2011年(平成23年)3月末でJICAから完全離職し、「ウェブ海洋辞典」づくりに専念する決意をした。ニカラグアからの奇跡の生還
によって繫ぐことができた命を大切にして、渾身の力を辞典づくりに注ぎ尽くすことを考えた。辞典の完成度が低く忸怩たる思い
を持ち続けていたので、その飛躍的な「進化」を図るべく専心専従したかった。早期専従の選択は決して間違ったものではなく、
当時の私にとっては正しい選択であった。残される命の時間はどれ程か見当のつけようもなかったが、この先20年はとても
望み得まいと思った。
心臓冠動脈にステント2つを留置する身では、あてずっぽうであるが、余命10年と思い定めた。嘱託としてのJICA勤務は1年ほどで
切り上げ、その分辞典づくりに励みたいと思った訳である。そして、辞典の総見直し(総棚卸し)を行い、
新ビジョンの下で再出発したかった。「選択と集中」を徹底し、2020年を一区切りとして、その時点での「中締めの〝未完
の完″」を目指すこととした。かくして、私は、仕事から完全に解放され、「自由な翼」を背にまとい第二の人生を歩み出した。
離職後、人生で初めて「自由人」という名の人間へと変身し、「ウェブ海洋辞典」づくりに専従できると期待したが、最初の数年は
そういう訳にはいかなかった。急に毎日が日曜日となり、陽の明るい時間帯から身を持て余すことがないよう、どう上手く自己管理するかに
戸惑いつつ試行錯誤した。日常の生活リズムを上手くコントロールできるよう腐心したが、先ず健康面でいろいろな壁にぶつかった。
現役時代の緊張感が無くなり、免疫力も落ちたのか、身体のあちこちから故障の兆候が噴出した。急に四十肩ならぬ六十肩に
襲われた。自身でリハビリの努力をしながら、整骨院に半年も通い続けた。
また、歯槽膿漏が思いの他悪化していて、ついに歯茎の腫れと激痛に襲われ、抜歯せざるをえなくなったりもした。その後、
次つぎと歯の治療に歯科医通いをする破目になった。また、酷い残尿感に苛まれたりして、温熱療法とマッサージでもって一年ほどかけて
自前でなんとか復調させることができた。医者に頼らず自力で回復できたことで、人間のもつ自然の治癒力の大事さ、偉大さを思い知った。
とは言え、最初の数年間次々と身体的な障害と不快感を抱え、生活リズムは何かと乱れ続け、日常的に「自由人」を謳歌する
どころではなかった。
雑事と言えば叱られるが、自身が暮らすマンションの管理組合の役員ポストへの就任の、10年に一度の役回りが回って来た。
任期は1年で、月一度の定期会合の他に、いろいろな日常的課題へ対処するというお務めが付いて回った。他の役員の足手まといにならぬよう
何とか一年間勤めることができ、次の役員会にバトンをつないだ。
また、JICAから完全に「卒業」したと思っていたら、JICA役職員OB/OGらが加入する「交友クラブ」の広報担当幹事への就任
につきお声が掛かり、お手伝いすることになった。都内麹町にあるJICA本部に月一度「出社」し、クラブ運営に関わる定期会合への
出席の他、年2回の会報誌の発刊とそのための情報収集・編集・校正、講演会や総会の準備と出席、その他臨時の特別会合などに
関わった。会合後は役員らで2時間ほどビールを傾けながら、よもやま話に花を咲かせるのが楽しみであり、それはそれで気分爽快
になれる場であった。かれこれ4年近く勤めた。
その他のこととして、30代半ば頃に中国・黒竜江省への公務出張時に知り合った中国人の王さんの事業に首を突っ込むようになった。
JICA農業投融資部門に席を置いていた時、大豆試験栽培事業案件で初めて旧満州の大平原の地に出張し、ハルピンにある同省の外事
弁公室勤務の通訳・王さんと知り合った。彼はその後北海道大学博士課程に留学し、卒後日本でずっと働いてきた。王さんの仕事の
一つは、中国人技能実習生を中国で募集し、農業実習などの研修を提供し、来日後は農家・農協などに受け入れてもらうという
人材斡旋事業をしていた。それまで延べ5,000人ほど受け入れ、日本での実習生の監理と生活の面倒をみていた。
王さんは何らかの手伝いをしてもらいたいとの意向をもっていた。そのこともあって、中国での実習生候補者の人選や事前研修事情など
を学ぶため、彼の所有・経営する研修施設や事務所のある瀋陽に出向いたりした。また、北海道や信州の受け入れ農家や農協などを訪ね、
彼らの生活や労働環境などを視察し、就業とその課題についての理解を深めようと努めた。JICAでの経験を生かして何がしかの
実務を担うことが期待され、何かお役に立てることを模索する日々が続いた。適度な刺激にもなっていた。だが過度に束縛されると、
「自由人」となって辞典づくりをめざしたことの意義を失うことになりはしないかと身構えることも多くなった。
春と秋には、実家の田植えや稲刈りなどの農作業を手伝うため、年間延べ日数にして1か月ほど帰郷した。特に秋期の場合には、
雨が降れば稲刈りや脱穀作業はできず、数日間は「晴耕雨読」とならざるを得なかった。そんな日は、地の利と偶然の機会を生かして、
地元にある「国立民族博物館」をはじめ、大阪市内の「歴史博物館」、「自然史博物館」、神戸の「海洋博物館」、京都の「琵琶湖
疏水やインクライン」など巡っては画像を切り撮るなど、日帰り訪問の旅を楽しんだ。それはそれで、実家をベースとした博物館
や史跡探訪の絶好の機会となった。
生活リズムにメリハリをつけることになるとの思いで国内外へ半年に一回一週間ほど気晴らしの旅に出た。辞典づくりのよい刺激となった。
特に「一枚の特選フォト」ギャラリーの充実を図るうえで役立った。韓国・釜山の「海洋博物館」や「自然史博物館」、蔚山(うるさん)
の「鯨博物館」、海底から発掘された実物の交易沈船の船体・積み荷などを展示する木浦(もっぽ)の「韓国国立海洋遺物展示館」
などを手始めに訪れた。次いで、マレーシア・マラッカの海洋博物館や鄭和関連文化施設なども訪れた。中国・上海にある「航海博物館」、
杭州・南京・蘇州の実際の「京杭大運河」の他、運河関連の歴史的遺構や博物館などを訪ねた。結局のところ、離職後の数年間は腰を
落ちつけてじっくり辞典づくりに専従できる状況ではなく、そのリズムは大方不規則なものであった。
だがしかしその後は、マンション管理組合やJICA交友会の役員会から離れ、また体の不調に悩まされることもほとんどなくなり、
規則的で安定した辞典づくりのリズムを得た。毎日7~8時間、辞典づくりにじっくり心を落ち着かせて向き合えるようになった。
そして、離職を機にようやく、辞典の包括的で徹底した見直しと「選別と集中」に真っ向から向き合うことができた。そして、
更に辞典づくりの中核をなす「和英西仏葡語・ウェブ海洋辞典」の充実化、さらにはその「分野別海洋辞典」づくりに専心専従する
ことに前のめりとなった。データベースの「断捨離」も進み、また過去に切り撮っておいた数多の画像の加工と「一枚の特選フォト」
ギャラリーの充実化に向けた取り組みも徐々に軌道に乗りつつあった。もっとも、新しいビジョンとして描きつつあった「オーシャン・
アフェアーズ・ジャパン(Ocean Affairs Japan)」構想はまだまだ具現化せず、いわばコアをもたない渦巻星雲のような状態にあった。
だが、具現化に向けての希望はずっと抱き続けていた。
「自由の翼」を背中にまとうことになって7、8年辞典を編み続けてきたが、正直なところ辞典づくりの先は見通せず、
その締め括りの姿を描けないままであった。そして、一つの大きな課題に心を奪われるようになっていた。
その課題とは、辞典づくりの「完成の完」は何時なしうるのか、どういう締め括り方ができるのか、ということであった。
「自由の翼」をもって辞典づくりに専従してきた結果として、辞典の「完成の完」を何時どのように迎え得るのか。
夢物語のような空論はさておき、現実問題として、どんな辞典をいつ完成させるのか、ということである。果たして辞典を完成させる
目途はあるのか、「どんな完成の仕方をするのか」、辞典の「仕上がり」や「締め括り方」について自問自答するも、明快な解を
得られず悩み続けていた。
だがしかし、ついに一つの答えを得るに至った。「完成の完」を目指し続けても果たして実現できるのか。思いは空転を
繰り返していたが、ついに結論に達した。「完成の完」をもって辞典づくりを完了することは到底無理であるということである。
辞典の対象言語は5か国語であり、海語は無限的に存在するはずであった。60万枚もの切り撮った画像が未加工のままパソコン
や外付け記憶装置に眠っていた。私的には、自身の余命をもってしても果たしえないことは自明のようであった。長いトンネルの先に
「完成の完」の光を見ることは叶わないというのが結論であった。
悩み続けた結果、もう一つの解を得るに至った。辞典づくりを客観的に直視すれば、そこにあるのは常に「未完の完」であると言わ
ざるを得ない。現下において取り組んでいるのは、インターネット時代におけるデジタルタイプの辞典づくりである。
その最大の長所は、時空を問わずいつでもどこでも即座に辞典のコンテンツをアップデートできることである。補筆・追筆・増筆や
修正が自由自在である。必然のこととして、コンテンツが永遠に「完成」することはないものと思われた。デジタル版の帰結とも言える
かもしれない。
アナログ版辞典の初版の刊行であれば、コンテンツについて、編集責任者はどこかで自己を納得させ、半強制的に踏ん切りを
付けることになろう。何らかの目標値を設定し、妥協を見い出し、一区切りをつけることにならざるをえない。勿論、デジタルであれ
アナログであれ、辞典づくりには真の意味での終わりも完成もないと言える。翻って、デジタルの場合でも真の完成がないのであれば、どこか切りの良いところで任意の一区切りを付け、締め括らざるをえない。
辞典づくりは何時まで経っても未完状態のままに、完成へ向けた希望の道を歩み続けることになろう。どこまで
辿っても収斂せず、終わりの見えない道を辿ることになる。辞典づくりにあるのは、基本的にいつも「未完の完」の連続であり、
真の「完成の完」という締め括りは半永久的にないことであろう。個人的には「完成の完」はとても望むべくもないと悟った。
「完成の完」はそもそも辞典づくりにはそぐわないものであると、主観的ではあるが、そう結論した。辞典の進化の先には、その本質上
「完成」という文字はない。あるのは一つの通過点であり、「一区切りをつけた結果としての完」に違いなかろう。そもそも辞典
づくりとはそういうものだと考えることにした。かくして、何をもって何処で締め括りとするのか、一区切りをつけるのか、という問いに向き合った。
如何様に締め括るのかを自問自答する日々のなかで、ついに辿り着いたコンセプトは「中締めの〝未完の完”」であった。そこを目指す
ことにした。果てのない「完成の完」ばかりに目を奪われる訳にはいかない。今の時間を大切にして、丹念に語彙を拾い続け、英・
仏・西・葡語で何というか、またその逆の和語について問い続ける他に、辞典づくりの王道はないと言える。一つの締め括りや一区
切りをする目途もなく、永遠に辞典づくりを続ける訳にいかない。結論としては、成しうることは「中締めの完」、それも「未完の完」
をいずれかの時点で自己宣言する他ない。何処かで一区切りをつけて「中締め」にする他ないと自己納得した。
自身で一区切りの符を打つことでしか有り様がないように思われた。
英和辞典の見出し語数について何万語をもって一区切りすること、あるいは「中締め」とするのも一策であろう。
しかし、私的には何となくしっくりこないものである。そこで選んだのは、最もシンプルにターゲット・イヤーを定めることで
一区切りをつけることにした。見出し語数はまだしも、コンテンツの所定の完成度、成熟性をもってその「中締め」とするのは
とても無理そうであった。かくして、一区切りを、見出し語数を軸とするのではなく、時間軸をもってシンプルに中締めとしたい。
因みに切りの良い「2020年」(偶然にも東京五輪・パラリンピック開催年であった)を一区切りとして、「中締めの〝未完の完″」を目指す
ことにした。完全離職から9年後のことになる。
そして、2020年における辞典の締め括りに関するシンプルなコンセプトを描いておくことにした。いわば、強いて一区切り
させるためだけの大雑把で主観的な中締めのコンセプトである。現辞典のコンテンツは未来の後継編さん者にすぐさま託せるような
ものではなかった。未来の編者にはコンテンツの修正やアップデートなどを自由自在にお任せする他ないとして、プログラミング上
のエラーや不統一性、誤字脱字、論理的な誤り、修辞上の問題、事実誤認などについて、後継編さん者に余計な煩わしさや修正上の
負担をかけることがないように締め括っておきたい。
抽象的なコンセプトであるが、基本的なウェブ構造やコンテンツを熟知する初代編さん者の責任の下、修正しておくべきところは
しっかりと修正しておかねばならず、そこまでは何としても仕上げておくということである。後継編さん者が辞典づくりに後ろ向きに
取り組むのではなく、前を向いてどんどんアップデートなり増補してもらえるようベストな状態にしておきたい。
辞典づくりはこれまで40年ほど経過したが、まだまだ基礎の基礎、原形・基本形ができつつある段階である。辞典づくりの究極的な
最終到達目標を見通せず、また無限大的に語彙の「大海」が広がることからすれば、この5ヶ国語のウェブ辞典は、端緒についた
ばかりの未成熟なものである。翻って、辞典づくりは「これで終わり」と言うような限界線の見えない中でアップデートを続けることになる。
逆説的には、その取り組みの伸び代は無限大に広がっているともいえる。2020年を目標年にして「オンライン海洋総合辞典」の
「原形」あるいは「基本形」を作り終えたと、自己納得と自己宣言できるまで走り続け、「中締めの〝未完の完″」という一区切りを
つけることにしたい。
(注)2024年10月現在、2020年という目標年は2025年以降に繰り下げられることになった。
私的には、2020年を目標に、ウェブ海洋辞典の「原形あるいは基本形(その一)」として仕上げ、未来の編さん者にバトンを
託せるようにしたい。そして、実際に承継する段階でのウェブ辞典をいわば「〝未完の完″の第一巻」(Temporarily Complete
Version, still under updating process, Vol. 1)とでも位置づけたい。辞典づくり
が承継されれば、2代目編さん者のそれは「〝未完の完″の第二巻」ということになる。「中締めの未完の完」として自己納得、自己
宣言のうえで、最大限に手戻りの少ない状態にして次代に託したい。願わくば、2020年は一区切りつけることができる「通過点」の
一つでありたい。次の新たな通過点をも越えることができるとすれば望外の喜びである。
誰も永遠な時間をもって辞典づくりなどできない。いずれかの時点でバトンを未来の編さん者に託さねばならないし、是非ともそうしたい。
後継編さん者に巡りあいバトンを託す以外に海洋辞典の進化をさらに一歩前に進める道はない。託す辞典が未完成であることは全く
致し方ないことであるが、余計な手戻りにつき未来人の手を煩わせたくない。私なりに十分納得のいく、美しく締め括られた「作品」
をもって未来人に託せることが理想形である。
さて、もう一つ大きな課題が見えてきた。「中締めの〝未完の完″」を自己宣言できたとしても、その後の「進化」を望むならばバトンを
未来の編さん者に託す他ないことは既に述べた。誰にどう引き継ぐかという課題である。辞典づくりを未来に引き継がねば
さらなる「進化」はない。それなくして、ワン・ステージ・アップの「未完の完」に至る道筋は見通せない。
未来に託すことができてはじめて「原形あるいは基本形の海洋辞典(その二)」あるいは「〝未完の完″の第二巻」に向けての新しい
スタートラインに立ち得る。
辞典づくりを託すことができる未来の編纂者との出会いを得て、そのバトンを直接託せるよう真剣に模索したい。次の
「中締めの〝未完の完″」を目指す基点・起点となる編さん者を探し求め続けたい。後継者にどう巡り合うか、バトンをどう手渡すか、
辞典づくりをどう申し送りするか、もう一つの重要課題が浮上してきた。私が存命中であればバトンを次代編さん者に手渡すことはまだしも
可能であろう。だが、万が一の時には未来人にどのように託すことができるのか、その道筋をどうつけておくか、という課題に
直面してきた。人生何が起こるか分からない。次節でその方途や向き合い方の基本や指針について思い巡らせることとしたい。
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.