大学院の特別研究生になって間もない春のうららかな日であった。大学院の前庭の陽だまりで一人くつろいでいた。そして、
学生食堂かどこかで先ほど手に入れたタブロイド版の「関大新聞」という学生向け新聞を芝生の上に広げ、流し読みしていた。
何気なくページをめくっていた時のこと、ある囲い込み記事の見出しの中に、「国連」という二文字が一瞬目に留まった。
この二文字がなければ、私と深く関わりのある記事だと気が付くことはなかったであろう。
その囲い込み記事とは、既に社会に出て活躍中である母校の卒業生を紹介するためのコラムであった。日本経済新聞で言えば、朝刊の
最後のページに掲載される「私の履歴書」の類いである。めくる手を止め、その記事に眼をやった。
記事をざっと飛ばし読みしてびっくり仰天した。関大の法学部を卒業し、法務官としてニューヨークの国連本部で活躍中の先輩を紹介する
ものであった。その先輩とは曽野和明氏のことである。国連法務官として、国際商取引委員会などにおいて国際商
取引に関する国際条約の交渉案を取りまとめるなどの実務に携わっておられた。記事では、卒業してから国連奉職に至るまでの系譜や
法務官としての職務概要などが紹介されていた。
国連法務官への道を歩もうという決意を胸に学びの途上にある私としては、その記事はとても価値のあるものであった。
国連での先輩の専門分野は国際商取引ではあったが、職務においては私が目指すのと同じ「法務」の領域であった。国連で「法務官」
として活躍中の先輩を身近に知り得て、まさに大興奮してしまった。
夢中で隅から隅まで再び記事を読み漁った。そんな先輩の存在は私を大いに奮い立たせてくれた。国連奉職は決して夢物語ではなく、
努力すれば自分も辿り着けるのではないかと思えてきた。今後留学をやり遂げれば、国連奉職はさらに手の届くところとなり、
奉職をぐっと手繰り寄せることができると、正に勇気百倍を得ることとなった。
国連職員になるためのどんな助言でも得たかった。また、法務官の職務のことや待遇面などについてなんでも生の情報を得たいと思い、
早速国連本部宛てに手紙をしたためた。曽野氏の正確な所属部署やルームナンバーは不明であったが、フルネームさえ明記すれば、後は
「United Nations Secretariat、New York, NY、USA」で届くものと、雑かも知れないがとにかく航空郵便にて投函した。本人に間違いなく
届けられるものと心配していなかったが、果たして返事をもらえるか自信はなかった。だがしかし、有り難いことに、一か月ほどしてから、
御本人から直々に郵便返信メールをいただいた。
返信には、国連本部における仕事、待遇面、職階制度などの生情報だけでなく、昇級の仕組みや運用、内部でのポストを巡る職員間の競争や
駆け引き、いろいろな局面における出身国政府による外交的サポートのこと、その他興味深いエピソードが盛られていた。
偶然目にした記事が取りもつ縁で、出身大学を同じくし、かつ現職の国連法務官の職にある先輩との知遇を得ることにつながった。
余りにも奇遇なこの接点をきっかけに、国連奉職を目指す決意を新たにした。前へ突き進む勇気とパワーは何十倍にもアップできた
ような気がした。
その後の手紙のやりとりの中で、日本へ一時帰国される予定のあることを知らされた。夏期休暇によるものか、何用のためであるかは定かで
はなかったが、いつか直接お目にかかれる機会がありそうであった。「ご帰国の際は、どこにでも参上しますので、是非一度
お目にかかれますよう宜しくお願い致します」と、返信をしたためた。
その後暫く音沙汰がなく、曽野氏の帰国のことを気に掛けることもなくなっていた夏の終わり頃のある日のこと、突然曽野氏から自宅へ
電話をいただいた。曽野氏がすでに一時帰国されていることをその時初めて知った。「東京での用事も済み、近日中にニューヨークに
帰任する」とのことであった。そして、「離日直前のこととなってしまうが、羽田空港であれば、会える時間を少しは取ることが
できるので、大阪から上京してこれるだろうか?」と、恐らく超タイトなスケジュールの中、わざわざ声をかけてもらった。
曽野氏に会えるのであれば、どこへでも出向くつもり待機していた。
翌日午前早めに新大阪から新幹線に飛び乗り、東京へと急いだ。待ち合わせは羽田空港国際線ターミナルの出発ロビーであった。
チェックインカウンターが並ぶ出発ロビーの二階の片隅にあるレストランで、ゆっくりと対話することができた。そして、この
初顔合わせの対話を通じて、ある意外な事実を知ることになった。さらに、初対面でありながら、留学実現に近づくある出来事に遭遇
することになった。いずれも全く想像もしていなかった驚きの事実と出来事であった。
わずか30分ほどの対話がまるで奇跡を生んだように思えた。ワシントン大学への留学実現に向かって私の背中をどんと押すことになり、
運命を切り拓くことになろうとは、全く信じられなかった。
昔少年時代に、神戸商船大学の小谷信一学長への一通の手紙が、その後において船乗りへの夢を後押しする大きなきっかけを生んだ。
曽野氏への一通の手紙が米国留学に向けて大きく後押しする決定的な起点となった。いずれの場合でも一通の手紙をしたためなければ、
何も起こりえなかったに違いない。偶然に記事と遭遇したのは運であったが、手紙投函というたった一つの行動がさらなる運を呼び込むことに
つながったといえよう。偶然が「必然」の運を生むということか。一つの行動の運命的意義を噛みしめるばかりである。「いろいろなチャンスがいつも眼前を何気なく通り過ぎるなか、
目的意識や志しをもっていなければ、それをチャンスとして掴み取ることはできない」というのは、限りなく真実を言い得た
ものと思えた。
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