1.JICAを完全離職する身になって想い巡らせたこと
2011年春(3月末)に35年ほど勤めたJICAから完全離職したが、それを機に想い巡らせたことがいろいろあった。例えば、
「ウェブ海洋総合辞典」のコンテンツについて、手を広げ過ぎたと自覚していたので徹底して包括的あるいは全面的に「棚卸し」を行なうこと、
コンテンツの「選択と集中」を図るため具体策を模索し実行に移すこと、「一枚の特選フォト 海&船」と題するフォトギャラリー
について質量的な充実を図ることなどであった。相当程度までコンテンツを絞り込み、その革新的「進化」を図ろうと、辞典づくりに正面
から向き合った。
そして、もう一つ想い巡らせたことがあった。辞典のうちのいずれのコンテンツを残しながら深掘りし続けるかを
模索する一方で、今一度初心に戻って辞典づくりの新機軸に据えるもの(ビジョンや目標)を掘り起し、今後どう取り組んで
行くかということであった。かくして、模索するビジョンや目標がどのようなものになろうとも、それらについて想い巡らせることは
大変楽しいことであった。
2.過去を振り返って: 海洋政策・法制や海洋開発の「ニューズレター」の発刊
さて、ここで少し過去のことを振り返っておきたい。何故なら、新しいビジョン・目標は「白紙状態の時空」の中から生まれて来る
ものではなかったし、またこれまでの経験からして、自ずと過去との接点の延長線上にあることが殆どであったから
である。
JICAに1976年11月に入団し8年を経た1984年にアルゼンチン海軍所轄の「国立漁業学校」での技術協力プロジェクトに
業務調整員として赴任したが、その直前まで履いていた二足のわらじと取り組んでいたことがあった。即ち、個人的かつ自主的な
海洋研究というもう一つのわらじを履き、日本語および英語版の「ニューズレター」(4~8ページほどの自主研究ペーパーの
簡易印刷物)を発刊していた。日本の海洋政策・法制や海洋開発などに関するもので、数ヶ月に1号程度、「潮事務所」(JICAに勤める前の
職場)の名の下に、自発的任意に発刊し国内外へと送り届けていた。勿論、ボランティア活動であり非営利目的の学術的活動であった。
「潮事務所」とは、米国留学から1975年10月に帰国した後にいわば押しかけ的に入所し勤務を始めた個人事務所であり、
JICAに就職するまで籍を置いていた。国内外の海洋政策・法制、海洋開発の動向や海洋環境関連の調査研究(翻訳業務を含む)など
が主な活動であった。
さて、当時の個人的事情として、大学時代以来の初心であった志を貫こうともがいていたことが一つあった。米国留学から帰国後
すぐに国連ニューヨーク本部の人事当局へ、国際海洋法担当法務官へ志願するための履歴書をしたため送付した。そして、当然のことながら、
国連に奉職が叶うまでの待機期間中であっても、あるいはいわば「就職浪人中」であっても、
国際海洋法分野での専門性を常々高め続けていることは必要不可欠なことであった。
故に、海洋法関連の自主研究、論文などの執筆、関連学会・研究会への参加やそこでの研究発表などの実績を積み重ねようと自己
研鑽に励み続けていた。同専門分野での専門性の向上をJICA業務を通じて直接的に図ることは、当時の業務(例えば、開発途上国の技術研修員
の受け入れなどを行なう研修事業部)からして無理筋のことであった。そのことから、いわば「二足のわらじ」を履いて自助
努力を重ねる他なかった。
ところで、二足のわらじを履き、JICA勤務以外の余暇あるいは隙間時間(いわば平日の夜なべ仕事として、あるいはまた土日の週末
などの私的な時間)を最大限活用しながら、「ニューズレター」の編さん・発刊に取り組んだ。そこで取り扱おうとしたテーマとしては、
例えば、日本および周辺諸国の国際海洋法制・政策、海洋開発の取り組み動向(例えば、海洋基本計画、漁業開発・養殖やその
管理・ガバナンス、海洋鉱物資源・海洋石油ガス・海洋エネルギーなどの技術開発、海洋調査技術、海運・造船事情や政策、海洋安全
保障政策、北極海を巡るガバナンス・政策など)の他、海洋を巡る政治・経済・社会および技術的な諸課題、並びにそれらに関する
提言などであった。
3.「海洋法研究所」の創始と「海洋年報/白書」に類する学術的冊子の発刊など
アルゼンチン赴任中(1984~1987年の3年間)にあっては、「ニューズレター」の発刊を中断せざるを得なかった。忸怩たる思いが
あったが、致し方のないことであった。帰国してからはその発刊を復活させるための努力を再起動させながら、他方でどのような新機軸を
もって海洋政策・法制などの自主研究を続けて行くべきか真剣に頭を悩ませていた。
当時「潮事務所」の顧問格であった東京水産大学国際海洋法講師・浅野長光氏に相談した。
結果、一つのアイデアが脳裏に閃いた。即ち、会員制で非営利目的の任意団体として「海洋法研究所」を創始するというアイデアである。
そして、英語版の「Japan's Ocean Affairs - Ocean Regime, Policy and Development -」(和名:
ジャパンズ・オーシャン・アフェアーズ - 海洋レジーム、政策および開発 -/略称「JOA」)という名称の、「研究報告書」タイプの冊子
の編集・発刊を同研究所の中核事業として据えることにした。過去に発刊した英語版「ニューズレター」で扱った研究ペーパーだけでなく、
日本語版のそれを補筆し、かつ英訳化したうえで「JOA」への包摂・合体化を図ることをも模索した。
さて、何とか1990年前後に英語版の「研究報告書/Japan's Ocean Affairs」を創刊し、国内および欧米諸国などの海洋法制・
政策に関係する行政・研究機関の他、大学教授個人などにも自主配布した。その後、半年から1年ごとに、同報告書初版に新たな研究
ペーパーを追補あるいは増補しながら発刊を続けた。
因みに、最後の発刊となったのは、最大170ページほどの学術研究報告書であった。出版物としてイメージしていたのは、例えば
「海洋年報/Annual Report」、あるいは「海洋白書/White Paper」の類いの刊行物であった。
いずれにせよ、「Japan's Ocean Affairs」は、何十号かの過去の「ニューズレター」発刊の積み重ねの上に成り立ちえたものであった。
繰り返しになるが、JICAでの天職としての国際協力業務に加え、海洋研究とその成果の発刊という余暇活動にも遣り甲斐をもって
取り組んだ。任意研究団体としての「海洋法研究所」の名の下での「JOA」の発刊という、二足のわらじを履き続けた。同研究所の唯一
無二の中核事業として、「海洋年報(あるいは白書)」をイメージした英語版研究報告書を創刊し、その後は適宜増補を重ねつつ、
発刊の継続化という野心的取り組みに、所長格の浅野氏と二人して、その持てる力を注ぎ込んだ。JICA業務と「JOA」発刊との「二足の
わらじ」を履くという責務を自ら進んで我が身に課していたが、実のところ大きな誇りと遣り甲斐を感じていた。
ところで、1987年にアルゼンチンから帰国後間もなくして気付いたことがある。何と「三足のわらじ」を履く状態になっていた。
「三足のわらじ」について次節で触れる前に、一つだけここで付言したい。
年1回ほどの発刊とは言え、専業ではなくサイドワーク(非営利)として、情報・資料収集、論文などの執筆
・編纂および英訳、さらに印刷発注・発送などの多くを背負い続けることはかなり重荷であった。また、「海洋年報/白書」に類する研究報告書
の発行が簡易印刷によるものであっても、一回につきかなりの経費を要し、また郵送代も結構な経費とになっていた。
研究所長の任にあった浅野氏との共同事業ということで、二人して諸経費を折半すると同時に、それぞれ完全な自己負担となっていた。
所長は時に大枚をはたいて同所の財政を支えてくれていた。とは言え、将来何年にわたって経済的合理性に目をつむって事業運営
していけるのか不詳であったが、運営の持続可能性についていずれ早かれ遅かれ自ら解を出さざるをえなくなるのは明らかであった。
同研究所は会員制を敷いていたが、アルゼンチンでの3年間のブランクがあったことから、会員の拡大や会費の再徴収について
おいそれとは展望を描けないでいた。
4.日本語・英語・スペイン語の「海洋語彙集」づくり
「二足のわらじ」どころか「三足のわらじ」を履く状況下に自らを追い込み、もってさらに自身を励まし奮い立たせていた。
時を少し遡るが、アルゼンチンに赴任中(1984~1987年)、ふとしたことから今に繋がる一つのアイデアを閃いた。同国立漁業学校
プロジェクトでは日常的に日本語、英語、スペイン語で、航海・漁業・水産加工などの専門用語が飛び交うという多言語環境の中で執務していた。
かくして、またとない語学環境を生かして海洋関連語彙をノートに書き留め、語彙集づくりにチャレンジすることを閃いた。
早速その日から手当たり次第に海の語彙を大学ノートに書き留め始めた。後にソフトウェアの「ワード」を使ってのパソコン入力に繋げた。
パソコンでの語彙集づくりは、全く持って文明の利器の活用によって大きな恩恵にあやかることになった。
さて、語彙拾いはその後2年間続けたものの、専門家等へ実用的なツールとして供するまでに至らなかった。プロジェクトからの
離任に当たり語彙集づくりを打ち止めにすることも一つの選択肢ではあった。だが、そこで止めれば全てが無に帰すことから、
帰国後も語彙拾いとパソコン入力による語彙集づくりの努力だけは続けることにした。
最早、語彙拾いと入力作業による辞典づくりは、日本に戻ってからも、食後の歯磨きの如く習慣化してしまったかのようであった。
現在もそれを続けている。かくして、3ヶ国語(後には5ヶ国語へ拡大)の海洋語彙集づくりを加えると、「三足のわらじ」を履いて
いるが如くであり、自身でも驚きであった。
5.インターネット時代の到来、「ウェブ海洋辞典」づくりと世界への発信
1995年頃には日本でも本格的にインターネット普及時代に突入していた。そして、はからずも情報通信技術(IoT)の画期的進歩の恩恵を
受けることになった。つまり、アルゼンチン赴任時代に始めた「和英西3ヶ国語・海洋語彙集」づくりに革新的要素を一挙に注入
できることになった。
インターネットは革命的な時代の到来であった。ホームページ作成のためのHTMLというタグ方式によるプログラミングの独習に取り組んだ。
日本語入力専用ソフトウェアの「ワード」をもって作成した語彙集の「拡張子doc.ファイル」を全て「拡張子txtファイル」へ書き換えた。
さらにそれを「拡張子htmlファイル」へと変換し、ネット上にアップロードした。かくして世界へ発信できるという
願ってもないチャンスが巡って来た。
まさに情報通信技術の革命的進歩の賜物であった。友人の強い勧めでネットサーフィンの実演に初めて
立ち会えたのは、1990年代中期頃の「国際協力システム(JICS)」勤務時代のことであった。JICSには1994年~1997年のインターネットが
普及する黎明期のはしりの頃にJICAから出向していた。
1996年以降独学でホームページ作成法を学び始め、世界へ情報公開するという夢の実現のために「ウェブ海洋辞典」づくりに真剣に
取り組み完全に前のめりになっていた。そして、数年ほど費やして同辞典の初版をプロバイダーのサーバーにアップロードし
世界へ発信することができた。実に感動ものであった。今でも忘れ得ないほどの感涙を流し踊り狂うほどの感激に浸った。
ところで、残念なことにその後にあっても、「ウェブ海洋辞典」巻末に、過去に作成していたアナログ版「Japan's Ocean Affairs」
をデジタル化したうえで、同ウェブ辞典に包摂し合体化させるほどの余裕は生まれて来なかった。脳裏の片隅にそのアイデアを宿していたものの、
実行力を発揮するには至らなかった。願望だけは抱き続けてはいたが、実際は空回りしたままに時間だけを浪費し続けることになった。
さて、出向を終えてJICSからJICAへ戻って暫くしてからのこと、朝日新聞のスクープによって、「政府開発援助(ODA)」の無償資金
協力の一つである「ブータン通信網整備プロジェクト」を巡る不正事件が同紙のトップページを飾った。当時たまたま担当課長であった
私はそれに否応なく巻き込まれ、半年近く頭がまるで空転状態に陥った。さらに、組織の大改組が進められていたことと重なり、
人事異動することになった。即ち、過去に実施された海外援助プロジェクトに対するフォローアップ業務へと配置替えとなった。
そして、「Japan's Ocean Affairs」の復活を決定的に不可能にさせるに至ったのは、2000年春からの南米パラグアイへの3年に
及ぶ赴任であった。同国から帰任して1年余り後にはサウジアラビアへ、さらには中米ニカラグアへ2年と、立て続けに8年余も在外
勤務することになった。
それでも、1990年代中期にインターネット技術に出会って以降は、国内勤務であろうと海外勤務であろうと時空を問わず、何とかわずかな
余暇時間を捻出しながら、語彙拾いを続けた。更に、ウェブ辞典への語彙のアップデートや補筆修正、およびインターネットを通じての
サーバーへのアクセスとアップロードに執念を燃やし続けた。毎日2、30分の隙間時間だけでも精一杯の努力を注ぎ込んだ。私的にはそれに
よって毎日頭の切り換え、ストレスの緩和や発散・解消、あるいは気分のリフレッシュにつながった。
英語版でアナログ式の「Japan's Ocean Affairs」という「海洋年報/白書」の類いの海洋報告書を数版にわたって発刊したことも
あったが、8年余も立て続けに海外赴任となったことから、それは遠い過去のこととして葬り去ることになってしまった。要するに、
「JOA」の毎年の増補更新版の発刊については、「ウェブ海洋辞典」づくりに前のめりとなっていたことも重なり、長きにわたり休止
状態を余儀なくされていた。だが、その復活の機をいつか見い出したいという希望はなおも失くしてはいなかった。
6.JICAから完全離職し「自由の翼」をまとう
辞典づくりの転機が訪れたのは、ニカラグア赴任中に心筋梗塞のため九死に一生を得るというショッキングな事故から
暫く時を経てからのことであった。2009年8月末にその事故に襲われたが、ニカラグアから奇跡的に生還することができた。そして、
帰国後1年ほどJICA本部に常勤嘱託としてお世話になっていたが、2011年春に日本中を震撼させる「東日本大震災」が発生した。
東京電力の福島第一原子力発電所の複数の原子炉でメルトダウン事故が起こり世界と日本中に強烈な衝撃をもたらした。いずれにせよ、
当初からの予定を変更することなく同年3月末にそれを機にJICAからの完全離職を果たした。離職後
「ウェブ海洋辞典」づくりの包括的な棚卸しなど、コンテンツの「選択と集中」、「一枚の特選フォト」ページ
づくりへの精力的取り組みなど、従来から思い描いたものの長い間成し遂げて来れなかったことと必死に向き合った。
そして、「自由の翼」を得てから15年以上も時を経た今日にしてようやく、コンテンツの多くの「棚卸し」や「選択と集中」を
遂げることができた。また日本語版「海洋年報/白書」づくりのことや、英語版「Japan's Ocean Affairs(JOA)」づくりなどと
今後どう向き合うべきか、再び思い起こす余裕をもつことができた。
他方、「ウェブ海洋辞典」において16にのぼる海洋辞典を最も中核的構成要素に位置づけていたが、他方では海洋を巡る諸課題とどう
向き合うべきか、即ち「日本や周辺諸国の海洋政策・法制、海洋開発の最近の動向、その他海洋関連の諸課題に関する分析や提言など」
に関する論稿をウェブ海洋辞典にどのように包摂・合体化させるべきか、頭を悩ませていた。
当該取り組みはウェブ辞典の創成以来最も重要なものの一つであった。実際のところ英語版「JOA」についてはその最後の発刊
以来その復刊を成し遂げて来れなかったが、日本語版の「日本と海洋」と題する海洋政策・法制論稿の論稿なるものは、ウェブ辞典の
不可分の構成要素として今日まで部分的ではあるが包摂してきた。今後「日本と海洋」の論稿の包摂をどのような形で進めて行くべきか、
模索と試行を続けていきたい。もっとも、最近自分なりの一つの「解」を見い出したと思いきや、さらなる自問を生じさせるに至り、
なおも暗中模索状態に戻ってしまった。
7.「日本と海洋」と今後の展望について
「海洋政策・法制論稿編」としての英語版「Japan's Ocean Affairs(JOA)」を復活させること、さらに同JOAを「ウェブ海洋辞典」へ
包摂することについては、今となっては再チャレンジする余力はないとの暫定結論を得た。時を重ね過ぎた今となっては、その復活は後継編さん者に託さざるを得ない。
他方、日本語版の「海洋政策・法制論稿編」づくりのへの再チャレンジについては、何度か心が折れることもあったが、諦めるには
余りにも忍び難かった。かくして、近年気を取り直して、日本語版論稿編である「日本と海洋」づくりを復活させ、「ウェブ海洋辞典」
に包摂することに再チャレンジを始めた。ただし、論稿の方法については大幅に見直すこととした。
即ち、「ウェブ海洋辞典」のトップページに「オーシャン・アフェアーズ・ジャパン/Ocean Affairs Japan」と題するポータル
サイトを新規に設け、日本や周辺諸国の海洋法制・政策、海洋開発の最近の動向、その他海洋の諸課題に関するタイトルの下に、
諸章諸節をもって課題、視点・視座、提言などを簡潔に取り纏めることにしたい。先ずは出来ることから始めることとしたい。
かくして、ウェブ海洋辞典にもう一つの重要なコンテンツを付加できそうであり、大きな喜びを感じる。「日本と海洋」の海洋論稿編
をもって辞典の「新たな原形」を少しずつでも形づくっていけると思うと鳥肌が立ち改めて遣り甲斐を感じる。
デジタル版「海洋年報/白書(日本語・英語版)」の類いの海洋報告書やその増補版づくりと、「ウェブ海洋辞典」への包摂・合体化
については最早固執するものではない。今後は、「日本と海洋」の海洋論稿編モデルを視野にいれながら、次代の編さん者
へリレーできるような基盤づくりに努力を傾注したい。とは言え、先走りの感があるので、「日本と海洋」というポータル
サイトの創成ではなく、先ずは現実的な取り組みとして、既存ポータルサイトの「一枚の特選フォト」の中に、次のような課題
・テーマに沿った論稿ページを組み入れ紡いで行くという方式を採用してみることにしたい。ついては、論稿ページで筆を取りたい
幾つかのテーマを列挙してみたい。
1) 東シナ海における大陸棚の日中韓の境界線の画定: 中国・韓国と日本との間で、その画定に関する国家利害や法理論はするどく
対立している。例えば、その課題を巡る論点・視座を思索し取り纏める。
2) 日本周辺海域における200海里以遠の大陸棚の延伸について: 日本は国連の「大陸棚限界委員会」に対し、離島周囲の200海里以遠への
大陸棚の管轄権延伸につき申請し、殆どのケースでは認められてきた。しかし保留となっている申請もある。沖ノ鳥島は
国際法上の「島か、岩か」の問題とも絡む。大陸棚の延伸に関する論点・視座について思索する。
3) 沖ノ鳥島の現況と課題: 沖の鳥島が国際海洋法上の「島」でないとすれば、日本の領土面積(37万余平方㎞)に匹敵する海域における
資源管轄権を失う。海面上にわずかに突き出る2つの岩の浸食を防止し、200海里管轄権の法的論拠を喪失しないよう、
ブロックなどを設置し保全してきた。海洋法上、島なのか岩なのか、中国などは今後も執拗にチャレンジしてこよう。中国などの
チャレンジを論破するための理論的武装と実際的対策などが必要不可欠であるが、日本の対応は如何に。
4) 南シナ海での「九段線」によって囲まれた海域に対する中国の主権的権利の主張に関する国際司法判決: 国際判決は九段線による
主権的権利の主張には「根拠なし」と明確に退けた。中国は判決を「紙屑」として完全無視を続ける。南シナ海においても、国際法理を
逸脱するような権益主張は否定され続けるべきである。南シナ海におけるガバナンスを巡る諸問題に関わる論点・視座を
模索する。
5) 北極海の航路開拓や海洋資源開発: 地球温暖化により氷海面積は減少しつつある。いずれ北極海を通年にわたり航行可能となろう。
日本をはじめ中国・韓国や欧米諸国にとっても、北極海航路の開拓や利用、国際航行ルール、ガバナンスの有り様などは国益に深く関わる。
それらを巡る論点・視座を思索し見定めたい。
6) ニカラグア運河: ニカラグアと中国系企業との運河建設コンセッション契約が締結されたが、開削工事計画は頓挫してきた。
人工湖「アトランタ湖」の建設と水資源の確保は可能か見極める必要がある。環境影響評価、パナマ運河との競合性、運河建設の政治・経済・
社会・技術を巡る論点・視座を探る。ジャングルを開削した運河航路の両岸土壌の浸食は重大な環境インパクトになると
思料される。巨大船通航運河の建設は、超大国の安全保障に大きなインパクトをもたらそう。ニカラグア運運河建設を巡る論点・視座
を思索したい。
7) 波力・温度差発電(OTEC)、潮流発電などの再生可能な海洋エネルギー開発: 将来電源構成に一定の大きな比重を占めることになるのは、
海洋エネに準じられる洋上風力発電のみであろうか。波力、OTEC、潮汐、海流・潮流などの各エネ開発を巡る論点・視座、現況と課題
について思索する。
「国家海洋基本計画」では海洋エネルギー開発をどう位置づけているか、
NEDOではいかなる具体策を執行しているか、海洋エネ開発のこれまでの成果(特に商業的発電の現況)や将来の発展に向けた展望について。
8) 深海底資源開発と管理について(マンガン団塊、熱水鉱床、コバルト・リッチ・クラスト、レアアースなど):
団塊開発は日本でも1960~70年代に最も髙い関心が注がれたが、以来半世紀以上経ても商業的採鉱・製錬の実現は見えてこない。深海底資源の開発と管理の将来展望はどうか。
「国際海底区域」における鉱区登録の現況、「国際海底機構」による探査・開発ルールの制定状況、資源開発とガバナンスの現況、採鉱と
環境影響評価など、さまざまなサブテーマを巡る論点・視座につき思索したい。
9) 漁業と日本: 200海里経済水域(EEZ)制度の世界的定着は日本の漁業に大きなインパクトを与えてきた。日本の漁業従事者の減少、
地球温暖化の影響などによる海面漁業生産の限界性、日本漁業を取り巻く環境を俯瞰しながら、漁業の現況と展望を俯瞰する
ための視座や論点を捉え続けたい。何故世界の漁獲生産量は1億トンで頭打ちなのか、日本のそれはかつて1200万トンがピーク、だが現在は
1/3に減少。何故か、人類への警告。
10) 日本の造船業の復活・再興への挑戦、海運の展望: 中国・韓国・日本などの船舶建造のシェア、建造コスト比較などは、
関係者のよく知るところであるが、日本造船界における合理化と競争力の強化、革新的な未来型船舶の建造への挑戦などへの取り組み
努力など将来展望、論点・視座につき思索を深めたい。
これらは「日本と海洋」の海洋論稿編で取り組みたい諸課題・テーマの一部であるところ、課題の論点・視座整理などを通じ、日本と海洋との
関わり合いに関する思索を深め、何がしかの提言を成しうることを本ウェブ海洋辞典のもう一つの使命としたい。
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.