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    第13章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任
    第2節 サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活


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     第13章・目次
      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア
      第2節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/砂漠へのピクニック
      第4節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける
      第5節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その1) /ドバイ、バーレーン、カタール
      第6節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その2) /ドバイ(再)、オマーンなど


  初めて訪れる国に到着し足を踏み入れる場合にはいつものこととして、好奇心が沸き立ち、アドレナリンが溢れ、意気 揚々になる。サウジアラビアへの初めての降り立ちについてもそうなるずであった。だが、サウジの首都リヤドの空港に到着 した時は全くそうではなかった。前任者のJICA事務所長を直に巻き込んだ自爆テロ事件の余韻が、リヤドに暮らす日本人らの 間にまだまだ残っている時期であった。欧米人も日本人も目立たないようにしながら、「異邦人」として身を潜ませるように 暮らしていることはそれなりに意識していた。だから、それなりの緊張感をもって空港に降り立った。だとしても、空港のパス ポートコントロール周辺の雰囲気は、これまで訪れた国々のいずれの空港とも、その雰囲気は全く異なっていた。異常なほどの緊張感 のある空気が充満していることを感知せざるをえなかった。まさに超異次元の国にやって来たことを感じ取り、全身鳥肌が 立ったことを今でも思い出す。

  アラビア半島中央部の大半を占めているのがネジド砂漠であるが、そのほぼ真ん中にある小さなオアシスに築かれた都市が リヤドである。リヤドから東西500~1000km、南北1000~1200kmにわたり、砂漠と土漠の世界が広がる。リヤド周辺の地下には、 いわゆる「化石水」が眠っていて、国民はそれを利用して生命を維持してきた。自然の降雨によって補充されることはなく、 汲み上げ利用され尽くせば枯渇すると言われている。天水が砂漠下に浸み込んで自然に補充されることはないからである。 半島西方の紅海に沿って1500km長のアシール大山脈は別格だが、平地の土砂漠地では緑というものがほとんどない。 「ディライーヤ」という旧リヤドの街は小さなオアシスに築かれた。今でも、その周辺はわずかな椰子の樹木によって覆われる。 諸外国の外交公館が集積する特別地区では人工植樹がなされ緑が多い。それらは例外的なものである。他に緑があっても、金持ちの 住居の敷地内に少しあるくらいで、樹木や芝生を維持するためには貴重な水を撒き続けなければならず、維持費がかさむ。リヤド での贅沢とみて取れるのは、塀で囲まれた邸宅内に芝生や樹木をふんだんに植え、緑のカーペットに癒されることであろう。

  リヤドの町は、東京の山手線のように環状に敷設されたリング・ロードという、片側5,6車線もある幹線道路に取り 囲まれている。その内側では、碁盤の目のようにきちんと区画整理がなされ整然としている。市街地中央のビジネス街には近代的な 高層オフィスビル、ホテル、ショッピングセンターなどが建ち並んでいる。ビジネス中心街の周囲には、2,3階建ての低層の住宅などが広がる。 それらの住宅のほとんどは土砂漠と同じ色彩を帯びる。飛行機や高層ビルからリヤドの町を見下ろすと、全てがそんな土色に 染まっている。その向こうに広がるのはまさに土漠や砂漠である。少しでも風があると、砂塵が上空に舞い上がり、地平線は霞んで 見える。リヤドの町全体とその先に広がる土砂漠とがすべて同じ土色でシンクロナイズされる。最初のうちはため息しか出てこないような 心晴れない風景ではある。だが、そのうち見慣れて来れば、驚くに当たらない普通の無感動的風景に見えてくる。 砂嵐にでもなれば、陸も空もすべて砂塵で覆い尽くされる。砂嵐の来襲がなくとも、普段から目に見えない細かい砂塵が玄関ドアの 隙間や風呂場の換気扇などから住居内に忍びこむ。何日も気にも留めないでいると、テーブル上で文字を書くことができる。

  さて、着任後のリヤドでの住処は決まっていた。前任の所長がテロリスト自爆事件で大損壊を受けた住居はすっかり修復されていた。 その社宅を引き継ぎ我が住まいとした。社宅は「コンパウンド」と呼ばれる、いわば外国人専用の特別居住区内にあった。 一般のサウジ人が暮らす普通の一般住宅地区とは全く別世界がそこにあった。 住人のほとんどは非イスラム系の外国人であった。住居区内にはサウジの特異な宗教・文化的風習や風俗を持ち込まないように との特別のお触れが発出されていた。サウジ人の居住はオフリミットということっでもあった。

  居住区内では、女性が頭からつま先まですっぽりと覆うマントのような伝統的民族衣装の「アバヤ」もご法度であった。 聞くところによると、コンパウンドのオーナーはロイヤルファミリーに属する人たちだという。甲子園球場より数倍は広い敷地面積を占める居住区は、 その周囲を高い塀に囲まれ、その中に一戸建て住宅や二階建てのタウンハウスなど数百軒が配されている。非イスラム系外国人専用の コミュニティがそこに形成されている。そんなコンパウンドがリヤドを大きく外環するリング・ロードの内外に幾つも点在していた。

  敷地内には、小さいながらもスーパーマーケット、クリーニングショップ、結婚披露宴にも最適なレストラン、ビデオレンタル ショップ、旅行代理店、ドラッグストア、理髪店、美容室などの他、トレーニング用の大きなジム、室内・室外の25メートルプール や子供用プール、室内・室外のテニスコート、スカッシュ場、ボーリング場、卓球・ビリヤード場などのスポーツ・娯楽施設が揃っていた。 コンパウンドによっては、ハーフ・ゴルフ場、野球グラウンドなども完備されている。また、4~50人が映画鑑賞できる ミニ・ホールもあった。アマチュアの楽器演奏家がプールサイドのテラスでボランティア活動としてコンサートなども開催できた。 まさに外界のサウジ社会とは別世界がそこにあった。

  だがしかし、ビール、ウイスキー、ワインなどのアルコール類はコンパウンド外ではもちろん、内でも、また外でも一切買い求めることはできない。 住居内では、BBCやCNNなどの欧米メディアのニュース番組や、NHKの時間限定の衛星放送を楽しむこともできた。サウジの一般社会から 隔絶された塀の中で、日本や欧米スタイルでの生活を送ることができた。赴任してみるまでは想像もしていなかったような、 「異邦人」のための別世界がそこにあった。塀の外へ一歩踏み出せば、そこは完全にサウジの異次元の世界である。 ショッピングセンターなどの人の多く集まる場所に足を一歩踏み入れれば、偶発的なテロ事件に巻き込まれないか、身構えねばな らならず、いつも緊張感がつきまとった。

  時は遡るが、実はパラグアイに赴任していた2001年3月11日に、ニューヨーク・マンハッタンで世界を震撼させた大事件が発生した。 サウジ人オサマ・ビン・ラディンが率いるアルカイーダ・グループによる航空機乗っ取りによる同時多発航空機自爆テロ事件である。 マンハッタン南端にある世界貿易センターの双子ビルに、乗っ取られた航空機が激突し、2本の超高層ビルは崩れ落ちた。 世界中の人々はこのテロに衝撃を受けた。自爆テロ行為におよんだテロリストの半数以上がサウジ人であった。そのNYテロ事件 の延長線上にあるテロ事件の一つがこのリヤドで発生した。その当時サウジはテロとは無縁であったが、国内に飛び火した様相であった。 その最初の一つが、NY同時多発テロ事件の数年後に、首都リヤド市内で発生し、私の前任者に襲いかかった。サウジに赴任する 一年ほど前のことである。

  JICAサウジ事務所長はリヤドのコンパウンドに社宅を借り上げ暮らしていた。そして、彼はそのコンパウンドの社宅にいる時に 無差別自爆テロに襲われた。テロリストは、車両に大量の爆弾を搭載して、当時無警戒無防備であった正面ゲートを突破し、百メー トルほど進んだところで、爆破させた。社宅(タウンハウス)の玄関近くで大爆発した。住宅はめちゃくちゃに破壊された。吹き飛 ばされたドアが彼の眼前を吹き飛び去って行ったという。それが直撃していれば、即死していたに違いないという。彼は顔面などを大きく 負傷し九死に一生を得た。負傷して病院に担ぎ込まれた所長はその日の内にCNNなどのワールドニュースで世界中に放映されたという。 その1年ほど後に、私は彼の後任者となってサウジに赴任し、JICA入団同期であった彼と交代した。そして、私は、元通りに全面 修復された社宅に転がり込んだ。

  当然のことながら、テロ事件以来コンパウンドは厳重な警備体制の下に置かれるようになった。元々、広大な敷地は四方ぐるり と堅牢な高い塀に囲まれ、外観上まるで刑務所のごときであった。塀の上部に有刺鉄線が敷かれ、兵士らが定期的に周囲を巡回し をしていた。また、正門前にはバリケードが築かれ国軍の兵士が装甲車をバリケードのように配備し、24時間厳重にガードするようになっていた。 コンパウンドはいわゆるロイヤルファミリーが開発・運営に関わっていることがほとんどである。従って以後、サウジ東部の大都市ジェッダ に勤務する「自動車整備研修所プロジェクト(SJAHI)」の専門家が居住するコンパウンドはもちろんのこと、いずれのコンパウンドも 同様に厳重な警備体制となっていた。
* コンパウンドだけでなく、内務省、警察本部、高級ホテル、高層ビルなど、市内の主要な施設ではいずれも、車両による自爆テロ 防御のためにコンクリートブロックなどをゲートのずっと手前の公道からそれらの玄関先まで並べていた。

  ところで、諸国の大使館はリヤド市内の特別区域に一括集約され、その周囲は厳重に警備され、区域へ通じるアクセス道路 では兵士によって検問・ガードされていた。JICA事務所はかつてはその地区内の日本大使館にて執務していたが、何時の頃からか事務所は数km 離れた住宅街に所在する普通の民間住宅(一軒家)を借り上げ、そこに移転していた。コンパウンドからはリング・ロード(外環 高速道路)を通って20分ほどで着く。そして、例の自爆テロ事件前までは、そこに「日本大使館経済部」の標札を掲げていた。 だが、その後は取り外していた。事務所がテロの標的にならないためである。

  さて、JICA事務所用に一般住宅を借り上げていたが、テロ対策の一環として、当該住宅1階の窓全てについて下方半分をコン クリートで覆い固めた。テロリストが自動車で門を突き破って敷地内へ突入し、玄関先で自爆した場合などに備えて、少しでも防御しようというものであった。それ故に、 1階のダイニングルームについては会議室として時々必要に応じて使用し、リビングルームは太陽光が不足し電灯を点けても薄暗くて 来客者をもてなすには不向な状態であった。スタッフ全員が2階に退避したような形となり、2階4室のみで執務していた。

  自爆テロ事件以降一年以上にわたり、日本人コミュニティは、目立った集会や活動を自粛していた。即ち、日本大使館や民間企業 グループが主催しての日本人関係者らが大勢集まる年始の集いなどの目立った文化行事や、その他スポーツ大会などをずっと自粛していた。また、 商社マンやJICA専門家などの家族も、日常的往来を控えめにしていた。人の出入りが多いショッピングモールやホテル、 内務省・警察署・軍事施設などのある場所には近づかないように日頃から注意していた。

  平穏な日々が続き安堵の心が芽生える頃、頻度にすれば数ヶ月に1度くらいは、リヤド市中や地方都市でテロ事件が発生し、緩んでいた警戒心 が呼び戻された。特に半年ごとに社会を衝撃をもたらす大規模なテロ事件が発生し、そのたびに身構えた。例えば、リヤド市内の 内務省や治安当局本部などへのテロリストグループの襲撃、東部ペルシャ湾岸都市ダンマンなどのアラムコ(サウジ最大の国営石油 会社)の石油コンビナートへのテロ、ジェッダの米国総領事館への襲撃など、かなり大きなテロ襲撃事件が発生していた。

  テロ襲撃発生区域へ知らずして不用意に立ち入ったり、警察・軍とテロリストとの銃撃戦に巻き込まれないよう、日頃から 緊張感をもって警戒をしていた。発生の報が入れば、携帯電話網を使ってすぐ安否確認したり、テロ発生区域に関する情報の連絡、 安全な帰宅ルートの指示、現場に近づかない旨の注意喚起など、手分けして連絡した。また、大使館との定期的な業務打ち合わせの中で、 治安情勢についても情報を交換した。事務所では治安対策の一環として、現役の警察官と内々に特別契約を交わし、定期的に会合 をもち、治安対策やテロの取締り状況、市内危険地域の指定状況、潜在的テロリストらの動向、警察によるアジトの手入れ 情報などを入手したりして、警戒や注意喚起を怠らなかった。

  リヤド市街地の一般住宅地区の一角にある大き目のスーパーマーケットに、毎週末に気晴らしを兼ねて食料品の買い出しに よく出かけた。アルコールと豚肉以外は基本的に何でも手に入った。バドワイザーやハイネッケンのノンアルコール缶ビールも 出回るようになったのには驚いた。当時日本では「ノンアル」ビールは全く世になかった時代である。 コンパウンド内のミニスーパーでちょっとした日用品は入手できたが、週末にこれからの一週間分の生鮮野菜・果物などの食料品を まとめ買いするには、何でもそろう大型スーパーマーケットに出向くのが最も効率的であり、何より気分転換につながった。 初めの頃は物珍しさもあって、いろいろな商品を手に取って品定めをしていた。だが、生活に慣れ買いたい商品が定まってくると、 効率優先の買い物スタイルに変わり行くのは止む得なかった。新鮮な野菜・果物やいつものパンや卵、嗜好品などの必需品をさっさと 買い込むだけで、いかにも省力モードの買い出しに変遷するようになってしまった。

  余談だが、赴任して日がまだ浅い頃は、車で事務所から帰宅途中に街をぐるぐると走り回り、目をきょろきょろさせながら アルコールを売るショップや何かしらのバーを探し回した。リヤドやジェッダなどの大都会の目抜き通り沿いには、レストランや 貴金属・流行のファッションを追うアパレル専門店などが灯すネオンで、派手過ぎるほど、きんきらきんに輝いていた。 リヤドの夜の町はネオンの輝きだけからいえば、新宿の歌舞伎町にも見劣りしないくらいである。丹念に探せばどこかで、 アルコールにありつけるサウジ風かアラビア風居酒屋の一軒くらいはあろうと期待して、そんな目抜き通り界隈をゆっくりと 走らせたことが幾度かあった。勿論はるはずもないことは分かってはいたが、路地の奥に隠れているバーの一軒でも見つけて、 同僚らに自慢してみたいとの思いであり、その「冒険心」は尋常ではなかった。何度かそんなことを繰り返しているうちに 諦めがついたというよりは、自分自身でもさすがにバカバカしくなって二度と繰り返さなくなった。

  サウジでは、勿論ワイン、ウイスキー、ビールなどのアルコールは一切ご法度であった。覚悟を決めて、スーパーで濃度100%の 葡萄ジュースを調達した。そして、新宿の東急ハンズで調達しておいた酵母菌をそこに仕込んで、ワインを自家製造する他なかった。 だがしかし、初回の出来が悪かったせいもあり、またアルコールにそんなに飢えていた訳でもなかったので、その後は作る気力を 失くしてしまった。リスクを犯して密造してまで飲みたいという訳でもなく、あれば有り難く頂くというほどであった。アルコール は大好きな部類に入る人種であったし、大抵は度を越すまで飲んでしまう方であったが、今回の赴任でアルコールの中毒患者 ではないことを自覚した。アルコールがなくても十分耐えられることが分かって、内心ほっと していた。だが、ある時期に、日頃からノンアルコール缶一本を毎夜晩酌に空けていることに気付いた。

  葡萄そのものを買い込み搾汁してもよいが、実は笑えないエピソードがあり、そうはしなかった。ある人物の話として、 大量の生ブドウを搾った後の粕の処分方法に困ってしまい、それを水洗トイレで流したところ、下水管が詰まってしまい、大ごと になりワインの密造がバレテしまったという、ウソのような本当の、笑うに笑えない話を聞いたことがあった。ワインづくりの秘策は いろいろあることはあるが、完全に一人で極秘裏に遣り遂げられるか、リスクは常につきまとう。特にコンパウンドの従業員や メードなどの外部の人たちに見つかると、当局に密告されるかもしれず、いろいろ厄介な ことになりかねない。それをネタにゆすりたかりもありえるかも知れなかった。製造した回数は多くはなかった。幸いにも、 アルコールがなくて毎日イライラすることなどめったになく、またビールの夢を見るような中毒的症状からは無縁であった。 時にスーパーでノンアルコールビールを買い、飲んだ気分になれたし、それで気休めにすることができた。喉を誤魔化すために きんきんに冷やし、さらに氷をぶち込んだ。大抵は冷やし過ぎて氷となったビールを少しずつ気長に回答しながら飲むことが 多かった。

  ある時アルコールが大好きな短期専門家A氏がリヤドに赴任してきた。赴任して1,2週間して、A氏は周りの専門家や所員に「本当に アルコールは手に入らないのか」と真剣に訊いて回っているという。もちろん、誰もが「ない」と答えて、さらりとかわしていた。その後、 アル中の症状が現われてきたらしく、何と大使館の書記官に何とかならないか直に電話を掛け、「サウジでは本当にアル コールが手に入らないのか」と詰め寄られたという。書記官は「アルコールを手に入る手立てはどこにもない」と答えて おいたと、後日耳打ちされた。

  同人はアル中の症状で相当困っているようであった。皆から大いにひんしゅくを買ったが、笑うに笑えない 話であり、まさに苦笑いでは済まされないことであった。気持ちを察し同情はしたが、どうすることもできなかった。 本人は気が狂いそうであったに違いないが、我慢してもらう他なかった。誰に訊いてもアルコールにあり付くことができず、最後は 観念したらしいが、本人にとってはサウジ滞在中は辛い断酒期間であったに違いない。イライラが募り、仕事どころではなくなると 心配させられたが、そこまでは至らず安堵した。アルコール中毒者でなくとも、毎晩適度に晩酌する楽しみをもつ多くの平均的 日本人男性にとっては、アルコール・ゼロの世界は相当つらいものがある。専門家の人選においては、アル中で業務上のリスクはないか 確かめ、宣誓書を提出してもらうことも一策かもしれない。

  余談であるが、意外なことにサウジではタバコの喫煙者を一度も見かけることはなかった。公共施設内では基本的に禁煙であった。私は 30年以上のヘビースモーカーであったが、赴任の半年ほど前にタバコを止める意を固め実際に止めた。中南米などへの長距離 フライトにおいては機内禁煙が辛くなっていた。酷い時は、マイアミ空港でトランジットした時のこと、トランジット・エリア から一旦パスポートコントロール圏外に出て喫煙したこともあった。そこまでして喫煙することが煩わしくなり、情けなくなり、また 肺癌など重い病気に罹患しないうちにそろそろ完全に禁煙すべきことを決心した。医薬品の禁煙パッチを処方してもらい、 それを毎日腕に貼りニコチンを体内に吸収させ、ニコチン中毒症状を徐々に緩和・抑制させることができた。 お陰で禁煙に成功していたので、サウジに赴任しても、喫煙のため一時間ごとに執務室を離れ、熱風が吹く外界に身を置く必要も なかった。また、陰口をたたかれることもなく、快適に執務に専念することができた。それでも6年ほど後のこと、心臓循環器 疾患で九死に一生を得ることになってしまった。あのまま喫煙を続けていたとすれば、最悪の結末を迎え「自然淘汰」されていた のはほぼ間違いなかったであろう。

     さて、サウジでの娯楽、気晴らしの場は「砂漠」にありと、赴任中何度も聞かされた。思い付きもしなかったが、長く生活して みて娯楽の場所が何と砂漠にあることを次第に学び理解するようになった。「憩いは砂漠にあり」であった。リヤドの周囲は全て砂漠か 土漠である。リヤドを取り巻くリング・ロードから一歩外に出れば、砂漠しかなかった。冬場の時期は別にして、昼間の戸外での気温 は40~50度に達する危険な世界である。サウジ市民らは太陽が地平線に沈む頃ようやく灼熱地獄から解放されて、屋内から這い出して 町に繰り出し、食事やショッピングを楽しむ。勿論、街のネオンに誘われて、ネオン街をいくら探索してみても、バーや居酒屋など どこにも存在しない。映画館やコンサートホールも、カラオケボックス、ゲームセンターなどエネルギーを燃やせる場所 は本当にない。週末一歩自宅を出ても、食事や談笑、ショッピングする以外、屋外でどんな過ごし方があるのか、考え付かない。 友人や同僚らに誘われるままに、「ピクニック」と称して砂漠へ出掛けるようになって、屋外での最高の気晴らしは砂漠に あることが少しずつ分かって来た。

  リヤドのリングロードから外側に少し外れたところにオールド・ディライーヤという史跡がある。昔々サウド家が支配していた 頃の旧リヤドの町である。小さなオアシスの町であった。だが今では町は放棄され、廃墟同然であるが、文化史跡として遺されている。 雨がほとんど降らず乾燥しているので、日干し煉瓦でできた住宅や公共的施設が原形をとどめている。

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    第13章 超異文化の「砂漠と石油」の国サウジアラビアへの赴任
    第2節 サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活


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     第13章・目次
      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア
      第2節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/砂漠へのピクニック
      第4節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける
      第5節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その1) /ドバイ、バーレーン、カタール
      第6節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その2) /ドバイ(再)、オマーンなど