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    第24章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第2節 東日本大震災、早期完全離職の決断を後押しする


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       第24章・目次
      第1節: 嘱託として「健康管理センター」に勤務する
      第2節: 東日本大震災、早期完全離職の決断を後押しする
      第3節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その1)/辞典たるゆえん
      第4節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その2)/データベース&フォトギャラリー
      第5節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その3)/新しいビジョン&チャレンジ
      第6節: 辞典づくり、2020年の「中締めの〝未完の完″」をめざして
      第7節: 海洋辞典の承継編者探しを家族に口頭・書面で依願する(作成中)


  JICAからの早期完全離職を考え始める最初のきっかけとなったのは何であったであろうか。第一に、赴任先のニカラグアでの心臓発作 (2009年8月末)とそれからの奇蹟的生還がきっかけの基底にあったことは間違いない。 その体験は人生を少しは生き急ぐよう促す気持ちを芽ばえさせた。人はいつ逝くか全く分からない。命は突然にしてその 日のうちに消えるかもしれない。明日かも知れない。そのような生死を彷徨う体験をした。少しは生き急ぐことも必要だと思う きっかけとなった。今までの思いとは違って、海洋辞典づくりに専心専念したいとの願望が強くなりつつあった。 心身ともにかなり回復したとはいえ、今後何時再発するか分からない。「明日という日があると思うな」という心境がもたげつつあった。 かくして、完全離職のタイミングとその後の人生のことを考え始めることになった。そしてまた、海洋辞典づくりの締め括り 方について一層真剣に模索することになった。

  第二に、還暦前後ともなると、先輩や同僚の訃報が怖ろしいほど相次ぐようになった。JICAの「健康管理センター」に勤め始めたのは 還暦を少し過ぎた頃であった。センターで一年間勤務し、やがて嘱託の契約延長時期を迎え、 身の振り方を決めなければならない時期を迎えつつあった。その一年の間に何人もの先輩・同僚が還暦を境に次々と亡くなる という訃報に接した。心はゆれ動き穏やかではなかった。自身もいつ突然逝くかもしれない。ニカラグアにおけるのと同じような 突然の重大疾病に再び襲われるかもしれなかった。奇跡の生還という「女神の微笑」は二度とないかもしれない。思い起こすたびに 生き急ぐよう背中を押された。そして、身近な知人らの幾つもの訃報は完全離職への道を模索するようさらに後押しすることになった。

  第三に、離職を20日後に控えた2011年3月11日に「東日本大震災」が突然発生し、東北地方太平洋岸を大津波が襲った。 衝撃的な大災害が身の回りで何時起こるか分からないものである。我々にそれを如実に教えてくれた。 「福島第一原発」の炉心メルトダウンに日本中の誰もが震え上がった。深刻な放射能汚染が風向き次第では東京方面に来襲する のではないかという強い恐怖心や危機感をも抱かせた。個人的には、早期離職を決断し生き急ぐことにすることはあながち間違い ではないと感じさせてくれた。明日には命はないものという覚悟をもって、今後10年や15年の間に自身のやりたいこと、 やらねばならないことをとことんやるべしと覚醒させてくれた。かくして、同センターが人生最後の職場となることをはっきりと認識した。

  完全リタイアした後の身の振り方については、当時はっきりと描き切れてはいなかった。だが、粗ほぼに描いていたのは、 海洋辞典づくりに専念するということであった。年金の満額支給開始年齢になるのを待たないことにした。年金受給開始を早めれば それだけ減額支給となるが、その後の生存年数など誰にも分からないことであった。本人の死後には自身は知ることのない生残率や年金 需給の損得などを何ら気にすることなく完全リタイアすることを決意した。かくして、何歳まで生きれるかは運を天に任せて、少しは生き 急ぐこととし辞典づくりに専念することとした。

  思いとしては多少焦りもあったが、退職後に真剣に取り組むに値し、またやりがいがある「趣味」をもっていることを喜んだ。 見方を変えれば「道楽」かもしれない。幸い贅沢しなければ何とか生きていけるだけの年金や退職金をあてにできそうと踏んだ。 再び勤めに出なくとも何とかなるとの楽観的な思いにすがり付くことにした。是が非でもやらねばならない100万枚の海風景や展示物の 画像を処理し、辞典をビジュアル化し、またフランス語も加えての多言語辞書にするなど、新しい目標に向けて前進できそうであった。 明瞭なビジョンではなかったが、いつしか「自由の翼」をもって退職後の「大空」をはばたいて、辞典づくりに没頭できるであろうと おぼろげながら考えていた。それにまた、時には国内外の海洋博物館などの歴史文化施設を訪ねることも大いに楽しみであった。

    2009年11月に「健康管理センター」に勤め出してから1年近くが経った頃、体力も気力も相当アップし、服薬の処方箋もほぼ完璧に確定 した。だが、二か月に一回の割合で「国立国際医療センター」で主治医の診察を受け、その 結果も順調に推移していた。故に、体の中で暫く眠っていた「旅の虫」がむくむくと這い出してきたようだった。時間の経過と共に 免疫力も高まり、心身ともに強靭化しつつあるように感じていた。そろそろどこかへ放浪の旅に出たいと浮足立ち、うずうずするように なっていた。

  自然と湧き上がってきた旅への誘惑を抑えきれず、敢行する決心をした。確かに体力・気力は復調していたものの、まだもって 不安もあった。海外へ出掛けることの自信までは湧いてこなかった。それに、休暇日数の関係で、国外はもちろん国内でも遠出の 旅はしづらかった。先ずは慎重を期して、2泊3日程度のそれほど遠方ではない旅を模索した。

  同センターにおける常勤嘱託の身分では有給休暇日数は、年間10日間ほどであった。夏期休暇は数日であった。それらの半分以上を 同センターへの定期的な通院や、その他の特別な循環器系医学検査のために費やしていた。有給休暇を使っての海外 への旅は到底無理であった。現役時代は毎年数十日もの有給休暇日数を使い切れず未消化のまま無駄に吐き出していたが、嘱託になってから は旅行のために使える日数に全く余裕がなかった。故に、今回は有給休暇2日と週末土曜日の2泊3日とした。日曜日は帰宅後の休養 のための予備日にあてることにした。

  何処へ旅するか思案した。大病後の初めての旅の喜びは格別であった。回復して旅に出られるのは無上の喜びであり感慨深かった。 海に臨む風光明媚な土地に行ってみたいと、地図帳を広げて探った。東北の宮城県・石巻に本格的に復元された ガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」を展示する博物館があることを思い出し、そこを目指すことにした。折角なので、遠洋 漁業基地である気仙沼の内湾の海と港の風景も眺めてみたいと思い立った。かくして、最初の旅としては、ぶらっと気仙沼、石巻方面 に出掛けることにした。その他幾つかの博物館などを巡ろうと計画した。リュック一つに最低限の身の回り品を詰め込んで、埼玉県川口から大宮へ、 そこから新幹線に飛び乗った。2010年9月2日のことである。

  仙台を経て一関駅で下車し、JR大船渡線のローカル電車で気仙沼へと向かった。昔、同じように北上山地の山あいを縫って 三陸海岸の宮古へ抜けたことがあった。1976年(昭和51年)晩夏にJICAへの就職が決まり、自身への就職祝いのつもりで、その年の 11月1日に初出勤するまでの期間を利用し、思い切って盛岡から宮古へと抜けたことがあった。そこから三陸海岸沿いに久慈を経て八戸まで旅した。 今回は、一関を起点にして、なだらかな北上山地を望みながら、川沿いの山間低地を縫うように三陸海岸へと抜けた。車窓から のどかな山里風景をぼんやりと眺めつつ、まるで小学生が遠足に出掛けるかのように心を弾ませていた。時に、完全離職後の先々に思いを 馳せる一方、心地よい高揚感に浸りながら電車に揺られていた。

  気仙沼でJR気仙沼線に乗り換えて、一駅下ったところの「南気仙沼駅」に降り立った。そこで、気仙沼漁港の埠頭沿いに建つ 卸売魚市場のすぐ近くにある、鮮魚・海産物を専門に扱う数多くの店舗が集積する海鮮市場「海の市」を目指した。その建物 2階に目途とする「気仙沼シャークミュージアム」が、1階には世界的にも大変珍しい「氷の水族館」があった。先ず水族館を訪ねた。 受付で入場者用の防寒具を借り受けて、摂氏マイナス20度ほどの低温に保たれた展示館に入った。いわば冷凍倉庫が水族館に仕立て られていた。小さめの直方体のアイス・ブロックの中にいろいろな魚貝類が閉じ込められていた。気仙沼港で水揚げされた80魚種 450匹ほどの魚貝類が氷柱に閉じ込められ、氷点下で陳列されている。いわば氷詰め魚貝ブロックを積み上げた巨大冷凍室のような ものであった。

  館内を暫く見学し写真を切り撮っていると、寒さのためなのか、カメラのシャッターボタンが凍り付いてしまった。 寒さを我慢しながらカメラをいじくって直そうとしていると、底冷えがひどくなり、心臓にかなりの負担が掛かっていることを感じ始めた。 晩夏の時期とは言え、外気はまだ30度ほどあり、室内はマイナス20度で、一気に50度ほどの気温差に身をさらしていた。血管が ひどく収縮して、心臓に負担が掛かっていることをはっきりと自覚できた。気分も何となく優れなくなった。体調の異変に気付き、 用心して一旦外気で体を温めようと館外に出た。

  外気に触れ暫し休息したところ、体調の異変も治まった。特別に防寒具をもう一着借りて室内に入り直し、巡覧を続けた。シャッターも直り、 しっかりと写真を切り撮ることができた。この時、心筋の壊死のため心臓機能が少し低下し弱っていることを改めて自覚し、今後 心臓と上手く付き合っていく必要があることを認識するきっかけとなった。

  体調もすっかり落ち着いたので、続いて「気仙沼リアスシャークミュージアム」も見学することにした。サメをメインテーマにした 珍しいミュージアムである。入り口で思いがけず聞き覚えのある学者の名前を「謝辞・監修パネル」の文中に見つけた。かつて1986年頃に、 アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」へ、パタゴニア海域の魚類同定のためにJICA短期専門家として、北海道大学の尼岡邦夫 教授と仲谷一宏助教授に御足労いただき、学校に赴任していた長期専門家と「ア」側カウンターパートに技術指導をしてもらった。 ミュージアムは、その仲谷氏による監修の下で展示がなされていることを大きく紹介していた。仲谷氏は魚類の中でもサメなどの軟骨魚類 の専門家であった。こんなところでお名前を拝することになり、嬉しくなった。館内にはサメの系統分類、生態、 生物学的特徴などのパネル説明、サメの剥製や幾つかの種の卵や稚魚の生育水槽などが展示されていた。

  その後、卸売魚市場近くの漁港の埠頭に出て、岸壁沿いに内湾を眺めつつ1㎞ほど散策した。岸壁には数多くの遠洋カツオ一本釣り漁船の他、 水産庁の取締船などが停泊していた。廃船が野ざらしにされているのかと見間違うような船一隻が岸壁に繋がれていた。船全体が錆だらけで、 何年も大洋を漂流していた幽霊船のように見えた。船尾の国旗を見るとロシア漁船のようであった。錆を削り落としペンキ塗装 する余力もないのだろうかと、勝手な想像をしてしまった。

  さて、岸壁から離れ、市街中心部の目抜き通りをそぞろ歩きし、再び「気仙沼駅」へ辿り着いた。その後気仙沼線の夜行列車で石巻へと 南下した。鉄路は途中から石巻線へと切り替わり、「石巻駅」で下車した。駅前エリアをぶらつき、安宿を見つけて投宿した。翌日、路線 バスで、牡鹿半島の先端にある、かつて捕鯨業が盛んであった港町・鮎川浜を目指した。捕鯨や鯨をメーンテーマにする「おしかホエールランド」がそこにあった。 屋外には一隻の実物のキャッチャーボートが展示されていた。半島のすぐの東方沖には彼の有名な金華山が浮かぶ。金華山沖の近海で黒潮と親潮 がぶつかり、複雑な潮目ができ、世界的な好漁場となっているのはよく知られているとおりである。

  「ホエールランド」は今では、「ホエールタウンおしか」という名称で、観光物産施設や牡鹿半島ビジターセンターとの統合施設になっている。 訪ねた翌年の2011年3月に「東日本大震災」で大損壊を被り、その約10年後にようやく一新して施設再開を果たすことができたという。 さて、「ホエールランド」を見学した後、再び路線バスで石巻駅に戻った。車窓から美しい入り江と島々が連なる海岸風景を眺めながら、 アップダウンとヘアピンカーブの多いコーストラインのドライブを楽しんだ。

  翌日、仙台藩主・伊達政宗が建造した「サン・ファン・バウティスタ号」というガレオン船の復元船を展示する「慶長使節船ミュージアム」 (愛称「サン・ファン・バウティスタ館」)を訪ねた。路線バスで、再び「鮎川浜」行きのバスに乗って、カキの養殖場として名高い 「万石浦」という入り江まで辿った。奥行きの深い「万石浦」から太平洋へは狭水道にて通じているが、そこに架かる「万石橋」の袂 で下車した。そこから、「金華山道」と称される狭水道沿いの村道を歩いてミュージアムを目指した。道路沿いには、船宿や遊漁船の店、 帆立貝の貝殻を養殖向けに処理する作業場や、その他小規模な造船所などが軒を連ねるという、のどかな漁村風景があった。

  同ミュージアムは、伊達政宗の命を受けた家臣・支倉常長の率いる慶長遣欧使節団が乗り込んだ洋式木造帆船「サン・ファン・ バウティスタ号」(復元船)を中核にして、大航海時代の航海・造船技術などを紹介する見ごたえのある歴史文化施設であった。 「S. F. バウティスタ号」建造に始まって、ローマまで旅し当時のローマ法王に謁見するまでの幾つかの歴史的場面をジオラマ風に 展示していた。また、帆船模型の他、大航海時代の航海用具(アストロラーベ、クロススタッフ、四分儀など)なども展示される。 さらに大型ハイビジョン映像とシミュレーターで当時の航海を模擬体験もできる。

  さて、支倉常長・慶長遣欧使節団派遣と「バウティスタ号」の航海について少し触れておきたい。 何故フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが使節団の正使に仕立てられたのかはさておき、支倉常長を副使にして、イスパニア (スペイン)の国王フェリペ3世のもとに外交使節団が派遣された。使節団は、スペインからさらに旅して、ローマ教皇パウルス 5世が住まうバチカンへと赴いた。派遣の一義的目的は、仙台藩とメキシコとの交易許可を得るべく、スペインと通商交渉を 行うことにあったと言われる。

  徳川家康の許可を得て政宗が建造した「バウティスタ号」をもって、支倉・ソテロら総勢180 余名は、1613年10月(慶長18年9月)に、牡鹿半島の「月の浦」(現在の宮城県石巻市)から、イスパニアの「副王領ヌエバ・エスパーニャ 」(現在のメキシコ)のアカプルコに向けて出帆した。約3か月後の1614年1月、アカプルコに入港した。その後陸路でメキシコ・シティを 経由して、カリブ海沿いの港町ベラクルスへ。その6月、イスパニア艦「サン・ホセ号」で、ベラクルス地先に浮かぶ要塞島「サン・ファン・ デ・ウルア」からイスパニアに向けて船出した。

  使節団は、キューバのハバナを経て、その10月イスパニア南部のサンルーカル・デ・バラメダに上陸した (支倉らは日本人としては 初めて大西洋を横断した)。その後、グアダキビル川を遡上し、セビーリャに入城した。若干名をセビーリャに残し、 イスパニアの首都マドリッドに向かい、その12月には同地に到着した。常長らは、翌年の1615年1月国王フェリペ 3世に謁見した。同年8月、使節団はマドリッドを出発し、10月ローマに到着、かくして「月の浦」出帆後2年の歳月を費やして ローマの土を踏んだ。そして、盛大なローマ入市式の挙行に臨んだ。その11月には、支倉・ソテロらはバチカン宮殿にてローマ 教皇パウルス5世に謁見した。

  1616年1月使節団はローマを出発し、再びセビーリャへ帰着した。翌1617年7月セビーリャを出発し、大西洋を横断しヌエバ・エスパーニャ まで戻った。1616年4月、迎えの「バウティスタ号」にてアカプルコを出港し、同年8月イスパニア の植民地フィリピンのマニラに到着した。「バウティスタ号」をマニラで売却した後、常長らは便船で1620年9月日本への帰国を果たした。 約7年におよぶ長い旅を成就したが、イスパニアとの通商交渉ではその使命は果たしえなかった。さて、日本では 1614年に「禁教令」が日本全国に広げられ、また「伴天連追放令」が施行された。厳しい弾圧を受ける時代へと大きく変わっていた。 なお、支倉常長は、1622年8月7日(元和8年7月1日)に他界した。「バウティスタ号」は太平洋の往復横断航海を果たした誉れある 日本船となった。

  ところで、JICAとの嘱託契約の更新時期を2011年3月末に控えていた。契約を一年間更新すべきか、それとも完全離職すべきか。 半年ほど先のことではあったが、一人旅ゆえ道中にあっては時間的余裕があり、我が身の振り方や、海洋辞典づくりなどについて思い巡らせる 良い機会をもつことができた。三陸の海を眺ながら、延長すべきか否かの思案を巡らせていたが、どちらかと言えばベクトルは 離職に傾きつつあった。離職すれば「健康管理センター」が人生最後の職場になる。最後の職場としては中南米のいずれかの国の 国際協力最前線で迎えたかったが、心臓疾患既往歴のため、その願いは二度と叶えられそうになかった。他方で、海洋辞典づくりに どう向き合い、どのように締め括るかを思い巡らせていた。ニカラグアから帰国して以来ずっと気にかかっていたことであった。 さて、同センターを所管する国際協力部次長のY氏本人から名古屋への人事異動のことを耳打ちされたのは、その旅から数ヶ月を経た 2011年1月頃のことであった。その異動話は、離職を思い巡らせていた私の背中を強く押すことになった。

  嘱託契約の満期が約2か月後に迫っていた頃、Y次長の異動が確実なものとなり、そのことが早期完全離職を決定的 なものとさせた。実は、契約延長について思い悩んでいた頃、還暦前後の先輩や同僚が何人も、突然の病などで この世を去って行ったことに大きなショックを受けていた頃でもあった。本当に何が起こるか分からないという思いが脳裏にこびりつく ようになっていた。何人もの知り合いの急逝が遠因となり、Y次長の異動が駄目押しとなり、ついに契約更新をすることなく自由の身となること を決断した。

  そもそも自身の健康に何か深刻なことが再び起こりうるかもしれないという危機意識もあった。 万一の場合、辞典づくりが誰にも受け継がれることなく、ネット上から自然消滅してしまうことも十分ありうると強く懸念していた。 そうなる前に、どうしてもやっておくべきミッションがあると考えていた。辞典の完成などはとても望むべきもないこと であったが、手遅れにならないうちに辞典づくりにそれなりの区切りをつけ、かつその承継の諸準備を万端にし ておくことが大事と慮って、2011年3末日をもって完全リタイアすることにした。

  さて、離職という選択肢が、私的には間違っていなかったことを実感させられる出来事が起こった。離職の3週間ほど前のこと、 つまり東北の旅から半年ほど経っていた2011年3月11日、日本全体を震撼させる衝撃の大地震(マグニチュード9.0)と巨大津波、 それに続く「福島第一原発」の核燃料の圧力容器でのメルトダウン事故が発生した。「東日本大地震」 である。当日は健保組合からの助成を活用して人間ドックを受けるために有給休暇を取っていた。当日大地震に遭遇した場所は、 JICA本部のある都内の麹町(千代田区)の職場ではなく、人間ドックを受けた後帰宅途上にあった渋谷の道玄坂であった。

  健診を終えて道玄坂を下る途上で、ある家電店に立ち寄った。店の奥に入って間もなく、何か騒がしいことに気付いた。ふと入り口を 見ると、大勢の人が集まりざわついていた。表の通りで何か事件でも発生し、通行人が大勢群がって見物しているのかと思い、 野次馬根性的に表通りに出てみた。 理由がすぐに分かった。店内ではほとんど揺れを感じなかったが、歩道に出ると目の前の髙いビルというビルが、バシャバシャという音を 響かせながら左右に激しく揺さぶられていた。髙いビル同士がぶつかり合って、今にもバラバラと崩れ落ちてくると思ったほどであった。 足がすくみ身動き一つできなかった。建設途上の鉄骨剥きだしの高層ビル最上階に設置された大型クレーンも大きく揺れ動き、今にも 4、50階から落下しそうであった。群集らも私もみんな足がすくんで身動きできず、金縛りにあったように立ち尽くしていた。 これは尋常でない巨大地震の発生と直感し、すぐに家路に就くことにし、急ぎ渋谷駅に向かった。だが、案の定地下鉄やJR東日本などの 鉄道各社の交通機関は全てストップであった。渋谷駅周辺ではどこもかしこも通行人らで蟻の大群のごとく大膨張した。 とはいえ、震源地などについて当時知る由もなかった。

  明治通りに沿って走る路線バスで何とか新宿・池袋へ辿り着き、そこから川口まで歩こうと決めるまでほとんど時間はかからなかった。 バスターミナルに停車した多くのワンマンバスの周囲では、乗ろうとする客でその入り口付近は酷い団子状態になり、押し合いへし合いの大混雑 であった。しかも、車内は既に超寿司詰めの状態であった。ドアが閉められず、どのバスも発車することができない 状態であった。見る見るうちに、JR山手線と平行して走る「明治通り」は車両で埋め尽くされ、全く動きが取れない有り様であった。 そもそもバスに乗り込むこと自体が無意味となっていた。バスを諦めて徒歩にて帰宅しようとする大群衆で車道も歩道も溢れ返った。 個人的に何よりもラッキーだったのは、その日は人間ドック受診のために運動靴を履き、カジュアルないでたちをしていたことであった。 川口まで20数㎞ほど歩くにしても、革靴とは違ってその疲れ具合は格段に少ないはずであった。

  新宿を通り過ぎさらに池袋方面へと歩いたが、池袋手前で公衆電話を見つけ自宅に電話をしたところ、家族全員無事と分かり 安堵した。実はその通信直前のこと、通り沿いのショーウインドウの中に据えられた一台のテレビだけが何故かスウィッチ・オンのままと なって"働いていた"。そして、「オン・エア」(放映中)の画像に釘付けとなった。東北地方の被害状況を伝える 報道ヘリからの生中継画像が目に飛び込んできた。仙台空港の滑走路に巨大津波の海水が押し寄せ、それを呑み込もうとして いる映像であった。信じられない光景であった。

  埼京線の「十条駅」辺りまで来てさすがに疲れを感じ始め少し休息することにした。古風な軽食喫茶店を見つけ身を投げ入れた。 そこでの一杯のコーヒーで少しは生き返った。拙宅までまだ2時間ほどの距離にあった。東京都(赤羽)と埼玉県(川口)との境をなす荒川に 架かる「新荒川大橋」にようやく辿り着いたのは深夜であった。大橋を渡る大勢の歩行者の流れは途切れることはなく、他方 車道は双方向とも車で身動きが取れず大渋滞の様相であった。歩いた方が余程速いくらいであった。渡橋すればそこは川口市である。 渋谷から7、8時間かかって深夜遅くようやく帰り着いた。

  帰宅後テレビ放映に釘付けとなった。全てのTVチャンネルが地震と津波関連であった。東北三陸海岸沿いの、ほとんど灯りのない 町々の様子を映し出していた。気仙沼の漁港卸売市場や「氷の水族館」、「シャークミュージアム」などのあった海鮮市場辺りから、 「気仙沼駅」のある市街中心部にかけての内湾沿岸部が大津波に襲われたらしかった。

  翌朝には身の毛がよだつ惨憺たる有り様が次々とTV画面に映し出され始めた。 JR石巻駅辺りから旧北上川下流域にある中州を含む両岸の平野部にある住宅密集地や、日和山の裾野から 河口臨海部にかけての住宅街などが大津波に呑み込まれ、大損壊を被ったらしいことが少しずつ分かってきた。 この分だと、石巻の復原帆船「S. F. バウティスタ号」やその周りの海岸沿いの博物館施設も大損壊は免れないと想像した。 事実、博物館施設も大損壊を受けたことを後で知った。テレビ放映の映像を観ればみるほど心臓の鼓動が高鳴るばかりであった。

  特に東北三県の太平洋沿岸部のあちらこちらで、大津波の濁流が凄まじい勢いで、数多の住宅、工場、店舗、学校、役場などの あらゆる形あるものを呑み込む空恐ろしい、個人撮影のビデオ映像などが次から次へとTV画面に飛び込んできた。未曽有の甚大な被害 が連日連夜次々と明らかになって行った。丸で地獄絵を執拗に見せられる心境であった。中でも、「福島第一原発」が巨大津波に襲われ 外部電源も完全に喪失し、4基の原子炉が制御不能の事態に陥ってしまっていた。その後原子炉建屋が次々と水素爆発を引き起こし崩壊した。

  全電源が途絶え制御不能となった場合、核燃料棒を入れた圧力容器内で何が起こるのか。原子炉は「暴走」を始め、核燃料は 融解を引き起こすことになる。つまりメルトダウンである。高レベル放射能を放射するデブリが炉外へと溶け落ちる危険性がある。 そんな危機的状況にある原子炉めがけて、自衛隊ヘリから決死の放水作業が敢行された。この放水作戦は現実なのか、それともドラマのロケシーンなのか。 まさしく、日本という国の存立の終焉に繋がってしまうのかと、心臓が凍りつくような危機感に襲われた。日本は再起不能に陥るのではないかという 恐怖心に突き落とされた。まさに衝撃的でリアルの国難が眼前にあった。

  炉心のメルトダウンによる放射能汚染という大惨事に衝撃を受け、半端でない恐怖を抱いた。 放射能汚染は風向きによっては首都圏方面にも拡散され、数多の人々が全てを打ち捨て逃避するというパニックが発生するかも しれない。そんな恐怖感が心のどこかにあった。家族は実家のある大阪へついに避難することにした。自身も、拡散の状況によっては、 首都圏からの脱出も視野に入れていた。過去には米国スリーマイルやソ連チェルノブイリでも原発にからむ深刻な大事故があった。 絵空事ではないことをこの時はっきりと意識させられた。

  私的には、「東日本大震災」は計らずもJICAからの完全リタイアの選択を良しとして後押することになった。離職の決意は もう後戻りさせることはなかった。2011年3月末日をもって完全に仕事から解放された。人生で初めての経験として、その後は 「毎日が日曜日」となった。初めて「自由の翼」をもってやりたいこと、やるべきことに身を置くこととなった。

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      第1節: 嘱託として「健康管理センター」に勤務する
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