った。そんな獣道を荷馬車が通れる道へと拡幅し、さらに奥地の集落へのアクセス道として造成するというものであった。 また別地では、ブルドーザーでアクセス道を実際に造成中である現場にも足を踏み入れた。それらはマナグアから何百kmも離れた 山間部に抱かれた、彼の地方都市から更に何10kmも奥地に入り込んだ、まさに辺境の地にあった。奥地の集落からさらに分け入って 入植した旧兵士やその家族らが、そんな辺境の地で農牧を生業にして自給自足的生活に営んでいるという実態を垣間見た。

  10月から翌3月の雨期には時に河川水が5メートル以上も増水するほど降雨が続くこともあるが、乾期には草木は赤茶けて落葉するほど 渇水してしまう。急傾斜の多い山間部の放牧地では水の確保はままならず、牛はやせ細ることが常態となり、何とか平地を見つけて 土を掘り起し水飲み場を造ることが死活的に重要となっている。地方都市間を結ぶ未舗装の砂利道の支線から何kmも奥地へと通じる 荷馬車道を新たに造成し、それらを繋ぎ合わせて支線網を築き上げるのに、1台のブルドーザーでは焼け石に水であるとの印象をもった。 だがしかし、ブルドーザー1台の供与でも、5年間に延べ数10kmほど支線網を造成したり、牧牛の水飲み場を何百ヶ所かを造成する などして、辺境の地に暮らす農民らの農牧基盤と日常生活の改善に少しでも役立てられるとポルデスは要望している。現場の踏査を通じて その可能性を大いに信じることができた。

  帰国後は、農牧生産基盤の改善に関する中期計画、機材の内容と数量の妥当性、それら機材の技術的仕様書、調達にかかる概算 見積もり額などを分析した報告書を作成しJICAに提出した。報告書はその後精査され、外務省に手交された。そして、この無償資金 協力プロジェクトは外務省の手で閣議に諮られ、その後両政府間で援助に関する交換公文が交わされ、資金援助が実施される運びとなった。

  その後、JICAからの推薦を受けニカラグア政府のコンサルタント兼代理人として機材調達に関する コンサルティング業務契約を結び、その調達業務(機材の詳細設計、入札図書一式作成、入札補佐、納入商社選定、納入検査、技術指導 立ち会い、瑕疵検査など)を請け負うことになった。そして、そのコンサル契約の締結、機材内容や仕様の最終確認、その他実施上の 諸手続きにつき協議するため、1996年4月に再び現地に赴いた。団員はJICS担当者、森氏の3名であった。

  帰国後はそれら機材の詳細設計を行ない、施主としてのポルデス公社関係者の出席の下東京で入札を行ない、その納入商社を 決定する手はずを整えた。コンサルティング業務は、機材が同公社に納入され、その操作に関する技術指導が完了するまで続いた。 計画調査課に在籍した2年間に、こうした簡易機材調査を起点にして、被援助国政府代理人として機材調達業務を執行するプロマネ を何度か経験した。

  JICAにあっては外務省の指揮監督の下に無償資金協力の「実施促進」業務を行なう経験はいつでもできるが、被援助国政府と コンサル契約を結び全責任を背負いながら機材の調達・納入検査・技術指導を担うプロマネの経験は、民間コンサルタントとほぼ 同等の役目を負うJICSにおいてしかできないものである。ニカラグア政府の代理人として調達業務を監理するというプロマネの職責は それなりに重く厳しいものがあり、実地の体験を通して多くのことを会得することに繋がった。

  さて、「タスク」の森氏とはこのプロジェクトを執行するいろいろな局面で濃密な業務上の打ち合わせを重ねたのは当然の ことであったが、今回2度目のニカラグアへの出張にあっては、同氏と年齢も近かったし、結構馬が合い気心も知るところとなったので、 現地のホテルで食事やカフェを共にしながら雑多な世間話や個人的な話などもした。ある週末、その落ち着いた雰囲気のホテル内のいつもの レストランのすぐ傍らにあるプールサイドのテラスで、ブランチを共にしながらたわいもない雑談に華を咲かせた。週末ながらも、 森氏はノートパソコンをもち込んで、朝食を取りながら資料の整理や報告書の素案づくりをしていた。そこにジョインした私に、 何を思ったのか彼はインターネットのことを話題に取り上げ始めた。最近殊に普及し出しているネットの革新性や有用性について であった。そのうちネット談義に口角泡を飛ばし熱を帯びだした。

  森氏が熱く語るも、実際にノートパソコンに電話回線を繫ぎ国際電話をかけその場でホームページを閲覧できる状況にはなかった。 私にとっては理解しようにも、実物のネット画面を見ながらではなかったし、また私には予備知識がほとんどなかったのですんなりと 理解できなかった。「インターネット元年」とかで騒がれた1995年(パソコンの基本ソフト「ウインドウズ95」が発売された頃)は 昨年のことであり、1996年の当時の時間軸においてはネットのことで世間は最高潮に盛り上がっていた。だがしかし、私的にはネットについては 一年も周回遅れの状況にあった。

  森氏は、我々の傍に電話器があれば、その受話器から通信回線を引っこ抜き、パソコンのポートに差し込めるのだがという。 そして、アプリを使って日本に所在する「プロバイダー」と言うネット接続業者に国際電話を掛け、プロバイダーのサーバーと繋ぐという。 電話がつながったら、「ブラウザー」というホームページ閲覧ソフトで、アクセスしたいページのアドレスを打ち込み、リターン・ キーを押せば、そこに繋がるという。

  当時には今でいう「グーグル」などのような、キーワードなどをもってネット上の数多のサイトを瞬時に検索し 接続できるという便利な検索エンジンはなかった。だが、当時には「ネットスケープ(Netscape)」などのソフトでもって、 「http://www.」で始まるアドレスをキーボードから入力して目途のサイトにストレートにアクセスすることができた。

  当時でさえ数多のホームページが存在した。ジャンル別に主要なホームページアドレスとその概要を紹介する、電話番号帳の ような分厚い「ディレクトリー」と称される書籍がたくさん出回っていることを後で知った。兎に角、世界中のパソコンが繋がり、ページを 無料で閲覧できるという。

  海外に出張している場合は、投宿するホテルの自室から、受話器の通信回線を拝借して、契約関係にある日本国内の プロバイダーに国際電話を掛けて、プロバイダーのサーバーにつなぐことになる。その場合は、当然国際回線での通話となるのでとても 高くつく。国内にいれば、自宅や事務所にできるだけ近くにある接続ポイントを用意しているプロバイダーと契約すれば、たいてい市内電話 料金で事足り、通話料金を格段と安く済ませられる。例えば市外電話であっても近隣市内にあるポイントとの接続であればそれだけ安くつく。 ホームページでは数多の法人が独自の有益な情報を競い合って提供しているという。森氏は口から鉄砲弾を撃ち出すがごとく、 ネットの仕組みとネットサーフィンの楽しみ方などについて止まるところを知らず真剣に語り尽くしてくれた。

  ただ、通信回線が目の前にないカフェテラスでのことであったので、森氏は自身のパソコンをネットに接続しようにもできず、 私にデモンストレーションして見せることは不発に終わった。耳をそばだてて想像を逞しくする他なかった。ニカラグア出張でのこのネット 談義は目からうろこであった。だが、具体的で鮮明なイメージを掴めなかった。当時取り組み始めてから10年ほど経っていた 海の語彙集づくりとどう結び付けられるのか、確信をもてるような具体的なイメージを描けなかった。私的には、自身の脳内の電気回路の 中でビリビリと閃くところまではいかなかった。だが、今回の談義からインターネットが何たるものかを知る重要なきっかけを 得ることができた。そして、それを知る十二分の価値があることをはっきりと認識できた。

  世はインターネットの話題で大いに盛り上がっていて、当時それなりに仄聞していて全く関心が無かった訳ではなかった。だが、 ネットがどのようなものかを知り得る何の実体験もしていなかったし、それを知らねばならないと前のめりになっていた訳でもなかった。 そんな中で、プールサイドのカフェテラスで、森氏が「インターネットの世界」の扉のすぐ傍まで私を導いてくれた。森氏との運命的 出会いを感じた。彼は帰国後に自身のパソコンを使って実際にネットサーフィンを実演し、それがどんなものかを直々にショーアップ すると約束してくれた。お陰でネットへの興味と期待は一気に膨らんだ。帰国後できるだけ早くそのデモンス トレーションに立ち会えることを期待した。かくして、森氏とのニカラグア出張の機会を得たお陰で、インターネットにまだしも早い段階で 没入没頭できることになった。

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