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    第13章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第5節: 自作ホームページに鳥肌が立ち感涙する


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       第13章・目次
      第1節: 食糧増産援助(2KR)は優れもの
      第2節: 調査団員の人繰りに明け暮れる
      第3節: インターネットの世界を熱く語る「M」さんとの出会い
      第4節: ネットサーフィンと海洋語彙集づくりの輝く未来
      第5節: 自作ホームページに鳥肌が立ち感涙する



  遠い先のことではあったが、海の語彙集をアナログの書籍にして世に問うことなど毛頭考えてもいなかった。その理由は単純であった。 アルゼンチン赴任中に海に関する多言語の語彙集づくりを閃き語彙拾いを始めてから10年ほど経っていたが、内容の質的充実性からして 自信をもって世に出せるようなものではなかった。だが、将来 技術革新が飛躍的に進み、いつの日か何がしかの「デジタル版語彙集」を世に送り出せるのではないかと、淡い期待をもっていた。 例えばフロッピーディスクなどのデジタル記録媒体での語彙集の刊行も考えられた。また、パソコンの普及と情報のデジタル 化が爆発的に進んでいた1980年代以降にあっては、デジタル情報が大型コンピューターやパソコン間で自在にやり取りされる のではないかと、心のどこかで待ちわびていた。

  アルゼンチン時代から語彙拾いを始め、当時は自ずと西和・和西語主体の海語データの蓄積であった。だが、語彙集づくりの具体的な 達成目標などはなく、ましてや、その先どういう形で完成させるのか全く見通しのないまま、語彙拾いとパソコンによるデータ蓄積 を続けていた。もちろん、語彙集づくりに何がしかの一区切りをつけたかった。だがしかし、それもなしえないまま漁業学校プロジェクト 勤務を終えアルゼンチンから帰国してしまった。

  帰国後語彙集づくりに終止符を打つ訳にはいかなかった。止めるという選択肢だけはなかった。止めることは続けることよりも ずっと簡単なことであった。要は筆を置くだけの行為で済むことであった。だが、そこで止めれば、今までの全ての努力は無駄に なり無に帰すだけであった。何の成果も生まなかったことに等しく、その進化はそこで終わる。過去の努力の結晶はパソコン内の 記憶装置にしまい込まれ、事実上「死蔵」されるだけであった。

  翻って、語彙データがパソコンにて日々更新され蓄積されると同時に、それが世界に発信されシェア され有用となるのであれば、語彙集づくりは俄然それまでとは全く違う社会的意義をもつに違いないとの思いであった。語彙集が アナログ図書として刊行されるとした場合、コンテンツの更新は将来その増補版が刊行されるまでなされないことになろう。 だが、デジタルの語彙データが日々更新されるというのであれば、語彙集は毎日毎時毎分新しく生まれ変わり、関心ある人々とシェアされ続けることになる。 かつてそんなことを思い描くことなどなかったが、インターネット時代の到来を確信してからは、デジタル海洋語彙集の意義について はっきりと悟るに至った。
(備考)1995年頃にマイクロソフトがパソコンの基本OSソフトである「ウインドウズ95」を発売したが、その頃をもって「インターネット 元年」とみなされていたようである。

  ネットサーフィンのデモンストレーション体験のお陰で、既にインターネット時代の真っ只中にいることをはっきりと認識する ことができた。そして、そのネットを通して「オンライン海洋語彙集」を世に送り出すことができるチャンスが目の前に 到来していることをはっきりと悟った。デジタル情報通信の前途洋々たる世界がすぐ目の前に広がり、私個人としても計り 知れない恩恵にあやかれると期待できた。アルゼンチン時代(1984~1987年)から、語彙拾いは遠い道のりを一歩一歩地道にゆっくり 歩むが如くであったが、ネット世界の到来にあって初めて遠くに明るい光を見た。今後進むべき方向性や目標とすべきところを見定 めることができ、その喜びは格別であった。語彙集づくりの明るい未来をそこに見た。

  ネットサーフィングのデモ体験に衝撃的感動を受け、間髪を入れず海洋語彙集のネット上での発信を決意した私は、 すぐさまホームページ作成法を独習することにした。手始めに5、6冊の基本書を買い求め、通勤途上や週末に独学すべく取り組んだ。 特に週末には基本書と真剣に向き合い、ホームページの基本構造・成り立ちやその作り方の基本、「タグ」という命令言語の基礎的な 使い方、プログラミングの諸事例などを紐解いた。プログラミングの独学が進み理解が増すにつれ、ますますオンライン語彙集づくりにのめり込んで行った。

  ところで、アルゼンチン時代には主に西和・和西の海洋語彙集づくりを手掛けたが、その時に使用したパソコンはOKI電気製のデスク トップ型の「IF800」というモデルであった。そして、当時用いたのは、日本語文書作成ソフトである「ワード」であった。デスクトップ型パソコン本体には、 フロッピーディスクを挿入するスロットが2つあった。左のそれに「ワード」のフロッピーを、右のそれにはデータ記録用フロッピー を差し込んだ。すると、モーターがゆっくりとうなり音を上げ高速回転を始める。安定した回転数に達しその音も落ち着いたところで、 おもむろに「ワード」を起動させ操作を始めた。「ワード」で作成された文書ファイル名の末尾には「.doc」という拡張子が付いていた。 語彙集のデータはその後2年間にわたり増え続けフロッピーは何十枚にものぼった。

  帰国後は、IBMのデスクトップ型パソコンに乗り換え語彙集づくりを続けた。特に集中して取り組んだのは英和・和英の語彙集 であった。当時IBMのパソコンはブランド品として世界的に広く普及し、特に海外ではも多くの修理保守サービスポイントを有して いたので、その優位性を考慮しての購入であった。

  ホームページを閲覧するためのソフトウェアである「ブラウザー」としては、ネット元年当時最も一般的であった 「ネットスケープ」を利用した。ブラウザーを立ち上げ閲覧できるファイルはその末尾に「.html」という拡張子をもって いた。拡張子「.html」をもつファイルのみがブラウザーによってホームページとして認識され画面に表示された。 ホームページづくりを始めて、そのことを初めて学んだ。そして、最も驚かされたのは、ワードで作成され拡張子「.doc」が付けられた 日本語文書ファイルを拡張子「.html」の付くファイルへ直接には変換できないということであった。

  アルゼンチンでOKI製の「IF800モデル」で作成した「.doc」ファイルを先ず「.txt」ファイルに変換した後でなければ、「.html」 ファイルへ変換することができなかった。そんな基本的なことすら知らなかったので大慌てする破目に陥った。その変換には、 日本語文書作成ソフト「ワード」が勿論必要であったが、何よりもアルゼンチンで使っていた同型のOKI製パソコンが必要であり、それなくしては データを「.txt」ファイルに変換することができないことを知り、ショックを受けた。OKIパソコンは既に廃棄処分してしまい、IBMパソコンに乗り換えていた。 将来の備えとしてOKIパソコンをもって「.doc」ファイルを「.txt」化しておくことなど、当時そんな予備知識を全く持ち合わせていなかった。 知っていれば「.doc」ファイルの作成と並行的に「txt」化しておいたであろうが、そんな情報技術には無防備であった。
(備考)拡張子「.txt」をもつファイルへ変換さえしておけば、その文書ファイルはいずれのパソコンメーカーの機種であっても 汎用的に利用可能となる。

  急いでOKIのサービスセンターにコンタクトし、「IF800型パソコン」を購入したいと申し出た。IF800機種は世に出回って10年以上 が経つ機種であった。応対した年配の社員は顧客のそんな事情を知って真剣に探してくれた。結果、OKIが自社開発した初期の機種 である「IF800 モデル」は都内のOKIショールームに一台だけ展示されていて、それがOKIでは唯一残存するものだという。 いわば「OKI電気博物館」の展示コーナーに年代ものとして置かれていたようなものであった。それでよければ譲ってもよいとの 返答であった。廃棄処分が間近に迫っていたらしいその1台を譲り受けるために、即刻ショールームに駆け込み、運よく手に入れる ことができた。間一髪のところであり、天が味方してくれた。まだ人生の幸運を使い果たしてはいなかったと安堵した。それがなければ、 膨大なデータを再入力する破目になり、それをなし終えるだけでも1、2年は要することになっていたはずである。

  ようやく入手したOKI製パソコンで、「.doc」ファイルを「.txt」ファイルへ変換すべく、JICAから帰宅後の夜なべ仕事に、 また週末などに、少しずつ取り組んだ。4、50枚のフロッピー内の「.doc」データの「.txt」化は、いわば機械的な作業であり時間は さほど要しないものと見込んでいた。だが、事はそう簡単ではなかった。「.doc」ファイルから機械的に「.txt」ファイルへと変換 できても、その後後者のファイルに各見出し語・対訳などの末尾に改行のためのタグである<br>や<p>の 命令符合を最少限書き入れる必要があった。先ずは「.txt」ファイルのデータに改行のためのタグを書き入れ、ホームページ化 (「.html」ファイルへの変換)の第一ステップを踏むことにした。眼前には「海語のホームページ」づくりという具体的な成果が 馬のニンジンの如くぶら下がっていたので、強い動機づけの下で根気強く取り組むことができた。

  順次改行のためのタグを書き入れ「.html」形式ファイルへと変換し、頻繁にそれをダブルクリックして表示具合を確かめた。 ブラウザーで閲覧すると、まさにホームページ画面を見るがごとくそこそこ綺麗に表示された。ページ画面にしばしば感心しながら、 作業続行の大きな励みとした。ブラウザーではタグに応じて、なるほどこのように表示されるのかと感心の連続であった。 タグ命令符合の半角の一文字や一つのスペースでも間違うと、てき面にその表示は見るからに不自然なものとなる。正常なタグの 使い方でない場合、画面上でそれをすぐに読み取れた。

  もう少し作業を具体的に述べることとしたい。英和語彙集の「.doc」ファイルを「.txt」ファイルに変換した後、基本書に紹介される 事例などに倣って、その「.txt」ファイルの最初の行にタグ命令の<html>、最後の行に</html>(タグは全て半角)を書き入れる。 二つのタグの間に挟まれたそれらの全ての文言や文章がホームページ作成のためのものであることを示す。次にタグ命令<title>の すぐ後にファイル名を書き入れ</title>でそれを閉じる。</html>や</title>の「/」は当該命令の機能を終了することを 意味する。次いで<body>を書き入れる。これ以降の記載内容がホームページの本文であることを示す。本文の末尾に</body> をもって当該本文を閉じることになる。ここでの本文とは、何百何千と言う見出し語(英語)と対訳(日本語)、及び語釈などの全ての文章の ことである。その「.txt」文書ファイル名の末尾の「.txt」に換えて、拡張子「.html」を付け加え、「名付けて保存」することで 「.html」文書ファイルへと変換される。その後ブラウザーで閲覧すると、見出し語や対訳などが何の改行もされないまま、全てが ベタ打ち状態で表示される。

  これがホームページ画面として最初に見たベタ打ち状態の英和語彙集であった。そこで、当該「.html」文書ファイルに改行を命令する タグ<br>や<p>を書き入れ、ファイルを「上書き保存」し、ブラウザーで再度閲覧すると、少しは語彙集らしく見出し語と その対訳などが見やすく表示された。さらに、基本書を頼りに、見出し語の英単語をブロック体にしたり、魚の学名を斜体にしたり、文字 (フォント)を大きくしたり色を付けたり、いろいろな線を行間に差し入れたりして、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら、 先ずは20ほどのシンプルなタグ命令符合を使ってページの体裁を整えて行った。そのページは何の飾り気もないシンプルなものではあるが、 辞書らしくなった。
(備考)「.txt」文書ファイルを「.html」のそれに変換し、後者に新規入力や修正など施した場合には、当該「.html」ファイルを 完全に閉じるに先だって必ず「.txt」文書ファイルへ変換した上で「上書き保存」しておく必要がある。何故ならば、後に作業を再開 する場合は、必ず「txt.」文書ファイルを立ち上げて作業することになるからである。「.html」ファイルから立ち上げたとしても、 当然のことだが、ブラウザーでホームページを起動するだけになってしまう。それではデータの更新などの作業は続行しようにもできない。 入力作業は先ずもって「.txt」文書ファイル上でで行うのが基本である。

  「.txt」ファイルに必要なタグ命令符合を少しずつ丁寧に書き加えつつ「.html」化した。そして、それを繰り返しながら、 英和・和英の全ての「.doc」ファイルをホームページ化する(即ち、「.html」ファイルに変換する)ことに漕ぎ着けた。全てやり終えるまで一年近くの期間を要した。また、利便性を 高めるため、ページの初めにA~Zの目次を作り、その目次から辞書本体のA~Zの各ページにジャンプ(リンク)するようにした。とはいえ、実際にホームページをサーバーにアップロードして公開できるまでは まだまだ時間を要した。先ずは一通り英和・和英語彙集をホームページ化することができたが、誤字脱字などの表記上の 問題はないか、あるいは内容上の誤りはないか、一つ一つ点検する必要があり、機械的に短期間でやり終えられるものではなかった。 ホームページをアップロードするまでの道のりはまだまだ遠かった。

  A~Zまでの語彙の全データを一つの「.html」文書ファイルに収めようとすると、そのファイル容量は大きくなり、ブラウザーでの表示スピードがどんどん 遅くなる。そこで、語彙集をABC別に細切れに分割し、A~Zの26の「.html」ファイルを作成した。更に例えば、「S」のファイル容量が 大きくなれば、それを二分割化した。目次ページも一つの独立した文書ファイルとした。そして、新たなタグ命令を学び、目次にある ABCから各該当のファイルへと直にジャンプ(リンク)するように工夫して、利便性を高める取り組みをした。また、「index.html」 と名付けられる語彙集(=ホームページ)のトップページのデザインをどうするか、いろいろ試行錯誤するのは楽しかった。
(備考)ホームページ作成上の決まり事として、ブラウザーが最初にアクセスし表示するページは「index.html」と名付けられる ファイルである。それは海洋語彙集ホームページのポータルサイト(トップページ)に付けられるファイル名でもある。

  ホームページとして発信・公開するにはまだまだ道のりが長かった。常用することになる数十のタグ命令符合の使い方を重点 的に学び、ページを充実させるよう務めた。更に、自宅のパソコンをネットに接続し、自身がネットサーフィンを楽しめるようセッ ティングせねばならなかった。また、該当する全ての「.html」文書ファイルをプロバイダーのサーバーにアップロード(送信) できるように準備する必要があった。自宅に最も近いアクセスポイントをもつプロバイダーを探し、契約を結ぶことにした。当時、 電話回線を介してパソコンをプロバイダーのサーバーに接続すると、その時間数に応じて 電話通話料が課金された。大手のプロバイダーはローカルな都市である川口市内にはアクセスポイントをもたないことが多かった。 他県他市にあるポイントに接続することになれば、接続のたびに市外通話料がかかりその経済的負担は大きいものになった。

  電話代が嵩張らないように、アクセスポイントを川口市内にもつプロバイダーを探した。 幸い川口市内を営業拠点にして、川口にアクセスポイントをもつ「サイネット」という地元のプロバイダーが見つかり、早速契約した。 当然アクセスポイントが同市内に所在するので市内通話料で済んだ。質問するにも市内通話なので電話代を気にせず気軽に相談できた。 当時接続料金は従量制であったので、接続時間数に応じて通話料が跳ねあがった。 もっとも世は日進月歩であり、次代には月単位の定額制が普及して行った。

  電話器本体から回線端子を取り外してパソコンのポートに差し込み、パソコン画面を見ながらプロバイダーへ「ダイアルアップ方式」で 接続した。すると、電話の発信音が響き、すぐに接続に成功したり、時間帯によっては混雑して繋がりにくかったり、何らかの障害 発生で繋がらなかったりであった。接続後はブラウザーを立ち上げ、ネットサーフィンが可能となった。当時はネット時代の黎明期で 通信・接続上のトラブルも可なりの頻度で発生した。ダイアルアップ接続を可能にするには個人ベースでいろいろな事前作業が必要で、団塊世代に属する 私としては、いつも試行錯誤で悪戦苦闘であった。初めて電話を掛け、発信音を聴き、画面上にサーバーと接続したとの表示が 現われた時は、「やった!」と喜びの声を発し感激で感涙状態であった。

  粗方、英和・和英語彙集のホームページ用「.html」ファイルが仕上がったところで、いよいよサーバーにアップロードし、公開することになった。 まだよちよち歩きの語彙集であったが、心が急いた。例のデモンストレーションからゆうに1年後のことであった。やっと漕ぎ着けられた。 「デジタル海洋語彙集」づくりに挑戦して以来初めて見る自作のホームページに鳥肌が立ち感涙であった。 私的には、アナログ式語彙集や辞典のことを思い起こすような時代はすっかり遠のいていた。いつでもどこでも語彙集のコンテンツを アップデートし、「進化」させ、グローバルに発信できるという、願ってもない時代の境遇に身を置いていた。 パソコンがネットに繋がってさえいれば瞬時に語彙集の更新が可能となり、またそれを活用してもらえるという信じられない時代に 生きていることに感謝の気持ちで一杯であり感涙ものであった。

  ところで、サーバーにアップするには「ftp」というソフトが必要であった。ネットから無料のフリーソフトをダウンロードし、 いろいろセッティングして、それを使って英和・和英語彙集の各「.html」文書ファイルをサーバーにアップロードした。なお、当時のホーム ページづくりの環境と2023年現在とのそれは大きく異なる点が一つある。 海洋語彙集の最初のホームページのアドレス(ドメイン名)は「http://www.sainet.or.jp/~…/」というものであった。「/~…」という アドレス記号はプロバイダーのもつサーバーを間借りしていること、またプロバイダーのホームページ下にぶら下がっていることを示していた。 「…」にはローマ字で自身の名前でも「oceandictionary」でも良かった。 要するに、私のホームページはまだ独立したネット上のアドレスをもたなかった。「サイネット」のポータルサイト (トップページ)に語彙集へのリンクを張ってもらい、同サイトから語彙集へアクセスするという仕組みになっていた。語彙集は プロバイダーのポータルサイト(ホームページ)と紐付けられ、同サイトが語彙集への唯一のゲートウェイ(入り口)となっていた。

  当時にあっては、情報通信技術に精通しない一個人が、プロバイダーのように24時間インターネットに接続された自前の ホストサーバーを持ち、独自の独立したホームページ・アドレスを有することは極めて限られていた。自前のホストサーバーを もつとすれば、その維持費は高額となり、またウイルスなどによる通信障害に対応できるだけのプロフェッショナルなノウハウが不可欠であった。 それ故に、当時にあっては、プロバイダーのサーバーの一部をスペースレンタルし、かつプロバイダーのポータルサイト経由で 自身のホームページとリンクさせるという間接的アクセス法が最も一般的であった。当時数10MBほどのスペースをレンタルし、結構高額の月額を支払っていた。 当時としては、個人レベルにあってはこれがごく普通のホームページづくりのやり方であった。いずれにせよ、曲がりなりにも海洋語彙集のホーム ページを作成し、レンタルサーバーにアップロードし、世界のネットユーザーとシェアできるようになったことこそ、感涙もの であった。また、丸で歴史的偉業を達成したかのような心境であった。
(備考)ずっと後のことになるが、数多の画像ファイル(末尾に拡張子「.gif」「.jpg」をもつファイル)をアップロードし、 かつホームページに貼り付けたら、思いの他レンタルサーバーの容量がオーバーフローした。容量を増やすと経費は嵩んでいく ばかりであった。当時個人契約によるサーバーのレンタル料金は今では考えられないほど高額であったため、最少限の容量を契約していた。もっとも、技術進歩は凄まじく、後年にはサーバー容量単価は大幅にダウンし、 その悩みは解消されて行った。

  初めてのホームページをオンラインで閲覧した時の感激は決して忘れることはできない。試行錯誤を重ねつつ、ついに自身のホームページ をネット上で見る瞬間がやって来た。プロバイダーのポータルサイトには各会員のホームページへアクセスする ためのクリック用ボタンが設けられていた。そのボタンをクリックして「海洋語彙集/中内清文さんのページ」をクリックすると 私のホームページが表示された。ホームページがリアルで眼前のパソコン画面上に表示された時にはまさに鳥肌の立つ感動ものであった。 「ついにやった! アルゼンチン以来の努力が報われた!」という瞬間であった。「少しは形になった。素晴らしい ネット時代がやって来た!」と興奮し全身身震いした。「世界の関心ある人々と語彙集をシェアできるようになった。語彙拾いが陽の目を見た!」。 言うのもはばかれるが、感激の余り一人で踊り狂わんばかりであった。

  振り返って見れば、物事の起点(基点)はニカラグアへの出張であり、「タスク」の森氏との邂逅とネットサーフィンのデモ であった。人生の半ばにある時期にこの画期的な情報通信技術に巡り会えたことはラッキーと言う他なかった。 パソコンの黎明期を経て、やがてそれらが相互につながり、デジタル情報を自在にやり取りできるネット時代に突入した。 パソコン内部やフロッピーディスクにしまい込まれていたデータがいわば一夜にして世界に発信されシェアされるという、 そんな夢物語が現実のものとなる時代が到来していた。ネットと語彙集との融合の始まりに立ち会うことができ、何とラッキーなことであったことか。 海洋語彙集のネット画面を前に暫く感謝と感激に浸り、今後はオンライン語彙集を「進化」させて行きたいと言う思いで 体中の血が沸騰しそうであった。国連への奉職という長年の目標と志に取って代わるかのような予感すら心にもたげてきたほどであった。 全く月並みであるが、「諦めないこと」そして「辛抱強く熟す時を待つこと」も大切なことを思い知らされた。

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