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    第13章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任
    第3節 サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/ピクニックと砂漠での戯れ


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    第13章

      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア
      第2節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/ピクニックと砂漠での戯れ
      第4節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける
      第5節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りにアラビア半島諸国を旅する
      第6節: スエズ運河とジブラルタル海峡の横断に感涙する(その1)
      第7節: スエズ運河とジブラルタル海峡の横断に感涙する(その2)
      第8節: 「バイキングの故郷」北欧諸国の海と港を探訪する(その1)
      第9節: 「バイキングの故郷」北欧諸国の海と港を探訪する(その2)
      第10節: マルセイユからベニスへ、南欧地中海沿岸の海洋博物館を探訪する

      序章~第11章 | 第12章  第14章 | 第15章~最終章


  サウジアラビアでは、金曜日・土曜日が週末である。その一つの外出先と言えば砂漠である。砂漠へピクニックに出掛け 「砂」と戯れるのである。「砂」からなる砂漠もあるが、荒涼とした土漠も多い。年配者はかつて若い時にベドウィン(遊牧民) として砂漠で暮らし、その生活に慣れ親しんできたことも多い。若者はそのベドウィンの血筋を引いているとみえて、弁当を 持って気軽にオフロードの砂漠の世界へと、ランドクルーザーやサンドバギーカーでドライブに出掛ける。 これが一つのサウジ風ピクニックともいえる。周囲には見渡す限り土と砂しかない土砂漠でランクルやバギーを疾駆させる。 起伏もかなり多い。砂漠の中に続く幾つもの砂のピークをめがけて駆け上がっては、また駆け下る。これ以上のオフロードの 世界はなかろう。若者が好む他愛もない気晴らしの一つである。日本では、砂塵を撒きあげてアップダウンの爆走をしたくても、 それを体験できるような場所はない。

  ある日誘われて、砂漠に「ダイヤモンド探し」に出掛けることになった。砂漠ではなく、いわゆる土漠であった。子ども ハンターたちは本物のダイヤモンドを見つけられるものと期待していた。太陽が水平線近くに傾くのを暫く待ち続けた。小礫の 多い土漠の中でダイヤモンドをどのように探し出すのか、最初は見当もつかなかった。そのうち、大人も子供も、日没に差し掛かった 頃、太陽を背にしゃがみ込み、地面を覗き込む。それだけである。 水晶の欠片が陽光に反射するのを捉えようと目を凝らす。その輝きの正確な位置を特定するために少しずつ近づき、またしゃがみ込んで 目を凝らす。ついに欠片に辿り着き拾い上げる。子供たちには砂漠ピクニックの楽しい思い出となる。他愛もない宝探しと言えば 身も蓋もない。日本では体験できない、見渡す限りの土砂漠の世界での週末の一大リクレーションであった。

  春のある日、アイリスなどの可憐な草花が咲くお花畑が砂漠にあるというので、それを愛でるためにピクニック出掛けること になった。規模は小さいとしても、「花の絨毯」を見れるとあって、楽しみであった。案内人の友人の記憶を頼りに、お花畑を目指した。 少し迷いながらも何とか無事に辿り着けた。全く乾燥する土漠世界にも少し湿り気のある低地があり、そこに季節になると草花が 地面を這うようにして、けな気に咲いている。まるで小さな「魔法の花絨毯」のように感じられる。開花するのは陽の高さや時間 帯にもよるのであろう。完全に咲き誇ってはいなかったが、それでもお花畑で暫し癒された。最初に花絨毯を見つけたのは 偶然だったのか、それとも関係者の間で歴代受け継がれてきたのか聞きそびれたが、想像するにそこに再び辿り着くのは難儀なこと とであろう。どちらを向いても同じような土砂漠の景色に取り囲まれているが故にである。

  帰路迷わず幹線道路に出られるか、ガイド役の友人だけが頼りであった。彼女の体内コンパスが狂い、方角やルートを見失なうと、 とんでもない悲劇になりかねない。ドライバーの私と言えば、景色や太陽の方角を頼りにはできず、目の前のわずかな轍やタイヤの 踏み跡と友人の指示に頼るだけであった。航跡が記録されるGPSが車に搭載されているならばかなり安全であるが、当時は高額 なものであり、そんな「精密兵器」を我が車には搭載していなかった。とにかく、方角やルートに無警戒・無頓着の まま、砂漠を無鉄砲にドライブしまくるのは大変リスキーであると肝に命じた。かつてヨルダンに出張し、砂漠の中での井戸掘削 と小麦栽培の可能性調査に出向いたことがある。念のため砂漠での道案内にも長けた地元出身のドライバーを雇った。だが、 砂漠を走るうちに、日本人の調査団員自身がドライバーは半時間ほど前に通ったのと同じ道を辿っていることに気付いた。 彼が道に迷った訳であるが、彼はまだそのことに気付いていない様子であった。地平線の果てまで土砂漠が続く、目標物の見えない 荒涼とした大地での走行を軽くみては命取りになりかねない。さて、砂漠でダイヤモンドを拾い集めたり、花絨毯を愛でる ことで、サウジ生活に束の間の憩いや潤いをもたらしてくれた。些細な楽しみであるが、皆がホットになり、単調な日常生活に アクセントを付けることができた。見方を変えれば、日本では体験できない贅沢な生活の一コマとなった。

  実は、砂漠の中にキャメルロードがあるという。その昔ラクダで砂漠を行き来していたキャラバン隊が長年利用していた道の跡が 珍しく今も遺されているという。リヤドから東部のペルシャ湾岸に通じる幹線道路を小一時間ほど走ると、突然土漠の中に切通し が現われる。アメリカのグランドキャニオンには到底及ばないが、一瞬それを連想させる雄大な自然風景である。ネジド砂漠を南北に貫く大断層 であるのは間違いない。高さ数百メートルはある断崖が一直線に果てしなく続く。 その断崖上から見渡す大断層の景色は実に壮観である。断崖下にネジド砂漠が延々と連なり地平線へと消えていく。勿論砂漠は東のペルシャ 湾岸まで500kmは続く。自動車も車道もなかったその昔、その断崖を行く九十九折の道を登り切らなければ、小さなオアシスの 町リヤドには辿り着けなかったに違いない。そんなキャメルロードの跡が今も遺される。断崖の上端にて弁当を広げ、雄大な 景色を眺めながら食するのも週末のピクニックの一つであった。もちろん陽が地平線に傾く頃を狙って出掛けた。

  さて、本格的な砂漠ツアーを体験することができた。サウジ観光庁長官(サウド家の王子の一人という)から砂漠の真っ只中にある 彼所有の「別荘地」での夕食会に日本大使が招かれた。大使館関係者に混じって、JICA所員もその末席に加えて頂いた。 長官は産業振興と雇用増進策の一環として、ぜひとも観光業を盛んにしたいという。日本人も大いにサウジ観光ツアーに関心をもって いるとの認識の下、日本政府関係者から振興を図るうえで参考となる話しを聞きたいということである。リヤドから車で1時間ほどの距離で、ネジド砂漠の ど真ん中にあった。サウジでは砂漠を有刺鉄線で囲い込み占有することができるという。しかし、有効利用することが大前提と なっており、実利用を伴わない単なる囲い込みは許されない。王子は地平線の果てまで砂漠を囲い込んでいた。農業に利用している風ではなかったが、 アラビアン・オリックスを放し飼いにして保護していた。また、ラクダを部下に飼育させていた。長官所有の砂漠の全周には、肉眼ではとても 見えないほど遠くまで柵が張り巡らされていた。

  さて、観光庁長官が我々に問いかけた。ある一頭のラクダの値段をいかほどに値ぶみするかという。検討もつかなかったが、 皆が予想した値段よりはるかに高額な値段であったことに驚かされた。一頭数千万円するという。血統書付きであった。 そんなひとこぶラクダを何頭か飼育していた。そんな血統書付ラクダと、他の普通のラクダとをどのように区別できるのか 分からなかった。長官が直接説明するところによれば、血統書付きのそのラクダは、その値段に相応しく、実に凛々しく上品に育て上げられ、 また端正かつ「ハンサムな」顔立ちをしているという。血統書付の値段を聞かされれば、確かにそのように見えてくるから 不思議である。余談であるが、ずっと後年の話であるが、ラクダコンテストで優勝したラクダが後になって整形をしていたことが判明し、 失格にされたという記事を新聞で読んだことがある。ラクダを「最愛の友」とするアラブ世界でのこと、日本人にはどう理解して よいのか戸惑ってしまう。さて、日本人招待客には最後に、普通のひとこぶラクダが用意された。そして、大使・参事官をはじめ館員は ラクダに「試乗」し、周辺を歩き回り、キャラバン隊列行進を暫し楽しんだ。私も「試乗」してみたかったが、記念写真撮影 係に徹した。

  その後、360度見渡す限りの砂漠のど真ん中に設営された大型テントに移動し、長官や大使をはじめ皆で絨毯の上に車座になった。そして 本題のサウジの観光について議論が交わされた。その後ディナーの時刻となり、両国の参加者全員が3,4グループに分かれ、直径1メートルはある 大きな平鍋に盛られた、パエーリャのような伝統的なアラブ料理の周りに日本人・サウジ人が交互に座って御馳走になった。 アルコールは勿論一切なし。サウジ人が手際よく大きな羊・鶏肉などを切り分けてくれた。我われ日本人は左手を使うことなく 右手だけで上品に食するよう務めた。

  食後は夜空に満天の星がきらめく屋外に出た。そして、観光庁の所員と思われる大勢の若者たちがサウジのベドウィン風伝統的 民族衣装を身にまとい、短剣を腰ひもに差して、太鼓・タンバリン・カスタネットなどの楽器演奏に合わせ、彼らが言う「サウジ・ ダンス」を披露ししてくれた。砂漠の民としての誇り、風習やしきたり、伝統を受け継いでいくのが観光庁の使命であるとの 心意気を垣間見ることができた。ダンスはクライマックスとなり、ついに我われ日本人全員が円形のダンスの輪の中に引き込まれ、 肩を組みながら、時に満天の星空を見上げながら、砂漠のど真ん中で全員で飛び跳ね回り、 さらに戦いの勝利を喜び合うかのような雄たけびを上げた後にようやく中締めとなった。サウジ側の温かいもてなしに感謝であった。 何もない砂漠にも、我われ異邦人が知らないたくさんの楽しみがあることが知ることができた。

  日本人は旅行好きで、世界中の至るところを訪れて観光を楽しんできたといえよう。だが、サウジを旅した日本人は極めて少なく、 「旅の最後のフロンティア」と思う人は多かろう。サウジ人のベドウィンによる、伝統的民族衣装をまとったサウジダンスを 満天の星空の下で鑑賞できるとなれば、日本人観光客らも大いに感動するに違いないと確信した。かつて、ジャンボジェット機の チャーター便にて日本人旅行者の一団がサウジを周遊して回ったことがあった。その参加者の一人が書いた旅行記を興味深く拝読した ことがあった。何日間かサウジの風俗習慣などを事前に研修を受けた後、現地サウジ人ガイドの案内・指示の下、さらには 日本人添乗員も付き添って、この禁断の異国を周遊したという。だが、何の理由があってか、そんな特別ツアーもその後続かなかった ようである。観光庁は世界から観光客を受け入れ、産業振興と雇用促進の一つの柱にしたいと本気の様であった。

  私的には、観光客にとって写真撮影が普通にできないことが気になった。サウジ人が写り込まない普通の自然風景写真は問題ないとしても、 観光客にとっては、街角風景や人が遠目に写る被写体も禁止されるのは厳しい。もちろん、警察署、軍、治安部隊、石油 コンビナート、モスクなどの施設の撮影禁止措置は理解できるが、全ての公共の場での禁止は厳し過ぎよう。要するに、自宅以外 の場での撮影はご法度となっている。市内に出て街風景を撮影するのもできない。観光振興と写真撮影の関係を理解し、トラブルを 避け折り合いをつけるためには、サウジ人ガイドがその場その場で適切に指導指示する他ないであろう。 そもそもカメラをぶら下げて市内を歩くことさえ、トラブルの種となる。赴任中何度か写真撮影絡みのトラブルに遭遇した。 そこには、ア首連、オマーン、エジプト、トルコ、モロッコ、チュニジアなどの観光立国のイスラム諸国とは全く異なるイスラム 世界がある。サウジの政治社会文化的、かつ宗教的な異次元の世界に、一度は足を踏み入れたいという人は世界には多いことであろう。

  さて、サウジ赴任中、国内の旅もいろいろと楽しんだ。出張やプライベートの旅の頻度は多くはなかったが、少し国内の旅の ことを語りたい。公私とも頻繁に出かけることになったのは西部のアシール地方に所在する、紅海に面した 港町ジェッダであった。アシール地方には、サウジからイエメンにかけて千数百kmも続く、海抜1~2千メートル級の大山脈が 紅海沿いに連なる。その中心商業都市はジェッダであり、二大聖地のメッカとメディナがある。ジェッダは古来より東洋と西洋 を結ぶ「海のシルクロード」の経路上に位置する重要な交易中継拠点として栄えてきた。 現在でもスエズ運河を経由の欧亜航路上にあるサウジ最大の国際商業港湾都市である。 イスラム教徒がハッジの時期には、世界中から数多の巡礼者がジェッダの国際空港に降り立つことになる。

  旧市街地にはアラブ風の古い街並みが遺される。そこに入り込むと、預言者モハメッドがメッカやメディナで暮していた時代 にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。さて、ジェッダには日本サウジ自動車整備研修所(SJAHI)プロジェクトがあり、 その関係で何度も業務出張したが、潮の香りに浸ろうと二度ほどジェッダにプライベートな旅に出た。ジェッダには何よりも 美しい海岸線が続き、そのすぐ地先には紺碧の海が広がっていた。紅海は、その海岸に立ってみればすぐ分かることだが、 とてもじゃないが遠浅の海岸とはいえず、海の色からして水際のすぐ先から急激に深くなっていることが見て取れる。 コバルトブルーの深みのある海に吸い込まれそうである。紅海海岸の水際に建てられたモスクがあり、海上に立てられたモスク のように見える。「海に浮かぶモスク」とその華麗な姿が讃えられている。

  ジェッダで一度だけ海水浴を楽しんだことがある。驚いたのはその海水の余りの冷たさであった。江ノ島海水浴場のように 一般市民が何キロも続く砂浜で甲羅干しをしたり、色とりどりのビーチパラソルの下で楽しく談笑したりする風景などはどこにも ない。海水浴を楽しめるのはプライベートビーチしかない。海での海水浴には郊外の紅海沿いのプライベートビーチに行かざるをえ ないのである。ビーチは幅100メートルほどの砂浜と海とによって区切られている。そのエリア内だけが異邦人が思い思いに楽しむ ことのできる世界である。サウジ人は見当たらない。外国人はその特別に囲われた海浜で甲羅干しや水浴をする。
* ジェッダは聖地メッカに近い。聖地メディナはメッカから数10km離れる。いずれも非イスラム教徒は足を踏み入れることは できない。

  余談だが、紅海といえば、ある海洋鉱物資源で有名である。紅海はアフリカ大陸東部を南北に走る大断層の延長線上にあり、水深は3000メートル級 である。紅海の中心線に沿って、その深海底に「重金属泥」が眠っている。金銀、銅、ニッケル、亜鉛などの有用鉱物を豊富に 含有する泥が堆積されている。マンガン団塊やコバルトリッチクラストと並ぶ有用鉱物資源として脚光を浴びてきた。 1970年代頃からサウジをはじめ隣国のエジプト、スーダン、エチオピアも関心をもち、その探査開発に特別の注目が集まった時期 があった。一時期、商業的採鉱に期待が膨らんだこともあったが、それには莫大な資本投下が必要とされ商業的採算性の観点から、 今もって実現を見ていない。とはいえ、重金属泥に関心をもってきた私にとっては、それと所縁のある紅海の縁に立つ時は いつもそのことが思い出され、感慨深いものが込み上げてきた。

  プライベートな国内の旅のうち最も印象深かったのはサウジ北西部にある古代遺跡であった。サウジ北西部のヨルダンとの国境に近い マダイン・サーレというところにあった「ナバテアン古代王国」の遺跡を訪ねた。空路でメディナを経由して北西にあるアル・ウェッジ という紅海沿いの漁業の町へ。その空港でヨルダン人のガイドと落合い、そこから車で数時間かけて内陸部にあるマダイン・サーレへ と向かった。そこに古代文化遺跡がある。ナバテアン古代王国の北の首都は、紅海のアカバ湾の最奥部に面するアカバから 少し内陸部に入ったところの「ペトラ」にあった。同王国の南の首都はこのマダイン・サーレであるとされる。ペトラ遺跡と同じように、 マダイン・サーレにも巨大な岩山の側面を刳り抜いた小さな洞窟のような墳墓がたくさん刻まれている。その墳墓の中には無数の遺体 安置場がさらに刳り貫かれている。岩山が砂漠内に四方八方に点在し、その岩肌のあちこちに墳墓が刳り抜かれる。遺跡全体としては、 ペトラ遺跡とよく似ている風景がある。ただペトラ遺跡は渓谷内にあり、マダイン・サーレの遺蹟は砂漠の真っ只中にある岩山にある という違いはある。

  マダイン・サーレには「ヒジャーズ鉄道」が敷かれ、駅舎も存在していた。オスマントルコ時代にシリアのダマスカスから アラビア半島西部を経て聖地メッカに向けてレールが伸びていた。英国軍人の「アラビアのローレンス」が活躍した時代には 既に敷かれていた。同映画の中ではその鉄道の爆破シーンが出てくる。現在でも当時の蒸気機関車が地元の博物館に保存される。 町近郊の砂漠などには線路が敷かれていたことを示す盛り土跡が残り、朽ち果てた貨車がひっくり返っている。レールや枕木は住民らが 住居を造作したりするために引っ剥がして持って行ったのが多いという。降雨の極度に少ない乾燥地であるがゆえに、貨車などの木枠も 鉄部も朽ち果てることなく原形をとどめながら遺されていて、さながら「アラビアのローレンス」の映画ロケ地のようである。 町の郊外に日干し煉瓦を積み上げて作った住居跡があった。ごく小さな要塞のようにも見て取れた。中庭には井戸があった。 昔キャラバン隊が休息や投宿のために利用した中継基地あるいは宿場として利用されたという。アラビア半島でさまざまのベドウィン 部族が行き交い交易の十字路を形成したり、あるいは部族間の戦いを繰り広げていた時代にタイムスリップしたかのような錯覚に 陥る。

  さて、アラビア半島西部の紅海沿いに連なるアシール山脈の麓近くに所在するオアシスの地方都市とその周辺に広がる農業地帯を 視察する機会があった。当地では飲料水も農業農水も化石水に依存していた。天水で補充されることはないので、いずれは枯渇する ことが懸念されていた。涸れ沢に地下水ダムを建設し水資源を確保することの可能性調査がJICAに要請されていたが、この数年 サウジ国内でテロが頻発したために頓挫していた。調査の実施に踏み込んで問題はないか否かを判断するため東京から安全確認 調査団が派遣されてきた。今回その調査団に同行し、同地域を訪れたものである。

  同農業地帯はアシール山脈の麓近くにあり、またイエメンとの国境近くにあった。その国境近くの山中にはダムが建設されていた。 ダムには貯水をほとんど見かけなかった。どうも地下水ダムのようであった。ダムは陸上に就く出ているだけでなく、その地下 にも地中深く埋設されているのであろう。わずかに降る雨が涸れ沢の地下に浸み込む。その浸み込んだ天水を地下ダムで堰き止める 。そしてその天然水を汲み上げるというものである。さて、ガイド役のダムの責任者に「イエメンとの国境はどのあたりか」と尋ねると、 彼の周りにいた側近も、また彼自身も一瞬ニヤリと苦笑して口をもごもごさせた。側近曰く、「ダムの建設後に念のため測量し直したら、どうもイエメンとの 国境線を越えてイエメン領土内にダムを造ってしまったらしい」という。だから国境はダム本体辺りだという。 [参考] 地下ダムとは、めったに雨が降らない同地方では河川には水がなく「涸れ沢」のようになっている。だが、地下には 地下水が流れている可能性がある。その可能性のある涸れ沢の地下にダムを建設し、地下水を堰き止めておく。そして、井戸を 掘削し、ポンプで汲み上げて多目的に利用するというものである。

  さて、我われは調査団とともにオアシスに広がる農業地帯からアシール山脈の尾根筋に上り詰めた。そこには人口数万人ほどの 空中都市があった。山脈の尾根筋を縦貫する幹線道路を南へ小一時間ほど進めばイエメンとの国境に至るほどであった。 首都サナアまではあと数百㎞の距離であった。空中都市から一気に高度1000m以上下るとジザンという都市に至る。ジザンは紅海に 面する漁業の盛んな町であるという。アシール地方では、基本的には紅海の海水を淡水化した飲料水を1000mほどポンプアップしている。 渇水時に備えてそれらを幾つものダムに貯水している。空中都市の上水道施設を視察もしたが、写真撮影はもちろん安全保障上禁止であった。 石油が豊富であるサウジであっても、水資源確保と制水が国の命運を左右する重大事とされる。その後山脈を500kmほど北へ縦貫 したが、途中の大小の空中都市は、砂漠のオアシスに作られたベドウィンの町とは異なる独特の社会文化を開花させてきたように みえる。

  機会はごく少なかったが、ある時に、広大なネジド砂漠を東方のペルシャ湾岸に向けて、車や鉄道で横断する旅をした。 石油・ガス資源のほとんどはペルシャ湾岸周辺域で産出される。また、石油化学コンビナートもダンマンなど、ペルシャ湾岸に集中している。 リヤドからディーゼル機関車が引く列車に乗って湾岸地方へ同僚家族らと旅した。灌漑水路が引かれ見渡す限りのパームツリーや ナツメヤシなどが砂漠地に植林され、グリーンの絨毯が地平線の果てまで広がる。油脂やデーツを採るのであろう。 砂漠の中にあって点でしかないオアシス、砂漠の中を一直線にひた走る鉄路と列車、砂漠にあってパームやデーツの人工椰子畑が広がる 緑の絨毯。それらのコントラストみるにつけ感嘆するばかりであった。

  ペルシャ 湾岸にある石油の町ダンマンに出向いた時のこと、そこで初めて観光船が運航されているところを目撃した。他国では普通の 風景に違いないが、サウジでは全く普通の景色ではない。不特定多数の観光客を相手に船遊びをするという娯楽があるとは予想だに していなかった。全くの驚きであった。さらに、湾岸沿いにドライブを続けたところ、ダウ船による漁撈風景にも出会った。 サウジ周辺国では観光船もダウ船での漁撈もよく見かけた普通の風景であったが、サウジでは何か見たこともないものを目にする 感覚に戸惑うことがある。いずれにせよ、それらの風景写真を切り撮るのに細心の注意を払うことになるのがサウジである。

  リヤドの砂漠を離れ、ペルシャ湾岸や紅海にまで足を伸ばして海の香りを味わうことで、開放感に浸った。アルコールはなく とも、それなりにリフレッシュでき、ストレスを緩和することができた。マダイン・サーレに向かう途上のアル・ ウェッジの漁村でもそうであったが、海岸沿いの漁村風景を切り撮るにも、神経を張り詰めねばならないのがサウジであった。 ガイドに海辺に立ってもらい、彼を切り撮る振りをして角度を少しずらして「海とモスクと漁撈ボート」の風景を 切り撮る。それでも、撮影を遠目で見ていた老人が近づいてきて、ガイドとなにやら口論めいていた。訊くと「君たちは何者か?  何故写真を撮っているのか、何を撮ったのかという」。これがサウジである。

  時にリヤド近傍の砂漠だけでなく、リヤド市街地やリング・ロード周辺を暇に飽かして週末ぶらぶら散策した。 リヤド市内には「国立博物館」がある。またイルラム様式の墓場がある。住宅ビルによって四方囲まれた平坦な地に、なにやら 石ころがたくさん転がっていることに気付いた。最初はそれが何なのか理解しなかった。後日仲間に尋ねるとそれがイスラム教徒 の墓だという。国王でさえも同じように石ころ一つ置かれて土中に葬られるという。市内に公開処刑場もある。そこで斬首の死刑執行が時に行われる。 タイル張りの広い広場の数か所に、タイル床が少し窪んでいるところがある。斬首後に血を洗い流すためにそうなっているという。 公開処刑を見る機会はあったものの、一度も処刑現場に身を置いて見学したことはない。

  ところで、海洋辞典づくりはどうなったのであろうか。パラグアイ赴任時ではデスクトップパソコンを仰々しく、また止む無くも アナカン荷物として持参したが、サウジ赴任時ではノートパソコンの性能が向上していたので、それを 外付けハードディスク(MO方式)とともに持参した。日常的にはインターネット接続やネットサーフィン時には時折技術的な トラブルに悩まされたが、何とか順調にファイルのアップロードができ、辞典のアップデート作業は進展して、その点ストレスは ほとんどなかった。

  毎日帰宅後仕事モードの頭を切り換えて無心に、平均して2~30分ほどでも海語の語彙拾いやパソコン入力に向き合い続けた。その日課こそが、気分転換を図る秘策であり、 ストレスの解消、もしくは一服の清涼剤・精神安定剤となった。つまり、帰宅後の規則的ルーティンワークによって、仕事のことや その他の雑念を頭の片隅にしまい込み、脳内をリセットすることに繋がった。毎日短時間でも「新鮮なエア」を脳内に 注入するようなものであった。自身の集中力がまだどの程度体内に保持できているのかを知るバロメーターにもなった。 30分でも向き合い、集中し、全てを忘れて没頭すれば、気が紛れて、辞典づくりは「昨日よりも今日、今日よりも明日」と半歩でも 前に進み、心も満足し、夜ばっちりと熟睡できそうであった。ところで、辞典づくりは勿論、夕食のことで、帰宅後まず行なうルーティンがあった。それが、コンパウンド内のジム通いであった。

  運動不足解消のため、帰宅後にコンパウンド内の屋外を早足で散歩することを始めたことがあったが、長くは続かなかった。 陽が落ちているとはいえ、熱波熱風が襲いかかり、時に砂嵐の影響で空はどんよりし空気は濁り重苦しいものであり、快適な ウォーキングなどとてもできないことが多かった。いつしか、エアーコンディションの効いたジムで、トレッドミル(ウオーキング マシーン)の上を歩くようになっていた。ミルの「ベルトコンベアー」の角度やスピードを変えて、負荷を自由に調節できるので、 その流れに抗して汗を流すことにはまってしまった。それに、BBCやCNNなどの海外衛星TV番組を見ながらの運動であったので、 ほとんど苦にならなかった。英語のリスニングにも役立った。時間帯によってはNHK海外衛星放送を見ることができた。 その後、夕食を作り衛星ニュース番組をみながら食事を終えれば、一服の清涼剤か「デザート」を食するがごとく、辞典づくりに 半時間ほど集中した。もちろん、読書や、仲間との夕食会、パーティーなどバリエーションはいろいろあった。

  ところがである、それでも、何カ月も時が経ると日頃のストレスが徐々に溜まりに溜まって行くのが分かった。 ビールやワイン飲みながらの談笑はなく、最新の映画やコンサートなどの娯楽はない。砂漠へのピクニック、花摘み、ダイヤモンド 拾い、砂漠でのオフロードドライブなど楽しむことはいろいろあった。だが、それだけでは何となく物足りなかった。 潤いもなかった。だから、数日国内の旅にも出た。紺碧の海に臨むジェッダは素晴らしかった。 JICAマンも尻込みしそうなサウジでの生活環境であり、ODA卒業も間近な「金持ち国サウジ」に東京本部から技術協力プロジェクト の発掘や形成のための調査団の来訪も期待できそうもなかった。 なんだかんだで、異文化、異空間・異環境でストレスが徐々に溜り、「酸欠状態」からの解放が必要であった。

  かくして、映画鑑賞などの娯楽的飢餓状態だけでなく、私にとっても「アルコールの燃料切れ」もまた時間を追うごとに 深刻になりつつあった。飛行機で2時間ほどの距離にある隣国・ア首連のドバイに行くことにした。 コスモポリタンシティ・ドバイで酸素不足を補い、燃料切れを補充し、ついでに最新作の映画を楽しむことにした。 リヤド滞在が長期になると、何故か酸欠状態になる間隔が徐々に短くなって行った。そこで、かなりの頻度でドバイに出掛けるように なったが、ある時に思いがけないグッド・アイデアを閃くことになった。

  酸欠状態や燃料切れを解消すると言う受動的・消極的なドバイへの脱出よりも、能動的・積極的にその他の周辺諸国へ出掛けようと思いついた。 同じ国外への旅であってももっと楽しさをもてるやり方を考えた。未だ見ぬ周辺諸国を訪ねるチャンスにもなるはずである。 そこで、リヤドを中心にサウジ半島を時計回りに訪ね、いろいろな海や港と船風景などに接し、これまでとは別の視点からの美しい 被写体を探し求めよう考えた。特に周辺諸国でのダウ船のある風景や造船所、その他博物館を訪ね歩き、海や船の関連展示物が あれば切り撮ろうと思いついた。調べて見ればア首連のシャルジャー首長国には「海洋博物館」があることが分かった。オマーン にも「自然史博物館」や海軍関連の博物館もありそうであった。 そう考えると、まるで「自由の翼」を得たように心が軽くなるのを感じた。

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    第13章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任
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      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア
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      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/ピクニックと砂漠での戯れ
      第4節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける
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